呪術廻戦(五七)
アナタへの恋なんて知らない。
古びた廊下を進み、木製の扉に辿りつく。七海はポケットからキーケースを取り出し、銀色の鍵を鍵穴に差し込んだ。抵抗なく扉は開き、七海を部屋へ誘う。
正面の窓は少し開けられており、初夏の爽やかな空気が部屋に流れ込んでいた。窓の外に広がる鮮やかな緑と突き抜けるような青空。子供たちの声が遠くから響く。その無邪気な騒めきに、七海はちりちりと胸を焦がすような背徳感を抱いた。手を伸ばし、ゆっくりと窓を閉める。
これ程よく晴れた日の昼下がりに、私は一体なにをしようとしているのか。けれど、私はやめられない。私が私として生きるためには、この行為が必要なのだ。
七海は窓の前に設置された木の机に、ポケットから取り出した品を一定の間隔で並べた。アイロンが丁寧に当てられ、四角く畳まれた紺色のハンカチ。コンドームを二個、ミニボトルのローションをその横に。最後に、顔から外したサングラスを置く。
無造作なノックと同時に、部屋の扉が開けられる。いささか礼を失した振る舞いをする人間の正体が、この部屋の主であることを七海は知っていた。先程通りがかった高専の廊下で、わざと彼と一度目をあわせ、そうして七海はこの部屋にきたからだ。
五条は扉を閉め鍵を掛けると、七海の背後に立った。ぞわり、と七海の背筋が逆立つ。彼の気配は圧倒的だ。
「準備万端じゃん」
「いつも通り、お願いします」
七海は机を見下ろしながら、平坦な声で言った。
「今回の呪霊はどうだった?」
五条の長い指が七海の後頭部を掴み、髪を緩く引っ張った。
「問題ありません」
「そう、その割に我慢のきかなさそうな顔してるね」
「顔、見えないじゃないですか」
「さっきの話だよ。廊下に立ってたオマエ、色っぽすぎてその場で勃つかと思った」
「……獣でもあるまいし」
獣だって。誰がだ。誰が獣だというのだ。それはきっと私だ。呪霊を祓うたびに、肉体は沸騰し、けれど血管に氷点下の液体が流れているかのようなバランスの取れない乱れ方をする。叫ぼうが暴れようが治まらないこの混乱を、毎回落ち着かせてくれる五条に対して、獣だなどとよく言えたものだ。
「どうしたい、七海」
五条の声をきっかけに、七海は振りむいて五条と向かい合うと、膝を床についた。硬い板張りの床の感触が膝から伝わってくる。
彼の裾の長い上着を持ち上げ、ベルトを外す。ちらりと上に目線をやれば、五条はしまりのない笑みを浮かべながら七海を見下ろしていた。
引き抜いたベルトを床に置き、ファスナーを下げる。下着の中に隠されていた五条の性器は項垂れたままだったが、それでも十分な大きさと質量を備えていた。
七海は唇を開き、ためらいなく五条のペニスを銜えた。ふっ、と鼻から息が漏れる。
ちゅう、と先端に吸いついてから裏筋を舌で擦り、舌の表面を当てながら前後すると、あっという間に全体がむくりと勃ちあがった。口内を圧迫する感触に、じん、と七海の腰が疼く。溢れる唾液を飲み込みながら、仄かに塩気を帯びる五条の性器を、頬の内側や喉の奥を使って愛撫する。ごり、と喉の最奥まで押し込まれる苦しさに七海が目に涙を浮かべると、頭上から興奮を隠さぬ吐息が聞こえた。
「……ん、ふっ、」
部屋に水音が響く。じゅるじゅると亀頭をしゃぶり、口で銜えきれぬ部分は回した指を前後させる。五条の腰がぴくり、ぴくりと跳ねる度に、性器は硬度を増した。
やがて完全に勃起した五条の性器を前に、七海は口を離した。唇と性器を繋いでいた唾液の線が、重みに負けて落下する。
「あ……」
ごじょうさん、と小さな声で呟きながら七海は唾液で光る唇を舐めた。
はぁ、と五条が息を吐く。平常時よりも肌を赤く染めた彼は、床に座りこんでいる七海の太腿の間に足をいれ、硬く張りつめている七海の股間を、靴下を履いた足の裏でなぞった。
「終わり?」
七海は力の入らぬ下半身を内心で叱咤しながら立ち上がり、五条に背を向けて机に手をついた。
「どこを触ってほしいの、七海」
七海は手を回して己のベルトを外した。金属の触れ合う音がやけにうるさく響く。外したベルトが床に落下し、鈍い音を立てた。
ファスナーを下げ、下着もろともスーツをずり下げる。秘所を露わにし、突き出すことで無言のまま五条にねだると、五条の手が机上のローションに伸びた。
最低限の露出。七海は服を全て脱がない。五条は目隠しもとらない。何故ならばこれは日常の延長線上の行為であって、ただ任務で混乱する七海を落ち着かせるためになされるだけであり、ふたりの関係は「恋人」や「恋愛」などといった甘い単語で定義されるものではないからだ。
「……あっ、ふっ、ごじょ……さん、」
ちゅくり、と粘度の高い液体を体内に塗り込まれ、七海は背中を震わせた。五条の長い指が七海の体内を拡げるように押し入り、冷たい液体を際限なく流し込む。
七海は震える手を伸ばし、紺色のハンカチを掴んだ。それを口元に運び、生地を歯で銜える。
五条の左手が、労わるように七海の首筋をなぞった。
ぐちぐちと音を立てて七海の身体は拓かれていく。七海は目を閉じ、五条が与える刺激に集中した。余分なことを考えまいとした。ざらりとした感触を舌で抱く。唾液を吸った布地が、舌に張りついた。
七海の慣れた身体は五条の訪いを悦び、緩やかに緊張を解かせる。彼の指先が内壁の一点を押す度に、七海の身体はひくりと反応を返した。七海の勃ちあがった性器からぽたり、と白濁が一滴床に落ちる。
「――っ! っ、ん」
ぎゅう、と七海は歯を食いしばり、奥を抉る指を受け入れる。手をついた机が、ガタガタと鳴った。
「七海、もういい? いれるよ」
アルミのパッケージを破る音がする。背後で気配がし、やがて二個目が破られる。
「七海、起きて」
五条が背後から七海の脇に手を回し上半身を起こさせ、七海の性器に手際よくゴムを被せていく。すっかり敏感になった性器に与えられた刺激に、七海は思わず眉間に皺を寄せた。
五条の手が七海の腰を掴む。
七海の身体はその奥深くで五条を知っているのに、七海の肌は、腰以外に与えられる五条の掌の感触を知らない。
七海は胸に湧きあがる言葉にならない感情に目を細め、ぎゅっと口に銜えたハンカチを噛んだ。
「七海?」
五条さん、早く、さっさと、入れてください。私が余計なことを考える前に。
「なにか言いたいことがあるの、ななみ?」
私がなにか余計なことを口走る前に。
――ななみ?
