呪術廻戦(五七)
始まりなんて覚えていない。おそらくきっかけなど、彼がそのとき隣にいたから、くらいのものだったのだろう。
彼と身体を重ね、彼を求めることは自然なことのように思えた。理由はそれで十分だった。そしてこの関係は言葉なく始まり、いつか言葉なく消滅するものだとばかり思っていた。
「どうして僕を避けるの、七海」
呪術高専の片隅にある埃くさい部屋。高専は天に近い高台にあり、緑が濃い。空気はどこかひんやりしている。木の香りとこの学校を過ぎ去った人々の気配で満ちている。影の濃い一室に、無言のまま五条に連れ込まれたのはつい先ほどだった。任務報告の帰り、背後から近づいてきた彼は私の二の腕を跡の残りそうな力で掴み、抗う私をものともせず、この部屋に二人分の身体を押し込んだ。
窓の外で、木々が擦れ、音を立てていた。
「……もうアナタとは寝ないでおこうと、考えているだけです」
私は彼の強い視線を遮りたくて、サングラスに指をあてた。そんな些細な抵抗で、彼を拒めないと知っていながら。
正直、素直に関係を清算してくれるとばかり思っていた。所詮身体だけの関係だ。ベッドを共にしている時間に色めいた睦言を聞くことなど終ぞなく、行為が終われば二人してベッドから立ち去る。それこそがふたりの求めていた関係なのだと考えていたのだが。
私の肩を強く掴み、壁に押しつけている手を見た。
彼が服をすべて脱ぎ捨てたときに見ることのできる端正な身体。正体を失くし乱れる私の顔の横にあった、身体を支える大きく節ばった手。私の耳元で繰り返された荒い息。そういった夜の気配を、彼は昼に一切みせなかったのに。
そんな彼が感情を昂らせ、私の前に立ちはだかっている。
「前の任務に出た日から、僕を避けだしたよね。なにがあった?」
私は俯き、五条さんの靴の爪先を見た。革靴にはクリームが丁寧に擦りこまれ、上品な光沢を放っている。
「報告書は上に提出しました。しかるべき時に公開されるでしょう。それをお読みください」
「七海、僕のことナメてる?」
「まさか」
五条が深々と溜め息を吐く。解放までが遠そうだ、と私は覚悟を決めた。
「元々大人同士の付き合いだったでしょう。それがお望みだったのでは?」
その言葉を聞いた瞬間、五条の圧が増した。制御を失い放たれた呪力が部屋に充満する。私が駆け出しの呪術師であったなら、あまりの実力差と、直接向けられた敵意に慄き、逃げまどったかもしれない。
五条は唇をこれ以上ない程に歪め、言葉を吐き捨てた。
「それを七海が、オマエが、望んでいたから僕は妥協しただけだ」
――妥協。そんな言葉が彼の辞書にあったとは。
それにしても、五条がこれほどまでに関係の解消を拒絶するとは。その理由は一体なんなのだろう。私の身体に対する執着だろうか。この可愛げのない筋肉質な男の身体に執着だって? 私との別れが上層部との政争に戦略に影響を及ぼすと危機感を抱いている? まさか。私にそんな価値はない。一度手に入れた玩具を手放したくないと駄々をこねているだけだろうか。
それともまさか、五条さんが私に――恋をしている?
