fate(槍弓)

 アーチャーは中庭の雑草を踏み、屋根の上に求める姿を探した。だが乾いた風のなかに鮮烈な青色は存在していなかった。光を反射させる窓越しに、城の中を行きかう人々の影が見える。
 ――終わりのない苦しみと、終わりのある苦しみ。
 この地に満ちているのは、終わりのない私の弱さだ。ランサーを愛してしまったことではなく、彼に嘘をついたことでもなく、偽りの上に偽りを建ててでもランサーがいるこの地に留まりたいと願ったことが。
 ランサーを己の支えとし、同時にこの地を救いたいと願っている。過去を過去としながらこの地の円環を外に解放する方法も分からず、疲れ切った身体も十分に動かない。なのに私は望みを捨てることができない。

 ゼンマイは何度もほどけ、そのたび律義に巻き戻される。過去が繰り返される。覚えた顔たちが、少しずつ異なる表情を浮かべ、怒鳴ったかと思えばすすり泣き、笑っていたかと思えば憂いている。
 そしてランサーも、重なる日々の中でアーチャーを睨む目の色を変化させていく。怒りに輝く鮮血のような赤色から、冷え切り鉱物と化した暗い赤色、時に涙が表面で光を弾き、アーチャーに向ける感情を隠しきる。固く結んだ唇は意志の強さをありありと表現していた。青色の毛先は軽快に跳ね、アーチャーが忘れてしまった、庭園を巡る歓びを訴える。いつでもこの世界から飛び出していけると言わんばかりに。
「アーチャー、オレは行ってくる」
 アーチャーはいつか、槍を屋根に突き刺し、その上に立つランサーを憧憬の眼差しで見守っていた。そよ風に吹かれながら、黄金色をした朝日に包まれる美しい横顔は、アーチャーには想像できない未知の未来を見据えているかのようだった。

「ねえ弓兵さん、これがあなたに似合うと思うの」
 間近に迫る身体に反応し、僅かに仰け反ったアーチャーの首元に、ふわりと白色のマフラーが巻きつけられた。豊かに使われた柔らかな羊毛は、窓から差し込む日差しの熱を存分に蓄え、アーチャーにぬくもりを感じさせた。
 赤く毛足の長い絨毯が足元に広がっている。二人は空中庭園の前のソファに並んで座っていた。
「……アイリスフィール、私はいつからここに?」
 マフラーの両端はアイリの手元まで伸び、片方には編み針が刺さったままだった。瞼を伏せて手元を見つめ、器用な手つきで編み目を増やしていくアイリは静かに微笑んでいた。
「ずっとよ。……ずっと座っていた」
「それは、邪魔を」
「弓兵さん。イリヤには何色の手袋が似合うかしら」
「え?」
 ふと視線をやれば、アイリの傍らに置かれた竹籠には、色とりどりの手袋やマフラーが積みあがっていた。合間からは帽子らしきものがのぞいている。アイリは喋る間も、手を休ませずに編み目を作り続けていた。
「弓兵さん。あなたには今更って笑われるかもしれないけれど、たとえ機械仕掛けの人形でも、同じ動作を続けていればなにかを作ることができるのね。私は嬉しいわ。私はこの地で、残してきたあの子のために物を作ることができる。城から出ることが叶わなくても、繰り返すことで生めるものもあるのね」
 アーチャーは鈍い動きで顔を動かし、離れた場所にある廊下を注視した。布が擦れる小さな音を聞いた気がしたが、上手く動いてくれない感覚のせいで、何者がそこにいたのか判断しかねた。
 アイリは細い指を動かし、糸を毛玉から引き出した。そのまま顔を上げ、不安そうに話しかける。
 あら、ねえ、キリツグ。イリヤはむこうで泣いていないかしら。私が寝る前に御本を読んであげることができないから、寝る前に泣いているかもしれないわ。
「大丈夫だよアイリ。イリヤの傍にはいつも君がいるのだから」

 ***

 いっそ叩き壊せたなら、簡単だったろう。けれど人々は動き、語りだしている。
『それもあなたが彼らを観察しているから。観察者がいるから、彼らは自由を与えられ動くことができる』
「それを壊しがたいものだと思う私を、可笑しいと思うか? アインツベルン」
 アーチャーは背後に立つ小さな人影に問いかけた。
『いいえ、ここはあなたの願いが叶う庭園――』
ぶわり、と少女の背後に伸びた影が巨大に膨らむ。
『永遠にここで遊んでいられるの』
「……アインツベルン。貴様は、誰だ?」
 弓兵の背に隠れた少女は、歪な表情をその顔に浮かべ、軋みながら笑った。

 ***
 
 ――こんなの、上手くいくはずないのに。
 差し出された冷たい手を、握っていた気がした。

 我に返ったアーチャーの傍らを、人影が駆け抜けていった。背筋を怖気だたせる気配が城を支配している。サーヴァントの存在を脅かす影が、足元をはいずり回っていた。
 黒い炎が燃え盛る玄関ホールでは、少女が喘ぐたびに空間が切り裂かれる。滅茶苦茶に破壊され、ありとあらゆるものが瓦礫と化した空間の中心で、少女は喉を掻き毟り苦しみ抜いている。
『たすけて、助けてください……助けて、――様』
 羽虫が壁を覆いつくしていた。思わず顔を顰め、鼻を覆うほどの腐敗臭が、足元から立ち昇っている。テラスにいるアーチャーを、アサシンが離れた場所からじっとりと監視していた。

 少女が苦しんでいる。なのになぜ私は腰かけているんだ、立ち上がらなければ、と焦るアーチャーの肩を、穏やかに、しかし抗えない強さで押さえる手があった。もがいた弾みで、額が硬い布地と金属に触れる。そこでようやく、自分は誰かにもたれかかっていたのだとアーチャーは気づいた。
 すまない、と頭を退けようとしても、手はなおも押しとどめる。
 隣にいる誰かが、アーチャーに話しかけていた。
「しかし、綺麗すぎる城だと思わねえか。欠けているところが、気色わりぃほどない。見つからない。綺麗すぎる」
「……きみには、そうみえるのか」
「ああ、そうだな」
「私たちは、随分違うものを見ているようだ。あまりにも、違う世界を生きている」
「今更だろう、誰だってそうだ。誰とだってそうだ。見えてるもんなんざひとによって違う。同じもんなんざ逆さになったって見えやしない」
「それでも、きみは、私と共にいてくれるのか。……すまない、きみが誰か思い出したいのだが」
「なあアーチャー。テメエはどうして『ランサー』と一緒に居たいと思うんだ」
「……さあな。深山幽谷を彷徨えば、気まぐれに連れのひとりも欲しくなるものなのだろう」
 少女のかすかな喘ぎ声が、アーチャーの腰かけるテラスを抉った。大きな石の塊が吹き飛び、パラパラと欠片が落下する。
「『天秤』に乗せなくていい、心配する必要のない誰かを欲したんだ。それに奴は、この地でも、生きていた……」
「天秤?」

