呪術廻戦(五七)
生い茂る緑が疲れた目に眩しかった。
お堂の裏側、山から這い下りてきた植物と建てられたお堂の境目に位置する縁台に、七海は腰かけていた。涼を求めてその場所に辿り着いたものの、周囲に茂る木々は、空の頂点に居座る太陽の光まではさえぎってくれなかった。
数多の蝉がジイジイと煩く鳴き、足元に落ちる影は色濃い。七海は手首を伝う溶けたアイスを、手首に浮く汗ごと舌で舐めとった。
いつか談話室で、誰かと一緒に話しながら流し見たニュースを思い出す。「今年は例年にない猛暑です、熱中症の対策を……」。
ミルク味のシャーベットを齧り、冷えた感触を喉に押し込んだ。いくらでも腹におさめられそうだった。身体中から水分を搾り取られている気分になる。まるで熱湯で絞られる雑巾だ。
七海は深くため息をついた。身体にも頭にも熱が篭もり、上手く思考することができない。
じゃり、と小石を踏む音が傍らでした。
「……おや、先客がいた」
七海は伏せていた頭を緩慢な動きで上げ、縁台の先を見遣った。
「夏油さん。どうされたんですか、こんなところで」
「君と同じ理由じゃないかな」
七海は戸惑い、靴先で転がっていた石を踏んだ。
「私は別に、なにか理由があってここにいる訳では」
「じゃあ私たちもそうだな。理由があってきた訳じゃないのさ」
――わたしたち。七海は夏油が発したその言葉を、胸の内で繰り返した。
七海は夏油を正面から見つめた。彼は目を細めて薄っすらとした笑みを浮かべ、問いかけるように首を傾げてみせた。夏用の生地を使ってはいるだろうが、手足を覆う学生服を身にまとっていながら、夏油は汗の一粒も肌に浮かべていない。
「灰原は? 七海ひとりなの」
「部屋でテスト勉強です。というか、私もそこにいたんですが」
「息抜き?」
「そんなところです」
ふうん、と返事をした夏油は、そのまま縁台に接する石段に腰を掛けた。ふたりの間に沈黙が落ちる。七海は居心地の悪さに身じろいだ。
彼には、全てを見通されている気がする。
七海は手元のアイスを見下ろし、早く食べきってしまおうと口を開けた。
「あっ、こんなところにいた。先に行くんじゃねえよ、見失うだろ」
「悟が私を見失う訳ないだろ」
「うっせ。あ? 誰かいるの」
「七海が」
夏油は横手から現れた五条に、七海を指し示した。七海は軽く頭を下げる。五条はその場でぴたりと足を止め、七海をじっと見た。濃いサングラス越しに、凝視されている気配を感じる。
「よう」
五条は手に持っていた二連のアイスを千切って、片方を夏油に投げ渡し、そのまま七海の正面まで近づいた。背後で夏油が悠々とアイスをキャッチしている。
「なにか、御用ですか」
「別に」
五条と七海の間に、張りつめた空気が漂う。いつからだろう、ふたりの間に違和感が生まれたのは。いつからだろう、ふたりで自然に会話できなくなったのは。いつからだろう、この人を。
いつからだって? そんなのわかりきっている。
七海は緊張で乾いた唇を舌で舐めた。その様子を五条の瞳が追っている。ななみ、と呼ぶ声の圧力に耐え切れず、七海は縁台から腰を上げた。
「あっ」
「へっ」
ずるり、と棒から外れた残りのアイスが、石畳に落下する。乾燥しきった石の表面が、熱で緩んだアイスの残骸で濡れた。
「あーあ、勿体ない」
夏油が遠くで笑った。
「……悪い」
五条の謝罪に七海は首を振り、
「いえ……さっさと食べなかった私が悪いんです」
と答えた。
「これいる?」
と、五条は手にしていたアイスを、七海に向かって突き出した。
「それは五条さんのでしょう。私はあらかた食べていたので、大丈夫です」
「そう」
「七海、今度悟にアイス奢ってもらいなよ」
「……、そんな」
「いいぜ」
ダッツ、ダッツ奢ってもらいなよ、と夏油がアイスの容器を捻って開けながら笑った。
「……その後が怖いので、もう少し手頃なアイスがいいです」
