fate(槍弓)
二章 Heaven's Fall
果てなく歩んでいた。己の爪先を見るともなしに視界におさめながら。自分が育った地を。海を越えた地を。流浪し辿りついたどことも知れぬ遠き地を。
歩まされていた。位置も分からず、時も知らされず、掴み引きちぎることもできない糸で関節を縛られながら。操られていた、歩かされていた。鼻も麻痺してしまう強く生臭いにおいを浴びながら。
進んでいた、円環のなかを。ただ前に伸びる道が前なのだと思い足を交互に出していた、己の意思とは関係なく。目は閉ざされ、腕は縛られ、喉を潰され、骨は圧縮され。
自分というものを長く忘れていた。けれどいつの間にか、気づいたときには柔らかな土を踏んでいた。生命が息衝く湿った黒い土を。
ぼうとした頭は働かず、視界の隅で身をよじり枯れ葉の下に潜り込もうとのたうつ蚯蚓を、なぜか注視していた。柔軟で細長い肉をもつ姿に焦点をあわせ、じりじりと前進する動きを飽きることなく眺めていた。
脆い枯れ葉は蚯蚓に触れられる度にはらはらと崩れていく。五分もそうしていただろうか、アーチャーはゆっくりと己の上に広がるどんよりとした空を見上げ、鈍色の雲の間にある青はなんて遠いのだろうと、息を止めたまま瞬きを繰り返した。
木枯らしが舞う深い森のなかにできた、小さな空間に立っていた。アーチャーの耳は女性の足音を察知する。アーチャーも歩みだした、音を立てぬように細心の注意を払いながら。木立の合間に現れては消える彼女は前方だけを見据えて迷いなく進む。いくら道らしきものがあるとはいえ、ここは鬱蒼とした森の深部だ。しかも彼女は汚れのない白いお仕着せをまとっている。にも拘わらず、複雑な地形の森を進むには適さない服装に不自由する様子をみせない。
彼女はここに慣れているのだと、歩調の迷いのなさがアーチャーに訴えかける。彼女は道に張り出した太い木の根の前でためらうことなく爪先に力を込め、ふっと軽く飛び越える。その姿は木の幹を額縁として切り取られた絵となり、一瞬時が止まる。そのまま白いスカートを翻し、彼女は唐突に背後へ顔をむけた。一陣の風が吹き、一帯の木々がざわめく。離れた場所で、魔獣の親子が走り去っていった。
彼女は平然と再び歩みだした。アーチャーの姿を隠してくれるかわりに、行く手を阻む深く絡みあった木々に惑っているうちに、アーチャーは彼女を見失った。だがもう、前方では、他者の侵入を拒絶するためにそそり立つ城壁が、その存在を強く主張していた。
石を積み上げて作られた城壁の中心にある、巨大な門扉は開け放たれたまま幾年も放置されていたようだ。青く、だが所々褐色に枯れた蔦が隙間なく絡みついている。崩れかけている柱は上部の円形が大きく欠け、下から樹木に貫かれ、その居場所を半ば木に奪われていた。門の手前に建てられた粗末な石造りの門番小屋は、人が住まなくなってから長い間経過した建物特有のうらぶれた姿を晒していた。 小屋の割れた窓からは襤褸切れと化したカーテンがはみ出て、硝子を支えていたであろう枠は腐っている。
開かれた門扉の奥にはなだらかな土地が続いており、一面に広がる森が途切れる遥か遠くには、見慣れぬ西洋式の巨大な城が聳えていた。まるで作り物の世界、偉大な存在が造りし庭。
そんな感傷的な感想を抱いたアーチャーを揺らす、大地の震動が森のどこかで発生した。
肌に電流が走ったのではと錯覚するほどに張りつめた空気が伝わってきた。アーチャーは遠く聳える城に対して妙な関心を抱き、土が踏み固められているだけの道を歩き出した。
カチリカチリと金属のこすれあう音が、耳元で鳴る。
しかしふと注意を向けた途端消失する。同時に、大地を引き裂きかねない振動もいつしか後ろに流れ去っていた。姿かたちのない圧縮した空気のかたまりが駆けていく。
木立の陰に隠れながら、至近距離で対面した城は巨大だった。アーチャーは手で顎をさすりながら腰を反対の手で支え、さて、と思考する。
さて。与えられている知識は言う。
『ここは冬木市の郊外に建てられているアインツベルンの城だ』
さて、この与えられている知識は真実もしくは事実なのだろうか。「アーチャー」が得ることのできる、生前の記憶と付与された知識は容易に嘘をつく。尤も生前の記憶など、この身にはほぼ残ってなどいないのだから初めからないも同然だ。
聖杯戦争のサーヴァントという役割ならば、与えられている知識は聖杯からのものだと判断できるが――現状を鑑みるにマスターたる何者かに召喚された訳でもない。ここは本当に冬木の「アインツベルン城」なのか。そして出所の不明な知識上の城と同一のものとして存在しているが、果たして真の意味でそれらは「同一」なのか。そして更に「アーチャー」は何のためにここに存在しているのか。一向に見当がつかない。だが「守護者」たる力として存在している訳でもない。
難しい話にさして興味はなかった。端的に知りたいのは、現界させられたアーチャーはアーチャーとして誰を殺すことを望まれているのか、だけだ。それさえ明確になれば疑問の大半は氷解する。
木立に身を隠しながら遠巻きに城を観察していると、背後から目にも止まらぬ速さで青色の疾風が駆け抜け、開け放たれた玄関の中に姿を消した。過ぎ去った数秒後にアーチャーの前髪がはらりと額に落ちる。過ぎ去ったものの速さに言葉を失っていると、革の旅行鞄を両手にぶら下げたメイドたちが、わらわらと城の中からあふれ出てきた。まるで葬式帰りの軍団のように皆一様に暗い表情をしている。どうやら彼女らはこの城を後にするようだ。
だが、上層階の窓辺にはまだ人影が残っている。
――それに、先程の青色は。
塔を挟んで隔たっている棟の窓が野外に向かって割れた。降り注ぐ雨のように終わりなく響く銃撃の音。だが玄関先の人々はその出来事にぴくりとも反応しない。それに彼女らは、アーチャーが知るものよりも一層古めかしい出で立ちをしている。
なにかがおかしい、と考えている間に彼女らはどこからか現れた複数の、旧型の自動車に荷を次々に積み込んでいく。多くの荷とホムンクルスを呑み込んだ自動車は、ガタガタと車体を大きくぐらつかせながら悪路を進みだした。
見送るアーチャーを誘うように、誰もいなくなった空間で閂の外された城門がぽかりと口を開けていた。黄泉の世界へいざなわれる状況とはこういうものなのだろうか。見えぬ力に吸い寄せられ、冷えて埃くさい薄暗がりへ足を踏み入れた。廊下に窓はなく、日差しは入り口からわずかに差し込むだけだった。ガス燈がちらちらと揺れている。奥まで三十メートル程の通路には大理石が敷かれ、口髭を蓄えた英雄や天地の様々な事象を司る女神たちの石像が並んでいる。天井は高く、頭上に描かれている絵は薄闇に溶けこんでいた。
数段しかない階段の手前に差しかかると、胸像の陰からギイ、と金属製の機械が軋むような耳障りな音がした。反射的に跳ね飛び、無意識のうちに距離を稼ぐ。
闇の中に佇む、無表情な少女。明かりが途絶えた周囲と同化する紺色のケープ、そこから白く浮き上がる肌、輝く白銀の髪、赤い唇。彼女はあまりにも作り物めいていて、アーチャーが反射的に思い浮かべた『イリヤ』と呼ばれる少女と、外見が似通っただけの別人なのではないかと根拠なく思った。だが外見はまぎれもなく知識の中にある『イリヤ』そのものだった。
