艦これ

 遠い記憶の中で、人々は豪華で広いホールを埋め、互いに祝いあっている。朗らかな笑みを上品に浮かべ、手と手をとりあい、彩りのいい食事に興じながら戦果を褒め称えている。相手を見つけては肩をたたき手を握る。私は壁の花となってちびちびと甘い果実酒を啜っていた。そう、珍しいことに酒まで出ていたのだ。けれど私は鎮守府に来たばかりで、話をする相手も、誰かへ誇れる特別な戦績もなかった。
 人の数は夜が更けるにつれて徐々に減っていき、最後は複数の艦娘と、場をお開きにしようとする提督だけが残っていた。私はベランダに持ち出した椅子の上で体育座りをして、完璧に磨かれた硝子越しに、煌々と光る室内で繰り広げられる人間模様を観察しながら湿気たブルスケッタを齧っていた。きっと私にも、部屋へ帰るのが億劫なくらいにはアルコールが回っていたのだ。
 金かオリーブのニュアンスを帯びた髪の女性へ、コンゴウとしきりに呼ばれている女性が何事か囁く。二人は心底楽しそうに笑い声をあげて、囁きかけられた女性が、ピアノの椅子に腰かけた。一段だけ高くなった板張りの舞台に鎮座するピアノの蓋を慎重に上げる。
 ヘーイ提督ゥ、あなただけが男性デスネ。リードするのデースと、無邪気な誘いと共にコンゴウが提督の手を取った。まるでコンゴウがリードしているようだ。ピアノの音が静かに流れだす。たしかバッハの舞踏曲だ、と曖昧な分類だけはわかったが、詳しいことは知らなかった。ここへの異動を命じられる前、私が在籍していた鎮守府の提督は芸術とその作品というものの価値を認める人ではなかった。単純に、彼が個人的に興味を持っていないというだけならばさして珍しくもなかっただろうが、彼は芸術や娯楽というものは艦の精神を惑わし戦いや生活の規律を乱す害悪であると断じ、芸術作品の所持や芸術行為を一切禁じていた。向かいの部屋の重巡は、箪笥の内側にこっそりと貼っていたダリの図版を破られていたし、戦艦の持っていた、古すぎてページが落ちかかっているガリバー旅行記は飯を炊くための火種となった。偶然私と同室だった軽巡は、私はここへきてすべて捨てたわ、私の愛がつまったレコードの山を。と澄ました態度で言って、暫くしてから耐えられずに破顔した。
 ふふふ、本当はね、捨てるふりをして友人に送ったの。幾つもの箱を、こっそりと、高いお金をかけて友達に送ったの。ばれたら駄目だと思って、街に出て民間に配達を依頼したのよ。けどね、けど、私もう一度あのレコードを聴きたいのだけど、その友人は海の上で死んでしまったそうなの。私のレコードの山は何処へ行ったのかしらね。私にはわからない……。
 そう言って、それでも彼女は笑っていた。別の雨の日、休みだった私に、同じく休みだった彼女は絶対に誰にも言っちゃいけないわよと重々しく私に警告して、これだけは取っておいてあるのと、シェヘラザードと書かれたレコードを取り出し、様々な艦の部屋を渡り歩いて提督の目から逃げ続けているレコードプレイヤーを畳の上に置いた。
 私は生まれてすぐその鎮守府に配属されたので、軍楽隊以外が奏でる音楽というものを聴くのは初めてだった。スピーカーから生まれる音が私の心にぽつり、ぽつりと沈み込んでいく。なんと言ったか正確には思い出せないけれど、私は彼女にむかって、なんだろう、このあたりが痛いと胸を指で指し示した気がする。彼女は笑うだけだった。
 そのあと、彼女も私と秘密を共有したことで遠慮がなくなったのか、時折レコードプレイヤーを借りてきては(それは彼女に嫌なことがあった日が多かった)、夜中に針を落とさず、じりじりと回るだけのレコードを見つめながら、私この曲だけは二度と聞かないと思うわ、もしも私に自由というものが与えられたのなら、と昏い目をして呟いていた。
 軽快なリズムと共にコンゴウと提督が、室内で輝くほど磨かれた床の上をくるりくるりと回る。囃し立てていた艦たちも、やがて友人同士、姉妹同士で手を取りありステップを踏み出した。するすると音を生み出す女性の横では、銀の髪をした女性が目を閉じて、気持ちよさそうにリズムをとる。三拍子でナチュラルターンを繰り返す。シュトラウス、グングル、あれは誰だっただろう、波濤をこえて……。
くるくると回る。陽気に笑い、酔った勢いで時折ぶつかってしまっては笑ってまた回る。人々は祝っていた。平穏な生活と、大量に殺された深海の生き物たちを。
 舐めている林檎が発酵した炭酸酒は甘かった。新たな鎮守府に広がっている「自由」のように。


