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※網走で杉元達がトンネルを掘っている間のお話
網走監獄侵入大作戦のためのトンネル掘りが始まって数日、キロランケさんと谷垣が日々獲ってきてくれる鮭のほとんどが看守の賄賂に消えてしまうという問題が浮上した。大所帯なこともあって、一回の食事でかなりの食料が必要になることから、手の空いている私たちは狩りに行くことにしたのだった。しかし仕掛けた罠を見て回るもどこも空振りで、成果と言えばさきほど尾形さんが獲った小ぶりの雁2羽のみだった。
見上げれば紅葉の間から覗く空は高く澄んでいて、頬を撫でる風はほんのり冷たい。木々は色づき、実が成り、動物たちは丸みを帯びている。もうすっかり秋だった。木漏れ日の中、色とりどりの落ち葉を踏みしめながら森を進んでいると、雁を両手に前を歩いていたアシリパさんがピタッと止まった。
「どうしたのアシリパさん?」
「ユクが居る」
あそこ、と指した方を見れば確かに木々に隠れて数頭群れているのが見えた。むしゃむしゃと何かを食べているものや、長い脚を折り畳んで一休みしているものがいる。こちらにはまだ気づいていないようだ。
「尾形、あれ撃てるか」
「こいつでも撃てる」
「え?!」
「静かにしろ。獲物が逃げる」
尾形さんが肩にかけていた小銃を私に渡そうとしてきた。いつもだったら自分であの鹿の群れを全て撃ち尽くしてしまいそうなのに、今日はそういう気分ではないのだろうか。受け取ろうか迷っていると「折角だから見てやる」と言われ小銃を押し付けられてしまって益々困惑した。
「えぇ?そんな、いいですよ、今日の晩御飯がかかってるのに……」
「ならちゃんと当てるんだな」
責任重大じゃないですか、とずっしりと重い小銃を抱き止めた。「ナマエなら大丈夫だ」とアシリパさんにもポンポンと背中を叩かれてしまって、逃げ場を無くした。観念して渋々三八式を構えてみれば、初めて触れたのに思っていたよりもしっくりと手に馴染む感覚があった。
「大きさも重さもあんまり三十年式と変わらないんですね」
「大きな違いは実包の形だな」
「尖頭弾ですよね。あっ、遊底に蓋がついてる」
ヒソヒソとできる限りの小声で話しながら照準を合わせた。この蓋は遊底被というもので、塵などが入らないようにするための物だと尾形さんが横で説明してくれる。あまり自分から話す人では無いけれど、こと銃に関しては饒舌になって色々と教えてくれるお陰で私も随分と知識が増えた。安定して撃つために片膝をついてみたら獲物が倒木に隠れて見えなくなってしまったので、仕方なくまた立ち上がれば、尾形さんが横の幹に銃剣を刺してくれた。
「ありがとうございます」
「良いから早く撃て」
「……はい」
尾形さんにとっては簡単なのだろうけど、森の中は足場も悪いし障害物も多くてやりづらいのだ。ふう、と一息ついて銃を構えた。銃床を肩に当て、一番手前で座り込んでいる牡鹿の首に狙いを定める。苦しませず、一撃で、確実に。
手のひらで手早くボルトを操作して重い引き金を引いた。ダァン!と体に走った大きな衝撃と音に咄嗟に目を瞑ってしまって、慌てて獲物にまた目をやった。軽快に跳ねながら走り去っていく鹿たちに取り残されて、倒木の向こうに動かない角が見えた。
「目を瞑るなバカたれ」
「すごいぞナマエっ!」
同時に褒められ叱られて、どちらから反応したら良いのか分からず、笑顔のアシリパさんと仏頂面の尾形さんを交互に見てしまった。
「やっぱり杉元よりも上手いんじゃないか?」
「当たり前だ、あんなのと一緒にするな」
「あんなのは言い過ぎですって」
フン、と頭を撫でつけながら尾形さんがふんぞり返っている。なんで尾形さんが偉そうにしているんですか。それに、銃の腕前については散々な言われようの杉元さんだけれど、私には杉元さんのような瞬発力や臨機応変さはないから、一概に比べることもできない気がする。小銃を抱えながら銃剣へと手を伸ばしたら、尾形さんが先に銃剣を抜き取って話し始めた。
「もう少し銃口を上げろ、的が大きいからと楽をするな」
「はい」
「ブレすぎだ。お前は体幹が弱すぎる、もっと腹に力を入れろ」
「……はい」