少女は停止した状態のまま微動だにせず、やがて数秒後に先程響いた音と同一の軋みを発しながら軽く頷き、不慣れな仕草でスカートを摘まみ膝を折った。己はアーチャーよりも下の存在であると言わんばかりに。大きな瞳が瞼で隠されたと思った次の瞬間、遠慮のない眼差しがアーチャーを正面から貫いた。
その力強さにたじろぐアーチャーを意に介さず、少女はよたよたと歩き始める。その背中は「ついてきなさい」と、アーチャーに訴えているようだった。
浅い階段を過ぎれば、その先に城の顔が一面に広がっていた。人々が集まり、名を呼ばれた際には誇らしくエスコートされるための大階段。大階段を中心とした吹き抜けの玄関ホールの上空ではシャンデリアが輝いている。
いまは人気のない空間で、いつの間にかアーチャーの傍らに寄り添っていた少女は、そっとアーチャーの掌を握った。小さくひんやりとした手は、力を入れると握りつぶしてしまいそうなほどに柔い。
惑うアーチャーを引き連れて、アインツベルンの娘は壁際に身を寄せた。始まりはかすかな違和感だった、アーチャーの産毛が撫でられるだけの震え。だが徐々に振動は大きくなり、壁際に置かれた花瓶がガタガタと震えだす。みるみるうちに、玄関ホールは傷つき崩れ去っていく。壁が崩壊し、地面はなにかが爆発した痕によって高く波打っていた。
「これは」
栄華を極めたホールがみすぼらしい廃墟に成り果てたのは一瞬のことだった。『イリヤ』はじっとうつむいている。爆破によって生じたような瓦礫を踏んだアーチャーは、二階部分にある窓を見上げた。いつしか窓の外は夜に反転しており、強大な魔力を放ちながら「なにか」が雷鳴と共にこの場にきたる。なにか、途轍もなく巨大なものが。大地を抉る車輪は轟音を立てて、迷いなく一直線にホールの正面から飛び込んできた。
「……戦車」
とこぼれそうになった声を、アーチャーはかろうじて噛み殺した。筋骨隆々たる馬を繋いだ手綱を見事に捌く、戦車の主を寸分違わず捉えたまま。身体を緊張させていつでも動き出せるように構え、血液を全身に送り込む。目の前にいるのは、明らかにアーチャーを上回る格のサーヴァントだ。
だが男はジーンズにTシャツ一枚という、戦士と呼ぶに相応しい肉体とはちぐはぐな服装をしており、しかも武具ではなく酒樽を戦車に荷として括りつけている。彼はアーチャーに気づいた様子もなく、城の奥に向けて「おぉい、騎士王」と気楽に呼びかけた。
直後、弾丸が打ち出される速度で、白銀の鎧を身にまとったセイバーがテラスにその身を躍らせた。懐かしい顔はどこか硬い。見知らぬサーヴァントとセイバーの会話は続く。
戦車の後部で縮こまっている少年はきっと、戦車を操るサーヴァントのマスターなのだろう。彼は『帰りたい』と雄弁に主張する表情で、玄関ホールをこっそりと、しかし万遍なく見渡した。アーチャーが立っている場所は彼らから身を隠せる位置にない。なのに彼はアーチャーなど存在していないとでもいうように周辺を一瞥しただけで、その顔を再び己がサーヴァントへと戻した。
彼はアーチャーを認識したのか、しなかったのか。答えを求めてアインツベルンの娘を見下ろす。姿勢をかえず壁際に佇んだままだった彼女は、アーチャーと向き合うことなく、ぎこちのない動きで首を縦に二度、振った。
アーチャーは腹を括り、テラスで雷鳴を引き連れてきたサーヴァントとやり取りを交わしているセイバーに声をかけた。
「すまない、会話中に失礼するセイバー」
ホール全体に響いたアーチャーの声は、しかし誰にも届かなかった。
重い沈黙が支配するなか、セイバーは硬い表情を崩さず背中に隠した白銀の髪の女性を振り返る。小さな声で二度、三度と会話を繰り返していた。
アーチャーは思考する。アーチャーが知っているセイバーのマスターは、忘れようもないあの少年だ。だがいま目の前にいるセイバーは、白銀の髪と赤い瞳、白い肌を持つホムンクルスに対して、マスターに仕える騎士のように振る舞っている。そう、いま隣にいるアインツベルンが成人の形として存在していればこうなったのだろうと推測できる女性に対してだ。
そして戦車を操り酒樽を軽々と担ぎ上げる見知らぬサーヴァントとマスター。
アーチャーはひとつの結論を出した。
――私は彼らが争う聖杯戦争を知らない。
感情なくアーチャーはアインツベルンの娘に問う。
「彼らは私に干渉できるのか?」
少女は躊躇いのあと、首を斜めに傾げる。
「では、私は彼らに干渉できるのか?」
アインツベルンは首の位置を戻すと、先程とは反対の方向へまたもや斜めに傾けた。
「なんとも心細い案内人だ……仕方がない。私は自由にこの城を探ってもいいものかね?」
少女は一際大きな素振りで、首を縦に振った。
まったく、変な場所に迷い込んでしまったものだ。アーチャーは武装に包まれた右の爪先を二度ほど床に叩きつけると、ホールの奥の目立たぬ通路に足を踏み入れる。背後からアーチャーを静かに観察する少女の赤く大きな瞳を振り切ろうとした瞬間、ふと首筋の毛が逆立った。反射的に天を仰ぐ。
遠く青色の閃光が、轟く雷鳴に紛れて弾けた気がした。
***
じん、と軽く痺れるような痛みがこめかみで生まれ、思わず人差し指で強く押さえた。すると淡い揺らぎだけを残して痛みはすぐに消え失せる。目を閉じたまま眉を寄せて、不快さを追い払った。
「だがあの姿、まったく、痛ましいものだと思わないか? 言葉も上手く使えぬというのに健気なものだと」
冷えた空気が漂う石造りの礼拝堂は、アーチャーが発する熱を片端から奪い取ってくれる。そのお陰かここにくるたびに、縺れた思考が解きほぐされる気がしていた。アーチャーは、だから自分はここを好むのだ、逃げ込んでいるのではなく好んでいるのだ、と胸の内で何度目かわからぬ言い訳を繰り返した。
横に細長い椅子に座りながら、足を組み替える。硬い背もたれに体重をかけ、疲れをとるために軽く身を反らした。礼拝堂は明かりこそ乏しいが天井は高く、周囲を取り囲むステンドガラスはどれも見事な造りだ。ホムンクルスの偉業しか――それも大分製作者の希望的観測に基づいたものしか――描かれていないという欠点はあれど、休息を取るための場所としては文句の付け所がない。ただ一点を除いて。
「応えてやったらどうだ? 彼女はいつも同じことを望んでいるだろう」
「口が過ぎるぞ」
「道を示してみせることこそ、私に期待されている役目だ」
「仔羊が実在しているならな。少なくとも、その相手は私ではない」
アーチャーは煩わしそうに手を振った。
「亡霊は亡霊を相手にしていろ。私に構わなくとも文句は一切言わん。私はな」
日の当たらぬ建物の隅で形なく蠢く影は、こもった笑い声を漏らした。
「目を開かせるというのは困難な行為だ。誰に対しても、何に対しても。そう、傷を開く方が余程簡単だとも。それと要らぬことと分かって付け加えるが、ここに亡霊はこれまいよ。――ああ、勿論下級霊などという下らない存在が侵入できるのかという話ではなく……ふむ。亡霊、亡霊か。おまえにはあの人々が亡霊に見えるのか?」
