呪術廻戦(五七)
どのような経緯でこの街へ辿り着いたのか、記憶は茫漠として曖昧で、はっきりと思い出すことができない。ただ、なにかから逃げていたような気がする。
窓の外を流れていく夜景を眺めていた。柔らかな色をした家々と商店の灯りが現れては過ぎ去っていく。
七海が乗っているタクシーは街に張り巡らされた複雑で細い道を器用に泳ぎ、七海と五条を目的地まで運んでいた。
ふと、隣に座る五条の指先が七海の手の甲に触れた。馴染んだ肌の感触に首筋が騒めく。振り返ると、五条はすっと背を伸ばした姿勢を保ちながら正面を向いていた。指先だけを動かし、七海の手をあまやかな体温で包む。
指を絡め返し、七海は五条の掌を握る。互いのぬくもりが混じりあい、一体となる。このような一体感を抱くようになったのはいつからだったろう、と七海は考え、再び窓の外へと視線を遣った。
車は店と人々が密集する市の手前で止まった。五条が金を払い、ありがとう、と現地の言葉で言う。
車から降りた七海と五条を、賑やかな軽装の男女の団体が追い越していく。五条がまるで七海を守るように、七海の身体を己の方に引き寄せた。
「お気遣いいただかなくても大丈夫ですよ」
「そう? でもなにがあるか分からないし、あまり僕から離れないでね」
そう言いながら、五条は七海と手を繋いで歩き出した。
随分と過保護なひとだ、と七海は内心で溜め息をつく。
この人は以前からこのような振る舞いをしていただろうか。この街へ来てから、顕著になった気がする。
五条は人々の間をすり抜けるようにして歩く。置いていかれないように、七海もその後を追った。
砂糖菓子の店の店頭に、様々な形をした色とりどりの飴が棒に突き刺され並んでいる。熊を模ったひとつは、奇妙な笑みを顔に浮かべていた。濃くむわりとした甘い香りが七海の鼻腔を襲う。
プラスチックのカップに入った極彩色の液体を、人々は喜んでストローで吸っている。生クリームの乳白色、果物の赤色、カステラの焦茶色。若い女性が密集している化粧品店。鞄が籠一杯に積まれた鞄屋。
五条は大通りを進んだあと、靴と雑貨が山積みになっている店舗がある角で脇道に逸れ、隣の通りに入った。前を行く五条の白くなめらかな首筋を視界に収めながら、七海も足を進める。だがある店の前で七海は違和感を抱き、足をとめた。五条もつられて立ち止まる。
「どうしたの?」
仮面が、と七海は掠れた低音で言った。
灯りの乏しい木造の店には、壁一面に様々な仮面が飾られていた。粗く木を削り顔を彫っただけのもの。白く塗られた肌に濃い影が落ちている。精巧に動物の顔を模ったもの。猿が目を細めていた。異形を表したもの。眼球が幾つも彫られている。呪術に用いられるであろうもの。残穢が店頭まで流れ落ちている。
「……行こう、七海。それは僕たちに必要ない。ただ祭りが近いだけだ」
七海を半ば引き摺るようにその場から離れさせた五条はやがて、とある食堂の前で足をとめた。
明々と灯りをともす周囲と比べて、店内は照明が絞られ薄暗かった。道路まではみ出ている机と椅子に五条が腰かける。倣って七海も腰を下ろすと、店内からメニューを持った店員が音もなく現れた。
注文をする五条の傍らを、半ば叫ぶように声を発し騒ぐ青年の集団が通り過ぎた。くたびれ、踵の踏みつぶされたスニーカーが幾つも道路を踏みしめていく。
「五条さん、お酒もお願いします」
「はいはい」
五条が何事かを店員に告げる。店員は頷き、注文内容を大声で繰り返しながら店内に戻った。
表面に汗をかいた缶ビールと缶入りの茶が並ぶ。プラスチックの机の上に、缶の底の形をした水の跡が残っていた。
七海は牡蠣と青菜の炒め物をつまみながら、ビールを呷った。苦味と華やかな香りが鼻を通り、炭酸が弾けながら喉をすべり落ちる。牡蠣は滋味に溢れ、絡められた黒酢と相まって無限に食べられそうなほど美味だった。
五条は黒い半袖のシャツに黒いパンツを穿き、目隠しをしている。その奇妙な出で立ちに人々から奇異の視線を向けられてもよさそうなものだが、この街の人々はまるで大柄な七海と目隠しをした五条が見えていないかのように振る舞い、ふたりが人々から注目をあびることはなかった。
当の五条は甘く煮つけられた豚肉で山盛りの白米をかきこみ、
「なにを食べても美味しい」
と、締まりのない笑みを浮かべてみせた。
「今日までの食生活があまりにもいい加減だったんですよ。というか、生活が適当すぎた」
「でも楽しかったでしょ? 満更でもなさそうだったし」
「アナタねえ……」
七海は唐辛子と香草の浮かぶだし汁から殻つきの海老を取り出し、殻を剥いた。濡れた指先を拭うもの、と周囲を見渡した七海の手を五条が取り、液体の滴る指先をぺろりと舐める。
薄く開かれた唇の間から赤い舌が覗き、生き物のように蠢く。
「……うわ、からい」
「唐辛子が見えませんか」
「ほんとだ」
五条は眉根を寄せ、あとでデザート食べようよ、専門店で、と言った。
七海と五条は部屋を引き払ったばかりだった。この街に着いた当初に住み始めたのは、下町の、防犯のために窓に鉄柵がつけられた小さな一室だった。近くには駅があり、ひっきりなしに電車が行き交う音と振動が響いていた。
そこで七海と五条は毎日交わっていた。乱れたベッドの上で、汗をかきながら、朝も夜も問わずにただ互いを求めた。
五条の規則正しく並ぶ背骨の形を、七海はありありと思いだせる。上品な形をした踝の硬さも、ひそやかに息衝く耳殻の曲線も。彼自身に最奥を突かれてこの身が溶け落ちてしまいそうな悦楽も。
あの部屋ではエアコンの動作音に紛れて、吐息と喘ぎ声が果てなく発せられていた。腕と足を絡ませ、ほどいて水を飲み、冷蔵庫から適当に取り出したものを口にいれ、再び絡み合う。
互いに、口づけていない場所など身体のどこにもないだろう。五条に至っては、七海の体内についてまで詳細に知り尽くしている。
交わることに疲れ果てて半ば意識を失うように眠りについたとき、七海は夢の中でいつも同じ場所に立っていた。暗闇のなかで、足は生温い液体に浸かっている。潮の香りがし、時折柔らかな波が脛に打ちつけられた。一歩踏み出そうとすると、背後から五条の声が囁く。
『駄目だよ。行っては駄目』
そこで目が覚める。目が覚めるのは決まって夜だった。
汗の染みた布団から七海はうっそりと這い出て、窓硝子に頬を押しつけ、鉄柵越しに街の様子を眺めた。自転車に乗った女性が荷物をぶら下げながら通り過ぎていく。家々やビルには煌々と明かりが灯っていた。真白色の、或いは橙色の四角い光が暗闇に浮かぶ。その所為か、星を見ることは終ぞ叶わなかった。じっとりとした暗闇が、天を覆い続けていた。
外に向かって手を伸ばそうとすると、背後から伸びる手が七海を引き倒し、五条は再び七海の上に跨がった。その繰り返し。あの部屋にはきっと今でも、七海と五条の熱が残っているだろう。
「……を考えているの、七海」
ふと現実に戻ると、目の前の五条が七海の顔を覗き込むように上半身を屈めていた。
「なにをかんがえているの、ななみ。おーい、聞こえてる?」
改めて突きつけられる、五条の美しい顔。なめらかに輝く頬、すっと通った鼻筋。赤い唇が脂で光っていた。
「……聞こえていますよ。失礼な人ですね。……あの部屋のことを、少し思い出していました」
「あの部屋?」
「私たちが引き払った」
ああ、と五条は気が抜けたように息を吐き、わざとらしく唇を尖らせてみせた。漬物を口に放り込み咀嚼する。
「狭いし暑いし電車の音はうるさいし、その上エアコンの効きは悪いし、すごい部屋だったね。僕あの部屋のこと一生忘れないよ」
「アナタが調達してきたのによく言いますね」
「今日からの宿は涼しいはずだから期待していいよ」
「せいぜい期待せずについていきます」
「いい子だね、七海はさ。文句も言わずに」
「言ってもアナタが聞いていないだけでしょう」
「もう少し我儘言ってもいいんだよ?」
「……そう、ですか」
――そこでなにかを言おうとして、七海はためらった。なにを言いたかったのだろう、と七海は思わず己の胸に問いかける。
五条は考え込んだ七海を前にして、人の行き交う通りへ顔を向け、沈黙した。
