呪術廻戦(五七)


 夢を見ているのだと思った。

 夢か現かも判別できない日々だった。人と物の輪郭は不規則に歪み、温度は上昇したかと思えば背骨ごと凍るように冷え切り、口の中は乾き、胃の中に吐くものもないのに吐き気が絶えず襲い、全ての物体は肌から五ミリ先にしか存在せず上手く掴めない、悪夢の中を一歩一歩確かに歩む日々。
 過ぎゆく時間だけが平等だった。生者にとって、刻まれる時間、先に進む時間だけが万人に与えられた平等だったのだ。

 死者の謳歌できない悪夢。学校の門の手前に停められた黒塗りの車、遺品の詰まった鞄を抱きながら頭を下げる制服の少女。それは初めて目にする灰原の妹だった。
 七海はそのときこめかみを伝った汗の感触を今もありありと感じる。けれど、その夏一際うるさく鳴り響いていた蝉の泣き声だけは、どうしても思い出せない。
 その夏の終わり、圧縮された灼熱の空気がずっと七海を包み込んでいた。どこまで逃げても追い纏わりついてくる重みと喉を締めつけられる窒息感。

 ***

 夢を見ているのだと思った。
 残暑と呼ぶには強烈すぎる九月の太陽がもたらし、夜まで残った灼熱の空気が私に悪夢をみせているのだと。

 部屋にじっとりとこもる空気に耐えかね開け放していた窓が、風に押されギイギイと耳障りな音を立てていた。七海は親友の断末魔で満たされた酷く澱んだ夢の中から這いずりだし、乾いた両目を薄っすらと開けた。闇の中に寮の自室が浮かび上がる。几帳面に整理されていた部屋は、この一ヵ月一度も掃除されていない。
 月明かりが影を作る。綿埃が部屋の隅に転がっていた。

 背後で、モゾ、と誰かが動く気配がした。学生が一人横になれるだけのベッドには来客がいた。恵まれた身長の持ち主の足はベッドからはみ出て、そしてまた彼に押される形で七海の身体もベッドから零れ落ちんばかりになっている。
「なにを、されているのですか」
 七海が発した言葉は、まるで水中での会話のように遠くくぐもって聞こえた。
「――だ」
「はい?」
 七海に背を向け、開け放たれた窓越しに外を眺めている気配をさせている男は言った。
「部屋を間違えたんだよ、七海」
「そうですか」
 では、正しい部屋に帰ればいいのではないのですか。五条さん、あなたの部屋に。
けれど、あなたは帰れないのでしょう。壁を挟んだ隣の部屋から音のしなくなった、己の部屋に。
 そこはまるで、隣から音のしなくなった、この部屋のようでしょう。
「間違えたのなら、仕方ないですね」
 七海は無関心にそう言葉を発すると、再び瞼を閉じた。明日は準一級呪術師と朝早くから任務に出なければならない。例え再び眠りに落ちその最果てで親友の悲鳴を聞くとしても、七海は睡眠を取らなければならないのだ。
 首筋に滲んでいた汗が一筋、寝巻がわりのジャージに吸いこまれた。

 ***

 奇妙な同衾はその後も続いた。片手で数えられる数を越えた頃、七海は知った。
 彼が部屋を「間違える」日は、五条にとって耐えかねる出来事が生じた日なのだと。

 昼間、血まみれの片手をぶら下げながら軽薄な笑みを浮かべ学校に帰ってきた彼は、夜、談話室で家入先輩と笑いあっていた。その様子を横目にシャワーを浴びにいった七海は、排水口に流れ落ちる湯と泡を眺めながら、スーツの男が囁いていた言葉を思い出す。
 夥しい数の子供が……歪な形……非術師、呪詛師の仕業。
 首を振り、水滴を散らした。タオルを手に取り、顔に押し当てる。洗い晒しの布が肌に心地よかった。
 ――自分に関係する物事以外に注意を払う必要はない。最低限をこなし、卒業し、私はこの世界から足を洗うのだから。
 私には何も関係ない。もう誰も、もうなにも。
 七海は濡れた己の髪を乱暴に拭った。ふと目にした脱衣室の湯気で曇った鏡には、光を失った瞳を持つ青年が映し出されていた。
 
 予想した通り、鍵を掛けていった筈の部屋のドアノブは抵抗なく回った。廊下から入りこんだ光でぼんやりと浮かび上がったベッドの上には、掛け布団を被った人影がある。
 七海は照明を点けずに扉を閉め、入り口で靴を脱ぎ、揃え、裸足のままひたひたとベッドまで歩んだ。
 背を向けている五条に、七海もまた背を向け横たわった。狭いベッドで背中と背中が布越しに触れ合う。七海は先刻飲んできた水で湿っている唇を開いた。
「どうされたんですか、五条さん」
 五条がかすかに身じろいだ。枕の上で髪と髪が擦れあう。
「部屋を間違えたんだよ、七海」
 七海は瞼を閉じ、歯を食いしばった。何故あなたは。