「どうか私の魂についてしばらく祈っていてくれ。救済を求めてもいい、無知蒙昧さを嘆くのでも構わない。少なくともそうしている間は、貴様は口を動かさなくなる」
影は含み笑いを残してかき消えた。それでも残る色濃い闇は礼拝堂の隅に、天井の一部に、椅子の下に、その身を収めている。
そう、亡霊だ。過去を延々と繰り返すだけの。アーチャーは髪の中に指を差し込み、ぼんやりとアインツベルンの城で繰り返される光景を思い浮かべる。
城は姿を変える。一度到達した部屋を再び訪れようとしても、過ぎる時代によって間取りは変化する。人々の衣装もあるときは古く、あるときは格式張り、あるときは見覚えがあるものだ。人々の顔もそうだ。時代で変わる髭の形に多様な髪形。だが一切変化しないものもあった。
ホムンクルスたちは常に独特の白色と赤色をその身に有している。
アーチャーが理解できたのは、ここではかつての城の日々を、アインツベルンの人々の振る舞いを、どのようにか再現させては飽きることなく繰り返し続けているという現実だった。
この舞台はかつて聖杯戦争の駒となった人々を、彼らがこの地で送った日々を、そして降り積もる歴史の断片を終わりなく上演し続けている。
観客はひとり、アーチャーだけだ。
そしてまた、アーチャーの前で『アーチャー』さえ再現されている。明確な姿かたちを隠されたまま。ぼんやりとした輪郭の人影は、これは確かに己なのだと納得せざるを得ない精度でバーサーカーと戦い、或いは少年と対峙している。
限界まで折り重なり、やがて自重で崩壊していくように消え去る日々に耐え切れず、アーチャーは時折こうして礼拝堂に逃避する。口うるさい影こそまとわりついてくるものの、ここに干渉する過去はないと言われる前から気づいていたからだ。
どのようなきっかけでこんな処へ迷い込んだのか、心当たりもなければ己がここでなにを為すべきかもわからない。アーチャーがなにかしらの希望や欲求を抱くこともない。 うんざりとした気持ちで、目にしたくない日々からはそっと遠ざかり、暇をつぶすためにアインツベルンの魔術を盗み見るだけだ。だが知識を得たところでここから持ち出す手段も未来もない。
袋小路に追い詰められたままだ。どことも知れぬ小路に追い詰められているのに誰に命を奪われるわけでもなく、解放されるわけでもなく困惑し立ち呆けている。
ろくでもない場所だという感想しかない。
――ネガイヲ。
あの人形は願いを乞う相手を間違えている。
諦めと共に、椅子から立ち上がった。
礼拝堂から出るために重い扉を開けたアーチャーは、外の曇る日差しに目を細めた。生い茂る鮮やかな緑の雑草を踏みしめ、花壇が広がる中庭の中心に敷かれた石畳を進む。人形はじっと待っていた。
たったひとり、アーチャーを歓待するぎこちない人形。『イリヤ』の姿をした少女は中庭に佇み、両手を胸の前で重ね、噴水から流れる水がちろちろと落ちる盆を見つめていた。半分枯れている落ち葉が引っかかり、水流にあわせてゆるゆると回転している。
「素手だと寒いだろう。手袋はないのか?」
少女は無垢な瞳でアーチャーを見上げ、ゆっくりと首を傾げた。数秒後に、こくりと首を縦に振る。
――まったく、調子の狂う。
意思の疎通に関しては正直なところ、互いに理解しあえる余地が一ミリもないとはいえ、礼拝堂の影との方が余程容易だった。少女はぎいぎいと、油の差されていない機械のような身振り手振りで未熟な意思を示すのみで、口にするのは常に同じ台詞。
「……ドウゾ、」
木々はざわめき、喜びに葉を重ね鳴らしている。
――ああ、まただ。またあの青が駆けている。
強風と共に現れるそれは、森に満ちる生命をすべて引き連れているのではないだろうかといつも思わせる。湿ったいのちの匂いをさせて、青い風は大地を駆け抜ける。
「……アナ、タガ、望メバ……カナウ」
少女はカタカタとぎこちなく告げる。
「ネガイ ヲ、ドウ、ゾ」
アーチャーは少女を気遣う視線をちらり投げると、中庭を後にしようと歩き出した。願いが叶うなど、どこかに存在していた聖杯でもあるまいし。
……ネガイ、願い。そう、曖昧な思いを「願い」と無理に表現するならば。
アーチャーは背後を振り返り問いかける。
「アインツベルン、ここはどうすれば終わる? それとも、脱出するにはどこから出ればいい?」
少女はアーチャーの問いを理解するために、数秒を要した。小さな桜色の唇が動く。
「ヲヤ、……スミ。ヨイ、ネムリヲ」
「眠れということか?」
眠り。アーチャーにはとうに不要になったもの。そういえば、眠るという行為を随分と長い間忘れていた気がする。
眠り。眠るべき時さえここでは曖昧だ。
次の終焉はいつだろうか。この城は過去を巡らせては星降る日を合図にして終わり、ねじが巻かれるように幻影を巻き戻しては再び過去の日々を再現する。確固たる意志を持つものは、アーチャーと礼拝堂の影くらいなものだ。
アーチャーは、自分の居場所と勝手に決めた四階の部屋に戻ることにした。その一室は城がどのように姿を変えても常に同じ位置にあり、共に暮らす羽目になる過去の亡霊もいない。
使用人が利用するために作られた暗い階段を上ると、その半ばでは金属で編まれた洗濯籠を傍らに置いたメイドが深く項垂れていた。
「申し訳ございません……動けるようになったら、すぐに仕事に取りかかりますので……申し訳ございません……」
細い声の横を通り過ぎようとして、不意にアーチャーは進路を変えた。上っていた階段を下り、二階まで駆け降りる。
廊下を徘徊する、黒い襤褸を纏った亡霊がロングギャラリーに消えた。
アーチャーは二階の表側に位置し、バルコニーに隣接する部屋の壁にかかる武器を一度部屋に持ち帰り検分しようと少し前から考えていた。それを初めて見たときは心底戸惑い、これは剣と呼んでもよいものなのだろうかと迷う形状をしていた。波打つ断面は研ぎ澄まされ刃物となっておりヒトを殺傷できる鋭さを持っているが、ヒトや魔獣、使い魔を殺すにはあまりにも使いにくい形をしている。鍔も柄もなく、うねる金属が複雑に半月型を形作っているだけだ。どのように使えばいいのか見当もつかないが、そこには作り手の確固たる意志が存在していた。
この名も分からぬ刃の過去が知りたい。
だが、一度部屋をでてしまったばかりに、次に訪れたときには時代が動いてその刃物は姿を忽然と消していた。それから何度となく部屋を覗いては、また無かったと落胆することを繰り返していた。
期待がなかったとは言えない。だがまたしても部屋はいずこかの時代に消え去ったままだった。かつて部屋の扉があった場所は壁の中に塗り込まれ、色が微妙に異なる壁紙に覆われている。
――今度少女に会ったなら、あの刃物を見せてくれと頼んでみてもいいかもしれない。
他に願うこともない、と自嘲しながらホールにつながる廊下を進んだ。毛足の長い絨毯が足音を消す。アーチャーのものも、目前から駆けてくる青い男のものも。
ワゴンを押すメイドの間をすり抜けて青い獣が駆けてくる。あの獣も、変化の乏しい庭遊びに飽きたのだろうか。