この人に限って、そんな理由であるはずもないだろう。
私は五条さんと目をあわせた。
際限のない怒りを身にまとう彼の姿は壮絶で、圧倒的で、一度目で捉えると考えを巡らす余裕など消え失せた。
目隠しの奥にある瞳を見たいなと、ふと思った。怒りを湛えた彼の瞳は、どのような色をしているのか。
五条さんのすべてに引き寄せられる。彼に私のすべてを塗りつぶしてほしいと願う。「美」とはなにかと問われたら、私は五条さんを差し出すだろう。いや、そんな勿体ないことはしたくない。彼を愛でることが許されたなら、私は他者に彼の存在を口外しないだろう。そして生涯私だけが彼を愛するのだ。
怒りを迸らせた彼も美しい。許されるなら五条さんに手を伸ばし、その存在を己の掌で確かめたい。
ああ、彼が存在する世界はなんて美しいのだろう。
五条さんを前にすると、まるで今、初めてこの世界に生まれ落ちたかのような、そんな気分になる。
***
高専の門へと繋がる石造りの階段に腰を下ろし、私は冷えた缶コーヒーを飲んでいた。先程までの遣り取りですっかり熱を持った頭を冷まそうと、冷たい液体を臓腑の中に流しこむ。
はあ、と息を吐いて髪を掻きむしった。髪型が崩れ、ぼさぼさになることなど最早どうでもよかった。
背後から軽い足音が近づいてくる。甘い香りが、鼻先をくすぐった。
「よう、七海。話をしてもいいか」
「誰の差し金かにもよります。……家入さん」
白衣のポケットに両手を突っ込んで立つ家入は、棒つきの飴を舐めていた。いつだったか、五条が舐めていたことのある、紅茶フレーバーの棒つき飴。
「心配せずとも恋のキューピッドなんてモンじゃないよ。そんな柄でもない」
「そうですね」
「言うねえ」
家入は私の隣に腰を下ろし、何事かを思い出したかのように小さく笑った。
「一体どうしたのさ。なにがあった。五条が随分と荒れていた。あれを相手にする奴は手こずるぞ」
「ご迷惑をおかけします」
家入は探るように私を見た。目元の泣き黒子が、彼女の魅力を引き立てているなと、私はぼんやり思った。
「――いろいろありまして、五条さんに今の関係は続けられないと私が申し上げたので」
「なんだ、別れ話か」
「いえ、そもそも付き合っていません」
「どういう意味? ……ああ、身体だけの関係ってこと」
あからさまな物言いにどう返したものか迷い、私は曖昧に頷くだけにとどめた。
「へー、意外。え、それ本当なの?」
私は唇を曲げ、家入さんを横目で見た。
「嘘をついてどうなります。しかも、こんな話題で」
「いや、へー。そっか。そうなんだ。いやなに、あいつがそれで満足していたのが意外だよ」
ふーん、と言いながら前を向いた家入は飴を齧り、
「で、別れを決断したきっかけは?」
と問うた。
「……なんとなく」
「嘘をつくなよ」
「嘘じゃないですよ」
「七海ぃ、私を馬鹿にするな。君、嘘をつくときに出る癖があるから、私に嘘は通用しないぞ」
「……どのような癖かお訊ねしても?」
「言わない。知ったら直すから教えない」
「そうですか……」
私は思わず己の頬に手を当てた。癖。一体どのような。それとも只カマをかけられているのだろうか。
「前の任務で、呪物の回収に行ったんです。鏡でした」
「ああ、軽い怪我をしていたな。怪我のわりに、真っ青な顔をして」
「あの鏡には曰くがあって」
「ほう」
「鏡を手にした人が、心のなかで大切にしている人を、映し出すのだそうです」
「へえ。それで、本当に映るのか?」
私は横目でちらりと家入さんを見遣った。
「まさかとは思うが、そこに五条が映ったとか言うんじゃないだろうな」
「……そのまさかで」
家入は大きく上半身を反らし、深々と溜め息をついた。
「はあー、馬鹿馬鹿しい。どうして君から惚気を聞かされなきゃいけないんだ。もう帰りたくなってきた」
「お帰りになっても構いませんよ」
「で? その胡散臭い鏡に映るくらい大切だっていうのに、なんでそれが別れ話になるんだ」
私は眼下を見下ろした。果てなく続く石段、左右を覆う鮮やかな緑。門の先には道が伸び、遠くに灰色の街が広がる。青空の下は煙り、地平線がぼんやりと隠されていた。
私は迷い、口を開いては閉じる。
「怖く、なったんです」
そうだ、私は怖くなった。怖じ気づいた。
この世界に戻ったときから、私はひとりで生き、ひとりに満足し、ひとりで死ぬのだと思っていた。それで十分だと思った。私の人生はそれで十分なのだと。
