艦これ
――ねえ、知っている? 新月の、世界がすべて真黒に塗りつぶされた夜の海には、わたしたちに囁きかける「だれか」がいるの。いいえ、「なにか」かしら。
普段はどんな誘惑だって跳ね除けてみせる娘たちも、その声に呼び起こされて、海へすべりだしてしまうのよ……。
***
熱い。熱い、熱い、あつい。
空気が震えている。びりびりと鼓膜を刺す。
『トツレ・トツレ』
……トツレ・トツレ・トツレ!
『トトト・トトト』
……トトト・トトト・トトト!
揺れている。世界が揺れているのか、私が揺れているのか。無線ががなる。かき消されまいと大声で怒鳴る。命令など最早ない、熱い、身体が燃え上がる。痛みなど感じない興奮の中にある。それでも上半身は崩れ落ち、濡れた腹を両腕で抱えて海面を滑る。無意味だ、なにもかも無意味だ。だってなにもない、燃料に引火した炎が海面を覆う。これは夢だ、私は夢をみている。けれどこれは現実、だってこんなに。
頬を伝う涙が、あつい。
無意味なの、ヒトなど疾うに生きていない。この世界に護るべき命などない。あるのはただ――。
あるのはただ、あなたへの。
***
轟音が遠ざかっていく。頭の奥の、ずんずんと鈍く後頭部を殴られているような痛みが朧げな意識を引きずり戻し、覚醒へと導こうとする。
食い縛った歯の隙間から、低い呻き声が勝手に漏れた。目の粘膜が染みるように痛む。耐えられず身を捩ると、冷たく、僅かに汗ばんだ手が私の右手を握った。思わず全力で握り返すと、手の持ち主はびくりと跳ねたが、繋げた手を振りほどこうとはしなかった。
「――さん、――さん、わかりますか?」
この声を知っている、と思った。懐かしいような、けれど新鮮にも思える、芯が通った柔らかな声。
「――さん、カガさん」
『カガ』
それを知っている。その響きは人名だ。否、艦名だ。私の名、誰かから与えられた私の名。
「加賀さん、どこか痛みますか?」
女性の声が痛む頭に突き刺さる。眩しさをこらえて、乾いた両眼をゆっくりと開いた。
ぼやけた周囲の光景は、瞬きを繰り返すうちに、白く塗られた天井と、そこにぽっかりと大きく開いた穴と突き出した鉄骨、その上に広がる二階上の天井、そして果てにある青い空という輪郭を取り戻した。
横たわっているベッドの左側にある、割れた硝子が縁だけに残る窓から、ぬるくじっとりと湿った空気が部屋に入りこんでいる。
「『カガ』。……はい、わたしは加賀です。……痛み」
縺れる舌をなんとか動かして喋るうちに、鮮烈な痛みは徐々に遠ざかり、重低音となって身体の奥底で疼きを主張する存在へと成り下がった。喉だけが無性に乾いていた。
「痛みは大丈夫です。問題はありません。水、水を下されば、その後命令に……指示に従えます。司令官に」
従います、という細い声を聞いた女性は、ゆっくりとその両手で加賀の右手を包み込んだ。
「大丈夫ですよ、水を持ってきましょう。加賀さん、もういいのです。私たちの戦いは既に終わっています。終わっているんですよ。貴方はゆっくりと休んでいいの」
のっそりと右を向くと、黒い髪を持ち、眼鏡をかけた女性は、加賀を安心させるように穏やかな笑みを浮かべてみせた。一度ゆっくりと頷き、「もういいんですよ」と繰り返した。
戸惑う加賀の両手をそっと古びた布団の上に置き、掛け布団を直して加賀の身体を布団の中へとおさめる。そのまま、静かに部屋の外へと出ていった。
破壊され大穴の空いた天井の断面から突き出た、剥き出しの鉄骨が、吹く風にあわせて小さくゆらゆら揺れていた。赤茶に錆びた鉄骨の表面を目で追いながら、重い右手で汗のにじむ額を拭う。爆薬の匂いが夢の中から少しあらわれ、消える。
私は誰? 貴方は『カガ』。おそらく。
ふと違和感を抱き、胸元へ手を遣る。ごそごそと着物の下を探ると、汗ばむ素肌の上に長方形の何かが乗っていた。長い糸で繋がれているそれを、私は首からぶら下げているらしい。人差し指と親指で摘まみ、顔の上まで持ち上げると、それはどうやら古びた御守りのようだった。元は白色であったであろう布は黒ずみ、縫い目は綻びかかっている。外側に文字などはなかった。開けてみなければわからないが、何かを包んでいるらしい。
その瞬間、ぴし、と空気を切り裂く音が、かつて部屋の入り口だったと思われる、壁にあいた長方形の穴の外側で小さく鳴った。まるで壁の向こうの陰で、ひっそりと息をこらえていた誰かが、床一面に散っている硝子片を踏み砕いたような音。
「……? どなたか、いらっしゃるの」
掠れた声でなされた問いに、返事はなかった。
結局、加賀が寝かされていた部屋でその音がしたのは、その一度きりだった。
そして、コップに汲んだ水を持ってきた際に名前を教えられた「大淀」と、突然姿を見せたかと思うと、陽気な声を発しながら加賀の身体を調べ尽くした「明石」という艦以外に、この空虚な壊れかけの病室で会った者はいなかった。
思うように身動きのとれない加賀に寄り添うものは、幾層もの天井越しに見ることのできる、僅かな空だけだった。
けれど、見上げた空はいつも晴れていた。清々しいほどに。
***
壊れかけた艦の面倒をここで看ているのだという廃病院の大淀は、また困ったことがあればいつでもどうぞと、なんとか自力で地面に立てるようになった私を前にして笑顔で言った。その後ろで、明石がぷらぷらと道具を持ったままの手を振っている。視線は、自身が腰かけた椅子の前にある、古びた木製の机に載せられた、今はもう使われることのない壊れた艤装に注がれたままだ。
「ありがとう。お世話になりました」
私は覚束ない足取りで建物の出入り口をくぐり、黒ずんだコンクリートの敷かれた朽ちた道を歩む。
私は、まだらに絵を描くつぎはぎの記憶だけを持っていた。なんとかいうことを聞かせられる四肢と、朧げな戦場での記憶。
けれど、私は一体誰の命令に従い、なにと戦っていたのか、たったそれだけの過去さえ、不明瞭な記憶から引き出すことが出来なかった。
溌溂と生命を漲らせ枝を張る緑の中を、道は続いている。じっとりと汗ばむ空気には緑の匂いが濃く混じっており、そこに息のつまる潮の生臭さが重ねられていた。病室では感じることのなかった、身体を溶かされてしまいそうな熱を持つ日光が、辺り一面を白く照らしていた。乾いた大地、道端へと無造作に除けられた瓦礫の間に伸びる道を進んで、時折雑草を踏みつける。
二歩、三歩とのろのろ足を前に出して、やがて私は止まった。重い頭が下がる。私の身体によって作られた影が伸びる地面では、無数の蟻が列を作り、かつて虫であったものを運んでいた。
真っ白な頭を抱え、ただボウと地を這う蟻を見つめていると、いつの間にか私の傍らに寄り添っていた艦が、私の二の腕を掴んだ。
「お加減はいかがですか、加賀さん。……貴方が帰るべき場所は、わかりますか」
その声を耳にして私は目を見開き、唇を慄かせた。
私の心は止まった。
否、動き出した。すっかり働き方を忘れ、惰眠を貪っていた私の心はその時、衝撃を与えられたことで動き出したのだ。
彼女は私の魂を遠く黄泉から呼び戻した。
洗い晒しの着物を身に纏う、白く輝く肌と柔らかな黒い髪を持つ彼女は、穏やかな声で私に問うた。大きな瞳で大らかに私を見つめ、唇は僅かに微笑みを浮かべていた。
壊れかけた私でも判る。彼女はわたしにとっての希望なのだ。己の記憶さえ曖昧な、弱り切った私の身体でさえ彼女を覚えていて、再び会えたことを残された力の全てで歓ぼうとしていた。彼女と肩を並べ大海の風を切る誇りがふわりと心の奥に浮かび、ぱちんと弾けた。
ただ口を呆けたように開けて、彼女を見つめることしかできなかった。そんな私へ、彼女は一語一語を明確に、ゆっくりと喋りかける。
「――帰るべきところに覚えがないのなら、私と一緒に来ませんか」
彼女は私の二の腕を掴んだまま、強すぎるとさえ思える力を込め、しかし激しい感情など欠片も見せずに、ただ問うた。
「ねえ、加賀さん。……貴方は、私を覚えてくれている? ……私を、『赤城』を」
ええ、勿論です。名そのものは不確かだけれど、貴方は私の身体と精神の一部を占め、この肉体を生かす一部となっている。手でしっかりと掴むことさえ出来ない『カガ』の記憶のどこかで、貴方は私を捕らえている。その証拠に、私は貴方から視線を外すことさえできない。
「……は、い」
自由の利かぬ口で、哀れに鳴く犬のような声を絞り出した。
世界が巡る。彼女を縋るように見上げた時、私たちを囲む鮮やかな緑の木々の息吹と虫の鳴き声、鳥の囀り、底抜けの空に雲が流れ空気の揺らぐ、生きた世界が唐突に姿を現した。
「……あかぎ、」
さん。この世界の中心にあって、私の支えとなる唯一の人。
理屈も思考も必要ない。私の世界は貴方を支柱として巡っている。
なにもかも失くした私にとって、「赤城」さんは揺らぐことのない、ただ一つの真実だった。
***
艦たちは囁く。かつて艦娘と呼ばれた娘たちは囁く。鎮守府でひっそりと噂されている。崩れかけた塀の後ろで、横穴の開いた黴臭い部屋の片隅で、階段以外は瓦礫に埋もれてしまった地下室の中で。
――新月の日の夜、世界が全て真黒に塗りつぶされた夜の海には、眠っている艦に囁きかける「 」がいる。力強く生き、普段であればどのような誘惑もすべて跳ね除けてしまう艦たちも、それが聞かせる、かつて戦場で失った姉妹の声に哀しみを呼び起こされ、ひとりでに海の上へすべりだしてしまうのだ。
彼女たちは姉妹を想ってひとり、暗く救いのない大海の果てまで走り去ってしまう。ひとり、ふたりと彼女たちの姿が減っていっても、最早艦の消失について誰に何を言われるでもない。それどころか残された艦たちでさえ、誰をわたしたちは失ったのか、曖昧でよくわからないのだ。ただわかることといえば、戦いというものは既に終わっていて、生きる術を失くした艦たちが、かつて鎮守府と呼ばれていた建物の廃墟で暮らしていることを気にする人間など、もうどこにも居ないということだけだった。
