fate(槍弓)


 四章 Fiat Justitia, Ruat Caelum

 酷くどんよりとした目覚めだった。意識が奥底から浮上する。それに伴い、一本ずつプラグを差し込むように脳と肉体の感覚が連結していく。
 しばらく墓場にでも埋葬されていたのではないか、と下らない考えを浮かべる余裕はあった。一刻も早く安全を確保するため、活動を開始したいのに重い身体に中々血が巡らない。
 どこかから水滴が落ちていた。規則正しく落ちるリズムにあわせ落下数をカウントする。意識の状態に異常は見当たらない。
 所持している知識に過不足もない。
 ひくり、と指先を動かすことができた。痙攣めいたその動きによって、薄く水が張った固い地面の上に自分の身体が横たわっていることを知った。頭を擦りつける。濡れて冷えた石床に額を当て、大きく息を吸った。酸素が血管を駆け巡る。いや、血管なんてものはもうないのかもしれない。仮初めの肉体の仕組みなど、未だ完璧に理解していない。
「――!」
 存在しているかもしれない、敵対するものに聞かれないため、声を押し殺しながら痺れる両手を支えに身を起こした。膝がごりごりと地面に擦れる。
 顔を上げ、霞む目の焦点をあわせようと周囲を見渡した。
 ああ、声をあげずに正解だったと、目の前に広がる鉄格子を眺め思う。これから自身に与えられる苦痛をぼんやりと予想しながら、ふと違和感を覚えた。目を汚れた手で擦り、その原因を探る。答えは容易に発見できた。
 鉄格子が開いている。
 この身は、拘束されていない。
 左下にある、人がひとり潜り抜けられるだけの大きさをした出入り口は、誘いだすように外へと開かれていた。
 首を捻る。この状況に至るにはなんらかの事情がありそうだが、それについての記憶は一切残っていない。果たしてどういった経緯でこんな場所に放り込まれたのか。
 鼻先を青い草の香りが掠めた。どうやら外部につながる換気口がどこかにあるらしい。
 ふらつく身体をなんとか制御しながら立ち上がり、檻の外へと歩み出た。向かい合った二つの牢の間にある通路の片側は行き止まりになっており、もう片側には上部へ伸びる階段があった。明かりが極端に不足しているが故に、空間の上部から差し込む四角い光をはっきりと視認することができた。
 水に濡れて苔が生え、表面がすり減りつるつると磨かれている階段をのぼるには、十分な注意を払う必要があった。
 ときに両手を目の前の階段につきながら、重い肉体を引きずり上げる。四苦八苦している内に、肉体は感覚を取り戻し始めた。踊り場で身にまとう布から汚れを払い、到達した鉄製の扉の前で躊躇する。耳をすまし人の気配を探った。明かり採りの小窓から、何者かが活動する音や気配、匂いや魔力の動きを感知することはできない。ここでも、扉に鍵がかかり監禁されているのではという心配は不要だった。扉は手前に向けてわずかにずらされている。
 カッと侵入する光に負けず扉を手前に開くと、外には白い壁が広がっていた。毛足の長い赤色の絨毯がくまなく敷き詰められている。ふと足を止め、絨毯をまじまじと見下ろした。まさか、という思いを振り払いたかったが、人のいない廊下を歩むにつれて疑念は確信となった。
 ここを訪れたことがある。この地で戦った記憶がある。
 この場所の時代はいつなのだろう、しかし誰もいない、と交叉する通路に差しかかるたびに安全を確保しながら己が置かれた状況を探る。ひとまず身を隠せる場所が欲しい、と彷徨ううちに、玄関ホールにつながる通路を発見した。あの広い空間で接敵しては逃れる場所がない。玄関ホールとは反対側に伸びる通路を進み、周囲に誰もいないこと、そして何らかの防御機構が働いていないことを念入りに確認してから、外に面した通路の窓を外に向けて開いた。
 どこからか、調理された食物の匂いが漂ってきている。
 ふと人の声が聞こえた気がして反射的に振り向いたが、何者も存在していなかった。余りの気配のなさに、城の奇妙な佇まいに、胸騒ぎがする。
 覚悟を決めて、森の木立に最も近い窓に足をかけ、一思いに飛び降りた。発見される危険性が一番高いと腹を括りながら、身を伏せ、森へと駆けこむ。
 一陣の風が吹き抜け、木立が騒めく。霊体化し限界まで足音を殺していても、森の中にいた『誰か』にとって、この行動は筒抜けだったらしい。
 だが離れた高みにいる「それ」は、緩慢な動きで城からの脱出者を眺めているだけだった。干渉するつもりはないようだ。好都合だが、ここで放置し、油断したところで己の背中を狙われてはたまらない。奴が誰の命令に従う立場なのか、現時点では不明なのだ。
 しばし逡巡し、足を止めた。頑丈な木の枝に腰かけ、幹に背をもたれかけさせている奴との距離は約五十メートル。「我々」にとってはないも同然の距離だ。
 無害な存在であるならば、最大限の努力を以て友好的に振る舞いたかったが、どうにも腹の虫が疼く。奴の姿を捉えると、神経が逆立つ。理由は不明だ。
 奴は互いに向きあっていた顔をふと逸らすと、ふあぁ、と間抜けに欠伸をしてみせた。あまりの緊張感のなさに、己が甘く見られているのではないかと内心腹が立つ。
 奴は手にしていた紙袋に手を突っ込むと、そこから何かを取り出して大きく開けた口に放り込んだ。炒った木の実の香りが遅れて届く。ぼりぼりと噛んでから飲み込み、心底つまらなさそうに口を開いた。
「願いが叶う上に、手厚く手厚くもてなしてくださるんだとよ。おまえも一緒にメシを食うか? 机からはみ出るほどの晩飯を作ってくれるらしいぞ」
 一瞬こいつはなにを言っているのだと、虚をつかれる思いがした。油断するまいと頭上の男を睨みつける。眉尻のあたりににじんだ苛立ちを、上手く隠し通せた自信はなかった。
「ああ、こうとだけは言ってくれるなよ。あー、なんだった? 『……私になにをした、はやめてくれ。それはとんだ濡れ衣だ』だったか?」
 対話は成立すまい、と見切りをつけ、武装を翻しながら男に背をむけた。その背中に声がかかる。
「いつでも言えよ。私になんてことをしたんだ、ってな」

