呪術廻戦(五七)
彼は嘘をつく。
たったひとつの嘘をつく。
七海は己の靴を靴箱から取り出して履き、濡れる石段を下りた。靴底が擦れ耳障りな音を立てる。外ではみぞれまじりの雪が、曇天から終わりなく降り続いていた。吐いた息が、白く色づく。辺り一面に線香の匂いが漂っていた。手にしていた黒い傘を広げると、七海は歩き出した。黒い服を着た人々の群れを抜け、受付の人間に頭を下げて、寺の門をくぐる。
寺の外壁には鯨幕が垂れ下がっている。黒と白の世界で、七海はよく見知った顔を見つけた。歩道に佇む彼は、珍しく黒いスーツを着て同色のネクタイを締め、降りしきる雪の下で傘もささず宙を見上げていた。
下ろされた彼の髪は、鈍色の空を背景に一段と白く輝いていた。
七海は五条に近づくと、手にしている傘を彼に差しかけた。五条は宙を見上げたまま、振り返らずに声を発する。
「きてたんだ、七海」
「それは私の台詞ですよ。いらしていたのですね」
うん、と五条は気のない返事をした。
「……一応外ですから、濡れるふりくらいはした方がいいのでは」
五条のスーツに、雪に濡れた跡は一切ない。
「面倒だからいいよ。どうせ僕に気づくのなんて知り合いばかりだ」
「アナタね」
七海は呆れた声を出したが、五条に差しかけた傘を動かすことはなかった。
「もうお帰りですか。それとも今から?」
「今どうなってる?」
「私は焼香を済ませましたのでお暇してきました。まだでしたら、少し急いだほうがいいかと」
「そっか。じゃあ僕はいいや」
「なにが『じゃあ』なんです」
歩き出した五条につられて、七海も足を動かした。同じ黒い傘の下で肩を寄せ合い、濡れた坂道を下る。鯨幕はやがて途絶え、近隣の家々の庭が現れる。植えられた緑の中で、椿が赤く咲き誇っていた。
七海は灰色の世界に咲く赤色を流し見ながら、五条に話しかけた。
「幸運でした。彼の遺体が残っていて」
「そうだね」
五条は頷くと、十字路で足を止めた。七海を見下ろし、伸ばした人差し指で右手を示す。
「どこか行かない?」
「どこか、とは」
「この先に美味いパフェをだす喫茶店があるんだけど」
七海はゆっくり瞬きし、唇を固く結んでみせた。
「精進落としがパフェですか」
「美味しいよ」
「構いませんが、私は食べませんよ」
「よし、決まり」
そう言うと、五条はさっさと先に進み始めた。焦った七海は、いつもより大股に、五条の後を追った。
暖房のきいた室内でソファに腰を下ろすことができ、七海はほっと息をついた。脱いだコートを傍らに置き、メニューを手に取る。ふと気になって、己の二の腕に鼻先を近づけ、匂いを嗅いだ。黒いスーツから仄かに線香の匂いがし、七海はそっと眉根を寄せた。
ふたりが案内された席は窓際で、表通りに面した大きな窓からは外の様子が一望できた。
「……なににします」
「ホットの紅茶と、『季節のフルーツ・クリーム・パフェ チョコレートソース添え』」
七海は手を挙げて店員を呼んだ。注文をしているあいだ、五条は無関心に外の通りをぼんやりと眺めていた。
注文を控えた店員が去ったあと、七海は硝子のコップに注がれた水を口に含んだ。檸檬の酸味が舌を撫で、胃に落ちる。
五条から誘ったにも拘わらず、他者を拒絶するような険しさを滲ませた横顔に、七海も押し黙る。サングラスの脇から覗く五条の視線の先を辿り、灰色の雪が落ちる通りに顔を向けた。人気のない道を時折車が横切る。くすんだ色合いのビルが肩を寄せ、街路樹が申し訳程度の緑を添えていた。
「お待たせいたしました」