 ***


 懐かしい夢を見ていた。締め付けられるような頭痛の中で目を開けると、室内はすっかり明るくなっていた。数度乾いた眼で瞬きをする。重い体を起こし、顔中にしたたる汗を拭う。下着姿でもじっとりと蒸す暑さにはかなわない。髪へ手を入れ数度かく。縺れる髪の中には熱と汗が篭り、湿りきっていた。隣の寝床に、共に眠る少女の姿はない。汗をかいた下着姿のまま、部屋を出ようと建物と外部の境界に下げられた織物を持ち上げる。
 思わず目を閉じる。世界を焼き尽くしそうな白い光が脳天を貫いた。凄まじい生き物の鳴き声が絡み合いながら自分勝手にがなっている。息を吐いた。遠くで光る湾へ私も行かなければ。重い体と痛む頭を抱え足を踏み出す。人のいない楽園へ。

 *

 練習巡洋艦を旗艦にして港を後にするとき、戦意高揚のための音楽隊も、見送る人々も一人として存在していなかった。私たちは混乱を極めている上層部の命令だけをもって出発した。任務内容は、南方の深海棲艦を殲滅せよ。
けれど旗艦のカトリは違うことを言った。島の人々を本土に避難させる手助けと、制海権の維持が本来の目的なのだといった。私がなにかをいえる筈もなく、ただ命令のままに、と敬礼した。
 私たちは命令に従い南方へと下った。熱帯に近い島へ到着するまでに、敵の駆逐と潜水艦を何体か沈めた。わずかな数だったので、この方面に組織だった敵の艦隊は展開されていないのだろうとカトリは言った。警戒態勢のまま闇に包まれた島へ気配なく上陸する。
 私は忘れないだろう。航海の果てに、明かり一つない島へ上陸する。私の体は海水と汗でべたつき、セーラー服が素肌へしつこくまとわりつく。足は棒のようになり、熱を発するほど疲れ切っている。泥濘の中を一歩、また一歩と進んだ。正体の分からぬ鳥が黒々と繁ったジャングルの中から甲高い警告音を発する。事前に指定されていた目的の集落には、人っ子一人として存在していなかった。迎えも住民も敵もいない闇の中で、見放された建物が息衝いている。
 立ち尽くしていた。暗黒の海と海鳴りを超えた果ての島には、守るべき人も戦うべき敵もおらず、私たちはなすすべなく立ち尽くしていた。なにか、なにか手違いがあったのだろうとカトリは言う。残念なことに、戦が進み混乱した上層部は、似たような間違いを繰り返していたので、その推測を否定することはできなかった。カトリは私たちが上陸した東の湾を当面の泊地にすると宣言し、私たちは従った。名案のあてなど誰にもなかった。
 夜中にふと泥のような眠りから目覚めたとき、テントの外から声がした。カトリとタツタ姉妹、そしてキタカミが低い声で断続的に、深刻に話しあっていた。話は落としどころが見つからず、意見は堂々巡りをしているようだった。そのとき私は気づいたのだ。話しに呼ばれない理由も、私がここにいる理由も。なあんだ、私はゴーヤのお守りだったのか。ため息をついて、一人寝を嫌がるゴーヤを胸に抱き、再び眠った。すやすやと寝息を立てるゴーヤは汗くさかったけれど、柔らかくてとてもあたたかかった。
 次の日、支援艦隊が朝早くに到着した。支援という任務の呼び名には釣り合わない、大型艦ばかりの艦隊だった。こんな辺鄙な無人の小島に彼女らが現れて、一体本土の防衛はどうなっているのかと私でさえ訝るほどだ。カトリの表情は昨日より一層深刻になり、血の気の下がりきった紙のような顔色をしていた。彼女は眉を寄せ厳しい顔をして、なぜ連絡なくこんなイレギュラーなことばかり起こっているのか、提督は、司令部は、なぜ鎮守府と連絡が取れなくなっているのか、と到着したばかりの旗艦のムツに情報を必死に乞うていた。
 電信応答なし。無線応答なし。
場を読まないゴーヤがぐずる。「お腹が空いたの、ごはん食べたいでち」私の草臥れたセーラー服の袖を引っ張るゴーヤを見かねてキタカミが与えてくれたレーションを、テントの傍らの岩の上に座り、二人で共につついた。