なのにいつからか五条さんが私の人生に入りこんでいた。彼は身体を通じて私の心を知らぬうちに絡めとっていた。蜘蛛の巣に捕らえられた羽虫のように、私の手足は自由が利かず、私を狙う五条が人生の支配者となりつつあった。
私は五条さんが怖い。
彼の隣に立つだけで、私の心臓は高鳴り、躍りだす。彼といると私の周囲が脈打つように震え、それまで鈍い光を反射させているだけだった世界の輝きが増す。私以外の存在すべてが愛おしく思えた。
彼と机を挟んで食事をすれば、煩い心臓のせいで味など欠片もわからないくせに、なにを食べても美味しいのだ。彼と景色を見渡せば、彼しか視界に入っていないのに世界で唯一の絶景の前に立っている心地がする。嫌いだと思っていた彼のいくつかの振る舞いさえ、許してしまいそうになる。
「このままでは、この世界ごと彼を愛してしまいそうだと」
毎朝家を出るとき前に立つ鏡を見ては、己の姿を醜いと思う。自分の姿を嫌うほど、私は五条さんを求めてやまなかった。彼が欲しくてたまらなくて、五条さんを探し続ける目つきが醜悪だと感じて仕方なかった。
「それに、彼は私に勿体ないとも思います」
私は既に理解している。彼が私に生きる理由を与えるなら、それは私が死ねない理由になるのだと。
家入が私に肩を寄せ、小声で囁いた。
「諦めな。事実に即せよ、七海。君はもう五条のこと以外考えられない、嵐の只中にいるのさ」
甘い香りを耳元に残して、家入は身を引いた。背後を振り返り、大声で叫ぶ。
「だってさ、聞いたか? 五条、君めちゃくちゃ愛されてるじゃん」
背後の気配には少し前から気づいていた。
「……キューピッドなんかじゃないって仰ったではないですか」
私は土の散った足元を見下ろした。蟻が艶めかしい光沢をもつ昆虫を数匹がかりで運んでいた。
「大吟醸と高級寿司に釣られるキューピッドなんているか?」
ええ、私の目の前にいます、とは流石に言えなかった。
家入が腰を上げ、服を掃った。そのまま彼女は立ち去る。入れ替わるように、私の後ろに立つ人がいた。彼の黒い革靴が、視界の隅に入る。家入さんが食べていた飴と同じ、けれど彼の体臭が混じって少し違いのある、甘やかな香りが私を包んだ。彼の手が回され、私の前で手を組んだ。仄かな体温が、私の背を覆う。
私を包みこむように抱きしめた五条さんは、そのまま躊躇いなく地べたへと腰を下ろした。人目が気になります、と言い訳しながら彼を振り払いたいのに、こんなときに限って誰も通りかからない。私と彼のふたりきりだ。
「こんな。……こんな振る舞いをするような、甘い関係でしたか、私たちは」
五条さんの鼻が、私の首筋に埋められる。彼の銀糸のような細く白い髪が、私の肌をなぞった。
「こんな甘い関係に、ずっとなりたかった」
僕ずっと我慢できてたでしょ、褒めて、と彼は甘い声でねだった。
「七海、僕オマエが好きなんだよ。どうしようもないくらいに。どうすればいい? 賢いオマエにならわかるだろ」
「アナタこそ、最強なんですから、もっとしゃっきりしてくださらないと」
私は彼から距離を取ろうと首を仰け反らせたが、彼はそれを許さず、どこまでも追ってきた。耳元で囁かれた彼の声が、私の脳に侵入する。
「なあ、僕、オマエのものになりたいし、オマエを僕のものにしたい。する」
「私たちは『モノ』ではありません」
「……ななみ」
まるで学生を窘めるような声。いつから彼は、こんな声を出せるようになったのだろう。
「僕たち恋人になろうよ、七海」
糖蜜よりも甘い響き。確かに己が立っていると確信できていた世界が揺らぐ。地に下ろしている筈の足が、まるで宙に浮いているように頼りなくなる。彼に縋りついたなら、先程から煩く鳴り続けている心臓は静かになってくれるだろうか。いっそその動きを止めてくれるだろうか。
「私はアナタと恋人になんてなりたくないですが、もしアナタに、私が引退しても共にいてくださる覚悟がおありならいいですよ。私は外国に――」
行くつもりですが、という言葉を発する前に、腹に強い衝撃を感じた。ぐらりと傾ぐ身体、上下する視界。なにを、と混乱した直後、私は己の身体が頑強な腕によって持ち上げられたのだと、ようやく理解できた。
私は五条さんの肩に担がれている。
