呪術廻戦(五七)
耳の中で潮騒が渦巻いている。海のざわめきなど、聞いたこともない。これは幻だ。私が想像した海だ。
閉じた瞼の裏で青色が輝いている。海の青など、見たこともない。けれど、この青を私は知っている。あの青は、いつも無関心、冷酷、嗜虐、を涙の膜の奥に湛えている。
この色は、彼の奥にある――。
関節が軋み、あらゆる箇所が痛みを訴える身体を抱え、七海は寝返りをうった。洗い晒しのシーツが素肌にまとわりつく。壁紙が剥がれむきだしになったコンクリートの壁に、黄ばんだテープで一枚の絵葉書が直接貼り付けられている。窓から入りこむ風で、傷んだ紙の端がふわふわと揺れていた。
絵葉書には色の薄くなったインクで遠国の海が描かれている。七海は描かれた海をぼんやりと眺めながら数度瞬きした。
油の差されていない換気扇が遠くでからからと音を立てて回っていた。初夏の空気が外から流れ込んでくる。
部屋は静まり返っていた。住民が皆退去した古いマンションの一角に、七海の部屋はあった。だが、七海が己のものと呼べる所有物は数個しかない。この部屋の家具も、多くは夜逃げした元住人が置き去りにしていったものだ。ベッドだけは、共に寝ることのある男が
「こんなものに寝られない。こんな粗末なもの人が寝るための道具じゃない」
と新しいものを運ばせた。
それ以外にある家具と言えば、焦茶色の安い合板でできたクローゼット、台所にある辛うじて壊れていない冷蔵庫、罅の入った姿見くらいのものだ。
天井に嵌められた電球が壊れて数日になるため、日光が燦々と差す外と比べて部屋の中は息苦しくなるほど暗い。その部屋の中心で、七海の部屋の元住人が残していったベッドにケチをつけた男は、裸の身にスーツを纏おうとしていた。
昨夜七海の身体を骨の髄まで貪っていた男は、夜に見せる凶暴さや貪婪さを潜ませて、冷酷と無関心の両立した表情を薄っすらと顔の表面に被せていた。彼の本心は誰も知らない。彼の浮かべてみせる表情や発する言葉は或いは本心かもしれず、或いは全く心にないことかもしれない。
不名誉なことに、彼が今身体を許しているのは七海だけらしいが――くちさがない男たちがそう言って七海を揶揄うのだ――七海にも、この男の腹の底を推し量ることはできない。相互理解など、ふたりの関係からは最も遠い概念だとさえ考えている。
「人を殺しそうな眼で僕を見ないでよ。あと、いい加減電球変えたら? 夜にオマエの身体が見られないのはつまらないね」
軽薄でふざけた物言いに、七海は眉を顰めた。気怠い身体を起こし、ベッドの上に座る。さりげなく毛布で腰を隠した。明け方まで散々暴かれた秘所が熱を持ったように痛む。また後で手当てをしておく必要があるかもしれない。
「私の本当の仕事を知りたいですね、五条さん。私の仕事とは、アナタに抱かれることだったのでしょうか。それとも人を処分すること?」
七海は言いながら、焦点のあわない瞳で己の手首を見下ろす。骨ばった手首には、鮮やかな赤色をした手形がはっきりと残っていた。
絹のシャツを着て、七海の手首に残した痕そのものの色をしたネクタイを襟元に巻きつけた五条は、品のよい形をしたノットを作りながら、口元だけを歪めた。この男は笑うとき、面白いことなどこの世に一切ないような目をしながら笑ってみせる。この笑顔は、彼の顔面の痙攣が引き起こしているのではないのかと周囲の者が考えてしまうほど、彼の瞳は凍りついている。だが真実、五条は笑っているのだ。
「『ペットでいること』だよ、七海。勘違いしちゃいけない。オマエの仕事は僕の可愛い可愛いペットでいること」
七海は深々と溜め息を吐き、首を振った。金や地位を持っている人間の思考や道楽は到底理解できない。
「だったらペットが飽きないように適度に遊ばせるのも飼い主の仕事では」
五条はちらりと七海を見遣り、そうだね、と乾いた声で言った。
「でも、そうそう玩具を遣れないご主人様の事情も多少は気遣ってくれるよね、七海は賢くていいコだから。『待て』ができたら僕はオマエを褒めてあげるよ」
七海は枕元にある、ナイフで壁に刻んだ跡を首を反らして眺めた。今、十七の数字を差しているそれが、百になる日を七海は待ちわびている。
「もっと仕事をください」
「雑な仕事でもして僕の手元から逃げるつもり? そんなこと許さないよ。警察には渡さないからね。わかるでしょ、七海。五条会の利害関係者ばかり頻繁に『失踪』すると、痛くもない腹を探られる羽目になるんだ。オマエを使うのは、どうしてもってときだけじゃないと」
五条は高い身長に似合うデザインの、上質な生地でできたジャケットを羽織り、胸元にハンカチを仕舞った。
――では、私はいつアナタから自由になれるのですか。
その言葉をかろうじて飲み込んだ瞬間、五条の携帯端末が煩く鳴った。七海は床に落ちていた液晶を見下ろす。
「釘崎さんからですよ」
五条は画面を見られたことなど気にも留めず、ジャケットの襟を直しながら
「代わりに出て」
とだけ言った。
七海はかつて教えられたとおりに緑色のボタンを指先で慎重に押す。端末を持ち上げると、焦りで少々上擦った女の声が響いた。電話に出ているのが七海であると知った彼女は、呆れたような溜め息を吐いたあと、早口に用件を伝え、通話を一方的に切断した。規則的な電子音の鳴る端末を摘まみながら、七海は顔を曇らせた。
五条の周囲の人間は、五条が七海を子飼いにしていることについて、快く思っていない。そして、それを隠そうともしない。それもそうだろう、と七海は納得している。事情を聞けば、百人中百人が五条を奇矯な人間だと判断するだろう。だが七海自身が己の身の置き所がないと感じる現実もまた、一方で存在しているのだ。
「なんて?」
「早く車に乗ってくださいと。マンションの前に停めているそうです」
「朝早いのに律義だね。もう少し遅くたって誰も怒りはしないよ」
「さっさと出ていってください」
「酷いなあ。オマエも一緒に行くんだから服を着て」
「はぁ? 何故私が一緒に行かなければならないんですか」
「オマエの不機嫌な顔を見ていたくなった。ホラ、さっさと服を着ないと裸のまま連れてくよ」
五条の有言実行する性格を知っている七海は、渋々と床に落ちているシャツを手に取り袖を通した。
半ば無理矢理連れ込まれた高級車の車内で、七海は運転席からビニール袋を押しつけられた。綺麗にネイルが施された細く白い指がハンドルに戻る。
「これ、なに」
と、七海の隣に座った五条が問いかけた。彼の瞳は、部屋を出る際にかけたサングラスによって隠されている。
「おふたりの朝食です」
「なんで、家で食べるよ」
運転席に座った釘崎は、恨めしそうな瞳で五条と七海を見遣り、
「もう本宅でミゲル様がお待ちですので、それまでになにかお腹にいれておいてください。昼までお食事の予定はございません」
と、呻くように告げた。
「あれ、今日だっけ」
「昨夜、ご説明いたしました」
「へー。七海、食べなよ。僕、朝はそんなに食べられないから」
言いながら五条は袋からパンを取り出し、包装を剥いて七海の口元に差し出した。釘崎がバックミラー越しに眺めている気配がする。しかし、断ればまた五条が不機嫌になるに違いない。そうすれば、今日一日が七海にとっても、五条会の人間にとっても悲惨な日となる。諦め、七海は静かに口を開く。餌付けされる小鳥のように、五条の手にある食物へ齧りついた。
水面越しに、赤い斑のある鯉を見下ろした。魚たちは己が水のなかでしか生きられないことなど知りもしないで、ゆったりと優雅にその身をくねらせている。
