艦これ
列車が甲高い金属音を立ててホームに滑り込む。車内は閑散としていて、四人掛けのボックス席に一人で腰かけたまま到着することができた。
なにも忘れてはならないと周囲を二度、三度と見渡した。頭上から引きずり出した旅行鞄は革で出来ていることもあって、ずっしりと左の掌に取手を食いこませている。肩から掛けた小さな白い鞄から、切符を取り出した。二つの駅名を印刷した小さな紙切れは、何度も不安げに取り出しては確認し、仕舞うことを繰り返していたため、すっかり草臥れていた。
まるで私の心みたい。思わずため息が出る。
海上で長距離を移動することには慣れている。毎日の食事や睡眠、その延長線上にあることだ。けれど、陸上ではその何分の一かの距離を移動することさえ初めてで、身も心もすっかり疲れ果てていた。まばらな乗客と共に列車を降りる足取りが重い。
数日前だって、―――列車ですか、と渡された切符を思わず見たのだ。
「ちょうどいい船がないのだ。陸路で行ってくれ」
それは命令だった。でも構わなかった。どうしてもこの地へ来たい理由があったからだ。配属を知らされたとき、偉い人の前では真面目な顔をしていたけれど、部屋に戻って文字通り飛び上がって喜んだのだ。
――――やっと香取ねぇに会える。一緒に暮らせる。
荷物を詰め込んだ旅行鞄を握りなおす。駅前のロータリーで車が待っていると聞いている。「ここは眩しいのね」
駅の外は真昼の太陽に包まれどこもかしこも白く、ただ街路樹の緑だけが妙に鮮やかだった。海風が街に染み込んでいる。鹿島は潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、これから会えるであろう人のことを思って初めての空を見上げた。
「提督、失礼いたします。新しい艦を連れて参りました」
鹿島は下げていた視線を上げる。重い木の扉は開け放たれ、執務室の全てを廊下から見ることができる。厚いカーペット、大きな机、忙しなく働く人と部屋の主。けれど、そこにも会いたかった人の姿はなかった。
駅前のロータリーでも、もしかして、と期待していたのだ。列車を降りた鹿島に、あの姉が優しい眼差しで「あら鹿島、ひさしぶりね。元気だったの?」と声をかけてくれるのではないかな、と。ちっぽけな夢だ。姉さんだって仕事をしているのだから、そうそう私に付き添うことはできない。そんなのあり得ないと分かっている。
それでも、と小さな夢を抱いていただけだ。
駅前で戸惑っている鹿島を拾った人は、涼し気な雰囲気を漂わせた長身の女性だった。
「あなたが鹿島さん、かしら」
知性を感じさせる表情で、眼鏡越しに問うてきた。
「は、はい。新しく着任した鹿島です」とぎこちなく敬礼すると、ふふ、と笑ってその女性も答礼をしてくれる。
「あの車よ。行きましょう、提督がお待ちだから」
黒塗りの車のトランクへ荷物を載せながら、後ろを振り向く。日光だけが強く照る、がらんとした街。姉さんがどこかにいる気がして、落ち着かない気分になる。
てっきり運転手がいるものかと思っていたが、女性は慣れた仕草で運転席に座り、エンジンをかけた。クラッチをつないでギアを入れる。
――――香取は、今どこにいるのでしょう。
雑談めかして問おうと思っていた疑問は切り出すタイミングを失ってしまい、口の中にもやもやと留まっている。肩から下がる鞄のストラップを両手で握りしめ、ぼんやりと窓の外を流れる景色を眺めた。道は徐々に悪路となり、がたがたと座席の上で跳ねてしまいそうな振動が伝わる。鹿島の心も同時に弄ぶようなその振動は、鎮守府に到着するまで止むことはなかった。
「鹿島、着任しました」
うふふ、と思わず出そうな笑みを押さえて敬礼する。提督は、こっそりと予想していた厳しくて、重々しくて、そしてやっぱり厳しい人ではなさそうだった。
内心ほっと胸をなでおろす。そのかわり、と言ってはなんだけど、とても忙しそうで挨拶以外をする時間はなかった。
疲れただろうから、今日一日は部屋で荷物を解いて休んでいなさい、というさっぱりした言葉と共に執務室から退くことを促される。大きな荷物はすでに居室へ運ばれているはずだった。
「……南ホ棟、二十一号室」
