fate(槍弓)


 風によって土埃が巻き上がり、アーチャーの靴に砂を落としてぱらぱらと音を立てた。崩れた白髪が額の上で靡く。 知識は言う、彼女は『イリヤ』だ。だが、彼女は本当に『イリヤ』なのだろうか、あのぎこちのない人形ではなく?
「これまでの非礼と至らなさを詫びるわ、我が城の主。最初は上手く動けなかったの」
「ランサーは!」
 半ば叫ぶように発せられた言葉に自ら驚いたアーチャーは、首を強く横に振った。唇を噛みしめ、苛立ったように顔を手で拭った。
「違う。私は……私は君の城の主などではない。君はなにか勘違いをしているようだ」
 イリヤは穏やかに笑んで、両手を身体の前で組んだ。
「なにも間違ってなどいないわ、アーチャー。ねえ、あなたの名を呼んでもいい?」
「そんなものは存在しない。……私の名など」
「ならばアーチャーと。ええ、我が城の主。ようこそ、アインツベルンの城へ」
「その、主というのは」
「あなたは客人だから。きっとあなたは、ここで過去の皆を見守る役割なのね。……『わたしたち』しか、おもてなしはできないけれど、あなたはお客さまでわたしはここの主。ならばわたしはあなたを敬う従者となり、あなたを主と定め仕えます」
「そんな気の使い方は不要だ。なにより私は、そう、私は紛れ込んでしまっただけなんだ。君に招待された訳ではないし、もしかしたら不法侵入でもしたのかもしれない。申し訳ないがここにくるまでの記憶が欠けているんだ」
「それは元々なかったものかもしれないわ」
「もてなしなど要らないし、ここの主は君だろう。むしろ、ああそうだ――すまない、君のことをどう呼べばいい?」
「好きなように、あなたの望むがままに。名が欲しいのならば、わたしの名は『イリヤ』。『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』」
「イリヤ、ここから出る方法を知らないか? 私はここにいるべき存在ではなさそうなんだ」
イリヤは首を傾げると、可笑しそうに目尻を下げた。
「けれどあなたは望んだ、ここで、なにかを。だからこうして世界は動き始めている」
「この世界というものから脱出したいと、望んだことはあるかもしれない」
「それはもはや遠い願いね……その存在を、否定はしないけれど」
「ならば今、君に要求しよう。私はここから出たいんだ」
 イリヤは城の内部へ身体をひねり、静かに告げた。
「アーチャー、彼が目覚めたの。外へ出る前に会いたい?」
「彼とは?」
アーチャーを置き去りにして城の中に去ろうとするイリヤは、口ずさむように言い残す。
「ランサーよ。あなたが選んだひと」
「待て、イリヤ」
イリヤは制止に従うことなく、軽い身体を踊らせて走り去った。
 アーチャーは疲労しきった表情で頭を振って、ランサーの気配などどこにもないではないか、と苛立った口調で呟いた。

 考えのないまま城を巡っても、案の定槍使いの戦士を見つけることは出来なかった。そしてアーチャーを「主」と呼んだイリヤさえ姿を消してしまっている。
 裏手の階段の半ばに蹲る女の傍をいつものように通り過ぎようとして、ふと足を止める。彼女は身体を崩し見覚えのない姿勢で洗濯籠を抱えながら、アーチャーに喋りかけた。
「ああ、すみません邪魔をいたしまして……すぐに退きます、お客様……申し訳ございません、私は貴方を存じ上げないようです……。すみません、身体が動かないのです……最近疲れが取れなくて……ああ呼ばれています、奥さまのところに、奥様のところに行かないといけないのです……」
「いや、邪魔したな」
「……お許しください……」