***
「昨日よ、昨日」
「新月だった」
「真暗だった」
「――誰かが、消えた」
「でも、誰が?」
囁き声と鈴の音が、聞こえた気がした。
建て付けの悪い木製の引き戸を開け、加賀は廊下へと出た。前日に図書室で夜更けまで本を読んでいた所為で、今朝、銘々が自由に布団を敷き雑魚寝をしている広間で目覚めたときには、既に周りの艦娘たちは身支度を終え、部屋を出た後だった。
軋む廊下を進み、食堂へと顔を出す。眠気の残る目尻を手の側面で拭い、水の張られた器に差し込まれていたしゃもじを手に取ると、手にした茶碗に大釜から白米をよそった。
私はかつて「鎮守府」があったという場所で暮らしている。私が目覚め、大淀や明石、赤城と会ったときにはもう、戦いというものは既に終わっていた。終わり切っていた。そして行き場を失くした艦娘たちは、用済みとなった鎮守府の建物に住みつき身を寄せ合って、日常を営んでいた。
少女たちを――形式的に――まとめる立場にある艦は、連絡のつく他の鎮守府や泊地とやり取りを重ねているという話を耳にしたが、それが暮らしに変化をもたらすことも特になかった。
ただ、他所から見慣れぬトラックが来た日は、見慣れぬ野菜や新鮮な肉が夜の食卓に並び、時折甘味も振る舞われた。
目覚めた私の記憶はまっさらではなく、故に少々混乱をきたしたが、それはいっとき壊れかけた――赤城さんはこの言葉を嫌っている――艦娘たちにままあることなのだと明石や大淀は言う。そして私自身も、私が日々を過ごしていく中で、記憶などというものは有れども無くとも、さして意味がないのだと、やがて悟ることになった。
ぼろぼろになった建物群を根城として、かつて艦娘と呼ばれていた少女たちが暮らしている。この一角が、私にとっての今の日常。
この一角だけが、私の世界のすべて。
***
雲一つない青空に、赤色が舞う。
「えい」「やー」「とうっ!」
高い声が次々に笑う。
「ずるいー、次は雷の番よ!」
「私の方にきたもん、私が打つわよ」
背の低い少女たちに交じって、赤城は満面の笑みを浮かべ、手元に回ってきた赤いボールを敵陣に打ち込んだ。
すかさず、赤毛の少女がボールを弾く。傍らで銀髪が跳ね、しなやかな肉体がアタックしたボールは、再び空を舞う。
加賀はコンクリートでできた階段に腰かけ、太腿に肘をつき、掌に顎を乗せたまま、ボールを追って視線を移動させていた。
十数名の少女たちが、ボール遊びに精を出している。白く塗りなおされた建物を背景にすると、赤城の黒髪と赤色の袴がより一層際立つように思う。
勢い良く吹きつける海風が地面の土埃を舞い上がらせ、加賀は思わずくしゃみをした。
上がる歓声から一歩引いた場所にいる加賀は目を伏せると、角が砕け欠けた白色の階段を見下ろし、乾きざらざらとしている表面を指先でなぞった。
少女たちは毎日を遊んですごしている。ボールで試合をし、海へ行って釣りをし、或いは海水浴をし木登りをし、室内で水彩画を描き、楽器を爪弾き、本の頁をめくる。
――私だけだわ。
加賀は誰の目にも止まらぬように静かに腰をあげると、広場に背を向けた。
無数の建物が肩を並べる「鎮守府」の中心には、土地を切り分けるように敷かれた幅広な十字の道が通っている。
道の脇に並ぶ、吹きつける海風によりたわんだ松にそって南へと進み、途中で左の小径に曲がると、やがて人気のない広い空間が現れる。燃え、炭化した幾つもの柱が天を指し、戦いの果てに用途を失くした瓦礫が堆く積まれた場所。
今では誰も近寄らず、ただ朽ちるに任せられている空間の中心で、加賀は躊躇いなく膝を地面についた。
両腕で重い瓦礫を除け、積み上げては片付けていく。
この空間の片隅に築かれた、瓦礫の山が連なる一角だけが、加賀のこれまでの孤独な努力を示していた。
掌や膝が擦れるのにも頓着せず、破片を寄せ、燃え尽きた木片を背後に放る。
暫く掘り進めていくと、厚い板と板が重なることで守られていた空間が現れた。内部を窺えば、未だ姿を留めているものがある。
加賀は身を伏せ、肩まで地につけた態勢で、必死に手を伸ばした。指先が限界を訴えて引き攣る。
重い板の下へ腕を差し込み、ようやく引きずりだした木製の弓は、途中でぽっきりと折れ、ささくれていた。
かつて弓道場だった場所の跡地で、加賀は膝をつき、掌に載せた半身の弓の重みを感じていた。
――私だけだわ。戦場を忘れられないのは。
もう弓の鍛錬をしにくる艦もいない。艦たちは遊びに耽っている。皆が皆、口を揃えて言う。戦いは終わったのだと口々に言う。もう戦いのための道具も、技術も、使う先はないのだという。
それでも。
それでも私は、かつての戦場を忘れられない。今にもサイレンが鳴り響き、浅い眠りを中断して外へ走りださなければならないのではないかと、いつも心のどこかで神経を張りつめさせている。燦々と日が注ぐ広場で歓声を上げる少女たちを見つめる私の背中にだけ、絶望が黒い影となって張り付いている。
私だけが、過去の戦場に取り残されている。
がらり、と土埃にまみれた手で的の上に乗っていた破片を除ける。手の甲で汗のにじむ鼻先を拭い、そのまま、顔が汚れることにも頓着せず両掌で顔を覆った。
そのとき、背後で、誰かが瓦礫を踏みつける足音がした。足音の主は力強く進み、加賀へと一直線に向かってくる。そして躊躇いなく、地面に蹲る加賀の前にすっくと立った。どこかから現れた人物の両足を、加賀は目を覆う指の隙間から見た。
のろのろと顔を上げる。仁王立ちした彼女は、自身の両手を身体の後ろに回し、もぞもぞとさせていた。それでも顔は自信に満ち溢れている。
――誰だったろう。名が。名を。
私の記憶はまだら模様を描いている。
名を思い出せぬ女性を見上げながら、甦る記憶に身を委ねる。
弓なりの月が浮かぶ雲のない晩のことだった。私たちは、食堂の机でふたり並んで食事をとっていた。赤城さんは周囲の会話に耳を傾けて笑っていたかと思うと、ふいに私だけを見るように小さく顔を傾け、問うた。周囲の喧騒がすっと遠のき、まるで世界には私と赤城さんしかいなくなってしまったようだった。
「ねえ、加賀さん。貴方は元の記憶がほしいですか。完璧な、傷ひとつない記憶が」
赤城さんは非常にニュートラルな声で問うた。
けれど、彼女の顔は私に向けられていたのに、視線は彼方を見据えていたのだ。私はそこに、彼女が抱く願いをみた。
「積極的には、それほど」
赤城さんはその答えに対し、首を縦に振った。とても静かに。だから私は続けられなかった。
『赤城さん。完璧な記憶など要らないのです。私は、あなたに関する記憶がこの手にほしいの。あなたとの思い出がほしい。あなたを見ているだけで、息が出来ぬほど胸が締め付けられる理由を知りたい。
誇り高く大海を駆けたという、そのときの風の匂いを知りたい。あなたを知りたい。私が抱いていた、あなたの記憶のすべてを』
知っている。赤城さんは特に欲していないのだ。私の心の内に燻る願いを。すなわち、私にとって、私の過去の記憶などもう意味を持たないのだ。
「……どなた、だったかしら」
加賀は両手についた埃を掃いながら、どこか霞色がかった長髪を頭の左右で結わえている女性へ訊ねた。彼女はむっとした表情でそっぽを向いたかと思うと、酷く悲しそうに両目を伏せる。白色の着物に赤く短い袴を合わせている眼前の女性の、「姉」と呼ばれていた女性を思い出す。
「ショウカク……、の、妹」
「ズイカク!」
彼女は憤りながら己の名を叫んだ。まるで我が儘が通らずに駄々をこねる子供のようだ。
「ええ、瑞鶴。確かに。失礼しました、覚えました」
「……」
「……」
彼女は、ちら、ちらと地に這いつくばったままの加賀を見遣るが、その場から動こうとしない。唇の端を物言いたげにぴくぴくとさせ、尊大に腕を組んでは、その腕の上下を落ち着かぬ素振りで入れ替える。
「……まだ何か?」
「べつに」
そう、と加賀は半ば独りで呟き、再び地を掘り返そうと、半分に割れている瓦を抱えた。
「――ない! ないわよ!」
唐突に発せられた声につられて、加賀は再び面を上げた。
「ないのよ、貴方の欲しいものは! こんな場所で今更何をしているの? もう全部終わったの、終わったって貴方も知っているんでしょ」
加賀は黙ったまま、瑞鶴と目をあわせた。まるで彼女自身に痛みが生じているかのように、顔を悲痛に歪ませた瑞鶴は、幾度も地団駄を踏み、両手を広げた。
「残ってないの、ここには、なにも!」
「……それが貴女になにか関係あるのかしら」
「ないわよ、これっぽっちも!」
彼女はわなわなと肩を怒らせ、言い募る。
「今更役目でも果たそうっていうの? 遅いわよ、遅すぎるの! 生き延びたなら生きなさいよ、することなら他にもなんだってあるじゃない。分からなくても誰かに教わればいい、なんでまた愚かに戦おうとするの、まるで、まるで馬鹿の一つ覚えそのもの」
瑞鶴は苛々と親指の爪を噛む。
加賀は汚れた自身の両手を、太ももの上でぐっと握りしめた。答えなどひとつしかない。
「……私の誇りのためよ」
ただそれだけのためよ。戦いを剥ぎ取られ、すべてを失った私に残ったものなど、汚れ切ったちっぽけな誇りひとつ。
瑞鶴は首を大きく横に振った。
「嘘ね、貴方は欲しいもののためになら誇りなんて捨てる人間よ。そんな人間が誇りに縋るなんて滑稽ね。みじめに生きるのがお似合いなのよ。……お仲間と一緒にいなさいよ!」
そう、言い捨てると彼女は走り去った。「いたっ!」と、途中で人が地面に転がる音と悲鳴がし、何事か喚きながら立ち上がって、ばたばたと足音高く駆けていく。その自由さが、奔放な感情が、酷く羨ましいものに思えた。
そうね、と加賀は汚れた両手に顔を埋める。私は欲しいものに忠実でしょう。ただそれが任務の結果与えられていたものだったというだけで。ただそれが彼女だったというだけで。それでも、私は生きようとしている。私は生きるための何かを、この瓦礫の山の中から探し出そうとしているの。