 近辺で最も高い木の頂点まで登り、森の広さを測ろうと目を凝らした。森は城を中心として、半径二・五キロメートルほどの距離にわたって存在していた。途中に古びた色の城壁と城門がのぞいている。とりあえず城門を目印に進もう、と方向を頭に叩き込んで木を降りた。
 獣道をかきわけて進む。腰まで茂る低木と、そこに作られた魔獣の巣を避け、蜘蛛の巣のように纏わりつく亡霊を払い、曲がりくねった木の根によじ登っては重なる枯れ葉を踏んだ。
 自然が作った落とし穴に誤って落下しかけながら姿勢を持ち直し、そろそろ前に見えてくるはずの城門を探した。重なる木々の隙間から進む先を見通そうとするが、薄っすらと漂う霧によって視界は狭まっている。

 ――おかしい、と思い始めるのにさして時間はかからなかった。脳内に作った地図を辿れど辿れど、城門か、方角を多少間違えていたとしても現れるはずの城壁が未だ発見できない。
 立ち止まって思案し、近くにある最も高くて頑丈そうな木に飛びついた。枝を掴み、懸垂の要領で軽々と空に近づく。
 枝に立ち、森を見渡した。
 城を中心にして、半径二・五キロメートル。途中にある、古びた城壁と城門。先程いた場所から、距離は一向に縮まっていない。
 世界がぶわりと揺れた。その瞬間、幾重にも折り重なった多種多様な声が耳元で爆発する。動揺ですべる足を、雪崩れ込む記憶が後押しした。
 茂る木の葉と枝にぶつかりながら身体が落下する。注ぎ込まれるだけで破裂してしまいそうな、大量の記憶が身体を通り抜けた。墜落し、地表を厚く覆う枯れ葉のベッドに飛び込む寸前、目を見開き、天に向けて手を差し出した。
「--ぁ」
 やり場のない、名前すらない感情が背骨から指先まで迸り、アーチャーの目尻に涙が滲んだ。

 ***

 どの道を踏んで城に戻ったのか、どうやって城に戻ることができたのか、怒りで沸騰し真っ白になった頭は覚えていなかった。
 上下の歯を限界まで噛みしめ走っていた。朽ちかけた倒木が足場にされた衝撃で四散する。爪が皮膚を切り裂き血が盛り上がるほど拳を握りしめていた。木々はその形を認識する前に後方へ流れ去っていく。
 身体は跳ね、城の前提へ転がり込むように着地した。修羅の顔で男を探す。男はオニグルミの樹の下で、呆けた顔をして寝転がっていた。アーチャーは大地を靴で抉りながら歩を進める。
 あふれでる感情の波によって震える手で、男の襟首を掴みあげる。眼下にある赤い瞳は、冷え切った温度でアーチャーを真っ直ぐ見つめていた。
 乾いた唇は、男にぶつけるための言葉を欲していたが、明確な形にならない。歪んだ顔で、何度も口を開いては閉じる。
 息ができない、と締めつけられる胸を上下させながら思った。
「……ああ、確かに私のしたことだ」
 襟首を掴む両手に顔を埋める。今にも泣きだしそうに歪み、そのまま元に戻らぬ表情を隠して、なんて無様なんだ、と歯を食いしばった。
 ランサーは己を持ち上げる腕に手を添わせ、静かに告げる。
「そうだな。そして、オレのしたことだ」
 冷えた指先がアーチャーの首筋を撫でる。そのまま頭まで這い、白髪をかき乱しながら力強く頭を抱えた。
「なあ、キスしたい。アーチャー」
「こんな無様な顔を貴様に見せてたまるか」
「してえんだよ、顔上げろよ」
 両手がアーチャーの頬を包み引き寄せる。ぶつかるようになされた口づけに、アーチャーは思わず目を閉じた。数度、唇を食むように重ねられたあと、ランサーはあっさりと引き下がる。
 どさりと、ランサーは土埃をあげながら地に落下した。
 握りしめていた襟首から手を離したアーチャーは、立ち上がって呆然と背後にある城を見上げる。巨大な城館は、冬の曇天の下、ひっそりと気配なくそびえ立っていた。
 硝子窓の内側に、人影はなかった。肉と魚に火を通し、なにかを煮込む華やかな香りが仄かに鼻をくすぐっても、人々が活動する熱は一切感じられない。アーチャーには、自身がもう、過去の人々と邂逅することは叶わないという確信があった。

