fate(槍弓)
二章 Heaven's Fall・続
水が垂れる鉄格子を掴んでいた。アーチャーは、氷のような温度で空間を仕切るそれらを直に掴み、手をぬめる水で汚していた。
なにを期待していたのだろう、とアーチャーは胸の内で呟く。
――私は一体なにを期待していたのだろう。彼と身体を重ねることで、どのような変化があると予想していたのか。
アーチャーは目の前に広がっている光景について、心のどこかでは納得していた。だが同時に、アーチャーは、ランサーと身体を重ねた直後に己が思い描いていた理想図を、もう思い出すことができなくなっていた。一度身体を許したことで、ランサーはアーチャーの内部に降り積もっていた出来事や想いの断片をことごとく掻っ攫っていき、最早いまのアーチャーには空になった身体と、捕まえ損ねた体温の残り香だけしか残っていなかった。
結べたと思った舫い綱はするりと柱から解け、アーチャーは再び大河の上を流れていく。
ランサーは毛先から水を撒き散らし振りかぶると、突きつけた槍と同色の瞳で、アーチャーを鉄格子越しに睨みつけた。
「あァ、くそ、頭が痛え。――テメエ、オレになにをした? こんな場所に一体どういう心算で閉じ込めたのか、訊いてもいいもんかね」
鋭い槍の先端がアーチャーの喉元を狙う。敵愾心を露わにし好戦的に振る舞うランサーも、全身に生命を漲らせ、離れがたい魅力を放っていた。この男を一時でも手に入れられたのは、この城に惑わされ見せられた夢だったのではないかと錯覚するくらいに。
「なんか言えよ。申し開きはないのか?」
ランサーにまた嘘偽りを告げたなら、彼は再び愛してくれるのだろうか、とアーチャーは上手く回らない頭で思った。いいや、最早あのとき口にした内容は嘘偽りではなくなった。ランサーの肌のぬくもりはこの肌に刻まれている。
どうすれば覚えていてくれるのだろう、と答えのない問いを抱きながらアーチャーは五歩ほど後ろに下がると、両手で顔を覆い、水が溜まる床に腰を下ろした。
「勝手に出ていけばいい。鍵はかかっていない」
絞り出された低い呻きに、ランサーは半信半疑といった様子で鉄格子の出入り口に手をかける。耳障りな音を立てて開いたそれを押しながら、彼は外に出た。
「なあ、アーチャー……」
「どこに行ってもいい。好きにしろ。貴様は自由だ、この地は安全だ、そうだとも。ただひとつ、外に出ることだけが叶わなくとも、貴様は十分に自由だ……」
光も碌に届かない地下の通路で、立ったランサーは座したアーチャーを見下ろしていた。傍らに転がる、火の消えたランタンの灯りがもしあったとしても、手で強固に覆い隠された表情を認識することは叶わない。
ランサーはわずかな躊躇いをにじませて、一度足踏みをした。アーチャーは暗闇のなか強く首を振る。
「私に構う必要などない」
ランサーは無言のまま、アーチャーの前から立ち去った。暗い地下に、足音を響かせながら。
飽くことなく繰り返す。
愛を告げたなら、ランサーは記憶していてくれるだろうかと淡く期待し、囁いてみては、結実しなかった希望を地に投げ捨てる。
たった一度与えられたぬくもりの記憶を、決して手放すまいと大切に抱きながら、たとえずるずると床にへたりこんでしまうほどに力を失っても、槍の穂先で皮膚を裂かれても、孤独に奥歯を噛み締めても諦めず、アーチャーはランサーを、城を、ひとり見守っていた。
アインツベルンの娘は言う。あなたは観察者、あなたは炉心。あなたが願えば城が動き……あなたが眠れば、この地は閉じる。
その言葉を聞く度に、アーチャーは屋根に上り庭園の先を見通そうと目を凝らした。森を抜けた先に広がる世界を、霞がかった頭でぼんやりと夢想する。大河を往く小舟とて、押し流された結果、大海に到達することがあるかもしれない。
擦り切れそうなほど再現される過去を巡るうちに、ランサーの肌の感触と体温を、己の肌の上で思い出せなくなっていることにアーチャーは気づいていた。
目覚めた彼と言葉を交わす気力は徐々に涸れ、ふと我に返れば地に膝をついている。地下牢のランサーから、敵意を持った槍を突きつけられなくなり、まるで弱いものを哀れむように頭を撫でられても。その屈辱を味わってもなお。
アーチャーは終わる度に、剣を庭園の地面に刺した。
アーチャーは目覚めたランサーに告げる。口は己の意思に関係なくなめらかに動く。
かつてついた嘘によって得た一夜は重い咎となり、アーチャーを拘束する。あるとき苦しみにのたうち、たまらずランサーとの日々を文字に残した。けれどそれも、『次』が到来したときにはすべて消え去っている。
奇跡のように「アーチャー、それを次にもオレに言えよ。おまえに頼る以外の道がねえ」と告げられたこともあった。「どうしたアーチャー」と武装越しに荒い手つきで抱きしめられることもあった。
けれどアーチャーにはもう、判別がつかなかった。
――私は『今』の彼と、どのような関係を築いていたのだったか。君になにを告げ君はどう応えたのか。
目の前のランサーがいつか見たランサーと重なり、上手くそのままの姿を捉えることができない。幾重にもぶれた像から、いま目の前にいるランサーだけを掬い取り、上手く焦点をあわせることができない。
疲労でぼやける視界のなか、鮮烈な青が迸る。擦り切れた身体を取り囲むあやふやな景色の中心で躍った、その一色だけが強く心に焼きついていた。
「ですので、おわかりになるでしょう」
こくり、と頷いたアーチャーは、一瞬己がいる場所を見失っていた。黴臭く冷えた空気が頬を撫でる。ぼんやりと壁に浮かぶ細長い青天を見上げた。黒い影となった壁の中心で、天を切り取った窓がぽっかりと口をあけている。城の裏手の、使用人が利用する階段に直接腰かけ、洗濯籠を傍らに置いた女の話に相槌を打っていた。
「私は奥様の、ユスティーツァ様のために遥々このような東国へ参ったのでございます……。ハァ、すみません、最近疲れがとれませんで。
見知らぬ方に言うことでもありませんが、私はユスティーツァ様にお帰りになっていただきたいのでございます」
女は細い金属で編まれた籠に手を乗せ、アーチャーの足元をじっと見つめながら、かさつく唇を舌で湿らせた。
「ここだけのお話ですよ。ええ、私なんぞが努々口にしていいことではございません。
ほんとうに、ユスティーツァ様はひどいお方なのでございます……故国にいたときのお話でございますが。寝室でユスティーツァ様がご自分で髪を梳いていらして、けれど髪を梳くための油がメイドの不注意で部屋に置かれていませんで、毛先が縺れたと仰って。それは一大事だと、ですけど、上級メイドに改めて油を持ってくるよう、そしてご自分ではなくメイドに髪を梳かすよう命じられたらよろしいのです。奥様の髪は、それはそれは長く美しい御髪でございましたし……。