 何故あなたはそれほど強いのに、私へは弱さをみせるのです。

「そうですか。……間違えたのなら、仕方ないですね」
 シーツに額を擦りつける。叫びだしたい気持ちを殺し、七海は目を閉じた。
 行き場のない最果てだった。残された者がふたり、ベッド一つ分の存在しえぬ安らぎをわかちあっている。ここからどこへ進めばいいのか、きっと誰にもわからないのだ。

 ***

 花の香りが混じった空気が流れ込む窓を閉めようとして、舞い込んだ花弁に気づいた。窓枠に落ちていた一片を指先で摘まみ上げると、七海は目を細め、外にひらりと逃した。
 窓を閉め、四年間自室だった空間を見渡す。
 寮の部屋は綺麗に掃除し、曇りひとつなく磨き上げた。ここまで綺麗に掃除しておけば、次に入る人間の手間も減るだろう。
 鞄を持とうとしていた七海は、開け放していた扉からしたノックの音に顔を上げた。
「やっほー、七海ちゃん。元気? 久しぶり~」
「……五条さんは京都へ研修に行ったと」
「んー、研修してるっていうよりさせてるんだけどね」
「答えになっていません」
「え、なんか冷たいなあ。愛しい愛しい後輩の卒業式だって聞いてわざわざ帰ってきたのよ」
新幹線で。ねえ七海、八つ橋食べる? ニッキ大丈夫だっけ? 車内販売のアイス美味しかったなあ、と喋りながら五条は七海の正面に立った。掛けていたサングラスを外し、胸元のポケットにひっかける。
 底なしの青色が七海を貫き、動きの鈍い胸の中心を抉った。
「……ねえ七海。企業に就職するんだってね」
「……はい。採用してくれるところがありましたので」
「もうこっちには興味ない?」
 思わず乾いた唇を舐めた。俯きたいのに、彼の瞳に捕らわれた己の瞳は微動だにしない。
「私に、なにを言わせたいのですか」
「んー、別に」
 そう言って、彼は口角を吊り上げた。顔は笑みを作っているのに、彼の瞳はありありと寂しさを湛えている。

「ねえ、僕たち最後なんだね、七海。僕、おまえと最後にキスしたいなあ」

 どうしてですか、五条さん。私は貴方が嫌いで嫌いで仕方ありませんでした。その強さで勝手に人々もそれ以外も支配していけばいいのにと思っていました。この世の問題全て貴方の掌の上で解決できるのではないかと考えていました。誰もが貴方の力に酔い、憧れ、羨望し、渇望し、憎み、嫌い、侮蔑し、厭うのです。貴方の力だけが貴方の存在を人々に証明し、有象無象は誰もその奥を見ようとしないことに気づいたのはいつでしょうか。その奥に隠された貴方自身を見ようとしないことに気づいたのはいつでしょうか。軽薄さの奥に隠されたため息も、夜に私のような平凡な人間に背を委ね、ただ一度細かく震える貴方の弱さを、誰も知ろうとしないのです。その事実に気づいた己も、気づかせた貴方も嫌いで仕方ありませんでした。私は学校にも呪術を巡る世界にも悔いを残していきたくないのです。私はきっぱりと手を切りたいのです。だからどうかそんな瞳で私を見つめないでください。嫌いで仕方がない、これ以上行き場のないこの部屋も、そこからどうにか逃げようと藻掻く己も、全てを支配する力も、五条さん、貴方も――

「逃げないの? 七海。びっくりしてるの?」
 生ぬるい息が唇にかかる。美しい弧を描いた赤色の唇が、七海に触れる寸前で静止する。
 キスしちゃうよ、と五条は囁いた。

 胸が熱く燃える。灰原が死んでから、感情は死に絶えていたと思っていた。けれど分かる。腹の底から湧きあがった新鮮な感情。その名前は知らないが、知ったところで、この世界に七海は五条を置いていかなければならないのだ。ここで私たちは互いに魂を無造作に引き裂かれ、七海の背骨はぐにゃりと曲がった。なにもかも全て失い続け、今となっては人間の形を留めているのが肉体だけという有様だ。
 目元が熱い。じわりと滲むものがあった。かさついた頬になにかが一筋流れる。
 七海は己の口角が吊り上がるのを自覚した。きっと瞳には、寂しさが湛えられているだろう。
「してください。……貴方の背中、とても温かかった、から」

 青色の瞳の中に、安らぎを見る。暗闇のなかにある、手足のはみ出るベッド一つ分の安らぎ。
 柔らかな口づけは、涙の味がした。
 
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