原作沿い
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24
温泉旅館に着いて、私たちは全員それなりに浮足立っていた。いつもの銭湯も良いけどやっぱり温泉は別格だ。中でもアシリパさんは見るからにワクワクしていたので、話を聞いておくから先に三人で入ってきなよ、という杉元さんの言葉に甘えることにした。
脱衣所を抜ければ湯気が立ち込める広々とした露天風呂が目に入って、アシリパさんほどではないが私も気分が上がっていく。二人に見つからないように念のため持ち込んだ拳銃をそっと岩陰に隠した。
「洗いっこするぞ!」
声高らかに言うアシリパさんに笑みがこぼれる。いつからか、一緒にお風呂に入る時は洗いっこをすることが習慣になっていた。石鹸を泡立てて、手ぬぐいで小さい背中を撫でていく。アシリパさんは泡立てた髪を色々な形にして遊んでいて、後ろからでも分かるくらい楽しそうにしている。
「ナマエの番だ」
こちらを振り返ったアシリパさんに背を向ければ、手拭いが肌に触れた。痒いところないか?と声を掛けながら、アシリパさんが丁寧に丁寧に私の背中を洗っていく。もっと強くても良いのに、優しく肌を滑る手ぬぐいに愛を感じた。
「なんだか家族みたいですね」
隣で静かに体を洗っていたインカラマッが微笑んだ。アシリパさんには聞こえていなかったようで、鼻歌交じりで私の背中を洗い続けてくれている。返答に困るほど嬉しかった。嬉しすぎて、怖かった。網走がすぐそこに近づいていて、この旅の終わりが現実味を帯びてきている。そろそろ本当に自分の身の振り方を考えなければいけない時が来ている。何も返すことが出来なかった私のことを気にする素振りもせず、インカラマッが先に湯舟へと向かって行った。
「ナマエ、もういいか?」
「うん、ありがとうアシリパさん」
髪も洗い、泡を流して足先を湯につけた。良い温度だ。貸し切り状態を良いことにアシリパさんがざぷんと勢い良く入って行った。豪快だぁ。波打つ湯舟の中にゆっくりと肩まで浸かれば、あまりの気持ちよさに全身が蕩けていくようだった。ほぅっとため息が出る。
「やっぱり温泉っていいですねぇ……」
このままずっと浸かっていたい。ほわほわとした頭で思っていると名前を呼ばれた。視線を向ければ、いつもの笑顔と飄々とした態度はどうしたのか、少し緊張した面持ちでインカラマッがゆっくりと話し始めた。
「その……ずっと、謝りたかったんです」
「謝る?」
「苫小牧でナマエさんのお兄さんのことに触れたことです。不快な思いをさせてすみませんでした」
「あぁ……うん……」
面と向かって謝罪されると何だか落ち着かない。兄のことは中尉がただの利用できる情報として伝えたことなのだろうし、インカラマッは何も知らずにそれを使っただけなのだろう。でもお世辞にも「気にしないでいいよ」なんて返せないほどには態度に出してしまっていたし、未だ癒えぬ傷口を抉られて不快だったのは事実だ。なんて返せば良いのか分からなかった。さっきから上手く言葉が見つからない。
「なぁ、ナマエの兄はどんな人だったんだ?」
「……繊細で、優しい人でしたね」
岩陰の拳銃を見つながら答えたら、アシリパさんがギョッと身じろいだ。パシャっと水面が揺れる。
「ナマエ、なんでそんなの持ち込んでるんだ」
「盗賊団も居るので、一応何かあった時のために。それに目を離して盗られたら大変ですし」
話しながらふとインカラマッと目が合って、あっと思った。ついこの間銃を盗られて大変な目にあったのに、こんなことを言ったらまるで当てつけだ。
「ご、ごめんなさい、谷垣のことがあったのに……嫌味を言おうとしたわけではなくて。常に持っていろと教わったというだけで」
「大丈夫ですよ、ナマエさんは優しいですね」