「ランサー。貴様には見えているのか。……彼らが」
 ランサーは不愉快そうに鼻をならした。
「オレは必要なものさえ見えれば十分だ」
「答えになっていない」
 咎めたものの、アーチャーはランサーがそう言い放ったことに心のどこかで納得していた。
「どうしたいアーチャー。願えば叶うらしいぞ。まあ最も、テメエの願いなんざオレは叶えてやらねえけどな」
 アーチャーは目線を落とし、平坦な声で告げた。
「主は君だ。好きにすればいい」
「テメエの主になんか、なったおぼえはねえな。だがまあ、ひとりが寂しいってんなら抱きしめるくらいはしてやってもいいぜ」
「……わからないな。私には、私が果たすべき理想はあれど、誰かになにかを望んだことはない。してもらいたいことなど、なにも」
 ランサーは地に寝そべったまま、呆れた表情で天を眺めていた。そして全身に力を込め、跳ねあがるように立ちあがる。
「アーチャー、オレはな。ここに長居する気は微塵もねえ。オレは出る。いいか、おまえも一緒にだ。断りの文句はいらねえ、時間の無駄だ。けどよ、その前にな。たっぷり寝転がって、限界まで食う。んで次に」
 ランサーの深紅の瞳が急速に艶めいて、輝く。アーチャーは、己を吸い込むように惹きつける両眼から顔を逸らし、小さく呟いた。
「まるで動物だ」
「うるせえ。そもそもテメエの身体がもう、隅から隅までボロッボロだからじゃねえか。おまえは潔癖すぎる。眠りもしねえ、食いもしねえ。生き穢く振る舞いたいならな、オレから一滴残らず魔力を搾り取るくらいにしがみついてみせろ」
「支障はなかった。ここに留まるだけならば。……まあ好きに食ってこい。ここの『娘』はやたらと私をもてなしたがって、やたらと食わせようとしていたからな。君のそういった姿勢は喜ばれるだろう」
「逃げんなよ、アーチャー」
「なぜ私に、逃げる必要があるんだ。……そうだ、ランサー。君にしてほしいことがひとつある。私のために」
「なんだ? 言ってみろ」
「……自由に振る舞っていてくれ。君が願うままに、どこまでも自由に。それこそが私の望みだ」
 アーチャーは、そう言ってランサーの前から立ち去る寸前、小さな声で呟いた。
『きみの目は、あかくて美しいな』

 ***

 見納めに、と訪れた礼拝堂は無人だった。明るい日差しが破れた窓硝子から差し込んでいる。乾いた空気が流れ、朽ちた椅子の上で埃がきらきらと舞っていた。
 かつてステンドグラスに描かれていた、聖杯を掲げる聖女の絵は無残にも割れ、顔の大部分が失われていた。宙に浮いた聖杯だけが、残った硝子の上で作られた光を放っている。

 ぎい、と音を立てる床板を踏みながら、明かりが十分に届かぬ祭壇の際に立った。埃が厚く被さり、虫に食われた本が一冊机の上に置かれている。
 アーチャーは感情をのぞかせずにそれを見下ろしたあと、迷いなく通路を一直線に戻って礼拝堂の外に出た。蝶番の壊れた扉を押して立てかけ、入り口を閉ざす。
 中庭には、見たことがないほど鮮やかな色をした花々が咲いていた。
「以前の、地味な色をした花の方がしっくりくるよ、アインツベルン」
 独り言は、巻き上がった砂塵のなかに散って消えた。

 ***

 ――いっそ何も言われずに、さっさと抱かれた方が楽だ。

 アーチャーはそわそわと落ち着かぬ腰を瓦屋根に下し、じっと腕を組み、終わりなく煩悶していた。余りにもくだらないことを思い悩んでいる、とひとり溜め息をつく。
 ぬるく吹きつける夜風を浴びながら、上空に広がる星々を見上げる。紺色を背景に小さくも鋭い光が隙間なく存在を主張し、天の中心では銀河が描く一筋の川が、白銀色に輝いていた。
 ――人の身を離れてもなお、手の届かぬもの。まるで一つ一つ丁寧に作った、愛しい数多の命の姿。