 『マイヤ』は言った。柱に彫られた正義の女神を前にして。
 裁かれるものを見ないために目隠しをし、理想で終わらぬための力として剣を持ち、正義を測るために天秤を持つ。
 マイヤは鋏の先端を突きつけながら訥々と語る。
「あの人は天秤を用いました。重みを精確に計った。己の影響を一切排して、救うべきものと切り捨てるべきものを量った。
 彼は天秤を用いた。けれど天秤に徹することはできなかった。次に、力なき正義は無力であることを示すように、彼は力となった。力にしかなれなかった。
 なのに彼は、閉じた瞼の隙間から、人々の暮らしを見てしまった。正義の裏面を、天秤によって切り捨てられる人々の暮らしを見てしまった。そして走り抜けた彼は背後を振り返り、最期、自身が仕えていたものの正体に気づいた……。
 正義を越えた先を、私たちは求めていた。正義の女神に使役されながら、女神を越えようとする者と我々は己を定義していた。
 長い目で見れば、私たちはただの力という道具だったのでしょう。そして私は、私が死んだ後に私と同じ力が生まれるのか知る術はなく、また私を使っていたモノが真実『正義』であったのかを知ることはない。
 正義は秤、仕組み、判別する機構。ヒトの心だけであってはならず、けれどヒトの心からしか生まれ得ぬもの。
 ……そう、過去が今更口をきいたところで、意味などない。けれど、『私』が全てを投げうち、彼の力の一部としての務めを果たせたのなら。私はひとつ、願うでしょう。
『あの子』に様々な景色を見て欲しいと。
 私が目にすることは叶わなかった、人々がきっとあると口にする、明るい景色を、世界を。
 私は無色の力にすぎない。人でも正義でもない。それでも、あの子が目にする世界の、一部であれたなら……」

 影が一分の隙もなく城を覆いつくし、夜に呑み込まれたかのような暗闇だけがあった。アーチャーは空中庭園で幽かに光る、乱立する剣たちを見下ろしていた。
「……私はなぜここにいる?」
「歩いてきたからだ。テメエが、その足で」
「私は剣を立てただろうか」
「それはオレが消え失せてからだ」
「ああ、そうか……」
 秤。己の裡に在り己の重さをはかる秤と、己の内外に在り正義をはかる秤。
「けどよ、そいつもつまらねえ、意味のない話をしたもんだと思わねえか?」
「どうしてだ」
「はっ。こんな場所で、誰も気にしちゃいねえだろうがな。元々自分自身のハカリがぶっ壊れてる奴に、ハカリの話をしたところで意味が通じると思うか? そいつには終ぞ理解できねえ話だったろうよ」
『いいや、理解できるとも。その証拠に、私は生前、対立する二つのうちどちらを先に救済するべきかという、他者を秤に乗せる唾棄すべき行為に手を染めていたのだから』
 アーチャーは頭の中で渦巻く考えを「誰か」に伝えたいと思ったが、真っ暗闇のなかで足は縺れ、口からは乾いた息が漏れるだけだった。

 バランスを失い、足元に広がる剣の山に飛び込みそうになったアーチャーの身体を、頑強な腕が支え、軽々と抱えあげた。そのまま身体を肩に担ぎ上げ、息をしていることを確かめつつ廊下の開けた場所まで運ぶ。アーチャーの身体を床に下ろそうとしながら、ランサーは顔を顰め、行儀悪く舌打ちをした。
「なんとも胸糞わりい場所なことで。くそ、どうやったら覚えていられるんだ? ちっとは役に立つことを言ってから意識を失えっつうんだよ」
 ランサーは地面で胡坐をかき、大きくのびをした。
「しっかしまあ、おまえさんは間違ってねえな。オレはテメエの、ぶっ壊れた秤に乗せられるなんざ御免だね」

 ***

 轟音に身体を揺さぶられていた。墜落する星々は、地に接した瞬間爆発しているのではないのだろうかと、飛び散り口に入り込んだ欠片を噛みながら思った。遥か彼方で炎が燃えている。
 燃え盛る炎よりも、傍らにある体温は熱かった。土埃で汚れた手の甲に掌を重ねる。瓦礫は山となり、二人の周囲に壁を築いていた。鳥の巣のような小さな空間で、アーチャーは薄らぐ意識が闇に落ちそうになる寸前、懐かしい匂いにつられ、壊れた世界で隣に寝そべるランサーに口づけた。

 ***

 彼は天秤を用いました。片側に乗せ続けました。
 重みを増す片側に、急激に傾きこぼれ落ちていく片側に耐えられなかった彼は、己の身を反対の皿に置いたのです。その秤を誰が持っているのかも知らずに。
 彼の身では到底足りず、彼と同じ皿に載ったわずかな重みでも足りず、天秤は傾き続け、やがて彼の「願い」によって狂い、負けた歪な天秤は遂に壊れ、地に落ちました。

『ヒトは己の天秤を持ち、我々一族も天秤を持ち、同時に星も霊長も天秤を持つ。
 いまある世界を否定したければ、世界を欺き上回らねばならない。それこそ我らが悲願、我らが到達すべき最果て』

 少女は狭い膝の上にアーチャーの頭を乗せていた。赤い瞳で遠くを眺めながら、子守唄を口ずさむ。
「この歌を知っている? むかしむかしに、お母様が歌ってくださった……。おやすみなさい、アーチャー。『彼ら』の誘いや脅しになんて、もう耳を貸さなくていいわ」
 アーチャーはうつ伏せたまま、力なく首を振った。
 いやだ。寝ない。ぜったいに寝ないよ、イリヤ。だってあいつが……寝そべるおれの前に腰を下ろして、おい、いつまで寝てんだふぬけって……私の頬をぴたりと