 階段を駆け上がり、迷路のように扉が連なる廊下を抜け、空中庭園にある手摺りを握りしめた状態で光景を眺める。落ち着いた色の草花が風に揺れている。どこかから現れた『それ』が遠くから近づく気配に『イリヤ』は確かに間違ったことを言っていなかったと、己の過ちを認めた。広すぎる城のどこかで、行き違ってしまったのかもしれない。
 ――だが彼は現れた。
 赤い武装を見つけた戦士は、身を伏せ警戒しながら獲物を狙う。気配なく突き出された赤い槍は、アーチャーの首筋をひたりと狂いなく狙った。
「なあランサー。イリヤスフィールを見なかったかね。先程から探しているのだが」
「問いはひとつ、ここはどこだ?」
「それについて私も知りたいんだ。貴様は知らないか? ここが、どこなのか」
 ランサーの声で思い出す。己の手が確かに抱いたランサーの躯の冷たさと、唇が触れ合った時の感触を。
「どういう心算だ。テメエなんでオレに抵抗しようとしない?」
「そう判断しているのならその槍を下げてくれ。さあな。ここがどこかはこの城の娘に訊けば教えてくれるやもしれんぞ」
ちゃり、とランサーは槍を握りなおした。
「そいつはどこにいる?」
「私は見失ってしまった。そこらにいる使用人にでも訊こうと考えていたところだ」
 ひゅ、と緊張が走った。突き出された槍と、首の皮との間には紙の厚さほどの距離しか残されていない。ランサーの殺気がアーチャーの心臓を貫いた。
「……なにを言ってんだテメエ」
 二人の側を、ドレスを着た女性が通り過ぎる。上品な会釈を送りながら。女性に目礼するアーチャーに対し、不審な表情を露わにして身構えながらランサーは問う。
「なにを言ってんだ? ここに来るまでに散々部屋を覗いたんだ、誰もいねえじゃねえか。空っぽだ。誰もいなかった、テメエ以外。それともどっかに隠れてんのか?」
 廊下の女性は楚々とした仕草でサロンのある方向へ立ち去った。アーチャーは無礼な行為と知りながら、ゆっくりと女性の背中を指差してみせる。動きに合わせて槍と接した首筋に一筋の傷が生まれ、血液が粒となって浮き上がった。舌打ちをしたランサーは慎重に、槍をアーチャーの皮膚から遠ざける。
「彼女も見えないのか?」
 ランサーは困惑したように眉を寄せ、アーチャーの指先が差す廊下をうろうろと眺め、なにもない床に何度も視線をやった。
「……問いはふたつ。オマエは敵か?」
「敵でなければ温情をくれるのかね、随分とお優しいことだ。なに、君に危害を加える理由は今のところ存在しないな。少なくとも私には」
「他の奴がいるのか?」
「イリヤスフィール。あとはそうだな。裏手の礼拝堂から外に出られぬかわりに、なかなか厄介な性質をしている奴ならいる。彼らにならば、君に敵対できる資質があるかもしれん」
「出られねえ奴には近づかねえだけだ。……アーチャー、オマエには一体何が見えている?」
 アーチャーは目を伏せ、夢物語に聞こえるかもしれんぞ、と皮肉を滲ませた口調で呟いた。
 ランサーは槍から離した片手を腰に当て、うんざりとした口調で「言ってみろよ、とりあえず最後まで聞いてやる」と吐き捨てた。ため息とともに槍を立てて置こうと振りかぶり、力加減なく、ガガガッ、と天井を穂先で抉る。
「あっ、くそ。引っ掛かった」
 悪戦苦闘するランサーに対し白々とした視線をおくりながら「その邪魔な長物を仕舞ってはどうかね」とアーチャーは声をかけた。

「この城は、過去を繰り返しているんだ。私が知っている出来事も、かつてあったのだろうと推測できる出来事も、知識のない私ではこれはこの城の過去だと判断しかねる事象もある。この城にいたであろう人々の、かつての……そうだな、まるで映像が映し出されていると言うべきか、もしくは目の前で演じているようだと言うべきか。それらは今も展開されている。君は認識できないようだが。その繰り返しのなかで私はどうすればいいのか、どうしろというのか、ただ困惑していた」
「繰り返すっていうのは」
「仮初めの終わりはあるんだ、一応な。けれどそれが終わればまた始まる」
 ランサーは眉間を揉み、おまえは、と言いかけて口を閉じた。
「まあいい、オレはもう少し周辺を探ってみる。なあアーチャー、おまえは森の外まで行ってみたことがあるか?」
「それなんだがな、どうにも外に出られないんだ。いつまでたっても森の外が現れない」
「ふぅん」
「ランサー、ひとつ教えてもらっても?」
「なんだ」
「君はどこで目覚めたんだ?」
「あー、地下牢っつうのか? ジメジメして薄暗い地下のな。まあでも鍵はかかってなかったから、別に気にしてねえけど」
 しかし理解できねえな、ヘンテコな場所だ、とこぼしながらランサーは姿を消した。