「なんでもいいから、忘れるなよ。約束だからな」
五条が七海の肩に手を置き、数度叩いた。
「奢る方が約束してどうするのさ。普通奢られる方が約束しないか」
「傑はちょっと黙ってろよ」
七海はふたりに頭を下げると、踵を返しその場を離れた。
歩く足は徐々に速くなり、やがて駆けだした。全身が熱を持っていた。身体ごと炎に焼かれ燃え尽きてしまいそうだった。
五条が叩いた肩が痛む。心がねじ切れそうに痛む。七海は叩かれた場所を掌で掴み、半ば走りながら学校の敷地を横断する。
熱に浮かされる若さなど、早く過ぎ去ってしまえばいいのに。
七海は唇を噛みしめ、心を支配する乾きをどうにか無視しようとした。
五条に触れたいという欲求を、必死に心の奥底へと押し返した。
***
「あっ……つ、う」
熱い。暑いではない、熱い。七海は額に浮かぶ汗を腕で拭いながら呻いた。汗で湿るシーツに転がったまま、天井を見上げる。掛け布団はとうにどこかへ蹴り飛ばされていた。
眠りからさめた眼で、頭上のエアコンを睨む。
――これが壊れたりするから、厭な夢を見る羽目になる。
部屋の窓は全開なのに、レースカーテンはぴくりとも動かない。ただ熱い空気が、隙間から部屋を蒸すように侵入してくるだけだ。
七海はよろよろとベッドから起き上がり、寝室からキッチンまで歩くと、冷蔵庫の扉を開けた。流れてくる冷気が肌を嘗める。肌を刺す冷たさに、生き返った心地がした。
七海は冷蔵室の扉を閉め、冷凍庫を開けた。しばらくじっと中身を観察してからそっと扉を閉め、再び冷蔵室を開ける。
「……なにその動き。っていうか七海ぃ、暑い。暑すぎる。クーラーないの地獄。開発した人、偉すぎじゃない? ああ、七海の匂いがする。ここは天国。地獄の中の楽園」
「さらっと変態チックなことを言わないでください」
「事実だもん」
五条は下着だけを身に着け、首にタオルをかけたまま七海の肩に顎を載せた。すんすん、と匂いを嗅ぎながら七海を強く抱きしめる。湯上がりの五条から漂うシャンプーの香りが七海を包んだ。
「ちょっと、五条さん、暑いのでくっつかないでください。割と本気でやめてください」
「冷蔵庫ずっと開けてると電気代かかるよ。っていうかなにしてるの? そんなにクーラーないのつらい? つらいよねー。ふたりで冷蔵庫のなか入っちゃう?」
「入れるものならとっくに入ってます」
「デスヨネ」
「……アイスが食べたかったのですが、なかったので冷気を浴びながら考え事をしていました」
「えっ、僕のアイス食べていいよ」
七海は頬にべったりとくっつく五条の頬を押し返しながら、首を振った。
「違うんです。……食べたいものは、もう二度と食べられないものなので」
七海は俯き、前髪を掻き上げた。馬鹿なことを言ってしまった、とそのまま閉じた冷蔵庫の扉に額を押し当てる。なめらかな表面は冷えていて、七海の身体に篭もる熱を少しだけ奪ってくれた。
「七海、どうしたの。なにかあった? 僕のとっておきの新作アイス、半分食べる? 奥に隠してあるんだけど」
「隠しているつもりだったんですか、あれ」
「うん」
むに、と五条の頬が七海の首筋に押し付けられる。ぎゅう、と五条の腕が七海の身体を抱いた。
「アナタ、もしかして慰めてくださっているんですか」
五条は七海の首筋に唇を落としながら「んー?」とよそ事を考えているような返事をした。
「本当に半分食べますよ」
「いいよぉ。お礼に僕の分は僕に『あ~ん♡』ってして」
ふふ、と七海は笑い、腕を後ろに回した。
「五条さん、今日はアナタの家に泊まりたいです。流石に暑すぎる」
「今日だけじゃなくて、クーラー直るまでいなよ」
「そうした方がいい気がしてきました」
「でしょでしょ」
七海は冷凍庫を開け、奥に置かれているアイスのカップを手に取る。そして戻らない日々に別れを告げるように、冷凍庫の扉をそっと閉めた。