貴女にわかるかしら。それとも首を捻るかしら。
海風が空に向かって吹く。
――戻りたい、海の上へ。私の命が輝いていた、あの場所へ。
***
「鎮守府」だった土地と地続きの場所に、かつて「教会」と呼ばれていた場所がある。きっと昔は、強固な柵や壁で鎮守府と隔てられていたのだろう。
青い木々に囲まれた木造の教会は、幾度も降った雨と吹きすさんだ嵐によって、硝子は砕け、屋根は割れ、折れた柱が剥き出しになったままだ。一度雨が降れば終わりなく、屋根から雨水が滝のように祈りの場へ流れ落ちる。
教会が教会として機能していた頃に据え置かれていた像は、戦いの結果粉々に砕けていた。だからなのか、悪戯になのか、今は代わりに誰かが置いた粗末な作りの菩薩像が、無造作に鎮座している。
たとえ悪戯であったとしても、それを置いた誰かの何ものかへ縋りつきたい気持ちは、菩薩像を目にした皆が理解していただろうと、加賀は思う。
彼女は気づくとそこにいた。ふと周囲に姿が見えないことに寂しさを覚えても、教会に行きさえすれば、そこに赤城さんはいた。
彼女は飽くことなく、切り裂かれた果てにある青空を、壊れかけたベンチに腰かけて見上げていた。
硝子の破片を踏み砕くという失態によって不躾な音をさせた私に対し、長く美しい黒髪を揺らめかせた彼女は、まるで聖なる母のように私へ微笑みかけてくれた。柔らかな声で、やさしく問いかけてくれた。
「あなたは、なにを祈りにきたの?」
――赤城さんは、私が何かしらの言葉を捻りだして、彼女に付け加える、そんな必要などどこにもないほど完璧なひとだ。私の発する言葉が無力であるばかりか、下手をしたら、彼女を褒めている心算の私の言葉で、誤って彼女を汚してしまうのではないかと一抹の不安を感じるほどに。完結しきった、美しいひと。だから私は彼女に声を掛けられるたび、緊張で頭が真っ白になり、まるで怒っているような、気遣いのできていない固い声で返事をしてしまう。
私は彼女を前にすると自分でいられなくなってしまうのだ。
けれど、そんな些細なことを気にしているのは私だけだ。なにを祈りにきたのと問われた私は、口ごもり、曖昧な声を出して、じっと身をかため、二人の間の空気をぼかそうと無意味な努力をする。そして気づく。
柔らかな視線で意味のない努力をする私を見つめていた赤城さんは、ふと一瞬目の焦点をずらし、私を越えたなにかを見る。私の内部にある、なにか別のものを見通そうとする。
それがわかっていてもなお、私は彼女に声を掛けられたという事実に、自分を見失いながら、どうしようもなく胸を高鳴らせてしまうのだ。
「ねえ加賀さん」
「……はい」
赤城は冷えたベンチから立ち上がると、袴についた汚れをはらった。
「ご存知ですか? 今日、間宮さんがお八つにアイスを振る舞ってくださるそうです。よければ、一緒に行きませんか。ご馳走になりましょう」
「……ええ、いいですね。楽しみです」
はたはたと裾を翻す海風に吹かれながらふたり、鎮守府の道を歩む。私はまるで母鳥の後ろをついていく雛鳥のように、赤城さんの背を追ってとぼとぼと進む。
前を行く赤城さんの背中に手を伸ばし、どうか私を見てと訴えたいけれど、もしかしたら私に見てもらうべき価値など、どこにもないのかもしれない。
誰かに何かを祈ることももうないけれど、もし何かを祈れと言われたなら私は――再び赤城さんの隣に立ちたいと、願うだろう。戦いの記憶すら失くした癖に、私に背を任してくれる彼女を想い、かしずき、守ってみせたいと、時折叫びだす己の心に潰されてしまいそうになる。
それが実現したところできっと彼女は、にっこりと笑って、そのままするりと私の手元からすり抜けていくだけだろうに。
道の途中で、甲高い叫びと共に、色褪せた揃いの制服を着た駆逐艦たちがわらわらと現れ、赤城と加賀を囲んだ。揉みくちゃになりながら、少女たちが赤城の腕にぶら下がる。皆、目指している場所は同じだった。
冷え切った陶器が、掌に吸い付く。加賀は自然に赤城たちから距離を取って、離れた場所でひとり腰を下ろし、緋毛氈の上に右手で持っていた熱い湯呑を置いた。
左手に持つ白色の器には、乳白色のアイスクリームが盛られていた。緑の葉と薄いウエハースが添えられている。加賀は器をこつ、こつと匙でつつく。
掬い取り食んだ甘くなめらかな氷菓子が、舌の上をすべる感触に思わず項の毛が逆立った。
「タイヘンね」
加賀の背に背を向けて、同じ縁台にどさりと座った女がぼそりと呟いた。
「……貴女も大概暇なのね、瑞鶴。貴女、私に構いすぎだと思わない」
「名前を憶えていただけて光栄って言うべきなのかしら」
「一度教われば忘れないわ」
「……」
瑞鶴は慎重に、深くため息をついた。
「……赤城がそんなに特別? ふん、あなた、もう恋も愛も関係ないって表情で。……いいえ、違うわね」
瑞鶴は半ば独り言ちるように、低くぼそぼそとした声で続けた。
「貴方はいまだそこへ至ることが出来てないのよ……貴方も『大概』大変ね。……『彼女』はもっとタイヘン」
そうして瑞鶴は肩を竦め、呆れ果てたように笑った。やがて瑞鶴は立ち上がり、翔鶴が腰かけている縁台へと移動していった。
加賀は匙を咥えたまま、離れた場所で笑う赤城を見遣る。開かれた場に差す日光が眩しく、目を眇めた。
――私はひとり。ここにはこんなにも多くの艦がいるのに、私はひとりぼっち。
それが何故か、とても正しいことのように、加賀には思えた。
***
自由に枝を伸ばす緑をかきわけて、敷地の外れにある教会に行く。加賀が足を踏み入れたとき、教会の中に人影はなかった。
焼け落ちた木材を跨ぎ、割れた硝子を草履で踏みつけながら、枠だけが残った窓のそばに腰を下ろす。
ツン、とアルコールの匂いが鼻を突いた。もぞり、と窓の外で蠢く気配がする。
「頂戴」
加賀は背後を振り返ることもなく、宙へ視線を遣りながら背後へ手を差し出した。
「アー、ぁあ。……っ」
窓の外に広がる地面の上に直接寝転がっていた誰かが、悪態をついた。褒められたものでない単語が発せられても、加賀は眉を顰めもしない。
「タイ、クツ。……ええ、退屈」
白くしなやかな手が窓枠をくぐり、加賀の隣に突き出される。その長い指先に挟まれていた煙草のソフトケースを無造作に掴み受け取ると、加賀はその白い手の内に、自身が持っていた軍票をねじ込んだ。
のろのろと引っこんだ手の主が、苛立ちも露わに唸る。
「ぁあ、耐えられない。最悪。……毎日毎日、わたし、なんで生きてるのかしら……。いや、嫌。退屈で死ぬ。……ぃぃ、死んだ方がマシ。これなら死んだ方がマシだった。でも嫌、戦いなんて二度といや、あんな海、戻りたくない。終わらない退屈もいや、いや、嫌……」
「ねえ、燐寸を持っていない?」
ぴたりと止んだ怨嗟のあと、暫くゴソゴソと探る気配がし、唐突に力なく燐寸の箱が窓枠越しに放り込まれた。
くたりとした使いかけの燐寸の外箱を汚れた床から拾い上げ、内容量が半分以上減った燐寸の中から一本取りだすと、慣れた手つきで頭薬を箱の側面で擦り、咥えた煙草へ火を近づける。
加賀は深々と息を吸い込みながら煙草に火をつけ、手をブン、と振って燐寸の炎を消す。
咥えた煙草の煙で肺を満たしながら、燐寸箱を窓枠越しに投げ返した。
煙草をくゆらす加賀の背後で、少女は再び呻く。
「こんな場所、出てってやる。……出てみせる。もういや、耐えられない、私もあなたみたいに忘れられたらよかったのに……記憶を消したい。……きっととてもすっきりする……退屈、退屈すぎる。でも、もう、もう戦いたくない……出ていくの……」
ここから出ていくの、と言った声は涙と鼻水で濡れていた。言葉の合間合間に、鼻をすする音と、酒を呷る気配が混じる。
――そうね。
貴女が記憶も過去も嫌なことすべてを忘れることが出来て、代わりに私が記憶を――赤城さんの記憶を、戦いの記憶を、取り戻せていたなら世界はとても素晴らしかったでしょう。
けれど現実では、私はまだらな記憶を抱えた壊れかけの艦で、貴女は貴女で自身に焼けついた記憶を振り払うことも、なかったことにすることもできない。
私は戦いに恋い焦がれながら退屈なこの地にいて、貴女は全てを恨みながら、それでも退屈で苦しみしかないこの地を離れられない。
世界はいつだって不公平で、欲するものを与えてくれない。それが日常、それがすべて。
きっとそんなこと、私も貴女もとっくに知っている。改めて言葉にして、確認せずとも。
床に座って紫煙をくゆらせていた加賀は、ふと思いついたように自身の胸元を探った。
特になにも考えず、目覚めたときからずっと首に下げている、古びた御守り。加賀は指先でつまんだ、生地の黒ずんだそれを、まるで初めて見た物のように矯めつ眇めつ、鼻を近づけてみた。くん、と臭いを嗅いでみれば濃い潮の匂いが鼻を刺す。
折り畳まれている上部の布を開け、目を細めて御守りの内部を見た。背後から差す日光によって、収められていたものの輪郭が露わになる。
――それは、人の毛髪だった。黒く、艶のあるそれは一房に纏められ、両端は綺麗に切り揃えられている。
加賀は思わず身をかため、自身が知らずに身に着けていた誰かの髪を、じっと凝視した。時が止まる。
じじ、と燃えていた煙草の先から、ほろり、と灰が御守りを掠めて落ちる。
加賀は慌てて袴に落ちた灰を掃い、深く煙草を吸いながら指を動かして御守りの上部を元通りに畳む。そのまま胸元の奥深くにねじ込んだ。
厭な汗がこめかみを伝う。煙草を指で挟み、落ち着かぬ様子で幾度も吸った。
――誰の。
加賀は首を振った。些末なこと。どうでもいいこと。考えてはいけないこと。平和なここでは無視すべき事柄。そう、きっとそう。
大体、誰に聞くというのだ。私が誰の髪を首からぶら下げていたのかなどと。
加賀は指に近いところまで燃えていた煙草を床に押しつけて火を消した。
膝を立て、項垂れた頭を両腕で抱える。
「……楽になりたいの……」