 ***

 ランサーの帰還を待つだけの暇を持て余し、アーチャーはあてどなく三階に下りた。全開にされた扉から、レコードの溝を針が引っ掻く不快なノイズが漏れ出ていた。防音扉の陰に隠れながら部屋を窺うと、壁の棚に収められた大量のレコードに囲まれたグランドピアノの鍵盤へ、女が覆いかぶさっていた。
 壊れたプレイヤーの前で曲を聴いているだけだった女のホムンクルスは、ゆっくりと両手を振り上げると鍵盤を連打しだした。何度も何度も両手を、しなやかな指を白と黒の上に叩きつける。暴力的な騒音を生み出すことによって、甘い女の歌声をがむしゃらに掻き消そうとでもしているようだった。
 乱れた白髪が鍵盤の上に伏せられた顔を隠す。
「ねえ、そこの貴方」
 アーチャーは返事をせずに入り口から部屋に踏み入った。数歩進み止まると、あえて視線を女から外した。
「車というものを知っている? 貴方は運転したことがあって?」
「ああ。かつて、遠い昔に」
女はやつれた面を上げ、自棄な調子で笑ってみせた。
「可笑しなことを言うのね。貴方まだ若そうなのに。それとも不老のヒトかしら」
 女は赤い瞳を細め、笑いを無理矢理に絞り出す。
「――私は冬の国から来たの。いつも雪が積もっていた。山奥の城でね、こことは比べ物にならないくらい広かったわ。城の中庭で車を運転していてね……最初に与えられたのは馬だったけれど、仲のいい子を亡くして、もう馬に乗せてもらう気は失せたの。
 敷地の中で、持ってきてもらった車を運転していたわ。部品をかえればずっと動いていてくれたし、隣にあの子を乗せてやることだってできた。エンジンを回してギアを入れてやれば進む。それだけのことなのに、まるで足が新しく生えてくれたかのように自由に移動できた。
 私の身体はあまりにも不出来で、欠けているところも多いの。目に見えない場所が多いけど、ええ、他の子と比べても随分足りなかった。でも、私の魔術回路だけは完璧だった。こんな極東へわざわざ手間暇をかけて運んでくるくらいにはね。私は恵まれていたのよ、役割があったんだもの。それに比べてあの子には失敗作以外の意味を与えられていなくて、私が拾わなければあのまま捨てられるだけだった。
 でも私は拾っただけよ、大したことはしてあげられなかったし出来なかった。精々お喋りの相手になるくらい、互いにね。なのにあんなに懐くものだから、私は……愚かだったのよ。愚かだった私は信じていた。車さえあればどこにでも行けるんじゃないかと思っていた。あの子を、連れて……」
 女は口を開けたまま宙を仰ぎ、震え、両手を鍵盤に落とした。悲しみを帯びた音が部屋の壁を殴る。アーチャーは目線を落としたまま彼女の次の言葉を待っていたが、ついに発せられることはなかった。

 ***

「あら弓兵さん、あなたも問答に参加したいのかしら?」
「問答とはあの王の集まりか? 結構だ。私は王などというものではない。それにあんな状況では折角の酒の味がわからなくなりそうだ」
「ふふ。意外と参加してみれば楽しいかもしれないわ」
「そんなに参加したいなら君がしたらどうだ、アイリスフィール」
 廊下に置かれたソファに座り上半身をもたれかけさせていたアイリは、空中庭園を散策するアーチャーを柔らかな微笑みと共に見守っていた。
 いつか聖杯を巡って問答がなされた場所に人影はなく、静まり返った空間に吹く弱い風で背の低い花々が揺れていた。
 アーチャーはなにも植えられていない一画の前に立ち、目を閉じて数を慎重に数えなおした。
 一回、二回、三回……五回。ランサーを目覚めさせるまでの間に、この世界は五回繰り返されていた。アーチャーが意識を持ったときを起点とすると、今は六回目の最中だ。
 ここでは文字を紙に刻んだところで、次には消えている。ならば、とアーチャーは固有結界から銘もない、柄にも鍔にも、刃にもさして特徴のない剣を探し当てると、寸分違わぬ造りで投影し、ザクザクと五本の剣を大地に刺していった。
 ぬめるように表面が鈍い冬の光を反射する。うっすらと刀身にうつる己の顔を眺め、再び終わりがきたならばここに六本目を加えようと湿った土を見下ろした。

