呪術廻戦(五七)
肌を刺す寒気にぶるりと身震いし、七海は毛布を手繰り寄せた。手に感じる抵抗を無視し、毛布を引っ張りだして古傷の痛む身体に巻きつける。隣からなにやら人の呻く声がしたが、七海は聞こえなかったふりをした。
重く腫れぼったい瞼を上げ、鼻をすすりながら部屋の片隅に置かれている石油ストーブを見遣った。夜の間に灯油が切れたのか、それは火を失い金属部分はすっかり冷え切っていた。
ストーブの隣には、開かれて衣服が散らかったままのスーツケースが置かれている。
「さむいー、寒いよ七海。僕にも毛布頂戴。あっ、七海はあったかい」
がばり、と後ろから抱き着いてきた男が耳元で情けのない声を出した。
「私だって寒いんです。昨晩服を着る体力さえ残らない運動をさせられたので」
う、と言葉に詰まった五条は、七海が身体に巻きつけていた毛布の裾を捲り上げて素足を突っ込み、暖を取りながらぼやいた。
「ごめんってば、七海が魅力的だからさ、つい」
「今日も一応仕事ですよ」
「だからごめんってば」
あーもう、じゃあ僕が灯油いれてくるよ、と頭を掻きながら五条は渋々起き上がり、裸の身体を両腕で抱え、ぺたぺたとベッドから歩き去っていく。
ストーブの蓋を上げ、容器を取り出す五条を七海は横になりながら眺めていた。壁にかかっている時計は昼前の時刻を指している。無意識のうちに、左目へ手をやった。義眼の入れられた左眼窩は黒く厚い眼帯で固く覆われている。その事実に七海は安堵し、未だ慣れぬ己の身体のありように改めて戸惑った。
渋谷事変のあと、大怪我を負いながらも渋谷から救助された七海を支えたのは恋人である五条だった。朦朧とした意識のなか聞いた、七海を包み込むように降り注ぐ五条の声をかすかに憶えている。
そして、目を覚ましたとき視界のど真ん中にあった、彼の今にも泣きだしてしまいそうな笑顔。
家入に反転術式を施してもらっている間も、リハビリに取りかかっていた期間も、五条はよく七海の元に姿を現しては甲斐甲斐しく世話を焼いた。七海とて、渋谷事変のあと呪術界に如何なる地殻変動が起きたか、無知であった訳ではない。
私は大丈夫だ、病院でしっかりと保護されている、ここは安全だし私の意識も明瞭だから五条さんは五条家と高専のことを第一に考えてくれ、と口が酸っぱくなるほど何度も言い含めた。しかしそれでも「七海の恋人は僕だけなんだから」と病室にくることをやめなかった。
一度など、今日は来なかったと安心して眠りに就いたら、深夜に五条がじっと七海の顔を無言で覗きこんでいた。不意に目を覚ました七海は心底驚き、反射的に殴りかかったほどだ。
「あー、灯油の残りが少ないんだけど、買いに行った方がいいかな? なくなるまでここにいる?」
五条は黒い綿のパンツにシャツ一枚という軽装で灯油を裏の小屋まで汲みに行き、ストーブに充填した。
「どうでしょうね。アナタのやる気次第ですよ」
「じゃあ七海の気分次第だ」
「そうやって責任を転嫁するのやめてもらってもいいですか」
「責任は転嫁してないって。七海の尻に敷かれているだけ」
「喜びながら」
「そう、僕は七海のいうことを聞けるのが嬉しいから」
変態ですか、と呟くと五条はへへ、と笑った。
ふたりは仕事のために臨時で一軒の家に住んでいた。古い木造の平屋で、到着した当初は錆びつき外壁が浮いている外観に慄いたものの、伊地知が手配してくれた建物だけあって、内部は綺麗にリフォームされている。
板張りの床と広いベッドルーム、簡素だけれども十分な設備を備えたダイニングキッチン。
ベッドから起きだし洗面所へ行った七海は、琺瑯の洗面台で顔を洗い、鏡を見つめた。鏡の中にいる男の左半身は醜く焼け爛れ、引き攣った傷跡が痛々しく残っている。
初めて鏡を差し出した看護師のためらいが滲む手つき。傷口を覆うテープを外すチリチリとした痛み。腕を組んで病室の片隅に佇む五条の突き刺さるような視線。
病室でベッドに横になりながら、怪我をしたあとの己の姿を初めて認めた七海は、五条に向かって言い放った。
「私は術師を続けます」