 思い切り頬を叩かれた衝撃で、アーチャーは飛び起きた。
 その瞬間飛び込んできた真っ白な光に目を潰され、呻きながら鋭い頭の痛みに耐える。反射的に頬に手をやったが、肝心の頬には痛みがなく、仄かに残っていた誰かの甘い体温を、一瞬感じただけだった。
「……あ、は……。私は、なにを」
 アーチャーは両目を両手で擦り、口を大きく開けて深く息を吸った。頭を抱えながら背を折り、肘をついたところで、身体の下にあり己の身体を揺らす弾力を認識する。目を無理矢理こじ開けると、自身が寝台に横たわっていたことに気づいた。柔らかな羽毛の掛け布団が、アーチャーをくるんでいる。
 数度瞬きをし、恐る恐る布地に手を伸ばした。背を伸ばし、周囲を窺う。根城にするうちにいつの間にか慣れ親しんだ、アインツベルン城の四階に位置する部屋の寝台に、アーチャーは寝かされていた。壁に設置されている小さな暖炉では、ぱちぱちと音をさせながら薪が燃えている。
 静寂が城を支配している。アーチャーの頭は、嫌になるほど醒め切っていた。久しぶりに得ていたらしい睡眠は、アーチャーに積もり続けた疲労を一気に押し流していった。
 長い狂乱から目覚めた気分が、混乱に一層拍車をかける。
 ――寝ていたのか、私は。寝てしまったのか。
 同じ姿勢で眠っていた所為か、寝台から下りるだけで軋むような痛みが身体を襲った。アーチャーは、絨毯に足を下ろすと、部屋と廊下を繋ぐ木製の扉の前までの距離を、神経を張りつめさせながら進んだ。裸足のまま毛足の長い絨毯を踏んだせいで、足の裏はひどく擽ったかった。
 伸ばした手は、躊躇いによって一度ゆるく下がったあとに、ドアノブを触った。冷たい金属の感触に鳥肌が立つ。
 アーチャーは扉を引いて、おそるおそる廊下の様子を確認した。
「……あら、お目覚めになったんですか。もう少しお眠りになればよろしかったのに」
 廊下の片隅から気配なく姿を現したメイドに、アーチャーは目を見張ることで応えた。彼女は綺麗に折りたたまれたシーツを何枚も重ねて両腕に抱えながら、すべるように移動する。
「まあ私が口を出すことではありませんね。ところで昼食は召し上がります? 要らない? それは結構」
白色のお仕着せを着たメイドは、硬直するアーチャーを顧みることなく廊下を横切ろうとし、ふと思い出したようにアーチャーを振り返った。
「ですが、たまにはお嬢様のお食事のお相手になって下さいませんか。お嬢様、いつもお一人でお食事をしていらっしゃいますから……。もしよろしければ、私か、リーゼリットに仰ってくださいませ。では、失礼」
 アーチャーは呆然とメイドの後ろ姿を見送った。頬を手で擦り、首を傾げる。
 未だ夢を彷徨っている気分のまま、形のない力に引き寄せられて一階まで下りた。アーチャーは、自分は一体どこにむかっていたのだろうと、傍らの自然光が差しこむ細長い窓を見上げた。曇りひとつなく磨き上げられた硝子を挟んだ外には、ミルク色の霧が漂う森が広がっている。
 ステッキをついて彫像を眺めていた老人が、サロンに消えた。
「そう。……そうだ、地下牢だ。ランサーは、地下牢に、いる」
 数多の日々の結果、最早思考せずとも辿りつけるようになった場所を目指す。その背中に、のんびりとした女の声がかけられた。
「アーチャー。ランサーは、地下牢にいなかったよ」
 ワインボトルが何本も詰め込まれた籠を両手で抱えたリーゼリットは、廊下の中心でたどたどしく微笑んでいた。柔らかく自由な表情で、アーチャーに話しかける。
「アーチャー、ランサーが、ワインセラーにいた」
 いままでにない彼女の振る舞いに戸惑いながら、アーチャーは問い返した。
「ワインセラーにランサーがいたのか?」
「さっきはいた。床に寝そべってた」
「そう……か」
 現実感を失った足取りで、ワインセラーを目指すアーチャーの四歩うしろを、リズは楽し気な雰囲気をまといながら追いかける。

 これまでになかったことだ。ワインセラーで目覚めるランサーも、ぎこちなく微笑むリズも、廊下の奥で大きく笑いながら、先を行く誰かと喋っていた洗濯籠の女も。
「イリヤスフィール」
 説明を求め思わず名を呼んだアーチャーに、リズは応えた。
「イリヤは、森に行ったよ。バーサーカーの肩に乗れば、クルミを簡単に探せるから」
 遠く鐘が鳴っている。
 影が棲むあの礼拝堂に鐘はあっただろうか。思い出すことができない、と歯を食いしばり足早に進むアーチャーを、玄関ホールに佇む人影が遠く見つめていた。
 長い黒髪を頭の両端で結んだ少女は、赤色の服の袖ごしに壁の角を掴んでいた。翳る緑色の瞳を大きく見開いて、徐々に小さくなる広い背中を見守る。やがて廊下を折れ曲がり、その姿が消えたことを確かめると、静かに踵を返した。

 ワインセラーにつながる廊下を猛進していた。次々に現れる時代がかった椅子や青磁の壺を流し見ながら大股に進み、途中で我に返って立ち止まった。そのまま勢いよく、通り過ぎた通路の途中にあったソファまで取って返す。アーチャーは仁王立ちになって、ソファの上で丸まって唸る男を無言で見下した。気配を察したのか、男は狭いスペースで器用に寝返りをうち、前髪をかき上げる。
「……あぁ、なんだおまえかよ。……おいアーチャー。てめえなんか知らねえか?」
ランサーはソファにその身を放り出し、荒い動作で肘掛けに長い足を乗せた。頭を抱えるように身を折り、深々と溜め息をついた。
「わざわざ酒樽の真横で酒盛りでもしてたのか? にしては誰もいねえんだよ……くっそ、頭がいてえ。こんな酔い方したことねえぞ」

