原作沿い
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28
「あれぇ?ナマエちゃん一人?」
珍しいねぇ、と朝帰りしてきた白石さんの声が誰も居ない静かなチセに響いた。見かけないと思ったら、昨晩一度戻ってきたのに夜中のうちにまた外に出ていたらしい。やっと誰かが帰って来たのが嬉しくて、おかえりなさいと返した声が妙に弾んでいた。杉元さんとアシリパさんは明るいうちに最後に監獄を見ておきたいと出て行ってしまったし、谷垣やキロランケさんたちは鮭漁に出かけている。尾形さんもフラッと外に出て行ったきりだ。私もさっきまで色々とお手伝いをさせてもらっていたのだけれど、今日はもう十分働いたから大丈夫だと帰らされてしまって、一人することもなくチセでそわそわと誰かが帰ってくるのを待っていたのだった。
「ナマエちゃんちょっと緊張しすぎじゃない?」
白石さんがケタケタと笑いながら寝転がった。
「だ、だって、今晩網走監獄に侵入するんですよ……?」
「今からそんなんじゃ体持たないって」
力抜いていこうぜ、と目の前の白石さんは至って呑気に寝っ転がっている。今朝方キロランケさんにも「気楽に行こう」と笑われたのを思い出した。今晩の計画は白石さんの双肩にかかっていると言っても過言ではないのに、なんでそんなにいつも通りでいられるのだろう。ただ待っているだけで良い私が、こんなにもガチガチに緊張して不安になってしまっていて、なんだか恥ずかしくて情けない。俯きがちな私に、白石さんが少し声を落として話し始めた。
「ナマエちゃん、今晩のこと気にしてる?」
私だけ舎房に入らないことを言っているのだと理解した。
「しょうがないですよ」
「うん……正直俺もナマエちゃんはキロちゃん達と待機で良かったと思うよ」
横になっていた白石さんが起き上がって、私の隣に腰掛けた。
「分かってるんです、私のわがままだって」
「いや、俺たちだって一緒に来てほしかったけどさ……アシリパちゃんは杉元が守るとして、何かあった時に俺はナマエちゃんのこと守れねぇからなぁ」
杉元さんは言わずもがな強い。アシリパさんも自分を守り、戦う術を持っている。白石さんだって、戦闘能力は高くはないけど危機的状況から逃げられるだけの機転と技術を持っている。対して私はお飾りの銃を持っているだけの、こと戦闘に関しては何の特技もない無力で軟弱な人間だ。人を撃つ勇気も覚悟もなく、常に誰かに守られ生きている。今回の件で、こういう状況で私はただの足手まといなのだと痛感した。
「でも、外でナマエちゃんが俺たちのことを待っててくれるって思うと俄然やる気が出てくるってもんさ。全部終わったらアシリパちゃんを抱きしめてあげなよ」
ポンポン、と白石さんが私の肩を叩いた。優しい言葉に涙腺が緩みそうになれば、「俺のことも抱きしめてくれても良いんだよ?」といつもの調子で白石さんがふざけるものだから、涙の代わりに笑みがこぼれた。強張っていた心が少し解れた気がする。うん、と素直に頷けば、びっくりした顔で白石さんが固まった。
「え……?本当に?マジで言ってる?」
「だからちゃんと三人一緒に、無事に帰ってきてくださいね」
「……うん」
絶対ですよ、と半纏の袖を摘まめば、らしくなく少し困ったようにまた白石さんが小さく頷いた。
「ほら、白石さんは早く寝ないと。今日の主役なんですから」
「ナマエちゃんはどうするの?」
「ソワソワしちゃうので体が動かしたくて。ちょっと散歩してきます」
「そっか、気をつけてね」
ひらひらと振られた手に振り返して外に出る。家永さん達はどうしてるだろうと隣のチセを覗いてみたが誰も居なかった。皆さんそれぞれやることがあるのだろう。私みたいに暇ではないのだ。気の向くままにぶらぶらと歩こうか、とコタンの外に出た。
