原作沿い
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20
二日目は生憎の雨だった。食糧庫の中で雨を凌いでいたら、外の尾形さんが振り返った。
「オイ、なんか言ってるぞ」
身を乗り出せば、村の女性にアイヌ語で話しかけられた。聞き取れた単語と身振り手振りを繋ぎ合わせれば、どうやら雨だから家に入れと言っているようだ。
「どうします?」
「お前はそうしろ。俺は残る」
招き入れられたチセの窓から食糧庫の方を窺う。尾形さんは動いていない。風邪をひかないだろうか。杉元さんもアシリパさんも大丈夫だろうか。
「食え、暖まるぞ」
湯気の立った椀が差し出された。カムイノミを捧げていた男だ。仮にも容疑者の仲間なのに、ご飯まで頂いてしまって良いのかと戸惑っていたら、後で何か手伝いをしてくれればそれで良いと言われた。受け取ったオハウを一口二口と食べ進めれば、肌寒さが徐々に和らいでいく。肉が柔らかくて、程よく脂も乗っていて美味しい。臭みもない。鶏肉のようだが何の肉なのだろう。久々の温かい食事にすぐに椀が空になってしまった。食器を返しに行くついでに、肉についてさっきの男に聞いてみた。
「マナヅルだ」
「鶴……?!」
丹頂鶴と全然違う、と思わず口にしたら「あれは食べるものじゃない」と眉をひそめられてしまった。挙句、そんなに食い物に困っているのかと心配され、おかわりを渡されてしまって恥ずかしい。ちゃんと二杯分の仕事をしなければ。
胃も心もすっかり満たされれば、おのずと元気が湧き出てきた。何かできることは無いかと女性陣に尋ねれば、針仕事を頼まれた。分かる単語を拾いつつ、隣の女性を手本にチクチクと布を縫い合わせる。小樽のコタンで手伝っていた時のことを思い出して、おばあちゃんの顔が浮かんだ。おばあちゃんもオソマちゃんも、元気にしているのだろうか。谷垣に聞いておけば良かった。
「
「
隣の女性との会話に、さっきの男がびっくりしたようにこちらを見た。
「アイヌ語も分かるのか」
「ほんの少しだけです。アシリパさん……あの一緒にいた女の子のコタンで、暫くお世話になっていたので」
いつも通訳してくれる人が居るわけではなかったので、よく使われる言葉や文章を中心に少し覚えただけだ。囲炉裏の向こうに居た男が隣に移動してきて、私の手元を覗き込んだ。
「本当だ、上手いな」
「傷口をたくさん縫ってきましたからね」
皮膚に比べれば布なんて容易いものだ。男は一瞬ポカンとしたあとに、ハハハッと口を大きく開けて快活に笑った。
「アシリパといいお前たちは本当に面白いな!」
ひとしきり笑い終わって満足したのか、マタンプシの下の目と視線がかち合った。
「俺はキラウシだ」
「ミョウジナマエです」
「たくさん傷口縫ったってどういうことだ?ナマエはなんで洋装なんだ?シサムでも珍しいよな」
さすが新しもの好きだ。懐っこい笑顔で矢継ぎ早に話しかけられて、こちらも釣られて笑ってしまう。
「ミナコトム ルウェ」
隣の女性が笑いかけてくれたが、知らない言葉だった。
「えっと……?」
「ナマエは笑ってた方が良いって」
俺もそう思う、と続けられて少しむず痒い。谷垣のことはそれなりに気になるけれど、私はそんなに神妙な顔をしていたのだろうか。
「ナマエは顔に大きい傷のあるニシパと、アシリパと居る時の方が笑ってたな」
*
雨が止み、分けてもらったご飯を尾形さんに渡しに行った。
「尾形さん、明日なんですけど」
「……逃げるんだろ」
頭巾の奥の瞳がこちらを見た。なんだ、尾形さんもそのつもりだったのか。
「はい、なるべく監視が厳しくなる前に」
「手筈は整えておく。昼前にはここを出発する。お前は家で合図を待て」
「了解しました」
谷垣にも伝えようかと思ったが、薄暗くなってきた今、しかも期限前日に檻に近づいたら怪しまれるかもしれない。それに谷垣は真面目だ。逃げると言ったら多分「そんなことをすれば罪を認めるようなものだ」とか言うかもしれないし、嘘も下手そうだ。誰かに気づかれたら計画も台無しになる。何も言わない方がいいだろうと、チセへ戻ることにした。
ただ淡々と、無駄なく、冷静に時が過ぎていく。さきほどの尾形さんとの会話といい、まるで軍にいる時に戻ったようだった。アシリパさんたちとの日常が恋しい、と思って気づく。もう何年もこれが今までの日常だったのに、今はアシリパさんたちとの日々を日常だと思っている。あとどれくらい、彼女たちとの日々は残っているのだろう。
翌日、頃合いを見計らって谷垣を逃がし、こっそりとコタンを去った。三人で湿地を駆けるが、この辺りは見晴らしが良くてこちらが不利だ。もう見破られている頃だろうか。キラウシさんたちにはお世話になったのに、こんな形で別かれることになって心が痛む。谷垣の表情も曇っている。
「杉元たちを信じて待っても良かったのに……」
「時間が迫ればそれだけ監視も厳しくなる」
「逃げれば罪を認めるようなものだ」
予想はしていたがまさか本当に言うとは、と少し呆れてしまった。つくづく谷垣は愚直で真面目で、良い奴だ。なおさら冤罪で裁かれるのは阻止したい。
「でもあのまま居たら、谷垣も村の人たちも無事で済まないでしょう」
「お前の鼻を削ぐのは俺がやっても良かったんだぜ」