七海は固く目を瞑り、首を左右に振った。揺れたハンカチが頬に当たる。五条の手が七海の背中を一撫でし、やがて腰を両手で掴んだ。
「――っ!」
つるりとした先端が、七海の後孔を押し開いて侵入する。硬い肉棒を腹で飲み込もうと、七海は歯を立て荒い息を繰り返す。ふー、ふーと呼吸をしているうちに、五条は慣れた腰つきで性器を根元まで全て埋めきった。ざらりと、陰毛が七海の尻をくすぐる。七海の肉壁が五条に絡みつき、絞るようにまとわりつく。
「あー、めちゃくちゃ気持ちいい。……七海、大丈夫? 苦しくない?」
七海は机に爪を立てながら、何度か首を縦に振った。
ゆるゆると内部を楽しむように前後していた五条は、悪戯に最奥を突き上げたあと、規則的に前後する動きを繰り返した。
「……、っ、ん、」
はぁ、と上擦った声を漏らした五条は、音を立てて腰を打つ。まるで耳まで犯されているようだ、と七海は熱の浮く頭で考えた。のぼせたような心地のまま、己を犯す五条を受け入れる。ああ、と七海は心のなかで感嘆した。
――きもちがいい。きもちがいい。彼に奥を突かれるだけで、世界が吹き飛びそうになる。
「――! っ、あ、ごじょ、あぁっ!」
ぐぶりと最奥を突かれた勢いで口を開いた七海は思わず叫び、突かれる動きに揺さぶられながら、机に手をつく。がむしゃらに身体を捻り、床に落ちたハンカチを拾おうと必死で手を伸ばした。
「ななみっ、随分余裕じゃん」
五条の手が七海の手を捕らえ、両手首を拘束する。背後に回された両腕に抗う術はなく、七海は上半身を倒したまま五条を受け入れた。
「あっ、や、ごじょうさ、あっ……こえ、声が、……っ!」
「いいって、どうせ聞こえない。もっと喘げよ七海」
「っ! ……いや、いやです、――あぁ、うっ」
体内を突く五条の性器が何度も奥を抉る。ぐりぐりとなかをこじ開けるように動き、七海の視界が白く瞬いた。
「あ、待って、ごじょ……さ、あ、もうい、いくっ」
「いいぜ、いけよ」
最後に与えられた五条の突き入れる動きによって、あ、と七海は唇を開いたまま硬直した。ぐっと背中が反り、全身が痙攣する。
見開いた瞳は、何も映していなかった。白濁をゴムの中に吐き、全身を駆け巡る快楽を受け止め切る。
やがて、七海はくたりと机に上半身を横たわらせた。
「は、あ……はっ、」
肩を上下させ、後を引く快感に七海はその身を震わせる。
いつの間にか拘束の解かれていた手で、額に浮かぶ汗を拭った。
「なーなみ。落ち着いた? もう動いていい?」
「……もう、抜いてくださって結構です」
「うわっ、酷っ。ひとりだけ冷静にならないでよ。僕まだいってないのに」
「勝手にさっさといってください」
はいはい、と不満げに五条は七海の身体に覆いかぶさった。彼を受け入れながら、七海は目を閉じる。
彼の体温を感じる。彼の匂いを感じる。彼の性器を、腹の奥で受け入れる。
それに特別な意味などない。私たちの間には欲望とその解消しかない。
恋なんて知らない。知らなくていい。この関係の発展など、望んでいない。
七海は揺すぶられるうちに滲んだ涙を拭ってくれる、柔らかな掌を受け入れながら心のなかで呟いた。
恋なんて知らない。
恋なんて知らない振りを、アナタも私も、ずっとしている。
「五条先生おつかれさま~」
「ありがとうございました」
「おう、気をつけて帰りなよ」
「なに言ってんの、寮すぐそこだよ」
生徒たちが笑いながら遠ざかる。五条は手を振り生徒を見送ると、鍵を取り出して高専の自室を開錠した。
ふと、彼がきたのだと思った。鍵は掛かっていたが、部屋には馴染んだ七海の気配が色濃く残っている。
案の定、机の上には暗色の紙箱が置いてあった。積み上げられた書類の上へ無造作に置かれたその箱の中には、七海が手ずから作った焼き菓子が行儀よく収まっている。
彼は律義な性格ゆえか、五条との間に事があったとき、礼として菓子を作っては部屋に残していく。そこに明確な言葉はなく、感情もない。七海が何を思ってその行為を繰り返しているのか、改めて問い質したこともない。
五条はただ七海の残していった菓子を受け取り、美味しく頂くだけだ。
今回は整然と並んだ紙のカップに黄金色のマドレーヌが詰まっていた。ひとつ手に取り食べようと口を開いたところで、飲み物がない、と気づいた。
行儀悪くマドレーヌを片手に持ったまま、ホールの自販機まで向かう。小銭を鳴らしていると、ホールのソファに腰かけた後ろ姿が目に入った。
自販機に小銭を投入しながら声をかける。
「未来ある若者を相手にしてると、身体に溜まった澱が浄化されていく気がするね」
「……アナタにも、澱が溜まるなんて感覚があったんですか」
「そりゃーもう、『上』を相手にしたときとかね、溜まりまくる訳ですよ」
七海は読んでいた新聞の頁をめくった。缶ジュースを自販機から取り出した五条はローテーブルを挟んで七海の正面に腰かけ、プルトップを引き上げた。
「またなにか、面倒なことでも言われたんですか」
「『面倒』。面倒ねえ。面倒なことしか言わないねえ、あいつら。わざとしてるんじゃないかな、アレ」
「ご愁傷様です」
「どーも」
五条は手にしていたマドレーヌを齧る。バターがふわりと香り立ち、上品な甘さが口の中に広がった。
「これ美味い」
「……それはよかった」
七海の顔は新聞で隠されていて見えない。ふたりの間に沈黙が落ちる。
時折生徒が歩き去り、窓の外からは自主訓練の掛け声が響いてくる。平和な午後だ、と五条は思った。
「虎杖君や伏黒君たちはどうですか。釘崎君の姿が今日はみえないようですが」
「んー、元気いっぱい。野薔薇は今日、一級術師に連れられて現場の社会科見学。あの術師と術式の系統が被ってるから色々勉強できると思うんだけど、ちょっと性格の相性が微妙なんだよね。ま、どうにかなるでしょ」
「それもある種の社会勉強ですよ」
「そうね」
五条は大きくマドレーヌを頬張り、すべてを口の中におさめて咀嚼した。ジュースを流し込み、深く息を吐く。
「オマエは? 七海」
「次の任務の話をするために、伊地知君を待っています」
ふーん、と五条は鼻から息を漏らし、顎を手で支えた。
「なんか面白い記事でも載ってる? 新聞」
「……アルゼンチンの最南端の岬から、南極大陸は見えないようです」
「へー、南極かあ。南極はまだ行ったことないな。七海はある?」
「ありませんよ」
「行きたい?」
ふー、と七海は溜め息をつき、静かな声で言った。
「そうですね。行けるなら行きたいです。ですが、いつでも旅行に行けるような、何にも囚われない暮らしこそ……」
「七海が欲しいもの?」
「どうでしょう。憧れますし、幸せだろうなとは思いますが。自由に暮らし、自由に愛す生活……」
「この仕事では無理だなー」
七海は沈黙し、静かに新聞を畳んだ。机の上にそれを置き、立ち上がる。
「アナタなら持っていそうですが。そんな暮らしを送る力を」
「買いかぶりすぎじゃない?」
「そうですか? 伊地知君がいらしたので私はここで失礼します。では」
「はーい」
ぷらぷらと五条は手を振り、七海を見送ろうとした。だが七海は逡巡したあと立ち止まり、遠くへ視線を遣りながら問いかけた。
「五条さん。アナタは、行きたいところがありますか」
「え? えーっと」
七海はサングラスを片手で押さえ、俯く。そして固い声を出した。
「いえ、余計なことを尋ねました。今のは忘れてください」
そして七海は一礼し、廊下の奥の事務室へと向かった。
***
授業を終えた五条は生徒を見送ると、ポケットからスマホを取り出し、画面を眺めた。いつも通り、補助監督や取るに足らない相手からの連絡しか表示されていない。
ふと、七海との関係が始まった頃のことを思い出した。彼が任務のあとに体調を崩すのは高専のときから変わらないが、二人の間に肉体関係が加わったのは七海が呪術師に復帰してからだ。高専生時代は、体調を崩してベッドに蹲る線の細い背中を、よく五条が撫でてやっていたものだ。その背中は大人になって随分と広く頑丈になり、背後から見える耳たぶや首筋には濃密な色気が漂うようになった。
授業の資料で肩を叩きながら廊下を歩く。先の方に伊地知の姿が見えたので、五条はためらいなく駆けより、彼の肩に手を回した。
「ヒッ」
「おい伊地知ー、今度の七海の任務先って何処?」
すると隣から呆れ果てたようなため息が聞こえてきた。
「ま~た始まったよ、五条の『七海病』。ことある毎に暇さえ見つけては『七海ー、ななみー』って。オマエは七海の母ちゃんかよ」
「うっさいなあ。日下部には関係ないだろ」
「そう思う? でも俺七海の行き先知っているんだけどなー。五条が俺の言うこと聞くなら教えてやってもいいけどなー。ヒントをやろうか? 俺に551の豚まん買ってきてくれるってよ」
「は? 伊地知、どうして僕に情報が回ってこないの」
「えっと、七海さんはいま京都にいらっしゃいます」