ふたりのあいだに落ちる沈黙を破り、清潔なエプロンを身にまとった店員が、湯気を立てるコーヒーと紅茶を卓上に並べる。七海は特に指示しなかったのに、彼女は硝子の器に盛られたパフェを迷いなく五条の前に置いた。
五条はテーブルに向き直り、細く長い銀色のスプーンを手に取った。店内の照明が放つ柔らかな暖色の光が、銀色に反射する。
七海は黒い液体の表面に写る自身に目を遣った。疲れた表情の男が、器のなかからじっと七海を見つめている。
「七海、砂糖取って」
五条が七海の傍に置かれた角砂糖を指先で示す。七海は思わず微かに目を細めた。
「なに」
七海は一度目を閉じると、深く息を吐き、角砂糖の載る小皿に手を伸ばした。
「いえ。パフェを食べるのに、紅茶へ砂糖を入れるのかと……思いましたが、私が頼んだものでもないのに、失礼しました」
「七海はいらないの、砂糖」
「私は結構です」
七海が陶器の皿を五条に向けて押しやると、それを受け取ろうとする五条の指が七海の指に一瞬触れ、離れた。
豆を手で挽き、丁寧にドリップされたコーヒーは香ばしく、程よい苦味と酸味を舌に残し、喉の奥に消える。
味はよく、客は静かで、店員はよく教育されている。五条さんがこの店を気に入る訳だ、と七海はひとり納得した。
「……抱えるものばかり、増えていきますね」
七海の言葉に、五条はちらりと目線を上げた。
「それをするとキリがない」
「すぐには忘れられないですよ、一応は付き合いがあったんですから、余計に」
「忘れるし、忘れることに慣れるよ。この仕事をしていれば嫌でもね。そのうち思い出すさ、抱えてばかりいられないって。特に『過去』になった人間は」
五条はチョコレートソースのかかった生クリームとオレンジを頬張り、静かに咀嚼した。喉仏が上下する様子を、七海は無意識に目で追った。
「もう一ヵ月経ったっけ」
「私が復帰してから? そうですね、一ヵ月と少しです」
「調子はどう。困ってることない?」
七海は眉を上げ、両手を組んだ。思わせぶりな素振りに、五条は手をとめた。無言のまま、なんだよ、と問いかける。
「あの五条さんが、まるで社会人のような言動をしている、と」
五条は肩を竦め、唇を曲げた。
「僕だって一応社会人だよ、もう。七海みたいに、外の世界は知らないけど」
「知る必要性があるかはわかりませんが」
「多分一生知ることはないだろうね」
五条は一度口を閉じ、やがてぽつりと呟いた。
「七海はさ」
「はい」
「七海はさ、死なないよ」
その言葉に、七海はカップを持つ手をとめた。脳裏に、いまは遠くなった過去の記憶がよぎる。
『――七海はさ、死なないよ』
学生服を着た五条が、ひっそりと呟いた。お堂の裏手、確かあのとき、周囲では彼岸花が咲き誇っていた。いまだ幼さを残していた五条は、それだけ言って立ち去った。あれはなにがきっかけで、五条さんは何故そんなことを。
そのとき返し損ねた言葉を、七海は今でもはっきりと思い出せる。
『五条さん、私はいつか』
私はいつか、アナタを残して死にます。
窓の外を、しぶきを上げながら赤い車が横切った。
「――そうですね、精一杯生きますよ。限界まで」
「僕はさあ」
五条はスプーンから手を離すと、両手を頭のうしろで組み、上半身をのけ反らせた。
「僕はさあ、将来人の上に立つんだから、決して我儘を言ってはいけませんって教育されたわけ。それで僕はその日からずっと我儘を言ってるんだけど」
「控えめに言って最悪ですね」
「七海には我儘を言ってないよ。だから七海は死ねない」
七海は目を見開き、息を止めた。時折誰かが立てる物音が、店内で静かに響く。カウンターの奥では薬缶の湯が沸き、湯気が立ち昇る。