「ちょっと、いきなりなにをするんですか。おろしてください、五条さん、聞いていらっしゃいますか」
彼の背中の布を必死で掴む。叩き、抓り、足をばたつかせる。
それでも彼の歩みが止まることはなく、むしろ楽し気に、半ば駆けるように、彼は校庭の隅を横切った。
「センセー、どうしたのー」
遠くから学生が問いかける。笑いさざめく幼い子供たちの気配。
「ぼくはー、いまからななみとー、ケッコンするーーーーーー!」
ひっ、と引き攣れた声が出た。
「ちょっと五条さん、大声でなにを」
オメデトーーーー、と子供たちは声を揃えて笑った。
「五条さん、どういうつもりですか」
五条さんの顔が見えない。彼の背中に広がる景色しか、私は見ることができない。
「だって、それプロポーズだろ、七海。引退後にだって僕は一緒にいるよ。今すぐ結婚しよう、オマエの気が変わらないうちに。学長に立会人になってもらうから」
私は項垂れ、溜め息をついた。あまりのくだらなさに脱力する。徐々におかしな気分になり、は、はは、と笑いが漏れた。
「アナタが私を下ろした瞬間、私は逃げますからね」
「いいよ。何度だって捕まえてあげるよ。でも絶対に逃がさない。やっと手に入れたんだ。手放さないよ」
私は彼に抱えられ、揺れながら、空を見上げた。
昼下がりの空は、彼の瞳と同じ色をしている。
きっと嵐の中心で見上げる空は、今日のように遠く澄んだ色をしている。
彼と身体を重ね、彼を求めることは自然なことのように思えた。理由はそれで十分だった。そしてこの関係は言葉なく始まり、いつか言葉なく消滅するものだとばかり思っていた。
「どうして僕を避けるの、七海」
呪術高専の片隅にある埃くさい部屋。高専は天に近い高台にあり、緑が濃い。空気はどこかひんやりしている。木の香りとこの学校を過ぎ去った人々の気配で満ちている。影の濃い一室に、無言のまま五条に連れ込まれたのはつい先ほどだった。任務報告の帰り、背後から近づいてきた彼は私の二の腕を跡の残りそうな力で掴み、抗う私をものともせず、この部屋に二人分の身体を押し込んだ。
窓の外で、木々が擦れ、音を立てていた。
「……もうアナタとは寝ないでおこうと、考えているだけです」
私は彼の強い視線を遮りたくて、サングラスに指をあてた。そんな些細な抵抗で、彼を拒めないと知っていながら。
正直、素直に関係を清算してくれるとばかり思っていた。所詮身体だけの関係だ。ベッドを共にしている時間に色めいた睦言を聞くことなど終ぞなく、行為が終われば二人してベッドから立ち去る。それこそがふたりの求めていた関係なのだと考えていたのだが。
私の肩を強く掴み、壁に押しつけている手を見た。
彼が服をすべて脱ぎ捨てたときに見ることのできる端正な身体。正体を失くし乱れる私の顔の横にあった、身体を支える大きく節ばった手。私の耳元で繰り返された荒い息。そういった夜の気配を、彼は昼に一切みせなかったのに。
そんな彼が感情を昂らせ、私の前に立ちはだかっている。
「前の任務に出た日から、僕を避けだしたよね。なにがあった?」
私は俯き、五条さんの靴の爪先を見た。革靴にはクリームが丁寧に擦りこまれ、上品な光沢を放っている。
「報告書は上に提出しました。しかるべき時に公開されるでしょう。それをお読みください」
「七海、僕のことナメてる?」
「まさか」
五条が深々と溜め息を吐く。解放までが遠そうだ、と私は覚悟を決めた。
「元々大人同士の付き合いだったでしょう。それがお望みだったのでは?」
その言葉を聞いた瞬間、五条の圧が増した。制御を失い放たれた呪力が部屋に充満する。私が駆け出しの呪術師であったなら、あまりの実力差と、直接向けられた敵意に慄き、逃げまどったかもしれない。
五条は唇をこれ以上ない程に歪め、言葉を吐き捨てた。
「それを七海が、オマエが、望んでいたから僕は妥協しただけだ」
――妥協。そんな言葉が彼の辞書にあったとは。
それにしても、五条がこれほどまでに関係の解消を拒絶するとは。その理由は一体なんなのだろう。私の身体に対する執着だろうか。この可愛げのない筋肉質な男の身体に執着だって? 私との別れが上層部との政争に戦略に影響を及ぼすと危機感を抱いている? まさか。私にそんな価値はない。一度手に入れた玩具を手放したくないと駄々をこねているだけだろうか。
それともまさか、五条さんが私に――恋をしている?