 *

 水源に近い近場の池にゴーヤはいなかった。予想が外れて気の抜けた私は水の流れに沿って川の脇を下る。右手に広がるジャングルには毒々しい色の花と、限られた種類の果実が実っている。地を歩く動物は滅多に見かけない。我々への警戒心は随分と強いようだった。彼らの気配は、夜更けに遠くでわずかに感じるだけだ。ぬかるむ土を裸足で踏みしめる。湾へは十分ほど歩けば到着する。当初は上陸した湾に泊まっていたが、いつからか皆好き勝手に個々の居を構えるに至っていた。カトリでさえ、湾に近くとも、かつて誰かの家であった建物で寝起きしている。
 澄んだ水がある。崩れかけていても雨を凌げる家々がある。耕されていた土がある。果実があり天候のいい湾がある。
 真っ青でどこまでも広がる天地がある。
これ以上足りないものなどあるのかしら。数日前に、そういってミョウコウは笑っていた。
「遅いでち。遅刻でち。……もう皆集まってるよぉ」
湾の手前へ人工的におかれた巨岩の上で、うつ伏せの姿勢で寝そべったままゴーヤは口を尖らせた。
「時計の電池がもうないんだもん。目覚ましが使えないの。それに話すことだってないでしょ」
「たるんでいるぞ駆逐艦!体内時計を使って毎朝起床しないか!」
私は反射的に背筋を伸ばし敬礼した。冷汗が背を伝い、全身に鳥肌が立った。知っていたなとゴーヤを睨むとそっぽを向かれた。岩の背後に隠れていたナチが冗談半分で私を叱責する。だがのんびりとした声で「あらあ、今朝貴女を起こしてあげたのは私だったじゃない」とミョウコウがナチをからかったことで、その場の空気は緩んだ。
「う、うるさいっ。そんなこと今言わなくていいだろう!」
賑やかな声につられてきたのか、テンリュウが大量の果物を抱えてあらわれた。黄色い、甘酸っぱくて味の濃いそれはゴーヤの大好物だ。その証拠に、ゴーヤは身を起こしあからさまにソワソワしている。
「おう、だらしない恰好してんな」
と私に言うテンリュウも、下着どころか下一枚の姿だ。胸元も露わに近づいてきたテンリュウは、銜えていた貴重な煙草を私の肌へと近づける。じゅうう、という音と共に私の肌へ食らいついていた蛭が焼け死に、地へ落ちた。
「気をつけろよ。医者なんかいねえんだからさ」
そう肩をすくめて忠告すると、抱えていた果物を私へ放り投げる。その内の一個を見もせずゴーヤへ手渡してやりながら、私はテンリュウへ問うた。
「かわりはありませんか」
「ないない。なんもねぇよ」
背中ごしに答えつつ気だるそうに彼女は去る。ミョウコウとナチも、いつの間にか全裸になって川の中でじゃれあいながら水浴びをしていた。気温が上がればじきにスコールがくるだろう。その前に綺麗な水で身を清めておきたいのだ。隣のゴーヤは与えられた果実の皮を?くや否や口周りを果汁で汚しながら貪り食っていた。
「……なんでち?」
阿呆な顔をしながら桃色の髪をした少女は首をかしげる。私は無言で、ゴーヤの汚れた口元を舐めてやった。柔らかな産毛が、ざり、と舌にあたる。