 『アーチャー』と、彼はまるでアーチャーとランサーが親しい間柄であるかのように名を呼んだ。押し殺された呼吸でかさつく唇を舐め、喉の奥から掠れた声を絞り出す。
「ランサー。君には、記憶があるのか」
「は……ん? なんだそれ」
 呆けた顔でアーチャーを真っ直ぐ見つめたランサーは、なにか喋ろうと唇を動かしたが、それは明確な単語を形作らなかった。少し離れた場所から、リズが陽気に教える。
「お酒はのんでないよ。減ってなかったから」
「……なんでだ。なんでオレはこんなところにいるんだ? それにおまえ以外、畜生。頭が、重い」
 アーチャーは奇妙な心地で、絶え間なく動くランサーの唇を見つめていた。熱を孕んだ視線に気づいたのか、疑問に満ちた表情を隠さずに浮かべた男へ、アーチャーは淀みない動きで手を差し出した。
 冷えた手が重なる。ランサーは少しの抵抗もなくアーチャーの掌に己の手を乗せ体重をかけると、上半身を起こしながら周囲を見渡した。
「おまえさんさ、なんか聞こえねえか。……よく聞こえねえけど、なんだこれ」
 ……危なくはなさそうだが、とランサーは半ば独り言ちた。なにかが聞こえそうなのに、聞こえねえな。
 地下のワインセラーから瓶を運び出す、過去のメイドの姿が背後の白色の壁と共にぶれた。過去を再現している現実が揺らぐ。アーチャーの胸の震えに同調するように。
「そうだね、こわくないよ。イリヤがいるところだもの。こわいのは、いけない」
 二人の元から去りながら、リズは言った。守るべきものを持つ、ひとりの存在として。
 カチリカチリと、金属が噛みあう音が耳底で鳴る。
 巡っていた過去を忘れたかのような城の様子に動揺する心を押し殺し、アーチャーは平静を装って告げた。
「ランサー。話はあとでする。しばらくひとりにさせてくれないか」
「へ? おう。別に、どこにでも行けよ。オレも勝手にする。あー、どっか近づかねえ方がいい場所はあるか?」
 ――廃墟。塔の工房。礼拝堂。……いいや、それは
「それはきっと、私の隣だろうさ」
冷え切った鋼の瞳はすぐに隠された。
「行ってしまえばいい、ランサー。森の外に出るのもいいかもしれないな。貴様なら出ることができるかもしれない」

 ***

 音が途切れ無人の城が現れたかと思えば、ふと背後で人々が喋りだす。生命の気配がかき消えたかと思えば、ドレスを着た女性たちが現れ、時には湯気を立てる料理を運ぶメイドたちが行きかう。
 途中の一室で、開け放たれた入り口の前の廊下に膝をつき、洗濯女が幸せに満ちた顔で、歌うように喋る。
「今日はよく晴れております、ユスティーツァ様。ぜひ外にお出になってくださいまし……勿体ないお言葉でございます。御供をする者なら他におりますよ。……望外の喜びでございます。いやだなんて、そんなこと決してありません。ええ、喜んで御供させていただきます……」
 彼女は頬を上気させ、主の使用人ではなく話し相手として、友人として振る舞っている。心底満たされた表情で。

 アーチャーの心臓が大きく鼓動するたびに、眼前の光景は揺らめき、形を変える。階段を上った先にある空中庭園への道を、床の存在を確かめるかのように一歩一歩強く踏みしめて進んだ。
 四階の庭に連なっているであろう剣たち。ランサーを諦めてしまうことができずに積み上げられた、これまでの嘘の数。どれほど苦しもうと、なにも進まない、なにも生まない。「彼」を想い、「彼ら」を救い出したいと願ったことは確かでも
 ――完結した地からはなにも生まれないと、心のどこかは諦めていたのではなかったか。

 ……ああ、今回だってランサーに記憶はない。過去は過去でしかない。変化したものなど、なにも。
 アーチャーは力なく、廊下にあるソファに腰を下ろした。二人掛けのソファの隣に人影はなく、空いた座面の上に、最後まで編み上げられ完成した、白色のマフラーが畳んで置かれていた。

 ***

 夜の闇が忍び寄りつつある空中庭園に、湿った空気が流れ込んでいた。
 林立する夥しい数の剣が及ばない、石畳の端に置かれた石造りのベンチに、二人は並んで腰かけていた。
 徐々に減っていく光の下で、征服王は巨体を小さく丸め、一心に古びたホメロスの詩集へ目を通していた。熱心に読み込まれた本の頁はすっかり草臥れて磨り減り、片隅は破れ、糸で綴じられた背はほつれて瓦解しつつある。
「まどろっこしいなあ。そう思わないか?」
 ウェイバーは足を放り出して遊ばせながら、隣の王に話しかけた。
「なにがだ」
「うわぁっ」
 征服王がベンチの上で身じろいだ瞬間、巨体に押し出される形でウェイバーは地に落ちた。
「考えろよ、ここの狭さをさ!」
再びベンチによじ登りながら、ウェイバーは口を尖らす。
「まどろっこしいと思わないか? あの二人」
 征服王は面を上げると、豊かに蓄えられた髭を片手で撫でた。磊落な、しかし明確に一線を引いた重い声で告げる。
「余が口出しすべき問題ではない。もとよりその道理もない」
「そうだけどさあ……」
「だがな、違ってきたとは思わんか?」
 ウェイバーはきょとんとした表情で、上にある征服王の顔を見上げた。征服王は大きな口を笑みの形にし、獲物を発見した獅子のように瞳を爛々と光らせている。
「なにが違うっていうのさ」
「馬鹿にはできん。繰り返し続けた果てで、なにかが変わるやもしれぬ。坊主、夜空をよく観察しておけ。そのうちに星が降らなくなるかもしれんぞ」
「ふうん。じゃあ、あの王様には不興だな。星降るさまくらいしか肴がないとか、ぶつぶついいながら酒を呑んでたし」
「ほほう、それは、共にすればよかったのう」
「馬鹿いうなよ。それよりもボクは……あのセイバーが怖い」
 ウェイバーがちらりと視線をやった空中庭園の中心では、武装を外した状態の、青い服を身にまとったセイバーが正座をし目を伏せたまま、微動だにしていなかった。時折アーチャーの姿が廊下を横切る度に、刺し貫くような目つきで鋭く睨む。