しかし一人になると、途端にまた漠然とした不安に飲み込まれていく。大勢の看守の目を掻い潜り、本当にのっぺら坊に会えるのだろうか。会って、もしお父さんだったらアシリパさんはどうなる。例え計画を実行中に何か問題が発生しても、宿舎に居る私は何もできない。大変なことが起きていることさえ知らないまま、呑気に待つことしかできないのが歯痒い。私ももう少し、アシリパさんたちと同じ所に立てたら良いのに。物事には適材適所というものがあるのだと理解しているのに、少し離れた所から三人を見守るのはどうしても寂しいと思ってしまう。でも、わきまえずに飛び出して足を引っぱるようなことはしたくない。私に何かあったら、守れなかったと自分を責めてしまうような優しい人達だから尚更だ。
──足手まといだと判断したら置いていく。
ずっと前、造反を持ちかけられた時に尾形さんに言われたことをふと思い出した。医者が居た方が何かと便利だから声を掛けたと言っていた。その後迷わず続けられたその言葉に、合理的だなと感心した。気を遣わない態度が分かりやすくてこちらも楽だった。
アシリパさん達はどうだろう。最初に出会った時に、足手まといだと思ったら置いていって欲しいと伝えたけれど、杉元さんに断られてしまった。杉元さんも、アシリパさんも、白石さんも優しい。足手まといだと薄っすらと心の中で思っていても、気を遣って私に言えないだけなのかもしれない。宿舎での時のように。
うだうだと考えているうちに、だいぶコタンから離れてしまっていた。道が途切れていて、手入れのされていない草木が鬱蒼と生い茂っている。昼間とはいえ、こんな人気のない所を一人でウロつくのは良くない。足早に元来た道を辿っていたら、遠くに人影が見えた。尾形さんだ。見知った顔にホッとする。手を振れば、少しだけ歩みを早めて尾形さんがこちらに向かってきた。
「何してんだ」
「落ち着かないので散歩を」
「一人でフラフラと出歩くな」
チッと舌打ちをした後に二の腕を掴まれて、無理やり歩かされる。コタンへ連れ戻されるのかと思いきや、そうでもないらしい。見慣れない景色の中、尾形さんは無言で歩いていく。私の散歩に付き合ってくれるのだろうか。一人で歩くよりは心強いけれど、二人というのも落ち着かない。あの尾形さんにまで気を遣われているのかもしれないと思うと尚更落ち着かなくて、情けなくて、足取りが重くなる。私の歩みが遅いことに痺れを切らしたのか、尾形さんが立ち止まった。
「何をごちゃごちゃ一人で考えている」
「え?」
煩わしそうな言い方だったのに、こちらを見つめる尾形さんは私が心の内を話すのを待っているようだった。
「計画が上手くいくか不安なのと……のっぺら坊が本当にアシリパさんのお父さんだったらどうしよう、って」
「そんなことかよ。楽に金塊が手に入る可能性があるんだから良いことだろ」
「でも、アシリパさんはどうなるんですか。お父さんが実は生きていて、皮を剥ぐことを前提とした暗号を彫ったって、あんまりじゃないですか……」
「それは俺たちが心配すべきことなのか」
尾形さんの冷たい言葉に、顔を顰めてあからさまに不快感を露わにしてしまった。いくらなんでも、一緒に旅をしてきて、良くしてもらった人に対してそんな言い方はないのではないか。
「父親の死を一度乗り越えたように、お前が居なくても今回も乗り越えるだろうよ」
私が居なくても、という言葉にきゅうっと胸が痛んだ。不安で余裕がないからか、さっきから尾形さんの言葉に感情が揺さぶられてばかりだ。少し、距離を置きたい。この状況は良くない気がする。なんとなくそう思っても、腕を掴まれたままで身動きができない。「それよりもお前は自分のことを考えろ」と尾形さんが話し始めたことでより一層居心地が悪くなる。
「金塊はいらないと言っていたが生きていくには金がいる。分け前もなしにどうするつもりだ」
「それは……」
「お尋ね者の看護婦を雇ってくれる所があると思うか。それとも体でも売るのか」
淡々としているが遠慮のない言い方に耳を塞ぎたくなる。尾形さんが一歩一歩近づいてきて、後ろに下がろうとしたのに掴まれた腕を引き寄せられて叶わない。痛みに抗議しても手が離されることはなく、凍てつくような視線が落ちてきた。