そのあと引き起こされた騒動は、未だに高専で語り草になっていると、家入や夜蛾からことある毎に笑われる。
七海はキッチンまで歩いていくと、冷蔵庫の扉を開け、五条に声を掛けた。
「朝、いやもう昼か。昼食を作りましょうか」
「んん、七海のご飯もいいけど、僕ラーメン食べに行きたいな」
「またですか。アナタ随分あそこのラーメンが気に入ったんですね」
「うん、なんか素朴な感じが一周回って新鮮というか」
ふう、と息を吐いて七海は冷蔵庫の扉を閉めた。
「でしたら出かける準備をしましょう」
七海は鏡の前でシャツを羽織り、ネクタイを締めた。いつもの黒い服とサングラスを身にまとった五条が七海のうしろに立ち、「僕がつけてあげる」とカラーピンを手に取る。
五条はいつも嬉しそうに七海のカラーピンをつける。一度、どうしてそんなに嬉しそうなのかと問いかけたことがある。彼は、「七海が僕のものになった気がするから」とあっさり言い放ち、満面の笑みを浮かべた。
五条の大きく、武骨で、けれどしなやかで器用な手が、七海の襟元を固定させる。金具を閉じ、ネクタイを整える指先を、七海はじっと見つめていた。誰かのものになるというのも、好いた相手ならば満更でないなと思いながら。
五条は満足げな息を吐くとジャケットを手に取り、七海に腕を通させた。釦を掛け、鏡を七海の肩越しに覗きこんで
「今日も七海はきれいだね」
と軽い調子で言う。
「こんな傷のある人間にいう台詞でもないでしょうに」
「オマエがきれいだからきれいって言っているの。誉め言葉は素直に受け取りなよ」
七海は五条に整えられた己の姿を鏡を通して眺め、呆れたように肩を竦めると、黒い羊毛でできたコートを着てマフラーを巻いた。左手にだけ皮の手袋をはめる。
ことあるごとに五条は七海に対して綺麗だ、と言う。その言葉が嘘でないことは、嫌というほど夜に、時には白昼に、肉体を通じて実感させられる。彼は心底私を愛しているのだ。嘘偽りなく。
彼にとっては私を構成する皮の一枚が焼けてしまっただけなのだろうな。
七海は不思議な心地で傷跡を指先で辿った。この歪な傷の下に、五条が愛するに値する何が眠っているのか、未だに判別がつかなかった。
玄関の扉に鍵を掛け、敷かれた飛び石を渡る。七海の顔に勢いよく冬の寒さを孕む潮風が吹きつけ、整えた髪が一瞬で乱れた。寒風に肌がピリピリと傷む。
家の前にある猫の額ほどの庭には小石が敷き詰められ、やせ細った松の木や低木が植えられていた。
家の前に伸びる小径をしばし歩くと、堤防沿いの道に突き当たる。堤防が見えてきた辺りで、五条は無言のまま七海の右手を握った。生臭い磯の香りと、ふたりの体温が入り交じる。
黙々と歩くことに飽きたのか、五条はするりと手を解き堤防の上へ飛び乗った。軽々とせりあがった堤防の上を歩いてみせ、時折立ち止まっては下の道路を歩く七海を振り返る。
彼からは海が見えているだろう。冬の重く、もったりとして、荒い白波を立てる海が。
七海が術師に戻ると宣言すると、五条は交換条件を出した。
「僕が七海の補佐を務めることを許すなら、術師に戻ってもいい」
ふたりきりの部屋で告げられた言葉に、七海は当初耳を疑った。
「どのような権限に基づいてその条件を提示されているのでしょうか、五条さん」
七海は五条と対峙し、突き放すように言った。
「五条家ですか、高専ですか、それとも」
五条は平然と言った。
「オマエの、恋人として言ってる」
「自分が仰っている言葉の意味がおわかりですか?」
「オマエが術師を続けるなら、僕は五条家だって高専だって捨てるよ。今のオマエを守るためなら、僕はなんだって捨てる。もう見えないところに置いておかない」
そのとき見せた五条の真っ直ぐな瞳を、七海は切り捨てることができなかった。
しかし事がそう上手く運ぶはずもなく、話は「級の落ちた七海が、五条専属の補佐役術師となる」という方向でまとまった。
今となっては、それでよかったのだと、七海は思う。
ふたりに平穏な日々が訪れたのなら、それは正しい判断だったのだ。過程的にはどうあれ、結果的には。