 アーチャーは立ちあがり、大きく背伸びをした。指先を伸ばし、天と距離を縮める。そのままふわりと飛び、眼下目がけて落下した。所々に張り出している突起に手をかけながら、三階にある窓まで器用に下り、開いていたそこへ身体を内側にすべりこませる。
 確かランサーはこの部屋をねぐらにしていた筈だが、と周囲を窺う。整えられた室内は無人で、暖炉では行儀よく薪が燃えていた。
 無断で部屋を利用することに気が引け、腕を組み壁にもたれかかった。確かに美しい城だ、とぼんやり屋内を観察しながら思う。
『――綺麗すぎる』
 ああ、そうだな。君が過ごしていた偽りの楽園には綻びがなく、どこまでも綺麗だ。そこには歓びも、苦悶もない。清潔で、安全で、静かで、そして生命が繁栄するための場所がない。
 ギイ、と窓枠が軋む音がし、アーチャーは窓から顔を出して頭上を振り仰いだ。一階上の少し離れた、アーチャーの部屋が位置している場所の窓から、ランサーがひょっこりと頭を出していた。
「なんだ、入れ違いかよ」
「私がそちらに行くから待っていろ」
「めんどくせえ、そのまま登ってこいよ」
「貴様と一緒にするな、たわけ」
 アーチャーが窓を閉じ屋内を振り返ると、部屋の机の上に、先程までは存在していなかったブリキのランタンが置かれていた。
 廊下の壁に並ぶ燭台にはすべて火が灯っていたが、それだけで城を包む暗闇を押しやることはできていなかった。
 奥行きのない闇を手元のランタンで照らしながら、アーチャーは進む。かつて城の廊下の隅にわだかまっていた、生き物のように蠢く闇の気配は、忽然と消え失せていた。

 ――もう私には感じることができないのだ。けれど僅かな欠けもなく、隅々まで覚えている。あの人々の暮らしを、息づかいを。
 過去の人々の、確かにあった嘆きと小さな喜びを。

 アーチャーは過ぎた廊下を振り返った。ランタンの中で炎がじりじりと燃えている。アーチャーはなにかに耐えるように眉根を寄せて瞼を閉じ、静かに頭を振った。

 明かりが灯る室内の、内側にむけて開かれていた扉を数回ノックし、アーチャーは返事を待たずに部屋へ入る。
 ランサーは窓の傍で腕を組み、じっと夜の帳が下りる森を眺めていた。硝子に映り、時折揺らめくランサーの像へ視線をやりながら、アーチャーは口を開く。
「ホムンクルスの彼らは、外に出て活動することが困難な身体だ。だから彼らは常に窓から外界を眺めていた」
 ランサーは無表情のまま、ぴくりとも反応しない。
「私とてそうだ。常に異分子として人々の暮らしを眺めている。私が外界の人々と交わるということは、私が命令に従うこととイコールだ」
「どこかのおまえはな」
 ふっと室内が夜の暗闇に支配される。ランサーは消えてしまった机上の蝋燭に対して、指先で文字を描いた。蝋燭の先端に再び、神の火が宿る。
「それでオレは、ここのおまえをどう口説けばいいのかね」
「君らしくない物言いだな」
 アーチャーは手にしていたランタンを机の上に置きながら答える。腕をほどいたランサーがすぐそばに近づいてきても、逃げようとは思わなかった。
「口説く必要などもうないだろう。私がこれまで君に告げてきたことを、いまの君はすべて知っている」
 ランサーの体温と匂いに包まれる。欲に掠れる声が耳元で囁く。
「おまえの口から、もう一度聞きたい。愛だの恋だのは要らねえ。ただ、おまえが、オレを欲しいっていうなら」
「……。君が欲しい、ラン」
サー、とすべてを言い切る前に、震える唇は塞がれた。