この人に限って、そんな理由であるはずもないだろう。
私は五条さんと目をあわせた。
際限のない怒りを身にまとう彼の姿は壮絶で、圧倒的で、一度目で捉えると考えを巡らす余裕など消え失せた。
目隠しの奥にある瞳を見たいなと、ふと思った。怒りを湛えた彼の瞳は、どのような色をしているのか。
五条さんのすべてに引き寄せられる。彼に私のすべてを塗りつぶしてほしいと願う。「美」とはなにかと問われたら、私は五条さんを差し出すだろう。いや、そんな勿体ないことはしたくない。彼を愛でることが許されたなら、私は他者に彼の存在を口外しないだろう。そして生涯私だけが彼を愛するのだ。
怒りを迸らせた彼も美しい。許されるなら五条さんに手を伸ばし、その存在を己の掌で確かめたい。
ああ、彼が存在する世界はなんて美しいのだろう。
五条さんを前にすると、まるで今、初めてこの世界に生まれ落ちたかのような、そんな気分になる。
***
高専の門へと繋がる石造りの階段に腰を下ろし、私は冷えた缶コーヒーを飲んでいた。先程までの遣り取りですっかり熱を持った頭を冷まそうと、冷たい液体を臓腑の中に流しこむ。
はあ、と息を吐いて髪を掻きむしった。髪型が崩れ、ぼさぼさになることなど最早どうでもよかった。
背後から軽い足音が近づいてくる。甘い香りが、鼻先をくすぐった。
「よう、七海。話をしてもいいか」
「誰の差し金かにもよります。……家入さん」
白衣のポケットに両手を突っ込んで立つ家入は、棒つきの飴を舐めていた。いつだったか、五条が舐めていたことのある、紅茶フレーバーの棒つき飴。
「心配せずとも恋のキューピッドなんてモンじゃないよ。そんな柄でもない」
「そうですね」
「言うねえ」
家入は私の隣に腰を下ろし、何事かを思い出したかのように小さく笑った。
「一体どうしたのさ。なにがあった。五条が随分と荒れていた。あれを相手にする奴は手こずるぞ」
「ご迷惑をおかけします」
家入は探るように私を見た。目元の泣き黒子が、彼女の魅力を引き立てているなと、私はぼんやり思った。
「――いろいろありまして、五条さんに今の関係は続けられないと私が申し上げたので」
「なんだ、別れ話か」
「いえ、そもそも付き合っていません」
「どういう意味? ……ああ、身体だけの関係ってこと」
あからさまな物言いにどう返したものか迷い、私は曖昧に頷くだけにとどめた。
「へー、意外。え、それ本当なの?」
私は唇を曲げ、家入さんを横目で見た。
「嘘をついてどうなります。しかも、こんな話題で」
「いや、へー。そっか。そうなんだ。いやなに、あいつがそれで満足していたのが意外だよ」
ふーん、と言いながら前を向いた家入は飴を齧り、
「で、別れを決断したきっかけは?」
と問うた。
「……なんとなく」
「嘘をつくなよ」
「嘘じゃないですよ」
「七海ぃ、私を馬鹿にするな。君、嘘をつくときに出る癖があるから、私に嘘は通用しないぞ」
「……どのような癖かお訊ねしても?」
「言わない。知ったら直すから教えない」
「そうですか……」
私は思わず己の頬に手を当てた。癖。一体どのような。それとも只カマをかけられているのだろうか。
「前の任務で、呪物の回収に行ったんです。鏡でした」
「ああ、軽い怪我をしていたな。怪我のわりに、真っ青な顔をして」
「あの鏡には曰くがあって」
「ほう」