「目を瞑るなとあれほど言っただろう。それともお前は目蓋越しに物が見えるのか」
いいえ、と随分と頼りない声が出た。飴と鞭とはこのことか。アシリパさんに褒められた後に尾形さんにコンコンとダメ出しをされてしおしおと縮こまった。どれも自覚がある分心に響く。頭で分かっていてもまだまだ実践できないことが多くて情けない。この旅でだいぶ体力も筋力もついたとはいえ、未だにブレずに撃つことが難しい。射撃時の衝撃を受け止められずにブレると射速が遅くなり、軌道がズレるのだと前に尾形さんが言っていた。でも尾形さんほどの遠距離射撃をするならまだしも、中距離ならそんなに変わらないような気もしなくはない、と反論したところで私に勝ち目はないので、黙って小銃を尾形さんへと返した。
「早く行こう。肝臓の味が悪くなる」
「アシリパさんは肝臓好きですねぇ」
「沢山働いた杉元たちに食べさせないといけないからな!ナマエと尾形には脳みそ食べさせてやるから安心しろ」
「いや、俺はいい」
真顔ではっきりと断った尾形さんに笑いが漏れた。そういえば今までの旅でも脳みそは一口も食べていなかったな。意外と美味しいのに。アシリパさんに何度も食べさせられるうちに私も杉元さんも、すっかり脳みそが好きになってしまった。
「じゃあ雁では何か尾形さんの好きな物を作りましょうか」
足元に気をつけながら尾形さんに話を振れば、ほんの僅かに驚いたように私を見て、すぐにまたいつもの無表情に戻った。
「……鍋がいい」
少し間を置いて、尾形さんが頭を撫で付けながらポツリと答えた。
「良いですね、肌寒くなってきたしぴったりですね」
言いながらもう既に頭の中にぐつぐつと煮える鍋が浮かんで唾液が出てきた。雁の鍋は初めて食べるけれど、皆さんと一緒に食べれば絶対に美味しいはずだ。味噌を入れたらアシリパさんも喜ぶだろう。今日の夕飯は豪華になりそうですねと話をしながら歩き続けていたら、ふとアシリパさんが私を見上げた。
「ナマエは結婚してないんだよな?」
「え?してませんよ、なんです急に?」
「手先も器用だし、狩りも料理もできるし……アイヌだったら男たちが放っておかないのにって。そういう話はなかったのか?」
ただ純粋に疑問に思っているような澄んだ瞳で見上げられて困ってしまった。別に隠すことでもないけれど、進んで話すことでもない話だ。どう伝えようか、と少し考えてから口を開いた。
「一度だけ、お見合いはしたことがあります」
「なんだお前、破談して行き遅れて看護婦になったのか」
「失礼ですね、違いますよ」
ハハッと大層愉快そうに笑っている尾形さんを睨んで、もう随分と昔のように思えることを思い出しながら話し始めた。
「15、6の時に兄が勝手に持って来た話なんです。でも良く知らない一回り以上も離れた将校さんと結婚だなんて、嫌に決まってるじゃないですか」
「……そういうものなんじゃないのか」
「嫌なものは嫌ですよ」
一人また一人と級友達が結婚して女学校を中退していく中、私はそういうものだと割り切れなかった。まだまだやりたいことがある。もっと知りたいことがある。あの時の私には、世界はあまりにも広くて眩しい希望に満ち溢れていた。
結婚していった級友達の中には、嬉しそうにしていた子も、嫌だと零していた子もいた。だからといって、嫌ならやめようとなるはずもなく、みんな予定通りに嫁いで行った。「好きに生きなさい」と父が断ってくれた私はあまりにも恵まれていた。でもそのせいで父と兄は完全に仲違いしてしまって、それ以来兄は一度も家に帰ってこなかった。父が亡くなった時でさえも。
「あの時は確かに嫌だったんです。今でも多分、嫌です。でも……」
「でも?」
「もしあの時結婚していたら、案外普通の人生を楽しく送っていたかもしれませんね」
そうか、と眉を下げて複雑そうな顔をしてアシリパさんが前を歩き始めた。それはそうだ。こんなことを言われても困るだろうと、申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。大人びているとはいえ、まだ子供のアシリパさんにこんなことを話してしまうくらい、もしかして私はあの時のことが胸につっかえているのだろうか。