 ――ぁ、と漏れ出る声を噛み殺す。足の間に伏せられた青い髪が上下するたび、アーチャーは仰け反り、喘ぎを殺していた。
「ふっ、……う、ん」
 じゅるじゅると音をさせて、アーチャー自身を咥え唇を上下させていたランサーは、やがて伸ばした舌の先で、つう、と茎をなぞり、垂れる唾液もそのままに顔を上げた。目尻を紅潮させたアーチャーと目をあわせながら、艶めかしい笑みを浮かべ、濡れた唇を内腿に這わせる。足を抱えた手が肌を淫猥に撫で上げた。
「声を我慢するなよ、勿体ねえ」
「は、っ……男の声など、聞いたところで」
「おまえのなら、なんだって聞きてえ」
 真っ直ぐ告げられた台詞に、抱いた羞恥を隠すことができず、アーチャーは背中を枕に落とすと顔を腕で覆った。
「よくもそんな、恥ずかしげもなく……」
 完全に勃起したアーチャーのペニスの側面を唇で食み、奥の送球をやわやわと指で刺激しながら、ランサーは吐息まじりに笑い声をあげた。
「ん、あ……」
 再び男の喉の奥まで導かれ、締め上げられながら扱かれる感触にアーチャーの足が痙攣した。たまらず足の指先が強く丸まる。
「は、ぁ……ま、まて」
 闇雲に手を伸ばし、触れることのできたランサーの額を押しやって、アーチャーは己から離れるよう男に促す。
 ちゅぱ、とペニスを口から吐き出し、ランサーは先端に口づけながら喋った。
「なんだ、気に入らねえか」
「――ぁ、」
 アーチャーは頭を横にふる。布地に当たった髪が乾いた音をたてた。
「このままだと、……いって、しまう」
「いいぜ、いけよ」
 アーチャーは拒絶するように手を伸ばし、寝台の上で上半身を起こしていたランサーを押し倒す。さして力の込められていなかったその動きに抗うことなく、ランサーは寝台に横たわった。
 ランサーの上に乗り、頬を赤く染めている弓兵は指先で探りながら、いまだ身にまとっていたままのランサーの下穿きをおろした。ランサーも協力し、脱いだそれを器用に片足で床へと放り投げる。
 目の前でふるりとそそり立つランサーの性器を前にして、しばし躊躇したアーチャーは、そっと舌を伸ばして何度か表面を舐め、やがておそるおそる性器を口の中におさめていった。
 ずる、と唇を上下させるたびに、ランサーの形をありありと口内の粘膜で感じ取る。これをかつて腹の内におさめたのだ、と想像した瞬間、きゅう、とアーチャーの最奥が収縮した。切なく疼く腹の内を、今夜もまた満たして貰えるのだろうか、と不器用に舌で性器を愛撫しながら、ランサーに目線でねだる。
「っ……。かわいいな、アーチャー。欲しくてたまらねえって面だ」
 伸ばされた手によって、ぐしゃぐしゃと白髪を手でかき乱される。
「は、ァ……ああ、いい。アーチャー、そこ」
 亀頭に強く吸いつき、零れる先走りを啜って、両掌で筒を上下に扱く。ひくり、とランサーの腰が揺れた。
「喉、開けられるか……? そう、上手いな」
 ごり、と誰にも侵入されたことのない喉の奥まで性器で犯されながら、アーチャーは初めて感じる息苦しさと仄かな快感に、うっすらと涙を浮かべた。
 ごりごりと締まる喉の奥を十分に犯し、その感触を堪能したランサーは、しかし中で果てることはせずに己の性器をアーチャーの口元から引き離した。
「っ、ごほっ、……あ、ぁ」
 思わず噎せたアーチャーの顔を掴んで、ランサーは互いの唇を深く合わせる。舌を吸われる動きにたまらず、アーチャーは寝そべったまま、昂る己の身体をランサーに擦り付けた。
「ふっ、う、んん……」
 ランサーの頑丈な手で性器をやわく扱かれ、思わず背が丸まる。悪戯に、物足りない愛撫を繰り返す指先は、アーチャーの尻の狭間に辿りつくと、きゅう、と指先で最奥を押した。
「あ、あ……らん、さ」
 ぐにぐにと表面を捏ねるように撫でられ、掠れた喘ぎが喉の奥から漏れる。耳殻の上部を噛まれながら、
「なあ、欲しいか?」
と揶揄うように訊ねられる。
「……は。――いらない、とでも言われたら、どうする心算だ」
「いいぜ、言いたきゃそう言えよ。そのかわり、もう二度とそんなこと口にできないように、滅茶苦茶に抱き潰してやるよ。ほら、わかるだろ」
 ランサーの乾いた指先が、ぐに、と体内へ侵入するような動きを繰り返す。
「ここにオレのをぶち込んで、奥まで突き上げてやる。おまえがすきなところも、それより奥も。何度でもな。嫌だって何度言おうと、止めてなんかやらねえぞ」
「――あ、」
 アーチャーは目を閉じて、身体を戦慄かせた。ランサーに告げられた行為を思い描き生まれた快感によって、じわりと性器の先端から精があふれ、シーツを汚した。
 快感にひたり、思考がぼやけていたアーチャーは、上半身を起こしたランサーに促されるがままシーツの上で腹這いになり、腰だけを高く上げさせられる。
「――! おい、ランサー。なにを……っ」
 ようやく己がとらされた姿勢に気づき、焦るアーチャーを押さえつけ身を屈めると、ランサーは両手でアーチャーの尻肉を押し開き、伸ばした舌を近づけ、ゆっくり狭間を舐めあげた。
「……あ、や、やめろ! ランサ、アっ……あ、あぁ」
 なにをするんだと抗えど、気づけばアーチャーは急所を押さえられ、身体を起こすこともできない。シーツに溺れながら羞恥に背を反らし、どうにもできぬと気づくと両手で頭を抱え、最後アーチャーは枕に顔を埋めた。その間にも、ランサーの舌は後孔の表面を辿り、やがてじゅう、と音をさせて吸いついた。