七海は手すり越しに水面を眺め、次に五条会の本家を振り返った。
五条家の本宅は旧式の日本家屋で、広大な土地の中に母屋と離れが点在している。庭には松の木が並び、広い池も整備されている。時代がついた建物群はよく手入れされ、板張りの廊下は磨き上げられている。かつて、五条会の祖が住んでいたという母屋で、五条会若頭の五条悟も寝起きしていると七海は耳に挟んだことがある。
五条悟は一時期独り立ちして、都心のマンションに住んでいた。だが五条会組長を務める父が捕まり、裁判を受け、刑務所で服役することになったときに母屋へ呼び戻されたと聞いた。
通常、表のビジネスの話は都心にある五条会の本部で交わされる。そちらは都会的なビルの最上階にあり、合法的な企業の看板を掛け、一般人も多く出入りする。従って、今回本家本宅まで来たミゲルという男は、どこかしら後ろ暗い話も請け負っているのだろう。
五条は「遂にIT事業で海外進出だよ」と嘯いていたが、どれほど汚いビジネスなのか七海には想像もつかない。
人間関係から疎外された七海にも、五条を巡る噂は何かと届く。唸るほど積みあがった資産を利用し、事業を手広く営んでいる。曰く、IT・飲食・不動産・金融業を営んでいる。曰く、違法な薬物や武器を密輸入している。曰く、海外に事業を展開し、世界の裏側を巡るカネを支配しかかっている。その事業の全容は秘書すら把握していない、そうだ。いつか聞かされたあまりにも壮大な話を、七海は鼻で笑った。
七海にとって、五条という男は仕事の発注主に過ぎない。
そして、共有する秘密を盾に身体を要求する男だ。
七海が知る五条は手が血に塗れた夜の彼だけだ。だがそれでも、五条の存在は七海にとって眩しすぎた。
「おやぁ、これはこれは。若の寵姫にこんなところでお会いできるとは光栄ですなァ。どうしたんです、珍しい。こちらはちとむさくるしすぎるでしょう」
「……日下部」
七海は音もなく近づいてきた男を一瞥し、無関心に手元にあったパンの残りを池の鯉へ撒いた。
綺麗にアイロンのかかったスーツをどこかだらしなく着崩した男は、侮蔑の色を隠さず七海に近づいた。
「色っぽい人間が来ると男どもが浮ついて仕方ない。罪作りな存在ですよ。誰もかれもアナタの噂をしている」
『――俺は生涯オマエを許さねぇよ』
かつて告げられた彼の言葉が、耳の奥で木霊した。
ふと、七海は己がジーンズに生成りのシャツという場違いな格好をしていることに気づき、うんざりとした気分で唇を歪めた。
「心配なさらなくても、さっさと不釣り合いな場所からは出ていきますよ」
「そんなお気遣い――ああ、日車先生、こちらです」
日下部は七海の背後にいる人間に目を止め、腕を上げた。振り返ると、落ち着いた色のスーツを着て、事務鞄を片手に下げた人間が、ひっそりと佇んでいた。彼の姿を時折見かけることがある。五条会、そして表の企業でも顧問弁護士をしている日車だ。彼の襟では、金色のバッヂが控えめに輝いている。公正・公平を表す天秤の話を七海にした男が、過去にいた。目を隠された、正義の女神の話も。
七海はふたりに頭を下げ、その場から足早に立ち去った。
七海の周囲から音もなく人間が遠ざかっていく。五条家では、漣が立つように人が引いていく。街へ出てもそうだ。五条会の息がかかった人間しかいない繁華街では、キャッチも客引きの女性もすっと身を引く。酒を飲みに行っても、食事をしに行っても、人々は七海から顔を背ける。
七海はひとり街を彷徨い、煙草に火をつけ、待つ者のいない空き家のような棲家へ帰ろうと方向を変えた。アスファルトを踏み、かつていたたったひとりの親友の顔を思い浮かべながら、煙を深々と胸に満たした。
***
電話越しに聞いた五条の声は明らかに不機嫌さを含ませていた。彼は苛立った口調で、単語を区切るように発言し、七海に仕事内容を説明してみせた。
「その『男』を処分してくれたらいいだけだから。情報はいつものように釘崎からデータで受け取って。日時はくれぐれも正確に。仕事が遅れることは許されない」
彼自身の意に反する行為をさせられているかのような、不服そうな声が七海の耳を刺した。同時に、苛立ちに任せてまるで机を爪で叩いているような、甲高い音が電話越しに規則的に響く。
「どこからの仕事なんです、それ」
七海は反射的に問いかけた。仕事の出所を五条に問うなど初めてのことだ。
「別に、オマエには関係のないことだよ。そんなこと知らなくていい」
案の定、五条は冷ややかな声で問いかけをあしらった。
七海は五条から請け負った仕事を多くこなしてきたが、五条がその決断をするに至るまでの事情や背景は常に暗闇の中に在った。知ることができたのは獲物となる人々の行動履歴と容貌、他者が彼らを呼ぶ際に使用する氏名、そして彼らの最期の言葉だけだ。何故命を奪われるに至ったのか、その背景も動機も、誰が彼らの死を願ったのかも、七海には知るすべがなかった。誰かが七海に教えることもなかった。
五条からの電話を切った七海は、錆びた窓枠越しにマンションの入り口を見下ろす。地上では見慣れた黒色の高級車が、舗装の荒れたアスファルトの上で静かにその車体を休ませていた。
七海はクローゼットを開け、ハンガーを手に取った。仕事をこなすとき、七海はいつも同じ格好をする。肌触りのいい青色のシャツのボタンを一番上まで留め、身体の隅々まで測って仕立てられた白い生地のスーツを身にまとう。 ネクタイを形よく締めるとき、かつて七海にその方法を教えた男の顔が過る。彼は七海に裏社会での生活の送り方を教えた唯一の人間だった。
部屋の隅にある机の天板の下を探り、裏側に嵌められた板を外して大振りのナイフを取り出した。七海はいつもお守りのようにこのナイフを懐に忍ばせて『仕事』へ行く。
だが、人を殺めるときに使う道具は、量販店で市販されていて足がつきにくいビニール袋かビニール紐だ。騒音が生じたり、場所を無暗に汚す仕事は七海の好みではなかった。
このナイフを現場で使ったのも、生涯で一度きりだ。
釘崎は車の窓越しに情報の入ったデバイスを手渡すと、音もなく車を動かし去った。七海はサングラス越しに今回の仕事先を眺める。住所と地図を暗記しながらスクロールし、隠し撮りされた人間の写真を感情なく眺める。今回の獲物は、眼鏡をかけた中年の男だった。すでに五条の配下の者によって下調べは済まされ、あとはしかるべき時にしかるべきことが起こるだけだ。
七海は地上から古びたマンションを振り返った。夕日は地平線まで落ち、建物の影が黒々と聳えている。目に染みるオレンジ色に包まれながら、足を一歩踏み出した。
監視のために用意された一室で、七海は双眼鏡越しに目的地のアパートを見つめた。時計の針はとうに頂点を回り、深夜の住宅街を歩く人影がたまに現れては去っていく。
七海は対象の部屋の明かりが三十分前に消されたことを確かめている。それから人が部屋の内部で動く気配はない。
革の手袋を嵌めなおし、七海はなにもないがらんどうの部屋をでた。堂々と前を向いて対象の部屋まで歩いていく。途中、遠くで犬が鳴いた。乾いた風が住宅の間を吹き抜けていく。
渡されたマスターキーは抵抗なく鍵穴にすべりこみ、七海は音もなく鍵を開けた。かすかな金属音が夜に響いた。
靴を履いたまま、玄関を越え、畳を踏んだ。二間続きの部屋はゴミで埋まり、七海は慎重に床が露出している部分を靴で踏んだ。何者かが寝がえりを打ったような、衣擦れの音が暗闇の中でする。
固く閉ざされたカーテンの隙間から、ほのかに街灯の明かりが差し込んでいた。布団に丸まった男は悩ましそうに眉間にしわを刻み、鼾を立てながら熟睡していた。