酔狂な願いを思い出したことで胸が高鳴っていたからか、アーチャーは視線を下げながら男とすれ違う寸前、ふと悪戯心に突き動かされるまま特に考えもなく、気まぐれに、男と触れ合いでもするかのように腕を伸ばした。彼の身体の前に、敵意なく。
――私は彼らに干渉できない。
青色の獣は突き出された腕にぶつかる直前、身体をたわませるとアーチャーを見つめながら跳躍し、アーチャーの上空を越えた。なめらかな曲線を描いて飛ぶ爪先がアーチャーの視界に残り、軌道を残しながらやがて消えていく。銀色の輝きが、視界の隅でまたたいた。
驚きと共にゆっくりと振り返る。数歩先に立つ男はいかなる表情も浮かべずに、じっとアーチャーを見ていた。
男の身体からは余分な力が全て抜けている。ただ自然に、彼はそこに在った。
凍りつくアーチャーと向き合っていた男は、身を翻し再び城の一部として彼が目指す奥へと走り去っていった。尾のような長髪が跳ねて舞う後ろ姿が徐々に遠ざかる。
アーチャーは思わず手を傍らの椅子の背に置き、今あった出来事を噛み締める。玄関ホールで繰り広げられていた戦いの残響はアーチャーに気づかれないまま終わりを迎えていた。
***
「そんなところで眠ると身体が辛いだろう」
アーチャーがかけた声に反応した少女は、寝そべっていた身体を起こそうと不自由な手つきで腕を突っ張るが、すり減った階段の表面で手のひらを滑らせ再び冷たい石の上に重い頭を落とした。城の裏にある薄暗い階段で二人の影が重なる。
少女はむずかるように身をよじらせた。
「……イオ、ネガ、イヲ」
「今は、君が私の膝に頭を乗せてくれることだな」
少女は目を見開き、差し伸べられた大きな褐色の手に導かれるまま、階段に腰かけたアーチャーの太ももへ大人しく頭を乗せた。
音楽室からレコードの歌が大音量で流れている。呻く女の声をかき消すために。レコードの女は歌う、甘やかなシャボンが私をくるんでいる……。そしてピアノに伏せている女性をもまた、くるもうとしているのだ。
城の裏手は慌ただしく動いていた。古い形のメイド服を着たホムンクルスたちが、押さえた口調で不安を囁きあう。悪が出た、聖杯から悪を引き摺りだした。――悪が顕現した。そして負けた。誰が? 一体誰が? なんのために?
アーチャーとアインツベルンの娘は彼女たちの動揺から疎外されていた。アーチャーは己の足に乗る温かく華奢な身体に、失礼にならない強さで手を添わせる。アインツベルンの娘は気持ちよさそうに、うとうとと微睡んでいた。疎外、とアーチャーが呟いても身じろぎひとつせずに。
疎外ということもかつてあったよ。生前の遠い、遠い話だがね。
少女の長い白髪が、古びた階段にすべり落ちていた。
「私は色々なところへ行ったんだ。生前にな。それは対価を求めての行動だったときもあるし、己の欲求に従った結果でもあったし、誰かが私に望んだ行動という場合もあった。君は何処に行ったことがある? 私は生前に何処へ行ったのか、数えることすら困難で、詳しく思い出すのにも苦労する。常に移動していたから、それを思えばむしろ何処に留まっていたことがあるのかを数えるべきなのかもしれない。
私を歓迎する者たちはどの地でも少数だった。まあそうだろうな。身元は往々にして不明だったし、人種もあやふや、貴方たちを救いだすと言い、それを実行してみせ――多くの人を可能な限り救うが、それを実現する方法は伏せられている。詳細を語らないし教えない。そうその男はどのような力を、技術を、知恵と知識を用いているのかを周囲の人々に決して明かそうとしない。なのに対価に金も求めないんだ。生きていくのに必要な最低限のものをくれたらそれでいいのだという。なんとも気味の悪い存在だ。気味の悪い存在に命や危機を救われる、裏を返せば気味の悪い存在に生命線を握られていることは、人々に恐怖をもたらすだろう。言ってしまえば、彼らは、屈辱さえ感じることがあったのかもしれない。
私は常に共同体の外にいたな。共同体の外にいる人々の、更に外にいたんだ。
あるとき荒れて痩せた土地の村落の外れに泊まっていてな。水を求めて村の中にある井戸へと行った。粗末な家の扉の隙間でぎらぎらと光るいくつもの眼が、私の一挙手一投足を監視していた。それはそうだろう、水に不気味な『呪い』を私が使えばその村は立ち行かなくなる。
私は井戸の傍らにいた、親のいない痩せこけた少年に水を汲んではくれないかと乞うた。この器一杯の水を恵んでくれないかと。彼は願いを叶えてくれたよ、恐る恐るといった体だったがね。彼とはそのあと少し話す関係になった。今思えば孤独で、話し相手を求めていたんだ。互いにな」
アインツベルンの娘は静かに寝返りをうった。
「彼はあるとき言ったんだ。もうすぐ奴らがくるからお前は立ち去った方がいいと。……あそこで火が灯っていた油の焦げるにおいまで思い出せそうだ。彼らとは、奴らとは、と私は問うた。――その答えを既に知っていながら。
奴らは死を運んでくる、森を冒す呪いだ。あいつらはあの森を冒してこの村に死を運んでくるんだ、と訴えるんだ。 私もその連中の一味だということを知らずにな。
本当は、一味でもなかったんだがね。状況は少し込み入っていた。その、村から少し離れた場所にある森の奥にはな、そこにしかない病に冒された木が植わっていたんだ。その木の樹皮は、魔術的には価値あるものだった。それ故そこを管理する魔術師の目を盗んで奪おうとする輩が絶えない。私はその魔術師に使われていて、侵入者を監視して魔術師の財産を守り、同時に侵入者の出自と、存在するならばそいつらの雇い主の正体を突き止める役目を負っていた。侵入者の案内役に成りすましてな。なぜあんなことをする羽目になったのか……。
確か、あの魔術師に借りだか貸しだかを作ったんだったかな。なにしろ魔術師によって閉ざされ支配されていたあの土地を開くと確約してもらわなければ、周辺の村々が滅びることは時間の問題だった。あの村と道の結界さえ解放されれば、物資を輸送する手段は格段に改善されるはずだったんだ。
そう、私は一見善良な旅人、或いはよそ者として村にしばらく滞在していた。だが私は村に先着した、森を冒す連中の案内役という皮を被っていた。そしてまた連中を見定めるために仲間の振りをしていただけなのだから、結局私は誰にとっても裏切り者だった。悲しいことにな。
少年の『あいつらは死を運ぶ』という訴えも、実際には間違いではなかったんだよ。確かに『あいつら』は運んでいた。村の人々が抵抗する術を持たない病原体をな。
あそこの魔術師は村の人々の命よりもなによりも、森にある木を第一に考えていた。他人に森が荒らされることに我慢がならない様子だった。同時に村人が教育や医療を得た結果村が発展し、彼らの暮らしが変わりやがて周囲や森を拓いていく、そうして森の木を取り巻く環境に変化が生じることも恐れていた。
だが村人を陣地とその周辺一帯から排除することはない。なぜならそこで暮らしてきた人々もまた、木が存在する周囲の環境を構成する部品の一部だったからだ。
魔術師にとっては、病を持つ木を取り巻く状況が変化し、樹皮の魔術的価値が失われることこそ最もおそれるべき事態だった。当然無礼な簒奪者のことも心底嫌っていたがね。