同じ言葉を忘れぬように繰り返す。今日の秘書艦だと言って部屋番号を教えてくれた黒髪の少女は、決まりで共同部屋なんだ、ごめんねと廊下で告げてきた。
「私は大丈夫です、前の配属先でもそうだったの。……誰と、同室なんでしょう」
声は辛うじて期待で震えなかった。見えないように両手をぎゅっと握る。
「う~ん、誰だったかなあ?この時期入退去や部屋替えが多くてさあ」ごめんね、と素朴な笑顔で頭をかく。ともに階段を下りながら、目の前の通りを行って、二番目の十字路を左折して、まっすぐ行った奥から三棟目だから、と説明される。……一緒にいこっか?という申し出を丁重に断り歩き出した。
舗装された道の脇をてくてくと歩く。随分海風の強い場所だな、と思った。通りの外れに植えられた木が曲がっている。以前は湾の内側にある泊地にいた。そこは台風でも来ない限り、海も風も穏やかだった。
教えられた十字路と思われる場所を左へ曲がる。煉瓦造りのこぢんまりとした建物が集まって立っている。広々とした鎮守府ね、と呟く。居住区は平日の昼間であるせいか、静まり返って物音ひとつしなかった。
建物に名前は書いてあるのかしらと、目当てと思しき一棟に近づく。その瞬間、渦を巻くような突風が辺り一帯を吹き抜けた。
「きゃ……っ!」
スカートと帽子を押さえると、髪がバタバタとはためいた。舞い上がった埃が目に入り、何度も瞬きをする。風がやむと同時に、埃の入った片目を擦った。
「痛ぁ……」
「どなた。何をしているの」
鹿島は低く静かな声に背後を振り返った。冷めた顔つきの女性が、隣り合う建物の階段から降りてくる途中で足を止めていた。威圧する空気に、思わず敬礼する。
「本日着任した鹿島です」自分の部屋を探していました、と小さな声で続ける。
「ああ……、香取の妹ね」
その名に、不自然なほど勢いをつけて顔を上げた。両手を胸の前で組む。その間にも女性は階段を下り、鹿島へ背を向けようとする。
「あ、あの……香取は、どこでしょう」
なんて意味の通らぬ問いだろう、と言いながら思った。慌てて言葉を重ねようとする前に、青い袴をはいた女性に制される。
「南ホ棟、二十一号室。……貴女と同室よ。けれど、今日の二十二時まで帰投はしないわ。昨日遠洋練習航海に出たもの」
質問はそれだけ?それじゃ、と笑顔一つなく去る。その後姿を呆然と見送りながら、次第に紅潮していく頬を両手で包み込んだ。心臓がうるさいくらい胸の中で暴れまわっている。
本当に?いやいや、二人部屋とは言っていなかった。でも、同じ部屋だって!
誰もいないのをいいことに、何度も足踏みをしてついにはぴょんぴょんと跳ねる。香取ねぇと同室なんて、どうしよう。どうしよう。どうもしないわ!と血の上った頭のまま階段を駆け上がった。
「ああ、いやになっちゃう。なんでこんなに荷物があるのかしら」
高揚する心のまま、手渡された鍵で部屋の扉を開けた瞬間、真っ先に目に入ったのは部屋の入口に几帳面に積み上げられた、見覚えのある段ボールの山だった。こんな山を開けて片付けるなんて今日一日で終わるはずないじゃない、とぼやきながら己が送り付けた私物の山を爪先でちょい、ちょいと押しやる。出鼻を挫かれた格好だったが、気を取り直し部屋の奥を覗きこんだ。
住人の性格を如実に表す部屋は、埃一つなく整然と片付いていた。うふふ、と二台しかない寝台を見て笑った。寝台の片方の枕元には姉の私物が置かれている。その反対の寝台は、太陽のにおいがするぴんと張ったシーツにくるまれていた。きっと姉さんがしてくれたのね、と幸せな気分になる。ぽすん、と真っ新に整えられた寝台へ腰を下ろし、なんとなくそのまま上半身を倒す。
――――姉さん、持っていてくれたんだ。
互いの寝台の枕元には、いつか鹿島が香取へ贈った青い硝子の一輪挿しが置かれている。双方に水仙が差してあり、良い香りを放っていた。香取の小机にはそれに加えて、簡素な木製の写真たてが一つあった。満面の笑顔を湛えた姉妹が仲良さげに寄り添っている。いつだったか、港で撮ってもらったものだ。いいカメラを持つ人がいるから、と。
幸せに包まれながら、目を閉じて深呼吸した。やっていけそう、ここで。だって香取ねぇがいるんだもの。暖かな寝台もまるで香取ねぇにぎゅっとしてもらっているみたい。身体にたまった移動の疲れが眠りを誘う。瞼が重い。……荷物を開けないと。姉さんを困らせちゃう。起きて、荷物を。