遠くから、金属の鳴る音がする。それらの甲高い音はやがて鈴と銅鑼の音になり、太鼓の低音も混じり始めた。
七海は音の生じている方向に耳を澄まし
「なんの祭りでしょうね」
と五条に問いかける。
五条は押し黙ったままテーブルに載った料理の残りを片端から食べ始め、すべての皿を空にしたところで会計のために店員を呼んだ。
くちくなった腹を抱え、道の途中で杏仁のソフトクリームを購入したりしながら――五条が頼んだものは芒果のソフトクリームだったため、「杏仁味も食べてみたい」の一言により、七海のそれを半分ほどほぼ無理矢理譲り渡すことになった――、七海と五条は徐々に街外れへと向かっていた。水に濡れた石畳に街灯が反射している。七海の革靴が、水たまりを踏み水飛沫をあげた。
七海は足元に広がる水の表面を眺め、次いで空を見上げた。地上で明々と灯る照明が作用しているのか、漆黒の空から星灯りを捕まえることは叶わなかった。
五条は道の途中から言葉を発しなくなり、ふたりは黙々と暗闇を進んでいた。七海は不安を抱き、思わず声をかける。
「五条さん、本当にこの方向であっているんですか。宿もなさそうですが」
「……ん? 大丈夫だって、この五条さんに任せなさい」
「不安しかないのですが……」
そう呟きながらも五条の広い背を追い、乾いた質感の塗り壁が続く路を通り過ぎた。
「ほら、見える? 七海。あそこが終点だよ」
はじめ、霧の中にぼうと浮かんでいるのは光だと思った。唐突にふたりの前に現れた昏く巨大な山には霧がかかり、山腹に光が浮かんでいるのだと。
だが五条が光へ向かって伸びている坂道を歩き出すと、おもむろに霧が薄まり、山肌を刻むように築かれた街並みが上空に姿を現した。光の街は、近づくにつれ家々の軒先にぶら下がる数え切れぬほどの吊灯籠の姿を露わにする。
橙色の灯りが街の周囲を曖昧な光で照らしていた。
街に入る坂道を抜け、建物の間に伸びた細く険しい石造りの階段を、五条は登り始めた。彼は時折七海を振り返り、自身のあとを追う存在を確かめる。
「大丈夫? 七海。手を繋ごうか」
「アナタ、この街へ来てから随分と私を甘く見ていますね」
「そんなことないって」
そう言って口元を綻ばせた五条は、安全のためさ、と七海の手を取った。霧に浮かぶ光の中へ、七海も五条と共に足を踏み入れる。
ふたりの足音だけが街に響いていた。
まるで昼の街かと錯覚しそうなほど明るいのに、人影はひとりも見かけない。一面に並んだ窓は固く閉ざされ、ひとつも開かれていなかった。人々の生活音もなく、街は静まり返っている。
ふと、乾いた音がした。
「……五条さん、先程の音は」
「ああ」
五条は橙色に染まった白髪を揺らめかせながら背後を振り返り、七海を見下ろした。
「彼の足音だろうね」
五条が長い指を伸ばした先には、うらぶれた犬の姿があった。
霞んだ象牙色の階段の踊り場に、犬が一頭立っていた。くすんだ淡い茶色の身体に、黒く染まった鼻先と爪先。尻尾の先だけ純白色をしていた。
彼はすっと顔を上げ、細長い面でふたりを見た。漆黒の瞳は光を吸いこむ材質でできているかのように、底の見えない作りをしている。感情を窺うことはできなかった。
犬はふたりを先導するように鼻先で上空を指し、幅が細く険しい階段を易々と駆け上がる。
「……行こうか」
五条は穏やかな口調で、七海を促した。五条の大きな身体の横から、時折犬の尾の純白が覗く。
突拍子もない方向へ幾度も折れ曲がる、足場の悪い象牙色の階段を無心に上る。階段と階段の間に作られた小さな空間を通り過ぎるような、ふとした瞬間、犬の全身が見えた。いつの間にか、彼には薄明るい光を纏った純白の犬が付き添っていた。
「あ、ここだね。ここが僕たちの今日からの宿」
五条は一件の家の前で足をとめた。
年季の入った木造の建物の窓枠は鮮やかな赤色で塗られ、瓦屋根の上には青銅の龍が鎮座していた。龍の眼はまるで生きている動物のようにぎらぎらと光り輝いている。龍がぎろりとふたりを睨み下ろした気がして、七海はたじろいだ。
「ここですか? 確かに建物は大きいですけど、屋号も何も……」
七海のためらいも気にせず、五条は平然と引き戸を開けた。吊灯籠の橙色が照らす玄関を通り過ぎ、そのままずんずんと廊下の奥に進んでいく。
「ちょっと、五条さん。ああ、受付は……」
「済んでるから大丈夫だよ。気になるなら名簿を見れば」
七海は思わず、艶めく一枚板のカウンターの上に載った宿泊名簿を見遣った。人のいない受付にぽつんと載せられているそれは、深い色の厚紙が表紙で、背は丈夫そうな糸で綴じられている。
「そんなことできる訳ないでしょう」
七海は困惑した状態のまま耳の後ろを指で掻き、腹を括って五条のあとを駆け足で追った。
五条はある一室の前で足を止め、迷わず扉を開けた。部屋の中から、焚かれた白檀の香りが仄かに漂う。
「本当にここが私たちの部屋なんですか?」
「そうだよ。灯りを見ればわかるでしょ」
「あかり……?」
七海は疑念を抱いたまま部屋の入り口に吊された電灯を確かめた。磨り硝子で覆われた照明は、変哲のない白色の灯りだった。部屋の番号などを示す記号なども刻まれていない。
「五条さん……」
「うわっ、みてよ七海。シャワーの出が全然違う。すぐ熱くなるし。ここ天国だよ。お湯バスタブに溜める? ふたりで入る?」
「入りません。アナタね」
七海は溜め息を吐き、部屋に入って出入り口の扉を後ろ手に引いて閉めた。
七海は濡れた髪をタオルで拭いながら風呂へと続く扉を閉じた。花の香りが全身を包む。夜市の雑多な匂いと、宿にくるまでの階段でかいた汗を流すことができ、七海は生き返った心地がした。
ふたりが風呂に入ったことで、部屋には柔らかな湿気が満ちていた。
部屋は広い板張りの一室で、手前に革張りのソファが、中心には絹のカバーで包まれたベッドが置かれていた。窓際には木製の机と椅子があり、茶道具が載っている。部屋の隅には湯を沸かすための電熱器があった。
ベッドに腰かけると、かすかに木の軋む音がした。先に布団に寝転んでいた五条が、七海に手を伸ばす。バスローブを身にまとった彼は髪をおろして目隠しも外しており、透き通った青色の眼で七海を捉えた。
「七海、きて。いい匂いがする」
「アナタもきっと同じ匂いですよ」
七海は上半身を屈め、五条の首筋に鼻を埋めた。五条の両腕が七海の背を抱え、ベッドへ引きずりこむ。
「ん……」
七海は横たわる五条の上に覆いかぶさり、彼の腕に包まれた。風呂に入って上昇した体温が混じる。五条の鼓動を頬で感じる。彼の指が、少し湿った金髪を梳いた。
「キスしたい。もう少し上に、七海」
五条の声に導かれ、七海は身を起こした。ヘッドボードの方向へにじり寄り、五条の唇に己の唇で触れる。
いつからだろうか。七海は心のうちで思った。
私はいつから五条さんのことがこんなに好きだったのだろう。
五条の手が七海のバスローブの裾を割って侵入する。彼の掌が太腿を撫でる鮮烈な感触に背筋が震えた。
始まりは高専だった。五条の横顔を、後ろ姿を見る度に抱いた胸の焦げつくような感情の名を知らなかった、若い日々だけを憶えている。
一度道が分かれ、再び出会ったとき、私たちはすっかり大人になっていた。じれったい駆け引きに果てしないほどの時間がかかったようで、実は呆気なかったような気もする。結果、私たちは互いに特別な思いを抱いていることを認め、互いの個人的な領域に侵入することを許しあった。
「考え事? 余裕だね七海」
「う、あっ……」
五条の手が七海の性器に触れ、やわく揉んだ。下着は最初からつけていない。
眼前にあるがっしりとした肩に縋りつき、七海は背を丸めた。だが五条の悪戯な手は、あっという間に七海から離れてしまう。
「あ、五条、さ……」
懇願する口に、五条は食らいついた。温かで少し乾いた唇が七海の唇を食み、音を立てて離れては再び重ねられる。舌が触れ、深く絡み合う。
五条の舌は七海の口腔を余すところなく辿り、その体温で七海を甘く溶かしていく。口で生まれた蜜のような快楽が身体の内部を伝い落ち、腰の中心でわだかまっていた。
ちゅ、と音をさせ離れた五条の唇は、互いの唾液で妖しく光っている。
五条は身体を起こすと、容易く七海をベッドに組み敷いた。仰向けになった七海の重い左足を軽々と片手で支え、左手でバスローブの紐を解く。