私は姿を現した侵入者共と合流し、促されるまま森に踏み込んだ。あのとき親なき少年が私に遠慮なく向けた眼差しと言ったら……共同体から外れた者同士の、ささやかな信頼や共感は目に見えて崩れ去っていた。彼は私を蔑んでいた、憎悪していた。心の底から。自分が彼にあんな感情を抱かせた張本人なのだと思うと、私はいまでも自分に対して苦々しい気分になる。
まあいい、そうして。どこまで話した? ああ、そうだ、連中と合流したんだ。そう、彼らと共に村からしばらく歩いた先にある山の麓の森に分け入ってな。途中までは順調だった、私が案内する先に病を得た樹木がなかったことを除けばな。
同行した連中が途中で見せていた余所余所しい態度や私に対する慎重な対応は、互いに顔を合わせたばかりだからだと信じ込んでいた。彼らはずっと身内同士、低音で喋りつづけていた。私も最初は訛りの強いどこかの言葉だと勘違いしていたが、そのうちに彼らは彼ら独自の符丁を交わしていたのだと気づいた。
彼らが、私に背後から襲い掛かかる直前に。彼らは目的が行き先に存在していないとみるや否や武器を取り出して私に切りかかり、辛うじて刃を避け彼らから距離を稼ごうとする私を追跡し始めた。
結局、私は誰にとっても疎ましい存在だったのだろう。私と交渉を成立させた魔術師でさえ私を疎んじていた。
わかるだろう、魔術師は、彼らとも接触を試みていたんだ。そいつは吹きこんでいたのさ、村で待っている案内役の男は、お前らが金にする樹皮をひとりで手に入れるためにお前らを利用しようとしているぞ、あいつを殺してくれるなら分け前をやらないこともないとな。
つまらない話だ、結局どんな形であれ樹皮の存在を嗅ぎつけた犬共は魔術師にとって、一人残らず排除するべき存在でしかなかった。だが全てを己の手で始末する必要もなかろう。犬共を争わせ、あわよくば情報を吐き出させ、最後に残ったモノを自分の手で片付ければ多少は手間を省くことができるのだから。
私が彼らに望んだのは交渉だった。口頭で何らかの交渉ができれば話がうまくまとまる糸口を発見することができるかもしれない。だが既に彼らの獲物は私にスライドして、狩りは始まっていたんだ。
逃げながら私は恐れていたよ。連中はどうみても魔術師ではなかったからな。樹皮を狙っていたのはおそらく他の魔術師や聖堂教会の連中だったんだろうが、直接私を襲ったのは彼らに使役されているだけの、事情を知らないただの人間だった。無理矢理に魔術の素養を植え付けられ、駒として使い捨てられるだけの。私とてきれいな生き方をしていた訳ではない、必要に迫られれば彼らを殺す覚悟くらいはあったさ。
私が恐れたのは――必死の形相で追いかけてくる女が、私を殺すという咎を背負うことだった。彼女の手を私の血で汚してしまうことを、なぜか理由なく恐れていたんだ。そんなことをさせてはならないと思った。
結局私は撤退を選んだ。私が求めていたものは彼らの正体に関する情報と、その結果得られる村と道路の解放なんだ。彼らと殺し合いをすることではない。
魔術師と契約を結んだ男、だが連中の仲間なのだという建前の男、そいつに送られた少年の侮蔑の視線のすべてを受け止めながら、全力で足を前に出していた。心臓がはち切れそうだった、両脚がもぎ取れてしまいそうだった。木々の合間を縫い光を求め私は進み、跳躍した――森の果ての断崖から飛び降りながら、逆さまになった世界を通り過ぎた。私は少年に対して決して口にはしなかったし、するべきでもないとわかっていた。それでも。
私が疎外されれば疎外されるほど、逆さまになれば逆さまになるほど、この世界は輝きを増すと感じていたんだ。
息をすることさえ忘れるくらい、私をとりまく世界は美しかった」
少女は少し前から薄っすらと開けていた目を、眠気の残る仕草で擦り
「――オハ、ヨウ」
と、アーチャーを見上げて言った。
「ああ、おはよう。よく眠っていたようだな」
少女は身体を少し浮かせて首を縦に振り、しかし再び頭をアーチャーの太ももの上に戻した。アーチャーの掌が少女の肩を優しい手つきで抱く。二人は静かに、暗い階段の上で寄り添っていた。
城の片隅で、黒色の襤褸をまとった亡霊が蹲る。アインツベルンの故郷を描いた絵が一面に並び、懐かしい灰色の世界を作り出すロングギャラリー。枠の中に収められた灰色を規則正しく配置した空間で、奥にぽつんと置かれたひとつのカンバスには、絵の具によってあふれる光が描かれていた。眩しさの中心に滲んだ青。人々が焦がれるつかの間の晴天、冬国でなされた太陽との再会。
亡霊は作られた光に縋るように、青色をすべらせたカンバスの前に蹲り続けていた。
***
建物のあちらこちらで、時を問わず発生する過去の争いは、アーチャーにとって忌むべきものとなりつつあった。幾度も同じ争いを目にすることを避けるために、アインツベルンの魔術の粋を集めた工房に入り浸る。四つの塔に隠匿されていたアインツベルンの魔術工房と魔術の成果は、アーチャーの趣味にそぐわぬものも多々あったが、いつまで探っていても飽きることがなかった。
ホムンクルスが操ることを目的として最適化された武器の設計図を眺めていると、出入り口から姿を見せた若い男がステッキで床を叩きながら『邪魔者がきた』と叫んだ。
城の裏手から、見知らぬサーヴァントたちが攻め入る気配がする。アーチャーはこの後、サーヴァント同士の争いによって城の一部が騒がしく破壊されることを知っていた。
被害が生じない表側の塔へ移動しようと工房から脱出する。長い廊下を歩み城の表側に辿りついたところで、アーチャーは目を見開いた。
――かつての部屋が存在している。
今度出現すれば手に取りたいと渇望していた、剣が飾られている部屋の扉が廊下の先で姿を現していた。思わず速足で近づき、扉を荒々しく開ける。
「あった」
独り言ちたアーチャーの目線の先では、波打つ半月型の刃が冷えた輝きを放っていた。近づいて手を伸ばし、銀色の表面におそるおそる伸ばされた指先が金属に触れる。その冷たさを直に感じた瞬間、目に見えぬ力で両脚を掬われたと錯覚する衝撃に襲われた。巨大な振動によって部屋がぐらつき、家具が飛び跳ね、けたたましい音をさせて床に倒れこんでいく。
逃げ出す経路を反射的に探し、周囲を見渡したアーチャーの視界を影が横切る。部屋から硝子戸越しにつながっているテラスに、凄まじい勢いで衝撃を振りまきながら物体が転がり込んでくる。青色のそれは、痛みに身体を強張らせでもしたのか数秒動きを止めた。
アーチャーは無意識のうちに手に取っていた柄のない刃を器用に指の間へ挟みながら、床一面に砕け散る硝子を踏み割り、歪んでくの字になった金属製の窓枠越しに青い物体を見下ろした。
物体が転がり込んだ際に接触したであろうテラスの床の大理石は、丸まる青色を震源地として表面が粉々になっている。その中心で『それ』はゆっくりと、血を垂らしながら頭をあげた。
きゅう、と細められた赤色の瞳の中心は悦びでぎらついていた。言葉なくアーチャーと向き合い、口角を限界まで吊り上げる。鋭い犬歯が、赤い舌と共に薄く開いた唇の合間から覗いていた。
