呪術廻戦(五七)
曇天の空から雪が舞い降りている。私は分厚いガラス越しに白い破片を眺め、己が産まれた日を思い出していた。あの日も、こんな寒い日だった。手がかじかみ、吐く息は白くなる、凍りついた世界で私は産声を上げたのだ。
温かな食事を終え、椅子に座り微睡んでいた。空調がごうごうと音を立て、暖かな空気を吐き出している。通路を行きかう人々のざわめき、体温、埃っぽいけれど、あまやかな雑多な匂い。
郊外のショッピングモールは活気で満ちていた。私は五階建ての、この建物の隅々まで知り尽くしている。ここで生活を送り始めて随分と長い時がたっていた。
いま、建物の中心にあるホールには三階まで届くクリスマス・ツリーが飾られている。白銀に輝くモールが周囲に浮き、ツリーの頂点には金色の星が飾られている。一階に立ち、輝く星を見上げるたび、私は手を伸ばしたくなる。
瞼を上げ、背伸びをした。座っていた椅子から立ち上がり、移動する。途中でつややかな焦げ茶色のチョコレートが並べられていたので、ひとつ手に取って口に放り込んだ。
なにやら騒がしい声が聞こえる。人だかりが見える。やがて、怯えた顔つきの人々がひとりふたりと走り出した。非常ベルが建物中に鳴り響く。
頭を突き刺す音に耐え兼ね、私は身を隠すため暗く狭い場所を目指した。世界には時に苛立つ音というものがある。人々の流れに逆らい、私は歩いた。
静寂の中でうとうととしていたようだ。人々のざわめきは遠ざかり、数人の足音しか聞こえなくなっている。
がらんどうと化した建物から、地鳴りがする。誰かが暴れているのだ。不躾な振る舞いに、腹が立った。私の愛するショッピングモールが、誰かに破壊されようとしている。
物陰に隠れながら、音のする方向へ進む。女性を抱えた男性が、走り去っていく。彼の視線が私を向く前に、私は棚の影に隠れた。人がいなくなったことを確認しようとして周囲を見渡し、私は眼前の存在に気づいた。
広々とした通路の中心を、ひとりの男が歩いていた。悠々とした足取りは時折生じる振動にもひるまず、確かに一歩一歩前進する。
彼はショーウインドウに飾られた親子のマネキンの前で足を止め、ふむ、と顎に手を当て頷いた。今冬の新作の服を、マネキンたちは着ている。彼はそのまま、流れるように姿を隠している私を見る。彼の目は黒い布によって覆われていたが、強い視線が私を貫いた。
だが彼は唐突に私への興味を失くし、通路を再び進みだした。建物の中心部から、一際大きな破壊音が響く。
男のあとを追って、私も建物の中心に辿りついた。巨大なクリスマスツリー。四階で、誰かが争っている。布団店から、歪なかたちをした呪霊が弾き飛ばされた。落下する彼にまとわりつく布団ごと、一閃する軌道が確かに見えた。
空間に、羽が舞い上がる。そのなかを、男が飛んだ。白いスーツを身にまとい、金髪を靡かせた男は跳躍し、上着の裾を翻しながらクリスマスツリーの頂点に足をかけた。
羽の舞い落ちる世界で、飾り付けられた緑の木がゆっくりと倒れていく。羽を背負った男が、地上へと翔ける。
一足早く地上に落下していた呪霊の上に、ツリーは倒れ込んだ。男は地に接する直前に飛び上がる。衝撃と共に木が地上に接し、引き千切られた飾りが舞い散る。頂点で輝いていた星が、カラカラと音を立てて転がった。呪霊の体液が飛び散り、四方にはねた。
私は落下した星をじっと見つめた。地面で力なく横たわる、かつて天で輝いていた星。己のうちに沸々と熱い感情が湧きあがるのを感じる。そう、これは怒りだ。大切なものを汚され、壊され、踏みつけられる怒り。
器用に一階の床へ着地した男は、すっくと地面に立ち、乱れたスーツの裾を手で払った。肩にふわりと羽がのる。
がらんどうとなった空間に、乾いた拍手が鳴り響く。
「いや~、さすが七海。見事だったよ」
七海と呼ばれた金髪の男は、掛けているサングラス越しに、黒い服に身を包み目隠しをしている男を睨みつけた。
「わざわざそんなことを言いにいらしたんですか、こんなところまで」
「そうだよー」
「随分お暇なようで。こちらは猫の手さえ借りたいというのに」
「僕の手も借りたい? 昨日は彼氏の誕生日を一言祝うために電話することもできないくらい忙しかったんだね」
七海という名の男は深々と溜め息をつき、頭に手を当てた。もう片方の手で苛々と布の巻かれた鉈らしき武器をもてあそんでいる。
「そうですよ。昨日一日散々だったんです。それは言いましたよね? わざわざ午前三時に電話しましたよね?」