私たちの物騒な物言いに谷垣が顔を歪めた。ターン、とどこからか聞き慣れた銃声が聞こえてきた。もしかして杉元さんだろうか、と辺りを見回していると、後ろの方で動くものがあった。キラウシさん達だ、と気づいた時にはもう遅かった。
「いたぞッ!逃げた三人だ!」
「見つかった!」
顔が前を向く前に、尾形さんに力任せに腕を引っ張られて危うく転びそうになる。もつれる足でやっと体勢を立て直せたと思ったのに、今度は突然足を止めた尾形さんの背中にぶつかってよろけてしまった。文句の一つでも言おうとして気づく。進行方向の先で、下半身を露出した男が、ヒグマの尻にしがみついていることに。
「ひっ……!」
「なんてこった」
「信じられん。みんな見てるか?」
目の前の光景に頭を抱えて座り込んだ。追いついたキラウシさん達も、その凶行を目の当たりにして愕然としている。
……夢か?夢かもしれない。
もう一度顔を上げれば、ちょうど男がズポンっと宙に放り出されたところだった。夢じゃなかった。杉元さんがヒグマに向かって行くのが見えて肝が冷える。アシリパさんの毒矢を刺されたヒグマはよろよろと数歩歩いて、やがて動かなくなった。混乱する頭をどうにか動かして、二人へ駆け寄る。
「ナマエ!」
「アシリパさん!」
無事で良かった。こちらに飛んできたアシリパさんをぎゅっと抱きとめた。アシリパさんが後ろの谷垣を見つけてホッとしたのが分かった。
「ナマエさんが谷垣を逃がしてくれたんだね、ありがとう」
「いえ、尾形さんが逃がしてくれたんです」
「えっ……本当に?」
「ああ見えて、意外と頼りになるんですよ?」
杉元さんが顔を顰めた。そういえば本懐を遂げた男が見たらない。
「姉畑は?」
「ウコチャヌプコロして力尽きた」
アシリパさんが指さした方に姉畑が転がっていた。とても安らかな顔をしている。腹上死だろうか。色んな患者を診てきたが初めて見た。少し気になるけれど、なんとなく近づきたくなくてやめた。
「姉畑は一体どうしてこんな真似を……」
世の中、理解できないことをする人はたくさん居るけれど、ここまでのことをする人は中々居ないのではないか。
「私も分からない。姉畑支遁が本当に動物を愛していたのならどうして最後に殺すんだ?……本当に自分勝手だ」
アシリパさんが隣で声を振るわせた。
「どうしてウコチャヌプコロする前に良く考えなかったのか。そうすれば殺さずに済んだのに……なあ杉元!!そう思わないか?」
アシリパさんの問いに対して、杉元さんが何か言いたげな顔をしていた。思い当たる節があるのだろうか。
「男ってのは出すもん出すとそうなんのよ」
「オイやめろッ!!」
尾形さんの直接的な表現に、カッと顔に熱が集まったのが自分でも分かった。「お、俺は違うからねッ?!」という杉元さんの主張にさらに熱が集まる。そ、そんなこと言われても、困る。アシリパさんが怪訝そうな顔をしながら、ヒグマを解体するキラウシさんたちに合流しに行った。待って、置いてかないでアシリパさん。
「前から思ってたが初心すぎねぇか。ミョウジ少佐とはえらい違いだな」
逃げ時を逃してしまった。
尾形さん曰く、兄は女癖が悪く軍でもそういった界隈でも有名だったらしい。そんなこと知りたくなかった。いや、薄々気づいてはいたけれど、身内のことを第三者にあけすけに言われるとだいぶ傷が深い。
「聯隊旗手のように看護婦は処女でないといけない暗黙の了解でもあるのか?」
「なっ、なんですか、それ。ただ機会が──」
なかっただけです、と続けようとしていることに気づいて、途中で口を噤んだ。なにを言おうとしているんだ、私は。動揺しすぎて全く必要のないことまで口にしてしまった。自分の失態に耐えきれずに顔を覆う。消えたい。
「へぇ……」
突然、尾形さんに肩を抱かれ驚きで固まった。こんなに距離感が近い人だったろうか。
「なら試してみるか?」
耳に注ぎ込まれた言葉にビクッと反応すれば、クツクツと喉で笑われたのが分かった。肩に回されていた手が、身体の線を確かめるように、ゆっくりと腰に降りてきて身震いする。冗談にしてもタチが悪すぎる。羞恥心と不快感でどうにかなりそうで、反射的に尾形さんを押し返すがびくともしない。
「お、尾形さっ……!」
緊張で狭まった視界の端で、素早く動く物があった。尾形さんが飛び退いた。視界が杉元さんの背中で埋まる。右手の銃剣がギラリと鈍く光っていた。杉元さんが銃剣を振るったのだと、ようやく理解してギョッとする。
「三人でやるのは趣味じゃねぇんだが……杉元、お前なら特別に混ぜてやってもいいぜ」
「腕だけ切り落とすんじゃ足りないみたいだな。その口、二度と利けねぇようにしてやる」
どちらも冗談に聞こえない。杉元さんの顔は見えないが、地を這うような声色からして相当怒っているようだった。尾形さんも、何故そんな神経を逆撫でするような趣味の悪いことを言うのか。大丈夫ですからと、杉元さんの着物を握って宥めるが、険悪な雰囲気は続いたままだ。
「なんだケンカか?暇なら手伝ってくれ」
ヒグマをコタンに持って帰るんだ、とキラウシさんが言う。その言葉に二人ともしぶしぶながら臨戦態勢を解いたので、胸を撫で下ろした。
「あの二人仲悪いのか、大変だな」
キラウシさんに憐れむような目線を向けられて、苦笑いを返すことしかできなかった。