――私が死なないなんて、嘘だ。そのときはいつか来る。ああ、五条さん。
アナタのそれは、祈りだ。アナタは、私が死にませんようにと祈っているのだ。
七海は引き寄せられるように、五条の大きな手を、すらりと長い指を見た。
この手はいつか、私の棺を持つだろうに。
「……言ってますよ、我儘」
「嘘」
「気づいていらっしゃらないようですが」
五条は紅茶を口に運び、話題を変えるように言った。
「一緒にどこか行きたいな」
「私とですか」
「他に誰が」
「私は明日から任務です。また地方のホテルを転々とする暮らしですよ」
「それ、一緒に行ってもいい?」
「一緒にって、高専や他の仕事はどうするんですか」
「誰かに頼む」
「……代わりにアナタが私の仕事をしてくださるなら、いいですよ」
「するする。してあげる」
「だったらアナタひとりで行った方が身軽でしょう」
「え、ヤダ、僕はオマエと一緒にいたいの。っていうか、それ七海の仕事を押しつけられてるだけじゃん」
「気づきましたか」
五条は深々と溜め息をつき、肩を落とした。
「かわいくない。後輩がかわいくない」
七海は呆れたように掌を上空に向けた。
「甘えたな人ですね。……私と一緒にいたいなら、その気になるよう私を口説いてくださらないと」
五条はその言葉に表情を消し、七海と目をあわせた。ふたりのときが止まる。
「口説いていいの」
低く柔らかな声で、五条は言った。彼の手が静かに伸び、テーブルの上にあった七海の手の甲を包む。
凍りついた瞳で、七海は五条の手を見下ろした。五条の手はすこしひんやりとして、けれど確かな体温を持っていた。
なんて酷い人だ。この人は、酷い。
いつかあなたが泣くと知りながら、私にこの手を取れというのか。
手を重ねたまま、五条は顔をそむけた。
「でもやだな。……ずるい。そう、ずるい」
「……なにが、です」
張りつめていた空気が緩む。
「僕も七海を口説くから、七海も僕のことを口説いてよ。不公平だ」
「仰っている意味が一ミリたりとも理解できないのですが」
五条の突拍子もない言い分に、抱いた動揺を誤魔化すように七海は咳払いし、首を傾けた。
「普通好意のある方がするものでしょう、口説くという行為は」
「七海は僕に好意がないの」
あるでしょ、とでも言いたげな五条の表情に、七海は眉を上げた。
「私にこうしろと?」
七海は手を机から持ち上げ指を広げると、するりと五条の指に絡ませ、彼と深く手を繋いだ。
――外で、喫茶店で、大の男がふたり、一体なにを。
思わずちらりと店内を窺った七海のまえで、五条は笑みを浮かべた。まるで迷子が親を見つけたかのような、安心しきった笑顔に、七海の胸が締めつけられる。
「アリだなあ。はは、なあ七海。人もさ、たまにはいいね」
「……はい」
七海は俯き、己の裡から込み上げる様々な感情をまとめて飲み下した。
死に触れる。頻繁に。そんな世界に自分は戻ってきたのだと思い知る。そして己のそのときを思う。彼を決して泣かせたくないと思う。そのために必要なのは、彼の手を拒むことだとわかっている。
けれど、我々はいまだ生者の側に立っているのだ。我々は生き、毎日確かに血を巡らせ、息をしている。流れるときに身を任せる存在として、五条の手を取り、彼と生きる道もまた枝分かれする道のひとつとして未来に向かって伸びているのだ。
彼のつく嘘が現実となればいいのに。
彼の祈りが、誰かへ届けばいいのに。
七海は五条の手を振り払うことなく、じっと握っていた。
冬の日、外の雪は一段と厳しさを増していた。
