fate(槍弓)

 寄せては引く潮騒が耳を擽った。しばし耳元で戯れてから、かすかな感触を残して穏やかに遠ざかる。なにかがぎいぎいと鳴いていた。遥か彼方で、世界の歯車が噛みあう音が響いている。人の輪から外れたことで聞こえた調和。私は柔らかな水に抱かれながら落下し続けていた。水底に到達しそうだと、どれだけの時間思っていただろう。私はいつもここに帰ってくる。懐かしいこの海へと帰ってくる。
 それはとても自然なことだというのに、去り際に乱暴な仕草で引きずり上げようとする手は、一切を考慮しないのだろう。物好きは、まだ私を求めていた。

 ぎいぎいと鳴いている。べたつく潮の肌触り、壁越しに繰り返されるざわめき、そして息ができなくなりそうなほど肺を圧迫する、青臭く噎せ返る植物の匂い。
 ゆっくりと暗闇から覚めたアーチャーの視界一杯に、白く色褪せた木目が広がっていた。乾いた眼を何度か瞬かせ、やがて深々と息を吐いた。寝返りを打とうとしても、怠さを訴えて動かぬ身体は、横たわっている寝台からわずかに距離がある場所にいる他者を既に認識していた。ゆるりと枕に乗せられていた頭を左に向けても、その男はアーチャーに反応しなかった。目覚めたことにはとうに気づいているだろうに。
 男は木製の椅子に本来とは反対の向きで腰かけ、背もたれの上部へ力なく両手を置いて、ぎいぎいと音を出しながら前後に揺れていた。寝台の足元にある大窓から屋内へ、薄く日光が差している。光によって男の横顔を窺うことができたが、そこに感情の類は一切浮かんでいなかった。男は陰る窓の外へ視線をやりながら、何事かをじっと思案している様子だった。
 アーチャーは、腕一本動かすことさえ億劫なほど消耗しているにも関わらず、自分自身が肉体を伴って存在している事実で全てを悟った。そして彼の名を思い出す。淡い水の色をした長髪、白い肌。肌を隠すマントをだらしなく両肩にひっかけている『キャスター』。であれば、簡易なものか否かは判断できないが、ここは彼が作成した陣地の内側なのだろう。彼は背を軽く丸めながら、気だるげに毛先を揺らしてみせた。
「……ようやく目が覚めたか、はぐれサーヴァント」
 淡い光が横顔に深く陰を刻む。薄い唇は小さくなめらかに動く。無意識にアーチャーは、己の腹へ手を当てようとした。
「考え得る限り、最悪の目覚めだ」
受け止め損ねた「はぐれサーヴァント」という言葉が、転がり落ちる。体重をかけられた椅子が一際大きく鳴った。
「貴様の顔を再び見る羽目になるくらいなら、さっさと還った方が幾らかましだった」
キャスターは応えない。微動だにせず、ただ窓の外と向き合い続けている。恨み言は予想していたのだろう。それでも男に不満をぶつけずにはいられなかった。アーチャーはそれが八つ当たりであることを知っていた。
「なぜ助けた」
軋む椅子から立ち上がり、キャスターは窓辺へ歩む。ひたり、ひたりと木に吸いつく肌の音をさせて。アーチャーは彼が裸足でいたことに、そこで初めて気づいた。
「おまえの身体はボロボロだった、見てられねえほど」
「だろうな」
だからだろう、この腹のうちの気配は。レースのカーテンが風に吹かれて静かにはためいていた。キャスターの後ろ姿は静謐さをたたえ、同時に肉体からは力強い存在感が放たれている。
「マスターとのラインは完全に切れているな?」
アーチャーは男の真意を測りかね、少しの間沈黙した。返事を急かされることはない。
「忌まわしいことに、マスター『とは』完全に切断されている」
 だがこの身はいまだ、契約によって縛られている。ふと周囲へ視線をやると、窒息してしまいそうな匂いを放つ濃い緑が、数え切れないほど置かれた鉢の上で踊っていた。木で組まれた柱と、日焼けした壁。質素だけれど頑丈に作られた、狭い木造の家に二人はいるようだった。
「別に見捨ててもよかった。消え去る寸前だったからな」
キャスターが首を傾げると、髪の間からのぞく銀色のピアスが鈍く光を反射させた。
「ならばなぜ」
「だが、どうにもな。……街が不穏だ。胸騒ぎがする」
キャスターは初めてアーチャーを振り返った。遠い夕日よりも赤い瞳はどこか平坦で、今にも取り込まれてしまいそうだと暗い感情を抱かせる瞳だった。
「悪ぃなアーチャー。だが消え失せかけているサーヴァントを一体ばかり、こっそりとオレのもんにしたところで文句なんざ誰にもないだろう?」