「あのラーメン屋って定休日あったっけ」
「月曜日です」
「へー」
「工場相手の店でしたから」
七海が指差す先には、臨海工業地帯がある。海に面した土地に、所狭しと工場がひしめきあっている。鈍色の建物にはパイプが張り巡らされ、高い建物を這うように階段が設置されている。巨大なガスタンク、紅白に塗り分けられた高い煙突。
まるで眼前にせり出してくるかのような巨大な煙突から白い煙が立ち昇ることは、もうない。それが、五条と七海がこの場所へ呼ばれた理由でもあった。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい。今日もきてくれたの」
ふくよかな初老の女性が、エプロンで手を拭きながら五条と七海を出迎えてくれた。
工業地帯の外れに位置するそのラーメン屋は、古い木造の店舗を構えていた。油の跡が残る硝子戸を開けると、八席のカウンターと二つのボックス席がある。
店は、接客担当の夫人と調理担当の主人が、ふたりで切り盛りしているようだった。
七海と五条は迷いなく狭いカウンター席のスツールに腰かける。
「サングラスのお兄ちゃんはラーメン大盛り、ネクタイのお兄さんはラーメン炒飯セットでいい?」
「わかってるー。ありがと、それで」
「はいよ」
七海が口をはさむ間もなく注文は通り、二人はさっと差し出された温かなおしぼりで手を拭った。
「おふたりがここへ来てもう何日目だっけねえ」
「五日目だよ」
「そう、もう商売する宛ても碌にないでしょうに」
「いやいや、それが意外とすることが一杯あってさあ」
「へえ、そう。ここらにいた人はみんな隣県の工場に行っちゃってね、私たちもおまんまの食いあげよ」
「でもまだ夜の賑やかなのって感じるの?」
五条はさりげなく問いかけた。
「廃工場なのが信じられないくらい、毎晩毎晩うるさくって眠れやしないよ。なのにあの人はなにも感じないっていうし……。やっぱり、土地の汚染だとか、なんだとか、悪いことしたツケだと思うんだけどねえ」
「おい、余計なことを言うな」
厨房から怒号が飛ぶ。料理を持って出てきた主人は、厚い手のひらでラーメン丼をカウンターに置きながら、七海と五条に言い聞かせた。
「あんたらが何しに来たかは知らないが、海にだけは近づくなよ。また昨日一人釣りかなんかしてた奴が落っこちたらしい。ここいらの海は一度落ちると一気に沖まで持っていかれるからね、くれぐれも岸に戻れると思うんじゃないよ」
「気をつけます」
七海は神妙に頷き、割り箸を取って二つに割った。
「はー美味しかった。秘訣はなんだろうね、七海。かつおだし?」
「鶏ガラでは……。それはそうと五条さん」
五条は腕時計を見遣ると、掌を開いてみせた。
「そろそろ仕事を完全に片付けようって? 僕はもうちょっと七海と一緒に一軒家で暮らしていてもいいけどな」
「東西南北、すべて祓いました。残るは中央の一角。今日で終了です」
「無駄に広くて雑魚が多かったなあ」
「歴史のある土地ですから。土地を接収して作られた工場だけあって、人々の負の感情も溜まった」
「で、僕は今日中央にいる特級一体と一級を何体か祓えばいいワケね?」
「はい」
七海は緩ませていたネクタイを締め直し、工場群の中心地へと向かって歩き始めた。五条は頭の後ろで手を組み、ぶらぶらとそのあとを追ってくる。
「『まるで生きているような廃工場』」
「工場だけが死にきれなかったのでしょう。哀れなものです」
「僕たちが死なせてあげよう」
「はい」
午後から降り出した霧雨で周囲一帯が煙る。うっすらと浮かび上がる工場の影で、赤色灯が鮮やかに瞬いた。
七海は指を組み、諳んじる。
「『闇より出でて闇より黒く その穢れを禊ぎ祓え』」
帳が下りる。無人の工場が脈打ち、壁が鈍色に輝き始める。
七海は隣に立つ五条の手を、言葉なく握った。すると力強く握り返される。
私たちに帰る家は、まだない。海外に構える予定の海辺の家は、まだお預けだ。