笑顔で返されて、また言葉に詰まってしまった。どうもインカラマッとの接し方がいまいち分からない。まだ信用できないと思っているのに、中尉との繋がりがはっきりした分、得体の知れない不気味な怖さがなくなった。加えて先ほど謝罪までされてしまった。今までのようにむやみやたらと遠ざけたいという思いが少しずつ小さくなって、どう対応したら良いのか良く分からない。ああでもないこうでもないと頭で考えすぎて自滅している。とても滑稽だ。
谷垣と言えば、と急にアシリパさんが話し始めた。目元が少しニヤけている。
「インカラマッは谷垣のどこが好きなんだ?」
「顔に傷があるところです」
中身じゃないのか。でも苫小牧でも同じようなことを言っていたことを思い出した。ニコニコ微笑んでいるインカラマッの視線が私に移った。
「ナマエさんはどんな男性が好きなんですか?」
「えっ?」
「私も知りたい」
「ええっ?」
アシリパさんが期待に満ちた目で私を見てくる。そんな目で見られると緊張してしまう。何も面白いことなんて言えないよ、自分でもどんな人が好きなのかいまいちピンと来てないのに。無難に"優しい人"なんて言ったら真面目に答えろと怒られるんだろうな。うーん、と腕を組みながら少し考えて、辿り着いた答えを口にした。
「死なない人、かなぁ……?」
言ったそばから気づいた。死なない人、つまり不死身と呼ばれている人間が一人、身近に居ることに。
「あっ!?いや、そのっ!違くて!す、杉元さんがって話ではなくてっ……!」
「お?あれ?あれ?どうしたナマエ〜?私たちは杉元なんて一言も言ってないぞ~?」
墓穴を掘った。アシリパちゃん、とニコニコ顔のインカラマッが嗜めるがもう遅い。面白いおもちゃを見つけたと、意地悪な顔で迫ってくるアシリパさんにたじたじと後ろに退いた。それでも詰め寄って来るのだから、アシリパさんは逃すつもりなんてないんだろう。ニマニマした顔がすぐそこまで迫ってきた。心臓がうるさい。体が発火するように熱いのは温泉に浸かっているせいだと言い聞かせる。
「たくさん、救うことができなかったから……もう見送るのは嫌だなって……」
だから別に杉元さんが、っていうわけじゃないんだ。アシリパさんの視線に耐え切れずに、ぶくぶくと音を立てながらゆっくりと湯に沈んだ。
素敵な人だと思う。私には勿体無いくらいに。強くて優しい、あの金色の眼差しが好きだ。杉元さんの隣は心地良い。それはきっと、ずっと前から、旅順で出会った時から変わらない。杉元さんは私に救われたと言ってくれたけど、私だってそうだ。必死に生き抜く姿にどれだけ憧れ、勇気づけられたか。地獄の最前線に居るにも関わらず、私のことを労わり、尊重してくれた優しさに何度救われたか。いつだったか、杉元さんの傍らで5分だけと言いながら結局10分も寝てしまったことがあった。「まだバレてないよ」といたずらっぽい笑顔で迎えられたあの瞬間、私は確かに地獄から解放されていた。杉元さんは、私にとっての光だった。いつの間にか見失ってしまっていた光だ。二人とも生きて、こうやってまた出会えただけでもう、私は満足なんだ。
というか、そもそも杉元さんには良い人が居るんだし。会ったこともない女性を勝手に想像して、じくじくと胸が傷んだ。
部屋に戻れば、当たり前だが杉元さんが居て、先ほどのことを思い出してまた顔が火照っていく。
「あれ、ナマエちゃんのぼせちゃった?顔赤いよ」
「へっ?!」
白石さんの指摘に、按摩をしてもらっている杉元さんがこちらを見た。
「本当だ。大丈夫?」
「だっ、大丈夫です!」
慌てて小窓を開けて、顔を出した。すっかり日も落ちて、夜風が気持ちいい。秋の気配がする。段々と熱が引いて行けば、後ろから聞こえてくる按摩さんとの話が耳に入ってくるようになった。杉元さんの傷跡の話をしているようだ。
「アイヌってのは葬式の時に故人の道具や着物を傷つけて、持ち主があの世で使えるように魂を抜いてやるんだって。俺の魂を抜きたきゃもっとデカい傷が必要なのさ」