 ***

 過去の人々が繰り返していたんだ。
「だがオレがなぜか地下牢で目覚めた」
 すると気づけば人々もまた決まり切った振る舞いから解放され、自由に語り始めている。
「んで、終わりは星の降る日ってヤツ」
 そしてまた始まるんだろう。
「出来事は規則正しく回っている?」
 いいや、映し出される過去は同じだが、出来事の順番に規則性はなくランダムだ。泡のように浮かんでは消えていく。極めて無秩序に。
「おまえがそいつの言う客だか主だかってのになった心当たりは?」
 ないな。皆無だ。
「んじゃあ、どうしてオレだけが……いや、うん? 他のヤツらも喋りだしたって言ったな、オレだけでもないのか。状況が変わった心当たりはなんかねえのか?」
 アーチャーは冷酷ささえ感じさせる無関心な表情を作り出すことに成功した。そのまま首を傾げてみせ、瞼を下ろすことでランサーとの会話を絶った。
 心当たりなどひとつしかない。死した君を抱え、我慢できず君に口づけをした――そうランサーに事実を告げることが、なぜかアーチャーにはできなかった。
「また近いうちに星が降るかもしれない。降らないかもしれない。少し疲れたから私は休ませてもらう。用があれば、私がねぐらにしている四階の部屋にくるか、礼拝堂でも探してくれ」
「おう」
 ぷらぷらと背中越しに降られた手に別れを告げアーチャーはサロンを出た。頭の奥から絶え間なく響いてくるようなしつこい痛みが消えず、無意識にこめかみをなでる。
 痛みに気を取られていたせいで、すれ違うまで注意を払っていなかった存在が、鼻先で笑いながら耳元に囁いた。

「醜いものよ」

 金色の髪をした古代の王は、振り返るアーチャーを気にも留めず悠々と酒蔵の方向へ去った。

 ***

「休息から嫌われているだろう。そんな顔をしている」
「余計な世話だ」
 建物の隅にわだかまる影が頁をめくり、乾いた音が五月雨のように積み重なっていく。燭台では蝋燭がじりじりと燃えていた。礼拝堂には静寂が満ち、硝子の聖女越しに色のついた月光が降りそそいでいる。
「ひとつ訊いてもいいか」
「おや、珍しいことがあるものだ。なにを知りたいのかな?」
 影は頭を上げると両指を組み、耳をすます仕草をしてみせた。
「ここへは、あの金髪の男はこないのか?」
「よりにもよってなぜその男なのか。興味深いな」
「深さなどない。単純に気になっただけだ」
「こないな。古代の王も野犬もここにはきやしない。正確には訪れることができないことになっているのだろう。君と同じ立場にならない限りは。まあその『金髪の男』は、こようと思えば侵入することくらい容易だろうが、奴が果たしてそんな気まぐれをおこすのか、私にはさっぱり見当がつかん」
 影は機嫌よく喉の奥から低い笑い声を漏らした。
「本題はそこではないだろう? ここの城の主とやら。君は不法侵入者から昇格したのか、めでたいことだ。さて。君は秘め事について、本人と共有しない主義なのか?」
「……なんのことだか」
「亡霊或いは人形たち、は変化し続けている。過去から解き放たれたようじゃないか。その切っ掛けに心当たりがないとでも?」
「ふん。『秘め事』とやらがあると仮定したところで、そんなもの誰かと共有する性質の事柄ではあるまい。それとも貴様は、私を誠実でないと非難でもしたいのか」
「そう苛立つな、私は訊いただけだ。そう、単純に気になっただけだとも。私が口出しする話でもないのだから」
 アーチャーは肩をすくめ、長椅子の上で足を組み替えた。
「言ったところでどうなる。結局ここから出る手段は微塵もわからぬままだ。奴が目覚めたところで変化などさして生まれていない」
「そうだろうか」
 礼拝堂の蝋燭が揺らぎ、ふっと消えた。重い夜が城と外れの礼拝堂に圧し掛かる。ああこの気配は、とアーチャーは窓の外を注視しながら腰を上げた。