「京都? なんでまた。京都校も加茂も禪院もいるじゃん」
「加茂家の依頼で、巫女の護衛をするんだと」
「巫女? 確かに加茂家には巫女がいるけど」
「それも飛び切り高級な桐箱に入った箱入りお嬢様がな。なんでも儀式のために、ずっと閉じ込められている家から出る必要性が生じたらしい。その身辺警護だと」
「なんでまたそんな任務に七海が駆り出されるのさ。それこそ加茂家の仕事でしょ」
「加茂家も、禪院家も、京都校のお偉いさんも、いま一級が根こそぎかき集められて別件に駆り出されてる。『上』からの指示でな。俺達には情報が下りてきちゃいないが、五条家の坊ちゃんならその辺の事情をよーくご存知じゃないのかい?」
五条は唇を曲げ、己が抱いている不満を露わにした。
「ま、七海が帰ってくるまで精々大人しく留守番してるこったな」
「……あの『巫女』いま何歳だったかな」
日下部は底の知れない瞳でじっと五条を見つめ、四方八方に伸びた黒髪を手で撫でつける。そして五条に対し警告を発する口調で告げた。
「あまり七海に執着してやるな、五条。あいつのためにも」
「執着なんかじゃないよ。あいつが頼ってくるだけ」
「お前さんのそれは執着であり甘えだよ。まあ俺の問題じゃないから? 勝手にしろ。じゃあな」
そういって日下部はその場から立ち去る。あとには五条と、鳩尾を手で押さえる伊地知だけが残された。
***
高専を歩く。ひとりの姿を無意識のうちに探す。目隠し越しに、彼の背中を追い求める。
彼はロビーにいた。五条の姿を認めると、彼は一度、強く視線を送ってきた。「いつもの」合図だ。
補助監督との会話を早々に切り上げ、七海のあとを追う。五条が高専に用意した部屋で、七海は待っている。
ノックと同時に部屋の扉を開けた。
七海は立っていた。窓を背景に、意志の強い表情をして。呪霊を祓った反動で弱り切っている姿とは対照的だった。
五条の視線は机の上に吸い寄せられる。そこに、七海が五条に抱かれる準備はなされていなかった。
「なな、」
「お呼びたてして申し訳ありません、五条さん。……お話があります」
七海は視線を五条から外し、そっと息を吸った。五条の目には見えた。七海の身体にまとわりつく、見知らぬ人間の呪力の残穢。
「私はもうアナタには抱かれません。いままでご迷惑をおかけしました。できれば……これまでのことはすべて忘れてください。では」
そう言い残し立ち去ろうとする七海の手首を、五条は反射的に掴んだ。
「どういうこと?」
「言った通りです」
「それで困るのはオマエだよ」
七海は感情のない瞳で五条を見つめた。
「いいえ、もう問題はありません。アナタは、この問題に対し、これ以上その手を煩わせる必要はない。では」
七海は五条の手を振り切り、部屋を出た。あとに五条が残される。
唐突に突きつけられた関係の終わりに、五条は目を見開きしばし硬直していた。七海の言葉を心で反芻する。
忘れてくれ? それは、もうこの手で触れてくれるなということか? オマエはふたりの間で共有した体温も秘密も、あっけなく捨てるのか。なんの価値もないと言わんばかりに。それは、あまりにも――。
襲いくる混乱のなか、手に残った七海の体温だけは逃さないようにと、五条は手を固く握りしめた。
部屋に立ち尽くしていた五条はのろのろとした動きでスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで番号を呼び出す。
呼び出し音が鳴るのは一回だけだ。
「あ、僕だけど。ちょっと頼みたいことがあって――」
***
「七海、七海、なーなみっ」
五条はロビーでコーヒーを飲む七海の顔を覗き込んだ。彼は心底嫌そうな顔をしてのけ反る。
「なんですか、五条さん。随分とご機嫌ですね」
「ご機嫌そうに見える? 七海も僕のことに関してはまだまだなんだね」
五条の発する圧に気づいたのか、七海は居心地悪そうに身じろいだ。
「なにか御用ですか」
「七海さあ、どうして最近僕からの電話にでてくれないの」
「でていないなんてことは……きっと仕事が忙しいときだったんです。申し訳ありません」
「でも直後に伊地知がかけたらでたよね」
七海は何も言わず、コーヒーカップを口元に運んだ。
「まあいいよ。ねえ七海、僕たち少し相互理解が足りなかったと思わない?」
「相互理解?」
「そう」
五条は満面の笑みを浮かべ頷いた。その目が笑っていないことは七海にも気づかれているだろう。
「そんなもの、最初からなかったでしょう」
「そうかな。じゃあ今からでも遅くないよね」
「五条さん、一体どういう――」
「あっ、五条先生、ナナミン! あれ、先生も行くの?」
「やあ悠仁。恵と野薔薇。揃ったね、よしじゃあ行こうか」
「は?」
七海はコーヒーカップを置き、五条の耳元で焦ったように囁いた。
「今日の引率は私だけだと聞いていますが」
五条は首を捻り、にっこりと笑った。
「そう。一年生たちと、現場を教える一級術師。それを見守る担任。なにか問題でも?」
「先生とナナミンって本当仲がいいよなー」
虎杖が無邪気に笑った。五条は七海の肩に腕を回し、両手でVサインを作ってみせる。その腕で抱いた身体が強張り、うっすらと汗をかいていることには気づいていないふりをした。
あの日、何事もなかったように七海は呪霊を祓い、一年生を指導し、帰り際に五条へ告げた。
「二度目はありません」
七海の瞳が五条を捉えることはなくなった。それどころか、彼は最近あからさまに五条を避けている。その事実に、五条は焦燥感を抱いていた。高専の長い廊下の先に七海の姿を認めるだけで、理由もわからず苛立つ。
五条はひとりになったとき、深く椅子に腰かけてしみじみと己の裡に発生した感情を眺めた。誰かに焦がれるような苛立ちを抱くのは人生で初めてだ。この身に宿る感情の意味を理解できず、首を傾げ、ままならない現実に頭を振る。頻回にスマートフォンを確認したが、七海からの連絡は途絶えたままだった。
めっきりと高専に寄りつかなくなった七海を久しぶりに見かけたとき、彼は机に座って手紙を書いていた。その姿を目にして、五条はふと悟った。あの手紙の相手はきっと、いつか七海が見知らぬ残穢を漂わせていた「誰か」だ。
七海は高専のデスクで、ボールペンでさらさらと流れるように文章を綴る。迷いは見えない。文章を考える躊躇いもない。相手に言いたいことが完全に定まっているのだ。
五条は七海の姿を目にした瞬間、己の内部で燻っていた苛立ちが一気に燃え上がるのを自覚した。頭に血が上り、まともに思考できなくなる。世界が真っ赤に染まる。
だん、と音を立てて机に手をつく。五条は椅子に腰かける七海に覆いかぶさった。その動きを予期していたかのように七海は手紙を伏せ、ボールペンを置いた。両手を机の上で重ね合わせる。肌には、まだ真新しい切り傷がついていた。
「相手は誰?」
「アナタには関係のないひとです」
「僕以外の相手を見つけたの?」
あからさまな侮辱に、七海の肩が震えた。
「弁えてください、五条さん。いくらアナタでも言っていいことと悪いことがあります」
「オマエが僕を必要としない理由なんてそれしかないでしょ」
「私が人のものになるのが許せないとでもいうおつもりですか」
七海は振りむき、意志の強い視線で五条を睨み返した。
「私とアナタはそんな関係ではなかった。それとも私を抱けなくなって焦っていらっしゃる? 私は従順でしたからね。あと、私の周辺をコソコソ嗅ぎまわるのもおやめください」
「……っ、」
「失礼します。では」
七海は五条を振り払いながら立ち上がると、部屋を出て行った。荒々しい足音が遠ざかる。
五条はその場に蹲り、頭を抱えて深くため息をついた。古びて傷が無数についた木製の床を見つめる。怒りで我を忘れた五条でも、己のした振る舞いが愚かで間違っていたことは、心底理解できた。
重い足音が扉の前で止まり、五条の部屋の扉をノックする。返事をする間もなく扉は開き、椅子の上で伸びていた五条に低音の声が浴びせかけられた。
「悟、腑抜けていないで仕事しろ」
「仕事ぉ? していますよ、今日だって一年相手に散々授業をして、二年相手に稽古までつけた」
「そっちじゃない、任務だ」
五条はボリボリと頭を掻き、目隠し越しに夜蛾学長を見上げた。
「なにかありましたっけ?」
「『なにかありましたっけ?』じゃない。各所からクレームの嵐だ。五条悟がまともに仕事しないとな」
「酷いなあ。そもそも皆、僕に仕事押しつけすぎなのが問題じゃない? 僕はちょっと時間が欲しくて休んでいただけですよ」
はー、と夜蛾は溜め息をつき、腰に手を当てた。
「七海の件か」
五条は無言のまま、椅子をぐるぐると回転させる。金属部位が軋んで耳障りな音を立てた。
「その件でも、いくつか情報が俺の耳に入っている。どういう料簡で、オマエは七海に監視をつけているんだ?」
「話がよくわからないな」