己の身体のすべてが露わになっている事実に七海は羞恥心を抱き、身を捩った。何度経験してもこの瞬間に慣れることはない。
「七海はどこもかしこも可愛いよね。ほら、ここも」
五条はそう囁きながら、持ち上げた七海の膝の内側を強く吸い上げた。
「っ、……趣味が、悪いですよ。こんな武骨な、ただの男に」
「なんで~? 事実じゃん」
五条はにやけ顔もそのままに、七海の脹脛へ唇で痕を残していく。毎日抱かれてはその度に痕を残されるものだから、七海の身体から五条の印が消える日がない。
「ふ、あっ――」
押しつけられた舌で、足の甲を舐められる。生温く湿った感触が肌を這いずり、七海の背筋が逆立った。身体の末端で五条を感じるたび、全身の体温が一度ずつ上がっていく心地がする。
五条の手が七海の指に絡み、シーツの上に両腕を縫い留める。唇で様々な場所を辿りながら、五条は七海の肌を堪能していた。肌に唇が吸いつく音が響くたび、七海の肌がちりちりとかすかに痛む。触れあうことで熱を持ち赤くなる七海の身体には、これまでの人生で刻まれてきた傷跡が浮かび上がる。その痕をひとつひとつ確かめるように五条は唇を押し当て、己のつける痕で上書きしていくのだ。
「ごじょ、さ……」
「ん~?」
七海は枕に顔を埋め紅潮した目元を隠しながら、己を拘束する五条の手を振りほどいた。
「私が……その、アナタの、これ」
五条の性器へと手を伸ばす。それはゆるく勃ちあがり、身体に渦巻く欲を主張している。
「舐めますから、上からどいて――あっ、」
五条はぺろりと七海の唇を舐め、笑みを浮かべた。
「それはまた今度ね」
ああ、と七海は思った。今日は「支配的」な五条さんの日、だ。たまにこんな日がある。七海に許される振る舞いは五条の求めに応じ、甘い鳴き声を発するだけの生き物になる夜。
――けれど、たまに訪れるその時を、ひっそりと七海が愛していることもまた、五条は知っているのかもしれない。
七海は全身の力を抜き、五条に身を委ねた。首筋を彼に晒し、愛をねだる。
降参し急所を晒す獲物を前にして、五条は機嫌よく喉を鳴らした。七海の胸に頬を擦りつけ、鼓動に耳を澄ませる姿は、狩りを済ませた小型の肉食獣のようだ。けれど同時に、どこか頼りない姿にも思えた。
「時々思うんだ」
「なにをです」
「この心臓を取り出して、僕のものにできたらどんなに幸せだろうって。でもその直後に、そうしたらその時にはもう七海が生きていないって気づいて絶望するんだ。僕はどっちが幸せなんだろう。七海の心臓を手に入れた僕と、七海の心臓を手に入れられない僕と」
「……心臓ってそんなに欲しいですか」
「七海のものは全部ほしいよ。七海を構成するものは全部ほしい。髪の毛の一本でさえね」
拗ねた声を出す五条の頭頂部を眺め、七海はそこに口づけを贈った。
「生きている間は、まあ髪くらいしか差し上げられませんが、私が死んだら心臓でもなんでも勝手に持っていってください。今のところは、こうして私が抱かれるだけで満足してくださいませんか」
五条はばっと顔をあげ、不思議そうな表情を浮かべてみせた。
「満足?」
「ええ」
「それじゃ足りないと思うな。七海を抱けるの、満足とか幸せとかそんな次元じゃないから」
「次元……」
「七海も見れたらいいのにね。僕の身体を開いてさ、七海を抱いてるときの僕の内側を見るんだ。きっと吃驚すると思う」
「少々不気味なので遠慮しておきますね」
「残念」
五条は少年のような邪気のない笑みを浮かべ、七海の手の甲に口づけた。
「じゃあその代わりいっぱいセックスしようね」
「結局そこですか」
呆れた七海は、右足で軽く五条の身体を蹴飛ばした。七海の蹴りに、五条の身体はびくともしない。きっと彼にとっては子猫にじゃれつかれたようなものなのだろう。
「悪戯っ子にはお仕置きだ」
五条は冗談めかして七海に覆いかぶさり、おもむろに臍へ齧りついた。
「あっ、ちょ、五条さん、なにを……」
唐突に腹の中心へ与えられた感触に七海の毛が逆立つ。五条の舌が七海の臍を抉り、舐る。じゅ、と半ば七海に聞かせるために立てられた音に、七海の全身が震えた。思わず膝を立て、シーツを蹴る。伸ばされた五条の右手が脛を撫で下し、宥めるように数度肌を叩いた。その間も五条は臍へ舌を突き入れてしゃぶり、じゅう、と吸いつく。
「そんな、汚い、やめてください……!」
は、は、と荒い息が漏れる。身悶える七海を押さえつけ、七海の腹に唇を当てたまま五条が言葉を発した。熱い息が肌に吹きかかる。
「洗ったでしょ? 綺麗だよ。それにいい匂いがする」
「あ、そんなことっ……、うっ」
舌が凹みをなぞり、奥に差し込まれる。汗が全身から噴き出ていた。こめかみを伝う水滴が目に入り、粘膜に染みる。七海はのけ反り、両膝を閉じようとした。
「やめてくださ、あっ……そこ、ばかりっ……」
「ん~? でも気持ちいいよね? ほら」
五条の掌が七海の性器を握る。すっかり硬直したそれは先端に雫を滲ませ、頼りなく震えていた。
「あっ……!」
「そうだな、他がいいなら」
起き上がった五条の両腕が七海の膝裏を掬い上げ、両足を膝で折りぐっと押し込んだ。身体を二つに折り曲げられるような格好にさせられた七海は顔を赤く染め、シーツをがむしゃらに掴んだ。足をばたつかせ、顔を横に振る。
「嫌、嫌です五条さんこんな、」
「言ったじゃん、『お仕置きだ』って。それに七海、これ嫌だけど大好きだもんね」
秘所を突き出す格好になった七海のなめらかな尻を、五条の舌が這う。そして最奥に唇が触れ、粘膜の露出した部分を、ちゅう、と吸い上げられた。
「あっ、あ――っ! や、んん」
ふっ、ふう、ふうと呼吸を繰り返す。恥ずかしさのあまり目尻に涙が浮かんだ。七海は枕の生地を噛みしめ、固くシーツを握りしめながら、五条の舌の動きに耐えた。
濡れた軟体は七海の最奥の表面を舐め、後孔を根気強くふやかしていく。ぴくり、と縁が震え、徐々に口を開いていく七海の正直な反応に、五条は小さく含み笑いをした。七海は羞恥に身を竦め、無理矢理上げさせられている足を震わせる。足先が攣る一歩手前の痛みを訴えていた。
尖らせた舌先が、奥をつつく。ぐじ、と舌は容易く体内に侵入し、内壁を舌先で甘く愛撫する。じゅぶじゅぶと敏感な場所に舌が出し入れされるたび、七海の背筋に微弱な電流が走り、五条から与えられているのは確かに快楽なのだと教えてくる。
「んん、あっ……!」
七海の性器は硬く勃ちあがり、物欲しそうにたらたらとカウパーを溢していた。
「はあっ、あ、五条さん、いつまでそんなっ」
七海は身を捩って抗い、手を伸ばして五条の左手首を掴んだ。
「ははっ、七海のここ、口でしただけでこんなにトロトロ。気持ちよかった?」
口元を腕で拭いながら身を起こした五条に対し、七海は深々と溜め息を吐いてみせた。
「最悪な気分です……酷い人だ」
五条は不敵な笑みを浮かべ、七海の顎を片手で掴む。
「そんな蕩けた顔をしてよく言うよ」
七海は顔を振り、五条から逃れるようにベッドの上にずり上がった。
「まだまだこれからだよ」
「もう少しノーマルなプレイにしてください」
「十分ノーマルだって。でもまあ、大丈夫。七海ケツ出して。ローションで解してあげる」
はあ、と七海は息を吐いて仰向けになり、両膝を立てて足を開いた。足の間に陣取った五条は透明なボトルから粘度の高い液体を掌に垂らし、擦りあわせることで液体を温めた。
ぬめりをまとった長く節ばった指が、七海の後孔にあてがわれる。先程まで散々舌で解されていた最奥は抵抗なくくぱりと口を開け、五条の指を誘った。
差し込まれた指の異物感に、七海は顔を顰める。だがこの感覚は直ぐに霧散して消え去ることを、これまでの経験から知っていた。
指は七海の腹の内側にある一点をコリコリと指の腹で引っ掻いたあと、一度抜き出され、再度訪れたときには指は二本に増えていた。
「ふー、ふっ、ああ……」
七海は熱に浮かされ蕩けた眼差しで、己を勝手気ままに翻弄する五条を見上げた。美しい顔だ、何度見ても、と心で感嘆の声を漏らす。五条の持つ、肉体の造形だけではない美しさは、いつも七海の心に染み入り、魂の深い部分を揺らめかせる。