 南北に細長いこの島には、東に湾がある。南には私たちがねぐらにしている集落があり、西の小高い山とジャングルから湾へ向かって川が伸びている。南の集落から沼地のように粘つく湾の砂浜を通り、ジャングルの際をまわりこむように歩いていくと、北側の奥にぽつりとあるもう一つの集落に行ける、らしい。
らしい、というのは、支援艦隊がついた日にカトリやアカギやムツが北へ偵察をしに行ったのだが、私たちやコンゴウは南の集落の探索を命じられていたからだ。そして帰投したカトリとムツによって、北の集落とジャングルの中へ許可なく侵入することが厳に禁じられた。もとより、いつの間にかゴーヤのお世話係となってしまった私が単独で行けるはずもなかった。

 私たちがこの島へ来ることを命じられたときにはもう、昔のように浮かれて勝利を祝う雰囲気など残っていなかった。深海棲艦は世界中の海という海を、陸という陸を無秩序に制圧しようとし、そしてその目的を半ば達しつつあったからだ。一つ、また一つと連絡のとれる国は減り、人をやって確認しようにもやった人間が戻ってくることはなかった。なぜ私たちの住む小国が、しかも海に面している国が無事なのかわからぬくらいに。だがやがて島は次々に敵の手に落ち、本土が戦場となって、戦況は人々に相応の覚悟を迫っていた。それでも私たちは海に出る。海の上で戦うことしかできない私たちは、友が沈み帰らなくなっても、幾度己の体が傷つき修復さえままならずとも海に出た。そう、音楽隊などもういなかったのだ。カトリが前線へ出るのは、人を育てる余裕も育てるべき人間もいないからだ。
 この島に辿り着いた私とゴーヤに、皆はなにも言わない。けれど私たちは知っている。我が艦隊が到着した際にはもう、この島の人々は生きてなどいなかったのだ。私たちは海上で、息絶えた島民の上を移動してきたのかもしれなかったのだ。

 *

「ゴーヤ、水浴びしよう。それか畑の様子を見に行って、家へ帰ろう。昼になる前に」
私の声にゴーヤは顔を上げた。口に含んでいた種を吐き出し、両手にまとわりつく果汁を熱心に舐りながら、りょーかいでち、と素直に返事をする。私たちは他の艦たちから疎外されている。主に情報を与えられないという意味で。でも特に不満はない。私たちは幼く、情報を分析し、艦を使役し、大局を判断する訓練などしたことがないのだから。
 ゴーヤは擦り切れた水着のまま川へ飛沫を上げて飛び込んだ。私も下着を脱ぎ、ぬるい温度の深い川へ潜る。汗と垢を擦り落とし、魚のようにゆるりと泳いで深みへ体を沈ませては息のために浮上する。
 いつスコールがくるのか予測できない、まとわりつく湿気に包まれた島で、皆服を着ることを止めていた。それは湿気だけを理由としているのではなくて、帰還する際に誇り高く頭を上げるために衣服は貴重だという名誉の問題もある。私のセーラー服は幾度かのスコールのあと、清流で洗い、干されて丁寧に畳まれ家の片隅で埃を被っている。
 潜水していたゴーヤが唐突に、不自然に浮上して怯えたようにきょろきょろと周囲を窺うと、素早い動作で既に上がっていた私に抱き着いた。
「ここにいてね。離れないでね」
全身をびしょびしょに濡らしたゴーヤが、半ば泣きながら私の薄い胸へ顔を埋める。
「大丈夫だよ、どうしたの。ちゃんといるよ」
ゴーヤはしばらくべそをかいて、そのまま二人手をつないで浅瀬を潜った。ゴーヤは無邪気だけれど、心のどこかは不安で覆いつくされている。私だってそうだ。国で何があったのか、私の残してきた姉妹は無事なのか、いつまでここにいればいいのか、カトリとムツは何故暗い顔をしながら沈黙し続けているのか。……ここはいつまで無事なのか。疑問に限りはない。
 私たちは、……私は、叶うなら姉妹のもとへ帰還し、その腕で優しく抱きしめられたいのだ。私とゴーヤは同じ願いを抱いて、互いの小さな手を握りしめている。私に与えられた救いは、この白くふやけた頼りない小さな手のひらと、宙を舞う紙のように翻弄される未来への希望だけだった。