「五条家の人間が二十四時間ベッタリだそうじゃないか」
「七海がそう言ったの?」
「言わない。アイツは言わんよ」
五条は眉を上げ、唇を尖らせた。
「不審な京都出張が重なっていたから調査していただけです」
「五条家として? 違うだろう。オマエの極めて個人的な理由からだ」
夜蛾のサングラスが鈍く光る。机の奥で腰かける五条の姿が曲面に反射され映っている。
「オマエにはわかっていたな? アイツが任務を終えるたびに体調を崩していた理由。それが呪力の乱れだと、その出来の良い目で判断できていたんだろう」
「……ですが、解決方法まではわからなかった」
「そうだ。そして七海は京都で加茂家の護衛任務に就き、そこで同じ体質の奴がいると話を耳にした。しかもその悩みを克服できているという。話はわかったな? 悟、オマエもいい加減『七海離れ』しろ。彼から手を引け」
「……話は、それで終わりですか」
「よく考えろ、悟。善き道とはなにかをな。オマエは本当は賢いんだ。きっとわかる」
そう言い残し、夜蛾は立ち去った。五条は手を頭の後ろで組み、ふらふらと椅子を左右に回したあと、一番上の鍵がかかった引き出しからファイルを取り出した。
七海が京都で誰と会い、何をしているのか、詳細な報告が綴じられている。
五条は一番上に置かれていた写真を手に取った。五条家の偵察部隊が京都の街角でコーヒーを飲む七海を隠し撮りした写真だ。写真に写った七海は、盗撮者の存在を知っているかのように、その向こうに誰が存在しているかを見通すように、真っ直ぐカメラのレンズを見つめていた。
「……よし」
五条は何事かを決意し、椅子から立ち上がった。ずんずんと部屋を横切り、廊下に出る。五条を訪ねにきた伊地知が声をかける。
「あれ、五条さんお出かけですか」
「うん、ちょっと京都行ってくる」
「はい。……え、ちょっと待ってください、今日の仕事は」
「全部キャンセル。おつかれさまー」
「そんな、困りますよぉぉぉ」
伊地知の叫び声を背景に、五条はスマートフォンを取り出すと、新幹線の切符を手配するためサイトにアクセスした。
***
広大な敷地。人の手が丁寧に入り、整然と並んだ針葉樹たち。敷かれた小径。まるで五分前に馬車でも通っていたような異国じみた景色。実際、この土地は明治に来日した外国人が整備したのが始まりだ。庭には低木が並び、間に季節の花々が咲き誇る。
花々の上空を羽虫や蝶が飛び交い、周辺には甘い蜜の香りが立ち込めている。草の青い匂いと相まって、周辺の空気は濃すぎるほどだ。
庭には緩く盛り上がった丘のような場所があり、頂上部には東屋が置かれ、木製のベンチで休むことができた。そこから敷地の中央部に位置する洋館を一望することができる。
かつては栄華を極めたであろうバロック様式の洋館は、雨風に晒されて壁は灰色がかり、窓枠には錆が浮き出て、見るからにみすぼらしいなりをしていた。
傍らに寄り添うように作られた温室の硝子は全て罅が入り、割れ落ちている。中に渦巻く緑は不健康な色をしていて、嫌な臭いでもするのか鳥は一切近づこうとしなかった。
「ふーん、王道の『呪いの洋館』って感じ」
東屋のベンチの後ろに立ち、五条は掌を目の上に掲げてみせた。
ふー、と深くため息をついた七海は手にしていた文庫本を閉じると、それをテーブルの上に置いた。東屋のベンチに座ったまま、組んでいた足を入れ替える。ヘッセの本が風に煽られ、パラパラと頁が捲れた。
「なにをしにここへ……と訊ねるのも今更でしょうか」
「これは任務じゃないね」
「私はいま短期の休暇を取得しています。まあそんなこと、今更私が申し上げなくとも五条さんは既にご存知でしょうが」
「そしてオマエも、僕がしていたことを知っている」
「していたこと……? ああ、調査と監視の件ですか。私は特に怒っていませんよ。少々不誠実な態度をアナタに対して取ったことは反省しています。あと」
「あと?」
「学長が……夜蛾学長が私よりも怒っていらっしゃったので、怒りどきを見失ってしまいました」
「ははは。おもしろいなあ」
「こってり絞られたのだと期待しているのですが」
「そうだね。それより、真正面から諭されたのが効いたな」
「結構なことです」
七海はサングラスを指で押し上げ、洋館を眺めた。悟の目は、内部をうろつく呪霊の姿かたちまではっきりと認識している。
「この呪いの館と、呪力の乱れがどう結びつくのかな?」
七海はネクタイを僅かに指で緩めると、テーブルを丁寧に整えた爪でコンコンと叩いた。
「加茂家の親族に当たるM氏にお話を伺って、対処法を伝授していただきました」
「例の克服した人」
「私の症状は呪力の器を上手く肉体と重ね合わせられず、また形を維持できていないことが原因であると……縁が綻び、そこから呪力が流れ出るイメージだそうです」
「ふぅん」
「その対処法を一対一で学んだところで、この場所に送り込まれました。ここに巣くっている呪霊を倒しきれば技術が身につくであろうと」
「ははっ、割と脳筋だねその人」
「報酬も兼ねています。無償で教えていただく代わりに、私はここで呪霊を祓い、この土地は綺麗になって――」
「売りに出される」
「そういうことです」
五条はベンチの背もたれに両手をのせ、体重をかけた。
「ねえ七海。……そんなに、僕を頼るのが嫌だった?」
自分自身でも驚くほど、穏やかで柔らかな声が出た。
「対症療法より、根治療法の方が必要でしょう」
七海はそう言うと俯き、小さく笑った。
「きっとそういうことではありませんね。……私にとって大事だったのは、私がひとりでもやっていけるという事実です。アナタに頼り切りになりたくなかった。自立すること、それが私にとって最も大事なことです。それは、いついかなる場合でも変わることはない」
「そう」
「アナタに抱かれるたび、私はつらくて仕方ありませんでした。惨めでした。自分のコントロールさえできない不出来な存在であると実感していました」
「……僕は、嬉しくて仕方なかったよ。そうだね、きっと嬉しかったんだ、僕は。なにが理由でも、オマエの役に立ててたから。思ったんだけど、僕はオマエが好きだったんだよ」
「私も、アナタのことがずっと好きでした。恋人になりたいと、願うくらいに」
「僕たち、なれないのかな」
「恋人に?」
「そう」
「アナタ次第ですね」
「――なろうよ。好きだ、七海」
七海は遠くを見つめていた視線を五条に戻し、サングラス越しに五条の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「私も好きです。五条さん、私の恋人になってください」
風が吹き抜け、七海の髪を揺らす。五条は手を伸ばして七海のなめらかな頬を撫でると、彼と初めての口づけを交わした。
飽くことなく何度も唇を重ね合わせるうちに、感情が昂る。
「ねえ、七海」
「……なんですか」
とろりと蕩けた瞳で、七海は五条を見上げた。初めて真正面から見る七海の色づいた表情は、五条の背骨を震わせた。
「もうちょっと、もうちょっと落ち着いたところで、ふたりきりになりたいな……なんて」
「はぁ」
吐息か喘ぎか判別のつかない息を漏らした七海は、冷静さをわずかに取り戻して洋館をまじまじと眺めた。
「ですが私の休暇の残りは二日でして、それまでに洋館の呪霊を祓わないと……」
「『茈』使って……」
「駄目です。絶対にやめてください。ここら一帯が売り物にならなくなります」
土地の計測からやり直しだろうな、と五条は考えたが口にはしなかった。
開いた左手に右手の拳をぶつける。
「よし、七海。全部祓っちゃって。僕と休暇を過ごすために頑張ってくれるよね?」
「私を舐めないでくださいますか。すぐ終わります」
七海は立ち上がると、上着を脱いでナマクラを手に取り、力強く洋館まで歩み始めた。
「ねえ七海、一体や二体や三体くらい僕が祓ったっていいでしょ。待ってるの暇すぎる」
「ご自由に」
七海は振り返り、静かに笑った。
「ですがその前に、伊地知君に電話をして二日間の休暇をもぎ取ってください。できますよね? 五条さん」
(おまけ)
「五条さんっ、……! これ、解いてくださいっ」
七海は大柄な男二人が寝転がってもまだ余裕のあるベッドの上で、焦りながら身を捩った。その両腕は頭上に上げられ、一本の布で縛られている。
七海は拘束を解こうと暴れているが、五条によって呪力の込められた布が緩む気配はまったくなかった。
「だーめ。七海が恥ずかしがって暴れるからでしょ」
七海に覆いかぶさっていた五条は身を起こすと、指先で七海の鼻先を突き、そのまま己の長い睫毛を擦った。
「ですが!」
「僕は七海の全部が見たいの。これまでずっとお預けだったんだから。裸にしたいし、肌に触りたいし、正面から抱きしめたいし、キスもいっぱいしたいし、アソコも舐めたいし色んな体位でオマエを抱きたいし……あっ、そんな引いた顔しないで。やっぱ腕そのままね」