 アーチャーは眉根をよせ、渋い顔を露わにする。筋が通っていないどころか、不信を抱くには充分すぎる発言としか思えなかった。
「誰がそうしろと貴様に命じた? マスターか?」
「さぁね」
「独断だろう。貴様の独断としか考えられない」
その証拠に、この陣地にはキャスターとアーチャーしか存在していない。
「……ここはオレの工房だ。てめえの回復の為の陣を張ってある。いいか、よく聞けよ。ここから出るな」
凍りついた瞳同士が睨みあう。どちらも退くことを知らなかった。
「ここから出たときはオレとて命の――いや、命なんざ最初っからねえな。まあいい、とにかく安全の保障はできん」
横たわったまま、アーチャーは固い声を発した。
「貴様はマスターを信頼していないのか?」
キャスターは腕を組み、不服そうに口を曲げた。
「霊脈は格が落ちるが、贅沢はいえねえ。満足しなけりゃならん。肝心な場所には常に先客がいるからな、回復だけなら充分だろう」
 返答する気はないと言外で返される。アーチャーは鉄のように重くなった手をようやく持ち上げると、疲れをにじませながら顔を拭った。遠くから規則的な波音が聞こえる。
「……海が近いのか」
「目の前だ。他は林で隠されて解放されているのは海側だけ、立地はまあまあだろう」
そこで会話を打ち切ったキャスターは、部屋の隅から溢れそうになっている背の高い鉢植えの植物をかきわけ、姿を消した。寝台の置かれた広間とカウンター越しに見えるキッチン。その反対側には水回りがある。キャスターが行ったのはキッチンの奥の部屋。それで全てらしい。なんなら小屋と呼んでも差し支えのなさそうな代物だった。西日が今にも消えてしまいそうな時刻。キャスターが壁越しに言い聞かせる。
「オレは今からしばらく出かけるが、本当に出るんじゃねえぞ。互いに不愉快な手段で繋がれたくもなかろうよ。面倒だしな。くれぐれも自分が動けると思うんじゃねえぞ」
「口うるさい奴だ」
「てめえが言うことを聞く面してねえのが悪い。あぁあった、こう魔術に関するモノばっか増えるからこのクラスはかなわねえな」
 石が金属にぶつかりでもしているようなけたたましい音が建物に響く。その音の合間に、キャスターは問うた。
「ところでセイバーがいまどこにいるか知っているか?」
「いや、知らないな」
「そうか。とにかく寝てろよ。あれ、石の数が足りねえな。ひい、ふう……その辺のやつでいいか」
キャスタークラスが放つにはあまりにも難のある発言を聞き流し、アーチャーは両膝を立てた。じくじくと腹の中が疼いている。
「そうだ、おまえに飲まそうと思ってたやつを忘れるところだった」
奥の部屋からキッチンに出てきたキャスターが瓶を手に取る様を、疑問にみちた表情で見る。手の中の小瓶には青色で、光が当たると虹色に輝く小さな宝石らしきものが詰まっていた。再び背の高い緑をかきわけ戻ってきた男が、石を人差し指と親指でつまんでアーチャーの口元へ突きつける。
「ほら、口開けろ」
胡散臭い、とアーチャーは口を固く結んでそっぽをむいた。無言の攻防が続く。
「……あんまり嫌がるってんなら口うつしで無理矢理飲ませても構わねえぞ」
「わかった、わかった。それを飲めばいいんだな」
そっと開かれたアーチャーの口内に石が一粒放り込まれる。ひんやりとした温度のそれは、唾液に触れると少しずつ溶け始め、甘い味と花の香りが口全体に広がった。どうやら無害ではありそうだ、と喉を上下させたアーチャーの頭蓋にするりと手が回される。褐色の両耳を掌で抱えたキャスターは、予告なく互いの口をあわせた。目を白黒させるアーチャーに構わず縦横無尽に舌で口内を舐めまわし
「確かに飲んだな」
と唇を離す。光る唾液を手の甲で拭い、そのまま指先でアーチャーの唇も拭った。
「……貴様な」
「文句は帰ってきてから聞いてやるよ。じゃあな」
瞬間、霊体化したキャスターは即座に場を離れたようだった。彼の気配が完全になくなったことを確認して、アーチャーはふう、と肩の力を抜いた。緊張が解けほっと息を吐く。潮の匂いが薄く開いた窓から漂ってきていた。
 サーヴァントにつながれたサーヴァント。胸に残ったのは苦い思いだけだった。
 飲まされた宝石には確かに効果があったらしく、体が徐々に軽くなる。寝返りをうち、洗いざらしの清潔な敷布と枕に顔を埋める。しばらくそうしていた後、慎重に起き上がった。寝台から足を下ろし、地に足をつけ立ち上がる。くらりと眩暈がしたが、気になったのはそれだけだった。