なのに、なのにですよ。『ねえ、縺れてしまったからほどけないわ。髪を切ってくれないかしら』と、ああ、今思い出すだけでも身震いいたします。私のような不出来なホムンクルスが、女性の魔術師様の髪をお切りするなど、あってはならないことでございましょう。そう、奥様は捨てられかけていた私を拾い上げてくださった、なんとも気まぐれなお方でございました。それゆえに、私は奥様に逆らうことなど決してできませんし、してはならないことなのです。私などただの、思慮の浅い人形でしかありません、奥様のお考えを拝察しようとすることさえ失礼な存在でございます。なにかを命ぜられたならば、従わせていただく以外に選択肢などございません。私はユスティーツァ様にすべてをお捧げいたしております。
ですが、ですが。髪を切れなどと、奥様の髪に鋏をいれよなどと、いくら奥様のお願いでもあんまりでしょう。あんまりなお願いでした……ええ、そう、不満を告げたかった。畏れ多くも、私はいまでもユスティーツァ様に、奥様、あんまりですと申し上げたいのです。
願わくば奥様と共に故国へ帰り、あの、暖炉で火が燃え盛る、雪に埋もれた城の暖かなお部屋で、お身体を休ませて差し上げたかった。こんな、奥様を知る者も碌にいない異国へ置き去りになどせず……。
ユスティーツァ様は、もうお帰りにならないと仰って行ってしまわれた……。私は! 許されるならばお傍に跪き、広がる裾に縋りつき、奥様の、不安などないの、と微笑まれたユスティーツァ様の手を、手を……許されるのならば、赦されるならばあの手を握って差し上げたかった。
私は咎人です。私はあの偉大なお方の髪を切った罪を抱える、人形なのです……」
音楽室の女は語る。アーチャーが傍らにいるときも、己しかその場にいないときも語り続ける。女の甘い歌声が満ちる一室で鍵盤を荒々しく叩いたかと思えばそのまま腕の中に顔を埋め、乱れる息のなか声を絞り出す。
「可愛い子だった。そしてどうしようもなく愚かな子だった。疑問も持たずに私に従っていて、私の後ろをついて回っていた。私を見上げて、あなたの中にユスティーツァ様がいらっしゃる、わたしには見えるのと、飽きるほど繰り返していた。
私は『貴方にもユスティーツァ様はいらっしゃる』と慰めてあげたわ。それでも『わたしにはいない、失敗作のわたしにはいらっしゃらない』って頑是なく首を横に振っていた。『わたしは独りぼっちだった』と、私に縋りついていた。名も碌に与えられなかった私なんかによ。そう、魔術回路のパターンを示す名しか付いていないっていうのに。
日々が続けば、いつかどこまでも車を走らせて、私たちは自由になるのだと根拠なく夢想していた。私たちは同じ夢を見ていた。
帰りたいわ、あんな処から外に出ることさえできるなら、命など惜しくないと思っていた。結末さえ知らないまま。
……あの子に会いたい。どうして私はさっさとあの子の手を取らなかったのかしら。たとえ途中で惨めに倒れて野垂れ死んだとしても、あの子と出ていきたかった、車に乗って、行けるところまで、どこまでも……」
「嘘に嘘を重ねていく気分はどうだ?」
礼拝堂の影は変わらず椅子に座り、ステンドグラス越しに、暗く沈む外界を眺めていた。輪郭も曖昧な影は、小さな祈りの家にその身を縛りつけられ、外に歩み出るための身体さえ与えられない。
そのことに不満の一つも漏らさず、消えた蝋燭に慣れた手つきで火を灯していた。影の姿を照らす力もない、弱々しい火を。
「嘘? 嘘とはなんだ?」
アーチャーは痛む額に指先をあて、にじむ汗を拭い取った。返答はなく、忍び笑うような気配だけが届いた。
「……一度だけだ、嘘をついたのは」
「君は己に嘘をついている。欺いている。なぜ君は、彼を連れてこの世界の外へ出ていこうとしないんだ?」
アーチャーは力なく仰け反り、高く闇に隠れた天井を見上げた。白髪を掌で撫でつけ、そのまま頭上で両手を組む。
「私に対して口を出さないのではなかったのか? それに、眠ってしまえば丸く収まる話なのだろう。彼女の言うことが正しいのならば。眠りたくなれば眠るだけだ、ホムンクルスたちと共にな」
アーチャーは敢えて影から目を逸らしていた。影は低く昏く囁く。
「築いた嘘に嘘を重ねていく気分はどうだ? 君の肩にいつからか勝手に圧し掛かっていた世界の柱となり、それゆえ己の執着を踏みにじり、はなからなかったものとして己自身を押しつぶす気分は?」
「――まるで、この世の主になった気分だ」
中庭を行くアーチャーの手を、背後から伸びた小さな手が握った。二人の外套の裾が、冬の風によってぱたぱたと翻る。高い屋根の上に腰かける槍兵の姿を、アーチャーの千里眼は捉えていた。
アーチャーの身体にランサーの感触が降り積もる。染み渡っていく。繰り返されている日々の中で、確かにあった細かな触れ合いを一つ一つ明確に覚えているのに、それがいつあったことだったのかを思い出すことができない。それでもアーチャーは自身に語り続ける。ランサーが与えてくれた懐かしい肌の感触と、注ぎ込まれた愛情によって胸に生まれる温度について。たとえ聴衆が、城を流離う自分一人しかおらずとも。
三階のギャラリーに足を踏み入れた瞬間、鋭い殺意がアーチャーを貫いた。鈍く光る銃口が、狂いなくギャラリーの出入り口に狙いを定めていた。時が止まる。
互いの存在を認識したのちに、部屋に置かれた机を前にして椅子に腰かけていた女性は、慣れた手つきで己が構えていたグロック拳銃をホルスターに仕舞った。
かつてこのギャラリーに展示されていたと思われる芸術品は、辛うじてカバーを掛けられた状態で、フロアの片隅に山積みにされていた。壁や柱に直接彫られた像だけが、かつての部屋の面影を残している。
女性は磨きこまれた机の上に紙を敷き、小さな鏡を前にして前髪を切っていた。手元で、よく砥がれた銀色の鋏が光を反射させている。
「髪を自分で整えるのか」
「……ええ。戦場で、髪を切ってくれと誰に頼めるはずもありませんので」
女性は鋭い切り口の髪を揺らしながら答えた。
「照準器を覗くときに邪魔になるものは、排除しておかねばならない」
アーチャーは敷き詰められていた絨毯が剥がされ、上に乗る者の姿を鏡のように反射させている床の上を歩いた。
ギャラリーの中心にある巨大な柱には、下半身を柱に取り込まれ、上半身だけが表に出ている女神像が彫り込まれている。
女神は両目を布によって覆い隠され、右手に剣を持ち、黄金で作られた天秤を左手で掲げている。女神像を見上げるアーチャーにちらりと視線を遣った女性は、誰に言うともなく呟いた。
「天秤は正義、剣は力。レディは何者も見ない。何者に対しても平等。――そしてアインツベルンは、レディをその身に取り込もうとする。悪趣味と断ずることは容易い」
女性は手にした鋏の鋭利な先端をゆっくり持ち上げると、遠くから女神に向かって突きつけた。
「皆、正義の女神に恋い焦がれている。ときに己が女神と結ばれていると、或いは侍らせていると思い込む。けれどそれは誰も同じ。
……私は信じている。あの人の理想が実現すれば、いつか女神が不要になる『その時』が来るのだと。私が進む道は決して変わらない。私は剣、私は力。既に私は人であることをやめた。人間ではなくただの力として存在し、あの人のためにこの命を使い切ろうと決意した。ただひとつの理想のために、私は彼の一部となる」
アーチャーは物言いたげな瞳を女性に向け、君は名をもっているのか? と静かに問うた。