「魂が抜けるのはこの世での役目を終えたから……杉元が傷を負っても死なないのは、この世での役割がまだ残っているということだ」
役割。私の役割は何だろう。アシリパさんを見届けること?でもそれももうすぐ終わってしまう。兄のために花を手向け続けること?どこかに嫁いで家を守ること?分からない。眼前に広がる真っ暗闇のような未来しか想像できなかった。どれが本当の役割だったか分かるように、誰かいっそ私を傷つけて、魂が抜けるか試してほしいとさえ思う。
「湯冷めするぞ」
「わっ、びっくりしたぁ……!」
いつの間にか尾形さんが近くに来ていた。指摘された通り、火照った顔はすっかり元通りになっていて、少し肌寒いくらいだった。乗り出していた体を引っ込めれば、背後から腕が伸びてきて窓を閉められた。
「あっ、ごめんなさい」
とんっと背中に尾形さんの体がぶつかって、咄嗟に謝った。後ろを見上げれば、思っていたよりもずっと近い距離に尾形さんがいた。影が落ちて一層暗く見える双眸が私を見下ろしている。尾形さんなら、私を躊躇なく傷つけるのだろうな。先ほどの物騒な思考の延長が頭を過った。
「尾形ちゃん置いてくぜ〜」
遠くから聞こえてきた白石さんの声に、尾形さんが音もなく離れていった。いつの間にか皆さんお風呂に向かって行ったらしい。
帰り支度を終えた按摩さんが部屋から出ようとしていた。お礼を言ってアシリパさんと共にその姿を見送る。
「ひとりで大丈夫か?」
「ありがとう、夜道はお嬢ちゃんたちよりも得意だよ。目が見えない分、あたしらにしか見えないものがある」
暗闇で落とした小銭を拾うのだってできるんだよ、と按摩さんが笑った。一つの感覚が失われると他が鋭くなるとは聞くけれど、そんなに"見えて"いるなんて驚きだった。私とアシリパさんの感嘆の声が重なった。
「そうだお嬢ちゃんたち、夜のゲタの音に気を付けなさい」
「ゲタ?」
「盲目の盗賊さ。みんなはゲタの音だって言うけど、あれは舌の音だ。舌を鳴らした音の反響でものを見る」
カンッ。按摩さんが鳴らした音に、突然アシリパさんが大きな焦り声を上げた。
「あの時の音は舌の音だったのか!」
「えっ?あ、待ってアシリパさん!」
一目散に走り出したアシリパさんを慌てて追いかける。
「アシリパさんどういうこと?」
「盗賊団だ!私たちは屈斜路湖に来た時からずっと……見られていた!!」
杉元たちに知らせないと!と向かっているのは温泉のようだった。まさか入浴中に突撃するつもりなのだろうか。ちょっと待ってと声を上げようとした時に、どこからか発砲音が聞こえてきた。いつもの小銃じゃない、誰の銃だ。一気に緊張が走る。脱衣所の引き戸を開けようとするアシリパさんを制して、身を隠しながら代わりに強く戸を引いた。戸が勢い良く滑っていき、ガタンッと大きな音を立てて止まった。拳銃を構えながら恐る恐る中を覗いてみるが、誰も居ないようだった。慎重に足を踏み入れるが全く人の気配がしない。大きな音を立てたというのに、外の温泉からも誰の声も聞こえなかった。
辺りを見回して気づいた。小銃が一丁も見当たらない。各々が持って行ったのか、盗られたのかもしれない。温泉の方を調べに行っていたアシリパさんが戻って来た。
「誰も居ない。外の灯りが壊されていた」
「皆さん森の中に逃げたんでしょうか」
ふと、綺麗に畳まれた27聯隊の軍服が目に入った。
「みんなを探しに行くぞ」
アシリパさんが脱衣所から出ようとしている。慌てて軍服の上の弾薬盒に手を伸ばした。銃剣は盗られていたが弾薬はそのままだ。しかし全部持っていくのは重いし邪魔になる。前盒を一つだけ残し、あとは全て帯革から外して肩から掛けた。人の持ち物を荒らすようで申し訳ない気持ちが膨らむ。後で謝ろう。
「銃なんて持ってるか分からないのに、なんでそんなの持ってきたんだ?」
「尾形さんは持ってますよ」
首を傾げたアシリパさんと共に、急いで旅館の外を目指した。
2024.05.07