 湿った土の匂いと繁る緑、乾燥した薬草と宝石の詰まった瓶たち、呪いのかかった書籍。狭いがよく設えたものだ、と感心するほど手間暇のかかった工房を一通り調べ終えると、アーチャーは再び部屋に戻って窓辺から外を眺めた。窓から続くウッドデッキの先に狭い砂浜がある。からからと窓を開けると、潮風が勢いよく吹きつけた。松林の中にすっぽりと収まっている年月を経た質素な家。砂が散るウッドデッキの上を這っているものがあった。足元で動くそれを拾い上げると、指ほどの大きさをした蟹は、つかまれた驚きのあまり動くことを止めてしまった。彼女か彼か知らないが、この蟹よりも意味のない生を与えられたものだ。アーチャーは心の内で嘆き、つまんでいた小さな身体をそっと元あった場所へ戻した。遠く地平線に船のシルエットが浮かんでいる。闇に霞む海と大空の境界。
この身の主がキャスターとなったのならば、あえて彼に抗う理由など、もう私にはないのだろう。


 過ぎていく時間を使って、なにを考えればいいのかさえわからなかった。寝台に横たわり、あるいは椅子に座ってぼうと外を眺めながら、陣の内側にうずくまっている。昼が過ぎてまた夜が訪れたとき、寝台の上で微睡みから目覚め、ふと己の身体が砂にまみれていることにようやく気づいた。よく観察すれば、身につけている見覚えのない服も内側が汚れている。
 アーチャーは寝台から敷布を剥がし、浴室へ向かった。タイル張りの浴室の中心には琺瑯(ほうろう)の浴槽が鎮座している。躊躇いなく蛇口を開き、浴槽に湯を注ぎながら服を脱いで、敷布と共に湯を汲んだ盥へ放り込む。足で踏んでよく洗い濯(すす)いでから、かたく絞り浴室の隅へ片付ける。
 浴室は清潔だった。湯を浴槽から汲み石鹸を泡立てると、アーチャーは頭皮から足の爪の間の汚れまで、現実から目を逸らすように隙間なく、狂いなく洗っていった。
 湯気の立つ浴槽に身を沈め目を閉じる。去来する後悔に身を委ねながら両手で顔を覆っていると、誰かが家に入る気配がした。
 部屋に入った誰かはなにかを探すように足踏みし、台所を覗き、奥の部屋の戸を開けて、そして浴室の扉へ手をかける。アーチャーは虚ろな心を持て余し、侵入者と殺しあう覚悟も満足にできないまま、両手に夫婦剣を投影した。投擲しようと構える。
「おい、その……やる気はねえのに殺す気だけ出すのはやめろ」
磨り硝子越しの声に、アーチャーは片眉をあげた。
「不躾にも浴室へ侵入しようとする輩がいたものでね。それに……君のクラスにはいまだ馴染めないな。どこかざわつく気がする」
キイと軋んだ扉は少し隙間を残し、湯気を浴室外へ運ぶ。
「アーチャー、オレが言うまで風呂から出るなよ」
なぜだ、と問うても返事はない。外の部屋でゴソゴソと動く男を待っている間に次第に逆上せてきて、アーチャーは湯から上がり浴槽の縁に腰かけた。垂れ下がった前髪の先から湯が滴り落ちる。
 時間を置いて戻ってきたキャスターは、手にした器から零れんばかりの量の植物を抱えて、躊躇いなく浴室へ入ってきた。前髪越しにちらりと見遣った弓兵が呟く。
「貴様、遠慮というものを知らないのか」
「残念ながら知らねえな。それよりもう一回湯につかれ」
 浴槽の上でキャスターが器をひっくり返すと、赤に橙、黄に目に染みる白色の花弁が湯の上で舞った。その隙間からゴトゴトと細工の施された珪石や滑石が転がり落ちる。それらが只の花弁や鉱石でないことは、湯に触れた途端広がった魔力によって一目瞭然だった。溶けた魔力が、湯に浸かったままだった両足の皮膚から染みこむ。風呂場がキャスターの香りに支配される。
 アーチャーは渋々と、花弁の浮かぶ湯に全身を戻した。
「これでは逆上せてしまいそうだ」
「駄目だ」
 掌が、火照り抗う裸の肩を押す。じっとうずくまるアーチャーの鼻先で、水面にすべり落ちた青色の毛先が浮かんで揺れている。白い指先が悪戯に、アーチャーの前髪をつまんだ。不意に視線があうと、キャスターは静かに微笑んでいた。その表情に耐え切れず、弓兵は鼻先まで湯に沈み、口から泡を吐いた。静かな空間に泡が弾けひっそりと消えていく。なにもかも正視できない、とアーチャーはきつく目を閉じた。

 新たな服をまとったアーチャーへ、おまえまだ本調子じゃねえんだろ、寝ろ、と命ずるキャスターもまた新しい敷布がかけられた寝台で膝立ちをしている。
「寝る場所が、ひとつしかないのだが」
「仕方ねえだろ」
ベッドから伸ばされた手が、傍らで躊躇っていたアーチャーの腕を掴み、無理矢理引きずり込む。そのまま、花の匂いを放つあたたかな白髪を抱えると、キャスターはそこに鼻先を埋め、一人で早々と眠りについた。
 胸板に顔を埋める格好をさせられたまま、アーチャーはざわめく心を持て余し、己を抱く身体の服を掴むかしばらく迷ったあと、力なくその手を敷布の上へ置いた。

 ***

 キッチンのストックから、木の実が詰まった瓶を取り出した。木の実をビニールの袋に入れて上から砕く。それを手にしてウッドデッキへ出ると、木製の手摺に砕いたものを細く一直線に並べていく。
 アーチャーはその行為を終えると、部屋へ戻り静かに窓を閉めた。カーテンは引かずに、ぎいぎいと鳴る椅子へ腰かけ、どこかから飛来した鳥たちが集まって、餌を啄む様子を観察する。キャスターが放り出していた掌ほどの大きさの角材を手で弄びながら、足先で床に描かれた陣の図形をなぞる。
 彼らにとってあの手摺が止まり木となるように、私にとってはこの部屋そのものが止まり木のようなものなのだろう。手元の檜の香りを深々と吸い込んだあと、手にした鉛筆で大雑把な形を表面に描いた。片刃の小刀を投影し、本来はそのものを投影した方が簡単なのだろうなと苦笑した。
 陣の中心に引きこもり、一脚しかない椅子に座し、傍らにあったブリキのゴミ箱を引き寄せる。木材の外側をざくざくと切り落として手頃な大きさになったところで、慎重に木の表面を剥いでいく。薄皮を剥いで、鳥の姿を現世に生み出そうとする。すべるように削ぐ音だけが部屋に響き、外では餌を啄む鳥たちの鳴き声が絶えず発せられていた。種の異なる鳥たちが互いに威嚇しあっている。アーチャーは背を丸め、手元の木の塊を彫り続けた。