「――与えられた名ならばある。『マイヤ』。私を個として定義する、唯一のもの」
アーチャーは塔の屋根に上り、遥か遠くにある地平線を眺めていた。庭園の最果てはひどく遠い、と独り言ちる。
あそこまで辿りつくには、一体どれだけの時間がかかるのだろう。
建物のなかを少女と共に音もなく歩み、緩く繋がっていた手をほどいて礼拝堂へと向かう。描かれた、聖杯を掲げる聖女を見上げながら、個から個へ受け渡され、次代に重荷を課し、果てには生命の境界を越えてまで求める彼らの悲願というものを理解しかねる、と拳を握った。
「だが君もまた悲願を受け取った。だからこそ君はここに存在できている」
「貴様との対話は不要だ」
「その割には私に応える……なんとも手のかかる仔羊だ」
影は沈鬱な声で訥々と喋る。掠れた声で、誰に聞かせるでもなく。
「災いだと判断したならば、この地を出るときに背後を振り返ってはならない。救いを求めることにも、呪うことにも意味はない。何処までいっても、人として生まれたならばヒトでいることしかできないのだ。地に基を据えられた御方の思いなど、推し量れるものではない。
私はかつて悪であった。主の愛を我が肉体に、精神に見出すことが遂に叶わなかった。それでも主は私を愛していてくださると、私が未熟であるがゆえに主の愛を見出すことができないだけなのだと考えていた。必死に探り、その切れ端を掴もうとしていた。
だが、それは本当に無かったのだ。私の裡に主の愛は存在していなかった。それは厳然たる事実だ。そして私は主を見限った。私は私自身をひとり背負い、誰の愛も共になく、この完結した肉体だけで存在するのだと納得し、主と決別した。遠い、遠い話だ。
だが私を本当に打ちのめしたのは、私が精神と肉体の支柱としていた存在をなくしてもなお、私の背骨が砕かれ四散してもなお、世界は変わらず巡っている、その事実が若い私を骨の髄まで打ちのめした。
知っていたとも、そんなことは。だが世界との断絶を突きつけられ、私は戸惑い、心のどこかで打ちひしがれていた……。
振り向かないことだ。残すしかないものは残していく他ない。諦めることだ。そうすることでしか進めないのならば」
黒色の襤褸を纏った亡霊が、城の片隅で絶叫する。人形たちの故郷を描き出すロングギャラリーの最奥で、連なる灰色と、一枚のカンバスに描かれた滲む光と晴天の青を終わりなく呪う。
亡霊は襤褸の隙間から枯れ枝のような腕を突き出し、その手に持った半月型に波打つ金属の刃を振りかざすと、躊躇いなくカンバスの青空を真っ二つに切り裂いた。
遠く悲鳴が響く。切り裂かれたカンバスから一拍の間をおいて鮮血がだらだらと流れ落ちる。亡霊は頭を掻き毟り、床に蹲りながら終わりなく呪いの言葉を発し続けていた。
炎をまといながら墜落する星々が鼻先を掠める。燃え盛る炎の向こう側に倒れているランサーをじっと見つめていた。口づければ幻影が巻き戻り、再び始まりの日が到来する。
儀式と化した一連の行為を淡々とこなす。アーチャーは消え去ったランサーを支える姿のまま、その場に留まっていた。やがて朝露の匂いが立ち込める靄の中で立ち上がり、城の地下牢ではなく、城の表に広がる森林を目指して歩き出した。
獣道に落ちている枯れ葉を踏む足音は、二人分あった。重い肉体を持つ戦士の足音と、走ることさえ満足にできない作り物の少女の足音。
『私が外に出ていくことは許されるのだろうか。己がいつしか目覚め庭園に取り込まれた過程を反転させ、時を遡るようにして出ていくことは可能なのだろうか』
『ここは願いの叶う庭園。けれど、わたしにはここのことしかわからない。あなたは客、あなたは主。けれど、外ではどうなのかしら。――外に、出たい?』
『ああ、私は出るだろう。次に目覚めた彼を連れて』
『わたしは客の客、すなわち主の客に干渉することはできない。あなたの客に干渉できない』
『構わない。私が彼を置き去りにしないだけだ』
『ここは平和よ。閉じた過去だけが満ちている。あなたが思い悩む必要はない』
『それでも、共に出る』
うしろから差し出された少女の小さな手が、そっとアーチャーの硬い手に添えられる。その柔らかな感触は、乱暴なほど一方的に、アーチャーの思考へイメージの奔流を流れこませた。
アーチャーは疲れた身体を引き摺りながら、ランサーの手を取り森の狭い道をかきわけ進んでいた。ふたりの口数は少なく、けれど親密に寄り添っている。縄張りの内部で響いた足音に驚き飛び出した魔獣を避け、木々の先にある光を目指す。
先導するアーチャーが先に森を抜けた。アスファルトの敷かれた道路に足をかけ、見ろランサー、出ることなど容易だったと振り返ろうとした瞬間、アーチャーの掌は感じ取る。最後の日に何度も味わった、全身を漣となって駆け抜ける喪失の際の寒気。ランサー、と呼びかけ背後を向いた時にはもう、ランサーの肉体は泡沫となって弾け消えていた。
呆然と立ち尽くす。揺るぎなく存在していた庭園は、構成する世界の部品を失い端から崩れ落ちていく。
星々の落下では済まない瓦解。人々の上に曇天が欠けて落ち、同時にアーチャーが立つ『外』は暗闇に沈む。世界は同時に崩壊する。轟音のなか名を叫ぶ。永遠に喪失した、男の名を。
アーチャーが身震いをすると、冷えた掌はそっと離れた。霞む目を瞬かせれば、眼前には変わらず平穏な森が広がっている。羽ばたいた鳥が、嗄れ声をあげながら飛び去った。
「……どういうつもりだ」
『わたしたちはあなたに告げたかっただけ』
「彼が消え失せると言いたいのか? それに、城の彼らは……」
『あなたたちが出たならば、あなたが出たならば、ここはバランスを欠き壊れるでしょう。歯車の欠けた機械はもう、ゼンマイを巻くことができないの』
「そして私だけが取り残されるとでも」
『彼はここに居場所がある。あなたにもまた居場所がある。わたしたちが言いたいことは、それだけ』
「……君は、本当に『イリヤ』なのか?」
思わず振り返ったアーチャーのうしろには、誰も立っていなかった。枯れ葉が地を転がる乾いた音だけが耳に届く。
声が、聞こえた気がした。落ちる瓦礫の下敷きになり、苦しみに呻く城の人々の声が。幻だとわかっていてもなお、その声はアーチャーに強く救いを求め訴えかける。暗い眼窩がアーチャーを見上げ、彼らの手が次々に伸ばされる。二本しかないアーチャーの腕へ、数え切れぬ手が終わりなく。
ゴリ、と食い縛った奥歯が厭な音を響かせた。
「私を、脅しでもするつもりか」
応える者はない。アーチャーはひとり立ち尽くしていた。
遠く、影は嘲笑のなかに哀しみを忍ばせて嘆く。災いを振り返るからだ、と。
――災いが存在するのなら、振り返ることは間違いでない。救いを求める者の声を聞いたなら、自身が往くべき道を拓くことことが叶う。たとえ頭は惑い迷ったとしても、この身は既に走り出している。
***
アーチャーはホムンクルスたちの悲嘆を受け止めては、聖杯戦争の戦場となった場所をすり抜け、悲願を求めながら消えゆく人々を見守った。手を伸ばしても届くことはない。それでもアーチャーは滅び諦め次代へ託そうとする彼らの傍らに立つ。
