原作沿い
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29
ついに月の光のない漆黒の夜が来て、私たちは網走監獄へと侵入する。コタンに残る永倉さんや家永さんたちに別れを告げて、私たちは門倉さんの宿舎に集まった。敷地内はどこも消灯されて、すでにお互いが見えないほどの真っ暗闇だ。
「アシリパさん」
膝をついてぎゅうっと小さな体を抱きしめれば、同じように強く抱きしめ返された。二人とも、随分と心臓が早い。
「無茶しないで。絶対に一人で行動しちゃダメですよ、アシリパさんはいつも一人で飛び出しちゃうから」
「うん……頑張る」
アシリパさんを抱きしめたまま、隣で佇む杉元さんと白石さんへと視線を移した。
「二人も、絶対に無茶をしないでくださいね」
「……うん」
「ナマエちゃんもね」
「はい。都丹さんもお願いします。都丹さんの耳が頼りです」
「ああ、任せろ」
最後にもう一度だけアシリパさんを抱きしめる腕に力を込めれば、今度こそ踏ん切りがついた。昼間にたくさん泣いたせいか、心も頭も妙にすっきりとしていた。アシリパさんなら、三人なら、きっと大丈夫だ。ゆっくりと離れた私を見上げる瞳は、いつものように綺麗で力強い。私が居なくても、ちゃんと全て成し遂げる。
「ナマエさんを頼んだぞ」
杉元さんが牛山さんたちを一瞥して、戸へ向き直った。その先に、私たちがずっと追い求めていた真実がある。
「よし……行こう!!」
風が吹き荒れる外へと杉元さん達が駆け出した。一歩進む度にとっぷりとした暗闇に紛れていく背中を見つめる。先頭の都丹さんはすぐに見えなくなった。殿のアシリパさんももう見えなくなる。風が吹き込んできて、部屋がガタガタと揺れる。そろそろ戸を閉めようかと思った瞬間、曲がり角から灯りとともに「何だお前ら」という聞き馴染みのない声が聞こえてきて跳び上がった。
「おい、あいつら見つかってないか?!」
「早すぎんだろ!」
牛山さんとキロランケさんが慌てて飛び出して行く。私も後を追えば、二人の看守は杉元さん達によって既にぐったりとのされていた。急いで地面に転がっていたランプを回収して灯りを消した。
「いきなり見つかってんじゃねーか!」
「都丹てめえ耳糞つまってんのか?!」
「聞き逃してんじゃねえよバカ野郎!」
「うるせえ!!テメエらこそランプの灯りを見逃してんじゃねえか!!」
口汚く罵り合う杉元さんたちを「しぃ~!!」とアシリパさんが嗜める。風が強くて良かった。でなければ今頃皆さんの声が監獄中に響き渡っていただろう。
「ここはいいから行け!」
キロランケさんに促され、落ち着きを取り戻した皆さんが歩き出して今度こそ見えなくなった。
「これで門倉部長は明日から無職のお尋ね者だな」
「幸先が悪すぎる」
キロランケさんの言う通りだ。どうか、どうか、無事に舎房に辿り着けますように。皆さんが消えていった暗闇を少しの間見つめてから、二人の看守を軽々と運ぶ牛山さんの後を追って宿舎に戻った。床に横たえられた看守たちはぐったりとしている。念のため容態を確認したがただ気を失っているようで安心した。暫く起きる心配はなさそうだけれど、一応縛っておこうということになり、縛るものを探すために部屋の中の箪笥などを三人で物色して回った。暗いせいであまり良く見えず、物を出し入れする手つきが雑になる。私物を漁られ、明日には仕事も失うことになるなんて、門倉さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいだった。娘さんが居ると言っていたのを思い出してさらに心が痛んだ。見つけた帯で看守達を入念に縛り上げて、私たちはやっと一息つくことができた。
「風が強いな」
牛山さんの言葉に呼応するように強風が吹いて、宿舎の窓がガタガタと揺れた。心臓に直に響く大きな音は不安を煽る。のこぎりで窓枠を外したり、侵入時の音が聞こえづらいのは好都合だけれど、こんな天候の中で屋根に登るのは大丈夫だろうか……いや、山育ちのアシリパさんなら朝飯前かもしれない。心配するのはもうやめよう。信じるんだ、三人なら大丈夫だって。窓の外から視線を手元に移したら、急に牛山さんが咳ばらいをした。
「ナマエさんは誰か良い人いないのかい?」
「こんな時に何を言ってるですか……」
「俺たちがここで辛気臭い顔をしていても、アイツらが無事に侵入できる訳じゃないだろう?」
牛山さんの顔は緩み切っているのに、何だかもっともらしい理由をつけられて少し悔しい。別に誰もいませんよ、と話を切り上げようとしたのにキロランケさんが珍しく前のめりで口を挟んできた。