青く美しい獣は腹の底から湧き出る唸りで喉を震わせ――周囲一帯を薙ぎ払ったことで荒れ地と化した地上で待ち受けるバーサーカーと再びまみえるために、ほどけた青髪を躍らせながら階下へと飛び降りた。ぴちゃり、と遅れて飛び散った血がアーチャーの武装に染みを作る。
その姿を呆然と見送って、そうしてようやく、奴は笑っていたのだとアーチャーは気づいた。
世界が軋む。ゼンマイは今もじりじりと緩んでいる。登場人物たちは舞台で舞い踊る、歯車が噛みあいきしきしと回転している機構に乗ったまま。
壊れたレコードは城の中心で回り続ける。じいじいと針を溝に当て。サーヴァント同志が争い、或いは魔術師と共に城へ攻め入る轟音の隙間を女が歌う同じフレーズが埋めていく。甘やかなシャボンにくるまれながら、誰かが叫ぶ。星が降ると叫ぶ声。アインツベルンの娘は階段に座り、静かに細長い窓を見上げる。
すべり落ちた半月型の刃がテラスに落下した。
アーチャーは手摺りを力一杯掴み、ランサーの姿を追った。ランサーの動きにあわせテラスを走る。血を流しながら心底愉しそうに槍を振るう男を前に、唾を飲み込む。堪え切れずにゆっくりと口をあけ――
アーチャーは自分でも理解できぬ言葉を叫んだ。ランサーになにかを伝えたかった。
星が降り、城を、木々を、大地を破壊する。人々は疾うに動きを止め横たわっている。なのに最後まで戦う意思を失わないランサーは穂先を跳ね上げさせ、いまだ立つバーサーカーの腕を切断し血しぶきを浴びる。
奴に伝えたい、奴の視線が欲しい。私の前に再び立ち笑ってみせろと、墜落する星を跳ね除けるようにアーチャーは咆哮する。
――そうだ、ああそうだ。彼はいのちだ、生きている。この過去が巡るだけの、演者どころか観客さえ虚ろな存在の人形劇のなかで、唯一いのちを持っている。風を吹かせ生を謳歌している。
奴に近づきたい、あの肉体に触れたい。アーチャー自身にさえない自身が実在している確信を、そして孤独へのささやかな慰めをランサーは与えてくれるだろう。
なのに、彼までも倒れてしまうのだ。
廊下に立つ老人はステッキで床を叩き強く問う、誰もいない空間に。礼拝堂の影は笑う。姿かたちを与えられぬままに。黒い襤褸をまとった亡霊が、描かれた故郷を前に苦悶の声をあげる。
ランサーはふらりと重心を失い、星々の光が尽きると同時に地に崩れ落ちた。寸前、アーチャーが立つテラスへちらりと目線をやると――そこに立つ弓兵を認め笑いかけたのではないかという気が、何故かした。
コントロールのきかない身体はてんでバラバラな方向へ動こうとし、腹は呼吸の度に痙攣する。テラスの端から傍に立つ木へ飛び移り、時に掴んだ枝から手を滑らせて地表まで下りる。張り出していた木の根に躓き、アーチャーはぐらりと姿勢を崩した。
全身の骨が砕けた心地のまま、覚束ない足取りでランサーの元に向かう。
地上ではちろちろと残り火が燃えていた。砕けた岩の上で、ランサーは髪をひろげ静かに地に伏せている。
アーチャーはそこで発見した。『ランサー』という男を。
――どうしてだ。この男を失くすことが、惜しくてたまらない。
手を差し伸べた。力を失くした肉体へ。アーチャーは血液で湿る土と鎧の間に腕を滑りこませ、重い躯を慎重に持ち上げる。ランサーはだらりと寝そべり、モノのようになってしまっている。意思はなく、仮初めの生命も抜き出ていた。
アーチャーは、自分の喉が唾を飲み込む音を、まるで第三者が発するもののように聞いた。脈打つ心臓にあわせ、終わりなく汗が吹き出てくる。緊張と熱に支配され、肌の表面は炎で炙られているようにひりひりと焼けついていた。爪の間に詰まった土が、ちくちくと不快な痛みをもたらす。
アーチャーはかさついた唇を乾いた舌で舐め、慎重に抱えた物体への距離を詰めていく。姿の見えぬなにかに誘われるまま、アーチャーは色を失ったランサーの唇に口をあわせ、静かに息を吹き込んだ。ほんのわずかな息を。
静寂が二人を包む。ランサーの冷たい身体は、いかなる反応も示さなかった。
アーチャーは力なく倒れた森の木々を眺め、まるで自分の肉体の内部が樹洞と化したようだ、と虚ろに思った。この肉体には洞が巣くい、なかにはただ圧倒的な無が詰まっている。ああ、と嘆きが混じる息を吐いたところで、全身の毛が逆立つ強烈な冷たさが、掌を始点として身体の隅々まで走った。驚きで両手が跳ねる。その上にいたランサーは不意にその重みを失くし、泡が弾けるようにほろほろと肉体が崩れ、消え去っていく。
焦りながら「ランサー!」と叫んだときには、既に彼の姿かたちはなく、砂の一粒ほどさえアーチャーの手元には残されていなかった。心臓が早鐘を打ち、冷え切った血液は一斉に下がっていった。
――私はなにをした? 私はなにをしたんだ、一体なにが起きた? どうなっている、もしかしてなにか取り返しのつかないことを、私は、彼に。
アーチャーがランサーを抱こうとしてもその手は空振りし、余った力で拳を作るだけだった。ランサーを失ってしまったことは明確だった。
「私が君を消したのか?」
アーチャーは途方に暮れた瞳で宙を見る。頼りのない手つきで、失われたものを求め地を撫でる。私のせいなのかと小さな声で呟いた。その声をかき消して緩み切ったゼンマイは再び巻かれる。アーチャーの動揺を置き去りにして、世界は回り幻影が走る。
俯くアーチャーの視界で、赤色の槍が穂先で土に線を描いた。巻き戻る過去を駆ける青い獣。両手からこぼれ落ちた彼がそこにいる。衝動的に立ち上がったアーチャーは幻影のランサーをがむしゃらに追い、導かれるまま城門に辿りついた。
世界は収束していく。
ギイギイと巻き鍵は巻かれ、カチリと枠にはまる。
ぜんまい仕掛けが動き出す。
辺りを覆う霧は晴れ、機械仕掛けの城はなめらかに動き出した。幻影は日光によってかき消され、アーチャーは呆然と立ち尽くすしかなかった。
閂の外された門を内側から開け放ち、城の主は満足げな表情で新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
城の主として振舞う少女は非の打ち所がない姿勢で客人の前に立ち、完璧な笑顔を作った。
「アインツベルンの城へ、ようこそおいでくださいました。
ここは願いの叶う庭園。あなたを手厚くもてなしましょう」
***
果てなく歩んでいた。己の爪先を見るともなしに視界におさめながら。自分が育った地を。海を越えた地を。流浪し辿りついたどことも知れぬ遠き地を。
歩まされていた。位置も分からず、時も知らされず、掴み引きちぎることもできない糸で関節を縛られながら。操られていた、歩かされていた。鼻も麻痺してしまう強く生臭いにおいを浴びながら。
進んでいた、円環のなかを。ただ前に伸びる道が前なのだと思い足を交互に出していた、己の意思とは関係なく。目は閉ざされ、腕は縛られ、喉を潰され、骨は圧縮され。
自分というものを長く忘れていた。けれどいつの間にか、気づいたときには柔らかな土を踏んでいた。生命が息衝く湿った黒い土を。