けれど私は、彼とならばどこへでも行ける。世界中のどこへでも、この命の続く限り。
七海は五条と手を繋いだまま、闇へと強く一歩踏み出した。
重く腫れぼったい瞼を上げ、鼻をすすりながら部屋の片隅に置かれている石油ストーブを見遣った。夜の間に灯油が切れたのか、それは火を失い金属部分はすっかり冷え切っていた。
ストーブの隣には、開かれて衣服が散らかったままのスーツケースが置かれている。
「さむいー、寒いよ七海。僕にも毛布頂戴。あっ、七海はあったかい」
がばり、と後ろから抱き着いてきた男が耳元で情けのない声を出した。
「私だって寒いんです。昨晩服を着る体力さえ残らない運動をさせられたので」
う、と言葉に詰まった五条は、七海が身体に巻きつけていた毛布の裾を捲り上げて素足を突っ込み、暖を取りながらぼやいた。
「ごめんってば、七海が魅力的だからさ、つい」
「今日も一応仕事ですよ」
「だからごめんってば」
あーもう、じゃあ僕が灯油いれてくるよ、と頭を掻きながら五条は渋々起き上がり、裸の身体を両腕で抱え、ぺたぺたとベッドから歩き去っていく。
ストーブの蓋を上げ、容器を取り出す五条を七海は横になりながら眺めていた。壁にかかっている時計は昼前の時刻を指している。無意識のうちに、左目へ手をやった。義眼の入れられた左眼窩は黒く厚い眼帯で固く覆われている。その事実に七海は安堵し、未だ慣れぬ己の身体のありように改めて戸惑った。
渋谷事変のあと、大怪我を負いながらも渋谷から救助された七海を支えたのは恋人である五条だった。朦朧とした意識のなか聞いた、七海を包み込むように降り注ぐ五条の声をかすかに憶えている。
そして、目を覚ましたとき視界のど真ん中にあった、彼の今にも泣きだしてしまいそうな笑顔。
家入に反転術式を施してもらっている間も、リハビリに取りかかっていた期間も、五条はよく七海の元に姿を現しては甲斐甲斐しく世話を焼いた。七海とて、渋谷事変のあと呪術界に如何なる地殻変動が起きたか、無知であった訳ではない。
私は大丈夫だ、病院でしっかりと保護されている、ここは安全だし私の意識も明瞭だから五条さんは五条家と高専のことを第一に考えてくれ、と口が酸っぱくなるほど何度も言い含めた。しかしそれでも「七海の恋人は僕だけなんだから」と病室にくることをやめなかった。
一度など、今日は来なかったと安心して眠りに就いたら、深夜に五条がじっと七海の顔を無言で覗きこんでいた。不意に目を覚ました七海は心底驚き、反射的に殴りかかったほどだ。
「あー、灯油の残りが少ないんだけど、買いに行った方がいいかな? なくなるまでここにいる?」
五条は黒い綿のパンツにシャツ一枚という軽装で灯油を裏の小屋まで汲みに行き、ストーブに充填した。
「どうでしょうね。アナタのやる気次第ですよ」
「じゃあ七海の気分次第だ」
「そうやって責任を転嫁するのやめてもらってもいいですか」
「責任は転嫁してないって。七海の尻に敷かれているだけ」
「喜びながら」
「そう、僕は七海のいうことを聞けるのが嬉しいから」
変態ですか、と呟くと五条はへへ、と笑った。
ふたりは仕事のために臨時で一軒の家に住んでいた。古い木造の平屋で、到着した当初は錆びつき外壁が浮いている外観に慄いたものの、伊地知が手配してくれた建物だけあって、内部は綺麗にリフォームされている。
板張りの床と広いベッドルーム、簡素だけれども十分な設備を備えたダイニングキッチン。
ベッドから起きだし洗面所へ行った七海は、琺瑯の洗面台で顔を洗い、鏡を見つめた。鏡の中にいる男の左半身は醜く焼け爛れ、引き攣った傷跡が痛々しく残っている。
初めて鏡を差し出した看護師のためらいが滲む手つき。傷口を覆うテープを外すチリチリとした痛み。腕を組んで病室の片隅に佇む五条の突き刺さるような視線。
病室でベッドに横になりながら、怪我をしたあとの己の姿を初めて認めた七海は、五条に向かって言い放った。
「私は術師を続けます」
そのあと引き起こされた騒動は、未だに高専で語り草になっていると、家入や夜蛾からことある毎に笑われる。