城に終わりがくるたびに、アーチャーは空中庭園へ剣を突き立てた。徐々に狭まる剣の隙間を潜り抜けながら、ここは剣山だ、逆さまになった剣山だと呟く。数多の剣の刃は下を向き、アーチャーの肉体をざくざくと傷つけている。
嘘の上に日々を築く。ランサー、ここは安寧の地だ。貴様は自由に振る舞えばいい。私は手出しをしない。貴様には見えているはずだ、なに一つ欠けるところのない完璧な楽園が。
なにが狙いかだって、私に望むものはない。なにをしたかだって、私は貴様になにもしていない。与えられたのは奇妙な日々に過ぎない。
――どうか自由に振る舞っていてくれ、ランサー。君だけでも、どうか。
偽りの上に積み上げられている。
救済を望めど届かない。安寧を説きながら煉獄に立っている。眠れば終わると口にしながら眠りを拒絶する。ランサーに、君に口づけたと告白することはない。決して外に歩き去ろうとしない。
人々の救済を欲しながら、その裏でランサーの喪失をなによりも恐れている。
――城の人々に安らぎがもたらされる日は来るのだろうか。私の目覚めが間違いであったなら私が正そう。ランサー、君に敵意をむけられる度に、休むことの許されない心が折れそうになる。疲れ果て、思考することさえ困難になってきた。私たちはこの先どうなるのだろう。朦朧とした頭では、十分に思考することができない。それでも、私は君を、熱を、君が耳元でなにかを囁いてくれたという事実を忘れない。アインツベルンの娘は重ねて言う。「願い」を。あなたの「ネガイ」を。
本当に願いが叶うならばどうか、平穏な日々を人々に与えてほしい。ヒトであろうとホムンクルスであろうと、抱える思いは異ならないとこの地で知った。
……そしてもし許されるならば、ランサーと同じ時を歩んでみたいのだ、私一人が記憶を抱えることなく。
アーチャーは黒い沼が支配する森林で迸った、天を両断する黒色の聖剣の光を追う。影が爆発し、アーチャーの身体を吹き飛ばそうとする。荒れ狂う暴風に逆らって、真っ黒な太陽が墜ちた場所を目指していた。地では赤黒い火が冷たく燃え盛り、やがて泥が塗り込められた天を星々が尾を描きながら奔る。
――また君を地下に迎えに行かなければ。君を解き放つために城門を開き、告げるのだ。始まりの日に変わらず繰り返される、少女の言葉を。
目覚めたランサーは去る、アーチャーの手元から。その後ろ姿から無理矢理に視線を剥がしながら思う。
流浪している。生命の存在しない砂漠を、ひとりあてどなく。いつかの君は確か、私を愛してくれたはずだった。
私を愛してくれたランサーに、再び会いたい。気まぐれに与えられた「愛」というものが余りにも遠くなり、思い出すことさえできなくとも。
会って私自身を彼に強く縛りつけたい。そうすれば再び立てる。この足の骨が折れようと、肉がやせ細ろうと。
私を強く抱きしめ、そして私がどれほど強く抱きしめかえしても壊れなかった彼に支えられたなら、私はまた力を得ることができる。誰かに手を差し伸べるための力を。
黒化し泥に蝕まれた少女があげる絶叫に、声なく発せられたアーチャーの慟哭が重なる。ふたりは求めていた、己の胸にある、ただひとつの存在を。
三章 天地流転
アイリは小さな竹籠を手にして、「あの人から貰ったの。東洋らしい素材だと思わない?」と、目を輝かせた。喜びからか、頬を軽く上気させている。アイリが腰かけている、赤いソファの上に置かれた竹籠には、柔らかな色合いをした羊毛の毛玉が積み上げられていた。
巨大な硝子越しに、空中庭園から穏やかな冬の日差しが差し込んでいた。廊下はまるでサンルームのように、穏やかな温もりに満ちた環境になっている。
アイリは編み針を手にして、私細かい作業は得意なの、と胸を張る。ねえ弓兵さん、なにか編んで欲しいものはある? という問いかけに対して、アーチャーは静かに首を横に振った。
「私は過ぎた終わりを想っている。自分でもわかっているの、もう終わったことなのだと。この部屋に篭もって音楽を聴いていた私が、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔しながら経験する、これからの終わりを知っているの。それでも私はあの子を想うことをやめられない。たとえ奇跡が起きて再び蘇ろうとも、私は生き方を変えられないんだわ。
あの子は私がいなくなってから捨てられたのでしょう。いいえ、勝手に動きを止めるまで、誰にも見向きもされなかったかもしれない。それほど、あそこでは価値のない子だった。
けれど、私はあの子を想っていられる限り、こうして生きることができる。あの子は私の内で生きている……私を選んで、手を繋いでくれて、嬉しかったの。車の窓から顔を突き出して、心の底から笑っていてくれたから、私も楽しくて仕方なかった。捨てられたって私たちは同じ人形よ、一緒に元いた場所に戻るだけだわ。私たちは同じところから生まれて、同じところに帰る、同一の存在なのだから……。
それでも私は贅沢を言いたくなるの。許されるなら互いに別の身体を持って、抱きしめあって、あの子の体温をあと一度だけ感じたい……そのためになら、私は何をしたっていい。求められればなんだって差し出すわ」
「……もう一度、言ってもらってもいいものだろうか」
礼拝堂に住み着く影は、常にない慎重な口ぶりで、アーチャーに乞うた。アーチャーは手の切れない疲労によって深く項垂れながら、頭を振った。
「馬鹿げた話だと思うなら聞かなかったことにすればいい。もとより貴様に解決策や手助けを要求している訳ではない。私が一人でする。そうだ、なぜ貴様にこんな繰り言を聞かせているんだ、私は……」
影は輪郭の曖昧な指先で宙に曲線を描き、その手を本の上に下ろすと、とんとんと何度か開けていた頁を叩いた。一連の動きには、影が抱いた戸惑いが如実に表れている。
「物事には苦しみが伴うだろう。終わりのない苦しみと、終わりがあるがゆえの苦しみ。だがその裏には、終わりがないからこそある救いと、終わりがあるがゆえにもたらされる救いもある。物事は片面だけでは存在できない。更に重ねるならば、二面では足りないだろう。現実は縺れた糸のように複雑に絡み合い、互いに干渉しあっている」
「救済はどこかにある。実現しない限り理想に過ぎないというだけだ」
「……観念的に考えたところで、なにも掴めない」
「ああ、だから私はこの地に限った救いを考えている。彼らを救うための方法を、ずっと考えている」
影は溜め息をついて、こめかみに指先をあてた。アーチャーは譫言のように呟く。
「ここには救いがない。彼らを救うにはどうすればいい」
「過去を救うなど、ヒトの手には余る事柄だ。未来が存在しないこの地では、困難極まる。私から差し出せる救済はひとつ。目を閉じて眠ることだ。元いた場所に戻るだけだ。それとも、いっそ――この雁字搦めの地を全て叩き潰すか? そうして人々がいなくなったところで、世界の創造主は顔も見せないだろうがな」
「……それを救いと宣う奴を、私はよく知っている。誰よりも深く、誰よりも近く、私は知っている」
「――なにしろ君の」
影は不意に口をつぐむと、己の胸元を慣れた手つきで探った。アーチャーは心のなかで続ける。