「七海、どれがいい。後ろからガンガン突こうか? 前から優しく抱いてあげようか? 横からオマエの好きなところをたっぷり擦る?」
どくどくと脈打つ心臓が煩い。熱を持つ頭を冷やしてくれるシーツが酷く心地よかった。七海は手を伸ばして五条の頬を掌で包む。彼も七海との交情で熱を持っていることを、汗ばむ肌が教えてくれた。
「アナタの顔を見ていたい。……正面から、お願いします」
「了解」
「そのあと、後ろから思い切り突いてください。アナタの好きなように。今夜、私はアナタに、滅茶苦茶にされたい」
五条の真っ青な瞳の中心にある、黒い瞳孔がじわりと拡大した。彼がこれ以上ないほど興奮した証だと、きっと付き合いの深い七海だけが知っている。
「欲張りな七海、僕は嫌いじゃないよ。大好きだよ。全部しようね。全部してあげる。オマエのこと、滅茶苦茶にしてあげる」
五条の性器はその身体に見合った大きさまで膨張し、高く天を指していた。七海は両足を広げ、彼を受け入れる体勢を取った。
五条が七海の足を支えながら、亀頭を七海の後孔に押しつける。七海の孔は期待にひくつき、触れた部分はまるで体内へと誘うように収縮した。
ぐぐ、と先端が体内に侵入する。身体の奥に生じる慣れた圧迫感に、は、と七海は息を吐いた。
ぬめりに助けられ、性器はずるりとその身を肉壁の中にすべておさめた。七海の内側は柔らかく溶けだし、ちゅう、と吸いつくように五条の性器を包む。
「やっべ、すごい気持ちいい。持ってかれそう」
五条が眉根を寄せ、苦しそうに呻いた。
竿を引き絞り、亀頭にキスするようにまとわりつく七海の内側にしばらく留まっていた五条は、やがてためらいなく性器を引き抜いた。
「ひっ……!」
七海の背骨を電流が走り、反射的にのたうつ。
五条は一度性器をすべて出すと、再び性器の出っ張った部分だけを七海の中におさめた。収縮する孔にくぽりと先端を押し込んでは浅く前後させ、抜き去る。何度か繰り返されたその動きが与える快感に耐え切れず、七海の身体が痙攣した。口が勝手に開き、涎が滲む。嬌声が終わりなく漏れた。七海の後孔は柔らかく縁を開いて訪いを悦んでは、名残惜しそうに去っていく亀頭の先端へまとわりつく。
ぐぽぐぽと音をさせて性器の先端を浅く出し入れさせていた五条の額には汗が浮かび、雫が顎まで一筋流れ落ちた。
「あぁ、ぐっ……! んん、あ、ふうっ」
七海は五条の二の腕を掴み、五条の背に両足を回した。
「ああ、ごじょ、五条さん、奥も……っ、」
「奥もしてほしい?」
七海は何度も頷き、お願いします、と掠れた声で呟いた。汗に濡れて束になった金髪の先端から水滴が飛び散る。
「――っ!」
一息に置くまで突き入れられ、七海は歯を食いしばりながらのけ反った。ぎゅ、と足の指が丸まる。
「五条さん、……あ、ごじょ、さ」
「おいでっ、七海。ほら」
七海は促されるまま両腕を五条に回し、彼の肩に歯を立てた。ぐちぐちと性器が出入りすると生じる熱を持て余し、彼の背中に爪で傷を作る。
歯を立てる。爪で肌を引っ掻く。そうした振る舞いを五条はすべて許す。かわりに七海は己の身体の最も深いところまでを五条に明け渡し、夢中で喘いだ。五条の腰が打ちつけられるたび、彼の茂みが肌を刺激する。
汗で全身が濡れそぼっていた。熱くて仕方なかった。茹だった頭で、身体で、ただ五条の体温だけを感じていた。
いつか彼に与えられる快楽で、この身は溶け落ちてしまうのかもしれない。
「七海……」
五条が苦し気に呼び、口づける。互いの口を貪りながら、七海は広い背中に腕を回した。
この瞬間が好きだ。ふたつの肉体が交わり、熱に浮かされたふたりが一体になれるのではないかと錯覚するとき。
七海は五条の魂の、最後まで冷えている部分へ、触れられる気がする。手を伸ばし、指先でそっと触れる。愛しい男の、最もやわい部分を抱き、慎重に包み込むために、七海は頬を寄せた。
***
潮の香りがする。むっと顔に温風が打ちつける。
足首まで温い水に浸かっていた。水はまるで意志をもっているかのように七海にまとわりつき、時折白波を打ちつけた。
「ああ……」
ようやく来られたのだと七海は思った。いつかこの地に住みたいと願った場所へ、私はようやく来られたのだと。
一歩前に足を踏み出した。波が笑うようにさざめき、いざなうように絡みついた。
風が頬を撫でる。もう一歩、と願う七海の腕を誰かが掴んだ。
『駄目だよ。行っては駄目』
「どうしてですか」
七海は俯き、問いかけた。
『どうして?』
「どうして行かせてくれないんですか。……五条さん」
は、と意識が覚醒した。
七海は目を瞬かせ、周囲の様子を探った。身体を包む布団、汗ばんだ全身、七海に絡みついて寝ている五条。
はあ、と深く息を吐き、七海はそっとベッドから身を起こした。床に落ちていたバスローブを身にまとい、窓際の椅子に腰かける。
電熱器ではしゅんしゅんと湯が沸いていた。
机の上にあった茶器を手に取り、茶壷に湯を注ぐ。茶海に湯を移し、茶葉を茶壷に入れ、湯を注ぎ、茶壷にも上から湯を回し掛けた。しばし待ち、茶を聞香杯に入れ、茶杯に移す。
茶の馥郁たる香りを楽しんでいると、遠くから音が響いた。七海は窓の外に視線を遣る。深い闇の支配する外から、ざわめきが聞こえてきた。
音は次第に街へ近づき、その輪郭が明瞭になる。
鈴だ、と最初に思った。鈴がしゃんしゃんと鳴らされている。やがてそこに鐘が重なり、銅鑼、太鼓が賑やかな低音を奏でた。
身を乗り出し、七海は窓の外を窺う。
橙色の灯りが、山の方向から街へ行列を作っていた。
窓の外から人の歓声がする。つられて、七海も窓の鍵を開けた。木製の枠に嵌まった硝子の窓を押して開くと、冷えた夜風が部屋にどっと流れ込んだ。
この街に来た時固く閉ざされていた家々の窓は、すべて外に向かって開かれていた。行進は街の家々の間を進む。
最初に見えたのは、犬と子供だった。七海と五条を先導した犬が道を駆け抜け、そのあとを赤い服を着た子供がふたり、静々と前に進む。子供たちは白く塗られた仮面を被っていた。
そのあとを、大人たちが進む。色とりどりの装束を纏い、異形の仮面を被って吊灯籠を手から下げ、無言で道を歩んでいく。
行進にはいつからか、異形の者たち、呪霊が混じり始めた。様々な姿かたちをした呪霊が列を作り、人間と混然一体となって灯りに包まれ、行進する。狭い階段にみっしりと詰まり、街を下りていく。
その様子に魅入られ、窓から身を乗り出した七海を制する人間がいた。
「駄目だよ、七海」
「……彼らはどこへ行くのでしょうか」
「下の街へ行くのさ。街の中心部へね。歓待されるんだよ、食べ物を与えられ、束の間の遊びを楽しむんだ」
彼らは山から現れたのか、と七海は黒い影と化している山を見上げた。どっしりと聳える山には深く霧がかかり、木々の先端から細く白い靄がたなびいている。
五条は外に夢中になる七海を室内に押し戻し、硝子窓を閉めた。固く鍵を閉じる。
すっと表の喧騒が遠のいた。
「引き込まれてはいけないよ、七海。連れていかれるからね」
七海は背後を振り返った。裸のまま床を足で踏みしめ、すっくと立っている五条がまるで知らない人間に思える。部屋の景色が水晶玉を覗いたかのように歪む。
「おいで、七海」
もしや私は神とまぐわったのではないだろうか、と七海は錯覚した。けれど七海が愛する男は神のごとき強さをその身に秘めていても、体温があり血の巡るただのひとりの人間であると、七海は深く知っていた。
「……私たちは、これからどこに行くのでしょうか」
「どこへでも行けるよ、どこに行きたい? だけど、」
だけど
「海を渡ってはいけないよ、七海。海だけは渡っちゃいけない」
これは。
――これは、私が見ている夢ではないだろうか。
七海はふとそんな思いに捕らわれた。五条の瞳を真っ直ぐ見つめる。五条は柔らかな笑みを浮かべ、その視線を受け止めた。
「私は、ここに来る前、……アナタから逃げていた気がする」
五条は首を傾げ、おかしそうに笑った。
「そうだろうね、だって僕は七海がどんなに嫌がっても逃がさないから。どこにも、逃がさないから」
五条が七海の手を取る。指が絡む。彼の手は鎖だ。七海を捕らえて離さない。
――ああ、私は二度とこの街から出られないのかもしれない。
