呪術廻戦(五七)
一際大きな軋みをあげて、電車はカーブを曲がった。五条は伏せていた瞼を上げる。木製の枠で区切られた四角い窓には、一面の海が広がっていた。濃い藍色の水面に、白い飛沫が躍る。もったりとした波の動きに連動するように、車内に潮の匂いが満ちていた。
四人掛けのボックス席、座面には赤い天鵞絨が張られている。幾人もの旅人を迎え入れたことによって表面はすり減り、独特の光沢をたたえていた。
鈍行はのろのろと進み、一駅ごとに停車する。先程からずっと、海と大地の境を走っていた。緩やかな振動と変わらぬ景色に包まれ、時間の感覚さえ溶け落ちていきそうだと、五条は思った。
五条は腕に嵌めている時計を緩慢な動きで眺め、
「七海」
と、前の席に座っている男へ声をかけた。
「七海、もうお昼だ。ご飯食べよ。釜めし、釜めし」
――あ。
五条は動き続けようとする口を閉じ、息を止めた。
七海、寝てる。
サングラスをかけた七海は腕を組んだまま、大きな体を電車の壁にもたれかけさせ、すうすうと、聞こえるか聞こえないかの小さな寝息をたてて眠っていた。
五条は七海をじっと見つめながら、傍らの紙袋から弁当を出し、封を解いた。蓋を開けると、醤油と出汁の香りがふっと立ち昇る。
七海、寝てるときも眉を顰めているんだから。
五条は割った箸で米をすくい、口に運びながら眼前の七海を観察していた。
通った鼻筋、固く結ばれた唇。サングラスで隠された瞼がとても綺麗な曲線を描いていることを、色の薄い睫毛がその縁を彩っていること。瞳がときに快楽で潤み、そのとき目尻が赤みを帯びることを、五条は知っていた。
窓から吹きこんだ潮風が七海の髪を揺らし、金髪を一房、彼の目元に垂らした。
派手な響きの、しかし軽い足音がふたりの座る席に近づいて、隣でぴたりと止まった。五条は口に箸を銜えたまま、横目で通路を見遣る。
通路に立つ幼い子供は、紺色と白色が組み合わされたチェック柄のワンピースを身にまとっていた。底の見えぬ黒々とした眼で、五条と七海をじっと見つめる。
密やかな沈黙が、三人の間に落ちた。
「……なにか、用?」
五条が少しの戸惑いを滲ませながら声をかけると、子供はふとふたりに興味を失くしたように正面を向き、再び走り出した。
五条の声でも目を覚まさなかった七海と、五条は改めて向きあう。視線を下げ、彼の整ったネクタイのノットをぼんやりと眺めながら、思う。
ああ、僕は彼が好きだな。
ふざけると容赦のない冷ややかな視線が返ってくるし、高専で抱きつくと弱点を突いた肘打ちが返ってくるし、どれだけ好きって言っても、十回、いや二十回、三十回? は言わないとたった一回の「私も」が返ってこないし、時々僕たち本当に恋人だよね? って問いかけたい態度を取られたりするけど。
でも彼は自然な姿のまま、五条の隣に立ち、穏やかに笑いかけてくれるのだ。
七海は知っているだろうか。七海の存在が、五条悟のなかでどれほど価値を持ち、心を支配する場所を持っているかを。今も七海がこの大地のどこかで生きているという事実をよすがに、越えられる夜があることを。
光が遮られ、窓から影が落ちた。軋む小さな車体が木々の葉を擦りながら進む。電車を覆う木々の間に敷かれた路線を進み、車体は大きくため息をつくように、森の中にある小さな駅に停車した。
この日々もいつか過去になる。海辺を走る鈍行を懐かしく思い出すとき、七海が隣にいてくれたら、どれほどの幸福がそこにはあるのだろう。
「ん、……」
七海が身を起こし、ふぁあ、と欠伸をしながら伸びをする。サングラスを外し、眠たげな目を擦った。
「寝てしまっていましたか」
「寝てたね。寝顔かわいかったなあ」
「目覚めを最悪にする台詞を聞かせないでください」
「誉め言葉じゃん。……もうお昼だよ、ご飯食べる? この釜めし食べたかったんでしょ」
「ああ、頂戴します」
七海は釜めしを受け取って封を解くと、割り箸を割った。ペットボトルのお茶を飲んでいた五条を七海はじっと見つめ、不思議そうに口を開いた。
「なにか、いいことでもあったんですか」
「えー、どうして?」
七海は僅かなあいだ躊躇い、言った。
「笑っているから。……とても」
しあわせそうに。
「そうだね、しあわせなんだよ。僕はとても」
五条は窓枠に肘をつき、窓の外へ顔をむける。そしてサングラスで隠された瞼を、そっと閉じた。