「鏡を手にした人が、心のなかで大切にしている人を、映し出すのだそうです」
「へえ。それで、本当に映るのか?」
私は横目でちらりと家入さんを見遣った。
「まさかとは思うが、そこに五条が映ったとか言うんじゃないだろうな」
「……そのまさかで」
家入は大きく上半身を反らし、深々と溜め息をついた。
「はあー、馬鹿馬鹿しい。どうして君から惚気を聞かされなきゃいけないんだ。もう帰りたくなってきた」
「お帰りになっても構いませんよ」
「で? その胡散臭い鏡に映るくらい大切だっていうのに、なんでそれが別れ話になるんだ」
私は眼下を見下ろした。果てなく続く石段、左右を覆う鮮やかな緑。門の先には道が伸び、遠くに灰色の街が広がる。青空の下は煙り、地平線がぼんやりと隠されていた。
私は迷い、口を開いては閉じる。
「怖く、なったんです」
そうだ、私は怖くなった。怖じ気づいた。
この世界に戻ったときから、私はひとりで生き、ひとりに満足し、ひとりで死ぬのだと思っていた。それで十分だと思った。私の人生はそれで十分なのだと。
なのにいつからか五条さんが私の人生に入りこんでいた。彼は身体を通じて私の心を知らぬうちに絡めとっていた。蜘蛛の巣に捕らえられた羽虫のように、私の手足は自由が利かず、私を狙う五条が人生の支配者となりつつあった。
私は五条さんが怖い。
彼の隣に立つだけで、私の心臓は高鳴り、躍りだす。彼といると私の周囲が脈打つように震え、それまで鈍い光を反射させているだけだった世界の輝きが増す。私以外の存在すべてが愛おしく思えた。
彼と机を挟んで食事をすれば、煩い心臓のせいで味など欠片もわからないくせに、なにを食べても美味しいのだ。彼と景色を見渡せば、彼しか視界に入っていないのに世界で唯一の絶景の前に立っている心地がする。嫌いだと思っていた彼のいくつかの振る舞いさえ、許してしまいそうになる。
「このままでは、この世界ごと彼を愛してしまいそうだと」
毎朝家を出るとき前に立つ鏡を見ては、己の姿を醜いと思う。自分の姿を嫌うほど、私は五条さんを求めてやまなかった。彼が欲しくてたまらなくて、五条さんを探し続ける目つきが醜悪だと感じて仕方なかった。
「それに、彼は私に勿体ないとも思います」
私は既に理解している。彼が私に生きる理由を与えるなら、それは私が死ねない理由になるのだと。
家入が私に肩を寄せ、小声で囁いた。
「諦めな。事実に即せよ、七海。君はもう五条のこと以外考えられない、嵐の只中にいるのさ」
甘い香りを耳元に残して、家入は身を引いた。背後を振り返り、大声で叫ぶ。
「だってさ、聞いたか? 五条、君めちゃくちゃ愛されてるじゃん」
背後の気配には少し前から気づいていた。
「……キューピッドなんかじゃないって仰ったではないですか」
私は土の散った足元を見下ろした。蟻が艶めかしい光沢をもつ昆虫を数匹がかりで運んでいた。
「大吟醸と高級寿司に釣られるキューピッドなんているか?」
ええ、私の目の前にいます、とは流石に言えなかった。
家入が腰を上げ、服を掃った。そのまま彼女は立ち去る。入れ替わるように、私の後ろに立つ人がいた。彼の黒い革靴が、視界の隅に入る。家入さんが食べていた飴と同じ、けれど彼の体臭が混じって少し違いのある、甘やかな香りが私を包んだ。彼の手が回され、私の前で手を組んだ。仄かな体温が、私の背を覆う。