七海はキッチンまで歩いていくと、冷蔵庫の扉を開け、五条に声を掛けた。
「朝、いやもう昼か。昼食を作りましょうか」
「んん、七海のご飯もいいけど、僕ラーメン食べに行きたいな」
「またですか。アナタ随分あそこのラーメンが気に入ったんですね」
「うん、なんか素朴な感じが一周回って新鮮というか」
ふう、と息を吐いて七海は冷蔵庫の扉を閉めた。
「でしたら出かける準備をしましょう」
七海は鏡の前でシャツを羽織り、ネクタイを締めた。いつもの黒い服とサングラスを身にまとった五条が七海のうしろに立ち、「僕がつけてあげる」とカラーピンを手に取る。
五条はいつも嬉しそうに七海のカラーピンをつける。一度、どうしてそんなに嬉しそうなのかと問いかけたことがある。彼は、「七海が僕のものになった気がするから」とあっさり言い放ち、満面の笑みを浮かべた。
五条の大きく、武骨で、けれどしなやかで器用な手が、七海の襟元を固定させる。金具を閉じ、ネクタイを整える指先を、七海はじっと見つめていた。誰かのものになるというのも、好いた相手ならば満更でないなと思いながら。
五条は満足げな息を吐くとジャケットを手に取り、七海に腕を通させた。釦を掛け、鏡を七海の肩越しに覗きこんで
「今日も七海はきれいだね」
と軽い調子で言う。
「こんな傷のある人間にいう台詞でもないでしょうに」
「オマエがきれいだからきれいって言っているの。誉め言葉は素直に受け取りなよ」
七海は五条に整えられた己の姿を鏡を通して眺め、呆れたように肩を竦めると、黒い羊毛でできたコートを着てマフラーを巻いた。左手にだけ皮の手袋をはめる。
ことあるごとに五条は七海に対して綺麗だ、と言う。その言葉が嘘でないことは、嫌というほど夜に、時には白昼に、肉体を通じて実感させられる。彼は心底私を愛しているのだ。嘘偽りなく。
彼にとっては私を構成する皮の一枚が焼けてしまっただけなのだろうな。
七海は不思議な心地で傷跡を指先で辿った。この歪な傷の下に、五条が愛するに値する何が眠っているのか、未だに判別がつかなかった。
玄関の扉に鍵を掛け、敷かれた飛び石を渡る。七海の顔に勢いよく冬の寒さを孕む潮風が吹きつけ、整えた髪が一瞬で乱れた。寒風に肌がピリピリと傷む。
家の前にある猫の額ほどの庭には小石が敷き詰められ、やせ細った松の木や低木が植えられていた。
家の前に伸びる小径をしばし歩くと、堤防沿いの道に突き当たる。堤防が見えてきた辺りで、五条は無言のまま七海の右手を握った。生臭い磯の香りと、ふたりの体温が入り交じる。
黙々と歩くことに飽きたのか、五条はするりと手を解き堤防の上へ飛び乗った。軽々とせりあがった堤防の上を歩いてみせ、時折立ち止まっては下の道路を歩く七海を振り返る。
彼からは海が見えているだろう。冬の重く、もったりとして、荒い白波を立てる海が。
七海が術師に戻ると宣言すると、五条は交換条件を出した。
「僕が七海の補佐を務めることを許すなら、術師に戻ってもいい」
ふたりきりの部屋で告げられた言葉に、七海は当初耳を疑った。
「どのような権限に基づいてその条件を提示されているのでしょうか、五条さん」
七海は五条と対峙し、突き放すように言った。
「五条家ですか、高専ですか、それとも」
五条は平然と言った。
「オマエの、恋人として言ってる」
「自分が仰っている言葉の意味がおわかりですか?」
「オマエが術師を続けるなら、僕は五条家だって高専だって捨てるよ。今のオマエを守るためなら、僕はなんだって捨てる。もう見えないところに置いておかない」
そのとき見せた五条の真っ直ぐな瞳を、七海は切り捨てることができなかった。
しかし事がそう上手く運ぶはずもなく、話は「級の落ちた七海が、五条専属の補佐役術師となる」という方向でまとまった。
今となっては、それでよかったのだと、七海は思う。
ふたりに平穏な日々が訪れたのなら、それは正しい判断だったのだ。過程的にはどうあれ、結果的には。
「あのラーメン屋って定休日あったっけ」
「月曜日です」
「へー」