七海は自分がどんな顔をしているのかは分からなかったが、今すぐここから逃げないと碌な目に合わないことだけはよく分かった。
五条は顔をぐい、と七海に近づけた。彼の温い吐息が七海の頬に当たる。
「ねえ、本当に嫌? 本当にどうしても嫌っていうなら腕を解いてあげる。でも七海、本当は嫌じゃないよね?」
七海は顔を背け、唇を噛みしめた。胸の内側に、じんわりと熱が広がる。七海を狂わせる熱の種が、そこには確かにあった。
「……アナタと改めて抱き合うの、恥ずかしすぎて……」
五条はニイ、と笑ってみせた。深い青色が細められる。
「七海はシャイだなあ。なにも気にならなくなるくらい、僕が愛してあげるね」
五条が七海の足を担ぎ上げる。その奥はとうに解されて、ドロドロになって男の訪いを待ちかねている。
五条の動きをぼんやりと眺めていた七海は、彼が自身の大振りな性器にゴムを着けていないことに気づいた。思わず唾を飲みこむ。
あれがいつも私の腹に入っていた。それが今日は、直接私のなかに。
無意識のうちに腰を浮かせる七海の欲望を熟知しているかのように、五条は七海と視線をあわせながら性器を七海の後孔へゆっくりと挿入していく。
体内に生まれる圧迫感と異物感に、顔を顰めた。だがそれも最初だけだ。やがて体は男の訪いを悦び、芯から緩やかに蕩けていく。
七海は熱に蕩かされた瞳で五条を見た。正面から見る彼は、信じられないほどの存在感を放ち、この世のものとは思えないほど美しかった。
そんな男が、夢中で七海を貪っている。
それも恋人として。七海は夢の中にいる心地のまま、身を穿つ硬直と熱に身を委ねていた。拘束されている腕がギシギシと軋んだが、その痛みさえ五条の愛に思えた。
五条が息を詰まらせる。七海はうっすらとした笑みを浮かべ、五条の腰に両足を回した。
「五条さん、私の、なかに……」
五条の眼が静かに光った。
「いいの。……だすよ、ななみ」
彼が深く覆いかぶさり、七海を力一杯抱きしめた。耳元で、荒い息の合間に「愛してる」と何度も告げる。
やがて彼は動きを止め、ヒクリと痙攣した。七海の腹の奥に熱が広がる。
「……あっ、ふっ、」
七海は体内に男の種が吐き出された歓びに身を震わせ、夢中で五条の口を吸った。
いつまでもふたりで絡み合っていたい。七海の昏い願いを叶えるように、五条は七海の掌に手をあわせ、
「これで終わりだと思ってないよね」
と囁いた。
「……はい」
待ちわびていた夜は長い。きっと五条は七海の隅々まで愛してくれるだろう。
その予感に、七海は胸を昂らせた。
古びた廊下を進み、木製の扉に辿りつく。七海はポケットからキーケースを取り出し、銀色の鍵を鍵穴に差し込んだ。抵抗なく扉は開き、七海を部屋へ誘う。
正面の窓は少し開けられており、初夏の爽やかな空気が部屋に流れ込んでいた。窓の外に広がる鮮やかな緑と突き抜けるような青空。子供たちの声が遠くから響く。その無邪気な騒めきに、七海はちりちりと胸を焦がすような背徳感を抱いた。手を伸ばし、ゆっくりと窓を閉める。
これ程よく晴れた日の昼下がりに、私は一体なにをしようとしているのか。けれど、私はやめられない。私が私として生きるためには、この行為が必要なのだ。
七海は窓の前に設置された木の机に、ポケットから取り出した品を一定の間隔で並べた。アイロンが丁寧に当てられ、四角く畳まれた紺色のハンカチ。コンドームを二個、ミニボトルのローションをその横に。最後に、顔から外したサングラスを置く。
無造作なノックと同時に、部屋の扉が開けられる。いささか礼を失した振る舞いをする人間の正体が、この部屋の主であることを七海は知っていた。先程通りがかった高専の廊下で、わざと彼と一度目をあわせ、そうして七海はこの部屋にきたからだ。
五条は扉を閉め鍵を掛けると、七海の背後に立った。ぞわり、と七海の背筋が逆立つ。彼の気配は圧倒的だ。
「準備万端じゃん」
「いつも通り、お願いします」
七海は机を見下ろしながら、平坦な声で言った。
「今回の呪霊はどうだった?」
五条の長い指が七海の後頭部を掴み、髪を緩く引っ張った。
「問題ありません」
「そう、その割に我慢のきかなさそうな顔してるね」
「顔、見えないじゃないですか」
「さっきの話だよ。廊下に立ってたオマエ、色っぽすぎてその場で勃つかと思った」
「……獣でもあるまいし」
獣だって。誰がだ。誰が獣だというのだ。それはきっと私だ。呪霊を祓うたびに、肉体は沸騰し、けれど血管に氷点下の液体が流れているかのようなバランスの取れない乱れ方をする。叫ぼうが暴れようが治まらないこの混乱を、毎回落ち着かせてくれる五条に対して、獣だなどとよく言えたものだ。
「どうしたい、七海」
五条の声をきっかけに、七海は振りむいて五条と向かい合うと、膝を床についた。硬い板張りの床の感触が膝から伝わってくる。
彼の裾の長い上着を持ち上げ、ベルトを外す。ちらりと上に目線をやれば、五条はしまりのない笑みを浮かべながら七海を見下ろしていた。
引き抜いたベルトを床に置き、ファスナーを下げる。下着の中に隠されていた五条の性器は項垂れたままだったが、それでも十分な大きさと質量を備えていた。
七海は唇を開き、ためらいなく五条のペニスを銜えた。ふっ、と鼻から息が漏れる。
ちゅう、と先端に吸いついてから裏筋を舌で擦り、舌の表面を当てながら前後すると、あっという間に全体がむくりと勃ちあがった。口内を圧迫する感触に、じん、と七海の腰が疼く。溢れる唾液を飲み込みながら、仄かに塩気を帯びる五条の性器を、頬の内側や喉の奥を使って愛撫する。ごり、と喉の最奥まで押し込まれる苦しさに七海が目に涙を浮かべると、頭上から興奮を隠さぬ吐息が聞こえた。
「……ん、ふっ、」
部屋に水音が響く。じゅるじゅると亀頭をしゃぶり、口で銜えきれぬ部分は回した指を前後させる。五条の腰がぴくり、ぴくりと跳ねる度に、性器は硬度を増した。
やがて完全に勃起した五条の性器を前に、七海は口を離した。唇と性器を繋いでいた唾液の線が、重みに負けて落下する。
「あ……」
ごじょうさん、と小さな声で呟きながら七海は唾液で光る唇を舐めた。
はぁ、と五条が息を吐く。平常時よりも肌を赤く染めた彼は、床に座りこんでいる七海の太腿の間に足をいれ、硬く張りつめている七海の股間を、靴下を履いた足の裏でなぞった。
「終わり?」
七海は力の入らぬ下半身を内心で叱咤しながら立ち上がり、五条に背を向けて机に手をついた。
「どこを触ってほしいの、七海」
七海は手を回して己のベルトを外した。金属の触れ合う音がやけにうるさく響く。外したベルトが床に落下し、鈍い音を立てた。
ファスナーを下げ、下着もろともスーツをずり下げる。秘所を露わにし、突き出すことで無言のまま五条にねだると、五条の手が机上のローションに伸びた。
最低限の露出。七海は服を全て脱がない。五条は目隠しもとらない。何故ならばこれは日常の延長線上の行為であって、ただ任務で混乱する七海を落ち着かせるためになされるだけであり、ふたりの関係は「恋人」や「恋愛」などといった甘い単語で定義されるものではないからだ。
「……あっ、ふっ、ごじょ……さん、」
ちゅくり、と粘度の高い液体を体内に塗り込まれ、七海は背中を震わせた。五条の長い指が七海の体内を拡げるように押し入り、冷たい液体を際限なく流し込む。
七海は震える手を伸ばし、紺色のハンカチを掴んだ。それを口元に運び、生地を歯で銜える。
五条の左手が、労わるように七海の首筋をなぞった。
ぐちぐちと音を立てて七海の身体は拓かれていく。七海は目を閉じ、五条が与える刺激に集中した。余分なことを考えまいとした。ざらりとした感触を舌で抱く。唾液を吸った布地が、舌に張りついた。
七海の慣れた身体は五条の訪いを悦び、緩やかに緊張を解かせる。彼の指先が内壁の一点を押す度に、七海の身体はひくりと反応を返した。七海の勃ちあがった性器からぽたり、と白濁が一滴床に落ちる。
「――っ! っ、ん」
ぎゅう、と七海は歯を食いしばり、奥を抉る指を受け入れる。手をついた机が、ガタガタと鳴った。
「七海、もういい? いれるよ」
アルミのパッケージを破る音がする。背後で気配がし、やがて二個目が破られる。
「七海、起きて」
五条が背後から七海の脇に手を回し上半身を起こさせ、七海の性器に手際よくゴムを被せていく。すっかり敏感になった性器に与えられた刺激に、七海は思わず眉間に皺を寄せた。
五条の手が七海の腰を掴む。
七海の身体はその奥深くで五条を知っているのに、七海の肌は、腰以外に与えられる五条の掌の感触を知らない。
七海は胸に湧きあがる言葉にならない感情に目を細め、ぎゅっと口に銜えたハンカチを噛んだ。
「七海?」
五条さん、早く、さっさと、入れてください。私が余計なことを考える前に。
「なにか言いたいことがあるの、ななみ?」
私がなにか余計なことを口走る前に。
――ななみ?