ぼうとした頭は働かず、視界の隅で身をよじり枯れ葉の下に潜り込もうとのたうつ蚯蚓を、なぜか注視していた。柔軟で細長い肉をもつ姿に焦点をあわせ、じりじりと前進する動きを飽きることなく眺めていた。
脆い枯れ葉は蚯蚓に触れられる度にはらはらと崩れていく。五分もそうしていただろうか、アーチャーはゆっくりと己の上に広がるどんよりとした空を見上げ、鈍色の雲の間にある青はなんて遠いのだろうと、息を止めたまま瞬きを繰り返した。
木枯らしが舞う深い森のなかにできた、小さな空間に立っていた。アーチャーの耳は女性の足音を察知する。アーチャーも歩みだした、音を立てぬように細心の注意を払いながら。木立の合間に現れては消える彼女は前方だけを見据えて迷いなく進む。いくら道らしきものがあるとはいえ、ここは鬱蒼とした森の深部だ。しかも彼女は汚れのない白いお仕着せをまとっている。にも拘わらず、複雑な地形の森を進むには適さない服装に不自由する様子をみせない。
彼女はここに慣れているのだと、歩調の迷いのなさがアーチャーに訴えかける。彼女は道に張り出した太い木の根の前でためらうことなく爪先に力を込め、ふっと軽く飛び越える。その姿は木の幹を額縁として切り取られた絵となり、一瞬時が止まる。そのまま白いスカートを翻し、彼女は唐突に背後へ顔をむけた。一陣の風が吹き、一帯の木々がざわめく。離れた場所で、魔獣の親子が走り去っていった。
彼女は平然と再び歩みだした。アーチャーの姿を隠してくれるかわりに、行く手を阻む深く絡みあった木々に惑っているうちに、アーチャーは彼女を見失った。だがもう、前方では、他者の侵入を拒絶するためにそそり立つ城壁が、その存在を強く主張していた。
石を積み上げて作られた城壁の中心にある、巨大な門扉は開け放たれたまま幾年も放置されていたようだ。青く、だが所々褐色に枯れた蔦が隙間なく絡みついている。崩れかけている柱は上部の円形が大きく欠け、下から樹木に貫かれ、その居場所を半ば木に奪われていた。門の手前に建てられた粗末な石造りの門番小屋は、人が住まなくなってから長い間経過した建物特有のうらぶれた姿を晒していた。 小屋の割れた窓からは襤褸切れと化したカーテンがはみ出て、硝子を支えていたであろう枠は腐っている。
開かれた門扉の奥にはなだらかな土地が続いており、一面に広がる森が途切れる遥か遠くには、見慣れぬ西洋式の巨大な城が聳えていた。まるで作り物の世界、偉大な存在が造りし庭。
そんな感傷的な感想を抱いたアーチャーを揺らす、大地の震動が森のどこかで発生した。
肌に電流が走ったのではと錯覚するほどに張りつめた空気が伝わってきた。アーチャーは遠く聳える城に対して妙な関心を抱き、土が踏み固められているだけの道を歩き出した。
カチリカチリと金属のこすれあう音が、耳元で鳴る。
しかしふと注意を向けた途端消失する。同時に、大地を引き裂きかねない振動もいつしか後ろに流れ去っていた。姿かたちのない圧縮した空気のかたまりが駆けていく。
木立の陰に隠れながら、至近距離で対面した城は巨大だった。アーチャーは手で顎をさすりながら腰を反対の手で支え、さて、と思考する。
さて。与えられている知識は言う。
『ここは冬木市の郊外に建てられているアインツベルンの城だ』
さて、この与えられている知識は真実もしくは事実なのだろうか。「アーチャー」が得ることのできる、生前の記憶と付与された知識は容易に嘘をつく。尤も生前の記憶など、この身にはほぼ残ってなどいないのだから初めからないも同然だ。
聖杯戦争のサーヴァントという役割ならば、与えられている知識は聖杯からのものだと判断できるが――現状を鑑みるにマスターたる何者かに召喚された訳でもない。ここは本当に冬木の「アインツベルン城」なのか。そして出所の不明な知識上の城と同一のものとして存在しているが、果たして真の意味でそれらは「同一」なのか。そして更に「アーチャー」は何のためにここに存在しているのか。一向に見当がつかない。だが「守護者」たる力として存在している訳でもない。
難しい話にさして興味はなかった。端的に知りたいのは、現界させられたアーチャーはアーチャーとして誰を殺すことを望まれているのか、だけだ。それさえ明確になれば疑問の大半は氷解する。
木立に身を隠しながら遠巻きに城を観察していると、背後から目にも止まらぬ速さで青色の疾風が駆け抜け、開け放たれた玄関の中に姿を消した。過ぎ去った数秒後にアーチャーの前髪がはらりと額に落ちる。過ぎ去ったものの速さに言葉を失っていると、革の旅行鞄を両手にぶら下げたメイドたちが、わらわらと城の中からあふれ出てきた。まるで葬式帰りの軍団のように皆一様に暗い表情をしている。どうやら彼女らはこの城を後にするようだ。
だが、上層階の窓辺にはまだ人影が残っている。
――それに、先程の青色は。
塔を挟んで隔たっている棟の窓が野外に向かって割れた。降り注ぐ雨のように終わりなく響く銃撃の音。だが玄関先の人々はその出来事にぴくりとも反応しない。それに彼女らは、アーチャーが知るものよりも一層古めかしい出で立ちをしている。
なにかがおかしい、と考えている間に彼女らはどこからか現れた複数の、旧型の自動車に荷を次々に積み込んでいく。多くの荷とホムンクルスを呑み込んだ自動車は、ガタガタと車体を大きくぐらつかせながら悪路を進みだした。
見送るアーチャーを誘うように、誰もいなくなった空間で閂の外された城門がぽかりと口を開けていた。黄泉の世界へいざなわれる状況とはこういうものなのだろうか。見えぬ力に吸い寄せられ、冷えて埃くさい薄暗がりへ足を踏み入れた。廊下に窓はなく、日差しは入り口からわずかに差し込むだけだった。ガス燈がちらちらと揺れている。奥まで三十メートル程の通路には大理石が敷かれ、口髭を蓄えた英雄や天地の様々な事象を司る女神たちの石像が並んでいる。天井は高く、頭上に描かれている絵は薄闇に溶けこんでいた。
数段しかない階段の手前に差しかかると、胸像の陰からギイ、と金属製の機械が軋むような耳障りな音がした。反射的に跳ね飛び、無意識のうちに距離を稼ぐ。
闇の中に佇む、無表情な少女。明かりが途絶えた周囲と同化する紺色のケープ、そこから白く浮き上がる肌、輝く白銀の髪、赤い唇。彼女はあまりにも作り物めいていて、アーチャーが反射的に思い浮かべた『イリヤ』と呼ばれる少女と、外見が似通っただけの別人なのではないかと根拠なく思った。だが外見はまぎれもなく知識の中にある『イリヤ』そのものだった。
少女は停止した状態のまま微動だにせず、やがて数秒後に先程響いた音と同一の軋みを発しながら軽く頷き、不慣れな仕草でスカートを摘まみ膝を折った。己はアーチャーよりも下の存在であると言わんばかりに。大きな瞳が瞼で隠されたと思った次の瞬間、遠慮のない眼差しがアーチャーを正面から貫いた。
その力強さにたじろぐアーチャーを意に介さず、少女はよたよたと歩き始める。その背中は「ついてきなさい」と、アーチャーに訴えているようだった。
浅い階段を過ぎれば、その先に城の顔が一面に広がっていた。人々が集まり、名を呼ばれた際には誇らしくエスコートされるための大階段。大階段を中心とした吹き抜けの玄関ホールの上空ではシャンデリアが輝いている。