正に眠りに落ちそうになった直前に、目の前の違和感に気付いた。ぼんやりした視界で、向かいの姉の小机を見上げる。見慣れないものが、あった。
――――なんだろう、あれ。まるで。
まるで。隠すように、写真たての裏に置かれたもの。黒くて小さい、高級そうな小机。
まるで。装飾品を入れるための。それも、人に贈るための。そして、贈られたかのような。
どくん、と心臓が脈打つ。血が心臓に全て集中したかのように、手足が急速に冷える。頭で否定する。そんなことはない。そんなことはない。そんな、ことは、ない。
誰もいない部屋をきょろきょろと見渡す。建物自体が死んだかのように静まり返っている。見たらだめ。香取ねぇに怒られる。聞けばいいだけだ、それどうしたのって。きっと何でもない理由で。
そっと上半身を起こす。見たらだめ。立ち上がる。あんな小箱になら、どんな装飾品だって入る。足が一歩、二歩と進む。きっと後悔する。震える手が伸びる。だめ。
これはきっと、悪いこと。
そっとスウェード張りの小箱を掌にのせる。軽い小箱は、ぱかりと気の抜ける軽い音を立てて簡単に開いた。
「――――っ!!」
息をのむ。目を見開いたまま、ぴくりとも動けなかった。
ああ。――――ああ。プラチナのリングがクッションの中で輝く。その圧倒的な存在に、乾いた唇を強く噛みしめた。……そうよ、私は悪いことをしているの。だったらもういっそなんでもするわ。
白い指先でリングをつまみあげる。その内側を窓に向ける。
「Kへ」そう刻まれた文字は、涙で滲んではっきりと見ることができなかった。
ぱたぱたぱた、と水滴が散る。手で上方を探り、ふわふわのタオルを顔に押し付けた。
「はぁっ」
濡れた長い髪を後ろでまとめ、水を絞る。コンディショナーはムスクの香りがわずかにするもの。容器からたっぷりとった白いクリームを、丁寧に銀の髪へ擦りこんでいく。あら、今度のシャンプーはいい香りね。そう姉さんに言われてから、銘柄は一度も変えていない。髪を放置している間に、大量に泡立てたボディソープで全身をくまなく洗う。隣で北上さんが使ってるの全部いい匂いだねえ、と笑っていた。そうでしょう、とぎこちなく笑いながら返す。――全部姉さんが好きな香りなの、とは言わない。
今日一日分の染みついた汚れを熱いお湯で洗い流す。湯が白く張りつめた腕、乳房、太ももを伝わり排水溝へと流れる様子を見て、そうよ、今日は遠くから旅をしてきたんだわと意味なく考える。目の前の鏡には、濡れた髪が肌にはりつき、どこか腫れぼったい目をした自分がいた。
何か物音がする、と浅い眠りから目覚めたとき、窓の外は真っ暗になっていた。泣いていて、いつの間にか眠りに落ちたようだった。呆然とした顔で窓の外を見て、寝過ぎだわ、と思っている間にも部屋の扉をノックする音は止まなかった。ふらつく足取りで荷物の山に躓きながら部屋の扉を開ける。
「やあ、ご飯食べに行こう。食堂と、あとお風呂の場所を教えるからさ」
昼間部屋の案内をしてくれた秘書艦の少女は、笑顔で北上だよ、と名乗った。知らない同僚ばかりの中で、孤独に食事をせずに済み、その部分だけは鹿島はほっとした。たとえ精神がボロボロで、食事なんて米粒一つ喉を通りそうになくても、親しみを込めて接してくれる存在は素直に嬉しかった。
なにも考えられないけれど、なにも考えていない姿で香取ねぇの前に立つことも考えられない。汗と埃にまみれて泣きはらした顔。化粧なんてしてるのかしてないのかわからない。戦場ならばともかく、そんな姿で香取ねぇと会うなんて、きっと考えられるだけで一番最悪だわ、と無理やり納得させ身体を鞭打つ。
暗い気持ちで重い革の旅行鞄をひっくり返している間、北上という少女はじっと静かに待っていてくれた。
湿った髪のまま北上と部屋の入り口で別れ、そのまま寝台へ倒れこんだ。風呂場の共用ドライヤーは古いものだったからか、ぬるい風しか吐き出さなかったのだ。時計を見ると、もうすぐ二十二時になろうとしていた。お風呂の順番待ちをしていたからだ。
「香取ねぇ」
もう帰ってくるのかな。提督へ報告に行くのかな。それともそのまま帰ってくるのかな。疲れた身体で旅行鞄を引き寄せ、髪を梳かして白粉くらい、と化粧品の入った袋を探す。
