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閑話 - 旅順・奉天にて -
私は兄が好きだった。
その気持ちに偽りはなかったと思う。年の離れた兄はとても大きな存在に見えていたし、兄が大学を卒業して晴れて軍医将校となった時は、涙が出るほど嬉しかった。どれだけ知識を蓄えても、どれだけ経験を積んでも、軍医という、女の私には叶えられない夢を叶えた兄を心の底から尊敬していたし、本音を言うと少し羨ましくも思っていた。
しかし権力は人を変えてしまう。日露戦争で私が看護婦として兄の下に配属された時には、憧れていた兄の面影はもう、どこにもなかった。他人の手柄は自分のもの、自分の失敗は他人のもの。治療の腕も酷いものだった。まだ希望があるのにも関わらず、難しい処置が必要な患者は放置する。そうやって手に入れた権力や名声に一体何の意味があるのか、私には分からなかった。幾度となく兄に苦言を呈したが取りつく島もなかった。
「だったらお前が治療してやれば良いだろう」
私の権限でそこまでの処置が行えないことを知りながら、そんなことを言うのだ。父の診療所で昔から手伝いをしていたし、目を悪くした父の目となり腕となっていたので、その辺の医者よりも腕が良いという自負があった。それでも、この場で医師ではない私の独断でできる処置なんてほんの少ししかない。痛い、帰りたい、助けて、と呻く兵士たちの手をただ握ることしかできなかった。せめて痛みを取り除いてやりたいと思っても、死にゆく兵士に輸入品の貴重なモルヒネを打つことに賛同は得られなかった。それよりもまだ動ける者に打ち、前線へ返すべきだというのがこの旅順という地獄での通念だった。ここにもっと、モルヒネがあれば。私にもっと、力があれば。
地獄での毎日に心がすり減っていき、最早救っているのか、殺しているのかも良く分からなくなっていた。ふと思った。兄が欲しいのは権力と名声だ。それらには功績が要る。私が治療したことを、兄が治療したことにすれば良いのではないか?倫理に反する考えがじわじわと頭を蝕んでいく。ちょうど重症の兵士が運ばれてきた。兄が一瞥し、その場を離れようとしていた。
「私ならこの人を救えます」
腕を咄嗟に掴んだ。だろうな、と煩わしそうな瞳が私を捉える。腕を振り払われないように力を込めれば、眉間の皺がさらに深まった。
「兄さん、取引をしませんか」
それからは自分でも驚くほどに物事が順調に進んでいった。最初こそ、いつこの違反行為が露呈しないかひやひやしていたが、案外分からないもので、そのうちそれが日常になっていった。次々と負傷者が運ばれてくる戦地の混乱もあり、誰も私たちが何をしているのかじっくりと観察するような人も居なかったのも大きい。兄に融通してもらって、モルヒネも少し多めに貰うことができたので、手遅れだがまだ息のある者たちにこっそりと投与して痛みを取り除いていた。安らかな死こそ、彼らに残された最後の救済だと思っていた。旅順要塞が陥落する頃には昇進の打診もあったようで、兄は私達のこの関係にえらくご満悦のようだった。血は水よりも濃いというけれど、振り返ってみればお互いの利害関係が一致したこの時が、一番強く深い絆で結ばれていたと思う。果たして本当に、血は水よりも濃いのだろうか。
奉天でも私達は同様のことをしていた。すべて上手くいく。これは悪いことではない。人を救っているのだから。頭のどこかでそう思っていた。あの男が運び込まれるまでは。
「面白い。このことは内密にしてあげよう」
つい先ほど頭蓋と脳の一部が吹き飛ばされたというのに、やけに落ち着いた声が鼓膜を揺らした。兄が治療に当たっていた隣の軍曹から、刺すような視線を感じる。他の部下たちはテントの外に出していたので、私がこの将校の治療を行ったことは、ここにいる四人しか知らない秘密だった。これは罰だ。私は、人を救いたいと思いながらも、ずっと憧れていた医者の真似事ができることにどこかで喜びを感じていた。
「鶴見篤四郎中尉だ」
「……ミョウジナマエです」
「我々の戦争はまだ終わらない。私の力になってくれないだろうか」
包帯から垣間見えた笑顔にゾッとしたのを、昨日のことのように覚えている。