たったひとつの嘘をつく。
七海は己の靴を靴箱から取り出して履き、濡れる石段を下りた。靴底が擦れ耳障りな音を立てる。外ではみぞれまじりの雪が、曇天から終わりなく降り続いていた。吐いた息が、白く色づく。辺り一面に線香の匂いが漂っていた。手にしていた黒い傘を広げると、七海は歩き出した。黒い服を着た人々の群れを抜け、受付の人間に頭を下げて、寺の門をくぐる。
寺の外壁には鯨幕が垂れ下がっている。黒と白の世界で、七海はよく見知った顔を見つけた。歩道に佇む彼は、珍しく黒いスーツを着て同色のネクタイを締め、降りしきる雪の下で傘もささず宙を見上げていた。
下ろされた彼の髪は、鈍色の空を背景に一段と白く輝いていた。
七海は五条に近づくと、手にしている傘を彼に差しかけた。五条は宙を見上げたまま、振り返らずに声を発する。
「きてたんだ、七海」
「それは私の台詞ですよ。いらしていたのですね」
うん、と五条は気のない返事をした。
「……一応外ですから、濡れるふりくらいはした方がいいのでは」
五条のスーツに、雪に濡れた跡は一切ない。
「面倒だからいいよ。どうせ僕に気づくのなんて知り合いばかりだ」
「アナタね」
七海は呆れた声を出したが、五条に差しかけた傘を動かすことはなかった。
「もうお帰りですか。それとも今から?」
「今どうなってる?」
「私は焼香を済ませましたのでお暇してきました。まだでしたら、少し急いだほうがいいかと」
「そっか。じゃあ僕はいいや」
「なにが『じゃあ』なんです」
歩き出した五条につられて、七海も足を動かした。同じ黒い傘の下で肩を寄せ合い、濡れた坂道を下る。鯨幕はやがて途絶え、近隣の家々の庭が現れる。植えられた緑の中で、椿が赤く咲き誇っていた。
七海は灰色の世界に咲く赤色を流し見ながら、五条に話しかけた。
「幸運でした。彼の遺体が残っていて」
「そうだね」
五条は頷くと、十字路で足を止めた。七海を見下ろし、伸ばした人差し指で右手を示す。
「どこか行かない?」
「どこか、とは」
「この先に美味いパフェをだす喫茶店があるんだけど」
七海はゆっくり瞬きし、唇を固く結んでみせた。
「精進落としがパフェですか」
「美味しいよ」
「構いませんが、私は食べませんよ」
「よし、決まり」
そう言うと、五条はさっさと先に進み始めた。焦った七海は、いつもより大股に、五条の後を追った。
暖房のきいた室内でソファに腰を下ろすことができ、七海はほっと息をついた。脱いだコートを傍らに置き、メニューを手に取る。ふと気になって、己の二の腕に鼻先を近づけ、匂いを嗅いだ。黒いスーツから仄かに線香の匂いがし、七海はそっと眉根を寄せた。
ふたりが案内された席は窓際で、表通りに面した大きな窓からは外の様子が一望できた。
「……なににします」
「ホットの紅茶と、『季節のフルーツ・クリーム・パフェ チョコレートソース添え』」
七海は手を挙げて店員を呼んだ。注文をしているあいだ、五条は無関心に外の通りをぼんやりと眺めていた。
注文を控えた店員が去ったあと、七海は硝子のコップに注がれた水を口に含んだ。檸檬の酸味が舌を撫で、胃に落ちる。
五条から誘ったにも拘わらず、他者を拒絶するような険しさを滲ませた横顔に、七海も押し黙る。サングラスの脇から覗く五条の視線の先を辿り、灰色の雪が落ちる通りに顔を向けた。人気のない道を時折車が横切る。くすんだ色合いのビルが肩を寄せ、街路樹が申し訳程度の緑を添えていた。
「お待たせいたしました」