「あれ?……いれた、はずなのに」
櫛がない。何度確認してもない。じゃあ、あの荷物の山のどこかにあるの?うんざりした鹿島は、すべて放り投げて布団にくるまった。きっと翌朝にはくせ毛の銀髪がどうしようもなく広がっているだろうけれど、もうなんでもいいや、と目を瞑る。
建物のあちこちから音がする。帰還した住民が歩き、話し、騒ぎ、怒られている。排水管を水が通る。建てつけの悪い家具が鳴る。色々なものが、管や壁を通して低く響いてくる。廊下を誰かが歩くと身体はびくりとこわばり、その度に布団の奥深くに潜ろうとかたく生地を握りしめた。布団はやっぱり暖かくて、涙が出そうになる。
――――香取ねぇ。
胸の内の呼びかけに応えるかのように、高いヒールの音が二十一号室の前で止まった。がちゃり、と鍵が開けられる。
優しい声が、した。
「……鹿島、いるの?」
全身が喜んだ。ずっとずっと聞きたかった声。今すぐ起きて抱きつきたい。だけど、どんな顔をして会えばいいの。香取が部屋に入り「あらあら」と呟く。
「もう散らかしているのね。……そんなことだろうと思っていたわ」
そう言いながら、わずかに開いていた窓を閉める。ぎし、と音を立てて鹿島の寝台が沈んだ。香取は丸まった鹿島の隣に腰かけ、手で数度盛り上がった布団をぽんぽん、と叩いた。
「鹿島……?疲れたの?ご飯とお風呂はすませたの?」
狸寝入りであることを知っているかのような問いと共に、手が穏やかに布団の上から鹿島をなでる。愛しいものをなでる手つきで。
「……子ども扱いしないで、香取ねぇ」
息苦しくなって頭だけ外に出す。
「ふふ、ごめんなさいね。……でも頭がぼさぼさだわ。ちょっと湿っているし。梳かさなかったの?」
「だって……だって、櫛がないんだもの」
あらあら、と香取は立ち上がり、自分の小机の抽斗からブラシを取り出した。
「ほら、起きてお座りなさい。……今日はちゃんと来られたの?迷ったり、変な人に会ったりしなかった?」
久しぶりに見た姉さんは、上着を脱いでいること以外は航海から帰ってきた姿のままだった。若干疲労を滲ませているけれど、顔つきはきりりとしていて、それでいて穏やかな目をしている。
綺麗で、格好良くて、誰も放っておきそうにない姉さん。
唇を噛みしめて下を向く。なにか一つでも言葉を出すと、そのまま爆発してしまいそうだった。香取は鹿島の後ろに座り、細く白い指で銀髪のもつれをほどき、ブラシでゆっくりと髪を梳かす。
「貴方の髪は相変わらず綺麗ねえ。……どうしたの、今日はご機嫌斜めね。嫌なことでもあったのかしら?」
慎重に、丁寧に、くせ毛を整えていく。その手の温かさに耐えきれず、鹿島はぽたりと涙を一粒、落とした。えぐ、えぐとこみ上げる嗚咽を押さえ、目を閉じる。
「ねぇ、ねぇ……香取ねぇ、す、すきなひと、いるの?……けっこんとか、……するの?」
言っていて余計に悲しくなって、もう一粒涙がこぼれる。心の中で冷静な自分が呆れて嘆いた。なんて惨めなこと言っているんだろう、私。
香取はしばらく動きを止め、疑問を顔に浮かべたまま首を傾げる。やがて、ある事実に思い当たり、思わず苦笑した。香取は背後からぎゅっと鹿島を抱きしめる。耳元へ口を寄せ、吐息交じりの静かな声を吹き込んだ。鹿島の背が、ぞわりと波打つ。
「……なかを見たのね?ふふ、悪い子」
そっと妹の髪をかきあげ、銀の髪の生え際で息衝く耳へ口づける。
「あれはね、お仕事を頑張ったっていう証として頂戴したのよ。」
可愛い耳たぶの可愛いほくろ。子供の時から変わっていないのね、と香取は胸の内でひっそり笑う。
「誰かと仲良くなったら、お尋ねなさい。あれを頂いた艦はね、何人もいるのよ、この鎮守府には」
首筋に顔をうずめ、そっと啄むように何度も口づけをする。なめらかな白い肌は、本人の心境を表すように徐々に赤みを帯びてくる。
「或いは、貴女も頑張ったら頂けるかもしれない」
振りむいた鹿島の目尻は、泣いたせいで仄かに赤みを帯びている。潤んだ瞳は大きく、桜色の唇には噛みしめた跡が痛々しく残っていた。ほんとうに、しょうがない子。そこが、可愛らしくてたまらない。
「香取ねぇ……」
舌足らずな声を発する唇を塞ごうと、そっと近づく。
