呪術廻戦(五七)
『七海が悟の言うことをなんでも聞く券』
「……なんですか、これは」
七海は眉を寄せ、己の掌に置かれた紙片を見下ろした。休日の午後、アポもなく七海の自宅を訪れた五条は大きな紙袋を片手に、
「ななみぃ、これ使わせて」
と、まるで語尾にハートマークでもつけているような軽さと甘さの混じった声を発しながら、七海の手に紙片を押しつけたのだ。
七海は白い紙を指先で摘まみ、嫌そうな表情も隠さずにそれをしげしげと観察した。どこかのルーズリーフを手で破ったような紙に、七海の筆跡で確かに「七海が悟の言うことをなんでも聞く券」と書いてある。
「私はこのようなものをいつ書いたのですか」
「えー、このまえ会ったとき?」
「この前?」
「ほら、飲み会終わったあと、僕の部屋に来たじゃん」
「『アナタが私をお持ち帰りした』の間違いでは」
「いや、あれには合意があったよ。確かにあったよ」
「……それで」
七海は眉根を寄せたまま深々と息を吐いた。
「アナタは酔っぱらった私にこれを書かせた、と」
「七海は優しいからね」
五条は目隠しの布越しでも判るほど、幸せそうに笑って見せた。その表情を前に、頭が痛い、と七海はこめかみを指の腹で押さえる。
「で、私になにをさせたいんですか」
余りにもひどい「お願い」をしたら今すぐ部屋から蹴りだそうと、内心で決意しながら七海は問いかけた。
「え、僕の言うことを聞いてほしい……かな」
かな、と五条は紙袋を両手で捧げ持ちながら小首を傾げる。それが近いうちに三十歳を迎える成人男性のすることか、と呆れながら、七海はおそるおそる紙袋の中を覗いた。
「なにが入っているんです、それ」
「えー、ウエストコート、シャツ、ネクタイ、ベルト、靴下、靴、サスペンダー、タイピン、ソックスガーター、カラーピン」
「……オーダーメイドのスーツを持って来なかったことを、褒めるべきでしょうか」
「あ、スーツも着てくれるなら今すぐ持ってこさせ――」
「絶対にやめてください。というか、五条さん、私の身体のサイズをいつ測ったんです」
「えっ、ほら僕、目がとってもいいからさあ」
「……聞かなかったことにします。で、アナタの『お願い』とはつまり、私にお着替え人形になってほしいということですか」
「ええ、人聞き悪いなあ。好きな人を僕が選び抜いた服で飾り立てたいって表現して」
「どちらもそう変わらない気がしますが」
「で、な・な・み」
「まだ何か」
「今日の六時にHホテルのレストラン予約しているんだけど、一緒に行ってくれるよね?」
五条の脂下がった笑みに、七海は首を振りながら腰に手を当てた。
「私に拒否権は?」
「ないに決まってるじゃん」
「……つくづく仕様のない人ですね」
「でも七海はそんな僕が大好きなんだよね」
「自分自身に心底落胆する事実です」
***
下着姿になりまずはシャツか、と思った七海の手を遮り
「今日は僕が七海の服を全部着せるから」と五条は宣言した。
宣言通り、彼はベッドに腰かけた七海にシャツへ腕を通させ、貝釦を一つ一つ繊細な手つきでとめていく。そして足元に跪き、ソックスを両足に通させる。
七海は黒いソックスだけを履いた足の指先で、床上の五条の太腿をなぞった。
「最強の呪術師が私などのような人間に跪いているところを目撃されたら、一体何人が卒倒するのやら」
「したい奴にはさせておけばいい」
七海は細いベルトを取ると、七海の脹ら脛に巻きつけ、金具を丁度いい力加減で締めた。クリップを手に取り、そっとソックスの布地を噛ませる。
「スラックス履いて、七海」
という言葉に従いスラックスを穿いた七海は、ベルトを通された後、再びベッドへ腰かけるよう促され、五条は七海の肩にサスペンダーを掛けた。
「これは私が締めます。身体を動かしやすい位置があるので」
「そう」
とあっさりと引き下がった五条は、シルクの光沢も鮮やかな落ち着いた臙脂色のネクタイを取り出し、七海の胸元に当てた。
「ううん、もう少し派手な柄物でもよかったなあ」
「私たちは日頃から目立ちすぎなんです。もっと地味でもいいくらいだ」
手早くネクタイを締めた五条は七海の首筋に鼻を寄せ、くん、と匂いを嗅いだ。
「香水も持ってこようかと思ってたんだけどね、七海はそのままでもいい香りがするからいいかなって」
「シャンプーかなにかですか」