 ぐちゅ、じゅっ、と水音が響くたび、アーチャーは握りしめたシーツを一層かたく掴んだ。上げさせられた腰は緊張で強張り、時折震えてはランサーに抗おうとする。しかしその度に抵抗は押さえつけられ、指と舌で拡げられた後孔への侵入を一層深いものへとさせた。
「……! あ、はぁ」
敏感な縁をぬめる舌につつかれ、緩んだ後孔から内部に侵入される。端にひっかけられた指先が穴を開き、差し込まれた舌先がざらりと粘膜に触れた。
「ふ、んん、あぁ……い、やだ、」
 アーチャーは己の屹立が、これ以上ないほど硬く張りつめていることに気づいていた。手を伸ばし、擦り上げたらどれほど気持ちがいいだろう、と枕の布地を噛み締め、低く唸りながら思う。
 ぬぐぬぐと後孔の内外を出入りする、意志を持った柔らかな軟体は、過ぎた快感がやがて苦痛に転ぶ一歩手前で、じゅる、と最後吸いついてから躊躇いなく離れた。
「はー……、はぁ、――あ」
 満足に息ができず、アーチャーは枕から顔をあげ、胸を上下させながら呼吸を繰り返した。
「も、もう、許せ、ランサ。……頼む」
 いつの間にか涙で濡れていた顔をむけ、己の身体を抱えるランサーにアーチャーは懇願する。
「! ひっ、あ、ぁあ、そ……こ、」
 唾液で濡れる後孔にランサーの親指が入り込み、ぐっ、とアーチャーの腹の内側を押した。
「ふ。……ん、おまえには刺激が強すぎたか? いいぜ、お望み通り、中にいれてやるよ」
 ランサーの、熱を孕み興奮を一切隠そうとしない声が、アーチャーに降り注ぐ。
「前からと後ろから、どっちがいい?」
 アーチャーはシーツに肘をつき、上半身を反らしてランサーを見上げると、無言でもそもそと仰向けになった。下唇を噛み締め顔を背け、羞恥で首まで赤くしながら、ぎこちなく足をランサーにむけて開く。
 横たわるアーチャーから立ち上る色香に、ランサーはごくりと喉を鳴らした。
「ふっ……んん、はぁっ」
 いつの間にかオイルを絡めていた指先が、アーチャーの体内に差し込まれ、ぬぐぬぐと出入りする。敏感な場所をあえて刺激されずに、ただ男を受け入れるため慣らされる行為にもどかしさを覚え、アーチャーは喉を反らした。ランサーの唇が、差し出されたアーチャーの喉仏を食み、そのまま鎖骨、そして胸に口づけては強く吸い、赤い痕を残していく。
 己の支配欲を隠さぬランサーの振る舞いに、熱い吐息が漏れた。もどかしく腰を揺らし、アーチャーはシーツに頬を擦り付ける。
 空いた手で膝頭を掴まれ、ぐい、と大きく開かされた。泪でぼやける視界のなか、爛々と光る赤い瞳は食い入るようにアーチャーの姿態を見つめていた。投げ出されたアーチャーの足を抱え、ランサーは己の身体を狭間にねじ込む。
「ん、んっ、……う、ぁ」
 硬い切っ先が、オイルにまみれ、充血しふっくらと盛り上がったアーチャーの最奥にあてがわれる。
「――んっ」
 あぁ、と切ない声が出た。アーチャーは頭の下にある枕を掴みながら、じりじりと己の腹に侵入する屹立の感触を受け止める。オイルでぬめる肉壁を割り開いて、ずるずると腹を犯していくランサーの剛直は、最後半ば強引にその身の全てをアーチャーの中におさめ切った。
「ふ、う、んんっ……!」
 はふはふと息を吐きながら、アーチャーが悶え身体をよじっても、ランサーの手によってがっちりと腰を捕らえられており、弱々しい動きは呆気なく封じられた。
「あ、ぁ……ラン、サ」
ァ、と手を伸ばすと、ランサーは身を屈め、アーチャーを強く抱きしめた。アーチャーが、汗で青髪がはりついているうなじに鼻先を埋めすんすんと鼻をならしていると、ゆるゆると繋がっている部分を動かされる。
 細かく前後する動きにあわせ、力の入らぬ身体を揺らされながら、アーチャーは目の前にある肩にやわく歯を立てた。ランサーは腕で抱えている、がっしりと筋肉のついた背中に手を這わせ、背骨の形を確かめるように指先で中心を辿っていく。
 ぐずぐずに溶け切ったアーチャーの後孔を犯す性器は、一度その身を引き抜き、張り出した部分でぐぷぐぷと穴の縁を拡げるように出入りを繰り返した。敏感な部分を刺激され、たまらず仰け反り啼くアーチャーを押さえつけると、次の瞬間一気に奥まで肉壁を擦りながら侵入し、腹の最奥を突いた。
「あ、あっ、んん――!」
 快感に腹筋が震え、アーチャーは無意識に、曲げた両脚でランサーにしがみついていた。
 アーチャーの内部を前後し快楽を貪っていたランサーの性器は、肉壁にぎゅうぎゅうと絡みつかれるたびに硬さを増し、大きく膨れ上がった。腹の中をいっぱいに埋めるそれに奥を突かれ、腹側の一点を擦られたアーチャーは全身を燃やす快感に掠れた声をあげ、頭を振って肌を伝う汗をシーツに散らした。
 天を指すアーチャーの屹立に、汗ばむ掌が添えられる。こぽりと精を零している先端を親指の腹で擦られ、くびれごと精を搾り取るように扱かれる。
「いっ、だ、だめだラン、サー……! いく、も、ぁっ……いく」
いく、と譫言のように呟くアーチャーの頬に舌を這わせながら、
「いいぜ、いけ……っ、オレ、も」
ランサーはアーチャーの腰骨を両手で掴むと、肉を肉にぶつける音をさせながら、アーチャーの内部へ強く性器を叩きつける。あ、ぁあ、と喘ぐアーチャーを犯し、流れ落ちる汗もそのままに、これ以上ないほどの深みまで性器をねじ込み、ランサーは己の精を吐き出した。
 ぎゅう、と握り上下に扱いたアーチャーのペニスから、びゅくびゅくと吐き出された精液が、ランサーの手を汚した。
 は、はぁ、ああ、と呻き、アーチャーは吐精してもなお痺れ、走る快感にぴくりと震えながら、腹の内にある、力の抜けたランサー自身をきゅう、と腹で締め上げた。