ふたりのあいだに落ちる沈黙を破り、清潔なエプロンを身にまとった店員が、湯気を立てるコーヒーと紅茶を卓上に並べる。七海は特に指示しなかったのに、彼女は硝子の器に盛られたパフェを迷いなく五条の前に置いた。
五条はテーブルに向き直り、細く長い銀色のスプーンを手に取った。店内の照明が放つ柔らかな暖色の光が、銀色に反射する。
七海は黒い液体の表面に写る自身に目を遣った。疲れた表情の男が、器のなかからじっと七海を見つめている。
「七海、砂糖取って」
五条が七海の傍に置かれた角砂糖を指先で示す。七海は思わず微かに目を細めた。
「なに」
七海は一度目を閉じると、深く息を吐き、角砂糖の載る小皿に手を伸ばした。
「いえ。パフェを食べるのに、紅茶へ砂糖を入れるのかと……思いましたが、私が頼んだものでもないのに、失礼しました」
「七海はいらないの、砂糖」
「私は結構です」
七海が陶器の皿を五条に向けて押しやると、それを受け取ろうとする五条の指が七海の指に一瞬触れ、離れた。
豆を手で挽き、丁寧にドリップされたコーヒーは香ばしく、程よい苦味と酸味を舌に残し、喉の奥に消える。
味はよく、客は静かで、店員はよく教育されている。五条さんがこの店を気に入る訳だ、と七海はひとり納得した。
「……抱えるものばかり、増えていきますね」
七海の言葉に、五条はちらりと目線を上げた。
「それをするとキリがない」
「すぐには忘れられないですよ、一応は付き合いがあったんですから、余計に」
「忘れるし、忘れることに慣れるよ。この仕事をしていれば嫌でもね。そのうち思い出すさ、抱えてばかりいられないって。特に『過去』になった人間は」
五条はチョコレートソースのかかった生クリームとオレンジを頬張り、静かに咀嚼した。喉仏が上下する様子を、七海は無意識に目で追った。
「もう一ヵ月経ったっけ」
「私が復帰してから? そうですね、一ヵ月と少しです」
「調子はどう。困ってることない?」
七海は眉を上げ、両手を組んだ。思わせぶりな素振りに、五条は手をとめた。無言のまま、なんだよ、と問いかける。
「あの五条さんが、まるで社会人のような言動をしている、と」
五条は肩を竦め、唇を曲げた。
「僕だって一応社会人だよ、もう。七海みたいに、外の世界は知らないけど」
「知る必要性があるかはわかりませんが」
「多分一生知ることはないだろうね」
五条は一度口を閉じ、やがてぽつりと呟いた。
「七海はさ」
「はい」
「七海はさ、死なないよ」
その言葉に、七海はカップを持つ手をとめた。脳裏に、いまは遠くなった過去の記憶がよぎる。
『――七海はさ、死なないよ』
学生服を着た五条が、ひっそりと呟いた。お堂の裏手、確かあのとき、周囲では彼岸花が咲き誇っていた。いまだ幼さを残していた五条は、それだけ言って立ち去った。あれはなにがきっかけで、五条さんは何故そんなことを。
そのとき返し損ねた言葉を、七海は今でもはっきりと思い出せる。
『五条さん、私はいつか』
私はいつか、アナタを残して死にます。
窓の外を、しぶきを上げながら赤い車が横切った。
「――そうですね、精一杯生きますよ。限界まで」
「僕はさあ」
五条はスプーンから手を離すと、両手を頭のうしろで組み、上半身をのけ反らせた。
「僕はさあ、将来人の上に立つんだから、決して我儘を言ってはいけませんって教育されたわけ。それで僕はその日からずっと我儘を言ってるんだけど」
「控えめに言って最悪ですね」
「七海には我儘を言ってないよ。だから七海は死ねない」
七海は目を見開き、息を止めた。時折誰かが立てる物音が、店内で静かに響く。カウンターの奥では薬缶の湯が沸き、湯気が立ち昇る。