そうね、私もそうよと言ってあげたところで、背後の彼女が楽になる日など、来るはずもないのだ。これ以上安楽な場所など他にないというのに、私たちは囚われたままだ。
「……だれか……」
***
夕陽は毒々しいほどに朱く、建物の残骸の影が長く伸びていた。その傍らを幼い少女たちの影が駆けていく。
『きえた、きえた』
『誰かがきえた』
『だーれが消えた』
『どーこへ消えた』
『きえた、きえた海のさき』
『行ったあの子は』
――あの子の姉妹に会えたのかしら。
遠く響く歌声は、誰の声かも判別できない。
加賀は堤防沿いにぶらぶらとあてどなく歩いていた。この鎮守府跡には、飽和した時間だけが溢れている。
赤い空と赤い海の境目へ飛び出た防波堤に、一人の人影があった。
防波堤の先端に座し、背を丸めている少女は、色褪せた水着の上に服の上着だけを羽織り、水平線をぼんやりと見つめていた。
加賀が背後に立っても、彼女は特に反応しなかった。
「イヨちゃんがね……」
掠れ、途切れ途切れの声は平坦に喋る。まるで、加賀ではなく、海と対話しているかのようだ。もしかしたら、彼女はそのつもりなのかもしれない。
「木登りをした日に、おいでって言ったの……。ここまで、おいでって……。怖くなんかない、コツを掴んじゃえば簡単なのよって……」
「戦いに出た日もそうよ……。私についてこれば怖くない、コツを掴んじゃえば簡単なのよって……」
潜水空母の少女は小さな肩に華奢な手を回し、敵から身を守るように身体を縮めた。
「でも、簡単じゃなかったのね……」
「私、贅沢は言わないわ……。みんな、忘れてくれていいの、私たちのことなんて。……次の新月に消えるのは、私ね。イヨちゃんの声につられて、出ていくの。出ていきたいの。あの子に会って、『大丈夫?』って尋ねられたい……。あといっかい、それだけ、それだけでいいの……」
「呼んでくれると、いいわね」
加賀の声にうっそりと顔を上げた少女は、そこで初めて加賀の存在に気がついたように曖昧な笑顔を浮かべ、一言「ええ」と呟いた。
寝返りをうつと、くたびれた毛布が身体からずり落ちた。ぱちり、と目を開ける。
夜半、広間では何人もの艦が布団を敷き、夢の中にいる。時折誰かが咳をし、小さな鼾が響いた。
幼い艦が幾人も、加賀と赤城の布団を取り囲んで雑魚寝をしている。雑魚寝にもつれ込んだ日、赤城は決まって加賀の布団に入りこみ、密着して加賀と共に寝ようとする。
赤城が横にいて、幾人もの艦の寝息に紛れて赤城の吐息の温度までわかる日に眠ることなど、加賀にはできなかった。
誰も起こさぬよう、細心の注意を払いながら加賀は立ち上がり、布団の海の間を縫って歩み、少し開いていた引き戸の隙間から廊下へ出た。
涼しい風につられ、草履をはいて外に出た。
満天の星が上空にあった。夜空にもかかわらず、青空と形容したくなるほど晴れ晴れとした空が一面に広がっている。
細い月を追って、加賀は静まり返った鎮守府の道を歩んだ。四角い影と化した建物が後ろに流れていく。やがて現れる荒れ果てた廃墟の間を抜け、生命の蠢く森に続く野原を往く。
辛うじて人が作った道の残る草原の途中で、私は背後を振り返った。
悪戯がばれてしまったといわんばかりの顔をして、加賀の後ろをついてきていた赤城は笑った。
私はとうに気づいていたけれど、困惑してしまい右にも左にも進むことが出来ない。ただ、貴方から離れるために外へ出てきたのに、こんなに遠くまでついてくるなんて想定していなかった。可愛らしく笑ったままの彼女は言う。
「私は貴方についていくだけですよ」
その言葉に背を押され、再び私は歩き出した。けれど、分岐点に差しかかると、ちらりと赤城さんを振り返ってしまう。
――これは私の弱さだ。
赤城さんは言う。ねえ、蛍を観たくはありませんか? 私たちの左手には――よく見えないけれど――獣道があって、水を汲んで飲める小川に続いているんです。
そういわれては、従うことしかできない。私は左手に広がる木々の影を綿密に観察し、赤城さんの言う道に茂る藪を掻き分け、進む。
木々や雑草が鬱蒼と茂っていたのは最初だけで、暫く行けば歩くことが難くない道が伸びていた。
赤城さんは嬉しそうに、昔はここを車で走っていたのよ、と草履にまとわりつく、ぬかるんだ土を踏みしめながら言った。
これといった会話もなく、時折現れる藪を手で押して除けながら歩を進める。そのとき、ガシャン、となにかを踏んだ。
訝しげに見下ろせば、腐った木材と墨で襤褸布に書かれた文字。薄汚れ、所々虫に食われ、読解することが出来ない。
首を捻る私に、赤城さんは優しく告げる。
昔は左右に上下、内外に過去と未来、そういろいろ区別して争ったり対立したりしていたのよ。
でも、私たちにはもう関係のないことねと、私にはよく理解できないことを言って笑って、私を追い越していった。
私は藪の影に紛れた赤城さんにむかって叫ぶ。
「私には『赤城』と『加賀』の区別以外、意味を持ちません」
ふふ、と含み笑う声だけが私に届く。
「私は、わたしとあなたの区別さえ無くてもいいと思っていますよ」
その言葉が意味することをはかり損ねた私へ、小川が流れ、そこだけぽっかりとひらけている空間に辿り着いた赤城さんは、両手を思う存分広げて気持ちよさげに言った。
「ごめんなさい、かたい話なんてする必要はないわ。だってこんなに空が綺麗なのに!」
紺の空に黄金の星が散る。数え切れぬ蛍が求愛の光を放つ。その真ん中に立つ赤城さんは光り輝いていた。
私にとって、美しいものは赤城さんだけ。私の想いは、貴方にだけ愛を降り注いでいる。なのに。
なのに私たちは。
――私は、優雅に舞う彼女の手を、とることすらできない。
水の甘い匂いが私たちの間に満ちる。深い夜は静かに、私と赤城さんをくるんでいた。
***
炎が包む。
熱が私たちをくるむ。
燃え上がっている。鎮守府から黒煙が立ち昇っている。
海も空も灼熱で染め上げられている。
けれど、私は行かなければ。たぷたぷと波打つ真暗な海へ足を下ろし、穏やかな波を裂いて走り出す。
手にした弓を、固く握りしめた。
――艦たちは噂している。女がすすり泣き、悲痛に叫んでいるような風の音が海の上をすべり、響いているのだと。娘たちにかつて経験した戦場の記憶を呼び起こすそれは、新月の夜に失くした姉妹の声と化して、声を聞いた娘たちは真暗な海の果てへ出ていってしまうのだと。
彼女たちは海の果てで愛していた姉妹の残像を見、愛しい姉妹の腕に抱かれ眠るのだ。
馬鹿馬鹿しい。私はそんな声など必要としないわ。
「加賀さん」
私は救う。救ってみせる。姉妹の腕に抱かれたくなどない。私の目の前で砲弾を身に受け、赤い炎をあげながら海へ沈もうとする赤城さんがいたなら、私はその身を私の両腕で抱き、たとえ互いの役目がなくなったとしても共に陸へと帰りつくでしょう。
目印すらない大海の底になど沈めない。そんなこと私は認めない。
「加賀さん」
私は全身の力を振り絞って、己の傷が痛みこの身が二つに折れようと、全力を出し切って貴方を海から引きずり上げるのよ。赤城、沈みそうなら私を見て。私の手を見て。
私とひとつになりたいと言ったわね。
ならばその誓いを果たさせましょう。あなたを救うことだけが私の祈り。それだけが私のすべて。ええ、私のすべてだった!
――重なる掌。汗ばんだ体温が私の背骨を貫いた。
手をつないだ私たち。赤城さんは遠くを見つめ、謡うように呟いた。
次はくらげに生まれ変わるの。
――くらげに?
ええ、ぷかぷかと海のなかを揺蕩うくらげに。
一面に広がる夜空を見上げながら、光る星々と、あたたかな色をした月をながめて、熱せられた海や、氷の浮かぶ大海に抱かれて、じっと波の音を聞くんです。いつまでも、いつまでも。きっと、飽きることなんてないわ……。
――孤独ね、と皮肉気に呟いた私を、彼女は微笑みながら振り返る。赤城さんは私の気持ちなんてとうに見抜いている。
あなたと共に、ふたりくらげになって世界中の海を巡るのもとても楽しそうね。でも私はもう、何かの具合で離ればなれになるのは厭なの。ねえ、わたしたち、同じくらげになりましょう。溶けあって、同じ身体になったくらげがいいわ。
同じからだで、もう離れることなんてないって、あなたをずっと感じながら、あなたと海を漂いたい……。ずっと、ずっと……
身体が痛い。身体が熱い。苦しい、苦しいの。日々が苦しい、微睡みのなか、あなたにあやされるばかり。私はあなたを救いにいく、終わっていない。
戦いは終わっていない。
終わっていないの、私はまだ終わっていない!
衝撃で、は、と意識が醒める。胸元から濃い潮の香りがする。揺さぶられている。海に揺さぶられている。
真っ暗な海の上で、水音だけが世界を作っている。塩水が、潮の風が私にまとわりついている。地球は波を幾度も岸に打ちつけている。
半分海に沈みかけた私は、一人きりではなかった。まろい身体に背後から縋りつかれていた。姿をみなくたってわかる。私の後ろから抱き着いて、私の身体を止めようとする人など、ひとりしかいない。
彼女は打ちつける波に足をとられながら、海の上をすべろうともせず、ただ一心に私へ縋りつく。
耳元で涙混じりの濡れた声を絞り出す。
私へ。
私へむかって。
「あなたは何度だって私を置いていく。あなたは戦場の『赤城』を救うために、何度も私を置いていく。
私を陸に置いていくんです!」
その声を耳にした瞬間、私は全てを思い出す。
赤城さん、あなたは私を何度も連れ戻してくれた。壊れかけ、記憶を失くしても、あなたへの愛を見失っていても、私を引きずり戻してくれた。
新月の、深い深い海の底から。
これは現実、だってこんなに。
頬を伝う涙が、あつい。
普段はどんな誘惑だって跳ね除けてみせる娘たちも、その声に呼び起こされて、海へすべりだしてしまうのよ……。
***
熱い。熱い、熱い、あつい。
空気が震えている。びりびりと鼓膜を刺す。
『トツレ・トツレ』
……トツレ・トツレ・トツレ!