七海は手から下げていたビニール紐を張り詰めさせると、静かに息を詰め、腹に力を入れ、仕事に掛かった。
男が目を見開き、全力で暴れだす。ひゅうひゅうとどちらのものかわからない息が漏れる。布団に身体を押さえつけ、七海は男の背後から彼の首を締め上げ続けた。
どの位の時間が経ったのか、ふと男は脱力し動きを止めた。饐えた臭いにアンモニア臭が混じる。それでも七海は油断せず、手に力を籠め続けた。
やがて、重い音と共に男の体が地に落ちる。七海は肩で息をしながら、激しく脈打つ己の心臓を宥めた。
明かりのない部屋で七海は床を見下ろす。崩れ落ちた男は明らかに絶命し、その身体はただの物体と化していた。
――あとは、指定の場所までこれを運べばいいだけだ。そうすれば、五条と契約している業者がこの遺体を処分してくれる。骨まで残さず。
七海は次の工程に移ろうと身体を動かした。瞬間、暗闇でなにかが動く気配がした。
「……おとうさん……?」
小さな子供が、豆電球が点された奥の部屋に立っていた。七海の心臓が跳ね、音を立てて唸りだす。頭が煩い。情報にない。この子供の存在は五条から与えられた情報になかった。なによりも。
「はいばら……?」
七海は動揺し、かつての友の名を口走った。
目の裏をせわしく過去の光景が駆け巡る。幼い七海の友だった少年。親しく七海の名を呼び、共に街を遊び歩いた。彼は七海が接した初めての「普通」だった。彼は七海に名前の書き方を教え、ものの買い方を教え、友人というものの価値を教えた。
違う。彼とこの子供は違う。どれほど似ていようとも別人だ。そうだ、彼は今海外にいる。彼が送ってきた絵葉書を枕元に飾ったのは間違いなく自分自身だ。
七海は首を振って過去の幻影を追い払い、改めて眼前の少年を見つめた。擦り切れた生地のパジャマを着て凍えている彼は、七海の足元にあるかつて父親だったものを見て身体を凍りつかせていた。
殺さないといけない。七海の容貌を見られた。目撃者は一人残らず処分しなければならない。それが五条との契約だ。ろくに肉もついていない、このちっぽけな少年など、七海が少し力を籠めれば容易くその命を終わらせるだろう。
苦しみを、感じる間もなく。
噛み締めた奥歯が鈍い音を立てた。ぐっと拳に力が籠る。
七海は肌に跡が残るほどビニール紐を握りしめると、顔を伏せ、ゆっくりと出入口を指さした。伸ばした人差し指が震える。
こんなことをしてはいけない。
わかっているのに、過去の灰原が七海に笑いかける。
言葉なく七海は立ち尽くし、怯えたように力なく立ち去る子供の気配を感じていた。深く顔を伏せ、身体を震わせる。
まるで罰せられた神の子のように、七海は暗闇に存在していた。
虚ろな足取りで男の遺体を引き渡し、魂の抜けた身体を引き摺って棲家へと帰る。あの子供は、深夜に何処へ行ったのだろう。行く宛てなどないだろう。そうだ、誰にも存在が知られていない子供。腹いっぱいになるまで食べたことなどなく、教育に触れたことなどなく、自分の名前の文字さえ認識できない。人から与えられることを知らず、人から奪うことしか知らない子供。彼は裸足で走るしかない。
あてのない暗闇の中を進むしかない。
七海は子供の行方を思いながら布団に包まり、冴えわたる目を無理やり閉じた。暗闇の中枕元を探る。掌を、かつて友から送られた絵葉書に重ねる。
青い海の夢を見られる気がした。幻の波の音。誰かの瞳の青。彼との初めての会話。
――死ぬのって怖い?
彼は冷たい目をして、七海に問いかけた。
***
部屋の中心に置かれたスーツケースを、七海は虚ろな瞳で眺めた。前の住人が部屋の片隅に残していったそれは、埃を被って鍵も失われている。
朝日が地上に昇り、小鳥たちが姦しく囀っている。角度の低い日差しが窓から差し込んで七海は眩しさに目を細めた。
ベッドの上で片膝を両手で抱え、背を丸める。胸の内にぽっかりと穴が口を開けていた。七海の感情をすべて食い尽くす穴。胸を内側から蝕むなにか。これとは幼い頃からの付き合いだ。初めにその存在を認識したのはいつだっただろうか。ゴミの山を掻き分け、痩せ細った両足で硝子の瓶を踏みつけたとき、鈍く光る緑色の透き通った世界の向こうで、初めて対峙したのかもしれない。
七海は空虚を抱えながら、再びスーツケースへと目を遣った。
――こんなものを引き摺り出してきて、何処へ行こうというのか。行く当てなどない。日本国内では五条の手から逃げられないだろう。海外? 戸籍のない人間が、どうやって海を渡れるというのか。ありうるのは。
ありうるのは、このちっぽけな箱に自分の亡骸が納まる未来だけだろう。
夏油なら、こんなときなんと言葉をかけてくれただろう。あの人は、七海が困っていると、七海を取り巻く世界を言葉にして説明してくれる人だった。
きっと柔らかく笑って、七海が行くべき方向を指さしてくれただろう。あの人なら。
そんな存在に、自分は何を。
深い思考の澱みを漂っていると、外から騒がしい足音が響いた。エレベーターの止まったマンションの階段を駆け上がった人間は、一直線に七海の部屋を目指してくる。
濁った眼で、七海は部屋のドアを見つめていた。誰が来るかなんてわかりきっている。否、彼が愛想を尽かせたとしたら、彼は二度と七海の前に姿を見せない。
荒々しく部屋のドアを開けたのは五条だった。彼は長身を丸め、肩で息をしていた。一階から休まず駆け上ってきたのだろう、こめかみには薄っすらと汗が浮いている。
彼もまた人間だったのだと、七海は心の内で思った。
人間の心を持っているとは到底思えない振る舞いをするくせに、彼は時折人間臭さをのぞかせる。
五条は眉根を寄せ、怒りも露に携帯端末をポケットから取り出すと七海に向かって投げつけた。身体に当たった端末が鈍い動きでベッドの上に転がる。
「なんなんです、いきなり……」
七海は咄嗟に顔を覆った腕を退けながら、光を放つ画面を見下ろした。五条は何事かを小さく喉の奥で呻き、やがて震える息を吐いた。訓練された女性の声が部屋に響き渡る。
『昨夜行方不明となった都内の会社員Xさん、四十三歳について、画像に写った男性が何らかの事情を知っているとみて警視庁は行方を追っています。情報をお持ちの方は――』
「……説明しろよ。どういうことだ」
五条は首筋を赤く染めながら、七海が部屋の中心に置いたスーツケースへちらりと目線を送った。携帯端末の画面には今朝のものと思わしきニュース映像の録画が流れ、死体の入った袋を抱えて移動している、昨夜の七海の姿が拡大されて映し出されている。撮影された位置的に、狙って潜んでいないと撮れなかった写真だ。つまり、昨夜の現場には、何事が起こるか理解した上で、七海の姿を捉えようとした人物が存在していたのだろう。
「だから嫌だったんだ、この案件を受けるのは。どうせろくなことにならないとわかってた」
五条は頭を掻きむしると、苛立ったように床を蹴った。そこで七海は今更、五条が土足のまま部屋に上がってきていることに気づいた。
説明しろ、と七海に迫った割には、五条は七海の知らない情報を全てその手で握り、その件で頭が一杯になっているようだった。てっきり子供を見逃した件で五条に問い詰められると覚悟していた七海は拍子抜けし、肩を下ろして気づかれないようにそっと息を吐いた。
昨夜の私は随分と動転していたようだ、と七海は思った。何者かが自分の写真を撮っている気配を、微塵も感じなかった。その原因は明らかだ。だが、七海の存在が公になったことはある面で喜ばしいことかもしれない。あの少年は、逃げられるのかもしれない。この騒ぎで彼の存在は有耶無耶となり、誰からも認知されていない状態のまま、暗闇の何処かへ、逃げられるのかもしれない。