お堂の裏側、山から這い下りてきた植物と建てられたお堂の境目に位置する縁台に、七海は腰かけていた。涼を求めてその場所に辿り着いたものの、周囲に茂る木々は、空の頂点に居座る太陽の光まではさえぎってくれなかった。
数多の蝉がジイジイと煩く鳴き、足元に落ちる影は色濃い。七海は手首を伝う溶けたアイスを、手首に浮く汗ごと舌で舐めとった。
いつか談話室で、誰かと一緒に話しながら流し見たニュースを思い出す。「今年は例年にない猛暑です、熱中症の対策を……」。
ミルク味のシャーベットを齧り、冷えた感触を喉に押し込んだ。いくらでも腹におさめられそうだった。身体中から水分を搾り取られている気分になる。まるで熱湯で絞られる雑巾だ。
七海は深くため息をついた。身体にも頭にも熱が篭もり、上手く思考することができない。
じゃり、と小石を踏む音が傍らでした。
「……おや、先客がいた」
七海は伏せていた頭を緩慢な動きで上げ、縁台の先を見遣った。
「夏油さん。どうされたんですか、こんなところで」
「君と同じ理由じゃないかな」
七海は戸惑い、靴先で転がっていた石を踏んだ。
「私は別に、なにか理由があってここにいる訳では」
「じゃあ私たちもそうだな。理由があってきた訳じゃないのさ」
――わたしたち。七海は夏油が発したその言葉を、胸の内で繰り返した。
七海は夏油を正面から見つめた。彼は目を細めて薄っすらとした笑みを浮かべ、問いかけるように首を傾げてみせた。夏用の生地を使ってはいるだろうが、手足を覆う学生服を身にまとっていながら、夏油は汗の一粒も肌に浮かべていない。
「灰原は? 七海ひとりなの」
「部屋でテスト勉強です。というか、私もそこにいたんですが」
「息抜き?」
「そんなところです」
ふうん、と返事をした夏油は、そのまま縁台に接する石段に腰を掛けた。ふたりの間に沈黙が落ちる。七海は居心地の悪さに身じろいだ。
彼には、全てを見通されている気がする。
七海は手元のアイスを見下ろし、早く食べきってしまおうと口を開けた。
「あっ、こんなところにいた。先に行くんじゃねえよ、見失うだろ」
「悟が私を見失う訳ないだろ」
「うっせ。あ? 誰かいるの」
「七海が」
夏油は横手から現れた五条に、七海を指し示した。七海は軽く頭を下げる。五条はその場でぴたりと足を止め、七海をじっと見た。濃いサングラス越しに、凝視されている気配を感じる。
「よう」
五条は手に持っていた二連のアイスを千切って、片方を夏油に投げ渡し、そのまま七海の正面まで近づいた。背後で夏油が悠々とアイスをキャッチしている。
「なにか、御用ですか」
「別に」
五条と七海の間に、張りつめた空気が漂う。いつからだろう、ふたりの間に違和感が生まれたのは。いつからだろう、ふたりで自然に会話できなくなったのは。いつからだろう、この人を。
いつからだって? そんなのわかりきっている。
七海は緊張で乾いた唇を舌で舐めた。その様子を五条の瞳が追っている。ななみ、と呼ぶ声の圧力に耐え切れず、七海は縁台から腰を上げた。
「あっ」
「へっ」
ずるり、と棒から外れた残りのアイスが、石畳に落下する。乾燥しきった石の表面が、熱で緩んだアイスの残骸で濡れた。
「あーあ、勿体ない」
夏油が遠くで笑った。
「……悪い」
五条の謝罪に七海は首を振り、
「いえ……さっさと食べなかった私が悪いんです」
と答えた。
「これいる?」
と、五条は手にしていたアイスを、七海に向かって突き出した。
「それは五条さんのでしょう。私はあらかた食べていたので、大丈夫です」
「そう」
「七海、今度悟にアイス奢ってもらいなよ」
「……、そんな」
「いいぜ」
ダッツ、ダッツ奢ってもらいなよ、と夏油がアイスの容器を捻って開けながら笑った。
「……その後が怖いので、もう少し手頃なアイスがいいです」