 紺色の空を横切る、数え切れぬ白色の尾。それが幾筋も天に刻まれる星降る日に、星々は遥か遠くの地へ流れていく。
 城で最も高い場所に位置するバルコニーで、英雄王は頭上に広がる青みがかった黒色の空を眺めていた。彼は宝物庫から取り出した神代の酒を、手にした黄金の盃で呷ると天を裂かんばかりに哄笑した。血の色をした瞳がきゅう、と可笑しそうに細められる。
「元の形に収束しない。それもまた一興。妄執が作った絡繰り人形どもに、レプリカに、命が宿るか。喜べ、おまえがその一助を果たしたのだ。――祝福すべき命の誕生だ」

 ランサーはガス燈が燃える廊下で、不思議そうに耳をすましていた。ゼンマイが緩む。歯車はいまにも動きを止めようとしている。
 カタカタと城が揺れていた。空を切り裂く弾丸と化した星々が落下していく。城の真上にではなく、遠くにそびえ、連なる山々へ。星々が迸らせる光に、爆発し発生する閃光に照らされながら、アーチャーはその光景を呆然と見つめていた。足元で靴と擦れあった屋根の瓦が、耳障りな音を立てる。
 足音が、アーチャーを探していた。足が怒りを刻んでいる。大理石の床を割れんばかりに踏みしめ、廊下に並ぶ部屋の扉を片端から全て開け放っていく。蝶番が壊れ扉が歪もうと構いもせず。獣は唸りながら階段を駆け上がる。憤怒に突き動かされるがまま窓を破って屋根に飛び乗り、足跡の形に瓦を破壊していく。撓る身体は跳躍し、最後、屋根に力なく腰掛けるアーチャーの気配を全身で捉える。声もなく襲い掛かり――
 ランサーは手加減なく、アーチャーの頭を足元の屋根に押し付けた。ハァ、ハァと荒い息だけがふたりの間で響いている。手で頭部を押さえつけられているせいで、ごりごりと素焼きの瓦がアーチャーのこめかみを擦っていた。
 身体を制圧している男が持つ、深紅の瞳がアーチャーを貫く。瞳が与える痛みによって骨に電流が走り、全身が震えた。

 ――ああ、彼は思いだしたのだ。私と共に過ごした、この庭園での日々を。

 燃え上がる憤怒によってぎらつく瞳が、犬歯も露わに歪められた口が、アーチャーを問い詰める。
「アーチャー、テメエどういうつもりだ! なんで意味もなくオレにあんなことを何回も何回も! オレを好いたと言ったな、なのに嘘をついて偽ってばっかりだ! オレにそんなことを吹きこみ続けて、好きだっつった口で『私は貴様の敵だ、手出しするな』だと! よくぬかせたなそんなことが! オレは、オレが、忘れて、忘れてばっかだ――テメエ、テメエ」

 ランサーの視界いっぱいに、何百枚も『アーチャー』の姿が重なり捲られていく。「私にもわからないんだ、何故こんな場所にいるのか」「そうか、君の記憶はなくなるのか」「ベッドを共にした」「貴様は自由だ、条件付きとはいえな」「君を手厚くもてなそう、それが望みらしい」「君には彼女の姿が見えないのだろう」「君の温度を忘れられないと告げたら嗤うだろうか」「君と私にはなんの関係もない」「行きたまえよ、好きなところにな」「私にはどうしても忘れたくないものがあるんだ」「疲れてなどいない。私は望むがままに振る舞っている」「嫌いではないよ、ここはな。好きにもなれないとはいえ」「どうしても手放せないものがあるんだ、私は外に行けない」「迷ったんだ、外へ行こうとした途中でな」「なあランサー、君の手を少しの間借りていいか。なにも訊かないでくれ」「君は見たことがないか? 見れないか。その姿はとても美しかった」「人形たちに紛れた異分子さ」「私は君の敵だ。君に告げることなどひとつもない。敵に利することなどしない」「近づくな、その顔を見るだけでうんざりする」「朝がくる時を待っている。似合っているんだ、あの姿に」「嘘だと思えばいい」「けれど、いつかあった出来事なんだ」「あれは幻じゃなかった」「渦巻く過去に埋もれ、私の記憶も明確さを失っている」「嬉しかった」「あたたかかった」「この地の過去を救いたい」「求めるものはふたつある」「救済を笑うか」「贅沢だろう」「この身に釣り合わぬ願いだ」「もうひとつ、もういちど」「誰も救えない願いだ」「彼と共に、過ごしてみたかった」「奴は、自分のことを覚えていてくれる誰かを求めているよ」「今度こそ告げようと、思うだけだ」「うんざりだ」「恋だとか愛だとか崇高なものではない」「私自身の我欲でしかない」「唐突だろうな、君にとっては」「会いたいんだ」「私を愛してくれた、ひとりに」
「おぼえていてほしかった、私と共に過ごした時間を」

 ――かつてのアーチャーは吐き捨てる。顔を背け、拳を握り、『私は君の敵だ』と言い放つ。そのときアーチャーの膝は、どうしてかすかに震えていたのか。

 屋根に押さえつけたられたアーチャーは全身を強張らせ、ランサーを睨みつけた。怒りに顔を歪ませ、大きく胸を膨らませる。
「嘘偽りではなかった。うそいつわりなどではない。ああ、嘘など数え切れないほどついた、私の内から生まれ出るものはレプリカばかり、抱いた理想に縛られ城も壊せない!
 過去を変えることも救うことも不可能だと知りながら彼らに拘泥している、そうだ、そうだとも、貴様からすれば愚か極まりないだろう!
 それでも、それでも私が抱いた貴様への想いだけは本物だった! 私のまえで自由に生きていてくれる君は、どこまでも尊かった!」
 叫ぶ弓兵の襟元を掴み、ランサーはアーチャーを屋根に打ちつける。割れんばかりに噛みしめた歯の間から、這いずるような低音が漏れ出ていた。
「……そうしてテメエは、また諦めるのか」
 薄い泪が覆う鋼の瞳が、敵意も露わにランサーを貫いた。
「諦めなどしなかった、私は一度も諦めなかった。この肉が腐り骨だけになろうとも、私の命がある限り、私はこの地に立っている! 君がいる限り、私は立ち続ける!」