私を包みこむように抱きしめた五条さんは、そのまま躊躇いなく地べたへと腰を下ろした。人目が気になります、と言い訳しながら彼を振り払いたいのに、こんなときに限って誰も通りかからない。私と彼のふたりきりだ。
「こんな。……こんな振る舞いをするような、甘い関係でしたか、私たちは」
五条さんの鼻が、私の首筋に埋められる。彼の銀糸のような細く白い髪が、私の肌をなぞった。
「こんな甘い関係に、ずっとなりたかった」
僕ずっと我慢できてたでしょ、褒めて、と彼は甘い声でねだった。
「七海、僕オマエが好きなんだよ。どうしようもないくらいに。どうすればいい? 賢いオマエにならわかるだろ」
「アナタこそ、最強なんですから、もっとしゃっきりしてくださらないと」
私は彼から距離を取ろうと首を仰け反らせたが、彼はそれを許さず、どこまでも追ってきた。耳元で囁かれた彼の声が、私の脳に侵入する。
「なあ、僕、オマエのものになりたいし、オマエを僕のものにしたい。する」
「私たちは『モノ』ではありません」
「……ななみ」
まるで学生を窘めるような声。いつから彼は、こんな声を出せるようになったのだろう。
「僕たち恋人になろうよ、七海」
糖蜜よりも甘い響き。確かに己が立っていると確信できていた世界が揺らぐ。地に下ろしている筈の足が、まるで宙に浮いているように頼りなくなる。彼に縋りついたなら、先程から煩く鳴り続けている心臓は静かになってくれるだろうか。いっそその動きを止めてくれるだろうか。
「私はアナタと恋人になんてなりたくないですが、もしアナタに、私が引退しても共にいてくださる覚悟がおありならいいですよ。私は外国に――」
行くつもりですが、という言葉を発する前に、腹に強い衝撃を感じた。ぐらりと傾ぐ身体、上下する視界。なにを、と混乱した直後、私は己の身体が頑強な腕によって持ち上げられたのだと、ようやく理解できた。
私は五条さんの肩に担がれている。
「ちょっと、いきなりなにをするんですか。おろしてください、五条さん、聞いていらっしゃいますか」
彼の背中の布を必死で掴む。叩き、抓り、足をばたつかせる。
それでも彼の歩みが止まることはなく、むしろ楽し気に、半ば駆けるように、彼は校庭の隅を横切った。
「センセー、どうしたのー」
遠くから学生が問いかける。笑いさざめく幼い子供たちの気配。
「ぼくはー、いまからななみとー、ケッコンするーーーーーー!」
ひっ、と引き攣れた声が出た。
「ちょっと五条さん、大声でなにを」
オメデトーーーー、と子供たちは声を揃えて笑った。
「五条さん、どういうつもりですか」
五条さんの顔が見えない。彼の背中に広がる景色しか、私は見ることができない。
「だって、それプロポーズだろ、七海。引退後にだって僕は一緒にいるよ。今すぐ結婚しよう、オマエの気が変わらないうちに。学長に立会人になってもらうから」
私は項垂れ、溜め息をついた。あまりのくだらなさに脱力する。徐々におかしな気分になり、は、はは、と笑いが漏れた。
「アナタが私を下ろした瞬間、私は逃げますからね」
「いいよ。何度だって捕まえてあげるよ。でも絶対に逃がさない。やっと手に入れたんだ。手放さないよ」
私は彼に抱えられ、揺れながら、空を見上げた。
昼下がりの空は、彼の瞳と同じ色をしている。
きっと嵐の中心で見上げる空は、今日のように遠く澄んだ色をしている。