「貴女だけよ。……私には、あなただけ」
互いの唇が触れ合った瞬間、目を閉じていた鹿島はふるりと身体を震わせた。
なにも忘れてはならないと周囲を二度、三度と見渡した。頭上から引きずり出した旅行鞄は革で出来ていることもあって、ずっしりと左の掌に取手を食いこませている。肩から掛けた小さな白い鞄から、切符を取り出した。二つの駅名を印刷した小さな紙切れは、何度も不安げに取り出しては確認し、仕舞うことを繰り返していたため、すっかり草臥れていた。
まるで私の心みたい。思わずため息が出る。
海上で長距離を移動することには慣れている。毎日の食事や睡眠、その延長線上にあることだ。けれど、陸上ではその何分の一かの距離を移動することさえ初めてで、身も心もすっかり疲れ果てていた。まばらな乗客と共に列車を降りる足取りが重い。
数日前だって、―――列車ですか、と渡された切符を思わず見たのだ。
「ちょうどいい船がないのだ。陸路で行ってくれ」
それは命令だった。でも構わなかった。どうしてもこの地へ来たい理由があったからだ。配属を知らされたとき、偉い人の前では真面目な顔をしていたけれど、部屋に戻って文字通り飛び上がって喜んだのだ。
――――やっと香取ねぇに会える。一緒に暮らせる。
荷物を詰め込んだ旅行鞄を握りなおす。駅前のロータリーで車が待っていると聞いている。「ここは眩しいのね」
駅の外は真昼の太陽に包まれどこもかしこも白く、ただ街路樹の緑だけが妙に鮮やかだった。海風が街に染み込んでいる。鹿島は潮の香りを胸いっぱいに吸い込み、これから会えるであろう人のことを思って初めての空を見上げた。
「提督、失礼いたします。新しい艦を連れて参りました」
鹿島は下げていた視線を上げる。重い木の扉は開け放たれ、執務室の全てを廊下から見ることができる。厚いカーペット、大きな机、忙しなく働く人と部屋の主。けれど、そこにも会いたかった人の姿はなかった。
駅前のロータリーでも、もしかして、と期待していたのだ。列車を降りた鹿島に、あの姉が優しい眼差しで「あら鹿島、ひさしぶりね。元気だったの?」と声をかけてくれるのではないかな、と。ちっぽけな夢だ。姉さんだって仕事をしているのだから、そうそう私に付き添うことはできない。そんなのあり得ないと分かっている。
それでも、と小さな夢を抱いていただけだ。
駅前で戸惑っている鹿島を拾った人は、涼し気な雰囲気を漂わせた長身の女性だった。
「あなたが鹿島さん、かしら」
知性を感じさせる表情で、眼鏡越しに問うてきた。
「は、はい。新しく着任した鹿島です」とぎこちなく敬礼すると、ふふ、と笑ってその女性も答礼をしてくれる。
「あの車よ。行きましょう、提督がお待ちだから」
黒塗りの車のトランクへ荷物を載せながら、後ろを振り向く。日光だけが強く照る、がらんとした街。姉さんがどこかにいる気がして、落ち着かない気分になる。
てっきり運転手がいるものかと思っていたが、女性は慣れた仕草で運転席に座り、エンジンをかけた。クラッチをつないでギアを入れる。
――――香取は、今どこにいるのでしょう。
雑談めかして問おうと思っていた疑問は切り出すタイミングを失ってしまい、口の中にもやもやと留まっている。肩から下がる鞄のストラップを両手で握りしめ、ぼんやりと窓の外を流れる景色を眺めた。道は徐々に悪路となり、がたがたと座席の上で跳ねてしまいそうな振動が伝わる。鹿島の心も同時に弄ぶようなその振動は、鎮守府に到着するまで止むことはなかった。
「鹿島、着任しました」
うふふ、と思わず出そうな笑みを押さえて敬礼する。提督は、こっそりと予想していた厳しくて、重々しくて、そしてやっぱり厳しい人ではなさそうだった。
内心ほっと胸をなでおろす。そのかわり、と言ってはなんだけど、とても忙しそうで挨拶以外をする時間はなかった。
疲れただろうから、今日一日は部屋で荷物を解いて休んでいなさい、というさっぱりした言葉と共に執務室から退くことを促される。大きな荷物はすでに居室へ運ばれているはずだった。
「……南ホ棟、二十一号室」
同じ言葉を忘れぬように繰り返す。今日の秘書艦だと言って部屋番号を教えてくれた黒髪の少女は、決まりで共同部屋なんだ、ごめんねと廊下で告げてきた。
