呪術廻戦(五七)

 ――ああ、弱ったな。

 七海は吹きつける雨粒と暴風に暴れる扉をなんとか閉め、鞄を一度床に置いた。ポケットからハンカチを取り出して、水滴の滴るサングラスを拭う。
「あれ、七海さんじゃないですか。お疲れ様です。……こんな日に、こんなところで、なにを……」
「お疲れ様です、伊地知君。なに、少し上から報告を急いでくれと言われたのでここまで出向いてきたのですが、ようやく話が終わったと思えば……」
 薄暗い高専の廊下の片隅で、ああー、と伊地知は所在なさげに声を漏らした。天井の蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返している。
「今夜の台風、最強クラスらしいですよ。テレビで言っていました」
「タクシーもこれでは」
「動いていないでしょうねえ。おそらく電話で呼んでも、くるかこないか……学務に行って、寮の空き部屋の鍵、預かってきましょうか」
 七海はサングラスをかけると、淡々と返答した。
「いえ、アテはありますので結構です。お心遣いに感謝します」
「アテ……ですか。そうですか」
 伊地知は「その話の詳細は耳にしないでおこう」という考えをありありと浮かべた瞳を泳がせ、頭を下げた。
「では失礼します。もし何かあれば、遠慮なく声をかけてください」
「はい。ありがとうございます」

 七海は凝った肩を叩きながら薄暗い廊下を進む。人気のなくなった一本の通路を、時折走る稲妻が鋭く照らしていた。
 組み入った通路の果てで、目当ての扉を見つけた。七海が規則正しいノックを繰り返すと、中から気の抜けた声で返事がなされる。
「だれー?」
「夜分遅くに失礼します、五条さん」
 一瞬の沈黙ののち、バタバタと扉越しに騒音が響く。そして勢いよく扉が開かれた。
「えっ、七海じゃん。今日高専来てたの? それならそうと連絡してよ水臭いなあ。僕だっていつもここに居る訳じゃないし、え、って七海わざわざ僕の部屋にき――」
「申し訳ないですが、台風の影響で私は今夜、自宅に帰れそうにありません」
「じゃあ勿論」
「ロビーのソファで休むので、毛布を一枚貸していただけないでしょうか」
 五条は藍色の瞳を瞬かせ、頬を膨らませた。
「いやー、そこは『五条さんのベッドで一緒に眠らせてください♡』でしょ」
「ロビーで休みますので、毛布を」
「いやだ」
「……あなたの部屋の『床』で寝ますから、毛布を」
「もう一声!」
 七海はこめかみに青筋を立てながらサングラスのブリッジを指で押し上げ、深々と溜め息を吐いた。
「なにもしないですよね」「……」「なにも」「……」「……やはり今から電話してタクシー」「なにもしません、しません。しない。七海に不埒なことはなにもしないから、僕は七海と一緒のベッドで寝たいです」
 七海は呆れたように首を振り、五条の部屋に足を踏み入れた。正面に位置する窓は外界に広がる漆黒を映し、天から吹きすさぶ雨粒がぶつかって派手な音を立てていた。
 鞄を下ろし、ネクタイを解く。脱いだジャケットを、五条が受け取ってハンガーにかけた。身にまとった装飾品を外しながら、七海は頭を下げる。
「本当に、突然すみません」
「んー? いいよ別に。暇だったし、あとはもう寝るだけだったし。あ、七海お茶か水飲む?」
「いえ、結構です。来たばかりで申し訳ないのですが、明日も早いので、私ももう寝てもいいでしょうか」
「きゃ、七海くん積極的」
 などとふざけながら五条は壁のスイッチに手を掛け、電灯を切った。ふたりを暗闇が包む。
 先にベッドに横たわった五条に沿うように、下着姿になった七海もベッドへ身体を預けた。するり、と五条の長い腕が七海の腹に回り、抱えるように手を組む。
「……いつも思っているのですが」
「ん、なに」
 耳元で、五条の柔らかな声が吐息と共に囁く。
「私の身体に敷かれる腕、痺れないですか」
「ああ、そんなの。大丈夫だよ。心配しないで」
 五条の鼻先が七海の髪に埋められる。慣れ親しんだその感触に、ふ、と七海は鼻から息を吐いて、全身の力を抜いた。
 閃光が部屋を照らし、瞬時に雷鳴が轟く。古びた建物ごと、揺れる気配がする。
 三度目の雷のとき、五条は喉の奥で笑った。
「……なにか」
「七海、雷苦手だったっけ」
「いえ、そんなことは」
 五条の掌が、七海の心臓の上を軽く押した。
「でも、雷が鳴るたびに、身体が強張ってるよ」
「それは」
 七海は抗うように一度身を捩り、やがて後頭部を五条の胸に押し当てた。
「感覚を奪われるようで、苦手なんです。音は聞こえなくなるし、注意を無理矢理音や光に向けさせられるようで……」
「戦いの邪魔になる?」
「まあ、そういうことです」
 ふふ、と五条は小さく笑い、腕を七海の下から抜いた。身体を起こし、七海に覆いかぶさる。大きな掌が七海の右耳を塞ぎ、左耳には温く柔らかな感触が与えられる。
「じゃあ、僕が耳を塞いでてあげるね」
 左耳に押し当てられた唇が囁く。鮮やかな感触に、七海の背筋が逆立った。
「僕が七海を守っていてあげるから、安心して寝ていいよ」
 五条の足先が七海に絡みつく。五条の体温が七海を包む。毛布から、そして五条自身から、嗅ぎなれた彼の匂いがする。
「……はい」
 七海はじんわりとしたぬくもりを胸に抱きながら、そっと瞼を閉じた。
 ひどく静かな夜だ、と思った。
 暴風の吹きすさぶ静寂だ。そう考えているうちに、七海は眠りへと落ちていった。
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