「なんでもいいから、忘れるなよ。約束だからな」
五条が七海の肩に手を置き、数度叩いた。
「奢る方が約束してどうするのさ。普通奢られる方が約束しないか」
「傑はちょっと黙ってろよ」
七海はふたりに頭を下げると、踵を返しその場を離れた。
歩く足は徐々に速くなり、やがて駆けだした。全身が熱を持っていた。身体ごと炎に焼かれ燃え尽きてしまいそうだった。
五条が叩いた肩が痛む。心がねじ切れそうに痛む。七海は叩かれた場所を掌で掴み、半ば走りながら学校の敷地を横断する。
熱に浮かされる若さなど、早く過ぎ去ってしまえばいいのに。
七海は唇を噛みしめ、心を支配する乾きをどうにか無視しようとした。
五条に触れたいという欲求を、必死に心の奥底へと押し返した。
***
「あっ……つ、う」
熱い。暑いではない、熱い。七海は額に浮かぶ汗を腕で拭いながら呻いた。汗で湿るシーツに転がったまま、天井を見上げる。掛け布団はとうにどこかへ蹴り飛ばされていた。
眠りからさめた眼で、頭上のエアコンを睨む。
――これが壊れたりするから、厭な夢を見る羽目になる。
部屋の窓は全開なのに、レースカーテンはぴくりとも動かない。ただ熱い空気が、隙間から部屋を蒸すように侵入してくるだけだ。
七海はよろよろとベッドから起き上がり、寝室からキッチンまで歩くと、冷蔵庫の扉を開けた。流れてくる冷気が肌を嘗める。肌を刺す冷たさに、生き返った心地がした。
七海は冷蔵室の扉を閉め、冷凍庫を開けた。しばらくじっと中身を観察してからそっと扉を閉め、再び冷蔵室を開ける。
「……なにその動き。っていうか七海ぃ、暑い。暑すぎる。クーラーないの地獄。開発した人、偉すぎじゃない? ああ、七海の匂いがする。ここは天国。地獄の中の楽園」
「さらっと変態チックなことを言わないでください」
「事実だもん」
五条は下着だけを身に着け、首にタオルをかけたまま七海の肩に顎を載せた。すんすん、と匂いを嗅ぎながら七海を強く抱きしめる。湯上がりの五条から漂うシャンプーの香りが七海を包んだ。
「ちょっと、五条さん、暑いのでくっつかないでください。割と本気でやめてください」
「冷蔵庫ずっと開けてると電気代かかるよ。っていうかなにしてるの? そんなにクーラーないのつらい? つらいよねー。ふたりで冷蔵庫のなか入っちゃう?」
「入れるものならとっくに入ってます」
「デスヨネ」
「……アイスが食べたかったのですが、なかったので冷気を浴びながら考え事をしていました」
「えっ、僕のアイス食べていいよ」
七海は頬にべったりとくっつく五条の頬を押し返しながら、首を振った。
「違うんです。……食べたいものは、もう二度と食べられないものなので」
七海は俯き、前髪を掻き上げた。馬鹿なことを言ってしまった、とそのまま閉じた冷蔵庫の扉に額を押し当てる。なめらかな表面は冷えていて、七海の身体に篭もる熱を少しだけ奪ってくれた。
「七海、どうしたの。なにかあった? 僕のとっておきの新作アイス、半分食べる? 奥に隠してあるんだけど」
「隠しているつもりだったんですか、あれ」
「うん」
むに、と五条の頬が七海の首筋に押し付けられる。ぎゅう、と五条の腕が七海の身体を抱いた。
「アナタ、もしかして慰めてくださっているんですか」
五条は七海の首筋に唇を落としながら「んー?」とよそ事を考えているような返事をした。
「本当に半分食べますよ」
「いいよぉ。お礼に僕の分は僕に『あ~ん♡』ってして」
ふふ、と七海は笑い、腕を後ろに回した。
「五条さん、今日はアナタの家に泊まりたいです。流石に暑すぎる」
「今日だけじゃなくて、クーラー直るまでいなよ」
「そうした方がいい気がしてきました」
「でしょでしょ」
七海は冷凍庫を開け、奥に置かれているアイスのカップを手に取る。そして戻らない日々に別れを告げるように、冷凍庫の扉をそっと閉めた。