 ***


 昼間は出かけようと室内で本を読んでいようと誰にもなにも言われなかった。艤装はここへ来た当初こそ毎日手入れをしていたけれど、機械油が底をつき、布で磨いても錆に覆いつくされ火薬が湿気ってしまってから、もう随分な時間放置してあった。今ではお守りのように、畳まれた制服の隣で鎮座している。きっと皆そうなのだろうと思った。私たちは長い間争いから遠ざかっている。私たちは海上で戦うこともなく、毎日日光を浴びては果実を齧り、川で泳ぎ、そして眠りながら戦火に燃える故郷の夢を見ている。
 日中には、一時的に島の本拠地となった湾の傍の家とその周辺へ艦が集まりだす。とは言っても、人寂しさを感じている艦と、責任を感じている艦と、行き場のない艦だけだ。午後になると天と地が繋がってしまうのではないかと思うほどの雨が、急速に広がった雨雲から島全体に降り注ぐ。うっかり外で雨粒を肌に受けると、痛みを感じるほどの勢いだ。水と混じり跳ねる泥のにおいとジャングルの息苦しささえ抱かせる濃密な酸素、植物が放つ青い匂いで胸が焼ける。私はまとわりつくじっとりとした空気に嫌気がさしてごろりと寝ころんだ。ゴーヤは午前に水へ入ったことで疲れたのか、すうすうと寝息をたてて昼寝している。
 「これ掛けなよ」とキタカミが寝ころんだ私へ布をかぶせてくれた。「ありがとうございます」と返しながら、ゴーヤと半分ずつ被れるようにもぞもぞと横になった。滝のような白い雨を入口越しにぼんやり見て、蚤を一匹、二匹と潰した。キタカミは薄暗い部屋の片隅で、古びた戯曲集のページをめくっている。
 ちっとも動かないキタカミの瞳に、近頃彼女が笑顔を見せないことを気づかされた。遠い声が雨音に紛れる。女の叫びだ。コンゴウが笑い声をあげながらスコールの中へ飛び出す。水に濡れて重くまとわりつく服が嫌であるらしく、全裸のままタツタの手を引っ張っていった。
 「スコールはさっぱりしますネー!踊るのデース、タツタ、昨日の続きデース!」
当初こそ気が違ったのかと疑われた振る舞いも、毎日毎日していれば正常に見えてくる。コンゴウはタツタの白く細い腰へ手を這わしながら
「1.2.3、2.2.3、3.2.3……」
ナチュラルターン、リバースターン……と泥の中で踊っているのか雨水から逃げまどっているのか判別できない動きで気ままに転がりまわる。タツタもコンゴウを拒むことなく、笑いながら下着姿でぎこちなくステップを踏む。
 523.623……雨音で途切れがちになる声を子守歌に、うつらうつらと意識が分断される。私はコンゴウの気持ちがよくわかった。気が違ったような振る舞いをしながら、いっそ気が違ってしまいたいと生真面目に思い詰めているのだろうと。それは皆同じだ。泥だらけのタツタも、指をくわえて物欲しげに彼女を見つめるテンリュウも、同じ頁の同じ行ばかり読んでいるキタカミも。
 んー、んーとゴーヤが呻きながら手で何かを探す仕草をした。眠気でかすむ視界の中で、汗ばんでぺたぺたした白い手を握ってやると、幸せそうな顔をして再び深い眠りに落ちていった。
 