『トトト・トトト』
……トトト・トトト・トトト!
揺れている。世界が揺れているのか、私が揺れているのか。無線ががなる。かき消されまいと大声で怒鳴る。命令など最早ない、熱い、身体が燃え上がる。痛みなど感じない興奮の中にある。それでも上半身は崩れ落ち、濡れた腹を両腕で抱えて海面を滑る。無意味だ、なにもかも無意味だ。だってなにもない、燃料に引火した炎が海面を覆う。これは夢だ、私は夢をみている。けれどこれは現実、だってこんなに。
頬を伝う涙が、あつい。
無意味なの、ヒトなど疾うに生きていない。この世界に護るべき命などない。あるのはただ――。
あるのはただ、あなたへの。
***
轟音が遠ざかっていく。頭の奥の、ずんずんと鈍く後頭部を殴られているような痛みが朧げな意識を引きずり戻し、覚醒へと導こうとする。
食い縛った歯の隙間から、低い呻き声が勝手に漏れた。目の粘膜が染みるように痛む。耐えられず身を捩ると、冷たく、僅かに汗ばんだ手が私の右手を握った。思わず全力で握り返すと、手の持ち主はびくりと跳ねたが、繋げた手を振りほどこうとはしなかった。
「――さん、――さん、わかりますか?」
この声を知っている、と思った。懐かしいような、けれど新鮮にも思える、芯が通った柔らかな声。
「――さん、カガさん」
『カガ』
それを知っている。その響きは人名だ。否、艦名だ。私の名、誰かから与えられた私の名。
「加賀さん、どこか痛みますか?」
女性の声が痛む頭に突き刺さる。眩しさをこらえて、乾いた両眼をゆっくりと開いた。
ぼやけた周囲の光景は、瞬きを繰り返すうちに、白く塗られた天井と、そこにぽっかりと大きく開いた穴と突き出した鉄骨、その上に広がる二階上の天井、そして果てにある青い空という輪郭を取り戻した。
横たわっているベッドの左側にある、割れた硝子が縁だけに残る窓から、ぬるくじっとりと湿った空気が部屋に入りこんでいる。
「『カガ』。……はい、わたしは加賀です。……痛み」
縺れる舌をなんとか動かして喋るうちに、鮮烈な痛みは徐々に遠ざかり、重低音となって身体の奥底で疼きを主張する存在へと成り下がった。喉だけが無性に乾いていた。
「痛みは大丈夫です。問題はありません。水、水を下されば、その後命令に……指示に従えます。司令官に」
従います、という細い声を聞いた女性は、ゆっくりとその両手で加賀の右手を包み込んだ。
「大丈夫ですよ、水を持ってきましょう。加賀さん、もういいのです。私たちの戦いは既に終わっています。終わっているんですよ。貴方はゆっくりと休んでいいの」
のっそりと右を向くと、黒い髪を持ち、眼鏡をかけた女性は、加賀を安心させるように穏やかな笑みを浮かべてみせた。一度ゆっくりと頷き、「もういいんですよ」と繰り返した。
戸惑う加賀の両手をそっと古びた布団の上に置き、掛け布団を直して加賀の身体を布団の中へとおさめる。そのまま、静かに部屋の外へと出ていった。
破壊され大穴の空いた天井の断面から突き出た、剥き出しの鉄骨が、吹く風にあわせて小さくゆらゆら揺れていた。赤茶に錆びた鉄骨の表面を目で追いながら、重い右手で汗のにじむ額を拭う。爆薬の匂いが夢の中から少しあらわれ、消える。
私は誰? 貴方は『カガ』。おそらく。
ふと違和感を抱き、胸元へ手を遣る。ごそごそと着物の下を探ると、汗ばむ素肌の上に長方形の何かが乗っていた。長い糸で繋がれているそれを、私は首からぶら下げているらしい。人差し指と親指で摘まみ、顔の上まで持ち上げると、それはどうやら古びた御守りのようだった。元は白色であったであろう布は黒ずみ、縫い目は綻びかかっている。外側に文字などはなかった。開けてみなければわからないが、何かを包んでいるらしい。
その瞬間、ぴし、と空気を切り裂く音が、かつて部屋の入り口だったと思われる、壁にあいた長方形の穴の外側で小さく鳴った。まるで壁の向こうの陰で、ひっそりと息をこらえていた誰かが、床一面に散っている硝子片を踏み砕いたような音。
「……? どなたか、いらっしゃるの」
掠れた声でなされた問いに、返事はなかった。
結局、加賀が寝かされていた部屋でその音がしたのは、その一度きりだった。
そして、コップに汲んだ水を持ってきた際に名前を教えられた「大淀」と、突然姿を見せたかと思うと、陽気な声を発しながら加賀の身体を調べ尽くした「明石」という艦以外に、この空虚な壊れかけの病室で会った者はいなかった。
思うように身動きのとれない加賀に寄り添うものは、幾層もの天井越しに見ることのできる、僅かな空だけだった。
けれど、見上げた空はいつも晴れていた。清々しいほどに。
***
壊れかけた艦の面倒をここで看ているのだという廃病院の大淀は、また困ったことがあればいつでもどうぞと、なんとか自力で地面に立てるようになった私を前にして笑顔で言った。その後ろで、明石がぷらぷらと道具を持ったままの手を振っている。視線は、自身が腰かけた椅子の前にある、古びた木製の机に載せられた、今はもう使われることのない壊れた艤装に注がれたままだ。
「ありがとう。お世話になりました」
私は覚束ない足取りで建物の出入り口をくぐり、黒ずんだコンクリートの敷かれた朽ちた道を歩む。
私は、まだらに絵を描くつぎはぎの記憶だけを持っていた。なんとかいうことを聞かせられる四肢と、朧げな戦場での記憶。
けれど、私は一体誰の命令に従い、なにと戦っていたのか、たったそれだけの過去さえ、不明瞭な記憶から引き出すことが出来なかった。
溌溂と生命を漲らせ枝を張る緑の中を、道は続いている。じっとりと汗ばむ空気には緑の匂いが濃く混じっており、そこに息のつまる潮の生臭さが重ねられていた。病室では感じることのなかった、身体を溶かされてしまいそうな熱を持つ日光が、辺り一面を白く照らしていた。乾いた大地、道端へと無造作に除けられた瓦礫の間に伸びる道を進んで、時折雑草を踏みつける。
二歩、三歩とのろのろ足を前に出して、やがて私は止まった。重い頭が下がる。私の身体によって作られた影が伸びる地面では、無数の蟻が列を作り、かつて虫であったものを運んでいた。
真っ白な頭を抱え、ただボウと地を這う蟻を見つめていると、いつの間にか私の傍らに寄り添っていた艦が、私の二の腕を掴んだ。
「お加減はいかがですか、加賀さん。……貴方が帰るべき場所は、わかりますか」
その声を耳にして私は目を見開き、唇を慄かせた。
私の心は止まった。
否、動き出した。すっかり働き方を忘れ、惰眠を貪っていた私の心はその時、衝撃を与えられたことで動き出したのだ。
彼女は私の魂を遠く黄泉から呼び戻した。
洗い晒しの着物を身に纏う、白く輝く肌と柔らかな黒い髪を持つ彼女は、穏やかな声で私に問うた。大きな瞳で大らかに私を見つめ、唇は僅かに微笑みを浮かべていた。
壊れかけた私でも判る。彼女はわたしにとっての希望なのだ。己の記憶さえ曖昧な、弱り切った私の身体でさえ彼女を覚えていて、再び会えたことを残された力の全てで歓ぼうとしていた。彼女と肩を並べ大海の風を切る誇りがふわりと心の奥に浮かび、ぱちんと弾けた。
ただ口を呆けたように開けて、彼女を見つめることしかできなかった。そんな私へ、彼女は一語一語を明確に、ゆっくりと喋りかける。
「――帰るべきところに覚えがないのなら、私と一緒に来ませんか」
彼女は私の二の腕を掴んだまま、強すぎるとさえ思える力を込め、しかし激しい感情など欠片も見せずに、ただ問うた。
「ねえ、加賀さん。……貴方は、私を覚えてくれている? ……私を、『赤城』を」
ええ、勿論です。名そのものは不確かだけれど、貴方は私の身体と精神の一部を占め、この肉体を生かす一部となっている。手でしっかりと掴むことさえ出来ない『カガ』の記憶のどこかで、貴方は私を捕らえている。その証拠に、私は貴方から視線を外すことさえできない。
「……は、い」
自由の利かぬ口で、哀れに鳴く犬のような声を絞り出した。
世界が巡る。彼女を縋るように見上げた時、私たちを囲む鮮やかな緑の木々の息吹と虫の鳴き声、鳥の囀り、底抜けの空に雲が流れ空気の揺らぐ、生きた世界が唐突に姿を現した。
「……あかぎ、」
さん。この世界の中心にあって、私の支えとなる唯一の人。
理屈も思考も必要ない。私の世界は貴方を支柱として巡っている。
なにもかも失くした私にとって、「赤城」さんは揺らぐことのない、ただ一つの真実だった。
***
艦たちは囁く。かつて艦娘と呼ばれた娘たちは囁く。鎮守府でひっそりと噂されている。崩れかけた塀の後ろで、横穴の開いた黴臭い部屋の片隅で、階段以外は瓦礫に埋もれてしまった地下室の中で。
――新月の日の夜、世界が全て真黒に塗りつぶされた夜の海には、眠っている艦に囁きかける「 」がいる。力強く生き、普段であればどのような誘惑もすべて跳ね除けてしまう艦たちも、それが聞かせる、かつて戦場で失った姉妹の声に哀しみを呼び起こされ、ひとりでに海の上へすべりだしてしまうのだ。
彼女たちは姉妹を想ってひとり、暗く救いのない大海の果てまで走り去ってしまう。ひとり、ふたりと彼女たちの姿が減っていっても、最早艦の消失について誰に何を言われるでもない。それどころか残された艦たちでさえ、誰をわたしたちは失ったのか、曖昧でよくわからないのだ。ただわかることといえば、戦いというものは既に終わっていて、生きる術を失くした艦たちが、かつて鎮守府と呼ばれていた建物の廃墟で暮らしていることを気にする人間など、もうどこにも居ないということだけだった。
***
「昨日よ、昨日」
「新月だった」
「真暗だった」
「――誰かが、消えた」
「でも、誰が?」
囁き声と鈴の音が、聞こえた気がした。