「私は大丈夫です、前の配属先でもそうだったの。……誰と、同室なんでしょう」
声は辛うじて期待で震えなかった。見えないように両手をぎゅっと握る。
「う~ん、誰だったかなあ?この時期入退去や部屋替えが多くてさあ」ごめんね、と素朴な笑顔で頭をかく。ともに階段を下りながら、目の前の通りを行って、二番目の十字路を左折して、まっすぐ行った奥から三棟目だから、と説明される。……一緒にいこっか?という申し出を丁重に断り歩き出した。
舗装された道の脇をてくてくと歩く。随分海風の強い場所だな、と思った。通りの外れに植えられた木が曲がっている。以前は湾の内側にある泊地にいた。そこは台風でも来ない限り、海も風も穏やかだった。
教えられた十字路と思われる場所を左へ曲がる。煉瓦造りのこぢんまりとした建物が集まって立っている。広々とした鎮守府ね、と呟く。居住区は平日の昼間であるせいか、静まり返って物音ひとつしなかった。
建物に名前は書いてあるのかしらと、目当てと思しき一棟に近づく。その瞬間、渦を巻くような突風が辺り一帯を吹き抜けた。
「きゃ……っ!」
スカートと帽子を押さえると、髪がバタバタとはためいた。舞い上がった埃が目に入り、何度も瞬きをする。風がやむと同時に、埃の入った片目を擦った。
「痛ぁ……」
「どなた。何をしているの」
鹿島は低く静かな声に背後を振り返った。冷めた顔つきの女性が、隣り合う建物の階段から降りてくる途中で足を止めていた。威圧する空気に、思わず敬礼する。
「本日着任した鹿島です」自分の部屋を探していました、と小さな声で続ける。
「ああ……、香取の妹ね」
その名に、不自然なほど勢いをつけて顔を上げた。両手を胸の前で組む。その間にも女性は階段を下り、鹿島へ背を向けようとする。
「あ、あの……香取は、どこでしょう」
なんて意味の通らぬ問いだろう、と言いながら思った。慌てて言葉を重ねようとする前に、青い袴をはいた女性に制される。
「南ホ棟、二十一号室。……貴女と同室よ。けれど、今日の二十二時まで帰投はしないわ。昨日遠洋練習航海に出たもの」
質問はそれだけ?それじゃ、と笑顔一つなく去る。その後姿を呆然と見送りながら、次第に紅潮していく頬を両手で包み込んだ。心臓がうるさいくらい胸の中で暴れまわっている。
本当に?いやいや、二人部屋とは言っていなかった。でも、同じ部屋だって!
誰もいないのをいいことに、何度も足踏みをしてついにはぴょんぴょんと跳ねる。香取ねぇと同室なんて、どうしよう。どうしよう。どうもしないわ!と血の上った頭のまま階段を駆け上がった。
「ああ、いやになっちゃう。なんでこんなに荷物があるのかしら」
高揚する心のまま、手渡された鍵で部屋の扉を開けた瞬間、真っ先に目に入ったのは部屋の入口に几帳面に積み上げられた、見覚えのある段ボールの山だった。こんな山を開けて片付けるなんて今日一日で終わるはずないじゃない、とぼやきながら己が送り付けた私物の山を爪先でちょい、ちょいと押しやる。出鼻を挫かれた格好だったが、気を取り直し部屋の奥を覗きこんだ。
住人の性格を如実に表す部屋は、埃一つなく整然と片付いていた。うふふ、と二台しかない寝台を見て笑った。寝台の片方の枕元には姉の私物が置かれている。その反対の寝台は、太陽のにおいがするぴんと張ったシーツにくるまれていた。きっと姉さんがしてくれたのね、と幸せな気分になる。ぽすん、と真っ新に整えられた寝台へ腰を下ろし、なんとなくそのまま上半身を倒す。
――――姉さん、持っていてくれたんだ。
互いの寝台の枕元には、いつか鹿島が香取へ贈った青い硝子の一輪挿しが置かれている。双方に水仙が差してあり、良い香りを放っていた。香取の小机にはそれに加えて、簡素な木製の写真たてが一つあった。満面の笑顔を湛えた姉妹が仲良さげに寄り添っている。いつだったか、港で撮ってもらったものだ。いいカメラを持つ人がいるから、と。
幸せに包まれながら、目を閉じて深呼吸した。やっていけそう、ここで。だって香取ねぇがいるんだもの。暖かな寝台もまるで香取ねぇにぎゅっとしてもらっているみたい。身体にたまった移動の疲れが眠りを誘う。瞼が重い。……荷物を開けないと。姉さんを困らせちゃう。起きて、荷物を。