 ランサー。アーチャーが真っ先に抱いたのは男への憂慮だった。ランサー、いまから星々が降る。どうか安全な場所にいてくれ、流星の真下にいないでくれ。
 考えたくなくとも脳裏に浮かぶ光景。破滅的な星々に砕かれるランサーの身体。地に落ちた男の亡骸を、寄る辺なく見下ろすことしかできない自分の姿。今すぐにでも会いに行かなければ、目覚めた彼がまたいなくなってしまう。
「……悪いことは言わない、ここにいろ」
鈍い動きで、アーチャーは祭壇を仰いだ。
「どうしてだ」

 空気を裂いて星が地上に落下する。青白い炎を身にまとい、地上のものすべてを破壊し、片端から炎で包んでいく。
 次第に炎が燃え盛りはじめ、ステンドグラス越しに礼拝堂を照らしていた。真っ赤な水中にいるかのような歪んだ光景が、アーチャーと影を取り巻く。
「いずれにしろ人々は絶える。いずれにしろ人々は甦る。全て事が終わってからでも支障ないだろう、君が出ていくのは。正当なトリガーであれば、それは引くべきときにしか引けないものだ」
「意味がわからない。私はランサーに気をつけろと……」
 深々と溜め息をつき、影は奥にある椅子に深く腰掛けた。
「そうだな、口出しをしすぎている。私がな」
アーチャーはいいようのない不安を抱いたまま、硝子越しに燃え盛る世界を眺めていた。礼拝堂のなかは炎にくるまれてもなお、変わらず凍えそうな温度を維持している。

 世界を破壊しつくす轟音が途切れたとき、影もまた崩れ去った。アーチャーは軋む扉を開け、荒れ果てた大地に立つ。重い瓦礫を踏み、倒れた柱を乗り越えてひとりの男を探した。

 ――なぜ自分はこんなにもあの男に執着しているのだろう。擦り切れた過去に因縁があったとはいえ、凛や少年少女たちのほうが余程気にかけるべき存在だろうに。……口づけはさすがに不可能だが。
 アーチャーは強く首を振り、口づけなど誰にもしない、いやしたが、本来同意なく、また好意なくそんな失礼なことができるものか、奴には理由なくしてしまったが、他の人間にしていいことでは決してない、と一瞬でも考えを巡らせてしまった己を強く𠮟りつけた。
 ランサーの横顔を胸に抱きながら、腰の高さほどの石壁を登った。
 あの赤い瞳は打ち倒すべき敵だけを一心に見つめている。横から真っ直ぐ見つめることができるかたちのいい耳で、銀色のピアスが揺れるさまを思い出す。
 彼の槍は迷いなく敵の急所を突くだろう。その動きに無駄はなく、軌道を追って線を描いてみたくなるほど美しい。そしてまた、その軌道を如何にしてはじき返し、奴の心臓を貫けるか。その挑戦をする相手として相応しいと認められ、正面に立てたならどれほど誇らしいか。
 戦う理由などなくとも、ただ戦うランサーを前にできるならば、私は己の剣を差し出すのかもしれない。あの獰猛な表情と対峙できるのならば。

 鋭く天を指す金属を指先が掠る。できた傷口を口で咥えながら、アーチャーは焦げた木材を足で蹴飛ばし、腰を屈めて重なる壁の隙間を覗きこんだ。
 残り火で武装の裾を焦がしながら辿りついた城の中心で、目標を発見した。三メートルほどの幅がある石畳の上に瓦礫が積みあがるなか、そこだけがぽっかりと口を開け、ランサーを庇護する空間となっていた。
 高さのある瓦礫の上から飛び降り、アーチャーは髪を乱し伏せるランサーを抱きかかえる。
 傍らにはどこから見つけてきたのか、異国の煙草と燐寸箱が落ちていた。
「ランサー、起きろ。いつまで寝ている気だ」
 頬を叩き、肩を揺さぶってもランサーが目覚める気配はなかった。いのちの絶えた世界で、アーチャーは目を固く閉じる。イリヤは言った、願いを、と。いや? あれはまだ『イリヤ』ではなかっただろうか。
『いずれにせよ同じ存在。ただ作るかたちが異なるだけ』
 では君はまた同じことを私に告げるのか?
『ええ、ルールは同じ。あなたは望むがままに振る舞えばいい』
 なにもせずともランサーに目覚めてほしい。
『トリガーを引く行為が必要だわ。自由な彼と共に過ごしたいのなら。彼を手放したいのなら、なにもしなくていいけれど』
 途端、はじめてランサーに口づけたときに味わった怖気だつ冷たさを思い出した。彼を抱く両腕が動揺で震える。
 自分は再び彼を失くさなければならないのか、再びランサーを得るために。彼を得るために失くし続けるのか。
 アーチャーは項垂れ唇を噛みしめたが、迷った時間は極めて短かった。そっとランサーの顔にかかる前髪を払いのけ、苦しくない姿勢にと身体を抱えなおす。そして祈るように頭を下げ、ぎこちなく唇へ顔を寄せる。アーチャーの肺に残る、生命の息吹を吹き込むために。