七海が抱いた予感はひどく甘く、七海の奥深くに眠る魂を静かに羽ばたかせた。
窓の外を流れていく夜景を眺めていた。柔らかな色をした家々と商店の灯りが現れては過ぎ去っていく。
七海が乗っているタクシーは街に張り巡らされた複雑で細い道を器用に泳ぎ、七海と五条を目的地まで運んでいた。
ふと、隣に座る五条の指先が七海の手の甲に触れた。馴染んだ肌の感触に首筋が騒めく。振り返ると、五条はすっと背を伸ばした姿勢を保ちながら正面を向いていた。指先だけを動かし、七海の手をあまやかな体温で包む。
指を絡め返し、七海は五条の掌を握る。互いのぬくもりが混じりあい、一体となる。このような一体感を抱くようになったのはいつからだったろう、と七海は考え、再び窓の外へと視線を遣った。
車は店と人々が密集する市の手前で止まった。五条が金を払い、ありがとう、と現地の言葉で言う。
車から降りた七海と五条を、賑やかな軽装の男女の団体が追い越していく。五条がまるで七海を守るように、七海の身体を己の方に引き寄せた。
「お気遣いいただかなくても大丈夫ですよ」
「そう? でもなにがあるか分からないし、あまり僕から離れないでね」
そう言いながら、五条は七海と手を繋いで歩き出した。
随分と過保護なひとだ、と七海は内心で溜め息をつく。
この人は以前からこのような振る舞いをしていただろうか。この街へ来てから、顕著になった気がする。
五条は人々の間をすり抜けるようにして歩く。置いていかれないように、七海もその後を追った。
砂糖菓子の店の店頭に、様々な形をした色とりどりの飴が棒に突き刺され並んでいる。熊を模ったひとつは、奇妙な笑みを顔に浮かべていた。濃くむわりとした甘い香りが七海の鼻腔を襲う。
プラスチックのカップに入った極彩色の液体を、人々は喜んでストローで吸っている。生クリームの乳白色、果物の赤色、カステラの焦茶色。若い女性が密集している化粧品店。鞄が籠一杯に積まれた鞄屋。
五条は大通りを進んだあと、靴と雑貨が山積みになっている店舗がある角で脇道に逸れ、隣の通りに入った。前を行く五条の白くなめらかな首筋を視界に収めながら、七海も足を進める。だがある店の前で七海は違和感を抱き、足をとめた。五条もつられて立ち止まる。
「どうしたの?」
仮面が、と七海は掠れた低音で言った。
灯りの乏しい木造の店には、壁一面に様々な仮面が飾られていた。粗く木を削り顔を彫っただけのもの。白く塗られた肌に濃い影が落ちている。精巧に動物の顔を模ったもの。猿が目を細めていた。異形を表したもの。眼球が幾つも彫られている。呪術に用いられるであろうもの。残穢が店頭まで流れ落ちている。
「……行こう、七海。それは僕たちに必要ない。ただ祭りが近いだけだ」
七海を半ば引き摺るようにその場から離れさせた五条はやがて、とある食堂の前で足をとめた。
明々と灯りをともす周囲と比べて、店内は照明が絞られ薄暗かった。道路まではみ出ている机と椅子に五条が腰かける。倣って七海も腰を下ろすと、店内からメニューを持った店員が音もなく現れた。
注文をする五条の傍らを、半ば叫ぶように声を発し騒ぐ青年の集団が通り過ぎた。くたびれ、踵の踏みつぶされたスニーカーが幾つも道路を踏みしめていく。
「五条さん、お酒もお願いします」
「はいはい」
五条が何事かを店員に告げる。店員は頷き、注文内容を大声で繰り返しながら店内に戻った。
表面に汗をかいた缶ビールと缶入りの茶が並ぶ。プラスチックの机の上に、缶の底の形をした水の跡が残っていた。
七海は牡蠣と青菜の炒め物をつまみながら、ビールを呷った。苦味と華やかな香りが鼻を通り、炭酸が弾けながら喉をすべり落ちる。牡蠣は滋味に溢れ、絡められた黒酢と相まって無限に食べられそうなほど美味だった。
五条は黒い半袖のシャツに黒いパンツを穿き、目隠しをしている。その奇妙な出で立ちに人々から奇異の視線を向けられてもよさそうなものだが、この街の人々はまるで大柄な七海と目隠しをした五条が見えていないかのように振る舞い、ふたりが人々から注目をあびることはなかった。
当の五条は甘く煮つけられた豚肉で山盛りの白米をかきこみ、
「なにを食べても美味しい」
と、締まりのない笑みを浮かべてみせた。
「今日までの食生活があまりにもいい加減だったんですよ。というか、生活が適当すぎた」
「でも楽しかったでしょ? 満更でもなさそうだったし」
「アナタねえ……」
七海は唐辛子と香草の浮かぶだし汁から殻つきの海老を取り出し、殻を剥いた。濡れた指先を拭うもの、と周囲を見渡した七海の手を五条が取り、液体の滴る指先をぺろりと舐める。
薄く開かれた唇の間から赤い舌が覗き、生き物のように蠢く。
「……うわ、からい」
「唐辛子が見えませんか」
「ほんとだ」
五条は眉根を寄せ、あとでデザート食べようよ、専門店で、と言った。
七海と五条は部屋を引き払ったばかりだった。この街に着いた当初に住み始めたのは、下町の、防犯のために窓に鉄柵がつけられた小さな一室だった。近くには駅があり、ひっきりなしに電車が行き交う音と振動が響いていた。
そこで七海と五条は毎日交わっていた。乱れたベッドの上で、汗をかきながら、朝も夜も問わずにただ互いを求めた。
五条の規則正しく並ぶ背骨の形を、七海はありありと思いだせる。上品な形をした踝の硬さも、ひそやかに息衝く耳殻の曲線も。彼自身に最奥を突かれてこの身が溶け落ちてしまいそうな悦楽も。
あの部屋ではエアコンの動作音に紛れて、吐息と喘ぎ声が果てなく発せられていた。腕と足を絡ませ、ほどいて水を飲み、冷蔵庫から適当に取り出したものを口にいれ、再び絡み合う。
互いに、口づけていない場所など身体のどこにもないだろう。五条に至っては、七海の体内についてまで詳細に知り尽くしている。
交わることに疲れ果てて半ば意識を失うように眠りについたとき、七海は夢の中でいつも同じ場所に立っていた。暗闇のなかで、足は生温い液体に浸かっている。潮の香りがし、時折柔らかな波が脛に打ちつけられた。一歩踏み出そうとすると、背後から五条の声が囁く。
『駄目だよ。行っては駄目』
そこで目が覚める。目が覚めるのは決まって夜だった。
汗の染みた布団から七海はうっそりと這い出て、窓硝子に頬を押しつけ、鉄柵越しに街の様子を眺めた。自転車に乗った女性が荷物をぶら下げながら通り過ぎていく。家々やビルには煌々と明かりが灯っていた。真白色の、或いは橙色の四角い光が暗闇に浮かぶ。その所為か、星を見ることは終ぞ叶わなかった。じっとりとした暗闇が、天を覆い続けていた。
外に向かって手を伸ばそうとすると、背後から伸びる手が七海を引き倒し、五条は再び七海の上に跨がった。その繰り返し。あの部屋にはきっと今でも、七海と五条の熱が残っているだろう。
「……を考えているの、七海」
ふと現実に戻ると、目の前の五条が七海の顔を覗き込むように上半身を屈めていた。
「なにをかんがえているの、ななみ。おーい、聞こえてる?」
改めて突きつけられる、五条の美しい顔。なめらかに輝く頬、すっと通った鼻筋。赤い唇が脂で光っていた。
「……聞こえていますよ。失礼な人ですね。……あの部屋のことを、少し思い出していました」
「あの部屋?」
「私たちが引き払った」
ああ、と五条は気が抜けたように息を吐き、わざとらしく唇を尖らせてみせた。漬物を口に放り込み咀嚼する。
「狭いし暑いし電車の音はうるさいし、その上エアコンの効きは悪いし、すごい部屋だったね。僕あの部屋のこと一生忘れないよ」
「アナタが調達してきたのによく言いますね」
「今日からの宿は涼しいはずだから期待していいよ」
「せいぜい期待せずについていきます」
「いい子だね、七海はさ。文句も言わずに」
「言ってもアナタが聞いていないだけでしょう」
「もう少し我儘言ってもいいんだよ?」
「……そう、ですか」
――そこでなにかを言おうとして、七海はためらった。なにを言いたかったのだろう、と七海は思わず己の胸に問いかける。
五条は考え込んだ七海を前にして、人の行き交う通りへ顔を向け、沈黙した。
遠くから、金属の鳴る音がする。それらの甲高い音はやがて鈴と銅鑼の音になり、太鼓の低音も混じり始めた。
七海は音の生じている方向に耳を澄まし
