原作沿い
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閑話 -兵舎にて-
兄に呼び出され、私は小樽の兵舎の一室に来ていた。日露戦争が終わって兄は第七師団に転属し、私は少しあとから近くの軍病院で働き始めた。戦争が終わって、昇進もして、最近の兄は殊更地位や名声に固執しているようだった。どんどん酒に溺れて行く姿は見ていてつらかった。
目の前では鶴見中尉が美味しそうにお饅頭を頬張っている。あの時治療した傷はすっかり癒えたようだったが、目元の生々しい傷跡と琺瑯の額当てが、中尉の醸し出す異様な雰囲気に拍車をかけていた。その後ろでは月島軍曹と尾形上等兵が控えている。チラリと隣を盗み見れば、兄は早々にお饅頭を食べ終わっていた。お茶もすっかり飲み干している。アイヌの隠された金塊、囚人に彫られた入れ墨の暗号、金塊を資金源にした軍事政権の樹立……私は今さっき聞かされた話を咀嚼するのにいっぱいいっぱいで、とてもじゃないが自分の分に手を付ける気になれなかった。酒が切れて苛立っているのか、隣で兄が絶え間なく貧乏ゆすりをしている。膝に手を置けば一瞬止まったが、またすぐに始まってしまった。そんな兄を気にすることもなく中尉は話を続けた。
「熾烈な争いになる。兵士も大勢傷つくことになるだろう。そのためにもミョウジ少佐とともに協力してもらえないだろうか」
言質が欲しいのだろうな、と思った。お茶とお茶請けまで出され、怖いほどに優しく包み込むような空気に呑まれそうだった。力でねじ伏せることも簡単にできるのに、そうしないのがこの上なく狡い。
「……その……ひとつ、よろしいでしょうか」
恐る恐る口を開けば、白々しい笑みが返ってきた。
「金塊探しの資金源はどうされているんですか」
独自に金塊を見つけるにしても、それなりの資金が必要なはずだ。軍の予算に手を付けたらすぐにバレてしまうだろうし、中尉の懐から出しているとは思えない。隠された金塊だなんて、ただでさえお伽話や夢物語にしか聞こえないのに、ちゃんとした計画や勝算があるのかそもそも疑問だった。
「まあ色々とあるが、最近は寒冷地に適したケシの栽培を進めていてね」
何せアヘンは儲かるから、と差し出されたのは真っ赤なケシの花だった。とんでもないことをさらりと告げられて体が固まった。聞かなければ良かった。もう本当に後戻りができないのだと、冷や汗が止まらなかった。
「金塊が見つかれば農地をさらに広げて、軍事政権の資金に充てることができる」
不安になって思わず兄を見れば、苛立った視線が返ってきた。早く協力すると言え。無言の圧力をひしひしと感じた。兄からしたらこんな時間は退屈で無駄なんだろう。断るなんて選択肢はない。兄妹揃って消されるだけだ。そんなのは分かっている。それでも、一方的に良いようにされるなんて真っ平ごめんだった。少しでも喰らいついて、僅かでもこちらに利益があるようにしたかった。膝の上でグッと拳を握りしめた。爪が食い込む痛みが、少しだけ気持ちを落ち着かせてくれた。
「協力する代わりに、そのケシを使ってモルヒネの研究をさせてください」
「ほう……ナマエさんはモルヒネに興味が?」
中尉の手がケシの花を転がしている。
「傷ついた人たちや病気の人たちを救うために、この国にはもっとモルヒネが必要です。そのために国産化ができれば良いと思っています」
「私もモルヒネは大好きだ。是非、もう少し詳しく話を聞かせてくれないだろうか」
カタカタカタと隣から聞こえてくる貧乏ゆすりの音が耳に付く。
「モルヒネは、死までの過程を劇的に変えることができる薬です。もっと研究して、もっと使い方を工夫できれば、痛みに苦しむ人たちを救うことができます」