「あんなものここにあったか?」
数日ぶりに現れたキャスターの視線の先には、不格好な木製の鳥が置かれていた。キッチンのカウンターの上でごろりと横になっている。キャスターからは、外の雑多な香りと、誰かの血の匂いがした。
「作ったんだ」
「おまえがか」
「ああ。あまりいい出来にはならなかったがね」
「そうか? いい雀じゃねえか」
「……一応ムクドリだ」
「まあまあ上手いムクドリだ」
「無理なフォローをするな」
 キャスターは無邪気に笑ってみせると、今日は疲れた、と大きく伸びをした。そして奥の部屋から鉱石や薬草、花々を抱えて出てくると、それを風呂場に置いて「風呂入るぞ」と呼びつける。
 抗ったところで無駄だろうと、服の釦を外しながら向かったアーチャーの目の前で、キャスターもまたローブを放り投げて上半身を裸にしていた。
「なぜ君が脱いでいるんだ」
「オレも疲れたんだよ、さっさと入ってさっさと休もうぜ」
「いや、では君が先に入りたまえ」
「面倒くせえな、一人も二人も一緒じゃねえか」
どこが同じなものか、と不満を言い募る弓兵を力ずくで湯の中に押し込めたキャスターは、ざっと湯を被り、その身を無理矢理に浴槽へ沈めた。大柄な男二人が入るには狭すぎる浴槽で互いに向き合う。困惑するアーチャーの正面で、キャスターは心底疲労したように仰け反って目を閉じ、じっと脱力していた。キャスターに触れてしまわぬよう足を動かす度に、底に散らばった石がごつごつと当たる。水面からはみ出た己の膝を見つめ、一体何なんだこの状況は、と焦燥に似た感情と共に内心で呟いた。そんな思いも知らずに、キャスターは湯の滴る腕を伸ばす。
「なあ、アーチャー。もし」
白く細い花弁がしっとりと張りついたままの指先が、アーチャーの手を掬うように持ち上げる。
「もし願いが叶うと言われたら、おまえは何を望む?」
銀色の蛇口から、ぴちゃん、と水滴が落ちた。
「さあ……なにもないな。望みなど、私には一つもない」
うっすらと開いた瞼の間から、赤い目が探るようにアーチャーを見た。褐色の指の腹が、橙の花弁を潰しながらキャスターの手首を一撫でする。
「望みなど、なにもない」
そうか、と湯気で湿った声が天井へ消えた。

「アーチャー」
ベッドでだらしなく寝そべったキャスターが、キッチンで紅茶を啜っている弓兵を手招きする。
「アーチャー、一緒に寝てくれよ」
「なにを言っているんだ、いつも一緒に寝させるくせに」
「こいって、なあ」
カップを水ですすぎ、呼ばれるがままキャスターの傍らに膝をついた。その瞬間、予想以上の力でベッドに押し倒される。
「っ、おい」
キャスターはまだ湿り気の残る髪ごと頭をアーチャーの胸にぐいぐいと押しつけ、覆いかぶさったまま黙っていたかと思うと、やがて穏やかな寝息を立て始めた。
 男に圧し掛かられたまま、どうにか楽な姿勢になろうと四苦八苦したアーチャーは、ようやく位置を定められると溜め息をついた。そのままぎこちない手つきでキャスターへ手を回し、躊躇いがちに裸の上半身へ手をあてると、己と同じ香りを身にまとう魔術師の身体をそっと抱く。
 懐かしいぬくもりを逃さぬ力加減もわからず、私は一体どこへ向かっているのだろう。
暗闇の中、キッチンのカウンターでは歪な形をした鳥がひっそりとたたずんでいた。


 アーチャーは家の中の掃除と植物への水やりを済ますと、金属製の如雨露(じょうろ)を持ったままウッドデッキへ続く窓を開ける。弓兵が匿われている建物の隣には、多様な石が敷かれた小径でつながる温室があった。
 キャスターがいない間、アーチャーは室内と温室の植物の面倒をみて、あいた時間には鳥を彫っていた。先日ふらりと昼間に姿をみせたキャスターは、椅子に腰かける弓兵の隣に立ち、ヒヨドリを作る手先へつながる肩にそっと手を置いたまま、外の水平線を眺めていた。
 彼が何を考え、何を求めているのか。推測することもできず、問うこともなかった。どうしてだろう、私は、彼の陣地の内側で椅子に座りながら、彼の隣に立ち共に戦うことをぼんやりと夢見ている。
 屈むキャスターにあわせて顔を上げる。二人が口づけることは、あまりにも容易で自然なことだった。
 