正に眠りに落ちそうになった直前に、目の前の違和感に気付いた。ぼんやりした視界で、向かいの姉の小机を見上げる。見慣れないものが、あった。
――――なんだろう、あれ。まるで。
まるで。隠すように、写真たての裏に置かれたもの。黒くて小さい、高級そうな小机。
まるで。装飾品を入れるための。それも、人に贈るための。そして、贈られたかのような。
どくん、と心臓が脈打つ。血が心臓に全て集中したかのように、手足が急速に冷える。頭で否定する。そんなことはない。そんなことはない。そんな、ことは、ない。
誰もいない部屋をきょろきょろと見渡す。建物自体が死んだかのように静まり返っている。見たらだめ。香取ねぇに怒られる。聞けばいいだけだ、それどうしたのって。きっと何でもない理由で。
そっと上半身を起こす。見たらだめ。立ち上がる。あんな小箱になら、どんな装飾品だって入る。足が一歩、二歩と進む。きっと後悔する。震える手が伸びる。だめ。
これはきっと、悪いこと。
そっとスウェード張りの小箱を掌にのせる。軽い小箱は、ぱかりと気の抜ける軽い音を立てて簡単に開いた。
「――――っ!!」
息をのむ。目を見開いたまま、ぴくりとも動けなかった。
ああ。――――ああ。プラチナのリングがクッションの中で輝く。その圧倒的な存在に、乾いた唇を強く噛みしめた。……そうよ、私は悪いことをしているの。だったらもういっそなんでもするわ。
白い指先でリングをつまみあげる。その内側を窓に向ける。
「Kへ」そう刻まれた文字は、涙で滲んではっきりと見ることができなかった。
ぱたぱたぱた、と水滴が散る。手で上方を探り、ふわふわのタオルを顔に押し付けた。
「はぁっ」
濡れた長い髪を後ろでまとめ、水を絞る。コンディショナーはムスクの香りがわずかにするもの。容器からたっぷりとった白いクリームを、丁寧に銀の髪へ擦りこんでいく。あら、今度のシャンプーはいい香りね。そう姉さんに言われてから、銘柄は一度も変えていない。髪を放置している間に、大量に泡立てたボディソープで全身をくまなく洗う。隣で北上さんが使ってるの全部いい匂いだねえ、と笑っていた。そうでしょう、とぎこちなく笑いながら返す。――全部姉さんが好きな香りなの、とは言わない。
今日一日分の染みついた汚れを熱いお湯で洗い流す。湯が白く張りつめた腕、乳房、太ももを伝わり排水溝へと流れる様子を見て、そうよ、今日は遠くから旅をしてきたんだわと意味なく考える。目の前の鏡には、濡れた髪が肌にはりつき、どこか腫れぼったい目をした自分がいた。
何か物音がする、と浅い眠りから目覚めたとき、窓の外は真っ暗になっていた。泣いていて、いつの間にか眠りに落ちたようだった。呆然とした顔で窓の外を見て、寝過ぎだわ、と思っている間にも部屋の扉をノックする音は止まなかった。ふらつく足取りで荷物の山に躓きながら部屋の扉を開ける。
「やあ、ご飯食べに行こう。食堂と、あとお風呂の場所を教えるからさ」
昼間部屋の案内をしてくれた秘書艦の少女は、笑顔で北上だよ、と名乗った。知らない同僚ばかりの中で、孤独に食事をせずに済み、その部分だけは鹿島はほっとした。たとえ精神がボロボロで、食事なんて米粒一つ喉を通りそうになくても、親しみを込めて接してくれる存在は素直に嬉しかった。
なにも考えられないけれど、なにも考えていない姿で香取ねぇの前に立つことも考えられない。汗と埃にまみれて泣きはらした顔。化粧なんてしてるのかしてないのかわからない。戦場ならばともかく、そんな姿で香取ねぇと会うなんて、きっと考えられるだけで一番最悪だわ、と無理やり納得させ身体を鞭打つ。
暗い気持ちで重い革の旅行鞄をひっくり返している間、北上という少女はじっと静かに待っていてくれた。
湿った髪のまま北上と部屋の入り口で別れ、そのまま寝台へ倒れこんだ。風呂場の共用ドライヤーは古いものだったからか、ぬるい風しか吐き出さなかったのだ。時計を見ると、もうすぐ二十二時になろうとしていた。お風呂の順番待ちをしていたからだ。
「香取ねぇ」
もう帰ってくるのかな。提督へ報告に行くのかな。それともそのまま帰ってくるのかな。疲れた身体で旅行鞄を引き寄せ、髪を梳かして白粉くらい、と化粧品の入った袋を探す。
「あれ?……いれた、はずなのに」