「うん、誕生日の翌日の午前三時に」
「根に持たないでください、不可抗力ですよ」
「別に七海には怒ってないよ。でも会いたくなったからきただけ」
七海は肩を落とし、頭を振った。
「そんなことのためだけに、どれだけの無理を押したんですか。あまり皆さんに迷惑をかけないでください」
「あっちが先に僕らのお祝いを邪魔してきたんだもん」
「『だもん』とかかわい子ぶらない」
黒ずくめの男は白銀の髪をかき、腰に左手を当てた。
「つきあって最初の誕生日に恋人からお祝いの言葉が聞きたかったってそんなに贅沢?」
「ご自身の社会的立場をよくよく考慮してください」
「説教は聞き飽きたよ」
「五条さん」
口を尖らし不満げに背伸びをしていた「五条」は七海の呼びかけに首を傾げた。
「アナタはこんなところへわざわざいらっしゃるほど暇なのでしょう。でしたらクリスマスまで、仕事を存分に頑張ってくださいね。きっと東京に戻れば息つく間もなく仕事に襲われるでしょうから。ですが、今月頑張ってくだされば」
七海は不敵に唇の片側を上げてみせた。
「アナタの欲しがるクリスマスプレゼント、なんでも差し上げますよ」
「……『なんでも』。七海、なんでもいいの?」
「ええ、アナタの言うこと、全部聞いてあげますよ。一切拒否せずに」
五条はふっと笑い、七海に近づいた。
「いいのかなあ、そんなこと言っちゃって」
「私は別に。期待していますよ、アナタが私になにを『期待』するのか」
「約束な」
五条は七海の唇をさっと奪い、彼の耳に何事か囁いた。
「……では、私は仕事に戻ります」
七海は五条の身体を押しのけ、鉈を肩に当てた。その瞳は冷酷な光を湛え、愛するものとそれ以外を明確に区別する。
私は身体がゾクゾクと震えるのを感じた。彼は愛するものへはあのようなあまやかな眼差しを与えるのに、我々へは微塵の興味もない、ごみ屑を見るような視線を寄越すのだ。
――嗚呼、おいしそうだなあ。
愛する人間同士を一緒にたべたら、さぞ美味しかろう。
鉈を構え、私に向かってくる「七海」を前にして、私は舌なめずりをした。きっとこれは、私に与えられたご馳走なのだ。
くちくなった腹を抱えて再び星を天に輝かせる夢を抱きながら、ショッピングモールに棲みつく呪霊は、七海に向かってその口を大きく開けた。
温かな食事を終え、椅子に座り微睡んでいた。空調がごうごうと音を立て、暖かな空気を吐き出している。通路を行きかう人々のざわめき、体温、埃っぽいけれど、あまやかな雑多な匂い。
郊外のショッピングモールは活気で満ちていた。私は五階建ての、この建物の隅々まで知り尽くしている。ここで生活を送り始めて随分と長い時がたっていた。
いま、建物の中心にあるホールには三階まで届くクリスマス・ツリーが飾られている。白銀に輝くモールが周囲に浮き、ツリーの頂点には金色の星が飾られている。一階に立ち、輝く星を見上げるたび、私は手を伸ばしたくなる。
瞼を上げ、背伸びをした。座っていた椅子から立ち上がり、移動する。途中でつややかな焦げ茶色のチョコレートが並べられていたので、ひとつ手に取って口に放り込んだ。
なにやら騒がしい声が聞こえる。人だかりが見える。やがて、怯えた顔つきの人々がひとりふたりと走り出した。非常ベルが建物中に鳴り響く。
頭を突き刺す音に耐え兼ね、私は身を隠すため暗く狭い場所を目指した。世界には時に苛立つ音というものがある。人々の流れに逆らい、私は歩いた。
静寂の中でうとうととしていたようだ。人々のざわめきは遠ざかり、数人の足音しか聞こえなくなっている。
がらんどうと化した建物から、地鳴りがする。誰かが暴れているのだ。不躾な振る舞いに、腹が立った。私の愛するショッピングモールが、誰かに破壊されようとしている。
物陰に隠れながら、音のする方向へ進む。女性を抱えた男性が、走り去っていく。彼の視線が私を向く前に、私は棚の影に隠れた。人がいなくなったことを確認しようとして周囲を見渡し、私は眼前の存在に気づいた。
広々とした通路の中心を、ひとりの男が歩いていた。悠々とした足取りは時折生じる振動にもひるまず、確かに一歩一歩前進する。
彼はショーウインドウに飾られた親子のマネキンの前で足を止め、ふむ、と顎に手を当て頷いた。今冬の新作の服を、マネキンたちは着ている。彼はそのまま、流れるように姿を隠している私を見る。彼の目は黒い布によって覆われていたが、強い視線が私を貫いた。