今振り返ってみれば、あの時結婚していたら私は所謂"普通の幸せ"を手に入れられていたのだろう。兄から「お前のためなんだ」とらしくない言葉をかけられた時はカチンと来てしまったけれど、歳を重ねた今なら理解できなくもない。兄が言っていた通り、あの縁談話は確かに私のためでもあったのだ。
相手は将来有望の陸軍少佐で裕福な家柄だったし、これ以上ない良い条件だったのだと思う。私はビーフシチュウもエビフライもアイスクリームもたくさん食べて、何不自由ない暮らしをしていただろう。兄は私の結婚で得たコネで上を目指して、今も生きていたのかもしれない。父と兄の仲も、縁を切るほど険悪にならないで済んでいたかもしれない。あの話は、私のためでも、兄のためでも、父のためでもあった。もし、あの時結婚していたら──今思えば、そんなに悪くない人生だったのかもしれない。
でも、押し付けがましく私のためだと言われて腹が立った。そんなことを言うくらいなら、いっそのこと、俺の出世のために結婚してくれと真っ直ぐに言われた方がまだマシだった。「私のことは私で決める」と言い返した時の、兄の冷たい眼差しと失望した顔は今でも良く覚えている。私が大人しく首を縦に振るような妹であったら、兄との関係もだいぶ違っただろうに。
アシリパさんに聞かれる今の今まで忘れていたくせに、蓋を開けてみれば自分でも驚くほど色々な感情が溢れ出てくる。下を向きながら重くなった足取りで森を進んでいけば、立ち止まっている尾形さんの足元が視界に入ってきた。待っていてくれたのだろうかと、意外に思いながら顔を上げれば、底のない黒い瞳とすぐに目があった。
「……お前は普通で満足するような奴じゃないだろ」
「え?」
まるで独り言のような、そんな言い方だった。
「どうせすぐに本性がバレて離縁されていただろうよ」
バカにしたような薄い笑みに、そんなことないですと返そうとした時、前を行くアシリパさんが急に立ち止まって振り返った。
「選択しなかった未来がどうだったかなんて誰も分からないけど……私は、その時結婚しなくて良かったと思う」
「そう、ですかね」
うん、と柔らかい光が降り注ぐ中、アシリパさんが頷いた。
「お陰でナマエと出会えた」
凛とした顔で真っ直ぐに伝えられて固まった。そんな私に気づいているのかいないのか、早く鹿を回収しないと、とアシリパさんは足早に私たちを置いてまた歩き出してしまった。
「やだ、かっこいい……」
止まっていた心臓が思い出したかのように忙しなく跳ね始め、ボッと熱くなった顔を両手で覆った。木漏れ日が揺らめく綺麗な青い瞳を思い出して、その場に蹲りたくなるほどのむず痒さに襲われた。
「……鶴見中尉顔負けの人誑しだな」
呆れ顔の尾形さんが、アシリパさんを見てから私を見下ろした。真っ赤になっている顔を見られるのが恥ずかしくて俯けば、ドッドッドとうるさい心臓の音が耳に響いた。中尉の愛は計算だ。自分で作った大きな傷口に、必要な分だけ愛を注ぎ込む。その一瞬だけが鮮やかで、過ぎてしまえば後に残るのは仄暗さだけなのに、その一瞬が忘れられなくて縋ってしまう。アシリパさんのはそうではない。こちらが求めなくても、心の奥深くまで染み込んでいくような、ずっとあたたかい気持ちにさせてくれる愛を惜しみなく与えてくれる。綺麗な瞳で真っ直ぐに伝えられる言葉が、私たちにとってどれほど支えになるか、アシリパさんは分かっているのだろうか。
昔に戻りたい気持ちがない、と言えば嘘になる。好きに生きた結果、つらいことも沢山あった。取り返しのつかないことも沢山犯した。後悔だって山ほどある。でも、アシリパさんと、皆さんとの日々がなくなってしまうのは、あまりにも悲しい。尾形さんの言う通り、私は普通で満足できる人間ではないのだろう。その証拠に、私は波乱だらけだったこの旅を心の底から楽しんでいた。皆さんとずっと一緒に居られれば良いのに、と思ってしまうほどに。
鼻を軽く啜って、顔を上げた。尾形さんが少し先で私を待っていた。アシリパさんの姿はもう見えない。
「お鍋、腕によりをかけて作りますね。椎茸抜きで」
視線を寄越されただけで返事はなかったが、私が横に並べば尾形さんが小銃を背負い直して歩き始めた。
「ナマエ、尾形!何してるんだ早く手伝え!肉食わせないぞ!」
木々の間からアシリパさんの大きな声がして、慌てて走り出した。私もアシリパさんに会えて良かったと、一刻も早く伝えるために。