――なにしろ私の上に立っているものだからだ。
水が垂れる鉄格子を掴んでいた。アーチャーは、氷のような温度で空間を仕切るそれらを直に掴み、手をぬめる水で汚していた。
なにを期待していたのだろう、とアーチャーは胸の内で呟く。
――私は一体なにを期待していたのだろう。彼と身体を重ねることで、どのような変化があると予想していたのか。
アーチャーは目の前に広がっている光景について、心のどこかでは納得していた。だが同時に、アーチャーは、ランサーと身体を重ねた直後に己が思い描いていた理想図を、もう思い出すことができなくなっていた。一度身体を許したことで、ランサーはアーチャーの内部に降り積もっていた出来事や想いの断片をことごとく掻っ攫っていき、最早いまのアーチャーには空になった身体と、捕まえ損ねた体温の残り香だけしか残っていなかった。
結べたと思った舫い綱はするりと柱から解け、アーチャーは再び大河の上を流れていく。
ランサーは毛先から水を撒き散らし振りかぶると、突きつけた槍と同色の瞳で、アーチャーを鉄格子越しに睨みつけた。
「あァ、くそ、頭が痛え。――テメエ、オレになにをした? こんな場所に一体どういう心算で閉じ込めたのか、訊いてもいいもんかね」
鋭い槍の先端がアーチャーの喉元を狙う。敵愾心を露わにし好戦的に振る舞うランサーも、全身に生命を漲らせ、離れがたい魅力を放っていた。この男を一時でも手に入れられたのは、この城に惑わされ見せられた夢だったのではないかと錯覚するくらいに。
「なんか言えよ。申し開きはないのか?」
ランサーにまた嘘偽りを告げたなら、彼は再び愛してくれるのだろうか、とアーチャーは上手く回らない頭で思った。いいや、最早あのとき口にした内容は嘘偽りではなくなった。ランサーの肌のぬくもりはこの肌に刻まれている。
どうすれば覚えていてくれるのだろう、と答えのない問いを抱きながらアーチャーは五歩ほど後ろに下がると、両手で顔を覆い、水が溜まる床に腰を下ろした。
「勝手に出ていけばいい。鍵はかかっていない」
絞り出された低い呻きに、ランサーは半信半疑といった様子で鉄格子の出入り口に手をかける。耳障りな音を立てて開いたそれを押しながら、彼は外に出た。
「なあ、アーチャー……」
「どこに行ってもいい。好きにしろ。貴様は自由だ、この地は安全だ、そうだとも。ただひとつ、外に出ることだけが叶わなくとも、貴様は十分に自由だ……」
光も碌に届かない地下の通路で、立ったランサーは座したアーチャーを見下ろしていた。傍らに転がる、火の消えたランタンの灯りがもしあったとしても、手で強固に覆い隠された表情を認識することは叶わない。
ランサーはわずかな躊躇いをにじませて、一度足踏みをした。アーチャーは暗闇のなか強く首を振る。
「私に構う必要などない」
ランサーは無言のまま、アーチャーの前から立ち去った。暗い地下に、足音を響かせながら。
飽くことなく繰り返す。
愛を告げたなら、ランサーは記憶していてくれるだろうかと淡く期待し、囁いてみては、結実しなかった希望を地に投げ捨てる。
たった一度与えられたぬくもりの記憶を、決して手放すまいと大切に抱きながら、たとえずるずると床にへたりこんでしまうほどに力を失っても、槍の穂先で皮膚を裂かれても、孤独に奥歯を噛み締めても諦めず、アーチャーはランサーを、城を、ひとり見守っていた。
アインツベルンの娘は言う。あなたは観察者、あなたは炉心。あなたが願えば城が動き……あなたが眠れば、この地は閉じる。
その言葉を聞く度に、アーチャーは屋根に上り庭園の先を見通そうと目を凝らした。森を抜けた先に広がる世界を、霞がかった頭でぼんやりと夢想する。大河を往く小舟とて、押し流された結果、大海に到達することがあるかもしれない。
擦り切れそうなほど再現される過去を巡るうちに、ランサーの肌の感触と体温を、己の肌の上で思い出せなくなっていることにアーチャーは気づいていた。
目覚めた彼と言葉を交わす気力は徐々に涸れ、ふと我に返れば地に膝をついている。地下牢のランサーから、敵意を持った槍を突きつけられなくなり、まるで弱いものを哀れむように頭を撫でられても。その屈辱を味わってもなお。
アーチャーは終わる度に、剣を庭園の地面に刺した。
アーチャーは目覚めたランサーに告げる。口は己の意思に関係なくなめらかに動く。
かつてついた嘘によって得た一夜は重い咎となり、アーチャーを拘束する。あるとき苦しみにのたうち、たまらずランサーとの日々を文字に残した。けれどそれも、『次』が到来したときにはすべて消え去っている。
奇跡のように「アーチャー、それを次にもオレに言えよ。おまえに頼る以外の道がねえ」と告げられたこともあった。「どうしたアーチャー」と武装越しに荒い手つきで抱きしめられることもあった。
けれどアーチャーにはもう、判別がつかなかった。
――私は『今』の彼と、どのような関係を築いていたのだったか。君になにを告げ君はどう応えたのか。
目の前のランサーがいつか見たランサーと重なり、上手くそのままの姿を捉えることができない。幾重にもぶれた像から、いま目の前にいるランサーだけを掬い取り、上手く焦点をあわせることができない。
疲労でぼやける視界のなか、鮮烈な青が迸る。擦り切れた身体を取り囲むあやふやな景色の中心で躍った、その一色だけが強く心に焼きついていた。
「ですので、おわかりになるでしょう」
こくり、と頷いたアーチャーは、一瞬己がいる場所を見失っていた。黴臭く冷えた空気が頬を撫でる。ぼんやりと壁に浮かぶ細長い青天を見上げた。黒い影となった壁の中心で、天を切り取った窓がぽっかりと口をあけている。城の裏手の、使用人が利用する階段に直接腰かけ、洗濯籠を傍らに置いた女の話に相槌を打っていた。
「私は奥様の、ユスティーツァ様のために遥々このような東国へ参ったのでございます……。ハァ、すみません、最近疲れがとれませんで。
見知らぬ方に言うことでもありませんが、私はユスティーツァ様にお帰りになっていただきたいのでございます」
女は細い金属で編まれた籠に手を乗せ、アーチャーの足元をじっと見つめながら、かさつく唇を舌で湿らせた。
「ここだけのお話ですよ。ええ、私なんぞが努々口にしていいことではございません。
ほんとうに、ユスティーツァ様はひどいお方なのでございます……故国にいたときのお話でございますが。寝室でユスティーツァ様がご自分で髪を梳いていらして、けれど髪を梳くための油がメイドの不注意で部屋に置かれていませんで、毛先が縺れたと仰って。それは一大事だと、ですけど、上級メイドに改めて油を持ってくるよう、そしてご自分ではなくメイドに髪を梳かすよう命じられたらよろしいのです。奥様の髪は、それはそれは長く美しい御髪でございましたし……。