「工場相手の店でしたから」
七海が指差す先には、臨海工業地帯がある。海に面した土地に、所狭しと工場がひしめきあっている。鈍色の建物にはパイプが張り巡らされ、高い建物を這うように階段が設置されている。巨大なガスタンク、紅白に塗り分けられた高い煙突。
まるで眼前にせり出してくるかのような巨大な煙突から白い煙が立ち昇ることは、もうない。それが、五条と七海がこの場所へ呼ばれた理由でもあった。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい。今日もきてくれたの」
ふくよかな初老の女性が、エプロンで手を拭きながら五条と七海を出迎えてくれた。
工業地帯の外れに位置するそのラーメン屋は、古い木造の店舗を構えていた。油の跡が残る硝子戸を開けると、八席のカウンターと二つのボックス席がある。
店は、接客担当の夫人と調理担当の主人が、ふたりで切り盛りしているようだった。
七海と五条は迷いなく狭いカウンター席のスツールに腰かける。
「サングラスのお兄ちゃんはラーメン大盛り、ネクタイのお兄さんはラーメン炒飯セットでいい?」
「わかってるー。ありがと、それで」
「はいよ」
七海が口をはさむ間もなく注文は通り、二人はさっと差し出された温かなおしぼりで手を拭った。
「おふたりがここへ来てもう何日目だっけねえ」
「五日目だよ」
「そう、もう商売する宛ても碌にないでしょうに」
「いやいや、それが意外とすることが一杯あってさあ」
「へえ、そう。ここらにいた人はみんな隣県の工場に行っちゃってね、私たちもおまんまの食いあげよ」
「でもまだ夜の賑やかなのって感じるの?」
五条はさりげなく問いかけた。
「廃工場なのが信じられないくらい、毎晩毎晩うるさくって眠れやしないよ。なのにあの人はなにも感じないっていうし……。やっぱり、土地の汚染だとか、なんだとか、悪いことしたツケだと思うんだけどねえ」
「おい、余計なことを言うな」
厨房から怒号が飛ぶ。料理を持って出てきた主人は、厚い手のひらでラーメン丼をカウンターに置きながら、七海と五条に言い聞かせた。
「あんたらが何しに来たかは知らないが、海にだけは近づくなよ。また昨日一人釣りかなんかしてた奴が落っこちたらしい。ここいらの海は一度落ちると一気に沖まで持っていかれるからね、くれぐれも岸に戻れると思うんじゃないよ」
「気をつけます」
七海は神妙に頷き、割り箸を取って二つに割った。
「はー美味しかった。秘訣はなんだろうね、七海。かつおだし?」
「鶏ガラでは……。それはそうと五条さん」
五条は腕時計を見遣ると、掌を開いてみせた。
「そろそろ仕事を完全に片付けようって? 僕はもうちょっと七海と一緒に一軒家で暮らしていてもいいけどな」
「東西南北、すべて祓いました。残るは中央の一角。今日で終了です」
「無駄に広くて雑魚が多かったなあ」
「歴史のある土地ですから。土地を接収して作られた工場だけあって、人々の負の感情も溜まった」
「で、僕は今日中央にいる特級一体と一級を何体か祓えばいいワケね?」
「はい」
七海は緩ませていたネクタイを締め直し、工場群の中心地へと向かって歩き始めた。五条は頭の後ろで手を組み、ぶらぶらとそのあとを追ってくる。
「『まるで生きているような廃工場』」
「工場だけが死にきれなかったのでしょう。哀れなものです」
「僕たちが死なせてあげよう」
「はい」
午後から降り出した霧雨で周囲一帯が煙る。うっすらと浮かび上がる工場の影で、赤色灯が鮮やかに瞬いた。
七海は指を組み、諳んじる。
「『闇より出でて闇より黒く その穢れを禊ぎ祓え』」
帳が下りる。無人の工場が脈打ち、壁が鈍色に輝き始める。
七海は隣に立つ五条の手を、言葉なく握った。すると力強く握り返される。
私たちに帰る家は、まだない。海外に構える予定の海辺の家は、まだお預けだ。
けれど私は、彼とならばどこへでも行ける。世界中のどこへでも、この命の続く限り。
七海は五条と手を繋いだまま、闇へと強く一歩踏み出した。