2024.10.09
網走監獄侵入大作戦のためのトンネル掘りが始まって数日、キロランケさんと谷垣が日々獲ってきてくれる鮭のほとんどが看守の賄賂に消えてしまうという問題が浮上した。大所帯なこともあって、一回の食事でかなりの食料が必要になることから、手の空いている私たちは狩りに行くことにしたのだった。しかし仕掛けた罠を見て回るもどこも空振りで、成果と言えばさきほど尾形さんが獲った小ぶりの雁2羽のみだった。
見上げれば紅葉の間から覗く空は高く澄んでいて、頬を撫でる風はほんのり冷たい。木々は色づき、実が成り、動物たちは丸みを帯びている。もうすっかり秋だった。木漏れ日の中、色とりどりの落ち葉を踏みしめながら森を進んでいると、雁を両手に前を歩いていたアシリパさんがピタッと止まった。
「どうしたのアシリパさん?」
「ユクが居る」
あそこ、と指した方を見れば確かに木々に隠れて数頭群れているのが見えた。むしゃむしゃと何かを食べているものや、長い脚を折り畳んで一休みしているものがいる。こちらにはまだ気づいていないようだ。
「尾形、あれ撃てるか」
「こいつでも撃てる」
「え?!」
「静かにしろ。獲物が逃げる」
尾形さんが肩にかけていた小銃を私に渡そうとしてきた。いつもだったら自分であの鹿の群れを全て撃ち尽くしてしまいそうなのに、今日はそういう気分ではないのだろうか。受け取ろうか迷っていると「折角だから見てやる」と言われ小銃を押し付けられてしまって益々困惑した。
「えぇ?そんな、いいですよ、今日の晩御飯がかかってるのに……」
「ならちゃんと当てるんだな」
責任重大じゃないですか、とずっしりと重い小銃を抱き止めた。「ナマエなら大丈夫だ」とアシリパさんにもポンポンと背中を叩かれてしまって、逃げ場を無くした。観念して渋々三八式を構えてみれば、初めて触れたのに思っていたよりもしっくりと手に馴染む感覚があった。
「大きさも重さもあんまり三十年式と変わらないんですね」
「大きな違いは実包の形だな」
「尖頭弾ですよね。あっ、遊底に蓋がついてる」
ヒソヒソとできる限りの小声で話しながら照準を合わせた。この蓋は遊底被というもので、塵などが入らないようにするための物だと尾形さんが横で説明してくれる。あまり自分から話す人では無いけれど、こと銃に関しては饒舌になって色々と教えてくれるお陰で私も随分と知識が増えた。安定して撃つために片膝をついてみたら獲物が倒木に隠れて見えなくなってしまったので、仕方なくまた立ち上がれば、尾形さんが横の幹に銃剣を刺してくれた。
「ありがとうございます」
「良いから早く撃て」
「……はい」
尾形さんにとっては簡単なのだろうけど、森の中は足場も悪いし障害物も多くてやりづらいのだ。ふう、と一息ついて銃を構えた。銃床を肩に当て、一番手前で座り込んでいる牡鹿の首に狙いを定める。苦しませず、一撃で、確実に。
手のひらで手早くボルトを操作して重い引き金を引いた。ダァン!と体に走った大きな衝撃と音に咄嗟に目を瞑ってしまって、慌てて獲物にまた目をやった。軽快に跳ねながら走り去っていく鹿たちに取り残されて、倒木の向こうに動かない角が見えた。
「目を瞑るなバカたれ」
「すごいぞナマエっ!」
同時に褒められ叱られて、どちらから反応したら良いのか分からず、笑顔のアシリパさんと仏頂面の尾形さんを交互に見てしまった。
「やっぱり杉元よりも上手いんじゃないか?」
「当たり前だ、あんなのと一緒にするな」
「あんなのは言い過ぎですって」
フン、と頭を撫でつけながら尾形さんがふんぞり返っている。なんで尾形さんが偉そうにしているんですか。それに、銃の腕前については散々な言われようの杉元さんだけれど、私には杉元さんのような瞬発力や臨機応変さはないから、一概に比べることもできない気がする。小銃を抱えながら銃剣へと手を伸ばしたら、尾形さんが先に銃剣を抜き取って話し始めた。
「もう少し銃口を上げろ、的が大きいからと楽をするな」
「はい」
「ブレすぎだ。お前は体幹が弱すぎる、もっと腹に力を入れろ」
「……はい」
「目を瞑るなとあれほど言っただろう。それともお前は目蓋越しに物が見えるのか」
