呪術廻戦(五七)

 家入の反転術式で治療されたばかりの腹の傷跡が、じくりと痛んだ気がした。七海は気を抜くと眩暈をおこしそうになる頭を抱えたまま、高専のロビーに設置されている自販機で一番甘そうな飲料を買った。
 ロビーに設置されているソファに座り、手にしていた飲料缶の蓋を開け一気に呷る。冷たい液体が喉を伝い胃に落ちていく感覚に、逆立っていた神経が宥められた。
 背後に伸びる廊下の奥から、気の抜けた鼻歌が聞こえる。その主はソファに座る七海の金色の髪を見つけると、煩い足音を立てながら走り寄ってきた。回り込み、七海の隣にどかりと腰を下ろす。
「七海、任務で死にかけたんだって?」
 七海は脈打つたびに鈍く痛む頭に手を当て、緩く首を振った。
「大袈裟ですよ。誰がアナタにそんなことを言ったんですか。少し血を失くしただけです」
 ふうん、と興味を失ったように相槌を打った五条は正面を向いて唇を突き出すと、手から下げていた袋を探り、コンビニで売られている生菓子を取り出した。透明なカップの蓋には「新発売」とカラフルなラベルが貼ってある。
 五条はスプーンの袋を開け、生クリームと葡萄を掬い取り、口へと運ぶ。
「生きててよかったよ。ちょうど七海に訊きたいことがあったからさ」
「なんですか。下らない質問なら答えませんよ」
 五条はクリームとスポンジが載ったスプーンを手で持ったまま、七海を見つめた。黒い目隠し越しに、五条の強い視線を感じる。
 七海はかつて目にした彼の深い眼の色を思い出す。五条だけが持つ色を前にするたび、七海の心の奥底にある柔い部分は今にも飛び立ちそうに羽ばたくのだ。
「七海はさあ、僕のことが好きでしょ」
 七海は五条を横目で流し見た。鋭い光が眼に宿る。
「どういう意味ですか」
「どうしてなにも言わないの?」
 七海は宙へ顔を向け、五秒ほど押し黙った。
「……アナタにデリカシーがないから」
「そうなんだ」
「皮肉ですよ」
 五条は肩を竦め、スプーンを口に咥えた。がらんとした空間を、沈黙が支配する。五条はふたりの間に流れる空気を気にする様子もなく、黙々と菓子を口に運んでいた。たまりかね、七海は口を開く。
「……他人の領域に土足で踏み入るのは、いささか礼を失した振る舞いではありませんか」
 五条は空になった器を二人の前にあるテーブルへ置くと、膝に肘をつき、両手を組んで何事か思考している素振りをみせた。彼の長い指先に、几帳面に整えられた爪に、七海の視線が吸い寄せられる。
 五条は上半身を前に倒した状態のまま片手で目隠しを上げ、七海の顔を見上げた。白い睫毛に彩られた宇宙の色が、七海を捉えた。
「僕はさ、七海が好きだよ」
 七海は無表情に五条を見つめた。
「ありがとうございます」
「ええ、それだけ?」
 もっと喜んでよ、と五条は気の抜けた笑顔を浮かべてみせた。
「それだけですよ」
 七海はそう返答し、ネクタイの結び目に指をかけ、己を縛る一本の布を緩めた。
「それより、少し眠りたいので肩を貸していただけないでしょうか」
「僕の肩? 高いよ」
 可笑しそうに笑いながら七海を引き寄せた五条の肩に寄りかかり、七海は瞼を下ろした。
「後輩割でお願いします」
「仕方ないなあ」

 ――この人は、容易く私に踏み込む。私の領域に入りこみ、世界を構成する音を、色を、匂いを、手触りを奪う。まるで。
 まるで世界には五条しかいないと、錯覚しそうになる。

 七海の肌に触れる五条の服から、彼が纏う香りが漂う。彼の香りに触れるたび、七海は甘やかな刺激を感じ、脳髄が痺れる心地がする。
 七海の息がつまった。ああ、私は確かにこの人に惹かれている、どうしようもなく、長い間、この人が私の世界の中心に立ち、この人の声が私の世界の天を作っているのだ、と七海の心が叫ぶ。

 いつかこの人は私の魂をその手で捕らえるだろう。私にできることは、そのときを可能な限り先延ばしにするだけだ。彼が一度狙いを定めたなら、私が逃げ切ることなど、まずできない。
 彼はその鋭く長い爪で、無造作に、手にした私の柔く脆い魂を引き裂くのだ。きっとその傷が与える痛みは、私の肉体が死にゆく痛みよりも強烈だろう。
 
 七海は将来確かに己へ与えられるであろう甘美な痛みを想像しながら、弧を描く唇を隠すように五条の肩へ額を埋めた。
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