そして生き延びるのだ。かつての私のように。
七海は力なくニュース映像の映る画面をなぞった。
「……許さないよ、」
五条は俯き、独り言のように呟いた。
「なにをですか」
彼がすっと顔を上げる。澄み渡る青色が、七海の胸を貫いた。
「僕の元から逃げるのは許さないよ」
彼の透明な青色を湛えた瞳の裏に、七海は怒りの炎を見た。彼の内側では、怒りが渦巻き吠え猛っている。その証拠に、握りしめられた拳が色を失くしている。
「どうしようっていうんです。私の姿は写真に撮られている。誰かが私の存在を、そして私の後ろにいるアナタを嗅ぎ付けるのは時間の問題ですよ。私が言うのも変な話でしょうが、私など蜥蜴の尻尾のような存在です。さっさと切り離してしまうのが最善でしょう」
五条は不服そうな眼で七海を睨みつけた。固く口を結び、両足で地面にすっくと立っている。
こんなに鮮やかに感情を表現する五条を、七海は初めて目にした。いつも凍り付いた表情を顔に張り付け、面白いことなどないといった風情で全ての事柄を受け流していたようなあの五条が。
夏油が逝ったときでさえ、眉毛一つ動かさなかったあの五条が。
苦しみをこらえるような表情を隠さず浮かべ、なにかを言いたげに口を開いては言葉にならず歯を食いしばる。
七海のなにが彼をそこまで刺激させるのか、理解できなかった。
「私など使い捨ての駒でしょう。なにを躊躇うんです」
ちがう、と五条は言った。鋭く眦を上げ、七海を叱りつけるように五条は怒鳴った。
「オマエと僕が傑を殺したときから、僕たちは一心同体だよ」
すっと心が冷えた。同時に蘇る生温い血の感触。刺した肉の手ごたえ。
――ななみ
彼は呼んだ。血を吐きながら。そして目線を上げ、さとる、と声なく口を動かした。。
遠い記憶だ。あの時を境に、七海の世界は一変した。
「……そんなことも、ありましたね。ですが、過去のことです。私など、何処まで行っても駒は駒ですよ。アナタが駒を失うことを嘆いてどうするんです。それでは示しがつかないでしょう」
瞬間、頭が揺れた。骨が痺れ、頬に燃えるような感覚が広がる。倒れた身体を布団が受け止める。柔らかな感触を確かめてようやく、殴られたのだと気づいた。
七海は分厚い硝子越しに眺めるような視線を五条に向けた。
「私を殴って事態が好転するならどれだけでも殴ってください。けれどそれで現状は好転しませんよ」
五条が腕を振りかぶる。七海は目を閉じ、歯を食いしばった。しかし予想していた衝撃は訪れず、かわりに肩を強い力で押さえつけられる。暗い部屋で、影が七海に圧し掛かる。
獣だ、と思った。己を圧倒する無言の獣。
「言いたいことがあるなら言葉にしてください。アナタに口はついていないのですか」
五条は七海の言葉が聞こえていないかのように七海の服に手をかけ、半ば引き裂くようにして肌を露にさせた。弾け飛んだボタンがカラカラと乾いた音を立てて床を転がっていく。
「……子供だ。まるで子供だ。そうでしょう? 自分の我が儘が通らなくて駄々をこねている、しようがない、」
「――そろそろ黙れよ、七海」
ぼそりと、五条が呟いた。彼の掌が七海の胸を這い、心臓が脈打つ場所を一際強く押さえる。
「わかってるんだよ、全部」
なにもわかっちゃいない。アナタはなにもわかっちゃいない。私だってそうだ。
両腕を捩じり上げられる。関節が悲鳴を上げる。圧し掛かられる形で拘束される。抗っても無意味だ。
七海は虚ろな瞳でベッドから壁に立てかけてある鏡を見た。暗い部屋の中、犯す者と犯される者、二体の獣が映っている。きっと私は影で、このひとは限りなく光に近い存在なのだ、と七海は考えた。
荒い息が首筋を辿る。力なく伸ばした指先で、鏡に映る姿をなぞった。
鏡には、目と口を塞がれたふたりの子供が映っている。
***
七海の体内にしつこく精を撒き散らし、塗り込んだことで男の熱も粗方冷めたらしい。五条は七海の身体から離れると、用は済んだとばかりにシャワーを浴びに部屋を離れた。
七海は乱れた髪を手櫛で整え、跡の残る身体を見下ろした。あちこちに痣が散らばり、噛み痕に唾液や精液も混じって惨憺たる有様だ。五条とのセックスはいつも一方的に犯されるだけで終わる。
けれど、彼が首筋に唇を当てるとき、足を抱え太ももに頬擦りするとき、彼は七海に縋っているのではないかと錯覚しそうになることがある。
七海は首を振ってその考えを遠ざけ、未だ部屋の中心に立っているスーツケースを困ったように眺めた。
シャワーの音が止んでから暫くして、スーツを着込んだ五条が七海のもとに現れた。いつも通りの表情を浮かべ、髪もきっちりとセットされている。
彼は胸元を探ると、無造作に七海に向かってなにかを投げつけた。軽い音を立てて布団に落ちた表紙を、七海は他人事のように眺めた。
五条は鼻で笑うように息をして、二冊のパスポートに対し顎をしゃくった。
「海外に行く」
「ご丁寧に二冊もありがとうございます。けれど警察が出国を許しませんよ。いっそ私の身体をこれに詰めて発送させた方がお手軽では?」
七海がスーツケースを指さすと、五条は侮蔑交じりの笑みを浮かべてみせた。
「警察に知り合いくらいいる。あとオマエのパスポート二冊じゃない。僕とオマエの分だから」
「は?」
七海は目を見開き、問い返した。五条からの返事はなく、恐る恐るパスポートを開く。片方は七海の顔写真に偽名が載っている。いや、戸籍がそもそもないのだから偽名とさえも言えないのかもしれない。
もう片方を開く。そこには確かに五条の顔写真が載っていた。
「どういう、ことです」
「オマエと一緒に海外へ行くだけだよ」
「な、……一体どういう心算です。五条会は? どうされるんです」
五条は一度息を止め、やがて深々と息を吐いた。そして心底疲労したような声で言った。
「僕は僕がどこへ行こうと構わない。未練なんて、ここに未練なんてなにもないんだ――ほとぼりが冷めるまで一緒に逃げよう。誰も海外までは追ってこないさ」
七海は背筋を凍り付かせ、慄く手でパスポートをそっと元の位置に戻した。
「きっと上手くいきやしない」
「やってみないとわからないだろう」
「地獄しか待っていませんよ。アナタは……アナタ、何を選んでいるかわかっていますか? 不便のない、真っ当な生活を捨てていつ私に殺されるかと怯える日々を過ごすんですよ」
五条は目を細めると、唇を緩めた。
「そっかあ、七海には僕の暮らしが『真っ当』にみえてたんだね」
五条は可笑しそうに言い、頭を振った。
「知らなかったんだね。僕たちはこれまでも地獄を生きてきたし、これからもずっと地獄を生きるんだよ。地獄の種類が変わるくらい、どうってことないさ」
――島へ行こう、と彼は言った。
「島へ行こう。一緒に青い海を見に行こう」
五条は七海の前髪を掴むと、瞳を覗き込んだ。彼の青い瞳が七海の瞳をまっすぐに見つめる。
「まだ見たことがないんだろう、僕の瞳のような海を」
――アナタのことなどこれっぽっちも愛していないけれど、その言葉は人生の中で一番愛おしかった。アナタの瞳から波の音が聞こえる。
アナタだけが、私の人生で輝いていた唯一のもの。光に導かれ、私は地獄を生き続ける。
『――死ぬのは怖い?』
かつて五条と敵対した夏油を前にして、五条は七海に問いかけた。彼の手は七海の喉を強く締め付けている。七海は両手で五条の手を包み、挑戦的な笑みを浮かべた。
『「海」というものを見ることが出来なくて残念でした。ただそれだけです』