いいえ、と随分と頼りない声が出た。飴と鞭とはこのことか。アシリパさんに褒められた後に尾形さんにコンコンとダメ出しをされてしおしおと縮こまった。どれも自覚がある分心に響く。頭で分かっていてもまだまだ実践できないことが多くて情けない。この旅でだいぶ体力も筋力もついたとはいえ、未だにブレずに撃つことが難しい。射撃時の衝撃を受け止められずにブレると射速が遅くなり、軌道がズレるのだと前に尾形さんが言っていた。でも尾形さんほどの遠距離射撃をするならまだしも、中距離ならそんなに変わらないような気もしなくはない、と反論したところで私に勝ち目はないので、黙って小銃を尾形さんへと返した。
「早く行こう。肝臓の味が悪くなる」
「アシリパさんは肝臓好きですねぇ」
「沢山働いた杉元たちに食べさせないといけないからな!ナマエと尾形には脳みそ食べさせてやるから安心しろ」
「いや、俺はいい」
真顔ではっきりと断った尾形さんに笑いが漏れた。そういえば今までの旅でも脳みそは一口も食べていなかったな。意外と美味しいのに。アシリパさんに何度も食べさせられるうちに私も杉元さんも、すっかり脳みそが好きになってしまった。
「じゃあ雁では何か尾形さんの好きな物を作りましょうか」
足元に気をつけながら尾形さんに話を振れば、ほんの僅かに驚いたように私を見て、すぐにまたいつもの無表情に戻った。
「……鍋がいい」
少し間を置いて、尾形さんが頭を撫で付けながらポツリと答えた。
「良いですね、肌寒くなってきたしぴったりですね」
言いながらもう既に頭の中にぐつぐつと煮える鍋が浮かんで唾液が出てきた。雁の鍋は初めて食べるけれど、皆さんと一緒に食べれば絶対に美味しいはずだ。味噌を入れたらアシリパさんも喜ぶだろう。今日の夕飯は豪華になりそうですねと話をしながら歩き続けていたら、ふとアシリパさんが私を見上げた。
「ナマエは結婚してないんだよな?」
「え?してませんよ、なんです急に?」
「手先も器用だし、狩りも料理もできるし……アイヌだったら男たちが放っておかないのにって。そういう話はなかったのか?」
ただ純粋に疑問に思っているような澄んだ瞳で見上げられて困ってしまった。別に隠すことでもないけれど、進んで話すことでもない話だ。どう伝えようか、と少し考えてから口を開いた。
「一度だけ、お見合いはしたことがあります」
「なんだお前、破談して行き遅れて看護婦になったのか」
「失礼ですね、違いますよ」
ハハッと大層愉快そうに笑っている尾形さんを睨んで、もう随分と昔のように思えることを思い出しながら話し始めた。
「15、6の時に兄が勝手に持って来た話なんです。でも良く知らない一回り以上も離れた将校さんと結婚だなんて、嫌に決まってるじゃないですか」
「……そういうものなんじゃないのか」
「嫌なものは嫌ですよ」
一人また一人と級友達が結婚して女学校を中退していく中、私はそういうものだと割り切れなかった。まだまだやりたいことがある。もっと知りたいことがある。あの時の私には、世界はあまりにも広くて眩しい希望に満ち溢れていた。
結婚していった級友達の中には、嬉しそうにしていた子も、嫌だと零していた子もいた。だからといって、嫌ならやめようとなるはずもなく、みんな予定通りに嫁いで行った。「好きに生きなさい」と父が断ってくれた私はあまりにも恵まれていた。でもそのせいで父と兄は完全に仲違いしてしまって、それ以来兄は一度も家に帰ってこなかった。父が亡くなった時でさえも。
「あの時は確かに嫌だったんです。今でも多分、嫌です。でも……」
「でも?」
「もしあの時結婚していたら、案外普通の人生を楽しく送っていたかもしれませんね」
そうか、と眉を下げて複雑そうな顔をしてアシリパさんが前を歩き始めた。それはそうだ。こんなことを言われても困るだろうと、申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。大人びているとはいえ、まだ子供のアシリパさんにこんなことを話してしまうくらい、もしかして私はあの時のことが胸につっかえているのだろうか。
今振り返ってみれば、あの時結婚していたら私は所謂"普通の幸せ"を手に入れられていたのだろう。兄から「お前のためなんだ」とらしくない言葉をかけられた時はカチンと来てしまったけれど、歳を重ねた今なら理解できなくもない。兄が言っていた通り、あの縁談話は確かに私のためでもあったのだ。