 カチリ、と音をさせ世界は終わる。ゼンマイはほどけ切る。

「時間切れだ、ランサー」
 ランサーはアーチャーの手首をぐっと掴み、屈辱に顔を歪ませながら容赦なく怒鳴った。
「オレは許さねえ。オレは、テメエもオレも許さねえ。確かにおまえを愛したのなら、オレはオレがそれを忘れることを、絶対に許さねえ!」
 彼はアーチャーを指差した。罪がそこにあることを告発するかのように。

 崩れ落ちる。人々が、人形たちが崩れ落ち、アーチャーもまた崩れ落ちる。傍らにいる、かつて愛しいと思ったはずの男の眦を、親指の腹で拭った。
 呆然と天を見上げていた。耳が痛くなるほどの無音のなかにいた。

 ――忘れられるから、私は君が欲しいと囁いた。忘れてくれるから、私は愛を囁けた。
 忘れてくれるから? それは途中で知ったことだ。なぜだったのだろう。私ははじめ、なぜ彼を愛しいと思ったのだろう。求めたのだろう。
 彼が私に突きつけた指先。彼は私の命を絶つだろうか、私の思いごとすべてを。憎んでくれるだろうか、私の存在を。
 それとも、私に応えてくれるだろうか。たった一回だけ起きた奇跡を、真の実にするように。

 瓦屋根を踏む軽い足音が近づいてきた。背の低い少女の形をした影がアーチャーの背後に立つ。
「深く眠ればすべてが終わる。あるべきものはあるべきものへと姿を変え、苦しみを取り払い、この地に安寧をもたらすでしょう」
 アーチャーは己の前に横たわるランサーの頬へ手をやると、決して彼を傷つけない柔らかな手つきで、そっと撫でた。
「私には君が、『イリヤスフィール』だとは、思えないな」
 アーチャーは屈みこみ、ランサーの身体の奥深くまで、生命の息吹を吹きこんだ。

 ――これで終わりだ。私はもう君に自ら口づけない。巻き戻る幻影に別れを告げる。擦り切れた私にはもう、彼への想い以外なにも残っていない。ランサー、私はこの地に立ち続けたい。だがその願いが、君への想いが君を苦しめるくらいなら、私はこの地に別れを告げよう。
 だが、あと一回をどうか許してくれ。私の我儘を、あと一度だけ。

 城は不条理の中にあった。夜空に太陽が輝き、子供の身体を持ったホムンクルスが吹くシャボンのなかに、宇宙が閉じ込められている。城の人間は自由に暮らしていた。
 洗濯女が、友人として主の髪を梳き、互いに手をつなぐ。
欠けた身体のホムンクルスが、故郷に残した同胞をかたく抱きしめていた。一族を導く老人は、無言のまま彼らを見守っている。黒い襤褸を纏う前の青年が、召喚したサーヴァントと対峙する。そこにはヒヒ、と悪戯に笑う悪がいた。
 廊下を行きかう人々から、かつて顔をあわせた人々から、かつて矛を交えた人々から、アーチャーに手が伸ばされる。アーチャーはそれらすべてを穏やかに振り払って、居場所の分からぬたったひとりの男を探していた。

 ――君がいない。だから君を探す。扉をすべて開け放ち、日常を垣間見る。葉巻を吸いながら酒を舐め、歓談する人々を。仕立てた正装を身にまとい、社交の場へ歩み出る人々を。銀のナイフで肉を切り、キューでボールを狙い、埃にまみれた書籍を高みから取ろうとして転がり落ち、エプロンで手についた水を拭い、栽培した薬草を乾燥させるために天井から吊るす。
 彼らを次々に驚かせながら、アーチャーは巡っていた。
 各戸にある日常から疎外された身で、疎外されようとした身で、求めるものはひとつだけだった。最早なぜ求めているのかさえわからない、それでも欲しくてたまらない。
 君が怒りをもって駆けた階段を、寂しさを抱えながら駆け上がり、君が憤りをもって開け放った扉を、哀しみを抱いて開け放つ。日常を送る人々に挨拶しながら、日々が営まれている城を横断する。平穏な日々がある、なのに、なのに。君だけが、どこにもいない。

 上り切った階段の終わりで、アーチャーは膝に手をついた。天を向き、荒い呼吸を繰り返す。整えようと思えど、身体は言うことを聞いてくれない。ひりつく指先を肌に食いこませながら、両手で顔を覆った。
 獣がいる。一階に現れたらしい荒ぶる獣は、力を漲らせて一直線に私を目指す。牙をむき出しにし、ばねのように動く脚へ力を込め、階段を跳躍する。踊り場に足を着地させながら、アーチャーの背中を数階上に見つけたそれは、吠えながら一気に飛びかかり、アーチャーをうしろから突き飛ばすとその上に覆いかぶさった。
 重い躰が背中に乗っている。獣の荒い息が肌を伝い、アーチャーを震わせた。頬が絨毯の表面に押し付けられる。
 罪人のように、罪人として制圧される。怒りのあまり骨が折れてしまいそうな力で圧し掛かる彼は、それでも
「――なんて、顔してんだテメエはよ」
アーチャーが求めた『クー・フーリン』そのものだった。

 背後から発せられたランサーの声には、塩の結晶の一粒よりも小さな呆れが含まれていた。
「私の顔など、見えもしないのによく言う」
「いいや、オレは見続けた。おまえの顔を、何度も何度も、なんども……」
 世界が揺れる。陽炎のなかでふたりうずくまる。
「そうか、君は思い出せたのか」
「よく居れたもんだ、こんな下らねえ場所に」
 ああ、君にも見えたのか。この完璧で、逃れ得ない庭園が。
「つくづく見損なった。テメエはとんだ腑抜け野郎だ」
ランサーはアーチャーの髪を掴み、耳元に唇を寄せる。
「男なら、欲しいもんは全部奪え。甘ったるく見守ってるだけでテメエのモンになると考えてるなら、とんだ思い違いだ」
「私のものになどならなくていい。私はこの地に留まれるだけで満足だ。彼らが平穏無事でいてくれるなら、私がすべきことはなにもない。……そう、求めるもののために、私は眠ることをやめ、問うことをやめたのだ」
「気に食わねえと言ってやりたいがな、それなら好都合だ」
 アーチャーは疑問を抱き、床に押し付けられた状態のまま、なんとか覆いかぶさるランサーに視線で問いかけようとした。ランサーは喉の奥で、愉しそうに笑う。
「オレはそっから欲しいものを貰っていくだけだ、あまちゃんよ」
 耳を柔く食みながら、ランサーはアーチャーの耳に囁きかけた。
「おまえ、オレに言ってないことがひとつあるだろう。――なぜ、オレとおまえだけが独立していた? なぜオレにはおまえだけが見えていた? おまえしか見えなかった?」
 アーチャーは苦い笑いをこぼしながら、耳を擽る温い息によって上がる体温に抗おうと、身をよじらせた。
「――美しかった。逆さまの世界で、私は獣を発見したんだ。木立の間で凛と立つ姿をな。君も何かを失うことが惜しいと思ったのならば、口づけして息を吹きこんでみたまえよ。……私は『望んだ』んだ、それを、確かに」