それが、ふたりが交わした初めての会話だった。
閉じた瞼の裏で青色が輝いている。海の青など、見たこともない。けれど、この青を私は知っている。あの青は、いつも無関心、冷酷、嗜虐、を涙の膜の奥に湛えている。
この色は、彼の奥にある――。
関節が軋み、あらゆる箇所が痛みを訴える身体を抱え、七海は寝返りをうった。洗い晒しのシーツが素肌にまとわりつく。壁紙が剥がれむきだしになったコンクリートの壁に、黄ばんだテープで一枚の絵葉書が直接貼り付けられている。窓から入りこむ風で、傷んだ紙の端がふわふわと揺れていた。
絵葉書には色の薄くなったインクで遠国の海が描かれている。七海は描かれた海をぼんやりと眺めながら数度瞬きした。
油の差されていない換気扇が遠くでからからと音を立てて回っていた。初夏の空気が外から流れ込んでくる。
部屋は静まり返っていた。住民が皆退去した古いマンションの一角に、七海の部屋はあった。だが、七海が己のものと呼べる所有物は数個しかない。この部屋の家具も、多くは夜逃げした元住人が置き去りにしていったものだ。ベッドだけは、共に寝ることのある男が
「こんなものに寝られない。こんな粗末なもの人が寝るための道具じゃない」
と新しいものを運ばせた。
それ以外にある家具と言えば、焦茶色の安い合板でできたクローゼット、台所にある辛うじて壊れていない冷蔵庫、罅の入った姿見くらいのものだ。
天井に嵌められた電球が壊れて数日になるため、日光が燦々と差す外と比べて部屋の中は息苦しくなるほど暗い。その部屋の中心で、七海の部屋の元住人が残していったベッドにケチをつけた男は、裸の身にスーツを纏おうとしていた。
昨夜七海の身体を骨の髄まで貪っていた男は、夜に見せる凶暴さや貪婪さを潜ませて、冷酷と無関心の両立した表情を薄っすらと顔の表面に被せていた。彼の本心は誰も知らない。彼の浮かべてみせる表情や発する言葉は或いは本心かもしれず、或いは全く心にないことかもしれない。
不名誉なことに、彼が今身体を許しているのは七海だけらしいが――くちさがない男たちがそう言って七海を揶揄うのだ――七海にも、この男の腹の底を推し量ることはできない。相互理解など、ふたりの関係からは最も遠い概念だとさえ考えている。
「人を殺しそうな眼で僕を見ないでよ。あと、いい加減電球変えたら? 夜にオマエの身体が見られないのはつまらないね」
軽薄でふざけた物言いに、七海は眉を顰めた。気怠い身体を起こし、ベッドの上に座る。さりげなく毛布で腰を隠した。明け方まで散々暴かれた秘所が熱を持ったように痛む。また後で手当てをしておく必要があるかもしれない。
「私の本当の仕事を知りたいですね、五条さん。私の仕事とは、アナタに抱かれることだったのでしょうか。それとも人を処分すること?」
七海は言いながら、焦点のあわない瞳で己の手首を見下ろす。骨ばった手首には、鮮やかな赤色をした手形がはっきりと残っていた。
絹のシャツを着て、七海の手首に残した痕そのものの色をしたネクタイを襟元に巻きつけた五条は、品のよい形をしたノットを作りながら、口元だけを歪めた。この男は笑うとき、面白いことなどこの世に一切ないような目をしながら笑ってみせる。この笑顔は、彼の顔面の痙攣が引き起こしているのではないのかと周囲の者が考えてしまうほど、彼の瞳は凍りついている。だが真実、五条は笑っているのだ。
「『ペットでいること』だよ、七海。勘違いしちゃいけない。オマエの仕事は僕の可愛い可愛いペットでいること」
七海は深々と溜め息を吐き、首を振った。金や地位を持っている人間の思考や道楽は到底理解できない。
「だったらペットが飽きないように適度に遊ばせるのも飼い主の仕事では」
五条はちらりと七海を見遣り、そうだね、と乾いた声で言った。
「でも、そうそう玩具を遣れないご主人様の事情も多少は気遣ってくれるよね、七海は賢くていいコだから。『待て』ができたら僕はオマエを褒めてあげるよ」
七海は枕元にある、ナイフで壁に刻んだ跡を首を反らして眺めた。今、十七の数字を差しているそれが、百になる日を七海は待ちわびている。
「もっと仕事をください」
「雑な仕事でもして僕の手元から逃げるつもり? そんなこと許さないよ。警察には渡さないからね。わかるでしょ、七海。五条会の利害関係者ばかり頻繁に『失踪』すると、痛くもない腹を探られる羽目になるんだ。オマエを使うのは、どうしてもってときだけじゃないと」
五条は高い身長に似合うデザインの、上質な生地でできたジャケットを羽織り、胸元にハンカチを仕舞った。
――では、私はいつアナタから自由になれるのですか。
その言葉をかろうじて飲み込んだ瞬間、五条の携帯端末が煩く鳴った。七海は床に落ちていた液晶を見下ろす。
「釘崎さんからですよ」
五条は画面を見られたことなど気にも留めず、ジャケットの襟を直しながら
「代わりに出て」
とだけ言った。
七海はかつて教えられたとおりに緑色のボタンを指先で慎重に押す。端末を持ち上げると、焦りで少々上擦った女の声が響いた。電話に出ているのが七海であると知った彼女は、呆れたような溜め息を吐いたあと、早口に用件を伝え、通話を一方的に切断した。規則的な電子音の鳴る端末を摘まみながら、七海は顔を曇らせた。
五条の周囲の人間は、五条が七海を子飼いにしていることについて、快く思っていない。そして、それを隠そうともしない。それもそうだろう、と七海は納得している。事情を聞けば、百人中百人が五条を奇矯な人間だと判断するだろう。だが七海自身が己の身の置き所がないと感じる現実もまた、一方で存在しているのだ。
「なんて?」
「早く車に乗ってくださいと。マンションの前に停めているそうです」
「朝早いのに律義だね。もう少し遅くたって誰も怒りはしないよ」
「さっさと出ていってください」
「酷いなあ。オマエも一緒に行くんだから服を着て」
「はぁ? 何故私が一緒に行かなければならないんですか」
「オマエの不機嫌な顔を見ていたくなった。ホラ、さっさと服を着ないと裸のまま連れてくよ」
五条の有言実行する性格を知っている七海は、渋々と床に落ちているシャツを手に取り袖を通した。
半ば無理矢理連れ込まれた高級車の車内で、七海は運転席からビニール袋を押しつけられた。綺麗にネイルが施された細く白い指がハンドルに戻る。
「これ、なに」
と、七海の隣に座った五条が問いかけた。彼の瞳は、部屋を出る際にかけたサングラスによって隠されている。
「おふたりの朝食です」
「なんで、家で食べるよ」
運転席に座った釘崎は、恨めしそうな瞳で五条と七海を見遣り、
「もう本宅でミゲル様がお待ちですので、それまでになにかお腹にいれておいてください。昼までお食事の予定はございません」
と、呻くように告げた。
「あれ、今日だっけ」
「昨夜、ご説明いたしました」
「へー。七海、食べなよ。僕、朝はそんなに食べられないから」
言いながら五条は袋からパンを取り出し、包装を剥いて七海の口元に差し出した。釘崎がバックミラー越しに眺めている気配がする。しかし、断ればまた五条が不機嫌になるに違いない。そうすれば、今日一日が七海にとっても、五条会の人間にとっても悲惨な日となる。諦め、七海は静かに口を開く。餌付けされる小鳥のように、五条の手にある食物へ齧りついた。
水面越しに、赤い斑のある鯉を見下ろした。魚たちは己が水のなかでしか生きられないことなど知りもしないで、ゆったりと優雅にその身をくねらせている。
七海は手すり越しに水面を眺め、次に五条会の本家を振り返った。