 足を踏み出す度に鳴る石の小径の先には、錆びついた白い鉄骨と硝子板で作られた、十畳ほどの広さの背の高い温室がそびえている。雨垂れの跡を残した硝子戸を開き、むっとした空気が満ちる温室の中へ入った。ぽっかりと空いた松林の中で、光を存分に蓄えた温室には多種多様な植物が揃っていた。意思を持つ触手そのものの蔦を這わした緑、茎の中に呑んだ宝石から生える巨大なひし形の葉と白く可憐な花たち、唾液を撒き散らしながら与えられる肉を貪る、口を持った鉢植えの樹。快と不快の匂いが混じりあい混然一体となった生命の園。地からはみ出た極彩色の根には直接文字が刻み込まれている。躓かぬように気をつけながら、アーチャーはずっしりと重い如雨露で水を注いでいく。
 刻んだ鶏肉を、餌を催促する巨大な樹の口に放り込んで、アーチャーは一息ついた。肩へ手を当てながら腰を逸らし、そのまま丸屋根を見上げる。くすんだ硝子越しに青空が広がっていた。
 キャスターは光そのものだ。彼が進む方向では多様な命が栄え、健やかに手足を伸ばし葉を茂らすだろう。私には得ることのできぬ力。彼が手を伸ばしてくれたなら、緑は育ち私が作る鳥たちにも仮初めの魂が宿る。
 そしてまた、いま私は彼に閉じ込められているが、彼の光の欠片を私の心の内へ、まるでこの温室のように閉じ込めることができたなら、きっと私にとっての導きの灯りとなってくれるのだろう。暴力的なほどに命が咲き乱れる楽園へ、導いてくれるのだろう。そう信じさせるなにかが、彼にはあった。

 ひとつしかない寝台で身体を抱き共に寝る。言葉なく乾いた唇を重ね合わせる。温室と部屋の草木に花々が咲き、甘い香りが充満する。彼に匿われたまま甘い日々を送る。彼は私を胸に抱き、私もまた彼を胸に抱く。私たちにはもう睡眠も魔力の共有も不要だというのに、互いの体温を手放すことができなかった。

 ***

 しとしとと降り続く雨によって底冷えのする夜に帰宅したキャスターは、外の香りをまとっていた。人の脂と埃と、雨と血の入り混じった香り。生い茂る緑の合間からのぞいたキャスターはどこか精気を欠いていた。
「どうした、具合でも悪いのか」
アーチャー、と掠れた声で呟いた彼は乾いた唇を舐め、アーチャー、と己に言い聞かせるように繰り返した。
「誰かがこの結界の、陣地の内部に侵入してきたとしても、家には入れるんじゃねえぞ」
「……私に戦えと?」
「いいや。……戦いは、しないだろうな」
「君は誰のことを言っているんだ」
キャスターは顔を背け、苛立ったように指先で己の太もものあたりを二度叩いた。
「とりあえず飲み物でもいれるから掛けたまえよ……なあキャスター、君は」
キッチンで薬缶を火の上に置く。
「君はどうしてこれほど長く、私などを抱え続けている? 最早、負担にしかなっていないのだろう」
二人の間に、夜の潮騒が寄せては引いていく。
 重い沈黙の中、キャスターは目前に差し出されたカップの縁をそっとなぞった。
「『手駒は多く、そして隠されている方がいい』。それに、……それに」
キャスターはじっと、カウンターの隅で寄り集まっている木彫りの鳥たちを見つめていた。
「傷ついていた奴を、んで気づきゃ好いてた奴を、己が手で守る。これ以上の誇りがあるか?」
 うねる海に終わりなく霧雨がふる。
「そのうちおまえも回復しきるだろう。そうわかった上で言うがな。……オレのものになれよ、アーチャー」
無意味に茶葉の入る茶筒の蓋を開け、躊躇ったあと閉めなおした。二人の間にわだかまる空白ごとしまい込んでしまいたいとでもいうように。
「私を君のものにしたのは一体誰だ?」
「その軛(くびき)がなくなったときの話をしている」
「ああ……残念だが私を使うモノは既に決まっている。こんな形になる以前からな」
「お前が拘束されているのは身体だけだ」
「君が自由にできるのもまた、私の外側だけだ」
「だからこうして口説いてんだろうがよ」
「……もうやめだ。こんな話に意味はない」
アーチャーは手にしていた茶筒をシンクの隣に置いた。互いに正面から向き合いたいと願う心を押し殺す。
「オレはとっくに覚悟を決めていると、言っておくからな。考えておけ」

 軋轢が残り強張る身体を、それでも寝台の上で寄せあい一枚の布にくるまって共に寝る。天井を見つめ、窓の外に広がる闇を感じる。隣のキャスターがごろりと寝返りをうち、アーチャーの胸元へ顔をすりつけた。
「まだ起きてんのか」
くぐもった声に、小さな声が応える。
「起きていれば、君の体温を感じていられるから」
訪れた沈黙は優しいものだった。キャスターがそっとアーチャーの白髪を撫でる。
「そうか」
やがて、規則正しい寝息がきこえてきた。淡い水色の髪に鼻先を埋め、アーチャーは飽きることなく寝息と外の潮騒を聞き続けた。