建て付けの悪い木製の引き戸を開け、加賀は廊下へと出た。前日に図書室で夜更けまで本を読んでいた所為で、今朝、銘々が自由に布団を敷き雑魚寝をしている広間で目覚めたときには、既に周りの艦娘たちは身支度を終え、部屋を出た後だった。
軋む廊下を進み、食堂へと顔を出す。眠気の残る目尻を手の側面で拭い、水の張られた器に差し込まれていたしゃもじを手に取ると、手にした茶碗に大釜から白米をよそった。
私はかつて「鎮守府」があったという場所で暮らしている。私が目覚め、大淀や明石、赤城と会ったときにはもう、戦いというものは既に終わっていた。終わり切っていた。そして行き場を失くした艦娘たちは、用済みとなった鎮守府の建物に住みつき身を寄せ合って、日常を営んでいた。
少女たちを――形式的に――まとめる立場にある艦は、連絡のつく他の鎮守府や泊地とやり取りを重ねているという話を耳にしたが、それが暮らしに変化をもたらすことも特になかった。
ただ、他所から見慣れぬトラックが来た日は、見慣れぬ野菜や新鮮な肉が夜の食卓に並び、時折甘味も振る舞われた。
目覚めた私の記憶はまっさらではなく、故に少々混乱をきたしたが、それはいっとき壊れかけた――赤城さんはこの言葉を嫌っている――艦娘たちにままあることなのだと明石や大淀は言う。そして私自身も、私が日々を過ごしていく中で、記憶などというものは有れども無くとも、さして意味がないのだと、やがて悟ることになった。
ぼろぼろになった建物群を根城として、かつて艦娘と呼ばれていた少女たちが暮らしている。この一角が、私にとっての今の日常。
この一角だけが、私の世界のすべて。
***
雲一つない青空に、赤色が舞う。
「えい」「やー」「とうっ!」
高い声が次々に笑う。
「ずるいー、次は雷の番よ!」
「私の方にきたもん、私が打つわよ」
背の低い少女たちに交じって、赤城は満面の笑みを浮かべ、手元に回ってきた赤いボールを敵陣に打ち込んだ。
すかさず、赤毛の少女がボールを弾く。傍らで銀髪が跳ね、しなやかな肉体がアタックしたボールは、再び空を舞う。
加賀はコンクリートでできた階段に腰かけ、太腿に肘をつき、掌に顎を乗せたまま、ボールを追って視線を移動させていた。
十数名の少女たちが、ボール遊びに精を出している。白く塗りなおされた建物を背景にすると、赤城の黒髪と赤色の袴がより一層際立つように思う。
勢い良く吹きつける海風が地面の土埃を舞い上がらせ、加賀は思わずくしゃみをした。
上がる歓声から一歩引いた場所にいる加賀は目を伏せると、角が砕け欠けた白色の階段を見下ろし、乾きざらざらとしている表面を指先でなぞった。
少女たちは毎日を遊んですごしている。ボールで試合をし、海へ行って釣りをし、或いは海水浴をし木登りをし、室内で水彩画を描き、楽器を爪弾き、本の頁をめくる。
――私だけだわ。
加賀は誰の目にも止まらぬように静かに腰をあげると、広場に背を向けた。
無数の建物が肩を並べる「鎮守府」の中心には、土地を切り分けるように敷かれた幅広な十字の道が通っている。
道の脇に並ぶ、吹きつける海風によりたわんだ松にそって南へと進み、途中で左の小径に曲がると、やがて人気のない広い空間が現れる。燃え、炭化した幾つもの柱が天を指し、戦いの果てに用途を失くした瓦礫が堆く積まれた場所。
今では誰も近寄らず、ただ朽ちるに任せられている空間の中心で、加賀は躊躇いなく膝を地面についた。
両腕で重い瓦礫を除け、積み上げては片付けていく。
この空間の片隅に築かれた、瓦礫の山が連なる一角だけが、加賀のこれまでの孤独な努力を示していた。
掌や膝が擦れるのにも頓着せず、破片を寄せ、燃え尽きた木片を背後に放る。
暫く掘り進めていくと、厚い板と板が重なることで守られていた空間が現れた。内部を窺えば、未だ姿を留めているものがある。
加賀は身を伏せ、肩まで地につけた態勢で、必死に手を伸ばした。指先が限界を訴えて引き攣る。
重い板の下へ腕を差し込み、ようやく引きずりだした木製の弓は、途中でぽっきりと折れ、ささくれていた。
かつて弓道場だった場所の跡地で、加賀は膝をつき、掌に載せた半身の弓の重みを感じていた。
――私だけだわ。戦場を忘れられないのは。
もう弓の鍛錬をしにくる艦もいない。艦たちは遊びに耽っている。皆が皆、口を揃えて言う。戦いは終わったのだと口々に言う。もう戦いのための道具も、技術も、使う先はないのだという。
それでも。
それでも私は、かつての戦場を忘れられない。今にもサイレンが鳴り響き、浅い眠りを中断して外へ走りださなければならないのではないかと、いつも心のどこかで神経を張りつめさせている。燦々と日が注ぐ広場で歓声を上げる少女たちを見つめる私の背中にだけ、絶望が黒い影となって張り付いている。
私だけが、過去の戦場に取り残されている。
がらり、と土埃にまみれた手で的の上に乗っていた破片を除ける。手の甲で汗のにじむ鼻先を拭い、そのまま、顔が汚れることにも頓着せず両掌で顔を覆った。
そのとき、背後で、誰かが瓦礫を踏みつける足音がした。足音の主は力強く進み、加賀へと一直線に向かってくる。そして躊躇いなく、地面に蹲る加賀の前にすっくと立った。どこかから現れた人物の両足を、加賀は目を覆う指の隙間から見た。
のろのろと顔を上げる。仁王立ちした彼女は、自身の両手を身体の後ろに回し、もぞもぞとさせていた。それでも顔は自信に満ち溢れている。
――誰だったろう。名が。名を。
私の記憶はまだら模様を描いている。
名を思い出せぬ女性を見上げながら、甦る記憶に身を委ねる。
弓なりの月が浮かぶ雲のない晩のことだった。私たちは、食堂の机でふたり並んで食事をとっていた。赤城さんは周囲の会話に耳を傾けて笑っていたかと思うと、ふいに私だけを見るように小さく顔を傾け、問うた。周囲の喧騒がすっと遠のき、まるで世界には私と赤城さんしかいなくなってしまったようだった。
「ねえ、加賀さん。貴方は元の記憶がほしいですか。完璧な、傷ひとつない記憶が」
赤城さんは非常にニュートラルな声で問うた。
けれど、彼女の顔は私に向けられていたのに、視線は彼方を見据えていたのだ。私はそこに、彼女が抱く願いをみた。
「積極的には、それほど」
赤城さんはその答えに対し、首を縦に振った。とても静かに。だから私は続けられなかった。
『赤城さん。完璧な記憶など要らないのです。私は、あなたに関する記憶がこの手にほしいの。あなたとの思い出がほしい。あなたを見ているだけで、息が出来ぬほど胸が締め付けられる理由を知りたい。
誇り高く大海を駆けたという、そのときの風の匂いを知りたい。あなたを知りたい。私が抱いていた、あなたの記憶のすべてを』
知っている。赤城さんは特に欲していないのだ。私の心の内に燻る願いを。すなわち、私にとって、私の過去の記憶などもう意味を持たないのだ。
「……どなた、だったかしら」
加賀は両手についた埃を掃いながら、どこか霞色がかった長髪を頭の左右で結わえている女性へ訊ねた。彼女はむっとした表情でそっぽを向いたかと思うと、酷く悲しそうに両目を伏せる。白色の着物に赤く短い袴を合わせている眼前の女性の、「姉」と呼ばれていた女性を思い出す。
「ショウカク……、の、妹」
「ズイカク!」
彼女は憤りながら己の名を叫んだ。まるで我が儘が通らずに駄々をこねる子供のようだ。
「ええ、瑞鶴。確かに。失礼しました、覚えました」
「……」
「……」
彼女は、ちら、ちらと地に這いつくばったままの加賀を見遣るが、その場から動こうとしない。唇の端を物言いたげにぴくぴくとさせ、尊大に腕を組んでは、その腕の上下を落ち着かぬ素振りで入れ替える。
「……まだ何か?」
「べつに」
そう、と加賀は半ば独りで呟き、再び地を掘り返そうと、半分に割れている瓦を抱えた。
「――ない! ないわよ!」
唐突に発せられた声につられて、加賀は再び面を上げた。
「ないのよ、貴方の欲しいものは! こんな場所で今更何をしているの? もう全部終わったの、終わったって貴方も知っているんでしょ」
加賀は黙ったまま、瑞鶴と目をあわせた。まるで彼女自身に痛みが生じているかのように、顔を悲痛に歪ませた瑞鶴は、幾度も地団駄を踏み、両手を広げた。
「残ってないの、ここには、なにも!」
「……それが貴女になにか関係あるのかしら」
「ないわよ、これっぽっちも!」
彼女はわなわなと肩を怒らせ、言い募る。
「今更役目でも果たそうっていうの? 遅いわよ、遅すぎるの! 生き延びたなら生きなさいよ、することなら他にもなんだってあるじゃない。分からなくても誰かに教わればいい、なんでまた愚かに戦おうとするの、まるで、まるで馬鹿の一つ覚えそのもの」
瑞鶴は苛々と親指の爪を噛む。
加賀は汚れた自身の両手を、太ももの上でぐっと握りしめた。答えなどひとつしかない。
「……私の誇りのためよ」
ただそれだけのためよ。戦いを剥ぎ取られ、すべてを失った私に残ったものなど、汚れ切ったちっぽけな誇りひとつ。
瑞鶴は首を大きく横に振った。
「嘘ね、貴方は欲しいもののためになら誇りなんて捨てる人間よ。そんな人間が誇りに縋るなんて滑稽ね。みじめに生きるのがお似合いなのよ。……お仲間と一緒にいなさいよ!」
そう、言い捨てると彼女は走り去った。「いたっ!」と、途中で人が地面に転がる音と悲鳴がし、何事か喚きながら立ち上がって、ばたばたと足音高く駆けていく。その自由さが、奔放な感情が、酷く羨ましいものに思えた。
そうね、と加賀は汚れた両手に顔を埋める。私は欲しいものに忠実でしょう。ただそれが任務の結果与えられていたものだったというだけで。ただそれが彼女だったというだけで。それでも、私は生きようとしている。私は生きるための何かを、この瓦礫の山の中から探し出そうとしているの。
貴女にわかるかしら。それとも首を捻るかしら。
海風が空に向かって吹く。