七海は固く目を瞑り、首を左右に振った。揺れたハンカチが頬に当たる。五条の手が七海の背中を一撫でし、やがて腰を両手で掴んだ。
「――っ!」
つるりとした先端が、七海の後孔を押し開いて侵入する。硬い肉棒を腹で飲み込もうと、七海は歯を立て荒い息を繰り返す。ふー、ふーと呼吸をしているうちに、五条は慣れた腰つきで性器を根元まで全て埋めきった。ざらりと、陰毛が七海の尻をくすぐる。七海の肉壁が五条に絡みつき、絞るようにまとわりつく。
「あー、めちゃくちゃ気持ちいい。……七海、大丈夫? 苦しくない?」
七海は机に爪を立てながら、何度か首を縦に振った。
ゆるゆると内部を楽しむように前後していた五条は、悪戯に最奥を突き上げたあと、規則的に前後する動きを繰り返した。
「……、っ、ん、」
はぁ、と上擦った声を漏らした五条は、音を立てて腰を打つ。まるで耳まで犯されているようだ、と七海は熱の浮く頭で考えた。のぼせたような心地のまま、己を犯す五条を受け入れる。ああ、と七海は心のなかで感嘆した。
――きもちがいい。きもちがいい。彼に奥を突かれるだけで、世界が吹き飛びそうになる。
「――! っ、あ、ごじょ、あぁっ!」
ぐぶりと最奥を突かれた勢いで口を開いた七海は思わず叫び、突かれる動きに揺さぶられながら、机に手をつく。がむしゃらに身体を捻り、床に落ちたハンカチを拾おうと必死で手を伸ばした。
「ななみっ、随分余裕じゃん」
五条の手が七海の手を捕らえ、両手首を拘束する。背後に回された両腕に抗う術はなく、七海は上半身を倒したまま五条を受け入れた。
「あっ、や、ごじょうさ、あっ……こえ、声が、……っ!」
「いいって、どうせ聞こえない。もっと喘げよ七海」
「っ! ……いや、いやです、――あぁ、うっ」
体内を突く五条の性器が何度も奥を抉る。ぐりぐりとなかをこじ開けるように動き、七海の視界が白く瞬いた。
「あ、待って、ごじょ……さ、あ、もうい、いくっ」
「いいぜ、いけよ」
最後に与えられた五条の突き入れる動きによって、あ、と七海は唇を開いたまま硬直した。ぐっと背中が反り、全身が痙攣する。
見開いた瞳は、何も映していなかった。白濁をゴムの中に吐き、全身を駆け巡る快楽を受け止め切る。
やがて、七海はくたりと机に上半身を横たわらせた。
「は、あ……はっ、」
肩を上下させ、後を引く快感に七海はその身を震わせる。
いつの間にか拘束の解かれていた手で、額に浮かぶ汗を拭った。
「なーなみ。落ち着いた? もう動いていい?」
「……もう、抜いてくださって結構です」
「うわっ、酷っ。ひとりだけ冷静にならないでよ。僕まだいってないのに」
「勝手にさっさといってください」
はいはい、と不満げに五条は七海の身体に覆いかぶさった。彼を受け入れながら、七海は目を閉じる。
彼の体温を感じる。彼の匂いを感じる。彼の性器を、腹の奥で受け入れる。
それに特別な意味などない。私たちの間には欲望とその解消しかない。
恋なんて知らない。知らなくていい。この関係の発展など、望んでいない。
七海は揺すぶられるうちに滲んだ涙を拭ってくれる、柔らかな掌を受け入れながら心のなかで呟いた。
恋なんて知らない。
恋なんて知らない振りを、アナタも私も、ずっとしている。
「五条先生おつかれさま~」
「ありがとうございました」
「おう、気をつけて帰りなよ」
「なに言ってんの、寮すぐそこだよ」
生徒たちが笑いながら遠ざかる。五条は手を振り生徒を見送ると、鍵を取り出して高専の自室を開錠した。
ふと、彼がきたのだと思った。鍵は掛かっていたが、部屋には馴染んだ七海の気配が色濃く残っている。
案の定、机の上には暗色の紙箱が置いてあった。積み上げられた書類の上へ無造作に置かれたその箱の中には、七海が手ずから作った焼き菓子が行儀よく収まっている。
彼は律義な性格ゆえか、五条との間に事があったとき、礼として菓子を作っては部屋に残していく。そこに明確な言葉はなく、感情もない。七海が何を思ってその行為を繰り返しているのか、改めて問い質したこともない。
五条はただ七海の残していった菓子を受け取り、美味しく頂くだけだ。
今回は整然と並んだ紙のカップに黄金色のマドレーヌが詰まっていた。ひとつ手に取り食べようと口を開いたところで、飲み物がない、と気づいた。
行儀悪くマドレーヌを片手に持ったまま、ホールの自販機まで向かう。小銭を鳴らしていると、ホールのソファに腰かけた後ろ姿が目に入った。
自販機に小銭を投入しながら声をかける。
「未来ある若者を相手にしてると、身体に溜まった澱が浄化されていく気がするね」
「……アナタにも、澱が溜まるなんて感覚があったんですか」
「そりゃーもう、『上』を相手にしたときとかね、溜まりまくる訳ですよ」
七海は読んでいた新聞の頁をめくった。缶ジュースを自販機から取り出した五条はローテーブルを挟んで七海の正面に腰かけ、プルトップを引き上げた。
「またなにか、面倒なことでも言われたんですか」
「『面倒』。面倒ねえ。面倒なことしか言わないねえ、あいつら。わざとしてるんじゃないかな、アレ」
「ご愁傷様です」
「どーも」
五条は手にしていたマドレーヌを齧る。バターがふわりと香り立ち、上品な甘さが口の中に広がった。
「これ美味い」
「……それはよかった」
七海の顔は新聞で隠されていて見えない。ふたりの間に沈黙が落ちる。
時折生徒が歩き去り、窓の外からは自主訓練の掛け声が響いてくる。平和な午後だ、と五条は思った。
「虎杖君や伏黒君たちはどうですか。釘崎君の姿が今日はみえないようですが」
「んー、元気いっぱい。野薔薇は今日、一級術師に連れられて現場の社会科見学。あの術師と術式の系統が被ってるから色々勉強できると思うんだけど、ちょっと性格の相性が微妙なんだよね。ま、どうにかなるでしょ」
「それもある種の社会勉強ですよ」
「そうね」
五条は大きくマドレーヌを頬張り、すべてを口の中におさめて咀嚼した。ジュースを流し込み、深く息を吐く。
「オマエは? 七海」
「次の任務の話をするために、伊地知君を待っています」
ふーん、と五条は鼻から息を漏らし、顎を手で支えた。
「なんか面白い記事でも載ってる? 新聞」
「……アルゼンチンの最南端の岬から、南極大陸は見えないようです」
「へー、南極かあ。南極はまだ行ったことないな。七海はある?」
「ありませんよ」
「行きたい?」
ふー、と七海は溜め息をつき、静かな声で言った。
「そうですね。行けるなら行きたいです。ですが、いつでも旅行に行けるような、何にも囚われない暮らしこそ……」
「七海が欲しいもの?」
「どうでしょう。憧れますし、幸せだろうなとは思いますが。自由に暮らし、自由に愛す生活……」
「この仕事では無理だなー」
七海は沈黙し、静かに新聞を畳んだ。机の上にそれを置き、立ち上がる。
「アナタなら持っていそうですが。そんな暮らしを送る力を」
「買いかぶりすぎじゃない?」
「そうですか? 伊地知君がいらしたので私はここで失礼します。では」
「はーい」
ぷらぷらと五条は手を振り、七海を見送ろうとした。だが七海は逡巡したあと立ち止まり、遠くへ視線を遣りながら問いかけた。
「五条さん。アナタは、行きたいところがありますか」
「え? えーっと」
七海はサングラスを片手で押さえ、俯く。そして固い声を出した。
「いえ、余計なことを尋ねました。今のは忘れてください」
そして七海は一礼し、廊下の奥の事務室へと向かった。
***
授業を終えた五条は生徒を見送ると、ポケットからスマホを取り出し、画面を眺めた。いつも通り、補助監督や取るに足らない相手からの連絡しか表示されていない。
ふと、七海との関係が始まった頃のことを思い出した。彼が任務のあとに体調を崩すのは高専のときから変わらないが、二人の間に肉体関係が加わったのは七海が呪術師に復帰してからだ。高専生時代は、体調を崩してベッドに蹲る線の細い背中を、よく五条が撫でてやっていたものだ。その背中は大人になって随分と広く頑丈になり、背後から見える耳たぶや首筋には濃密な色気が漂うようになった。
授業の資料で肩を叩きながら廊下を歩く。先の方に伊地知の姿が見えたので、五条はためらいなく駆けより、彼の肩に手を回した。
「ヒッ」
「おい伊地知ー、今度の七海の任務先って何処?」
すると隣から呆れ果てたようなため息が聞こえてきた。
「ま~た始まったよ、五条の『七海病』。ことある毎に暇さえ見つけては『七海ー、ななみー』って。オマエは七海の母ちゃんかよ」
「うっさいなあ。日下部には関係ないだろ」
「そう思う? でも俺七海の行き先知っているんだけどなー。五条が俺の言うこと聞くなら教えてやってもいいけどなー。ヒントをやろうか? 俺に551の豚まん買ってきてくれるってよ」
「は? 伊地知、どうして僕に情報が回ってこないの」
「えっと、七海さんはいま京都にいらっしゃいます」
「京都? なんでまた。京都校も加茂も禪院もいるじゃん」
「加茂家の依頼で、巫女の護衛をするんだと」
「巫女? 確かに加茂家には巫女がいるけど」
「それも飛び切り高級な桐箱に入った箱入りお嬢様がな。なんでも儀式のために、ずっと閉じ込められている家から出る必要性が生じたらしい。その身辺警護だと」
「なんでまたそんな任務に七海が駆り出されるのさ。それこそ加茂家の仕事でしょ」
「加茂家も、禪院家も、京都校のお偉いさんも、いま一級が根こそぎかき集められて別件に駆り出されてる。『上』からの指示でな。俺達には情報が下りてきちゃいないが、五条家の坊ちゃんならその辺の事情をよーくご存知じゃないのかい?」
五条は唇を曲げ、己が抱いている不満を露わにした。
「ま、七海が帰ってくるまで精々大人しく留守番してるこったな」