――私が死なないなんて、嘘だ。そのときはいつか来る。ああ、五条さん。
アナタのそれは、祈りだ。アナタは、私が死にませんようにと祈っているのだ。
七海は引き寄せられるように、五条の大きな手を、すらりと長い指を見た。
この手はいつか、私の棺を持つだろうに。
「……言ってますよ、我儘」
「嘘」
「気づいていらっしゃらないようですが」
五条は紅茶を口に運び、話題を変えるように言った。
「一緒にどこか行きたいな」
「私とですか」
「他に誰が」
「私は明日から任務です。また地方のホテルを転々とする暮らしですよ」
「それ、一緒に行ってもいい?」
「一緒にって、高専や他の仕事はどうするんですか」
「誰かに頼む」
「……代わりにアナタが私の仕事をしてくださるなら、いいですよ」
「するする。してあげる」
「だったらアナタひとりで行った方が身軽でしょう」
「え、ヤダ、僕はオマエと一緒にいたいの。っていうか、それ七海の仕事を押しつけられてるだけじゃん」
「気づきましたか」
五条は深々と溜め息をつき、肩を落とした。
「かわいくない。後輩がかわいくない」
七海は呆れたように掌を上空に向けた。
「甘えたな人ですね。……私と一緒にいたいなら、その気になるよう私を口説いてくださらないと」
五条はその言葉に表情を消し、七海と目をあわせた。ふたりのときが止まる。
「口説いていいの」
低く柔らかな声で、五条は言った。彼の手が静かに伸び、テーブルの上にあった七海の手の甲を包む。
凍りついた瞳で、七海は五条の手を見下ろした。五条の手はすこしひんやりとして、けれど確かな体温を持っていた。
なんて酷い人だ。この人は、酷い。
いつかあなたが泣くと知りながら、私にこの手を取れというのか。
手を重ねたまま、五条は顔をそむけた。
「でもやだな。……ずるい。そう、ずるい」
「……なにが、です」
張りつめていた空気が緩む。
「僕も七海を口説くから、七海も僕のことを口説いてよ。不公平だ」
「仰っている意味が一ミリたりとも理解できないのですが」
五条の突拍子もない言い分に、抱いた動揺を誤魔化すように七海は咳払いし、首を傾けた。
「普通好意のある方がするものでしょう、口説くという行為は」
「七海は僕に好意がないの」
あるでしょ、とでも言いたげな五条の表情に、七海は眉を上げた。
「私にこうしろと?」
七海は手を机から持ち上げ指を広げると、するりと五条の指に絡ませ、彼と深く手を繋いだ。
――外で、喫茶店で、大の男がふたり、一体なにを。
思わずちらりと店内を窺った七海のまえで、五条は笑みを浮かべた。まるで迷子が親を見つけたかのような、安心しきった笑顔に、七海の胸が締めつけられる。
「アリだなあ。はは、なあ七海。人もさ、たまにはいいね」
「……はい」
七海は俯き、己の裡から込み上げる様々な感情をまとめて飲み下した。
死に触れる。頻繁に。そんな世界に自分は戻ってきたのだと思い知る。そして己のそのときを思う。彼を決して泣かせたくないと思う。そのために必要なのは、彼の手を拒むことだとわかっている。
けれど、我々はいまだ生者の側に立っているのだ。我々は生き、毎日確かに血を巡らせ、息をしている。流れるときに身を任せる存在として、五条の手を取り、彼と生きる道もまた枝分かれする道のひとつとして未来に向かって伸びているのだ。
彼のつく嘘が現実となればいいのに。
彼の祈りが、誰かへ届けばいいのに。
七海は五条の手を振り払うことなく、じっと握っていた。
冬の日、外の雪は一段と厳しさを増していた。