「なんの祭りでしょうね」
と五条に問いかける。
五条は押し黙ったままテーブルに載った料理の残りを片端から食べ始め、すべての皿を空にしたところで会計のために店員を呼んだ。
くちくなった腹を抱え、道の途中で杏仁のソフトクリームを購入したりしながら――五条が頼んだものは芒果のソフトクリームだったため、「杏仁味も食べてみたい」の一言により、七海のそれを半分ほどほぼ無理矢理譲り渡すことになった――、七海と五条は徐々に街外れへと向かっていた。水に濡れた石畳に街灯が反射している。七海の革靴が、水たまりを踏み水飛沫をあげた。
七海は足元に広がる水の表面を眺め、次いで空を見上げた。地上で明々と灯る照明が作用しているのか、漆黒の空から星灯りを捕まえることは叶わなかった。
五条は道の途中から言葉を発しなくなり、ふたりは黙々と暗闇を進んでいた。七海は不安を抱き、思わず声をかける。
「五条さん、本当にこの方向であっているんですか。宿もなさそうですが」
「……ん? 大丈夫だって、この五条さんに任せなさい」
「不安しかないのですが……」
そう呟きながらも五条の広い背を追い、乾いた質感の塗り壁が続く路を通り過ぎた。
「ほら、見える? 七海。あそこが終点だよ」
はじめ、霧の中にぼうと浮かんでいるのは光だと思った。唐突にふたりの前に現れた昏く巨大な山には霧がかかり、山腹に光が浮かんでいるのだと。
だが五条が光へ向かって伸びている坂道を歩き出すと、おもむろに霧が薄まり、山肌を刻むように築かれた街並みが上空に姿を現した。光の街は、近づくにつれ家々の軒先にぶら下がる数え切れぬほどの吊灯籠の姿を露わにする。
橙色の灯りが街の周囲を曖昧な光で照らしていた。
街に入る坂道を抜け、建物の間に伸びた細く険しい石造りの階段を、五条は登り始めた。彼は時折七海を振り返り、自身のあとを追う存在を確かめる。
「大丈夫? 七海。手を繋ごうか」
「アナタ、この街へ来てから随分と私を甘く見ていますね」
「そんなことないって」
そう言って口元を綻ばせた五条は、安全のためさ、と七海の手を取った。霧に浮かぶ光の中へ、七海も五条と共に足を踏み入れる。
ふたりの足音だけが街に響いていた。
まるで昼の街かと錯覚しそうなほど明るいのに、人影はひとりも見かけない。一面に並んだ窓は固く閉ざされ、ひとつも開かれていなかった。人々の生活音もなく、街は静まり返っている。
ふと、乾いた音がした。
「……五条さん、先程の音は」
「ああ」
五条は橙色に染まった白髪を揺らめかせながら背後を振り返り、七海を見下ろした。
「彼の足音だろうね」
五条が長い指を伸ばした先には、うらぶれた犬の姿があった。
霞んだ象牙色の階段の踊り場に、犬が一頭立っていた。くすんだ淡い茶色の身体に、黒く染まった鼻先と爪先。尻尾の先だけ純白色をしていた。
彼はすっと顔を上げ、細長い面でふたりを見た。漆黒の瞳は光を吸いこむ材質でできているかのように、底の見えない作りをしている。感情を窺うことはできなかった。
犬はふたりを先導するように鼻先で上空を指し、幅が細く険しい階段を易々と駆け上がる。
「……行こうか」
五条は穏やかな口調で、七海を促した。五条の大きな身体の横から、時折犬の尾の純白が覗く。
突拍子もない方向へ幾度も折れ曲がる、足場の悪い象牙色の階段を無心に上る。階段と階段の間に作られた小さな空間を通り過ぎるような、ふとした瞬間、犬の全身が見えた。いつの間にか、彼には薄明るい光を纏った純白の犬が付き添っていた。
「あ、ここだね。ここが僕たちの今日からの宿」
五条は一件の家の前で足をとめた。
年季の入った木造の建物の窓枠は鮮やかな赤色で塗られ、瓦屋根の上には青銅の龍が鎮座していた。龍の眼はまるで生きている動物のようにぎらぎらと光り輝いている。龍がぎろりとふたりを睨み下ろした気がして、七海はたじろいだ。
「ここですか? 確かに建物は大きいですけど、屋号も何も……」
七海のためらいも気にせず、五条は平然と引き戸を開けた。吊灯籠の橙色が照らす玄関を通り過ぎ、そのままずんずんと廊下の奥に進んでいく。
「ちょっと、五条さん。ああ、受付は……」
「済んでるから大丈夫だよ。気になるなら名簿を見れば」
七海は思わず、艶めく一枚板のカウンターの上に載った宿泊名簿を見遣った。人のいない受付にぽつんと載せられているそれは、深い色の厚紙が表紙で、背は丈夫そうな糸で綴じられている。
「そんなことできる訳ないでしょう」
七海は困惑した状態のまま耳の後ろを指で掻き、腹を括って五条のあとを駆け足で追った。
五条はある一室の前で足を止め、迷わず扉を開けた。部屋の中から、焚かれた白檀の香りが仄かに漂う。
「本当にここが私たちの部屋なんですか?」
「そうだよ。灯りを見ればわかるでしょ」
「あかり……?」
七海は疑念を抱いたまま部屋の入り口に吊された電灯を確かめた。磨り硝子で覆われた照明は、変哲のない白色の灯りだった。部屋の番号などを示す記号なども刻まれていない。
「五条さん……」
「うわっ、みてよ七海。シャワーの出が全然違う。すぐ熱くなるし。ここ天国だよ。お湯バスタブに溜める? ふたりで入る?」
「入りません。アナタね」
七海は溜め息を吐き、部屋に入って出入り口の扉を後ろ手に引いて閉めた。
七海は濡れた髪をタオルで拭いながら風呂へと続く扉を閉じた。花の香りが全身を包む。夜市の雑多な匂いと、宿にくるまでの階段でかいた汗を流すことができ、七海は生き返った心地がした。
ふたりが風呂に入ったことで、部屋には柔らかな湿気が満ちていた。
部屋は広い板張りの一室で、手前に革張りのソファが、中心には絹のカバーで包まれたベッドが置かれていた。窓際には木製の机と椅子があり、茶道具が載っている。部屋の隅には湯を沸かすための電熱器があった。
ベッドに腰かけると、かすかに木の軋む音がした。先に布団に寝転んでいた五条が、七海に手を伸ばす。バスローブを身にまとった彼は髪をおろして目隠しも外しており、透き通った青色の眼で七海を捉えた。
「七海、きて。いい匂いがする」
「アナタもきっと同じ匂いですよ」
七海は上半身を屈め、五条の首筋に鼻を埋めた。五条の両腕が七海の背を抱え、ベッドへ引きずりこむ。
「ん……」
七海は横たわる五条の上に覆いかぶさり、彼の腕に包まれた。風呂に入って上昇した体温が混じる。五条の鼓動を頬で感じる。彼の指が、少し湿った金髪を梳いた。
「キスしたい。もう少し上に、七海」
五条の声に導かれ、七海は身を起こした。ヘッドボードの方向へにじり寄り、五条の唇に己の唇で触れる。
いつからだろうか。七海は心のうちで思った。
私はいつから五条さんのことがこんなに好きだったのだろう。
五条の手が七海のバスローブの裾を割って侵入する。彼の掌が太腿を撫でる鮮烈な感触に背筋が震えた。
始まりは高専だった。五条の横顔を、後ろ姿を見る度に抱いた胸の焦げつくような感情の名を知らなかった、若い日々だけを憶えている。
一度道が分かれ、再び出会ったとき、私たちはすっかり大人になっていた。じれったい駆け引きに果てしないほどの時間がかかったようで、実は呆気なかったような気もする。結果、私たちは互いに特別な思いを抱いていることを認め、互いの個人的な領域に侵入することを許しあった。
「考え事? 余裕だね七海」
「う、あっ……」
五条の手が七海の性器に触れ、やわく揉んだ。下着は最初からつけていない。
眼前にあるがっしりとした肩に縋りつき、七海は背を丸めた。だが五条の悪戯な手は、あっという間に七海から離れてしまう。
「あ、五条、さ……」
懇願する口に、五条は食らいついた。温かで少し乾いた唇が七海の唇を食み、音を立てて離れては再び重ねられる。舌が触れ、深く絡み合う。
五条の舌は七海の口腔を余すところなく辿り、その体温で七海を甘く溶かしていく。口で生まれた蜜のような快楽が身体の内部を伝い落ち、腰の中心でわだかまっていた。
ちゅ、と音をさせ離れた五条の唇は、互いの唾液で妖しく光っている。
五条は身体を起こすと、容易く七海をベッドに組み敷いた。仰向けになった七海の重い左足を軽々と片手で支え、左手でバスローブの紐を解く。