櫛がない。何度確認してもない。じゃあ、あの荷物の山のどこかにあるの?うんざりした鹿島は、すべて放り投げて布団にくるまった。きっと翌朝にはくせ毛の銀髪がどうしようもなく広がっているだろうけれど、もうなんでもいいや、と目を瞑る。
建物のあちこちから音がする。帰還した住民が歩き、話し、騒ぎ、怒られている。排水管を水が通る。建てつけの悪い家具が鳴る。色々なものが、管や壁を通して低く響いてくる。廊下を誰かが歩くと身体はびくりとこわばり、その度に布団の奥深くに潜ろうとかたく生地を握りしめた。布団はやっぱり暖かくて、涙が出そうになる。
――――香取ねぇ。
胸の内の呼びかけに応えるかのように、高いヒールの音が二十一号室の前で止まった。がちゃり、と鍵が開けられる。
優しい声が、した。
「……鹿島、いるの?」
全身が喜んだ。ずっとずっと聞きたかった声。今すぐ起きて抱きつきたい。だけど、どんな顔をして会えばいいの。香取が部屋に入り「あらあら」と呟く。
「もう散らかしているのね。……そんなことだろうと思っていたわ」
そう言いながら、わずかに開いていた窓を閉める。ぎし、と音を立てて鹿島の寝台が沈んだ。香取は丸まった鹿島の隣に腰かけ、手で数度盛り上がった布団をぽんぽん、と叩いた。
「鹿島……?疲れたの?ご飯とお風呂はすませたの?」
狸寝入りであることを知っているかのような問いと共に、手が穏やかに布団の上から鹿島をなでる。愛しいものをなでる手つきで。
「……子ども扱いしないで、香取ねぇ」
息苦しくなって頭だけ外に出す。
「ふふ、ごめんなさいね。……でも頭がぼさぼさだわ。ちょっと湿っているし。梳かさなかったの?」
「だって……だって、櫛がないんだもの」
あらあら、と香取は立ち上がり、自分の小机の抽斗からブラシを取り出した。
「ほら、起きてお座りなさい。……今日はちゃんと来られたの?迷ったり、変な人に会ったりしなかった?」
久しぶりに見た姉さんは、上着を脱いでいること以外は航海から帰ってきた姿のままだった。若干疲労を滲ませているけれど、顔つきはきりりとしていて、それでいて穏やかな目をしている。
綺麗で、格好良くて、誰も放っておきそうにない姉さん。
唇を噛みしめて下を向く。なにか一つでも言葉を出すと、そのまま爆発してしまいそうだった。香取は鹿島の後ろに座り、細く白い指で銀髪のもつれをほどき、ブラシでゆっくりと髪を梳かす。
「貴方の髪は相変わらず綺麗ねえ。……どうしたの、今日はご機嫌斜めね。嫌なことでもあったのかしら?」
慎重に、丁寧に、くせ毛を整えていく。その手の温かさに耐えきれず、鹿島はぽたりと涙を一粒、落とした。えぐ、えぐとこみ上げる嗚咽を押さえ、目を閉じる。
「ねぇ、ねぇ……香取ねぇ、す、すきなひと、いるの?……けっこんとか、……するの?」
言っていて余計に悲しくなって、もう一粒涙がこぼれる。心の中で冷静な自分が呆れて嘆いた。なんて惨めなこと言っているんだろう、私。
香取はしばらく動きを止め、疑問を顔に浮かべたまま首を傾げる。やがて、ある事実に思い当たり、思わず苦笑した。香取は背後からぎゅっと鹿島を抱きしめる。耳元へ口を寄せ、吐息交じりの静かな声を吹き込んだ。鹿島の背が、ぞわりと波打つ。
「……なかを見たのね?ふふ、悪い子」
そっと妹の髪をかきあげ、銀の髪の生え際で息衝く耳へ口づける。
「あれはね、お仕事を頑張ったっていう証として頂戴したのよ。」
可愛い耳たぶの可愛いほくろ。子供の時から変わっていないのね、と香取は胸の内でひっそり笑う。
「誰かと仲良くなったら、お尋ねなさい。あれを頂いた艦はね、何人もいるのよ、この鎮守府には」
首筋に顔をうずめ、そっと啄むように何度も口づけをする。なめらかな白い肌は、本人の心境を表すように徐々に赤みを帯びてくる。
「或いは、貴女も頑張ったら頂けるかもしれない」
振りむいた鹿島の目尻は、泣いたせいで仄かに赤みを帯びている。潤んだ瞳は大きく、桜色の唇には噛みしめた跡が痛々しく残っていた。ほんとうに、しょうがない子。そこが、可愛らしくてたまらない。
「香取ねぇ……」
舌足らずな声を発する唇を塞ごうと、そっと近づく。
「貴女だけよ。……私には、あなただけ」
互いの唇が触れ合った瞬間、目を閉じていた鹿島はふるりと身体を震わせた。