 *

 黒い飛行物体に25mm三連装機銃掃射。影を見失った。左舷に影。61cm三連装魚雷発射。命中。沈みながら放たれた笑い声があたりに響く。私は進む、影の沈んだ海の上を。
 見下ろす。海は黒々とうねり、その中を見通すことができない。いやにぬめっている海だ。波がまとわりつく。私の足を、足首をぬめる水が浸食する。生暖かさへの嫌悪のあまり右足を上げると、波も引きずられるように上昇してきた。人の手の形をした黒い海水が、勢いをつけて海中へ引きずり込もうとする。けたたましい笑い声が、無限に広がる海面から響く。
 オイデ、オイデ。ネェ、オイデヨ。ダッテ、ダッテワタシタチ

「姉妹じゃない」
白い顔の口が裂けた。

 *

 家屋には誰もいなかった。すっかり冷えた空気とそれでもにじみ出る汗のにおいが混じりあっている。上掛けをはぐり、ゴーヤを探した。常ならば、寝ている私の横で独り遊んでいるのに、今日は気配さえなかった。足が一本欠けた机の上に、キタカミが読んでいた戯曲集が置いてあり、その隣でテンリュウの配っていた果実の皮が干からびている。表の広場は薄闇に覆われかけている。西日が眩しく緑を照らす。木で作られた高床の家が密集し、葉で葺かれた屋根が所々で落ちて暗い穴を描いている。
 静かだった。ジャングルの奥で動物がなき、頭上を海鳥が旋回しているのに、耳が痛くなるほど静かだった。
 ゴーヤを探して駆け足で浜辺へ行く。いつもムツが肌身離さず持っている小型ラジオが、浜辺の巨岩の上でジー、ジーとノイズを発している。ムツは頻繁にダイアルを回していたが、意味のある言葉は一回も届かなかった。
 沼のような砂浜を遅い速度で一歩ずつ進む。足を細かな砂が覆い、爪の間に入り込んで不快な感触をもたらす。黒い砂浜には金属の破片が大量に打ち上げられて、西日できらきらとオレンジ色に輝いている。綺麗だけれど足を切るのは嫌だ。慎重に足を下すべき場所を見極める。
 ジャングルへ至る道の入り口に立つ小屋の陰で、ミョウコウとナチが睦みあっていた。互いの張りつめた柔らかな胸をもみしだき、吸いつき、秘所を手指で慰めあっている。笑いながら口づけあっていたけれど、その声は泣いているように聞こえた。
 ジャングルの中から監視されている。私は砂浜から禁じられた北へと歩いていく。寂しくて仕方なかった。私にはゴーヤが必要なのだ。白くまろい肌で、高い体温で、きれいな桃色の髪をして、私がいないと不安がって泣くゴーヤ。
 今度刃物を探し出して、伸びてしまったゴーヤの髪を切ってあげよう。すぐに飽きて暴れてしまうだろうけれど、きっとさっぱりするはずだ。川の下流が私の前を横切り海へつながっている。ゴーヤがいないなら潜る必要はない。水上をすべるように走るだけでいい。毒々しいオレンジ色の夕方の太陽が放つ光を横から浴びながら、北へ北へと進む。
 道は荒れ果てている。私たちがくるずっと前からここは使われていなかったのだ。時折鮮やかな切り口の低木が混じる。密集する熱帯植物をかき分けて、無心で足を前に出し続ける。坂道を上った先に、茅葺きの屋根がいくつか寄り添いあって建っている。人の声がわずかに聞こえた。一番手前の家の後ろまで、私は誰にも見つからずに到達できた。背の高い植物にかぶれ、虫にまとわりつかれながら、窓越しに繰り広げられる室内の光景をひっそりと眺めた。
 カトリは笑っているのだと思った。笑いすぎて苦しくて、ムツにすがっているのだと思った。けれど、カトリは涙なく泣いているのだ。酸素が足りないのか顔が真っ青だ。途切れ途切れに聞こえてくる。マ、シマ、……カシマ。
カシマニアイタイ。
ナゼワタシヲオイテイクノ。
ムツの大きな掌が、震えるカトリの背中をゆっくりさする。