「尾形はどうなんだ?」
「えっ?」
「昨日、夕飯作ってるときに二人で随分と楽しそうにしてただろ」
そうだっただろうか。確かに尾形さんがチタタプと言っていたのは嬉しかったけど。牛山さんを見ればうんうん、と頷いている。
「造反のことももしかして駆け落ちか?」
「ないですよ……どうしたんですか?」
いつもこういった話になるとキロランケさんはたしなめる側の人間だったのに、今日はやけに積極的に聞いてくる。何故そんなにも気にするのだろう。
「土方に呼び出された時に噂のことを谷垣から聞いた」
「噂?」
「あれは……!嫌がらせで勝手に流布されたものです。尾形さんとはそういうんじゃない」
私の様子で、牛山さんは噂の内容について何となく察したようだった。土方さんは私たちの噂のことも知っていたのか。アシリパさん達が居たあの場で何も言わなかったのは、気遣いか何かだったのだろうか。
「その噂、誰が流したのか知ってるのか?」
「いや……でも何となく目星はついてます」
「案外、尾形が流したのかもしれないぞ」
「えっ……?」
苦笑いしながら言われた言葉に動揺した。ずっと、宇佐美だと思い込んでいた。直感的にあの男のまた幼稚な嫌がらせなのだと、信じて疑わなかった。大体、尾形さんがそんなことをする意味が分からない。あの噂が流れてから、私以上に肩身が狭くなったのは尾形さんの方なのに。やはり山猫の子は山猫だと、ひそひそと聞こえてくる兵士たちの声に心が締め付けられた。
「でも、そんなことをして尾形さんに一体何の得があるんですか?」
納得できずにいると、牛山さんが「なるほど」と言ってぽんと膝を打った。
「虫よけか」
「かもしれないってだけだけどな」
「分かるように話してもらえませんか……」
一人取り残されて困惑する私を、二人がニヤニヤと見てきてますます困惑する。
「アイツにしてはナマエのことを結構気にかけているようだからな」
「確かに。明らかにナマエさんとは距離感が違う」
二人の言葉に、昼間の尾形さんの顔が浮かんでしまってすぐに消した。牛山さんが言う"距離感"が物理的な距離感なのか心理的な距離感なのか定かではないけれど、言われてみれば釧路あたりからやけに尾形さんが近くにいた気がしなくもない。何度か体がぶつかったような記憶があるし、昼間には顔を触られた。さっきも持ち場につく際に「良い子にしてろよ」と髪をぐしゃぐしゃにされたばかりだ。射撃を教えてもらう際や非常時に近くに来ることはあっても、昔はこんなに軽率に触れてくるような人ではなかった。黙り込んでしまった私に二人分の期待に満ちた視線が注がれる。でも、相手はあの尾形さんだ。
「私のことなんて、いつでも躊躇せずに撃ちますよ、尾形さんは」
実際本当に殺そうとしていたようですし、という言葉は飲み込んだ。こんなことを言っても心配させてしまうだけだ。私達の歪な関係を理解できる人は多分、どこにもいない。もうこの話はしたくなくて俯いていると、キロランケさんが訝しむような声色で牛山さんを呼んだ。
「土方歳三はどこへ行った?」
「え?居ないのか?」
「あやしいぜあのジジイ」
いつの間に居なくなっていたのだろう。部屋を見渡したが確かに土方さんが見当たらない。もしかして、看守達を縛り上げていた時にはもう居なかったのではないか。あの時は見つかってしまった焦りと、何か縛る物を探さねばと急いでいたので全く気づいていなかった。
「まさか土方さんものっぺら坊に──」
突然、カンカンカンカンと侵入者を告げる鐘の音が響き渡り、体が縮み上がった。地響きと共に舎房の裏手、網走川の方からドンドドドッと何かが爆発する音が聞こえてきて、一瞬私の心臓も爆発したんじゃないかと思ったほどの轟音と衝撃に襲われる。
「オイオイなんか爆発したぜ」
「なっ、なんで……わっ……!」
ドドドと地面がぐらつき、立つことさえできないほどだった。裏手から聞こえる音がどんどん大きくなってくる。ガラガラと何かが崩れる音がすぐそこでする。何者かが、砲弾で塀を壊そうとしている。理解して、一瞬で全身が慄いた。網走監獄相手に喧嘩を仕掛ける人なんて、あの人しかいない。
「鶴見中尉ッ……!」
「これはやばいッ逃げろ逃げろ」
看守たちをまるで鞄かのように軽々と片腕で外に放り投げたと思ったら、一瞬で牛山さんに抱きかかえられ外に連れ出された。衝撃と音で目を覚ました看守たちが目を白黒させている。
「逃げてください、第七師団です!」
拘束を解いて伝えれば、もつれる足で二人とも暗闇に消えていった。大きな音と共にすぐ後ろの塀が崩れて宿舎の上に落ちていき、一瞬でぐしゃぐしゃになっていく。あのままあそこにいたら大変なことになっていたとゾッとした時、聞き覚えのある声が宿舎の中から微かに聞こえてきた。