 荒々しい手つきで寝そべる床から引きはがされ、奇妙な城のなかを引き摺られていく。周囲から伸ばされる多くの手へ己の手を差し伸べようとしたアーチャーを、ランサーは強引に遮った。迷いのない足取りで辿りついたアーチャーのねぐらに、抱えた身体を無理矢理押し込む。
 出入り口を塞ぐために扉の前に立ったランサーは、獰猛に凄んだ。
「いいか、アーチャー。夢を見るなら寝てからにしろ。起きたまま変なモンに魅入られてんじゃねえ。脇が甘いにもほどがある」
 彼はアーチャーに手を伸ばした。喉元を片手で掴み、耳元で告げる。
「寝ずに夢を見るなんざ理屈にあわねえ。眠れよ、ひでえ顔だ」
 アーチャーの瞼を強引に掌で覆いながらランサーは囁きかける。
「……それにあの時のおまえ、結構わるくなかった」
 アーチャーは自ら瞼を閉じて、唇の片端を歪ませた。
「あんな無様なさまなどさっさと忘れないか、たわけ」
「断る」

 部屋の灯りがひとつ残らず落とされた真っ暗な部屋で、ランサーはアーチャーを組み敷いていた。窓から淡く星の光は差していたが、互いの顔を認識することさえ困難だった。
 アーチャーは、己の上にあるランサーの身体の形を確かめるように、素肌の上に掌を這わせる。肩を両手で掴み、首筋を撫で、頬を包む。ランサーはアーチャーの頭を腕で抱え、もう一方の手で腰を妖しく探っていた。
 探るようにあわされた互いの唇が重なり、軽く啄むような口づけを繰り返す。やがてどちらからともなく差し出された舌が深く絡み、二人が立てる水音が終わりなく部屋に満ちた。
「ランサー……」
 唇がほどかれ、アーチャーは圧し掛かる影が確かにランサーであると知るために声を発したが、答えはなかった。白髪に鼻先が押しつけられる感触に、ふるりと身体が震えた。
「君の、声が聞きたい」
「喋ってると寝れねえだろ」
 アーチャーは羞恥に唇を噛んだが、探るように伸ばした手でランサーの頭を引き寄せ、先程の口づけによって濡れた唇を頬に当てながら乞うた。
「君の声を聞いていたら落ち着く、気がする」
 シーツが擦れる音が響く。ランサーはアーチャーの脇の下に両腕をまわし、身体をかたく抱きしめた。うなじに顔を埋められ、熱の篭った吐息が耳のうしろまで届き、アーチャーの敏感になった肌を擽る。
「アーチャー……、アーチャー」
 ランサーの指先が、服を脱いだアーチャーの内腿をなぞる。無防備な場所を他者に触れられる感覚に、アーチャーは背を反らし、シーツを握りしめた。
 濡れた舌が胸元をゆっくりと這う。アーチャーの肉体の形を確かめるように。
「ん……あ、っ」
 胸の尖りに、軽く歯を立てられる。しかしそれはもどかしく思えるほど弱い力で愛撫してくるだけで、求める刺激を十分に与えてくれない。アーチャーは強引に開かされた足で、間に陣取るランサーの腰を挟み、膝に力を込めた。
 放り出した両手を握られ、寝台へ磔にされる。ランサーの唇が、一か所たりとも空白を残さずアーチャーの肌をなぞっていく。まるでぬるま湯のなかで抱かれているようだ、とアーチャーは霞がかった頭で思った。
「……あ」
 敏感な場所に触れられるたび身体が跳ねた。じわじわと溜まる熱が腰の奥で渦巻いている。
 暗闇によって閉ざされた世界で、ランサーの肌に滲んだ汗の匂いが、皮膚が厚くなりざらついている指先の感触が、口づけで触れた歯のなめらかな硬さが、アーチャーを徐々に追い詰めていく。
 押さえていた手を取ったランサーは、アーチャーの指を一本ずつ舐め始めた。爪の表面をねぶる緩慢な愛撫に、アーチャーは発情した猫のような声が胸の奥から出ることを止められなかった。
「ラン、サー……!」
 たまらない。早く私を貫き、揺さぶってくれ。あまりにも辛すぎる、こんな、私を骨ごと溶かすような。
 詰めていた息を吐きながら無言で抗っても、ランサーは抵抗を易々と封じ込め、小さく笑う気配をさせながら、アーチャーをぐずぐずになるまで愛し尽くそうとしていた。
 全身から力が抜けていく。臍を嬲られ、快感に硬直すると宥めるように脇腹に歯を立てられる。脚を曲げさせられ、膝の裏まで指で形を確かめられる。
「ん、いやだ……ランサー、そんな……!」
 左足の親指から、足の内側を柔らかな感触が上に向かって上ってくる。じわじわと襲いくる快感に耐えられず頭を振り、早く終わってくれと願う反面、まだ片足しか彼の戯れは終わっていないのだ、と期待で喉を上下させた。
 ただ胸で大きく息をすること以外の動きは許されず、長い愛撫を終えてランサーが満足して身を起こすころには、アーチャーは半ば朦朧とした意識と脱力した身体で、寝台に横たわっていた。
「ん……っ」
 物音がしたと思うと、両脚を抱え上げられ、ぬるついた感触が最奥を探り出した。ん、と甘えるような息が鼻から抜ける。
 アーチャーが仕方なく腰を上げてやると、後孔の表面に油を塗りつけていた指先が内部に潜り込んだ。視覚が閉ざされているせいで、中に侵入するものの形をありありと認識させられる。指は入り口を軽く引っ掻くように刺激し、伸ばした指先で緩く、しかし迷いなく腹側の一か所を押した。
「――っ! ラ、ランサ」
 あぁ、と身をよじりながらアーチャーは足をもがかせた。腹の中で弾ける快感に身を撓らせる。
「好きだろ、ここ。前もよがってたもんな」
「よがってなど……」