潮の香りをおぼえていようと思う。七海との旅をおぼえていようと思う。五条が感じたしあわせについて、未来の七海と話をするために。
四人掛けのボックス席、座面には赤い天鵞絨が張られている。幾人もの旅人を迎え入れたことによって表面はすり減り、独特の光沢をたたえていた。
鈍行はのろのろと進み、一駅ごとに停車する。先程からずっと、海と大地の境を走っていた。緩やかな振動と変わらぬ景色に包まれ、時間の感覚さえ溶け落ちていきそうだと、五条は思った。
五条は腕に嵌めている時計を緩慢な動きで眺め、
「七海」
と、前の席に座っている男へ声をかけた。
「七海、もうお昼だ。ご飯食べよ。釜めし、釜めし」
――あ。
五条は動き続けようとする口を閉じ、息を止めた。
七海、寝てる。
サングラスをかけた七海は腕を組んだまま、大きな体を電車の壁にもたれかけさせ、すうすうと、聞こえるか聞こえないかの小さな寝息をたてて眠っていた。
五条は七海をじっと見つめながら、傍らの紙袋から弁当を出し、封を解いた。蓋を開けると、醤油と出汁の香りがふっと立ち昇る。
七海、寝てるときも眉を顰めているんだから。
五条は割った箸で米をすくい、口に運びながら眼前の七海を観察していた。
通った鼻筋、固く結ばれた唇。サングラスで隠された瞼がとても綺麗な曲線を描いていることを、色の薄い睫毛がその縁を彩っていること。瞳がときに快楽で潤み、そのとき目尻が赤みを帯びることを、五条は知っていた。
窓から吹きこんだ潮風が七海の髪を揺らし、金髪を一房、彼の目元に垂らした。
派手な響きの、しかし軽い足音がふたりの座る席に近づいて、隣でぴたりと止まった。五条は口に箸を銜えたまま、横目で通路を見遣る。
通路に立つ幼い子供は、紺色と白色が組み合わされたチェック柄のワンピースを身にまとっていた。底の見えぬ黒々とした眼で、五条と七海をじっと見つめる。
密やかな沈黙が、三人の間に落ちた。
「……なにか、用?」
五条が少しの戸惑いを滲ませながら声をかけると、子供はふとふたりに興味を失くしたように正面を向き、再び走り出した。
五条の声でも目を覚まさなかった七海と、五条は改めて向きあう。視線を下げ、彼の整ったネクタイのノットをぼんやりと眺めながら、思う。
ああ、僕は彼が好きだな。
ふざけると容赦のない冷ややかな視線が返ってくるし、高専で抱きつくと弱点を突いた肘打ちが返ってくるし、どれだけ好きって言っても、十回、いや二十回、三十回? は言わないとたった一回の「私も」が返ってこないし、時々僕たち本当に恋人だよね? って問いかけたい態度を取られたりするけど。
でも彼は自然な姿のまま、五条の隣に立ち、穏やかに笑いかけてくれるのだ。
七海は知っているだろうか。七海の存在が、五条悟のなかでどれほど価値を持ち、心を支配する場所を持っているかを。今も七海がこの大地のどこかで生きているという事実をよすがに、越えられる夜があることを。
光が遮られ、窓から影が落ちた。軋む小さな車体が木々の葉を擦りながら進む。電車を覆う木々の間に敷かれた路線を進み、車体は大きくため息をつくように、森の中にある小さな駅に停車した。
この日々もいつか過去になる。海辺を走る鈍行を懐かしく思い出すとき、七海が隣にいてくれたら、どれほどの幸福がそこにはあるのだろう。
「ん、……」
七海が身を起こし、ふぁあ、と欠伸をしながら伸びをする。サングラスを外し、眠たげな目を擦った。
「寝てしまっていましたか」
「寝てたね。寝顔かわいかったなあ」
「目覚めを最悪にする台詞を聞かせないでください」
「誉め言葉じゃん。……もうお昼だよ、ご飯食べる? この釜めし食べたかったんでしょ」
「ああ、頂戴します」
七海は釜めしを受け取って封を解くと、割り箸を割った。ペットボトルのお茶を飲んでいた五条を七海はじっと見つめ、不思議そうに口を開いた。
「なにか、いいことでもあったんですか」
「えー、どうして?」
七海は僅かなあいだ躊躇い、言った。
「笑っているから。……とても」
しあわせそうに。
「そうだね、しあわせなんだよ。僕はとても」
五条は窓枠に肘をつき、窓の外へ顔をむける。そしてサングラスで隠された瞼を、そっと閉じた。
潮の香りをおぼえていようと思う。七海との旅をおぼえていようと思う。五条が感じたしあわせについて、未来の七海と話をするために。