「んー、七海の香りは七海の香りだよ」
そしてスエードの小箱を手に取り、中から銀色のピンを取り出した。片側の留め具のネジを回して開け、五条は七海の襟元へ屈みこんだ。
真剣な藍色が、絹糸のような睫毛で縁取られている。伏せられた瞼を七海は至近距離から眺め、力を抜いて彼が襟元に金属を通す動きを受け入れる。微かな吐息が五条の唇から漏れ、やがて彼はふっと息を止めた。
不思議だと思う。なにもかも手に入れられる力を持った男が、七海の言動に一喜一憂する。けれど彼の隣に立ち彼自身を知る度に、それが不思議でもなんでもないのだと思いなおす。
――だって彼は、私の隣に立つとき、ずっとただの「五条悟」なのだ。きっと彼は、呪術などなにもなくとも、私の隣に立っていてくれる、そう私は信じている。
呪術と彼が不可分であると知りながらそう空想する私も大概残酷だな、と七海は自嘲し、口角を少し曲げた。
大きな手が器用な手つきで襟に金属を通し、ネジを締めた。タイの位置を微調整し、七海に覆いかぶさっていた身体が離れた。
「うーん、悟くんってやっぱり天才。七海にとっても似合う」
「そうですか……」
七海はウェストコートを着てジャケットを羽織り、鏡の前に立った。手持ちのなかで一番上質なスーツを選択した。五条の持参品ともなんとか釣り合っていると確認し、内心安堵する。
「カッコいい、世界一、いや宇宙一だよ。僕の彼氏最高。あ、でもこんな七海を誰かに見せたら取られちゃうかもしれない」
「誰も取りませんよ」
「嘘だあ。ねえ、もう今日部屋からでないでいよ? おうちデートしよ?」
「なに子供みたいな駄々をこねているんですか。レストランを予約してあるんでしょう」
頬を膨らませ唇を尖らせながら、五条は「うん」と返事をした。
「私も折角ですから、この格好でアナタの隣に立ちたいですよ。今の私は世界一なんでしょう」
するりと手を伸ばし、五条の掌を掴んだ。少し汗ばんだその掌は、確かに温かった。人の肌のぬくもりだった。
「やっぱりさあ、七海は格好いいよ」
五条がぽつりと呟く。
「私もそう思います」
――言葉にはしないけれど、私もそう思っている。五条悟は世界一格好いい、私の恋人だと。
「……なんですか、これは」
七海は眉を寄せ、己の掌に置かれた紙片を見下ろした。休日の午後、アポもなく七海の自宅を訪れた五条は大きな紙袋を片手に、
「ななみぃ、これ使わせて」
と、まるで語尾にハートマークでもつけているような軽さと甘さの混じった声を発しながら、七海の手に紙片を押しつけたのだ。
七海は白い紙を指先で摘まみ、嫌そうな表情も隠さずにそれをしげしげと観察した。どこかのルーズリーフを手で破ったような紙に、七海の筆跡で確かに「七海が悟の言うことをなんでも聞く券」と書いてある。
「私はこのようなものをいつ書いたのですか」
「えー、このまえ会ったとき?」
「この前?」
「ほら、飲み会終わったあと、僕の部屋に来たじゃん」
「『アナタが私をお持ち帰りした』の間違いでは」
「いや、あれには合意があったよ。確かにあったよ」
「……それで」
七海は眉根を寄せたまま深々と息を吐いた。
「アナタは酔っぱらった私にこれを書かせた、と」
「七海は優しいからね」
五条は目隠しの布越しでも判るほど、幸せそうに笑って見せた。その表情を前に、頭が痛い、と七海はこめかみを指の腹で押さえる。
「で、私になにをさせたいんですか」
余りにもひどい「お願い」をしたら今すぐ部屋から蹴りだそうと、内心で決意しながら七海は問いかけた。
「え、僕の言うことを聞いてほしい……かな」
かな、と五条は紙袋を両手で捧げ持ちながら小首を傾げる。それが近いうちに三十歳を迎える成人男性のすることか、と呆れながら、七海はおそるおそる紙袋の中を覗いた。
「なにが入っているんです、それ」
「えー、ウエストコート、シャツ、ネクタイ、ベルト、靴下、靴、サスペンダー、タイピン、ソックスガーター、カラーピン」
「……オーダーメイドのスーツを持って来なかったことを、褒めるべきでしょうか」
「あ、スーツも着てくれるなら今すぐ持ってこさせ――」
「絶対にやめてください。というか、五条さん、私の身体のサイズをいつ測ったんです」
「えっ、ほら僕、目がとってもいいからさあ」