 ランサーの声が思っていたよりもすぐ近くで聞こえ、アーチャーは顔を振った。紅潮した顔が見えていないとわかっていても羞恥心に苛まれ、顔を枕に埋めてしまいたかった。
「嘘つけよ。泣いて悦んでたじゃねえか」
 ――う、とアーチャーは硬直する足で寝台を蹴った。男の言うことが真実か嘘か、もう十分に判断する力も残っていない。
「いい、いいから……ランサー、もう」
 アーチャーがそうねだっても、ランサーは中が緩み傷つくことなく男を受け入れられる状態になるまで、指でほぐすことを止めなかった。
 後孔から溢れた油が内腿を伝う。あ、と掠れた声が漏れ出た。ランサーはまるで見えているかのようにアーチャーをひっくり返し、うつ伏せになった肉体に覆いかぶさった。
 焦点の合わない瞳で、淡く光る窓を見つめる。ランサーの手が、ベッドと腹の間に差し込まれた。一度も触られていないアーチャーの屹立は、布と擦れただけで快感を訴えかける。ぐっ、と下腹を掌で押された。
「……いれるぞ」
 荒い息の合間で告げられた言葉に、アーチャーは顔を伏せたままゆるく頷いた。その反応を知ってか知らずか、いつの間にかそそり立っていたランサーの性器が、アーチャーの狭間に押し付けられ、先端を穴にあてがってゆっくりと侵入をはじめる。
「――あ、ぁ」
 アーチャーは全身に力を込め、シーツに縋りついた。いつか己の身を開いたものに再び犯される感触に、沸き立つほどの快感を抱く。あ、あ、と意味を持たない声が終わりなく口から発せられる。ぐぷ、と先端の張り出した部分を難なく飲み込ませたランサーは、そのままアーチャーの背にぴったりと肌を重ね合わせ、前後に軽く揺さぶりながら己の全てを肉筒におさめきった。
 アーチャーの額から汗がしたたり落ちた。重なるランサーの肌も、うっすらと汗ばんでいる。奴もこの行為に興奮している、と感じると同時に、最奥が強くランサー自身を締め上げた。
「っ、おい、あんま締めんな」
 シーツを噛んだままアーチャーは腹に力を込め、ぎゅう、とランサー自身を包みこんだ。
「おまえな……、いっちまう」
「はっ」
 嘲笑のあと吐き出そうとした皮肉は、口に潜り込んできたランサーの乾いた指先によって宙に消えた。
「かわいくねえやつ。まあそこが、かわいい、んだけどなっ」
 口内の唾液で濡れた指先が、アーチャーの唇をなぞる。その繊細な動きに、ひくりと腰が反応した
「……この、キワモノ好きめ」
「そういうことばっか言うならな」
「うっ、あ……っ!」
「こっちも容赦しねえぞ」
 ランサーの硬く反る性器が、アーチャーの最奥まで突き入れられる。寝そべって身体を重ねているせいで、怖れを抱くほど深い場所まで入りこんだ先端が、アーチャーを犯していた。
「らんさ、……ふか、い」
 耳殻を食みながらランサーは腰を揺らした。アーチャーは己の鼻先を擽るものがなにかと正体を探して鼻をひくつかせ、やがて頭上からすべり落ちてきた、ランサーの髪の毛先だと気づいた。
「んっ、んん……は、ぁ」
 ぐじゅぐじゅと聞くに堪えない音が接合部から響く。前後するたびにランサーの下生えがアーチャーの臀部に擦りつけられ、その生々しい感触にたまらず喘いだ。
「お、い」
 アーチャーは暗闇のなか手を伸ばし、ランサーの手を探していた。捕まえた手首を強く握りしめ引き寄せると、唇を押し当て囁いた。
「まえ、も触って……」
くれ、と吐息交じりに懇願する。放置され一度も触れられていない己の熱に苦しみ、アーチャーは眉をぎゅっと寄せた。ランサーは迷うようにアーチャーの肌を撫でると、そのまま肩をぐっと押さえつけた。
「――おい、貴様」
 動きの止まらない腰と音のむこうで、ランサーが喉で笑う気配がする。気配と共に首筋に湿るなにかが当てられる。それが蠢き、肌に接しながら喋る感触に鳥肌が立った。
「好きなところ、中からしてやるよ。だから目え閉じて、黙ってろ」
 みっちりと腹の中を支配するランサーの性器が、腹の奥の一点を先端で刺激した。ぐっ、ぐっと擦られる度に火花が弾けるような快感が全身に芽生え、アーチャーは声もなく背中を反らした。
「――!」
 強引に開かされた太腿は硬直し、脚は油と汗でじっとりと濡れていた。余りの快楽に悶える身体を押さえつけられ、アーチャーは急速に高みへ押し上げられていく。
「あっ、あ、ランサー! は、ぁっ……」
 瞼の裏で、白い光をみた。ランサーの匂いに包まれながら、乾いた喉がせりあがる熱で焼きつく。ぎゅう、とシーツを握りしめる手の甲を、重なった手が握っていた。アーチャーは全身を丸め、後孔を貫くランサーの形をありありと感じながら、ジワリと己の精を吐き出した。
 だらだらとこぼれ落ちる緩慢な射精に、たまらず涙がこぼれ落ちた。
「――あ、まて、あっ……まってくれ、あ」
 いってる、と噎せぶアーチャーの内部で、ランサーは性器を前後させると、最後に一際奥まで突き入れ、やがてぶるりと震えながら埒をあけた。アーチャーの腹の奥がじわりと熱に濡れる。
 涙の筋が残る目尻に口づけながら、ランサーはひどく優しい声で「アーチャー」と名を呼んだ。

 後ろから回された掌が瞼を覆う。真の暗闇に導かれるまま、アーチャーは深い眠りへと落下した。
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