五条家の本宅は旧式の日本家屋で、広大な土地の中に母屋と離れが点在している。庭には松の木が並び、広い池も整備されている。時代がついた建物群はよく手入れされ、板張りの廊下は磨き上げられている。かつて、五条会の祖が住んでいたという母屋で、五条会若頭の五条悟も寝起きしていると七海は耳に挟んだことがある。
五条悟は一時期独り立ちして、都心のマンションに住んでいた。だが五条会組長を務める父が捕まり、裁判を受け、刑務所で服役することになったときに母屋へ呼び戻されたと聞いた。
通常、表のビジネスの話は都心にある五条会の本部で交わされる。そちらは都会的なビルの最上階にあり、合法的な企業の看板を掛け、一般人も多く出入りする。従って、今回本家本宅まで来たミゲルという男は、どこかしら後ろ暗い話も請け負っているのだろう。
五条は「遂にIT事業で海外進出だよ」と嘯いていたが、どれほど汚いビジネスなのか七海には想像もつかない。
人間関係から疎外された七海にも、五条を巡る噂は何かと届く。唸るほど積みあがった資産を利用し、事業を手広く営んでいる。曰く、IT・飲食・不動産・金融業を営んでいる。曰く、違法な薬物や武器を密輸入している。曰く、海外に事業を展開し、世界の裏側を巡るカネを支配しかかっている。その事業の全容は秘書すら把握していない、そうだ。いつか聞かされたあまりにも壮大な話を、七海は鼻で笑った。
七海にとって、五条という男は仕事の発注主に過ぎない。
そして、共有する秘密を盾に身体を要求する男だ。
七海が知る五条は手が血に塗れた夜の彼だけだ。だがそれでも、五条の存在は七海にとって眩しすぎた。
「おやぁ、これはこれは。若の寵姫にこんなところでお会いできるとは光栄ですなァ。どうしたんです、珍しい。こちらはちとむさくるしすぎるでしょう」
「……日下部」
七海は音もなく近づいてきた男を一瞥し、無関心に手元にあったパンの残りを池の鯉へ撒いた。
綺麗にアイロンのかかったスーツをどこかだらしなく着崩した男は、侮蔑の色を隠さず七海に近づいた。
「色っぽい人間が来ると男どもが浮ついて仕方ない。罪作りな存在ですよ。誰もかれもアナタの噂をしている」
『――俺は生涯オマエを許さねぇよ』
かつて告げられた彼の言葉が、耳の奥で木霊した。
ふと、七海は己がジーンズに生成りのシャツという場違いな格好をしていることに気づき、うんざりとした気分で唇を歪めた。
「心配なさらなくても、さっさと不釣り合いな場所からは出ていきますよ」
「そんなお気遣い――ああ、日車先生、こちらです」
日下部は七海の背後にいる人間に目を止め、腕を上げた。振り返ると、落ち着いた色のスーツを着て、事務鞄を片手に下げた人間が、ひっそりと佇んでいた。彼の姿を時折見かけることがある。五条会、そして表の企業でも顧問弁護士をしている日車だ。彼の襟では、金色のバッヂが控えめに輝いている。公正・公平を表す天秤の話を七海にした男が、過去にいた。目を隠された、正義の女神の話も。
七海はふたりに頭を下げ、その場から足早に立ち去った。
七海の周囲から音もなく人間が遠ざかっていく。五条家では、漣が立つように人が引いていく。街へ出てもそうだ。五条会の息がかかった人間しかいない繁華街では、キャッチも客引きの女性もすっと身を引く。酒を飲みに行っても、食事をしに行っても、人々は七海から顔を背ける。
七海はひとり街を彷徨い、煙草に火をつけ、待つ者のいない空き家のような棲家へ帰ろうと方向を変えた。アスファルトを踏み、かつていたたったひとりの親友の顔を思い浮かべながら、煙を深々と胸に満たした。
***
電話越しに聞いた五条の声は明らかに不機嫌さを含ませていた。彼は苛立った口調で、単語を区切るように発言し、七海に仕事内容を説明してみせた。
「その『男』を処分してくれたらいいだけだから。情報はいつものように釘崎からデータで受け取って。日時はくれぐれも正確に。仕事が遅れることは許されない」
彼自身の意に反する行為をさせられているかのような、不服そうな声が七海の耳を刺した。同時に、苛立ちに任せてまるで机を爪で叩いているような、甲高い音が電話越しに規則的に響く。
「どこからの仕事なんです、それ」
七海は反射的に問いかけた。仕事の出所を五条に問うなど初めてのことだ。
「別に、オマエには関係のないことだよ。そんなこと知らなくていい」
案の定、五条は冷ややかな声で問いかけをあしらった。
七海は五条から請け負った仕事を多くこなしてきたが、五条がその決断をするに至るまでの事情や背景は常に暗闇の中に在った。知ることができたのは獲物となる人々の行動履歴と容貌、他者が彼らを呼ぶ際に使用する氏名、そして彼らの最期の言葉だけだ。何故命を奪われるに至ったのか、その背景も動機も、誰が彼らの死を願ったのかも、七海には知るすべがなかった。誰かが七海に教えることもなかった。
五条からの電話を切った七海は、錆びた窓枠越しにマンションの入り口を見下ろす。地上では見慣れた黒色の高級車が、舗装の荒れたアスファルトの上で静かにその車体を休ませていた。
七海はクローゼットを開け、ハンガーを手に取った。仕事をこなすとき、七海はいつも同じ格好をする。肌触りのいい青色のシャツのボタンを一番上まで留め、身体の隅々まで測って仕立てられた白い生地のスーツを身にまとう。 ネクタイを形よく締めるとき、かつて七海にその方法を教えた男の顔が過る。彼は七海に裏社会での生活の送り方を教えた唯一の人間だった。
部屋の隅にある机の天板の下を探り、裏側に嵌められた板を外して大振りのナイフを取り出した。七海はいつもお守りのようにこのナイフを懐に忍ばせて『仕事』へ行く。
だが、人を殺めるときに使う道具は、量販店で市販されていて足がつきにくいビニール袋かビニール紐だ。騒音が生じたり、場所を無暗に汚す仕事は七海の好みではなかった。
このナイフを現場で使ったのも、生涯で一度きりだ。
釘崎は車の窓越しに情報の入ったデバイスを手渡すと、音もなく車を動かし去った。七海はサングラス越しに今回の仕事先を眺める。住所と地図を暗記しながらスクロールし、隠し撮りされた人間の写真を感情なく眺める。今回の獲物は、眼鏡をかけた中年の男だった。すでに五条の配下の者によって下調べは済まされ、あとはしかるべき時にしかるべきことが起こるだけだ。
七海は地上から古びたマンションを振り返った。夕日は地平線まで落ち、建物の影が黒々と聳えている。目に染みるオレンジ色に包まれながら、足を一歩踏み出した。
監視のために用意された一室で、七海は双眼鏡越しに目的地のアパートを見つめた。時計の針はとうに頂点を回り、深夜の住宅街を歩く人影がたまに現れては去っていく。
七海は対象の部屋の明かりが三十分前に消されたことを確かめている。それから人が部屋の内部で動く気配はない。
革の手袋を嵌めなおし、七海はなにもないがらんどうの部屋をでた。堂々と前を向いて対象の部屋まで歩いていく。途中、遠くで犬が鳴いた。乾いた風が住宅の間を吹き抜けていく。
渡されたマスターキーは抵抗なく鍵穴にすべりこみ、七海は音もなく鍵を開けた。かすかな金属音が夜に響いた。
靴を履いたまま、玄関を越え、畳を踏んだ。二間続きの部屋はゴミで埋まり、七海は慎重に床が露出している部分を靴で踏んだ。何者かが寝がえりを打ったような、衣擦れの音が暗闇の中でする。
固く閉ざされたカーテンの隙間から、ほのかに街灯の明かりが差し込んでいた。布団に丸まった男は悩ましそうに眉間にしわを刻み、鼾を立てながら熟睡していた。