――戻りたい、海の上へ。私の命が輝いていた、あの場所へ。
***
「鎮守府」だった土地と地続きの場所に、かつて「教会」と呼ばれていた場所がある。きっと昔は、強固な柵や壁で鎮守府と隔てられていたのだろう。
青い木々に囲まれた木造の教会は、幾度も降った雨と吹きすさんだ嵐によって、硝子は砕け、屋根は割れ、折れた柱が剥き出しになったままだ。一度雨が降れば終わりなく、屋根から雨水が滝のように祈りの場へ流れ落ちる。
教会が教会として機能していた頃に据え置かれていた像は、戦いの結果粉々に砕けていた。だからなのか、悪戯になのか、今は代わりに誰かが置いた粗末な作りの菩薩像が、無造作に鎮座している。
たとえ悪戯であったとしても、それを置いた誰かの何ものかへ縋りつきたい気持ちは、菩薩像を目にした皆が理解していただろうと、加賀は思う。
彼女は気づくとそこにいた。ふと周囲に姿が見えないことに寂しさを覚えても、教会に行きさえすれば、そこに赤城さんはいた。
彼女は飽くことなく、切り裂かれた果てにある青空を、壊れかけたベンチに腰かけて見上げていた。
硝子の破片を踏み砕くという失態によって不躾な音をさせた私に対し、長く美しい黒髪を揺らめかせた彼女は、まるで聖なる母のように私へ微笑みかけてくれた。柔らかな声で、やさしく問いかけてくれた。
「あなたは、なにを祈りにきたの?」
――赤城さんは、私が何かしらの言葉を捻りだして、彼女に付け加える、そんな必要などどこにもないほど完璧なひとだ。私の発する言葉が無力であるばかりか、下手をしたら、彼女を褒めている心算の私の言葉で、誤って彼女を汚してしまうのではないかと一抹の不安を感じるほどに。完結しきった、美しいひと。だから私は彼女に声を掛けられるたび、緊張で頭が真っ白になり、まるで怒っているような、気遣いのできていない固い声で返事をしてしまう。
私は彼女を前にすると自分でいられなくなってしまうのだ。
けれど、そんな些細なことを気にしているのは私だけだ。なにを祈りにきたのと問われた私は、口ごもり、曖昧な声を出して、じっと身をかため、二人の間の空気をぼかそうと無意味な努力をする。そして気づく。
柔らかな視線で意味のない努力をする私を見つめていた赤城さんは、ふと一瞬目の焦点をずらし、私を越えたなにかを見る。私の内部にある、なにか別のものを見通そうとする。
それがわかっていてもなお、私は彼女に声を掛けられたという事実に、自分を見失いながら、どうしようもなく胸を高鳴らせてしまうのだ。
「ねえ加賀さん」
「……はい」
赤城は冷えたベンチから立ち上がると、袴についた汚れをはらった。
「ご存知ですか? 今日、間宮さんがお八つにアイスを振る舞ってくださるそうです。よければ、一緒に行きませんか。ご馳走になりましょう」
「……ええ、いいですね。楽しみです」
はたはたと裾を翻す海風に吹かれながらふたり、鎮守府の道を歩む。私はまるで母鳥の後ろをついていく雛鳥のように、赤城さんの背を追ってとぼとぼと進む。
前を行く赤城さんの背中に手を伸ばし、どうか私を見てと訴えたいけれど、もしかしたら私に見てもらうべき価値など、どこにもないのかもしれない。
誰かに何かを祈ることももうないけれど、もし何かを祈れと言われたなら私は――再び赤城さんの隣に立ちたいと、願うだろう。戦いの記憶すら失くした癖に、私に背を任してくれる彼女を想い、かしずき、守ってみせたいと、時折叫びだす己の心に潰されてしまいそうになる。
それが実現したところできっと彼女は、にっこりと笑って、そのままするりと私の手元からすり抜けていくだけだろうに。
道の途中で、甲高い叫びと共に、色褪せた揃いの制服を着た駆逐艦たちがわらわらと現れ、赤城と加賀を囲んだ。揉みくちゃになりながら、少女たちが赤城の腕にぶら下がる。皆、目指している場所は同じだった。
冷え切った陶器が、掌に吸い付く。加賀は自然に赤城たちから距離を取って、離れた場所でひとり腰を下ろし、緋毛氈の上に右手で持っていた熱い湯呑を置いた。
左手に持つ白色の器には、乳白色のアイスクリームが盛られていた。緑の葉と薄いウエハースが添えられている。加賀は器をこつ、こつと匙でつつく。
掬い取り食んだ甘くなめらかな氷菓子が、舌の上をすべる感触に思わず項の毛が逆立った。
「タイヘンね」
加賀の背に背を向けて、同じ縁台にどさりと座った女がぼそりと呟いた。
「……貴女も大概暇なのね、瑞鶴。貴女、私に構いすぎだと思わない」
「名前を憶えていただけて光栄って言うべきなのかしら」
「一度教われば忘れないわ」
「……」
瑞鶴は慎重に、深くため息をついた。
「……赤城がそんなに特別? ふん、あなた、もう恋も愛も関係ないって表情で。……いいえ、違うわね」
瑞鶴は半ば独り言ちるように、低くぼそぼそとした声で続けた。
「貴方はいまだそこへ至ることが出来てないのよ……貴方も『大概』大変ね。……『彼女』はもっとタイヘン」
そうして瑞鶴は肩を竦め、呆れ果てたように笑った。やがて瑞鶴は立ち上がり、翔鶴が腰かけている縁台へと移動していった。
加賀は匙を咥えたまま、離れた場所で笑う赤城を見遣る。開かれた場に差す日光が眩しく、目を眇めた。
――私はひとり。ここにはこんなにも多くの艦がいるのに、私はひとりぼっち。
それが何故か、とても正しいことのように、加賀には思えた。
***
自由に枝を伸ばす緑をかきわけて、敷地の外れにある教会に行く。加賀が足を踏み入れたとき、教会の中に人影はなかった。
焼け落ちた木材を跨ぎ、割れた硝子を草履で踏みつけながら、枠だけが残った窓のそばに腰を下ろす。
ツン、とアルコールの匂いが鼻を突いた。もぞり、と窓の外で蠢く気配がする。
「頂戴」
加賀は背後を振り返ることもなく、宙へ視線を遣りながら背後へ手を差し出した。
「アー、ぁあ。……っ」
窓の外に広がる地面の上に直接寝転がっていた誰かが、悪態をついた。褒められたものでない単語が発せられても、加賀は眉を顰めもしない。
「タイ、クツ。……ええ、退屈」
白くしなやかな手が窓枠をくぐり、加賀の隣に突き出される。その長い指先に挟まれていた煙草のソフトケースを無造作に掴み受け取ると、加賀はその白い手の内に、自身が持っていた軍票をねじ込んだ。
のろのろと引っこんだ手の主が、苛立ちも露わに唸る。
「ぁあ、耐えられない。最悪。……毎日毎日、わたし、なんで生きてるのかしら……。いや、嫌。退屈で死ぬ。……ぃぃ、死んだ方がマシ。これなら死んだ方がマシだった。でも嫌、戦いなんて二度といや、あんな海、戻りたくない。終わらない退屈もいや、いや、嫌……」
「ねえ、燐寸を持っていない?」
ぴたりと止んだ怨嗟のあと、暫くゴソゴソと探る気配がし、唐突に力なく燐寸の箱が窓枠越しに放り込まれた。
くたりとした使いかけの燐寸の外箱を汚れた床から拾い上げ、内容量が半分以上減った燐寸の中から一本取りだすと、慣れた手つきで頭薬を箱の側面で擦り、咥えた煙草へ火を近づける。
加賀は深々と息を吸い込みながら煙草に火をつけ、手をブン、と振って燐寸の炎を消す。
咥えた煙草の煙で肺を満たしながら、燐寸箱を窓枠越しに投げ返した。
煙草をくゆらす加賀の背後で、少女は再び呻く。
「こんな場所、出てってやる。……出てみせる。もういや、耐えられない、私もあなたみたいに忘れられたらよかったのに……記憶を消したい。……きっととてもすっきりする……退屈、退屈すぎる。でも、もう、もう戦いたくない……出ていくの……」
ここから出ていくの、と言った声は涙と鼻水で濡れていた。言葉の合間合間に、鼻をすする音と、酒を呷る気配が混じる。
――そうね。
貴女が記憶も過去も嫌なことすべてを忘れることが出来て、代わりに私が記憶を――赤城さんの記憶を、戦いの記憶を、取り戻せていたなら世界はとても素晴らしかったでしょう。
けれど現実では、私はまだらな記憶を抱えた壊れかけの艦で、貴女は貴女で自身に焼けついた記憶を振り払うことも、なかったことにすることもできない。
私は戦いに恋い焦がれながら退屈なこの地にいて、貴女は全てを恨みながら、それでも退屈で苦しみしかないこの地を離れられない。
世界はいつだって不公平で、欲するものを与えてくれない。それが日常、それがすべて。
きっとそんなこと、私も貴女もとっくに知っている。改めて言葉にして、確認せずとも。
床に座って紫煙をくゆらせていた加賀は、ふと思いついたように自身の胸元を探った。
特になにも考えず、目覚めたときからずっと首に下げている、古びた御守り。加賀は指先でつまんだ、生地の黒ずんだそれを、まるで初めて見た物のように矯めつ眇めつ、鼻を近づけてみた。くん、と臭いを嗅いでみれば濃い潮の匂いが鼻を刺す。
折り畳まれている上部の布を開け、目を細めて御守りの内部を見た。背後から差す日光によって、収められていたものの輪郭が露わになる。
――それは、人の毛髪だった。黒く、艶のあるそれは一房に纏められ、両端は綺麗に切り揃えられている。
加賀は思わず身をかため、自身が知らずに身に着けていた誰かの髪を、じっと凝視した。時が止まる。
じじ、と燃えていた煙草の先から、ほろり、と灰が御守りを掠めて落ちる。
加賀は慌てて袴に落ちた灰を掃い、深く煙草を吸いながら指を動かして御守りの上部を元通りに畳む。そのまま胸元の奥深くにねじ込んだ。
厭な汗がこめかみを伝う。煙草を指で挟み、落ち着かぬ様子で幾度も吸った。
――誰の。
加賀は首を振った。些末なこと。どうでもいいこと。考えてはいけないこと。平和なここでは無視すべき事柄。そう、きっとそう。
大体、誰に聞くというのだ。私が誰の髪を首からぶら下げていたのかなどと。
加賀は指に近いところまで燃えていた煙草を床に押しつけて火を消した。