 日課をこなす。温室で水を撒き食肉植物へ餌をやる。そして台所で果物を剥き、切り分けた。数切れを口の中に放り込み、果実の甘みを噛み締める。木の実を砕き鳥たちが啄む外の手摺へ細く並べていく。椅子に腰かけ、うっすらと鳥の形を表してきた木の塊を手に取る。小刀で薄皮をはぐよう、刃を当てていく。
 肩から翼が持ち上がり、先端に連なる初列風切が空気を裂き美しく広がる、その様を作り出そうと一心に木を削る。なのに、雑念ばかりが心に生まれ出でる。次から次へと襲い来るそれらがやむことはない。私はなぜここにいるのか。私はなぜこんなことをしているのか。今にも飛び立ちそうな翼を刻む手が乱れ
『オレのものになれよ、アーチャー』
コントロールを失った小刀が、深々と翼の根元を切り裂いた。
 鼻の奥を刺すような痛みに耐えられず、思わず顔を伏せる。アーチャーは背を丸めたまま大きく息を吸った。
 私が望んでいたもの、そう真実私が守りたかったものは、私ではない「誰か」が過ごしてくれる、こんな平穏な日々だった。彼によって生命を得たかのように、生き生きと翼を広げる木彫りの鳥たちは、自由に空を飛べるだろうか。彼との日々はただ甘く溶けていく、だからこそ私には辛く、苦しくてたまらない。極楽浄土というものがあるのならば、そこはきっと緑の匂いで噎せかえる、こんな息苦しい小部屋で送る日々なのかもしれない。
 私はたとえ根源への途が拓かれたとしても、私以外の人々が平穏を甘受できるようになる道を迷いなく選ぶだろう。そのとき私の隣には、誰が。……なにを夢見ているのか、最早どうにもならないことを。今更楽になれる身でもあるまいに。

 カーテンの開かれた窓の外から視線を感じ、アーチャーはゆっくりと面を上げた。見覚えのない、純白の羽に覆われた梟が手摺で翼を休め、じっとアーチャーを観察していた。魔力で編まれた小振りな身体。罅(ひび)の入った木彫りの翼がぐらりと落下した。ブリキのゴミ箱に落ちる音が遠くから響く。
 アーチャーは感情をみせずに梟と対峙した。やがて羽ばたき去っていく姿を見送ると、ブリキ缶の中で木くずにまみれた羽を拾い上げる。魔力を通す為に詠唱し、離れた翼を身体へ再びつなげる。焦点の定まらぬ眼のまま、キャスター、と祈るように呟いた。窓の外には平穏な海が広がっていた。

「伝言だ、マスターからな。『そろそろ見逃せないな、キャスター』」
「だろうな」
アーチャーは鼻で笑い、皮を剥いていたオレンジを器へ並べる。その指先に、小さな傷ができていた。
「私も外へ出るべき頃合いだろう。私にとて、役割というものがあるのだろうから」
「なあアーチャー。オレは未だ答えを聞いていない」
「なにを……」
そう言いかけたところで、彼が求めているものを悟った。先日の言葉は酔狂で発せられた訳ではなく、そして彼は私の答えを今も待っているのだ。
「オレの思いはかわってねえぞ」
「君も飽きないな。何度繰り返せば気が済むのやら」
「何度でも言う、何度会っても言う。……どうだ、惚れたか?」
 破顔したキャスターは、アーチャーには受け止め切れないほど真っ直ぐな存在だった。
「……呆れているよ」
果物が盛られた皿の隣に置かれているキャスターの手。
「本当に? 実は満更でもねえんだろ?」
彼の軽さは裏返しだと知っている。二人が置かれた場所の重さの裏返しだと。傷の残る手を差し出して、アーチャーはキャスターの白く長い指に指を重ね、そのまま握りしめた。二人でわかちあえる体温に、胸の奥が引き絞られる。
「君に応えるなんてことも、あるのかもしれないな……いつか、数え切れぬほど出会い続ければ、いつか」
椅子に座っていたキャスターはアーチャーを仰ぎ見ると、顔を寄せ囁いた。
「手放したくない」
「ならば私をねじ伏せればいい」
「わかってねえな」
キャスターは愛想を尽かしたように自棄な調子で笑い、そして口を噤んだ。沈黙のあと、ぽつりと告げる。
「マスターに言われた、明日仕掛けると。明日以降、おまえの出番は明日以降だ。いいか、勝手なことをするんじゃねえぞ」
緑の溢れる部屋で作られた様々な鳥たちが、カウンターで身を寄せあっている。今にも飛び立ちそうに。
「この工房ともお別れだ」
「やっと戦いに戻れるな。君の顔を今ほど見なくて済むようになるならせいせいする」
「よく言うぜ」
彼は傍らに投げ出していたマントを肩に掛け、オーク材の杖を持ち上げた。
「オレはもう出る。今晩は、おまえは休んでおけ。最後の休みだ。……なあアーチャー、キスしていいか?」
「なにを今更。いつも所かまわずしてくるのは誰だと……」
アーチャーは笑い飛ばそうとキャスターへ顔をむけ、言葉に詰まった。そしてわずかに緊張しながら、そっと顔を寄せる。互いの吐息が、震える唇ごしに混じりあった。

 ***

 夜が明け朝が過ぎ、一度昇った太陽が頂点から降りてもキャスターは帰ってこなかった。鳥たちがぎゃあぎゃあといつになく騒いでいる。残日がわずかに差す室内で、草花へ水をやる。金属製の如雨露を持ち、そうだ、温室にもまだ片付けなければならないものがあったと、窓枠に手をかけた。海の上で不穏な風が渦巻いている。

