原作沿い
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17
気球のエンジンが止まってしまい、私たちは風が吹くまま徐々に高度を落としながら移動し、やがて地上に降りた。第七師団の兵営から東に約40キロは移動できたようだ。しかし尾形さんによれば馬に乗って追ってくる兵士が見えたらしく、おおよその位置は把握されているはずだから油断はできないようだった。目立つ気球から離れるために足早に森の中を進むが、杉元さんの出血が酷いことに気づく。
「すみません、一回止まれませんか。杉元さんの出血が止まらないんです。弾を出さないと」
「グズグズしてたら追いつかれるぞ」
必要な器具を出し、麻酔の準備をしていたら尾形さんの苛立った声が上から降ってきた。
「麻酔をかけている時間はない。適当で良いだろ、早くしろ」
杉元さんからも適当でいいからと言われてしまった。適当ってなんだ、それが一番難しいんだよもう、と内心文句を言いながら消毒したピンセットを手に取った。拳銃の威力が弱いせいか杉元さんの体が強靭すぎるのか、弾があまり奥に入り込んでいない。そこまで苦戦せずに取り出せそうだが、傷口をほじくり返される痛みに杉元さんが低く呻いた。
「すみません痛いですよね、もう少しです」
「俺は大丈夫だから」
良いから早くしろ、という尾形さんの無言の圧力を背中にひしひしと感じながら手を動かす。幸い、引き摺り出した弾は欠けておらず、綺麗な状態だった。急いで後処理をして足早にその場を去った。
「出血が止まったみたいだ。ナマエさんありがとう」
「良かった。でも不調を感じたら絶対に教えてください」
黙々と四人で歩き続ける。尾形さんが定期的に双眼鏡で追っ手を確認してくれるのが心強い。もう随分と歩いた気がするけど追っ手は撒けたのだろうか、もうそろそろ休んでもいいのではないか、そんな淡い期待も尾形さんの一声で壊された。
「見つかった!!」
慌てて一斉に走り出す。追っ手との距離はまだあるが、馬相手にどこまで逃げ切れるのだろうか。
「急げッ大雪山を越えて逃げるしかない」
「マジかよこの山を?」
山の斜面を登り始めるが想像以上に体力が持っていかれる。足が重い。空気が薄い。息が苦しい。追い打ちをかけるように、急に天候が崩れ始めた。あっという間に辺りが暗くなり、夏だというのに吹雪いてまできた。
「真冬みてぇだ」
ガチガチと歯が鳴り、手足の感覚がなくなっていく。まともな装備もない中、これ以上移動するのは難しそうだ。でも雪洞を掘れるほど雪が残っていない。前を歩いていた白石さんが服を脱いで走り出したので、慌てて捕まえに行く。低体温症で錯乱している。もう限界だ。
「ユクだッ!杉元オスを撃てッ大きいのが3頭必要だ」
鹿の群れを見つけたアシリパさんの指示に、尾形さんが素早く2頭同時に撃ち抜き、更に1頭仕留めた。
「急いで皮を剥がせッ大雑把でいい!!」
見よう見まねで震える手で皮を剥ぎ、腹を割いて一番重症な白石さんを鹿に詰め込んだ。本当にこれで大丈夫なのだろうか、勝手に出てこないだろうかと心配していたら「ナマエも早くそっちの鹿の中に!」というアシリパさんの指示が飛んできて、杉元さんが急に騒ぎ出した。
「えっ鹿足りなくないっ?!ナマエさん尾形と一緒に入るの?!」
「そっちの一番大きいオスなら二人でも入れる」
いやそうじゃなくて!と杉元さんが地団駄を踏む。
「ど、ど、同衾じゃんッ!」
「鹿ですよ?!」
杉元さんに言い返しながら鹿に入れば、むわっとした血肉の匂いが鼻についた。でもこのまま凍死するよりはずっと良いだろう。奥に移動しようとしてもヌルっとしていて上手く動けない。
「オイ、早く奥へ行け」
苦戦しながらモゾモゾと動き、背中が鹿の背骨に当たる感覚がした。これ以上は奥にいけない。前を向けば、入り込んでくる尾形さんと目が合った。
「ちょっと、後ろ向きで来てください。向かい合っては流石に嫌です」
チッと舌打ちが聞こえてきたが、尾形さんは一度外に出て素直に背中から入ってきた。私が入った時にはまだ余裕があったのに、尾形さんが鹿の体内に収まった頃には、私は尾形さんの背中と、ゴツゴツとした鹿の背骨に潰されていた。牛山さんや杉元さんと比べると小柄に見えるが、意外と体が大きいのだなと関心している場合ではない。息が上手くできない。背骨同士が当たって痛い。ぎゅうぎゅう詰めの中、尾形さんの体に捕まって少しずつ上に移動する。
「うっ……苦し……」
「何してんだ助平」
「すっ……?!尾形さんと鹿の背骨に潰されて苦しいんです、よっ……痛ッ」