 異国で作られた煙草の香りが漂う口づけは、ひどく苦かった。
 全身に走る寒気と慄きを、崩れ去る身体の感覚を身体に直接刻みこむように視界を閉ざした暗闇で受け止め、ただ身を丸めて耐えた。
 世界は巡りだす。過去の幻影が走り、それに伴い城は復元されていく。栄光の時代を取り戻す。

 ランサー、君はどこで目覚めたのだったか。
『あー、地下牢っつうのか?』
 アーチャーは背を伸ばし、真っ直ぐに立ち上がって大地を力強く踏みしめた。
 君に会いに行こう、君を迎えにいこう、この不条理を生き抜くために。
 壮絶な笑みを浮かべ、虚ろな自分に生の実感を与えてくれた青く美しい獣に再び会いたいという一心で、アーチャーは踏み出した。

 ***

 焦る気持ちと同調して、次第に歩みが速くなる。地下牢に続く階段の蜘蛛の巣を払いのけ、じっとりと湿気がまとわりつく空間を仕切る鉄格子を荒々しく両手で握りしめた。
 光のない闇のなか、目を細めて内部を観察する。右の牢に人影はない。
 ――ああ、ここにいた。
 ランサーは左手の牢の奥深くで、微動だにせず横たわっていた。アーチャーが握った鉄格子が、甲高く耳障りな音を立てて軋む。するとそれにあわせて、ランサーの肩が緊張し張りつめた。
「本当にここで目覚めるんだな。気分はどうだ」
 ランサーからの返答は、ひゅ、と空気を切り裂いて突き出された赤い槍の穂先だった。鉄格子の間をすり抜け喉元に突きつけられた鋭い先端が、アーチャーの命などいつでも狩ることができるのだと警告する。
「……ランサー」
 闇の中に浮かぶ凶暴な赤い瞳が、ぎらりと光りアーチャーを睨みつけた。
「槍を下げてくれないか。どうしたというんだ」
 そう言いながら、アーチャーは膝が崩れ落ちそうな絶望を抱いていた。答えなど知っている、これはアーチャーが知らなかったここでの『ルール』のひとつなのだろう。
「テメエはオレの敵か? どういう心算か訊いてもいいもんかね、こんな場所にオレを放り込んだ理由を」
 アーチャーは緩く首を振り、まさか、と呟いた。
「確か鍵はかかっていないはずだ。そう言っていた。確認してみたまえ。私は下がる」
 アーチャーは五歩ほど後ろに下がった。今にも獲物にとびかからんとする低い姿勢で槍を構えていたランサーは、むくりと起き上がり、殺気を放ちながら慎重に鉄格子に手をかける。その様子をアーチャーはじっと観察していた。
「……そうか、君の記憶はなくなるのか」