 唐突に、背中へぶつかってくる物体があった。驚きに息を止め振りかえる私の口元を抑え、「シー!」と小さな存在が命ずる。はあ、と安堵で息を吐いた。ゴーヤは頭に枯れ草を絡ませながら、「こっちでち、こっちでち」と囁く。彼女は慣れた様子で密集する草をかきわけ、頭の中に描かれているらしい道を進んでいく。「遊ぶでち」と、言葉の明るさとは対照的な薄暗い地表を進む。背の高い草に腕を切りつけられながらかき分けていくと、開けた場所に出た。若い草木の芽が柔らかく茂る空間で、「今持ってくるでち」とゴーヤは私を置き去りにして去っていく。背後には南の集落と島の北部を隔てるジャングル。左手には通り過ぎてきた北の集落。眼前には、荒々しく抉られた土埃の立つ椀のような地表と、果て無く続く大海。輝く一本の地平線。
 それはまるで、様々な色のタイルで作られた神々しい祈りに満ちた奇跡を描く、朽ちたモザイク画のようだった。目を凝らして細部を観察すると、それは人々の祈りの残骸ではなく、極めて動物的で極めて人間的な行為の残骸だと分かった。かつて爆撃で抉られたのであろう地層も露わな陥没した地面に、積み重なる鈍色の骨、骨、骨。
 一体何人分の骨なんだろう、と考えた。
まるで飢えきった胃袋を満たすために肉を?がされ骨の髄までしゃぶられたような骨そのものの姿。深海棲艦の、見たこともない成れの果て。
「あそぼー、見つけたんでち」
ゴーヤが飛び跳ねながら金属の塊を頭上に掲げている。馴染みのある、けれどここで見るにはあまりにも違和感のある物体。
「テンリュウも入るでち。ゴーヤは正義のミカタで、テンリュウは悪!」
ゴーヤは空母ヲ級の艦載機であったものを、私の背後に立っていたテンリュウへと放り投げた。煙草の匂いを漂わせる下着姿の少女は易々とそれを受け取り、「なんだ、ままごとかよ。俺様が正義に決まってんだろぉ」と笑みを浮かべたまま口を尖らせた。
 タツタが折れた大木の根元で白い裸体を惜しみなく晒し座っている。うふふ、テンリュウちゃん、手加減してあげなきゃだめよぉと甘い声で忠告する。テンリュウとゴーヤは遊びだす前に、どちらが正義のミカタになるかで口喧嘩を始めてしまった。
 私は吸い込まれるように、金属でできた骨の山を見ながら呟いた。
「深海棲艦……?」
「あらぁ、気づいたのぉ?うふふ、深海棲艦っておいしいのかしらねえ~」
「え?」
大木へ寄りかかるように気だるく横座りしていたタツタは、伏せた目をちらりと私に向けた。噎せるような色気が私を襲う。
「おいしくいただかれたんじゃないかしらねぇ、体を巡っている油の一滴までね~……」
深海棲艦の骨が折り重なり、山を築いている。鋼材の中から油がにじみ出ている。
「そんなもの食べないでしょう、島に食べ物があるのに」
日が落ちて、夜がくる。タツタの白い肌が闇にまぎれる。白肌の口元と赤い唇が闇の中に浮き上がり、弧を描いた。
「私たちがきたとき、もうな~んにもなかったわよぉ。だって、なにもかももがれて、ジャングルの奥の奥で毒のある果物がやっと実っていたくらいだもの~」
まあ私たちは食べられるけどね~、と呟く可笑しそうに肩を震わせた。畑は全部掘り返されちゃって、ジャングルの中は鳥ばかり、死に物狂いなら人間は深海棲艦も食べ物に見えるのねぇ~。
 ふらふらと数歩足を動かして、タツタの横へ力なく座った。ゴーヤとテンリュウは何故か二人とも空母ヲ級の艦載機を持ち、甲高い金属音を響かせながらぶつけあって戦っている。ひどく疲れた心地でそっとタツタの方へ頭をのせると、濃密な甘い香りがした。目を閉じると、タツタの喋る甘い声が耳にすべりこむ。私たちがこの島へきた三日目に、カトリへ入った電信。