相手は将来有望の陸軍少佐で裕福な家柄だったし、これ以上ない良い条件だったのだと思う。私はビーフシチュウもエビフライもアイスクリームもたくさん食べて、何不自由ない暮らしをしていただろう。兄は私の結婚で得たコネで上を目指して、今も生きていたのかもしれない。父と兄の仲も、縁を切るほど険悪にならないで済んでいたかもしれない。あの話は、私のためでも、兄のためでも、父のためでもあった。もし、あの時結婚していたら──今思えば、そんなに悪くない人生だったのかもしれない。
でも、押し付けがましく私のためだと言われて腹が立った。そんなことを言うくらいなら、いっそのこと、俺の出世のために結婚してくれと真っ直ぐに言われた方がまだマシだった。「私のことは私で決める」と言い返した時の、兄の冷たい眼差しと失望した顔は今でも良く覚えている。私が大人しく首を縦に振るような妹であったら、兄との関係もだいぶ違っただろうに。
アシリパさんに聞かれる今の今まで忘れていたくせに、蓋を開けてみれば自分でも驚くほど色々な感情が溢れ出てくる。下を向きながら重くなった足取りで森を進んでいけば、立ち止まっている尾形さんの足元が視界に入ってきた。待っていてくれたのだろうかと、意外に思いながら顔を上げれば、底のない黒い瞳とすぐに目があった。
「……お前は普通で満足するような奴じゃないだろ」
「え?」
まるで独り言のような、そんな言い方だった。
「どうせすぐに本性がバレて離縁されていただろうよ」
バカにしたような薄い笑みに、そんなことないですと返そうとした時、前を行くアシリパさんが急に立ち止まって振り返った。
「選択しなかった未来がどうだったかなんて誰も分からないけど……私は、その時結婚しなくて良かったと思う」
「そう、ですかね」
うん、と柔らかい光が降り注ぐ中、アシリパさんが頷いた。
「お陰でナマエと出会えた」
凛とした顔で真っ直ぐに伝えられて固まった。そんな私に気づいているのかいないのか、早く鹿を回収しないと、とアシリパさんは足早に私たちを置いてまた歩き出してしまった。
「やだ、かっこいい……」
止まっていた心臓が思い出したかのように忙しなく跳ね始め、ボッと熱くなった顔を両手で覆った。木漏れ日が揺らめく綺麗な青い瞳を思い出して、その場に蹲りたくなるほどのむず痒さに襲われた。
「……鶴見中尉顔負けの人誑しだな」
呆れ顔の尾形さんが、アシリパさんを見てから私を見下ろした。真っ赤になっている顔を見られるのが恥ずかしくて俯けば、ドッドッドとうるさい心臓の音が耳に響いた。中尉の愛は計算だ。自分で作った大きな傷口に、必要な分だけ愛を注ぎ込む。その一瞬だけが鮮やかで、過ぎてしまえば後に残るのは仄暗さだけなのに、その一瞬が忘れられなくて縋ってしまう。アシリパさんのはそうではない。こちらが求めなくても、心の奥深くまで染み込んでいくような、ずっとあたたかい気持ちにさせてくれる愛を惜しみなく与えてくれる。綺麗な瞳で真っ直ぐに伝えられる言葉が、私たちにとってどれほど支えになるか、アシリパさんは分かっているのだろうか。
昔に戻りたい気持ちがない、と言えば嘘になる。好きに生きた結果、つらいことも沢山あった。取り返しのつかないことも沢山犯した。後悔だって山ほどある。でも、アシリパさんと、皆さんとの日々がなくなってしまうのは、あまりにも悲しい。尾形さんの言う通り、私は普通で満足できる人間ではないのだろう。その証拠に、私は波乱だらけだったこの旅を心の底から楽しんでいた。皆さんとずっと一緒に居られれば良いのに、と思ってしまうほどに。
鼻を軽く啜って、顔を上げた。尾形さんが少し先で私を待っていた。アシリパさんの姿はもう見えない。
「お鍋、腕によりをかけて作りますね。椎茸抜きで」
視線を寄越されただけで返事はなかったが、私が横に並べば尾形さんが小銃を背負い直して歩き始めた。
「ナマエ、尾形!何してるんだ早く手伝え!肉食わせないぞ!」
木々の間からアシリパさんの大きな声がして、慌てて走り出した。私もアシリパさんに会えて良かったと、一刻も早く伝えるために。
2024.10.09