 二人分の荒い息が、静かな部屋に響く。
 一度抱かれただけなのにも関わらず、酷く疲れ果てた気分でアーチャーは寝台にその身を放り出した。ずるり、と抜け出るランサーの性器が残す感触に眉を寄せ、最奥から伝い落ちる液体にかたく瞼を閉じる。
 身を起こして寝台から下りたランサーは、部屋の出入り口に近い場所に置かれたテーブルまで全裸のまま近寄ると、用意されていた水差しから水を汲み、一気に呷った。
 アーチャーを振り返り、「要るか」と問うた声に、アーチャーは首を横に振ることで返事をした。
 数杯、柑橘の香りがつけられた水を飲み干して、ランサーは再び寝台に戻ると、アーチャーを跨いで上に乗った。
「これで終わりだと思うなよ、まだ」
足りねえ、とにやつく顔を、とろりと溶けた眼差しで冷静に眺め、アーチャーは落ち着いた声を出した。
「……すまない、眠くてたまらないんだ」
「ガタがくるほど酷使するからだ、テメエ自身を」
「ランサー」
「悪いが付き合ってもらうぞ。まだだ、まだ」
 わざと露悪的な表情をしたランサーに手を伸ばし、アーチャーは大切なものを掬い上げるような手つきで、頬を包んだ。
「申し訳ない……寝ていきそうだ。知っている、君は私を心配しているんだろう。私が消えないように……したいんだろう」
ふぁあ、と微睡みの中で大きく欠伸をして、アーチャーは囁きかけた。
「いい、好きに使え。私の身体なら勝手にして構わない。悪い、つきあえそうにないんだ……それとも、勃たないか、それでは……」
 ランサーは頬を包む骨ばった手に手を重ね、唇を寄せながら呟いた。
「寝てるおまえを犯すってことだぞ」
「構わん。納得するまでいくらでも抱け。ついでに言葉は選べ。……相手ができなくて、すまない」
 ふん、と鼻を鳴らしたあと、ランサーは大きく息を吐きだし寝台に横たわった。
「ランサー?」
「……あとで勝手にするから、寝ろ。寝入りばなにごそごそしてたら落ち着かねえだろ」
 胸にアーチャーの頭を抱え込むと、ランサーは器用に足先を使い、布団を引っ張り上げた。
 被った布団が作り出す空間の中に、どくんどくんとランサーの鼓動が響く。あたたかな体温を与えるランサーの胸に冷えた耳を押し当てながら、アーチャーは泥濘に沈み込むように眠りへと落ちていった。