「……あの『巫女』いま何歳だったかな」
日下部は底の知れない瞳でじっと五条を見つめ、四方八方に伸びた黒髪を手で撫でつける。そして五条に対し警告を発する口調で告げた。
「あまり七海に執着してやるな、五条。あいつのためにも」
「執着なんかじゃないよ。あいつが頼ってくるだけ」
「お前さんのそれは執着であり甘えだよ。まあ俺の問題じゃないから? 勝手にしろ。じゃあな」
そういって日下部はその場から立ち去る。あとには五条と、鳩尾を手で押さえる伊地知だけが残された。
***
高専を歩く。ひとりの姿を無意識のうちに探す。目隠し越しに、彼の背中を追い求める。
彼はロビーにいた。五条の姿を認めると、彼は一度、強く視線を送ってきた。「いつもの」合図だ。
補助監督との会話を早々に切り上げ、七海のあとを追う。五条が高専に用意した部屋で、七海は待っている。
ノックと同時に部屋の扉を開けた。
七海は立っていた。窓を背景に、意志の強い表情をして。呪霊を祓った反動で弱り切っている姿とは対照的だった。
五条の視線は机の上に吸い寄せられる。そこに、七海が五条に抱かれる準備はなされていなかった。
「なな、」
「お呼びたてして申し訳ありません、五条さん。……お話があります」
七海は視線を五条から外し、そっと息を吸った。五条の目には見えた。七海の身体にまとわりつく、見知らぬ人間の呪力の残穢。
「私はもうアナタには抱かれません。いままでご迷惑をおかけしました。できれば……これまでのことはすべて忘れてください。では」
そう言い残し立ち去ろうとする七海の手首を、五条は反射的に掴んだ。
「どういうこと?」
「言った通りです」
「それで困るのはオマエだよ」
七海は感情のない瞳で五条を見つめた。
「いいえ、もう問題はありません。アナタは、この問題に対し、これ以上その手を煩わせる必要はない。では」
七海は五条の手を振り切り、部屋を出た。あとに五条が残される。
唐突に突きつけられた関係の終わりに、五条は目を見開きしばし硬直していた。七海の言葉を心で反芻する。
忘れてくれ? それは、もうこの手で触れてくれるなということか? オマエはふたりの間で共有した体温も秘密も、あっけなく捨てるのか。なんの価値もないと言わんばかりに。それは、あまりにも――。
襲いくる混乱のなか、手に残った七海の体温だけは逃さないようにと、五条は手を固く握りしめた。
部屋に立ち尽くしていた五条はのろのろとした動きでスマートフォンを取り出し、慣れた手つきで番号を呼び出す。
呼び出し音が鳴るのは一回だけだ。
「あ、僕だけど。ちょっと頼みたいことがあって――」
***
「七海、七海、なーなみっ」
五条はロビーでコーヒーを飲む七海の顔を覗き込んだ。彼は心底嫌そうな顔をしてのけ反る。
「なんですか、五条さん。随分とご機嫌ですね」
「ご機嫌そうに見える? 七海も僕のことに関してはまだまだなんだね」
五条の発する圧に気づいたのか、七海は居心地悪そうに身じろいだ。
「なにか御用ですか」
「七海さあ、どうして最近僕からの電話にでてくれないの」
「でていないなんてことは……きっと仕事が忙しいときだったんです。申し訳ありません」
「でも直後に伊地知がかけたらでたよね」
七海は何も言わず、コーヒーカップを口元に運んだ。
「まあいいよ。ねえ七海、僕たち少し相互理解が足りなかったと思わない?」
「相互理解?」
「そう」
五条は満面の笑みを浮かべ頷いた。その目が笑っていないことは七海にも気づかれているだろう。
「そんなもの、最初からなかったでしょう」
「そうかな。じゃあ今からでも遅くないよね」
「五条さん、一体どういう――」
「あっ、五条先生、ナナミン! あれ、先生も行くの?」
「やあ悠仁。恵と野薔薇。揃ったね、よしじゃあ行こうか」
「は?」
七海はコーヒーカップを置き、五条の耳元で焦ったように囁いた。
「今日の引率は私だけだと聞いていますが」
五条は首を捻り、にっこりと笑った。
「そう。一年生たちと、現場を教える一級術師。それを見守る担任。なにか問題でも?」
「先生とナナミンって本当仲がいいよなー」
虎杖が無邪気に笑った。五条は七海の肩に腕を回し、両手でVサインを作ってみせる。その腕で抱いた身体が強張り、うっすらと汗をかいていることには気づいていないふりをした。
あの日、何事もなかったように七海は呪霊を祓い、一年生を指導し、帰り際に五条へ告げた。
「二度目はありません」
七海の瞳が五条を捉えることはなくなった。それどころか、彼は最近あからさまに五条を避けている。その事実に、五条は焦燥感を抱いていた。高専の長い廊下の先に七海の姿を認めるだけで、理由もわからず苛立つ。
五条はひとりになったとき、深く椅子に腰かけてしみじみと己の裡に発生した感情を眺めた。誰かに焦がれるような苛立ちを抱くのは人生で初めてだ。この身に宿る感情の意味を理解できず、首を傾げ、ままならない現実に頭を振る。頻回にスマートフォンを確認したが、七海からの連絡は途絶えたままだった。
めっきりと高専に寄りつかなくなった七海を久しぶりに見かけたとき、彼は机に座って手紙を書いていた。その姿を目にして、五条はふと悟った。あの手紙の相手はきっと、いつか七海が見知らぬ残穢を漂わせていた「誰か」だ。
七海は高専のデスクで、ボールペンでさらさらと流れるように文章を綴る。迷いは見えない。文章を考える躊躇いもない。相手に言いたいことが完全に定まっているのだ。
五条は七海の姿を目にした瞬間、己の内部で燻っていた苛立ちが一気に燃え上がるのを自覚した。頭に血が上り、まともに思考できなくなる。世界が真っ赤に染まる。
だん、と音を立てて机に手をつく。五条は椅子に腰かける七海に覆いかぶさった。その動きを予期していたかのように七海は手紙を伏せ、ボールペンを置いた。両手を机の上で重ね合わせる。肌には、まだ真新しい切り傷がついていた。
「相手は誰?」
「アナタには関係のないひとです」
「僕以外の相手を見つけたの?」
あからさまな侮辱に、七海の肩が震えた。
「弁えてください、五条さん。いくらアナタでも言っていいことと悪いことがあります」
「オマエが僕を必要としない理由なんてそれしかないでしょ」
「私が人のものになるのが許せないとでもいうおつもりですか」
七海は振りむき、意志の強い視線で五条を睨み返した。
「私とアナタはそんな関係ではなかった。それとも私を抱けなくなって焦っていらっしゃる? 私は従順でしたからね。あと、私の周辺をコソコソ嗅ぎまわるのもおやめください」
「……っ、」
「失礼します。では」
七海は五条を振り払いながら立ち上がると、部屋を出て行った。荒々しい足音が遠ざかる。
五条はその場に蹲り、頭を抱えて深くため息をついた。古びて傷が無数についた木製の床を見つめる。怒りで我を忘れた五条でも、己のした振る舞いが愚かで間違っていたことは、心底理解できた。
重い足音が扉の前で止まり、五条の部屋の扉をノックする。返事をする間もなく扉は開き、椅子の上で伸びていた五条に低音の声が浴びせかけられた。
「悟、腑抜けていないで仕事しろ」
「仕事ぉ? していますよ、今日だって一年相手に散々授業をして、二年相手に稽古までつけた」
「そっちじゃない、任務だ」
五条はボリボリと頭を掻き、目隠し越しに夜蛾学長を見上げた。
「なにかありましたっけ?」
「『なにかありましたっけ?』じゃない。各所からクレームの嵐だ。五条悟がまともに仕事しないとな」
「酷いなあ。そもそも皆、僕に仕事押しつけすぎなのが問題じゃない? 僕はちょっと時間が欲しくて休んでいただけですよ」
はー、と夜蛾は溜め息をつき、腰に手を当てた。
「七海の件か」
五条は無言のまま、椅子をぐるぐると回転させる。金属部位が軋んで耳障りな音を立てた。
「その件でも、いくつか情報が俺の耳に入っている。どういう料簡で、オマエは七海に監視をつけているんだ?」
「話がよくわからないな」
「五条家の人間が二十四時間ベッタリだそうじゃないか」
「七海がそう言ったの?」
「言わない。アイツは言わんよ」
五条は眉を上げ、唇を尖らせた。
「不審な京都出張が重なっていたから調査していただけです」
「五条家として? 違うだろう。オマエの極めて個人的な理由からだ」
夜蛾のサングラスが鈍く光る。机の奥で腰かける五条の姿が曲面に反射され映っている。
「オマエにはわかっていたな? アイツが任務を終えるたびに体調を崩していた理由。それが呪力の乱れだと、その出来の良い目で判断できていたんだろう」
「……ですが、解決方法まではわからなかった」
「そうだ。そして七海は京都で加茂家の護衛任務に就き、そこで同じ体質の奴がいると話を耳にした。しかもその悩みを克服できているという。話はわかったな? 悟、オマエもいい加減『七海離れ』しろ。彼から手を引け」
「……話は、それで終わりですか」
「よく考えろ、悟。善き道とはなにかをな。オマエは本当は賢いんだ。きっとわかる」
そう言い残し、夜蛾は立ち去った。五条は手を頭の後ろで組み、ふらふらと椅子を左右に回したあと、一番上の鍵がかかった引き出しからファイルを取り出した。
七海が京都で誰と会い、何をしているのか、詳細な報告が綴じられている。
五条は一番上に置かれていた写真を手に取った。五条家の偵察部隊が京都の街角でコーヒーを飲む七海を隠し撮りした写真だ。写真に写った七海は、盗撮者の存在を知っているかのように、その向こうに誰が存在しているかを見通すように、真っ直ぐカメラのレンズを見つめていた。
「……よし」
五条は何事かを決意し、椅子から立ち上がった。ずんずんと部屋を横切り、廊下に出る。五条を訪ねにきた伊地知が声をかける。