なるほどなるほど、と笑顔の中尉が相槌を打って先を促す。夢や理想を語る時、人は饒舌になる。私も例外ではなかった。聞こえ続ける貧乏ゆすりの音にせかされるように、私は話を続けた。ヨーロッパでは近い将来確実に大きな戦争が起きること、モルヒネの輸入はいつ止まってもおかしくないこと、日本でもまた戦争が起きれば、モルヒネが大量に必要になること……満足な治療もできない戦場で、モルヒネはただ死を待ち続ける兵士の最後の希望になりえること。こんなこと、誰かに話したことなんてなかった。中尉に話しながら、私はずっと誰かにこの話を聞いて欲しかったのだと初めて気付いた。ただの小娘の話に、中尉は静かに傾聴し続けてくれた。
「素晴らしい。実に素晴らしい考えだ。やはりナマエさんのような聡明で、志を持った人が我々には必要だ」
ひとしきり話し終えれば、鶴見中尉が満面の笑みで頷いた。中尉の右手が上がった。
「撃ってよし」
兄の体が椅子ごと後ろに吹き飛んだ。生ぬるい何かが顔に飛び散った。銃口から硝煙が上がっている。そのまま重い音とともに床に激突した兄を振り返れば、ビクビクと痙攣している体が目に入った。訳が分からなかった。さっきまで、すぐ横で貧乏ゆすりをしていた兄が床に倒れている。とめどない鮮血を流している。おびただしい量の血液が、古びた床にどんどん、どんどん広がっていく。
なにをすれば、いいんだっけ。
心臓を動かさないと。慌てて駆け寄って、どくどくと頭から血を流し続ける兄の胸を押した。揺さぶられて、さらに血が溢れ出て床に広がり染み込んでいく。
「嫌だ、兄さんっ……!」
置いていかないで。必死になって兄の心臓を動かそうとする滑稽な私を、月島軍曹が引き剥がした。どう見てももう手遅れだ。頭を綺麗に撃ち抜かれ、後ろが吹き飛んでいる。あんなに耳障りだった貧乏ゆすりの音が恋しかった。
尾形上等兵を見れば、気味の悪い薄ら笑いを浮かべていた。人を撃っておいてどうしてそんな顔ができる。ここに居る人たちは皆どうかしている。血の匂いと嫌悪感で吐きそうだった。血塗れの床に手をついてえずいても、空っぽの胃からは何も出なかった。ぼたぼたと唾液と涙が血だまりに消えていく。また大きく血だまりが波打って、誰かが隣に来たのだと気付いた。さっきまで兄の身体を巡っていた生温かい血が、服に染みこんで体が重い。動けない。
「君は、自由だ」
それはとても甘美な囁きだった。それなのに、肩に乗せられた手が驚くほど重く、不快だった。身体がジワジワと得体の知れないドス黒いものに侵食されていく。心の奥底の、気づいてはいけない気持ちを呼び覚ましていく。なりふり構わず中尉の手を振り払った。怖かった、それに気づいたら自分で居られなくなる。ガタガタと震える体を抱きしめて、必死になって気持ちに蓋をした。絶対に認めたくなかった。
「ミョウジ先生、ミョウジ先生……うんうん、良い響きだ」
しっくり来る。すぐ隣から楽しそうな中尉の声が聞こえてきた。まるで飼い猫の名前を決めるような、そんな軽やかさだった。
「兄君が居なくとも自由に治療を行えるようにしよう。まだ採れる量は少ないが、モルヒネについても好きなだけ研究をすれば良い。捕まえた囚人を使って実験をしたって良い」
ためらうことなく、中尉が血溜まりの中で膝をついた。視線を合わせたくなくて下を向けば、白い軍袴が兄の血を吸い上げて、赤黒く染め上げられていた。髪を耳にかけられ、頭をゆっくりと撫でられた。怖い。嫌だ。触らないで。突飛ばそうとした手を握られて、視線が合う。
「ナマエさんのような可憐な女性には、涙よりも花が似合う」
そっと優しい手つきで私の涙を拭った中尉が、髪にケシの花を差した。怖いほど穏やかに微笑む中尉から目が離せなかった。
「私と共にこの大地をケシの花で埋め尽くそう。それが兄君への手向けの花になるだろう」