 瞬間。巨大な圧力が世界を止めた。

 圧倒的な無音と衝撃。この世のものではないエネルギーが爆発した。耳がびりびりと痺れ肉体の機能が一時的に消失する。余波が家をぐらつかせ、手摺や枝にとまっていた鳥たちは混乱のあまり四方八方に飛び立った。手が震え、落下した如雨露が立てる音さえ聞こえない。街に満ちていた平和が一点に収縮する。「ありえない」お前は本当にそう思うのか? 本当に? 「あってはならない!」
 真空の中心で、とろり、と最初の一滴が落ちた。
 アーチャーは全てを投げ捨て、もどかしく窓を開けると眼前の砂浜目がけて走り出した。尖った砂が足を刺し絡みつく。止まった呼吸のまま情報を欲した。海の際まで駆け、足首まで波に洗われながら背後を振り返った。松林の中に鎮座する小さな家、見間違いなどしない。その上空に、天高く存在を主張する黒色の太陽が妖しく姿を現している。ああ、と天を仰いだ。力の抜けそうな身体を叱咤する。膝をついてはならない、屈してはならない。
 地獄が訪れる。黒色の太陽が輝きを放つたびに地に炎が広がる。街に呪いが満ちる。
 街へ行かなければ、と思う前にアーチャーの両足は動き出していた。私はぬくぬくと守られながら暮らすべきではなかったんだ。
 走る。林の木の枝に皮膚を裂かれながら。走る。海沿いの道路を黒色の太陽の真下に向けて。走る、家と家の間の狭い私道で瓦礫を踏み砕きながら。
 主人のいない、倒れたバイクを乗り越え損ねて手をついた。煤だらけの己が手をまじまじと見つめ、武装していないことに気がついた。アーチャーの服は焦げ、裸足にいくつもの傷ができている。炎が踊っていた。揺らめく火が家々を包み込んでいく。裸足のまま立ち上がって再び走り出し、駆けながら武装を纏った。遠くで泣く声がする。
 お前は誰だ? 私はアーチャーだ。お前は誰だ? 私は守護者だ。荒くなる息が煩い。私は誰だ?
 私は、己が願いを聖杯などに託さず、ただ目の前の彼らの幸せを求め続けたちっぽけな存在――。
 地獄に抗うために私は生きた。今広がろうとしている炎の海を食い止める、その力をこの手に得たのだ。死してなお繰り返し続けたのは、理想を抱いていたからだ。子供の声が聞こえるのにその姿を見つけられない。あつい、おかあさん、おとうさんと救いを求める声が。こんなことあってはならない。まるで焼けた足で立ち尽くすような。まるで他人を見捨て彷徨うような。こんなことあってはならないんだ! 引き裂かれる生々しい感情を抱いて赤色の橋を仰ぐ。辿りついた開かれた場所、傍らに立つ「冬木海浜公園」と書かれた巨大な看板が熱で溶け落ちる。
 大地を踏みしめながら、黒色の太陽が発生した地点を特定しようとしたが故に、踏み入ってはならぬと警告する己の直感へ注意を払うタイミングが一瞬遅れた。
公園の奥で闇に紛れながらも炎でちろりちろりと照らされている姿。鎧を纏っていた彼女は、狙いどおり懐へ侵入した異物を寸分違わず捉えた。目の前の地に突き刺していた剣を両手で握り、静かに頭上へと掲げる。
 アーチャーは彼女に気づくと同時に己の終わりを悟った。それでも彼女を睨みつける。呪われた業火の中心で、太陽を甘受し地を支配しようとする黒色のセイバーを許すことも、認めることもできなかった。
「なにしてやがる馬鹿野郎! 手を出すな! くそっ」
マスターの声がする。冬木市の聖杯戦争で、己がマスターを失ったアーチャーを拾い上げ、新たなマスターとして振舞うキャスターの声がする。
 ――セイバー。この状況は貴様が作り出したのか。あの聖杯の本体はどこに在る!
 アーチャーは、そう問うことだけを望んだ。しかし、言葉を発することさえ叶わない。セイバーは冷え切った瞳で、振り上げている泥に塗れた聖なる剣を、躊躇いなく振り下ろした。情の欠片もなく、アーチャーの抵抗をものともせず、目一杯の力を以て無尽のエネルギーを一方的に叩きつけた。

「アーチャー」と、誰かが名を呼んだ。
 暴風が全身を錐揉みさせながら吹き飛ばす。痛みと共に感覚が四散する。それでも吹きつける風に立ち向かい続けた。だが抗おうとも抗おうとも目の前に浮かぶ光は徐々に細っていく。光が虚しく遠ざかり、やがて閉ざされるさまを、ただ呆然と見送った。

 真の闇がそこにあった。耳を貫き脳を砕く無音の先で、大地の響きをきく。数多の天体が巡り、そのなかのたったひとつの星では、空が割れて落ちる。呪いが満ち、次なる誕生を祝福しながら人々を焼き払っていく。
 私ごとかき消していく圧倒的な暴風。あまりにも懐かしい手触り、懐かしすぎて忘れ去っていた炎の温度。真っ暗な海の底へと沈んでいく。少女のか細い声が叫んでいた。
 涙などみせない。ただ必死に、暗い海の底で、私はこの街を傷つけたくなかった、人々の平穏さえ守れたなら、それ以外望みなどしなかった、私は望まなかったと悲痛な叫びをあげる。
 いつの間にか蝕まれ傷ついていた私の手ではもう、遠い彼女の肩を抱いてやることさえできない。無力さを突きつけられながら、浮かぶ幻を追う。
 ――勿論やるぜ。キャスターで現界すりゃあな。そうして長い指先でルーンの文字を宙に刻み、私の鼻先で風を弾けさすと、くしゃりと笑ってみせた。腹を立てるかつての私に、笑いかけた。
 君が遠ざかる。全てはなかったことになるのだろうか。君に告げることもせず、苦しむ彼女へ手を差し伸べることもせず、失うことだけを重ねて私は消えるのか。……嫌だ。助けたい。今にも泣き出してしまいそうな遠い彼女を助ける力が欲しい。
君を忘れたくない。刹那の関係と知っていた、それでも私は君の笑顔が嬉しかった。泡沫の日々をこの手から逃すまいともがく。全身を使ってどこにあるかもわからぬ光を目指す。
 願いを、そう、願ってもいいのなら。マスターを守れず亡くし、君に縋りかろうじて生き延びた私でも、願いを口にすることが許されるのなら。
私もまた君の隣に立ち君を守りたかったと、押し殺していた心が絶叫した。
 浸食する泥に塗り替えられる最後の一瞬まで、心に浮かぶ姿は光り輝いていた。