己の身体のすべてが露わになっている事実に七海は羞恥心を抱き、身を捩った。何度経験してもこの瞬間に慣れることはない。
「七海はどこもかしこも可愛いよね。ほら、ここも」
五条はそう囁きながら、持ち上げた七海の膝の内側を強く吸い上げた。
「っ、……趣味が、悪いですよ。こんな武骨な、ただの男に」
「なんで~? 事実じゃん」
五条はにやけ顔もそのままに、七海の脹脛へ唇で痕を残していく。毎日抱かれてはその度に痕を残されるものだから、七海の身体から五条の印が消える日がない。
「ふ、あっ――」
押しつけられた舌で、足の甲を舐められる。生温く湿った感触が肌を這いずり、七海の背筋が逆立った。身体の末端で五条を感じるたび、全身の体温が一度ずつ上がっていく心地がする。
五条の手が七海の指に絡み、シーツの上に両腕を縫い留める。唇で様々な場所を辿りながら、五条は七海の肌を堪能していた。肌に唇が吸いつく音が響くたび、七海の肌がちりちりとかすかに痛む。触れあうことで熱を持ち赤くなる七海の身体には、これまでの人生で刻まれてきた傷跡が浮かび上がる。その痕をひとつひとつ確かめるように五条は唇を押し当て、己のつける痕で上書きしていくのだ。
「ごじょ、さ……」
「ん~?」
七海は枕に顔を埋め紅潮した目元を隠しながら、己を拘束する五条の手を振りほどいた。
「私が……その、アナタの、これ」
五条の性器へと手を伸ばす。それはゆるく勃ちあがり、身体に渦巻く欲を主張している。
「舐めますから、上からどいて――あっ、」
五条はぺろりと七海の唇を舐め、笑みを浮かべた。
「それはまた今度ね」
ああ、と七海は思った。今日は「支配的」な五条さんの日、だ。たまにこんな日がある。七海に許される振る舞いは五条の求めに応じ、甘い鳴き声を発するだけの生き物になる夜。
――けれど、たまに訪れるその時を、ひっそりと七海が愛していることもまた、五条は知っているのかもしれない。
七海は全身の力を抜き、五条に身を委ねた。首筋を彼に晒し、愛をねだる。
降参し急所を晒す獲物を前にして、五条は機嫌よく喉を鳴らした。七海の胸に頬を擦りつけ、鼓動に耳を澄ませる姿は、狩りを済ませた小型の肉食獣のようだ。けれど同時に、どこか頼りない姿にも思えた。
「時々思うんだ」
「なにをです」
「この心臓を取り出して、僕のものにできたらどんなに幸せだろうって。でもその直後に、そうしたらその時にはもう七海が生きていないって気づいて絶望するんだ。僕はどっちが幸せなんだろう。七海の心臓を手に入れた僕と、七海の心臓を手に入れられない僕と」
「……心臓ってそんなに欲しいですか」
「七海のものは全部ほしいよ。七海を構成するものは全部ほしい。髪の毛の一本でさえね」
拗ねた声を出す五条の頭頂部を眺め、七海はそこに口づけを贈った。
「生きている間は、まあ髪くらいしか差し上げられませんが、私が死んだら心臓でもなんでも勝手に持っていってください。今のところは、こうして私が抱かれるだけで満足してくださいませんか」
五条はばっと顔をあげ、不思議そうな表情を浮かべてみせた。
「満足?」
「ええ」
「それじゃ足りないと思うな。七海を抱けるの、満足とか幸せとかそんな次元じゃないから」
「次元……」
「七海も見れたらいいのにね。僕の身体を開いてさ、七海を抱いてるときの僕の内側を見るんだ。きっと吃驚すると思う」
「少々不気味なので遠慮しておきますね」
「残念」
五条は少年のような邪気のない笑みを浮かべ、七海の手の甲に口づけた。
「じゃあその代わりいっぱいセックスしようね」
「結局そこですか」
呆れた七海は、右足で軽く五条の身体を蹴飛ばした。七海の蹴りに、五条の身体はびくともしない。きっと彼にとっては子猫にじゃれつかれたようなものなのだろう。
「悪戯っ子にはお仕置きだ」
五条は冗談めかして七海に覆いかぶさり、おもむろに臍へ齧りついた。
「あっ、ちょ、五条さん、なにを……」
唐突に腹の中心へ与えられた感触に七海の毛が逆立つ。五条の舌が七海の臍を抉り、舐る。じゅ、と半ば七海に聞かせるために立てられた音に、七海の全身が震えた。思わず膝を立て、シーツを蹴る。伸ばされた五条の右手が脛を撫で下し、宥めるように数度肌を叩いた。その間も五条は臍へ舌を突き入れてしゃぶり、じゅう、と吸いつく。
「そんな、汚い、やめてください……!」
は、は、と荒い息が漏れる。身悶える七海を押さえつけ、七海の腹に唇を当てたまま五条が言葉を発した。熱い息が肌に吹きかかる。
「洗ったでしょ? 綺麗だよ。それにいい匂いがする」
「あ、そんなことっ……、うっ」
舌が凹みをなぞり、奥に差し込まれる。汗が全身から噴き出ていた。こめかみを伝う水滴が目に入り、粘膜に染みる。七海はのけ反り、両膝を閉じようとした。
「やめてくださ、あっ……そこ、ばかりっ……」
「ん~? でも気持ちいいよね? ほら」
五条の掌が七海の性器を握る。すっかり硬直したそれは先端に雫を滲ませ、頼りなく震えていた。
「あっ……!」
「そうだな、他がいいなら」
起き上がった五条の両腕が七海の膝裏を掬い上げ、両足を膝で折りぐっと押し込んだ。身体を二つに折り曲げられるような格好にさせられた七海は顔を赤く染め、シーツをがむしゃらに掴んだ。足をばたつかせ、顔を横に振る。
「嫌、嫌です五条さんこんな、」
「言ったじゃん、『お仕置きだ』って。それに七海、これ嫌だけど大好きだもんね」
秘所を突き出す格好になった七海のなめらかな尻を、五条の舌が這う。そして最奥に唇が触れ、粘膜の露出した部分を、ちゅう、と吸い上げられた。
「あっ、あ――っ! や、んん」
ふっ、ふう、ふうと呼吸を繰り返す。恥ずかしさのあまり目尻に涙が浮かんだ。七海は枕の生地を噛みしめ、固くシーツを握りしめながら、五条の舌の動きに耐えた。
濡れた軟体は七海の最奥の表面を舐め、後孔を根気強くふやかしていく。ぴくり、と縁が震え、徐々に口を開いていく七海の正直な反応に、五条は小さく含み笑いをした。七海は羞恥に身を竦め、無理矢理上げさせられている足を震わせる。足先が攣る一歩手前の痛みを訴えていた。
尖らせた舌先が、奥をつつく。ぐじ、と舌は容易く体内に侵入し、内壁を舌先で甘く愛撫する。じゅぶじゅぶと敏感な場所に舌が出し入れされるたび、七海の背筋に微弱な電流が走り、五条から与えられているのは確かに快楽なのだと教えてくる。
「んん、あっ……!」
七海の性器は硬く勃ちあがり、物欲しそうにたらたらとカウパーを溢していた。
「はあっ、あ、五条さん、いつまでそんなっ」
七海は身を捩って抗い、手を伸ばして五条の左手首を掴んだ。
「ははっ、七海のここ、口でしただけでこんなにトロトロ。気持ちよかった?」
口元を腕で拭いながら身を起こした五条に対し、七海は深々と溜め息を吐いてみせた。
「最悪な気分です……酷い人だ」
五条は不敵な笑みを浮かべ、七海の顎を片手で掴む。
「そんな蕩けた顔をしてよく言うよ」
七海は顔を振り、五条から逃れるようにベッドの上にずり上がった。
「まだまだこれからだよ」
「もう少しノーマルなプレイにしてください」
「十分ノーマルだって。でもまあ、大丈夫。七海ケツ出して。ローションで解してあげる」
はあ、と七海は息を吐いて仰向けになり、両膝を立てて足を開いた。足の間に陣取った五条は透明なボトルから粘度の高い液体を掌に垂らし、擦りあわせることで液体を温めた。
ぬめりをまとった長く節ばった指が、七海の後孔にあてがわれる。先程まで散々舌で解されていた最奥は抵抗なくくぱりと口を開け、五条の指を誘った。
差し込まれた指の異物感に、七海は顔を顰める。だがこの感覚は直ぐに霧散して消え去ることを、これまでの経験から知っていた。
指は七海の腹の内側にある一点をコリコリと指の腹で引っ掻いたあと、一度抜き出され、再度訪れたときには指は二本に増えていた。
「ふー、ふっ、ああ……」
七海は熱に浮かされ蕩けた眼差しで、己を勝手気ままに翻弄する五条を見上げた。美しい顔だ、何度見ても、と心で感嘆の声を漏らす。五条の持つ、肉体の造形だけではない美しさは、いつも七海の心に染み入り、魂の深い部分を揺らめかせる。
「七海、どれがいい。後ろからガンガン突こうか? 前から優しく抱いてあげようか? 横からオマエの好きなところをたっぷり擦る?」