頭が尾形さんの肩より上に抜けるとやっと息がしやすくなった。胸が尾形さんの肩甲骨辺りに押しつぶされて苦しいが、さっきよりも幾分かマシだ。「同衾じゃん!」さきほどの杉元さんの言葉が急に甦る。いやこれは鹿だ。しかも緊急事態である。そもそもこんな血なまぐさくて息苦しい同衾があるのだろうか。いや、ない。たぶん。知らないけど。ぐるぐると回る思考の止め方が分からなくて困っていたら、尾形さんが口を開いた。
「随分とあの三人に絆されているようだな」
「色んなことがありましたからね」
小樽で出会ってからどれくらい経っただろう。札幌でホテルを吹き飛ばしたのが、もうずっと前のことのように感じる。本当に色んなことがあった。思い出し笑いをしていたところに尾形さんの冷たい言葉が放たれる。
「金塊が見つかればアシリパは故郷へ帰り、杉元と白石も去っていく。お前は一人残される」
「……それは、そうですけど」
「仮初の感情に振り回されると後悔するぞ」
ぬるま湯に浸かるな、元々の目的を思い出せ。そう言われているような気がした。
「アシリパはのっぺらぼうの娘なんだろ?利用だけ利用して、最後に全部俺たちでブン盗ればいい」
「やめてください、いくら尾形さんでもその言い方は……!」
「『許せない』か?人も殺せないお前に何ができる」
ぐっと唇を噛む。尾形さんの言う通りだ。私には何もできない。
「お前はこの先も清いままこの戦争をやり過ごすつもりか?」
追い討ちをかけるような質問に顔が歪む。
「……尾形さんが兵士として人を殺さざるを得なかったように、私は私の職務上、誰かの命を奪うことはできません」
嘘だ。答えながらどんどん惨めになっていく。戦争でたくさん見殺しにした。積極的な方法でないとはいえ、私はもう数えきれないほどの命を奪っている。私は、清くなんかない。それに偽コタンで男に襲われたあの時、私は明確な意思を持って拳銃を構えた。もしあの時撃っていたら、あの男は死んでいたのだろうか。無我夢中で、どこを狙っていたのかも思い出せない。アシリパさんを無事に網走に届けるまで、絶対に死ねない。ただ強く、そう思っていた。アシリパさんのため──いや、ダメだ、あの子を理由にしてはいけない。私は自らの命のため、人に銃口を向けた。
「違う」
自分の嘘を見透かされたと思ってどきりとした。しかし続いた言葉は全く想像していなかったものだった。
「兵士だから殺したんじゃない。母も父も勇作殿も、俺が」
殺したいから殺した。掠れた声が耳に届く。言葉に詰まっていたら尾形さんが再度口を開いた。
「祝福されて生まれてきたお前らのような人間には分からない」
なんで、尾形さんまでそんなことを言うの。
「お前には分からない」兄に何度も言われた言葉だった。全てを持っているから、出来損ないじゃないから、父に愛されているから、何かしらの枕詞がついていた。私は全てを持ってなんていないのに。兄は出来損ないなんかじゃないのに。兄だって、父に愛されていたのに。そう言われてしまったらこちらは何もできない。分からないよ、あなたたちの心の中なんて。歩み寄ろうとすれば逃げる、諦めて離れようとすれば恨みがましい言葉で引き留める。一体どうしろというのか。
「尾形さんのつらさなんて私には分かりませんよ、誰も他人のつらさなんて分かりっこないんです」
頭で考えるよりも先に、気づいたら言い返していた。感情が昂って声が、体が震える。
「尾形さんはただ、自分とは違うと言い聞かせているだけなんじゃないですか」
ムキになって、立ち入るなと言われた尾形さんの心を踏み荒らす。ここが身動きしづらい鹿の中で良かった。外だったらもう撃たれていてもおかしくない。ここでだって、いつ首を絞められるか分かったものじゃない。それでも言わずにはいられなかった。もうこんな言葉をぶつけることもできない兄の分まで、今まで溜まりに溜まった気持ちをぶつけたかった。いつの間にか自分の頬が濡れているのに気づいた。ぐずぐずと情けなく鼻も鳴っている。
私と兄は変わらないのに、
「私も尾形さんも変わらないのに……!」
どうしてそんなに悲しい線引きをするの。兄さんが欠けているなら、私も欠けている。私が祝福されているなら、兄さんも祝福されている。どれだけ好きだと言ったら伝わったのだろう。こんな風に話をしたこともなかった。返事も殺気もないのを良いことに、私は尾形さんの背中に縋りついた。あたたかい、なんの変哲もない人間の背中だ。
「尾形さんだって……祝福されて生まれてきた人間です……」
尾形さんが体を丸めた。体が圧迫されて息苦しくなる。背中に鹿の背骨が押し当てられて痛い。苦しくて、痛くて、涙が溢れてくる。二人してまるで何かに怯える子供のように、体を寄せ合って吹雪が収まるのをただ待ち続けた。