 ギイ、と錆びた鉄格子が外側に開いていく。身を屈め扉をくぐり抜けたランサーは、アーチャーと一定の距離を保ちながら、ここはどこだ、なにがあったと平坦な声で問うた。
「過去が巡るアインツベルンの城だよ。私たちはここで目覚めて、私は過去の日々を見ている。君にはそれが見えなかったようだが」
「目覚めて、見えなかった」
ランサーは眉根を寄せ、身体を前方に倒した。いまランサーの身体では心臓が力強く脈打ち、アーチャーをねじ伏せる隙を探している。
「オレは城とやらにいたのか?」
「ああ、だが君はずっと意識を保つことができないようだ。一定の条件が揃うと君は地下牢で目覚めを繰り返すのだろう」
「テメエは?」
「さあ、どうだろうな。私が持つ記憶の限りでは、私は一度目覚めてからずっと活動している」
 ランサーは鼻を親指で擦り、訝し気にアーチャーの顔を窺っていた。
「理解できねえな。どうしてそんなことになってる。過去っつったな、その正体に心当たりはあんのか」
「ないな、本当に。どうしてこんな場所に迷い込んでしまったのか」
 言葉を交わす度に、アーチャーの胸はぎりぎりと締めあげられていく。それでも対話することを諦めたくはなかった。
 言葉をかける、愛しい獣へ。巡る城から共にはじき出された同士へ。
 どうすればいいのか、自分はどうしたいのか、最早アーチャーには皆目見当がつかなかった。ランサーと過ごすことができたら満足するのか。ランサーと共に星が落ちる世界を生き延びたいのか。ランサーに自分のことを記憶してほしいのか。それともこの世界から脱出し逃げたいのか。
 
「なんなら、ひとつ試していない事がある。……君が私の命を奪ってみるという、それだけは。試したいのなら協力してやろうか。結果に興味がないこともない」
 それを聞いた途端、ランサーは構えを解いた。槍を消滅させ両手を腰に当てると深々と溜め息をつく。心底呆れ果てたと言わんばかりに。
「知ったこっちゃねえな。オレにはどうも、テメエがよろしくないモンに騙されてでもいるんじゃねえかっつう気しかしねえわ」
 そう言い残すと、ランサーは無防備にアーチャーの傍らを通り抜け、したたり落ちた水でぬめる階段を上っていった。
 扉が開かれ、やがて重い音と同時に閉ざされる。闇に残されたアーチャーは片手で目を覆うと、力なくその場に蹲った。

 ***

「そうして結局、目覚めた狗は野良犬と化したのか」
 口を動かすことさえ面倒に感じ、アーチャーは長椅子に腰かけたまま首を縦に振った。両手を開いた足の上で組み、背を丸める。
「それで? 時間がたち態度が軟化することもなかったのかね?」
 礼拝堂の奥で本を捲る影は、どこか嬉しそうに問いを重ねつつ、奥から取り出した新しい蝋燭を燭台に置いた。
「姿を完全に消したんだ。そこからどう軟化させろというのか」
「なるほど、嗅覚は流石に鋭いらしい」
「気まぐれに気配を感じさせるが、追えども既に行方をくらませている。私に姿を見せる気は一切ないようだ」
「そうして君は再び終焉を迎え、目覚めさせるんだな」
 アーチャーは汗ばむ髪に指を入れ、神経質な手つきで地肌を撫でた。こつこつと爪先で床を叩く。
「もしくは、もう目覚めさせることを諦めるのか?」
 アーチャーの脳裏を駆ける鮮やかな青の姿態。全身を気持ちよく伸ばし、喜びの感情を迸らせながら走る獣。機嫌よく喉を鳴らし、獲物を狙う。
 彼を失くすと、己のどこかが欠けていく気がする。ランサーを失う温度を思い出すたびに、もうこれ以上はない、彼の目覚めはここで終わりだと理性が囁く。
 けれどアーチャーは、ランサーを失ったままでいることに耐えられない。彼を失くす想像を繰り返せば繰り返すほど、たとえ拒絶されようとまた彼に口づけてしまうのだろうと確信する。
 影が顔をあげ、白い線が幾本も走る紺碧の空を窓越しに見上げた。
「滅びと出迎えの時間がきたようだ。再び迎え入れてやればいい。この安寧の地にな」
「はっ。どう思考すれば、ここが安寧の地などと血迷ったことを口にできるのか」
 拳を額に当てたアーチャーは、影も消え失せた無人の礼拝堂で座し、初めて己以外の存在に祈った。
 きっかけが欲しい。確固たる手触りがある荒々しい物事の断面が欲しい。この状況を打開するための糸口がどこかに転がっていてほしい。