どくどくと脈打つ心臓が煩い。熱を持つ頭を冷やしてくれるシーツが酷く心地よかった。七海は手を伸ばして五条の頬を掌で包む。彼も七海との交情で熱を持っていることを、汗ばむ肌が教えてくれた。
「アナタの顔を見ていたい。……正面から、お願いします」
「了解」
「そのあと、後ろから思い切り突いてください。アナタの好きなように。今夜、私はアナタに、滅茶苦茶にされたい」
五条の真っ青な瞳の中心にある、黒い瞳孔がじわりと拡大した。彼がこれ以上ないほど興奮した証だと、きっと付き合いの深い七海だけが知っている。
「欲張りな七海、僕は嫌いじゃないよ。大好きだよ。全部しようね。全部してあげる。オマエのこと、滅茶苦茶にしてあげる」
五条の性器はその身体に見合った大きさまで膨張し、高く天を指していた。七海は両足を広げ、彼を受け入れる体勢を取った。
五条が七海の足を支えながら、亀頭を七海の後孔に押しつける。七海の孔は期待にひくつき、触れた部分はまるで体内へと誘うように収縮した。
ぐぐ、と先端が体内に侵入する。身体の奥に生じる慣れた圧迫感に、は、と七海は息を吐いた。
ぬめりに助けられ、性器はずるりとその身を肉壁の中にすべておさめた。七海の内側は柔らかく溶けだし、ちゅう、と吸いつくように五条の性器を包む。
「やっべ、すごい気持ちいい。持ってかれそう」
五条が眉根を寄せ、苦しそうに呻いた。
竿を引き絞り、亀頭にキスするようにまとわりつく七海の内側にしばらく留まっていた五条は、やがてためらいなく性器を引き抜いた。
「ひっ……!」
七海の背骨を電流が走り、反射的にのたうつ。
五条は一度性器をすべて出すと、再び性器の出っ張った部分だけを七海の中におさめた。収縮する孔にくぽりと先端を押し込んでは浅く前後させ、抜き去る。何度か繰り返されたその動きが与える快感に耐え切れず、七海の身体が痙攣した。口が勝手に開き、涎が滲む。嬌声が終わりなく漏れた。七海の後孔は柔らかく縁を開いて訪いを悦んでは、名残惜しそうに去っていく亀頭の先端へまとわりつく。
ぐぽぐぽと音をさせて性器の先端を浅く出し入れさせていた五条の額には汗が浮かび、雫が顎まで一筋流れ落ちた。
「あぁ、ぐっ……! んん、あ、ふうっ」
七海は五条の二の腕を掴み、五条の背に両足を回した。
「ああ、ごじょ、五条さん、奥も……っ、」
「奥もしてほしい?」
七海は何度も頷き、お願いします、と掠れた声で呟いた。汗に濡れて束になった金髪の先端から水滴が飛び散る。
「――っ!」
一息に置くまで突き入れられ、七海は歯を食いしばりながらのけ反った。ぎゅ、と足の指が丸まる。
「五条さん、……あ、ごじょ、さ」
「おいでっ、七海。ほら」
七海は促されるまま両腕を五条に回し、彼の肩に歯を立てた。ぐちぐちと性器が出入りすると生じる熱を持て余し、彼の背中に爪で傷を作る。
歯を立てる。爪で肌を引っ掻く。そうした振る舞いを五条はすべて許す。かわりに七海は己の身体の最も深いところまでを五条に明け渡し、夢中で喘いだ。五条の腰が打ちつけられるたび、彼の茂みが肌を刺激する。
汗で全身が濡れそぼっていた。熱くて仕方なかった。茹だった頭で、身体で、ただ五条の体温だけを感じていた。
いつか彼に与えられる快楽で、この身は溶け落ちてしまうのかもしれない。
「七海……」
五条が苦し気に呼び、口づける。互いの口を貪りながら、七海は広い背中に腕を回した。
この瞬間が好きだ。ふたつの肉体が交わり、熱に浮かされたふたりが一体になれるのではないかと錯覚するとき。
七海は五条の魂の、最後まで冷えている部分へ、触れられる気がする。手を伸ばし、指先でそっと触れる。愛しい男の、最もやわい部分を抱き、慎重に包み込むために、七海は頬を寄せた。
***
潮の香りがする。むっと顔に温風が打ちつける。
足首まで温い水に浸かっていた。水はまるで意志をもっているかのように七海にまとわりつき、時折白波を打ちつけた。
「ああ……」
ようやく来られたのだと七海は思った。いつかこの地に住みたいと願った場所へ、私はようやく来られたのだと。
一歩前に足を踏み出した。波が笑うようにさざめき、いざなうように絡みついた。
風が頬を撫でる。もう一歩、と願う七海の腕を誰かが掴んだ。
『駄目だよ。行っては駄目』
「どうしてですか」
七海は俯き、問いかけた。
『どうして?』
「どうして行かせてくれないんですか。……五条さん」
は、と意識が覚醒した。
七海は目を瞬かせ、周囲の様子を探った。身体を包む布団、汗ばんだ全身、七海に絡みついて寝ている五条。
はあ、と深く息を吐き、七海はそっとベッドから身を起こした。床に落ちていたバスローブを身にまとい、窓際の椅子に腰かける。
電熱器ではしゅんしゅんと湯が沸いていた。
机の上にあった茶器を手に取り、茶壷に湯を注ぐ。茶海に湯を移し、茶葉を茶壷に入れ、湯を注ぎ、茶壷にも上から湯を回し掛けた。しばし待ち、茶を聞香杯に入れ、茶杯に移す。
茶の馥郁たる香りを楽しんでいると、遠くから音が響いた。七海は窓の外に視線を遣る。深い闇の支配する外から、ざわめきが聞こえてきた。
音は次第に街へ近づき、その輪郭が明瞭になる。
鈴だ、と最初に思った。鈴がしゃんしゃんと鳴らされている。やがてそこに鐘が重なり、銅鑼、太鼓が賑やかな低音を奏でた。
身を乗り出し、七海は窓の外を窺う。
橙色の灯りが、山の方向から街へ行列を作っていた。
窓の外から人の歓声がする。つられて、七海も窓の鍵を開けた。木製の枠に嵌まった硝子の窓を押して開くと、冷えた夜風が部屋にどっと流れ込んだ。
この街に来た時固く閉ざされていた家々の窓は、すべて外に向かって開かれていた。行進は街の家々の間を進む。
最初に見えたのは、犬と子供だった。七海と五条を先導した犬が道を駆け抜け、そのあとを赤い服を着た子供がふたり、静々と前に進む。子供たちは白く塗られた仮面を被っていた。
そのあとを、大人たちが進む。色とりどりの装束を纏い、異形の仮面を被って吊灯籠を手から下げ、無言で道を歩んでいく。
行進にはいつからか、異形の者たち、呪霊が混じり始めた。様々な姿かたちをした呪霊が列を作り、人間と混然一体となって灯りに包まれ、行進する。狭い階段にみっしりと詰まり、街を下りていく。
その様子に魅入られ、窓から身を乗り出した七海を制する人間がいた。
「駄目だよ、七海」
「……彼らはどこへ行くのでしょうか」
「下の街へ行くのさ。街の中心部へね。歓待されるんだよ、食べ物を与えられ、束の間の遊びを楽しむんだ」
彼らは山から現れたのか、と七海は黒い影と化している山を見上げた。どっしりと聳える山には深く霧がかかり、木々の先端から細く白い靄がたなびいている。
五条は外に夢中になる七海を室内に押し戻し、硝子窓を閉めた。固く鍵を閉じる。
すっと表の喧騒が遠のいた。
「引き込まれてはいけないよ、七海。連れていかれるからね」
七海は背後を振り返った。裸のまま床を足で踏みしめ、すっくと立っている五条がまるで知らない人間に思える。部屋の景色が水晶玉を覗いたかのように歪む。
「おいで、七海」
もしや私は神とまぐわったのではないだろうか、と七海は錯覚した。けれど七海が愛する男は神のごとき強さをその身に秘めていても、体温があり血の巡るただのひとりの人間であると、七海は深く知っていた。
「……私たちは、これからどこに行くのでしょうか」
「どこへでも行けるよ、どこに行きたい? だけど、」
だけど
「海を渡ってはいけないよ、七海。海だけは渡っちゃいけない」
これは。
――これは、私が見ている夢ではないだろうか。
七海はふとそんな思いに捕らわれた。五条の瞳を真っ直ぐ見つめる。五条は柔らかな笑みを浮かべ、その視線を受け止めた。
「私は、ここに来る前、……アナタから逃げていた気がする」
五条は首を傾げ、おかしそうに笑った。
「そうだろうね、だって僕は七海がどんなに嫌がっても逃がさないから。どこにも、逃がさないから」
五条が七海の手を取る。指が絡む。彼の手は鎖だ。七海を捕らえて離さない。
――ああ、私は二度とこの街から出られないのかもしれない。
七海が抱いた予感はひどく甘く、七海の奥深くに眠る魂を静かに羽ばたかせた。