「……聞かなかったことにします。で、アナタの『お願い』とはつまり、私にお着替え人形になってほしいということですか」
「ええ、人聞き悪いなあ。好きな人を僕が選び抜いた服で飾り立てたいって表現して」
「どちらもそう変わらない気がしますが」
「で、な・な・み」
「まだ何か」
「今日の六時にHホテルのレストラン予約しているんだけど、一緒に行ってくれるよね?」
五条の脂下がった笑みに、七海は首を振りながら腰に手を当てた。
「私に拒否権は?」
「ないに決まってるじゃん」
「……つくづく仕様のない人ですね」
「でも七海はそんな僕が大好きなんだよね」
「自分自身に心底落胆する事実です」
***
下着姿になりまずはシャツか、と思った七海の手を遮り
「今日は僕が七海の服を全部着せるから」と五条は宣言した。
宣言通り、彼はベッドに腰かけた七海にシャツへ腕を通させ、貝釦を一つ一つ繊細な手つきでとめていく。そして足元に跪き、ソックスを両足に通させる。
七海は黒いソックスだけを履いた足の指先で、床上の五条の太腿をなぞった。
「最強の呪術師が私などのような人間に跪いているところを目撃されたら、一体何人が卒倒するのやら」
「したい奴にはさせておけばいい」
七海は細いベルトを取ると、七海の脹ら脛に巻きつけ、金具を丁度いい力加減で締めた。クリップを手に取り、そっとソックスの布地を噛ませる。
「スラックス履いて、七海」
という言葉に従いスラックスを穿いた七海は、ベルトを通された後、再びベッドへ腰かけるよう促され、五条は七海の肩にサスペンダーを掛けた。
「これは私が締めます。身体を動かしやすい位置があるので」
「そう」
とあっさりと引き下がった五条は、シルクの光沢も鮮やかな落ち着いた臙脂色のネクタイを取り出し、七海の胸元に当てた。
「ううん、もう少し派手な柄物でもよかったなあ」
「私たちは日頃から目立ちすぎなんです。もっと地味でもいいくらいだ」
手早くネクタイを締めた五条は七海の首筋に鼻を寄せ、くん、と匂いを嗅いだ。
「香水も持ってこようかと思ってたんだけどね、七海はそのままでもいい香りがするからいいかなって」
「シャンプーかなにかですか」
「んー、七海の香りは七海の香りだよ」
そしてスエードの小箱を手に取り、中から銀色のピンを取り出した。片側の留め具のネジを回して開け、五条は七海の襟元へ屈みこんだ。
真剣な藍色が、絹糸のような睫毛で縁取られている。伏せられた瞼を七海は至近距離から眺め、力を抜いて彼が襟元に金属を通す動きを受け入れる。微かな吐息が五条の唇から漏れ、やがて彼はふっと息を止めた。
不思議だと思う。なにもかも手に入れられる力を持った男が、七海の言動に一喜一憂する。けれど彼の隣に立ち彼自身を知る度に、それが不思議でもなんでもないのだと思いなおす。
――だって彼は、私の隣に立つとき、ずっとただの「五条悟」なのだ。きっと彼は、呪術などなにもなくとも、私の隣に立っていてくれる、そう私は信じている。
呪術と彼が不可分であると知りながらそう空想する私も大概残酷だな、と七海は自嘲し、口角を少し曲げた。
大きな手が器用な手つきで襟に金属を通し、ネジを締めた。タイの位置を微調整し、七海に覆いかぶさっていた身体が離れた。
「うーん、悟くんってやっぱり天才。七海にとっても似合う」
「そうですか……」
七海はウェストコートを着てジャケットを羽織り、鏡の前に立った。手持ちのなかで一番上質なスーツを選択した。五条の持参品ともなんとか釣り合っていると確認し、内心安堵する。
「カッコいい、世界一、いや宇宙一だよ。僕の彼氏最高。あ、でもこんな七海を誰かに見せたら取られちゃうかもしれない」
「誰も取りませんよ」
「嘘だあ。ねえ、もう今日部屋からでないでいよ? おうちデートしよ?」
「なに子供みたいな駄々をこねているんですか。レストランを予約してあるんでしょう」
頬を膨らませ唇を尖らせながら、五条は「うん」と返事をした。
「私も折角ですから、この格好でアナタの隣に立ちたいですよ。今の私は世界一なんでしょう」
するりと手を伸ばし、五条の掌を掴んだ。少し汗ばんだその掌は、確かに温かった。人の肌のぬくもりだった。
「やっぱりさあ、七海は格好いいよ」
五条がぽつりと呟く。
「私もそう思います」
――言葉にはしないけれど、私もそう思っている。五条悟は世界一格好いい、私の恋人だと。