「あれ、五条さんお出かけですか」
「うん、ちょっと京都行ってくる」
「はい。……え、ちょっと待ってください、今日の仕事は」
「全部キャンセル。おつかれさまー」
「そんな、困りますよぉぉぉ」
伊地知の叫び声を背景に、五条はスマートフォンを取り出すと、新幹線の切符を手配するためサイトにアクセスした。
***
広大な敷地。人の手が丁寧に入り、整然と並んだ針葉樹たち。敷かれた小径。まるで五分前に馬車でも通っていたような異国じみた景色。実際、この土地は明治に来日した外国人が整備したのが始まりだ。庭には低木が並び、間に季節の花々が咲き誇る。
花々の上空を羽虫や蝶が飛び交い、周辺には甘い蜜の香りが立ち込めている。草の青い匂いと相まって、周辺の空気は濃すぎるほどだ。
庭には緩く盛り上がった丘のような場所があり、頂上部には東屋が置かれ、木製のベンチで休むことができた。そこから敷地の中央部に位置する洋館を一望することができる。
かつては栄華を極めたであろうバロック様式の洋館は、雨風に晒されて壁は灰色がかり、窓枠には錆が浮き出て、見るからにみすぼらしいなりをしていた。
傍らに寄り添うように作られた温室の硝子は全て罅が入り、割れ落ちている。中に渦巻く緑は不健康な色をしていて、嫌な臭いでもするのか鳥は一切近づこうとしなかった。
「ふーん、王道の『呪いの洋館』って感じ」
東屋のベンチの後ろに立ち、五条は掌を目の上に掲げてみせた。
ふー、と深くため息をついた七海は手にしていた文庫本を閉じると、それをテーブルの上に置いた。東屋のベンチに座ったまま、組んでいた足を入れ替える。ヘッセの本が風に煽られ、パラパラと頁が捲れた。
「なにをしにここへ……と訊ねるのも今更でしょうか」
「これは任務じゃないね」
「私はいま短期の休暇を取得しています。まあそんなこと、今更私が申し上げなくとも五条さんは既にご存知でしょうが」
「そしてオマエも、僕がしていたことを知っている」
「していたこと……? ああ、調査と監視の件ですか。私は特に怒っていませんよ。少々不誠実な態度をアナタに対して取ったことは反省しています。あと」
「あと?」
「学長が……夜蛾学長が私よりも怒っていらっしゃったので、怒りどきを見失ってしまいました」
「ははは。おもしろいなあ」
「こってり絞られたのだと期待しているのですが」
「そうだね。それより、真正面から諭されたのが効いたな」
「結構なことです」
七海はサングラスを指で押し上げ、洋館を眺めた。悟の目は、内部をうろつく呪霊の姿かたちまではっきりと認識している。
「この呪いの館と、呪力の乱れがどう結びつくのかな?」
七海はネクタイを僅かに指で緩めると、テーブルを丁寧に整えた爪でコンコンと叩いた。
「加茂家の親族に当たるM氏にお話を伺って、対処法を伝授していただきました」
「例の克服した人」
「私の症状は呪力の器を上手く肉体と重ね合わせられず、また形を維持できていないことが原因であると……縁が綻び、そこから呪力が流れ出るイメージだそうです」
「ふぅん」
「その対処法を一対一で学んだところで、この場所に送り込まれました。ここに巣くっている呪霊を倒しきれば技術が身につくであろうと」
「ははっ、割と脳筋だねその人」
「報酬も兼ねています。無償で教えていただく代わりに、私はここで呪霊を祓い、この土地は綺麗になって――」
「売りに出される」
「そういうことです」
五条はベンチの背もたれに両手をのせ、体重をかけた。
「ねえ七海。……そんなに、僕を頼るのが嫌だった?」
自分自身でも驚くほど、穏やかで柔らかな声が出た。
「対症療法より、根治療法の方が必要でしょう」
七海はそう言うと俯き、小さく笑った。
「きっとそういうことではありませんね。……私にとって大事だったのは、私がひとりでもやっていけるという事実です。アナタに頼り切りになりたくなかった。自立すること、それが私にとって最も大事なことです。それは、いついかなる場合でも変わることはない」
「そう」
「アナタに抱かれるたび、私はつらくて仕方ありませんでした。惨めでした。自分のコントロールさえできない不出来な存在であると実感していました」
「……僕は、嬉しくて仕方なかったよ。そうだね、きっと嬉しかったんだ、僕は。なにが理由でも、オマエの役に立ててたから。思ったんだけど、僕はオマエが好きだったんだよ」
「私も、アナタのことがずっと好きでした。恋人になりたいと、願うくらいに」
「僕たち、なれないのかな」
「恋人に?」
「そう」
「アナタ次第ですね」
「――なろうよ。好きだ、七海」
七海は遠くを見つめていた視線を五条に戻し、サングラス越しに五条の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「私も好きです。五条さん、私の恋人になってください」
風が吹き抜け、七海の髪を揺らす。五条は手を伸ばして七海のなめらかな頬を撫でると、彼と初めての口づけを交わした。
飽くことなく何度も唇を重ね合わせるうちに、感情が昂る。
「ねえ、七海」
「……なんですか」
とろりと蕩けた瞳で、七海は五条を見上げた。初めて真正面から見る七海の色づいた表情は、五条の背骨を震わせた。
「もうちょっと、もうちょっと落ち着いたところで、ふたりきりになりたいな……なんて」
「はぁ」
吐息か喘ぎか判別のつかない息を漏らした七海は、冷静さをわずかに取り戻して洋館をまじまじと眺めた。
「ですが私の休暇の残りは二日でして、それまでに洋館の呪霊を祓わないと……」
「『茈』使って……」
「駄目です。絶対にやめてください。ここら一帯が売り物にならなくなります」
土地の計測からやり直しだろうな、と五条は考えたが口にはしなかった。
開いた左手に右手の拳をぶつける。
「よし、七海。全部祓っちゃって。僕と休暇を過ごすために頑張ってくれるよね?」
「私を舐めないでくださいますか。すぐ終わります」
七海は立ち上がると、上着を脱いでナマクラを手に取り、力強く洋館まで歩み始めた。
「ねえ七海、一体や二体や三体くらい僕が祓ったっていいでしょ。待ってるの暇すぎる」
「ご自由に」
七海は振り返り、静かに笑った。
「ですがその前に、伊地知君に電話をして二日間の休暇をもぎ取ってください。できますよね? 五条さん」
(おまけ)
「五条さんっ、……! これ、解いてくださいっ」
七海は大柄な男二人が寝転がってもまだ余裕のあるベッドの上で、焦りながら身を捩った。その両腕は頭上に上げられ、一本の布で縛られている。
七海は拘束を解こうと暴れているが、五条によって呪力の込められた布が緩む気配はまったくなかった。
「だーめ。七海が恥ずかしがって暴れるからでしょ」
七海に覆いかぶさっていた五条は身を起こすと、指先で七海の鼻先を突き、そのまま己の長い睫毛を擦った。
「ですが!」
「僕は七海の全部が見たいの。これまでずっとお預けだったんだから。裸にしたいし、肌に触りたいし、正面から抱きしめたいし、キスもいっぱいしたいし、アソコも舐めたいし色んな体位でオマエを抱きたいし……あっ、そんな引いた顔しないで。やっぱ腕そのままね」
七海は自分がどんな顔をしているのかは分からなかったが、今すぐここから逃げないと碌な目に合わないことだけはよく分かった。
五条は顔をぐい、と七海に近づけた。彼の温い吐息が七海の頬に当たる。
「ねえ、本当に嫌? 本当にどうしても嫌っていうなら腕を解いてあげる。でも七海、本当は嫌じゃないよね?」
七海は顔を背け、唇を噛みしめた。胸の内側に、じんわりと熱が広がる。七海を狂わせる熱の種が、そこには確かにあった。
「……アナタと改めて抱き合うの、恥ずかしすぎて……」
五条はニイ、と笑ってみせた。深い青色が細められる。
「七海はシャイだなあ。なにも気にならなくなるくらい、僕が愛してあげるね」
五条が七海の足を担ぎ上げる。その奥はとうに解されて、ドロドロになって男の訪いを待ちかねている。
五条の動きをぼんやりと眺めていた七海は、彼が自身の大振りな性器にゴムを着けていないことに気づいた。思わず唾を飲みこむ。
あれがいつも私の腹に入っていた。それが今日は、直接私のなかに。
無意識のうちに腰を浮かせる七海の欲望を熟知しているかのように、五条は七海と視線をあわせながら性器を七海の後孔へゆっくりと挿入していく。
体内に生まれる圧迫感と異物感に、顔を顰めた。だがそれも最初だけだ。やがて体は男の訪いを悦び、芯から緩やかに蕩けていく。
七海は熱に蕩かされた瞳で五条を見た。正面から見る彼は、信じられないほどの存在感を放ち、この世のものとは思えないほど美しかった。
そんな男が、夢中で七海を貪っている。
それも恋人として。七海は夢の中にいる心地のまま、身を穿つ硬直と熱に身を委ねていた。拘束されている腕がギシギシと軋んだが、その痛みさえ五条の愛に思えた。
五条が息を詰まらせる。七海はうっすらとした笑みを浮かべ、五条の腰に両足を回した。
「五条さん、私の、なかに……」
五条の眼が静かに光った。
「いいの。……だすよ、ななみ」
彼が深く覆いかぶさり、七海を力一杯抱きしめた。耳元で、荒い息の合間に「愛してる」と何度も告げる。
やがて彼は動きを止め、ヒクリと痙攣した。七海の腹の奥に熱が広がる。
「……あっ、ふっ、」
七海は体内に男の種が吐き出された歓びに身を震わせ、夢中で五条の口を吸った。
いつまでもふたりで絡み合っていたい。七海の昏い願いを叶えるように、五条は七海の掌に手をあわせ、
「これで終わりだと思ってないよね」
と囁いた。
「……はい」
待ちわびていた夜は長い。きっと五条は七海の隅々まで愛してくれるだろう。
その予感に、七海は胸を昂らせた。