七海は手から下げていたビニール紐を張り詰めさせると、静かに息を詰め、腹に力を入れ、仕事に掛かった。
男が目を見開き、全力で暴れだす。ひゅうひゅうとどちらのものかわからない息が漏れる。布団に身体を押さえつけ、七海は男の背後から彼の首を締め上げ続けた。
どの位の時間が経ったのか、ふと男は脱力し動きを止めた。饐えた臭いにアンモニア臭が混じる。それでも七海は油断せず、手に力を籠め続けた。
やがて、重い音と共に男の体が地に落ちる。七海は肩で息をしながら、激しく脈打つ己の心臓を宥めた。
明かりのない部屋で七海は床を見下ろす。崩れ落ちた男は明らかに絶命し、その身体はただの物体と化していた。
――あとは、指定の場所までこれを運べばいいだけだ。そうすれば、五条と契約している業者がこの遺体を処分してくれる。骨まで残さず。
七海は次の工程に移ろうと身体を動かした。瞬間、暗闇でなにかが動く気配がした。
「……おとうさん……?」
小さな子供が、豆電球が点された奥の部屋に立っていた。七海の心臓が跳ね、音を立てて唸りだす。頭が煩い。情報にない。この子供の存在は五条から与えられた情報になかった。なによりも。
「はいばら……?」
七海は動揺し、かつての友の名を口走った。
目の裏をせわしく過去の光景が駆け巡る。幼い七海の友だった少年。親しく七海の名を呼び、共に街を遊び歩いた。彼は七海が接した初めての「普通」だった。彼は七海に名前の書き方を教え、ものの買い方を教え、友人というものの価値を教えた。
違う。彼とこの子供は違う。どれほど似ていようとも別人だ。そうだ、彼は今海外にいる。彼が送ってきた絵葉書を枕元に飾ったのは間違いなく自分自身だ。
七海は首を振って過去の幻影を追い払い、改めて眼前の少年を見つめた。擦り切れた生地のパジャマを着て凍えている彼は、七海の足元にあるかつて父親だったものを見て身体を凍りつかせていた。
殺さないといけない。七海の容貌を見られた。目撃者は一人残らず処分しなければならない。それが五条との契約だ。ろくに肉もついていない、このちっぽけな少年など、七海が少し力を籠めれば容易くその命を終わらせるだろう。
苦しみを、感じる間もなく。
噛み締めた奥歯が鈍い音を立てた。ぐっと拳に力が籠る。
七海は肌に跡が残るほどビニール紐を握りしめると、顔を伏せ、ゆっくりと出入口を指さした。伸ばした人差し指が震える。
こんなことをしてはいけない。
わかっているのに、過去の灰原が七海に笑いかける。
言葉なく七海は立ち尽くし、怯えたように力なく立ち去る子供の気配を感じていた。深く顔を伏せ、身体を震わせる。
まるで罰せられた神の子のように、七海は暗闇に存在していた。
虚ろな足取りで男の遺体を引き渡し、魂の抜けた身体を引き摺って棲家へと帰る。あの子供は、深夜に何処へ行ったのだろう。行く宛てなどないだろう。そうだ、誰にも存在が知られていない子供。腹いっぱいになるまで食べたことなどなく、教育に触れたことなどなく、自分の名前の文字さえ認識できない。人から与えられることを知らず、人から奪うことしか知らない子供。彼は裸足で走るしかない。
あてのない暗闇の中を進むしかない。
七海は子供の行方を思いながら布団に包まり、冴えわたる目を無理やり閉じた。暗闇の中枕元を探る。掌を、かつて友から送られた絵葉書に重ねる。
青い海の夢を見られる気がした。幻の波の音。誰かの瞳の青。彼との初めての会話。
――死ぬのって怖い?
彼は冷たい目をして、七海に問いかけた。
***
部屋の中心に置かれたスーツケースを、七海は虚ろな瞳で眺めた。前の住人が部屋の片隅に残していったそれは、埃を被って鍵も失われている。
朝日が地上に昇り、小鳥たちが姦しく囀っている。角度の低い日差しが窓から差し込んで七海は眩しさに目を細めた。
ベッドの上で片膝を両手で抱え、背を丸める。胸の内にぽっかりと穴が口を開けていた。七海の感情をすべて食い尽くす穴。胸を内側から蝕むなにか。これとは幼い頃からの付き合いだ。初めにその存在を認識したのはいつだっただろうか。ゴミの山を掻き分け、痩せ細った両足で硝子の瓶を踏みつけたとき、鈍く光る緑色の透き通った世界の向こうで、初めて対峙したのかもしれない。
七海は空虚を抱えながら、再びスーツケースへと目を遣った。
――こんなものを引き摺り出してきて、何処へ行こうというのか。行く当てなどない。日本国内では五条の手から逃げられないだろう。海外? 戸籍のない人間が、どうやって海を渡れるというのか。ありうるのは。
ありうるのは、このちっぽけな箱に自分の亡骸が納まる未来だけだろう。
夏油なら、こんなときなんと言葉をかけてくれただろう。あの人は、七海が困っていると、七海を取り巻く世界を言葉にして説明してくれる人だった。
きっと柔らかく笑って、七海が行くべき方向を指さしてくれただろう。あの人なら。
そんな存在に、自分は何を。
深い思考の澱みを漂っていると、外から騒がしい足音が響いた。エレベーターの止まったマンションの階段を駆け上がった人間は、一直線に七海の部屋を目指してくる。
濁った眼で、七海は部屋のドアを見つめていた。誰が来るかなんてわかりきっている。否、彼が愛想を尽かせたとしたら、彼は二度と七海の前に姿を見せない。
荒々しく部屋のドアを開けたのは五条だった。彼は長身を丸め、肩で息をしていた。一階から休まず駆け上ってきたのだろう、こめかみには薄っすらと汗が浮いている。
彼もまた人間だったのだと、七海は心の内で思った。
人間の心を持っているとは到底思えない振る舞いをするくせに、彼は時折人間臭さをのぞかせる。
五条は眉根を寄せ、怒りも露に携帯端末をポケットから取り出すと七海に向かって投げつけた。身体に当たった端末が鈍い動きでベッドの上に転がる。
「なんなんです、いきなり……」
七海は咄嗟に顔を覆った腕を退けながら、光を放つ画面を見下ろした。五条は何事かを小さく喉の奥で呻き、やがて震える息を吐いた。訓練された女性の声が部屋に響き渡る。
『昨夜行方不明となった都内の会社員Xさん、四十三歳について、画像に写った男性が何らかの事情を知っているとみて警視庁は行方を追っています。情報をお持ちの方は――』
「……説明しろよ。どういうことだ」
五条は首筋を赤く染めながら、七海が部屋の中心に置いたスーツケースへちらりと目線を送った。携帯端末の画面には今朝のものと思わしきニュース映像の録画が流れ、死体の入った袋を抱えて移動している、昨夜の七海の姿が拡大されて映し出されている。撮影された位置的に、狙って潜んでいないと撮れなかった写真だ。つまり、昨夜の現場には、何事が起こるか理解した上で、七海の姿を捉えようとした人物が存在していたのだろう。
「だから嫌だったんだ、この案件を受けるのは。どうせろくなことにならないとわかってた」
五条は頭を掻きむしると、苛立ったように床を蹴った。そこで七海は今更、五条が土足のまま部屋に上がってきていることに気づいた。
説明しろ、と七海に迫った割には、五条は七海の知らない情報を全てその手で握り、その件で頭が一杯になっているようだった。てっきり子供を見逃した件で五条に問い詰められると覚悟していた七海は拍子抜けし、肩を下ろして気づかれないようにそっと息を吐いた。
昨夜の私は随分と動転していたようだ、と七海は思った。何者かが自分の写真を撮っている気配を、微塵も感じなかった。その原因は明らかだ。だが、七海の存在が公になったことはある面で喜ばしいことかもしれない。あの少年は、逃げられるのかもしれない。この騒ぎで彼の存在は有耶無耶となり、誰からも認知されていない状態のまま、暗闇の何処かへ、逃げられるのかもしれない。