 アーチャーは冷えた瞳で足元を見つめ、そんなものは自分自身の手で作りだす以外に方法はなかろうと、抱いた己の祈りを投げ捨てた。

 ***

 小さな変化は大きな流れに飲み込まれその姿を見失う。認識できるものは眼前に並ぶ無銘の剣だけだ。
 アーチャーは投影した十六本目の剣を空中庭園に突き立てた。傍らにはアインツベルンの娘が寄り添っている。
「彼を迎えに行こう」
口を開くことがひどく億劫だった。地下牢までの道のりで、もう幾度考えたか分からぬ思考を再生する。
 君に城が巡る理由をどう告げるべきだろう。自分が君に口づけるからこの世界は巡り、君は意識を得るのだと言うべきか。言ったところでなにが変わるというんだ。
 アーチャーは沈黙する。
 彼に説明しなければ。慣れた口は勝手に喋ってくれる、この場のルールを。自分とて十分に知らないというのに。だが彼の視界には『アーチャー』しか存在していないのだ。

『誰もいねえな』皆がいる。
『なぜオレたちだけ』私が望んだからだと娘は告げる。
『なにか知らねえか』きっかけは私の口づけなのだろう。思い当たる事はそれしかない。
 そうして彼は去る、アーチャーの手元から。一度たりとも例外なく。
 確かめてくる、確認してくる、偵察してくる、テメエどこか信用ならねえな、信じられるかンなことを。
 アーチャーは窓辺に立ち見送り続ける、城から遠ざかる男の後ろ姿を。いつか彼は本当に世界の果てに辿りつき、閉ざされた地から自然に身を躍らせこぼれ落ちていくのではないかと、仄かなおそれを抱きながら。
 だがそれがランサーの幸せに繋がるならば、アーチャーは納得するだろう。そして、そのまま疲れた身を寝台に横たえ、久しく取っていない休息を存分に味わうのだ。

 亡霊の叫びが、城に木霊する。

 ランサーを送り出し、時の感覚を失くした状態でふらりと訪れた玄関ホールでは、英雄王がバーサーカーを鎖で拘束していた。少女を守るためにあげた狂戦士の咆哮が響く。
 英雄王はその光景を前にして、退屈しきったように鼻を鳴らした。戦いの惨状がしばし停止する。
「ふん、下らぬな。不出来な人形共がわらわらと。醜い限りよ。なあ、そこのアインツベルンの娘。ここはどうやれば止まる?」
 バーサーカーに寄り添っていたイリヤは、開けていた口をためらいがちに閉ざし、英雄王ではなく、テラスの片隅に佇んでいたアーチャーを見据えた。
「答えはかわらない。眠ればいい。主が眠ればいい、■■■。望みがあるならば目覚めを。疲れたのならば、休息を」
 英雄王は自由気ままな仕草で、興味を失い切ったホールに背をむけ、輝く金色の髪を靡かせながら口角を吊り上げた。
「聞いたかそこの。はっ、まったく愚にもつかぬことを延々と。ただの記憶の残滓をこねくり回し、夢幻に、蜃気楼になにを望みなにを賭けるというのか。醜悪さも極まっているな。貴様も貴様だ。執着が捨てられぬとでもいうのなら、好いた男と褥でも共にして満足してさっさと人形に戻ればいい。気づけばこんな場所は錆びつき壊れているだろうよ。
 きたるべき終わりが到来したなら呼べ。外に出ることさえせぬ臆病者め」

 アーチャーは金色の男が残していったフレーズが、己の腑に響きながら落下していく新鮮な感覚に支配されていた。傍らに少女が近づいていることにも気づかずに。

 ――きたるべき終わり。終わり。私たちの終わり。それは存在しているものだったか。私たちに許されているものだったか。
 そっとアーチャーの袖を引く小さな手によって現実の意識を取り戻し、その主を振り返る。イリヤは眉を下げてひどく悲しそうな顔をしていた。
「どうした」
「……ねえ、怒っていない?」
「なぜ? なにをだ?」
「だって、わたしの人形が。……ひどいことを、いったから」
「ああ」
 アーチャーは皮肉な笑みを浮かべ、だが安心させるようにイリヤを見下ろした。
「ふ、癪だが奴の言うことも間違っていないのだろう」
イリヤは迷うような表情を浮かべ、口を小さく開いたまま硬直した。
「どうした。言いたいことがあるのならば言いたまえ」
「いいえ。……あなたには、彼の言葉があまり重くないのね」
「私に意味を与えるのは、たった一人の男だけになってしまったんだ。いつからかそうだったのか、もう思い出せないが。君にはわからないか?」
「なんだか、わかると言ってはいけない気がする」
「そうか。ならばそれでいいんだ」
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