膝を立て、項垂れた頭を両腕で抱える。
「……楽になりたいの……」
そうね、私もそうよと言ってあげたところで、背後の彼女が楽になる日など、来るはずもないのだ。これ以上安楽な場所など他にないというのに、私たちは囚われたままだ。
「……だれか……」
***
夕陽は毒々しいほどに朱く、建物の残骸の影が長く伸びていた。その傍らを幼い少女たちの影が駆けていく。
『きえた、きえた』
『誰かがきえた』
『だーれが消えた』
『どーこへ消えた』
『きえた、きえた海のさき』
『行ったあの子は』
――あの子の姉妹に会えたのかしら。
遠く響く歌声は、誰の声かも判別できない。
加賀は堤防沿いにぶらぶらとあてどなく歩いていた。この鎮守府跡には、飽和した時間だけが溢れている。
赤い空と赤い海の境目へ飛び出た防波堤に、一人の人影があった。
防波堤の先端に座し、背を丸めている少女は、色褪せた水着の上に服の上着だけを羽織り、水平線をぼんやりと見つめていた。
加賀が背後に立っても、彼女は特に反応しなかった。
「イヨちゃんがね……」
掠れ、途切れ途切れの声は平坦に喋る。まるで、加賀ではなく、海と対話しているかのようだ。もしかしたら、彼女はそのつもりなのかもしれない。
「木登りをした日に、おいでって言ったの……。ここまで、おいでって……。怖くなんかない、コツを掴んじゃえば簡単なのよって……」
「戦いに出た日もそうよ……。私についてこれば怖くない、コツを掴んじゃえば簡単なのよって……」
潜水空母の少女は小さな肩に華奢な手を回し、敵から身を守るように身体を縮めた。
「でも、簡単じゃなかったのね……」
「私、贅沢は言わないわ……。みんな、忘れてくれていいの、私たちのことなんて。……次の新月に消えるのは、私ね。イヨちゃんの声につられて、出ていくの。出ていきたいの。あの子に会って、『大丈夫?』って尋ねられたい……。あといっかい、それだけ、それだけでいいの……」
「呼んでくれると、いいわね」
加賀の声にうっそりと顔を上げた少女は、そこで初めて加賀の存在に気がついたように曖昧な笑顔を浮かべ、一言「ええ」と呟いた。
寝返りをうつと、くたびれた毛布が身体からずり落ちた。ぱちり、と目を開ける。
夜半、広間では何人もの艦が布団を敷き、夢の中にいる。時折誰かが咳をし、小さな鼾が響いた。
幼い艦が幾人も、加賀と赤城の布団を取り囲んで雑魚寝をしている。雑魚寝にもつれ込んだ日、赤城は決まって加賀の布団に入りこみ、密着して加賀と共に寝ようとする。
赤城が横にいて、幾人もの艦の寝息に紛れて赤城の吐息の温度までわかる日に眠ることなど、加賀にはできなかった。
誰も起こさぬよう、細心の注意を払いながら加賀は立ち上がり、布団の海の間を縫って歩み、少し開いていた引き戸の隙間から廊下へ出た。
涼しい風につられ、草履をはいて外に出た。
満天の星が上空にあった。夜空にもかかわらず、青空と形容したくなるほど晴れ晴れとした空が一面に広がっている。
細い月を追って、加賀は静まり返った鎮守府の道を歩んだ。四角い影と化した建物が後ろに流れていく。やがて現れる荒れ果てた廃墟の間を抜け、生命の蠢く森に続く野原を往く。
辛うじて人が作った道の残る草原の途中で、私は背後を振り返った。
悪戯がばれてしまったといわんばかりの顔をして、加賀の後ろをついてきていた赤城は笑った。
私はとうに気づいていたけれど、困惑してしまい右にも左にも進むことが出来ない。ただ、貴方から離れるために外へ出てきたのに、こんなに遠くまでついてくるなんて想定していなかった。可愛らしく笑ったままの彼女は言う。
「私は貴方についていくだけですよ」
その言葉に背を押され、再び私は歩き出した。けれど、分岐点に差しかかると、ちらりと赤城さんを振り返ってしまう。
――これは私の弱さだ。
赤城さんは言う。ねえ、蛍を観たくはありませんか? 私たちの左手には――よく見えないけれど――獣道があって、水を汲んで飲める小川に続いているんです。
そういわれては、従うことしかできない。私は左手に広がる木々の影を綿密に観察し、赤城さんの言う道に茂る藪を掻き分け、進む。
木々や雑草が鬱蒼と茂っていたのは最初だけで、暫く行けば歩くことが難くない道が伸びていた。
赤城さんは嬉しそうに、昔はここを車で走っていたのよ、と草履にまとわりつく、ぬかるんだ土を踏みしめながら言った。
これといった会話もなく、時折現れる藪を手で押して除けながら歩を進める。そのとき、ガシャン、となにかを踏んだ。
訝しげに見下ろせば、腐った木材と墨で襤褸布に書かれた文字。薄汚れ、所々虫に食われ、読解することが出来ない。
首を捻る私に、赤城さんは優しく告げる。
昔は左右に上下、内外に過去と未来、そういろいろ区別して争ったり対立したりしていたのよ。
でも、私たちにはもう関係のないことねと、私にはよく理解できないことを言って笑って、私を追い越していった。
私は藪の影に紛れた赤城さんにむかって叫ぶ。
「私には『赤城』と『加賀』の区別以外、意味を持ちません」
ふふ、と含み笑う声だけが私に届く。
「私は、わたしとあなたの区別さえ無くてもいいと思っていますよ」
その言葉が意味することをはかり損ねた私へ、小川が流れ、そこだけぽっかりとひらけている空間に辿り着いた赤城さんは、両手を思う存分広げて気持ちよさげに言った。
「ごめんなさい、かたい話なんてする必要はないわ。だってこんなに空が綺麗なのに!」
紺の空に黄金の星が散る。数え切れぬ蛍が求愛の光を放つ。その真ん中に立つ赤城さんは光り輝いていた。
私にとって、美しいものは赤城さんだけ。私の想いは、貴方にだけ愛を降り注いでいる。なのに。
なのに私たちは。
――私は、優雅に舞う彼女の手を、とることすらできない。
水の甘い匂いが私たちの間に満ちる。深い夜は静かに、私と赤城さんをくるんでいた。
***
炎が包む。
熱が私たちをくるむ。
燃え上がっている。鎮守府から黒煙が立ち昇っている。
海も空も灼熱で染め上げられている。
けれど、私は行かなければ。たぷたぷと波打つ真暗な海へ足を下ろし、穏やかな波を裂いて走り出す。
手にした弓を、固く握りしめた。
――艦たちは噂している。女がすすり泣き、悲痛に叫んでいるような風の音が海の上をすべり、響いているのだと。娘たちにかつて経験した戦場の記憶を呼び起こすそれは、新月の夜に失くした姉妹の声と化して、声を聞いた娘たちは真暗な海の果てへ出ていってしまうのだと。
彼女たちは海の果てで愛していた姉妹の残像を見、愛しい姉妹の腕に抱かれ眠るのだ。
馬鹿馬鹿しい。私はそんな声など必要としないわ。
「加賀さん」
私は救う。救ってみせる。姉妹の腕に抱かれたくなどない。私の目の前で砲弾を身に受け、赤い炎をあげながら海へ沈もうとする赤城さんがいたなら、私はその身を私の両腕で抱き、たとえ互いの役目がなくなったとしても共に陸へと帰りつくでしょう。
目印すらない大海の底になど沈めない。そんなこと私は認めない。
「加賀さん」
私は全身の力を振り絞って、己の傷が痛みこの身が二つに折れようと、全力を出し切って貴方を海から引きずり上げるのよ。赤城、沈みそうなら私を見て。私の手を見て。
私とひとつになりたいと言ったわね。
ならばその誓いを果たさせましょう。あなたを救うことだけが私の祈り。それだけが私のすべて。ええ、私のすべてだった!
――重なる掌。汗ばんだ体温が私の背骨を貫いた。
手をつないだ私たち。赤城さんは遠くを見つめ、謡うように呟いた。
次はくらげに生まれ変わるの。
――くらげに?
ええ、ぷかぷかと海のなかを揺蕩うくらげに。
一面に広がる夜空を見上げながら、光る星々と、あたたかな色をした月をながめて、熱せられた海や、氷の浮かぶ大海に抱かれて、じっと波の音を聞くんです。いつまでも、いつまでも。きっと、飽きることなんてないわ……。
――孤独ね、と皮肉気に呟いた私を、彼女は微笑みながら振り返る。赤城さんは私の気持ちなんてとうに見抜いている。
あなたと共に、ふたりくらげになって世界中の海を巡るのもとても楽しそうね。でも私はもう、何かの具合で離ればなれになるのは厭なの。ねえ、わたしたち、同じくらげになりましょう。溶けあって、同じ身体になったくらげがいいわ。
同じからだで、もう離れることなんてないって、あなたをずっと感じながら、あなたと海を漂いたい……。ずっと、ずっと……
身体が痛い。身体が熱い。苦しい、苦しいの。日々が苦しい、微睡みのなか、あなたにあやされるばかり。私はあなたを救いにいく、終わっていない。
戦いは終わっていない。
終わっていないの、私はまだ終わっていない!
衝撃で、は、と意識が醒める。胸元から濃い潮の香りがする。揺さぶられている。海に揺さぶられている。
真っ暗な海の上で、水音だけが世界を作っている。塩水が、潮の風が私にまとわりついている。地球は波を幾度も岸に打ちつけている。
半分海に沈みかけた私は、一人きりではなかった。まろい身体に背後から縋りつかれていた。姿をみなくたってわかる。私の後ろから抱き着いて、私の身体を止めようとする人など、ひとりしかいない。
彼女は打ちつける波に足をとられながら、海の上をすべろうともせず、ただ一心に私へ縋りつく。
耳元で涙混じりの濡れた声を絞り出す。
私へ。
私へむかって。
「あなたは何度だって私を置いていく。あなたは戦場の『赤城』を救うために、何度も私を置いていく。
私を陸に置いていくんです!」
その声を耳にした瞬間、私は全てを思い出す。
赤城さん、あなたは私を何度も連れ戻してくれた。壊れかけ、記憶を失くしても、あなたへの愛を見失っていても、私を引きずり戻してくれた。
新月の、深い深い海の底から。
これは現実、だってこんなに。
頬を伝う涙が、あつい。