そして生き延びるのだ。かつての私のように。
七海は力なくニュース映像の映る画面をなぞった。
「……許さないよ、」
五条は俯き、独り言のように呟いた。
「なにをですか」
彼がすっと顔を上げる。澄み渡る青色が、七海の胸を貫いた。
「僕の元から逃げるのは許さないよ」
彼の透明な青色を湛えた瞳の裏に、七海は怒りの炎を見た。彼の内側では、怒りが渦巻き吠え猛っている。その証拠に、握りしめられた拳が色を失くしている。
「どうしようっていうんです。私の姿は写真に撮られている。誰かが私の存在を、そして私の後ろにいるアナタを嗅ぎ付けるのは時間の問題ですよ。私が言うのも変な話でしょうが、私など蜥蜴の尻尾のような存在です。さっさと切り離してしまうのが最善でしょう」
五条は不服そうな眼で七海を睨みつけた。固く口を結び、両足で地面にすっくと立っている。
こんなに鮮やかに感情を表現する五条を、七海は初めて目にした。いつも凍り付いた表情を顔に張り付け、面白いことなどないといった風情で全ての事柄を受け流していたようなあの五条が。
夏油が逝ったときでさえ、眉毛一つ動かさなかったあの五条が。
苦しみをこらえるような表情を隠さず浮かべ、なにかを言いたげに口を開いては言葉にならず歯を食いしばる。
七海のなにが彼をそこまで刺激させるのか、理解できなかった。
「私など使い捨ての駒でしょう。なにを躊躇うんです」
ちがう、と五条は言った。鋭く眦を上げ、七海を叱りつけるように五条は怒鳴った。
「オマエと僕が傑を殺したときから、僕たちは一心同体だよ」
すっと心が冷えた。同時に蘇る生温い血の感触。刺した肉の手ごたえ。
――ななみ
彼は呼んだ。血を吐きながら。そして目線を上げ、さとる、と声なく口を動かした。。
遠い記憶だ。あの時を境に、七海の世界は一変した。
「……そんなことも、ありましたね。ですが、過去のことです。私など、何処まで行っても駒は駒ですよ。アナタが駒を失うことを嘆いてどうするんです。それでは示しがつかないでしょう」
瞬間、頭が揺れた。骨が痺れ、頬に燃えるような感覚が広がる。倒れた身体を布団が受け止める。柔らかな感触を確かめてようやく、殴られたのだと気づいた。
七海は分厚い硝子越しに眺めるような視線を五条に向けた。
「私を殴って事態が好転するならどれだけでも殴ってください。けれどそれで現状は好転しませんよ」
五条が腕を振りかぶる。七海は目を閉じ、歯を食いしばった。しかし予想していた衝撃は訪れず、かわりに肩を強い力で押さえつけられる。暗い部屋で、影が七海に圧し掛かる。
獣だ、と思った。己を圧倒する無言の獣。
「言いたいことがあるなら言葉にしてください。アナタに口はついていないのですか」
五条は七海の言葉が聞こえていないかのように七海の服に手をかけ、半ば引き裂くようにして肌を露にさせた。弾け飛んだボタンがカラカラと乾いた音を立てて床を転がっていく。
「……子供だ。まるで子供だ。そうでしょう? 自分の我が儘が通らなくて駄々をこねている、しようがない、」
「――そろそろ黙れよ、七海」
ぼそりと、五条が呟いた。彼の掌が七海の胸を這い、心臓が脈打つ場所を一際強く押さえる。
「わかってるんだよ、全部」
なにもわかっちゃいない。アナタはなにもわかっちゃいない。私だってそうだ。
両腕を捩じり上げられる。関節が悲鳴を上げる。圧し掛かられる形で拘束される。抗っても無意味だ。
七海は虚ろな瞳でベッドから壁に立てかけてある鏡を見た。暗い部屋の中、犯す者と犯される者、二体の獣が映っている。きっと私は影で、このひとは限りなく光に近い存在なのだ、と七海は考えた。
荒い息が首筋を辿る。力なく伸ばした指先で、鏡に映る姿をなぞった。
鏡には、目と口を塞がれたふたりの子供が映っている。
***
七海の体内にしつこく精を撒き散らし、塗り込んだことで男の熱も粗方冷めたらしい。五条は七海の身体から離れると、用は済んだとばかりにシャワーを浴びに部屋を離れた。
七海は乱れた髪を手櫛で整え、跡の残る身体を見下ろした。あちこちに痣が散らばり、噛み痕に唾液や精液も混じって惨憺たる有様だ。五条とのセックスはいつも一方的に犯されるだけで終わる。
けれど、彼が首筋に唇を当てるとき、足を抱え太ももに頬擦りするとき、彼は七海に縋っているのではないかと錯覚しそうになることがある。
七海は首を振ってその考えを遠ざけ、未だ部屋の中心に立っているスーツケースを困ったように眺めた。
シャワーの音が止んでから暫くして、スーツを着込んだ五条が七海のもとに現れた。いつも通りの表情を浮かべ、髪もきっちりとセットされている。
彼は胸元を探ると、無造作に七海に向かってなにかを投げつけた。軽い音を立てて布団に落ちた表紙を、七海は他人事のように眺めた。
五条は鼻で笑うように息をして、二冊のパスポートに対し顎をしゃくった。
「海外に行く」
「ご丁寧に二冊もありがとうございます。けれど警察が出国を許しませんよ。いっそ私の身体をこれに詰めて発送させた方がお手軽では?」
七海がスーツケースを指さすと、五条は侮蔑交じりの笑みを浮かべてみせた。
「警察に知り合いくらいいる。あとオマエのパスポート二冊じゃない。僕とオマエの分だから」
「は?」
七海は目を見開き、問い返した。五条からの返事はなく、恐る恐るパスポートを開く。片方は七海の顔写真に偽名が載っている。いや、戸籍がそもそもないのだから偽名とさえも言えないのかもしれない。
もう片方を開く。そこには確かに五条の顔写真が載っていた。
「どういう、ことです」
「オマエと一緒に海外へ行くだけだよ」
「な、……一体どういう心算です。五条会は? どうされるんです」
五条は一度息を止め、やがて深々と息を吐いた。そして心底疲労したような声で言った。
「僕は僕がどこへ行こうと構わない。未練なんて、ここに未練なんてなにもないんだ――ほとぼりが冷めるまで一緒に逃げよう。誰も海外までは追ってこないさ」
七海は背筋を凍り付かせ、慄く手でパスポートをそっと元の位置に戻した。
「きっと上手くいきやしない」
「やってみないとわからないだろう」
「地獄しか待っていませんよ。アナタは……アナタ、何を選んでいるかわかっていますか? 不便のない、真っ当な生活を捨てていつ私に殺されるかと怯える日々を過ごすんですよ」
五条は目を細めると、唇を緩めた。
「そっかあ、七海には僕の暮らしが『真っ当』にみえてたんだね」
五条は可笑しそうに言い、頭を振った。
「知らなかったんだね。僕たちはこれまでも地獄を生きてきたし、これからもずっと地獄を生きるんだよ。地獄の種類が変わるくらい、どうってことないさ」
――島へ行こう、と彼は言った。
「島へ行こう。一緒に青い海を見に行こう」
五条は七海の前髪を掴むと、瞳を覗き込んだ。彼の青い瞳が七海の瞳をまっすぐに見つめる。
「まだ見たことがないんだろう、僕の瞳のような海を」
――アナタのことなどこれっぽっちも愛していないけれど、その言葉は人生の中で一番愛おしかった。アナタの瞳から波の音が聞こえる。
アナタだけが、私の人生で輝いていた唯一のもの。光に導かれ、私は地獄を生き続ける。
『――死ぬのは怖い?』
かつて五条と敵対した夏油を前にして、五条は七海に問いかけた。彼の手は七海の喉を強く締め付けている。七海は両手で五条の手を包み、挑戦的な笑みを浮かべた。
『「海」というものを見ることが出来なくて残念でした。ただそれだけです』
それが、ふたりが交わした初めての会話だった。