なのに、なのにですよ。『ねえ、縺れてしまったからほどけないわ。髪を切ってくれないかしら』と、ああ、今思い出すだけでも身震いいたします。私のような不出来なホムンクルスが、女性の魔術師様の髪をお切りするなど、あってはならないことでございましょう。そう、奥様は捨てられかけていた私を拾い上げてくださった、なんとも気まぐれなお方でございました。それゆえに、私は奥様に逆らうことなど決してできませんし、してはならないことなのです。私などただの、思慮の浅い人形でしかありません、奥様のお考えを拝察しようとすることさえ失礼な存在でございます。なにかを命ぜられたならば、従わせていただく以外に選択肢などございません。私はユスティーツァ様にすべてをお捧げいたしております。
ですが、ですが。髪を切れなどと、奥様の髪に鋏をいれよなどと、いくら奥様のお願いでもあんまりでしょう。あんまりなお願いでした……ええ、そう、不満を告げたかった。畏れ多くも、私はいまでもユスティーツァ様に、奥様、あんまりですと申し上げたいのです。
願わくば奥様と共に故国へ帰り、あの、暖炉で火が燃え盛る、雪に埋もれた城の暖かなお部屋で、お身体を休ませて差し上げたかった。こんな、奥様を知る者も碌にいない異国へ置き去りになどせず……。
ユスティーツァ様は、もうお帰りにならないと仰って行ってしまわれた……。私は! 許されるならばお傍に跪き、広がる裾に縋りつき、奥様の、不安などないの、と微笑まれたユスティーツァ様の手を、手を……許されるのならば、赦されるならばあの手を握って差し上げたかった。
私は咎人です。私はあの偉大なお方の髪を切った罪を抱える、人形なのです……」
音楽室の女は語る。アーチャーが傍らにいるときも、己しかその場にいないときも語り続ける。女の甘い歌声が満ちる一室で鍵盤を荒々しく叩いたかと思えばそのまま腕の中に顔を埋め、乱れる息のなか声を絞り出す。
「可愛い子だった。そしてどうしようもなく愚かな子だった。疑問も持たずに私に従っていて、私の後ろをついて回っていた。私を見上げて、あなたの中にユスティーツァ様がいらっしゃる、わたしには見えるのと、飽きるほど繰り返していた。
私は『貴方にもユスティーツァ様はいらっしゃる』と慰めてあげたわ。それでも『わたしにはいない、失敗作のわたしにはいらっしゃらない』って頑是なく首を横に振っていた。『わたしは独りぼっちだった』と、私に縋りついていた。名も碌に与えられなかった私なんかによ。そう、魔術回路のパターンを示す名しか付いていないっていうのに。
日々が続けば、いつかどこまでも車を走らせて、私たちは自由になるのだと根拠なく夢想していた。私たちは同じ夢を見ていた。
帰りたいわ、あんな処から外に出ることさえできるなら、命など惜しくないと思っていた。結末さえ知らないまま。
……あの子に会いたい。どうして私はさっさとあの子の手を取らなかったのかしら。たとえ途中で惨めに倒れて野垂れ死んだとしても、あの子と出ていきたかった、車に乗って、行けるところまで、どこまでも……」
「嘘に嘘を重ねていく気分はどうだ?」
礼拝堂の影は変わらず椅子に座り、ステンドグラス越しに、暗く沈む外界を眺めていた。輪郭も曖昧な影は、小さな祈りの家にその身を縛りつけられ、外に歩み出るための身体さえ与えられない。
そのことに不満の一つも漏らさず、消えた蝋燭に慣れた手つきで火を灯していた。影の姿を照らす力もない、弱々しい火を。
「嘘? 嘘とはなんだ?」
アーチャーは痛む額に指先をあて、にじむ汗を拭い取った。返答はなく、忍び笑うような気配だけが届いた。
「……一度だけだ、嘘をついたのは」
「君は己に嘘をついている。欺いている。なぜ君は、彼を連れてこの世界の外へ出ていこうとしないんだ?」
アーチャーは力なく仰け反り、高く闇に隠れた天井を見上げた。白髪を掌で撫でつけ、そのまま頭上で両手を組む。
「私に対して口を出さないのではなかったのか? それに、眠ってしまえば丸く収まる話なのだろう。彼女の言うことが正しいのならば。眠りたくなれば眠るだけだ、ホムンクルスたちと共にな」
アーチャーは敢えて影から目を逸らしていた。影は低く昏く囁く。
「築いた嘘に嘘を重ねていく気分はどうだ? 君の肩にいつからか勝手に圧し掛かっていた世界の柱となり、それゆえ己の執着を踏みにじり、はなからなかったものとして己自身を押しつぶす気分は?」
「――まるで、この世の主になった気分だ」
中庭を行くアーチャーの手を、背後から伸びた小さな手が握った。二人の外套の裾が、冬の風によってぱたぱたと翻る。高い屋根の上に腰かける槍兵の姿を、アーチャーの千里眼は捉えていた。
アーチャーの身体にランサーの感触が降り積もる。染み渡っていく。繰り返されている日々の中で、確かにあった細かな触れ合いを一つ一つ明確に覚えているのに、それがいつあったことだったのかを思い出すことができない。それでもアーチャーは自身に語り続ける。ランサーが与えてくれた懐かしい肌の感触と、注ぎ込まれた愛情によって胸に生まれる温度について。たとえ聴衆が、城を流離う自分一人しかおらずとも。
三階のギャラリーに足を踏み入れた瞬間、鋭い殺意がアーチャーを貫いた。鈍く光る銃口が、狂いなくギャラリーの出入り口に狙いを定めていた。時が止まる。
互いの存在を認識したのちに、部屋に置かれた机を前にして椅子に腰かけていた女性は、慣れた手つきで己が構えていたグロック拳銃をホルスターに仕舞った。
かつてこのギャラリーに展示されていたと思われる芸術品は、辛うじてカバーを掛けられた状態で、フロアの片隅に山積みにされていた。壁や柱に直接彫られた像だけが、かつての部屋の面影を残している。
女性は磨きこまれた机の上に紙を敷き、小さな鏡を前にして前髪を切っていた。手元で、よく砥がれた銀色の鋏が光を反射させている。
「髪を自分で整えるのか」
「……ええ。戦場で、髪を切ってくれと誰に頼めるはずもありませんので」
女性は鋭い切り口の髪を揺らしながら答えた。
「照準器を覗くときに邪魔になるものは、排除しておかねばならない」
アーチャーは敷き詰められていた絨毯が剥がされ、上に乗る者の姿を鏡のように反射させている床の上を歩いた。
ギャラリーの中心にある巨大な柱には、下半身を柱に取り込まれ、上半身だけが表に出ている女神像が彫り込まれている。
女神は両目を布によって覆い隠され、右手に剣を持ち、黄金で作られた天秤を左手で掲げている。女神像を見上げるアーチャーにちらりと視線を遣った女性は、誰に言うともなく呟いた。
「天秤は正義、剣は力。レディは何者も見ない。何者に対しても平等。――そしてアインツベルンは、レディをその身に取り込もうとする。悪趣味と断ずることは容易い」
女性は手にした鋏の鋭利な先端をゆっくり持ち上げると、遠くから女神に向かって突きつけた。
「皆、正義の女神に恋い焦がれている。ときに己が女神と結ばれていると、或いは侍らせていると思い込む。けれどそれは誰も同じ。
……私は信じている。あの人の理想が実現すれば、いつか女神が不要になる『その時』が来るのだと。私が進む道は決して変わらない。私は剣、私は力。既に私は人であることをやめた。人間ではなくただの力として存在し、あの人のためにこの命を使い切ろうと決意した。ただひとつの理想のために、私は彼の一部となる」
アーチャーは物言いたげな瞳を女性に向け、君は名をもっているのか? と静かに問うた。