 ***

 すうすうと安楽な寝息をたてるアーチャーを前にして、ランサーは表情を窺いながら舌を胸元に這わした。胸の尖りを唇で扱き、甘く歯を立ててやると、アーチャーは快感に耐えるように眉を寄せた。それでも瞼は閉じられ、覚醒する様子を見せない。
 じゅ、じゅとぷっくり腫れあがった先端に何度も吸い付き、やがて充血した左側に満足し、ランサーは右側の尖りにも吸い付いた。アーチャーが、もぞもぞと足を動かす。見れば、アーチャーの性器はゆるく頭を擡げていた。
 寝てりゃ素直な奴だ、とランサーは苦笑しながら、割れた腹筋に唇を這わせ、褐色の肌に点々と赤い痕を残していく。
 力の抜けた腕を手に取り入念に確認したあと、伸ばされた足を抱えつぶさに点検する。アーチャーを両腕で抱き、耳の後ろから脇の下まで肌の隅々を隙間なく探ると、最後胸に耳を押し当て、鼓動に耳をすました。
 ランサーは、アーチャーを消失させてしまう間違いを犯す気は微塵もなかった。たとえ己の身に溜められた魔力を一滴も残さず使い果たそうと、このボロボロに擦り切れた男に力を分け与え、首根っこを掴んで引きずってでもこの庭園から共に出ていく覚悟を決めていた。
 指先を伸ばし探った最奥は、使用した潤滑油と先程ランサーが吐き出した精でぬかるみ、今すぐ勃った性器を押し込んでも、上手く呑み込むことができそうな状態だった。
 ランサーは勃起していた己の性器を掴んで軽く扱き、完全に硬直させると、躊躇いなくアーチャーの最奥に押し当てた。
 慎ましやかな口が開き、中に溜まっていた液体を縁から吐き出しつつ、ぐぷ、と呑み込んでいく。アーチャーの肉壁がペニスにまとわりつき、ランサーの精を搾り取るように蠢いた。腰にわだかまる快楽に奥歯を噛み締め、ランサーはこのまま逐情したいという欲求に抗った。
 ――あ、ぁ、と目を閉じたアーチャーがあえかに喘ぐ。薄く開いた唇から、揃った歯列と真っ赤な舌がのぞいていた。んん、と鼻にかかった息を漏らしながら、出した舌先で唇を舐める。
「これで寝てるなんざ、勘弁しろよ……」
 ランサーは首を振り、額からしたたる汗を拭った。
「あっちいな……はあ、アーチャー」
 赤みを帯び、汗でしっとりと湿るアーチャーの足を抱え、意思を持ったように絡みつく内壁を何度も擦った。
「――あ、あ……ん、んっ、ふ」
 いまだ眠りの海に沈んだままのアーチャーは、しかし感じる場所を突かれる度に唇を戦慄かせ、背を反らす。
 ぐ、ぐっと剛直を前後させると、アーチャーは啼きながら先走りをこぼしていた。
 ――あぁ、いきそうだ。
 ランサーは荒い息を吐きながら腰を前後させ、汗ですべる手でアーチャーの足を抱えなおしては中を穿った。
 閉じた瞼を縁取る白い睫毛に、涙の粒が乗っている。
 ランサーは指のあとが残るほど強くアーチャーの膝の裏を掴むと、下生えを擦りつけるくらい深くまで自身をねじ込み、呼吸を止めて己の精を吐き出した。
「――っ! ん、あ、ぁっ……あぁ」
 アーチャーは口を軽く開けたまま、身をよじった。絶頂に達する寸前だった性器は、根元をきつく握るランサーの手によって、吐精を遮られている。
「まだだ、……まだ、付きあってもらうぞ、アーチャー。オレが納得するまではな」
 力なく横を向くアーチャーの目元から、涙が一筋落ちる。
ん、と甘えるような声が、口元から小さく漏れた。

 ――遥か遠くの地で、夢を見ていた。
 私はもう夢を見ることができないのだと、誰かは言う。
けれど唐突に流れ込んで私を満たし、私の前でこの光景を繰り広げるものは、誰がなんと言おうと夢だった。

 武具を身にまとった戦士たちが、かたまりとなって草原を駆けていく。馬の足が大地を蹴り、草の濃淡が作る海の上に土塊が舞う。
 彼らが出てきた村落から遅れて一人、青年は悠々と馬に跨がったまま動きを止め、身に余る丈の槍を背負いなおしていた。
 どこか灰色がかっていた世界は鮮烈な色を身にまとい、青々とした緑が周囲に広がっていく。彼を中心として、光で照らされていくように。
 幾重にも連なる山の輪郭が姿を現し、世界が呼吸を始めた。草花の香りと共に強く風が吹き抜ける。汚れひとつなく、底もない青天が上空を覆う。漣のような生命の息吹が、草原に立つ私を通り抜けた。

 隣の誰かと会話していた彼は遠くに立つ私を振りむき、私のうしろで手を振る戦友に気づくと、はればれと笑った。目の覚めるような天色が君を彩っている。
 戦友に手を振り返し、彼は旅立つ。一歩踏み出す度に、周囲へ生命を与えていきながら。

 私は見送ろう、夢で生きるいつかの君を。ゆっくりと右手を振って、どうか元気でと。

 ***

 ――チャー、アーチャー。どうした。
 ……なんだ。
 痛いのか? どこか痛ぇのか?
 ……なぜ。
 だっておまえ、泣いてる。
ざらついた指先が慎重に、目尻から頬を拭った。
 どこも痛くなどない。ただ君の、ランサー。
手を伸ばし、あたたかな身体を抱いた。微睡みのなか、柔らかく抱き返される。
 ただ君の、夢をみていた。

 ***

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