「アシリパに構いたがるのは、自分の問題からただ目を背けたいからじゃないのか」
思わず息を飲んだ。全部、見透かされている。こちらを見下ろす尾形さんの真っ黒な瞳から目を逸らすことが出来なかった。
心のどこかで思っていた。アシリパさんのためだと言って、ただ満たされない自分の心を埋めようとしているだけなのではないか。色々なことを先送りにしているだけなのに、何かをしている気になりたいだけなのではないか。全部、私の自己満足だ。アシリパさんは強い。尾形さんが言うように、多分、私が居なくても乗り越えられるだろう。怖いけど真実を知りたいと言っていた強い子だ。もっと幼い時にお父さんの死も、レタラとの別れも乗り越えた子だ。
「今日、お前が舎房に侵入しないのは何故だ」
その問いかけに、昨日の宿舎での三人の顔が浮かんだ。
「誰もお前を必要としていない」
なんで、そんな酷いことを言うんですか。事実だとしても、もう少し言い方があるんじゃないですか。言いたいことが山ほどあるのに、喉がつっかえて言葉にならない。じわじわと、目頭が熱くなって視界が歪んだ。誰も、私を必要としていない。そんなことない、今まであの三人と一緒にやってきた。沢山のことを乗り越えてここまでやってきたんだ。尾形さんだって一緒だったでしょう。この旅は、誰が欠けてもダメだったはずだ──本当に?果たして、本当にそうなのだろうか。
かさぶたを無理やり剥がされた傷口から、ゆっくりと、しかし確実に底のない暗い気持ちに侵食されていく。私が居なくても世界は回っていく。私が居たとしても、何かを変えるほどの力もない。たくさん、死なせてしまった。みんな、死んでしまった。私は何もできなかった。いつだって、行かないでとみっともなく叫んで誰かを必要としているのは私の方だ。誰も私を必要としていない。いや、一人だけ、私のことが必要だと真っ直ぐに伝えてくれた人がいた。
── ナマエさんのような聡明で、志を持った人が我々には必要だ。
でももう戻れない。戻りたくない。あそこは怖い。
「アシリパには婆ちゃんや村の人間が居る。杉元には故郷に女が居る。白石は……まあ遊郭にでも入り浸るんだろ。全て終わればお前だけが一人残される。そんな奴らに肩入れして何になる」
もう何も聞きたくない。振り払う気力すら残っていないのに、尾形さんは逃すつもりはないと私の腕をしっかりと掴んだままだ。
「造反を持ちかけた責任があるからな、俺が面倒を見てやっても良い」
ふっと腕が離されて、いつの間にか頬を伝っていた涙を尾形さんが親指で拭った。ずっと強い力で掴まれていたせいで、二の腕がジンジンと痛かった。無骨で、厚い手のひらが左頬を包んで、上を向かされる。
「俺と来るか」
暗く、淀んだ瞳に吸い込まれる。薄っすらと浮かべられた笑みは、いつもよりも随分と楽しそうに見えた。兄を撃った時と、同じ顔だ。
尾形さんは、私を必要としてくれるんですか。答えを知るのが怖くて聞けなかった。健康的でない関係だと分かっているのに、払いのけることができない。互いに傷を舐め合った時間が長すぎた。その傷のいくつかは尾形さんに付けられたものだというのに。
暗い瞳から目を離せず、何も言えずにただ時間だけが過ぎていく。全部、見透かされている。私が一人になるのを恐れていることも、尾形さんの手を振り払えないことも。この人には、ほかの人に見せたことのない、見せたくもない、醜くて弱くて情けない所を全部知られてしまっている。
どろどろと、息のできない暗くて重い泥濘に落ちていく。もがけばもがくほどに足を取られて落ちていく。どっぷりと浸かってしまえば、その内ここが一番心地良いのだと錯覚してしまう。アシリパさんたちと出会って、やっと這い上がれたと思ったのに。置いていくのは許さないと、傷口に刃を突き立てられまた底のない泥濘に引き摺り込まれる。
私は、尾形さんと一緒に這い上がりたかったのに。
2024.06.26