だが彼は唐突に私への興味を失くし、通路を再び進みだした。建物の中心部から、一際大きな破壊音が響く。
男のあとを追って、私も建物の中心に辿りついた。巨大なクリスマスツリー。四階で、誰かが争っている。布団店から、歪なかたちをした呪霊が弾き飛ばされた。落下する彼にまとわりつく布団ごと、一閃する軌道が確かに見えた。
空間に、羽が舞い上がる。そのなかを、男が飛んだ。白いスーツを身にまとい、金髪を靡かせた男は跳躍し、上着の裾を翻しながらクリスマスツリーの頂点に足をかけた。
羽の舞い落ちる世界で、飾り付けられた緑の木がゆっくりと倒れていく。羽を背負った男が、地上へと翔ける。
一足早く地上に落下していた呪霊の上に、ツリーは倒れ込んだ。男は地に接する直前に飛び上がる。衝撃と共に木が地上に接し、引き千切られた飾りが舞い散る。頂点で輝いていた星が、カラカラと音を立てて転がった。呪霊の体液が飛び散り、四方にはねた。
私は落下した星をじっと見つめた。地面で力なく横たわる、かつて天で輝いていた星。己のうちに沸々と熱い感情が湧きあがるのを感じる。そう、これは怒りだ。大切なものを汚され、壊され、踏みつけられる怒り。
器用に一階の床へ着地した男は、すっくと地面に立ち、乱れたスーツの裾を手で払った。肩にふわりと羽がのる。
がらんどうとなった空間に、乾いた拍手が鳴り響く。
「いや~、さすが七海。見事だったよ」
七海と呼ばれた金髪の男は、掛けているサングラス越しに、黒い服に身を包み目隠しをしている男を睨みつけた。
「わざわざそんなことを言いにいらしたんですか、こんなところまで」
「そうだよー」
「随分お暇なようで。こちらは猫の手さえ借りたいというのに」
「僕の手も借りたい? 昨日は彼氏の誕生日を一言祝うために電話することもできないくらい忙しかったんだね」
七海という名の男は深々と溜め息をつき、頭に手を当てた。もう片方の手で苛々と布の巻かれた鉈らしき武器をもてあそんでいる。
「そうですよ。昨日一日散々だったんです。それは言いましたよね? わざわざ午前三時に電話しましたよね?」
「うん、誕生日の翌日の午前三時に」
「根に持たないでください、不可抗力ですよ」
「別に七海には怒ってないよ。でも会いたくなったからきただけ」
七海は肩を落とし、頭を振った。
「そんなことのためだけに、どれだけの無理を押したんですか。あまり皆さんに迷惑をかけないでください」
「あっちが先に僕らのお祝いを邪魔してきたんだもん」
「『だもん』とかかわい子ぶらない」
黒ずくめの男は白銀の髪をかき、腰に左手を当てた。
「つきあって最初の誕生日に恋人からお祝いの言葉が聞きたかったってそんなに贅沢?」
「ご自身の社会的立場をよくよく考慮してください」
「説教は聞き飽きたよ」
「五条さん」
口を尖らし不満げに背伸びをしていた「五条」は七海の呼びかけに首を傾げた。
「アナタはこんなところへわざわざいらっしゃるほど暇なのでしょう。でしたらクリスマスまで、仕事を存分に頑張ってくださいね。きっと東京に戻れば息つく間もなく仕事に襲われるでしょうから。ですが、今月頑張ってくだされば」
七海は不敵に唇の片側を上げてみせた。
「アナタの欲しがるクリスマスプレゼント、なんでも差し上げますよ」
「……『なんでも』。七海、なんでもいいの?」
「ええ、アナタの言うこと、全部聞いてあげますよ。一切拒否せずに」
五条はふっと笑い、七海に近づいた。
「いいのかなあ、そんなこと言っちゃって」
「私は別に。期待していますよ、アナタが私になにを『期待』するのか」
「約束な」
五条は七海の唇をさっと奪い、彼の耳に何事か囁いた。
「……では、私は仕事に戻ります」
七海は五条の身体を押しのけ、鉈を肩に当てた。その瞳は冷酷な光を湛え、愛するものとそれ以外を明確に区別する。
私は身体がゾクゾクと震えるのを感じた。彼は愛するものへはあのようなあまやかな眼差しを与えるのに、我々へは微塵の興味もない、ごみ屑を見るような視線を寄越すのだ。
――嗚呼、おいしそうだなあ。
愛する人間同士を一緒にたべたら、さぞ美味しかろう。
鉈を構え、私に向かってくる「七海」を前にして、私は舌なめずりをした。きっとこれは、私に与えられたご馳走なのだ。
くちくなった腹を抱えて再び星を天に輝かせる夢を抱きながら、ショッピングモールに棲みつく呪霊は、七海に向かってその口を大きく開けた。