 ***

 炭化した住宅の柱が、自重に耐え切れず崩れ落ちた。
 地を進む。私はいつもここへ帰ってくる。燃え狂う真っ黒なコールタールの水底へと。
 一歩進むたびにアーチャーの身体は泥に蝕まれていく。傷口は黒く爛れ、泥は全身を染めて無理矢理に、肉体を背骨の中まで書き換えた。脳へ染み出した呪いが、主への忠義を確固たるものにする。――記憶は断続的だが支障はないだろう。彼女と共に人類というものを守護できるのならば、それで充分なのだ。
 立ち上る火焔によって視界が歪んだ。そうだ、歪んでいることは否定しない。だが、この歪みはいずれ正されるだろう。
 人々は歪む世界に多くを望んだ。いいや、近視眼的に多くを望むからこそ世界は歪んでしまうのだ。
 夫婦剣で肉体を裂く。触れた場所から泥が流れ込み、対立したサーヴァントを黒く染めていく。サーヴァントを射るたびに記憶の一部が塗りつぶされる。刃を振るうたびに「誰か」の姿は薄れていく。世界は明るく照らされていた。きっと間違いはないのだろう、これで多くを救えるのだ、彼女が望む通りに。空気が熱で溶けてしまえば、要らぬ過去も共に溶け落ちていくだろう。

 寺の跡地へ帰る道すがら、黒く焼けた橋から朱色の空を見上げた。この身になってもなお、私には完全に忘れてしまうことが、切り捨ててしまえないものがいまだにある。なぜ不可能なのだろう。
 首を捻るアーチャーの上で、燃える空を幾羽かの鳥たちが渡っていった。影しか見えないが、それでもまだ生命が残っている。サーヴァントなどという、紛い物の他にも。
 気まぐれに伸ばそうとした手を、アーチャーは理由の判別がつかない衝動によって押しとどめた。真っ赤な世界、灼熱が大地を嘗めるたびに地表は焦げついていき、歩くたびに崩れ去る。「誰か」がいたなら、この大地には豊かな緑が茂っただろう。敵対し、寄生し、共に栄えるいのちたち。
 私は繋がれた漆黒の海によって生かされている。「誰か」がいれば、この地にいのちを育む水が満ちただろう。
 干上がった海の跡地を背にした。そこにあったはずの色を思い出しそうだった。誰かを思い出しそうだった。けれどあったはずの海の色も、私に向いていた顔も黒く塗りつぶされている。
首を振って遠ざけた過去が言う。
 かつて窓から眺めていた世界は、いつか一緒にいた君と同じ色をしていた。

 ボウと上を向き、やがて緩慢な仕草で眼下を睥睨した。腰かけていた岩から立ち上がる。
「よう、アーチャー」
洞窟の前で周囲を監視していた鷹の目は、侵入者を早くから捉えていた。だがいざ敵対する者を間近にして、アーチャーはこみ上げる笑いを堪えることができなかった。軋んだ笑いがでる。
 ぞろぞろと身分も素性も分からぬ――よりにもよって「人間」を連れてきている。一体どこで拾ってきたのか。いつか掴みあげたように拾ってきたのか……誰を? 彼は誰を拾ったというのだろう。まあいい、彼が器用なことにかわりはない、それだけだ。止められない声なき笑いが一層大きくなる。あのサーヴァントはまだ盲進するのだ、最早ここには彼女の願いしか残っていないというのに。
 皮肉な笑みを浮かべ彼は来る。導かれた者たちが来る、私の背後に佇むセイバーを求めて。把握できない感情があふれ、アーチャーを揺さぶった。
 この感情をなんと言っただろう。しばし思案し、やがて思い至った。なんだ、そんな思いが残っていたのか。ならばそれを彼への手向けとし、過去の私と決別しよう。
「ようアーチャー。会いにきてやったぜ」
なぜか彼は笑みを作りながら、怒りを迸らせている。
「もう返事なんざいらねえよ。だがな、好いたと」
彼は痛みを抱えているのだろうか? 全ては行くべき道を進んでいるというのに。
「好いたと一度は言ってやった野郎だ。だからその命、オレが責任もって葬ってやるよ」
炎に負けた鳥が一羽、力を失い地に落ちた。
「キャスターさん、あなたは……」
身体に不釣り合いな盾を持った少女が魔術師に呼びかける。キャスター。ああ、そういう名だった。
 キャスターわかるか。炎が消えない。雨が降っても炎は消えない、私の心のように。そして燃え盛る心の底にこびりついた過去はいまだ、たった一人を想っている。
 振動と共に大地が裂ける。少女は背後の人々を守るために、巨大な盾を地に下ろす。
 純粋な殺意だけを全身に宿らせたアーチャーは、静かに二振りの刃を構えた。

 さようなら、キャスター。
 私はいま君に愛を告げる。
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