「我ガ国、陥落ス。
姉サン、イキテ」

カトリはそれを耳にして、体のどこかを欠いてしまったのだ。
ねぇ、どう思う、とタツタが囁く。
「私たちも、帰ったら食べられちゃうのかしら。頭から足先までばりばりばり、って~」
それは極めて悪趣味な疑問と問いであったけれど、私たちには相応しい気がした。私たちの生き方には。
「二人とも、そろそろ帰るわよぉ~」
最後は取っ組みあいになっていたテンリュウとゴーヤが動きを止める。タツタは白く柔い腕をテンリュウに絡ませ、それを見た私はゴーヤの土で汚れた小さな手を握った。草をかき分けて南へと帰る。日は落ち、草いきれの青い匂いと頭上の満天の星が私たちを包む。
 ゴーヤが手に力を籠める。その強さは、私のはち切れてしまいそうな心をそっと抱きしめてくれた。

 *

 夕食らしき行為の後、くたりと寝そべる私たちの前に、得意満面の笑みでコンゴウが赤く大きな機械を持ち出してきた。大人の膝くらいの高さまであるそれは、発電機なのだと言う。
「ココに、ちょーっとの燃料と、秘蔵のレコードと、ポンコツなプレイヤーがありますネー!一晩踊るだけなら十分デース!」
そう言いながら機械のレバーを倒し、音量を最大にしたプレイヤーをつなぐ。しばしの沈黙のあと、しんと静まり返った私たちの間に、じりじりとノイズまじりの旋律が流れだす。
 音は風に乗り空へ吹く。ジャングルのざわめきと、川の水が岩にぶつかる水しぶき、鳥の鳴き声と島を囲う終わりない波の反復音をベースにして、ローサスのワルツが踊りだす。コンゴウがナチの手を取る。タツタとテンリュウが、アカギと照れているカガが、自由気ままに大地を踏みしめしなやかに踊る。くるりくるりと湿った土の上で回転してみせる。
 口に指をくわえて、羨望の眼差しを隠そうともしないゴーヤの手をとった。ゴーヤの澄んだ瞳が期待で輝く。互いに姿勢もステップも習ったことはない。ゴーヤの足の運びは独創的で無茶苦茶だ。私だってそうだ。でも二人で手をとりあい、見よう見まねで拍子をとって、進み、戻り、回り、息を止めてのけぞる。遠心力を感じながら、けれどゴーヤを絶対に離すまいと汗でぬめる掌を掴む。ゴーヤの足を踏み、ゴーヤに踏まれ、互いのふくらはぎが絡まり土の上に転がり落ちる。泥だらけの顔を見合わせ、二人で笑いあった。心の底から、終わりなく。

 気がつくと、地に転がる私たちをミョウコウが覗きこんでいた。彼女は目を細め、上品な声で囁く。
果てのない天と地がある。
踊る相手と音楽がある。
これ以上私たちに、足りないものなどあるのかしら。

 *

足りないものなどなにもない。
天と地の境にいる。
隣にゴーヤがいる。
けれど、私はもう二度と踊らないだろう。

もし私に「自由」というものが与えられたのなら。

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