「――与えられた名ならばある。『マイヤ』。私を個として定義する、唯一のもの」
アーチャーは塔の屋根に上り、遥か遠くにある地平線を眺めていた。庭園の最果てはひどく遠い、と独り言ちる。
あそこまで辿りつくには、一体どれだけの時間がかかるのだろう。
建物のなかを少女と共に音もなく歩み、緩く繋がっていた手をほどいて礼拝堂へと向かう。描かれた、聖杯を掲げる聖女を見上げながら、個から個へ受け渡され、次代に重荷を課し、果てには生命の境界を越えてまで求める彼らの悲願というものを理解しかねる、と拳を握った。
「だが君もまた悲願を受け取った。だからこそ君はここに存在できている」
「貴様との対話は不要だ」
「その割には私に応える……なんとも手のかかる仔羊だ」
影は沈鬱な声で訥々と喋る。掠れた声で、誰に聞かせるでもなく。
「災いだと判断したならば、この地を出るときに背後を振り返ってはならない。救いを求めることにも、呪うことにも意味はない。何処までいっても、人として生まれたならばヒトでいることしかできないのだ。地に基を据えられた御方の思いなど、推し量れるものではない。
私はかつて悪であった。主の愛を我が肉体に、精神に見出すことが遂に叶わなかった。それでも主は私を愛していてくださると、私が未熟であるがゆえに主の愛を見出すことができないだけなのだと考えていた。必死に探り、その切れ端を掴もうとしていた。
だが、それは本当に無かったのだ。私の裡に主の愛は存在していなかった。それは厳然たる事実だ。そして私は主を見限った。私は私自身をひとり背負い、誰の愛も共になく、この完結した肉体だけで存在するのだと納得し、主と決別した。遠い、遠い話だ。
だが私を本当に打ちのめしたのは、私が精神と肉体の支柱としていた存在をなくしてもなお、私の背骨が砕かれ四散してもなお、世界は変わらず巡っている、その事実が若い私を骨の髄まで打ちのめした。
知っていたとも、そんなことは。だが世界との断絶を突きつけられ、私は戸惑い、心のどこかで打ちひしがれていた……。
振り向かないことだ。残すしかないものは残していく他ない。諦めることだ。そうすることでしか進めないのならば」
黒色の襤褸を纏った亡霊が、城の片隅で絶叫する。人形たちの故郷を描き出すロングギャラリーの最奥で、連なる灰色と、一枚のカンバスに描かれた滲む光と晴天の青を終わりなく呪う。
亡霊は襤褸の隙間から枯れ枝のような腕を突き出し、その手に持った半月型に波打つ金属の刃を振りかざすと、躊躇いなくカンバスの青空を真っ二つに切り裂いた。
遠く悲鳴が響く。切り裂かれたカンバスから一拍の間をおいて鮮血がだらだらと流れ落ちる。亡霊は頭を掻き毟り、床に蹲りながら終わりなく呪いの言葉を発し続けていた。
炎をまといながら墜落する星々が鼻先を掠める。燃え盛る炎の向こう側に倒れているランサーをじっと見つめていた。口づければ幻影が巻き戻り、再び始まりの日が到来する。
儀式と化した一連の行為を淡々とこなす。アーチャーは消え去ったランサーを支える姿のまま、その場に留まっていた。やがて朝露の匂いが立ち込める靄の中で立ち上がり、城の地下牢ではなく、城の表に広がる森林を目指して歩き出した。
獣道に落ちている枯れ葉を踏む足音は、二人分あった。重い肉体を持つ戦士の足音と、走ることさえ満足にできない作り物の少女の足音。
『私が外に出ていくことは許されるのだろうか。己がいつしか目覚め庭園に取り込まれた過程を反転させ、時を遡るようにして出ていくことは可能なのだろうか』
『ここは願いの叶う庭園。けれど、わたしにはここのことしかわからない。あなたは客、あなたは主。けれど、外ではどうなのかしら。――外に、出たい?』
『ああ、私は出るだろう。次に目覚めた彼を連れて』
『わたしは客の客、すなわち主の客に干渉することはできない。あなたの客に干渉できない』
『構わない。私が彼を置き去りにしないだけだ』
『ここは平和よ。閉じた過去だけが満ちている。あなたが思い悩む必要はない』
『それでも、共に出る』
うしろから差し出された少女の小さな手が、そっとアーチャーの硬い手に添えられる。その柔らかな感触は、乱暴なほど一方的に、アーチャーの思考へイメージの奔流を流れこませた。
アーチャーは疲れた身体を引き摺りながら、ランサーの手を取り森の狭い道をかきわけ進んでいた。ふたりの口数は少なく、けれど親密に寄り添っている。縄張りの内部で響いた足音に驚き飛び出した魔獣を避け、木々の先にある光を目指す。
先導するアーチャーが先に森を抜けた。アスファルトの敷かれた道路に足をかけ、見ろランサー、出ることなど容易だったと振り返ろうとした瞬間、アーチャーの掌は感じ取る。最後の日に何度も味わった、全身を漣となって駆け抜ける喪失の際の寒気。ランサー、と呼びかけ背後を向いた時にはもう、ランサーの肉体は泡沫となって弾け消えていた。
呆然と立ち尽くす。揺るぎなく存在していた庭園は、構成する世界の部品を失い端から崩れ落ちていく。
星々の落下では済まない瓦解。人々の上に曇天が欠けて落ち、同時にアーチャーが立つ『外』は暗闇に沈む。世界は同時に崩壊する。轟音のなか名を叫ぶ。永遠に喪失した、男の名を。
アーチャーが身震いをすると、冷えた掌はそっと離れた。霞む目を瞬かせれば、眼前には変わらず平穏な森が広がっている。羽ばたいた鳥が、嗄れ声をあげながら飛び去った。
「……どういうつもりだ」
『わたしたちはあなたに告げたかっただけ』
「彼が消え失せると言いたいのか? それに、城の彼らは……」
『あなたたちが出たならば、あなたが出たならば、ここはバランスを欠き壊れるでしょう。歯車の欠けた機械はもう、ゼンマイを巻くことができないの』
「そして私だけが取り残されるとでも」
『彼はここに居場所がある。あなたにもまた居場所がある。わたしたちが言いたいことは、それだけ』
「……君は、本当に『イリヤ』なのか?」
思わず振り返ったアーチャーのうしろには、誰も立っていなかった。枯れ葉が地を転がる乾いた音だけが耳に届く。
声が、聞こえた気がした。落ちる瓦礫の下敷きになり、苦しみに呻く城の人々の声が。幻だとわかっていてもなお、その声はアーチャーに強く救いを求め訴えかける。暗い眼窩がアーチャーを見上げ、彼らの手が次々に伸ばされる。二本しかないアーチャーの腕へ、数え切れぬ手が終わりなく。
ゴリ、と食い縛った奥歯が厭な音を響かせた。
「私を、脅しでもするつもりか」
応える者はない。アーチャーはひとり立ち尽くしていた。
遠く、影は嘲笑のなかに哀しみを忍ばせて嘆く。災いを振り返るからだ、と。
――災いが存在するのなら、振り返ることは間違いでない。救いを求める者の声を聞いたなら、自身が往くべき道を拓くことことが叶う。たとえ頭は惑い迷ったとしても、この身は既に走り出している。
***
アーチャーはホムンクルスたちの悲嘆を受け止めては、聖杯戦争の戦場となった場所をすり抜け、悲願を求めながら消えゆく人々を見守った。手を伸ばしても届くことはない。それでもアーチャーは滅び諦め次代へ託そうとする彼らの傍らに立つ。