「夏太郎君の声……?!」
崩れた宿舎から夏太郎君と谷垣とインカラマッが這い出してきて驚いた。なんでインカラマッがここに居るんだ。コタンで待機のはずだ。第七師団が来たのはまさか──
嫌な考えが頭を過ったと同時に、屋根と瓦礫が谷垣とインカラマッめがけて落ちていく。潰されてしまう。もう見ていられなくて目を覆ったが、待てど待てど何の音もしない。恐る恐る目を開ければ、牛山さんが身を呈して二人を瓦礫から守っていた。
「牛山さんあなたも早くこっちへ……」
「お前ら……幸せになるんだぜ」
「そんな……!牛山さんッ!!」
まるで今生の別れのような言葉に背筋が凍った。牛山さん!と叫びながら私も駆け寄った時だった。「どっこいしょ!」とまるで重力を感じさせない様子で牛山さんがポイっと瓦礫の積もった屋根を丸ごと放り投げた。「牛山さんスゲー!」と夏太郎君の興奮した声が響く。
「背広が汚れたぜ」
「う、牛山さん!冗談にしてはひどすぎます!」
「悪い悪い」
砂埃のついた背広を掴んで揺すってもびくともしない。どれだけ頑丈なんだ。杉元さん以上に強靭な体に驚いたけれど、さっきは本当に死んでしまうのかと思った。安心して涙が目の端を濡らしている。「まいったな、そんなに心配してくれるとは」と牛山さんがバツが悪そうに頬を掻いた。同時にドン、ドン、とまた音がして、急に辺りが昼間のように明るくなる。日露戦争でも使われた照明弾だ。いよいよ本格的にここに攻め入ってくるつもりだ。様子を見てくる、とキロランケさんが走り出した。
「私も……!」
「ナマエは牛山たちと居ろ!」
「でもっ!」
「尾形に頼まれたんだ、ナマエが飛び出さないように見とけって」
追いかけていた足が止まった。
「尾形さん?なんで?」
キロランケさんは少しだけ速度を落とし、距離が空いてしまった分私に向かって声を張り上げた。
「さあな、さっきも言っただろ。ナマエのことを気にかけてるって。でもそれは杉元達も俺も一緒だ。だから絶対にナマエは飛び出すな!必ずアシリパを連れ戻してくる!」
どんどん小さくなっていくキロランケさんを見送り、牛山さん達のもとへと戻った。近づいて来る軍靴の音に、慌ててその場を離れた。
第七師団がうようよいる敷地内を警戒しながら5人で逃げ回る。看守の遺体がそこら中に落ちている。息がある人を探しても、どこもかしこも惨たらしい有様でとてもではないが希望を持てる状態ではなかった。中尉はこの場を一掃するつもりなのだと、理解するのにそう時間はかからなかった。
「あっ……」
折り重なった遺体の中に、見た顔があった。さっきの、看守さんだ。ついさっきまで、生きていた人だ。暗闇に慌てて消えていった姿をまだ鮮明に思い出せる。後で都合の良い話をでっちあげるためとは言えここまでする必要があったのか。正気の沙汰じゃない。
「ナマエさん、行きましょう」
「……インカラマッが中尉を呼んだの?」
絞りだした声は震えていた。カチカチと歯が鳴っている音が大きく聞こえた。
「今この場から安全にアシリパちゃんを連れ出せるのは鶴見中尉だけです」
あなたが連れて来なければ、こんなことにはならなかった。憎らしいほどに平然と言ってのけたインカラマッに、声にならない酷い言葉が頭の中で響いた。
インカラマッは最初から私達を信用していなかった。始めからアシリパさんを中尉に保護させるつもりだったのだ。血みどろの金塊争奪戦の前線から離れて欲しいという気持ちは理解できる。中尉ならアシリパさんに傷一つつけることなくこの場から連れ出してくれるだろう。でも、その過程でおびただしいほどの血が流れることを想像したのだろうか。しなかっただろう。インカラマッがあの人のことをそこまで知っているとは思えない。でなければ中尉に保護させようなんて思うはずがない。大勢の人を犠牲にして中尉が切り開いた血の轍を、アシリパさんに踏ませようとするのが許せなかった。そんなことをあの子が望むと思うのか。仮に無事に保護されたとしても、その後のアシリパさんに自由があるとも思えない。伸び伸びと鹿やウサギを追って、チタタプして、脳みそを食べてヒンナヒンナと笑う姿をもう二度と見れなくなってしまう。言いたいことが多すぎて、感情が昂って、言葉が出てこない。それに、今さら何を言ってももう手遅れなのだと歯を食いしばった。
大きく深呼吸をすれば、土埃と血と死の匂いが鼻腔をくすぐり肺を満たした。不条理が充満し、腹の底から無力感に苛まれる。私はこの場所を良く知っている。
私はまた、戦場に戻ってきている。
2024.07.09