城に終わりがくるたびに、アーチャーは空中庭園へ剣を突き立てた。徐々に狭まる剣の隙間を潜り抜けながら、ここは剣山だ、逆さまになった剣山だと呟く。数多の剣の刃は下を向き、アーチャーの肉体をざくざくと傷つけている。
嘘の上に日々を築く。ランサー、ここは安寧の地だ。貴様は自由に振る舞えばいい。私は手出しをしない。貴様には見えているはずだ、なに一つ欠けるところのない完璧な楽園が。
なにが狙いかだって、私に望むものはない。なにをしたかだって、私は貴様になにもしていない。与えられたのは奇妙な日々に過ぎない。
――どうか自由に振る舞っていてくれ、ランサー。君だけでも、どうか。
偽りの上に積み上げられている。
救済を望めど届かない。安寧を説きながら煉獄に立っている。眠れば終わると口にしながら眠りを拒絶する。ランサーに、君に口づけたと告白することはない。決して外に歩き去ろうとしない。
人々の救済を欲しながら、その裏でランサーの喪失をなによりも恐れている。
――城の人々に安らぎがもたらされる日は来るのだろうか。私の目覚めが間違いであったなら私が正そう。ランサー、君に敵意をむけられる度に、休むことの許されない心が折れそうになる。疲れ果て、思考することさえ困難になってきた。私たちはこの先どうなるのだろう。朦朧とした頭では、十分に思考することができない。それでも、私は君を、熱を、君が耳元でなにかを囁いてくれたという事実を忘れない。アインツベルンの娘は重ねて言う。「願い」を。あなたの「ネガイ」を。
本当に願いが叶うならばどうか、平穏な日々を人々に与えてほしい。ヒトであろうとホムンクルスであろうと、抱える思いは異ならないとこの地で知った。
……そしてもし許されるならば、ランサーと同じ時を歩んでみたいのだ、私一人が記憶を抱えることなく。
アーチャーは黒い沼が支配する森林で迸った、天を両断する黒色の聖剣の光を追う。影が爆発し、アーチャーの身体を吹き飛ばそうとする。荒れ狂う暴風に逆らって、真っ黒な太陽が墜ちた場所を目指していた。地では赤黒い火が冷たく燃え盛り、やがて泥が塗り込められた天を星々が尾を描きながら奔る。
――また君を地下に迎えに行かなければ。君を解き放つために城門を開き、告げるのだ。始まりの日に変わらず繰り返される、少女の言葉を。
目覚めたランサーは去る、アーチャーの手元から。その後ろ姿から無理矢理に視線を剥がしながら思う。
流浪している。生命の存在しない砂漠を、ひとりあてどなく。いつかの君は確か、私を愛してくれたはずだった。
私を愛してくれたランサーに、再び会いたい。気まぐれに与えられた「愛」というものが余りにも遠くなり、思い出すことさえできなくとも。
会って私自身を彼に強く縛りつけたい。そうすれば再び立てる。この足の骨が折れようと、肉がやせ細ろうと。
私を強く抱きしめ、そして私がどれほど強く抱きしめかえしても壊れなかった彼に支えられたなら、私はまた力を得ることができる。誰かに手を差し伸べるための力を。
黒化し泥に蝕まれた少女があげる絶叫に、声なく発せられたアーチャーの慟哭が重なる。ふたりは求めていた、己の胸にある、ただひとつの存在を。
三章 天地流転
アイリは小さな竹籠を手にして、「あの人から貰ったの。東洋らしい素材だと思わない?」と、目を輝かせた。喜びからか、頬を軽く上気させている。アイリが腰かけている、赤いソファの上に置かれた竹籠には、柔らかな色合いをした羊毛の毛玉が積み上げられていた。
巨大な硝子越しに、空中庭園から穏やかな冬の日差しが差し込んでいた。廊下はまるでサンルームのように、穏やかな温もりに満ちた環境になっている。
アイリは編み針を手にして、私細かい作業は得意なの、と胸を張る。ねえ弓兵さん、なにか編んで欲しいものはある? という問いかけに対して、アーチャーは静かに首を横に振った。
「私は過ぎた終わりを想っている。自分でもわかっているの、もう終わったことなのだと。この部屋に篭もって音楽を聴いていた私が、ああすればよかった、こうすればよかったと後悔しながら経験する、これからの終わりを知っているの。それでも私はあの子を想うことをやめられない。たとえ奇跡が起きて再び蘇ろうとも、私は生き方を変えられないんだわ。
あの子は私がいなくなってから捨てられたのでしょう。いいえ、勝手に動きを止めるまで、誰にも見向きもされなかったかもしれない。それほど、あそこでは価値のない子だった。
けれど、私はあの子を想っていられる限り、こうして生きることができる。あの子は私の内で生きている……私を選んで、手を繋いでくれて、嬉しかったの。車の窓から顔を突き出して、心の底から笑っていてくれたから、私も楽しくて仕方なかった。捨てられたって私たちは同じ人形よ、一緒に元いた場所に戻るだけだわ。私たちは同じところから生まれて、同じところに帰る、同一の存在なのだから……。
それでも私は贅沢を言いたくなるの。許されるなら互いに別の身体を持って、抱きしめあって、あの子の体温をあと一度だけ感じたい……そのためになら、私は何をしたっていい。求められればなんだって差し出すわ」
「……もう一度、言ってもらってもいいものだろうか」
礼拝堂に住み着く影は、常にない慎重な口ぶりで、アーチャーに乞うた。アーチャーは手の切れない疲労によって深く項垂れながら、頭を振った。
「馬鹿げた話だと思うなら聞かなかったことにすればいい。もとより貴様に解決策や手助けを要求している訳ではない。私が一人でする。そうだ、なぜ貴様にこんな繰り言を聞かせているんだ、私は……」
影は輪郭の曖昧な指先で宙に曲線を描き、その手を本の上に下ろすと、とんとんと何度か開けていた頁を叩いた。一連の動きには、影が抱いた戸惑いが如実に表れている。
「物事には苦しみが伴うだろう。終わりのない苦しみと、終わりがあるがゆえの苦しみ。だがその裏には、終わりがないからこそある救いと、終わりがあるがゆえにもたらされる救いもある。物事は片面だけでは存在できない。更に重ねるならば、二面では足りないだろう。現実は縺れた糸のように複雑に絡み合い、互いに干渉しあっている」
「救済はどこかにある。実現しない限り理想に過ぎないというだけだ」
「……観念的に考えたところで、なにも掴めない」
「ああ、だから私はこの地に限った救いを考えている。彼らを救うための方法を、ずっと考えている」
影は溜め息をついて、こめかみに指先をあてた。アーチャーは譫言のように呟く。
「ここには救いがない。彼らを救うにはどうすればいい」
「過去を救うなど、ヒトの手には余る事柄だ。未来が存在しないこの地では、困難極まる。私から差し出せる救済はひとつ。目を閉じて眠ることだ。元いた場所に戻るだけだ。それとも、いっそ――この雁字搦めの地を全て叩き潰すか? そうして人々がいなくなったところで、世界の創造主は顔も見せないだろうがな」
「……それを救いと宣う奴を、私はよく知っている。誰よりも深く、誰よりも近く、私は知っている」
「――なにしろ君の」
影は不意に口をつぐむと、己の胸元を慣れた手つきで探った。アーチャーは心のなかで続ける。
――なにしろ私の上に立っているものだからだ。