いまは人気のない空間で、いつの間にかアーチャーの傍らに寄り添っていた少女は、そっとアーチャーの掌を握った。小さくひんやりとした手は、力を入れると握りつぶしてしまいそうなほどに柔い。
惑うアーチャーを引き連れて、アインツベルンの娘は壁際に身を寄せた。始まりはかすかな違和感だった、アーチャーの産毛が撫でられるだけの震え。だが徐々に振動は大きくなり、壁際に置かれた花瓶がガタガタと震えだす。みるみるうちに、玄関ホールは傷つき崩れ去っていく。壁が崩壊し、地面はなにかが爆発した痕によって高く波打っていた。
「これは」
栄華を極めたホールがみすぼらしい廃墟に成り果てたのは一瞬のことだった。『イリヤ』はじっとうつむいている。爆破によって生じたような瓦礫を踏んだアーチャーは、二階部分にある窓を見上げた。いつしか窓の外は夜に反転しており、強大な魔力を放ちながら「なにか」が雷鳴と共にこの場にきたる。なにか、途轍もなく巨大なものが。大地を抉る車輪は轟音を立てて、迷いなく一直線にホールの正面から飛び込んできた。
「……戦車」
とこぼれそうになった声を、アーチャーはかろうじて噛み殺した。筋骨隆々たる馬を繋いだ手綱を見事に捌く、戦車の主を寸分違わず捉えたまま。身体を緊張させていつでも動き出せるように構え、血液を全身に送り込む。目の前にいるのは、明らかにアーチャーを上回る格のサーヴァントだ。
だが男はジーンズにTシャツ一枚という、戦士と呼ぶに相応しい肉体とはちぐはぐな服装をしており、しかも武具ではなく酒樽を戦車に荷として括りつけている。彼はアーチャーに気づいた様子もなく、城の奥に向けて「おぉい、騎士王」と気楽に呼びかけた。
直後、弾丸が打ち出される速度で、白銀の鎧を身にまとったセイバーがテラスにその身を躍らせた。懐かしい顔はどこか硬い。見知らぬサーヴァントとセイバーの会話は続く。
戦車の後部で縮こまっている少年はきっと、戦車を操るサーヴァントのマスターなのだろう。彼は『帰りたい』と雄弁に主張する表情で、玄関ホールをこっそりと、しかし万遍なく見渡した。アーチャーが立っている場所は彼らから身を隠せる位置にない。なのに彼はアーチャーなど存在していないとでもいうように周辺を一瞥しただけで、その顔を再び己がサーヴァントへと戻した。
彼はアーチャーを認識したのか、しなかったのか。答えを求めてアインツベルンの娘を見下ろす。姿勢をかえず壁際に佇んだままだった彼女は、アーチャーと向き合うことなく、ぎこちのない動きで首を縦に二度、振った。
アーチャーは腹を括り、テラスで雷鳴を引き連れてきたサーヴァントとやり取りを交わしているセイバーに声をかけた。
「すまない、会話中に失礼するセイバー」
ホール全体に響いたアーチャーの声は、しかし誰にも届かなかった。
重い沈黙が支配するなか、セイバーは硬い表情を崩さず背中に隠した白銀の髪の女性を振り返る。小さな声で二度、三度と会話を繰り返していた。
アーチャーは思考する。アーチャーが知っているセイバーのマスターは、忘れようもないあの少年だ。だがいま目の前にいるセイバーは、白銀の髪と赤い瞳、白い肌を持つホムンクルスに対して、マスターに仕える騎士のように振る舞っている。そう、いま隣にいるアインツベルンが成人の形として存在していればこうなったのだろうと推測できる女性に対してだ。
そして戦車を操り酒樽を軽々と担ぎ上げる見知らぬサーヴァントとマスター。
アーチャーはひとつの結論を出した。
――私は彼らが争う聖杯戦争を知らない。
感情なくアーチャーはアインツベルンの娘に問う。
「彼らは私に干渉できるのか?」
少女は躊躇いのあと、首を斜めに傾げる。
「では、私は彼らに干渉できるのか?」
アインツベルンは首の位置を戻すと、先程とは反対の方向へまたもや斜めに傾けた。
「なんとも心細い案内人だ……仕方がない。私は自由にこの城を探ってもいいものかね?」
少女は一際大きな素振りで、首を縦に振った。
まったく、変な場所に迷い込んでしまったものだ。アーチャーは武装に包まれた右の爪先を二度ほど床に叩きつけると、ホールの奥の目立たぬ通路に足を踏み入れる。背後からアーチャーを静かに観察する少女の赤く大きな瞳を振り切ろうとした瞬間、ふと首筋の毛が逆立った。反射的に天を仰ぐ。
遠く青色の閃光が、轟く雷鳴に紛れて弾けた気がした。
***
じん、と軽く痺れるような痛みがこめかみで生まれ、思わず人差し指で強く押さえた。すると淡い揺らぎだけを残して痛みはすぐに消え失せる。目を閉じたまま眉を寄せて、不快さを追い払った。
「だがあの姿、まったく、痛ましいものだと思わないか? 言葉も上手く使えぬというのに健気なものだと」
冷えた空気が漂う石造りの礼拝堂は、アーチャーが発する熱を片端から奪い取ってくれる。そのお陰かここにくるたびに、縺れた思考が解きほぐされる気がしていた。アーチャーは、だから自分はここを好むのだ、逃げ込んでいるのではなく好んでいるのだ、と胸の内で何度目かわからぬ言い訳を繰り返した。
横に細長い椅子に座りながら、足を組み替える。硬い背もたれに体重をかけ、疲れをとるために軽く身を反らした。礼拝堂は明かりこそ乏しいが天井は高く、周囲を取り囲むステンドガラスはどれも見事な造りだ。ホムンクルスの偉業しか――それも大分製作者の希望的観測に基づいたものしか――描かれていないという欠点はあれど、休息を取るための場所としては文句の付け所がない。ただ一点を除いて。
「応えてやったらどうだ? 彼女はいつも同じことを望んでいるだろう」
「口が過ぎるぞ」
「道を示してみせることこそ、私に期待されている役目だ」
「仔羊が実在しているならな。少なくとも、その相手は私ではない」
アーチャーは煩わしそうに手を振った。
「亡霊は亡霊を相手にしていろ。私に構わなくとも文句は一切言わん。私はな」
日の当たらぬ建物の隅で形なく蠢く影は、こもった笑い声を漏らした。
「目を開かせるというのは困難な行為だ。誰に対しても、何に対しても。そう、傷を開く方が余程簡単だとも。それと要らぬことと分かって付け加えるが、ここに亡霊はこれまいよ。――ああ、勿論下級霊などという下らない存在が侵入できるのかという話ではなく……ふむ。亡霊、亡霊か。おまえにはあの人々が亡霊に見えるのか?」
「どうか私の魂についてしばらく祈っていてくれ。救済を求めてもいい、無知蒙昧さを嘆くのでも構わない。少なくともそうしている間は、貴様は口を動かさなくなる」
影は含み笑いを残してかき消えた。それでも残る色濃い闇は礼拝堂の隅に、天井の一部に、椅子の下に、その身を収めている。
そう、亡霊だ。過去を延々と繰り返すだけの。アーチャーは髪の中に指を差し込み、ぼんやりとアインツベルンの城で繰り返される光景を思い浮かべる。
城は姿を変える。一度到達した部屋を再び訪れようとしても、過ぎる時代によって間取りは変化する。人々の衣装もあるときは古く、あるときは格式張り、あるときは見覚えがあるものだ。人々の顔もそうだ。時代で変わる髭の形に多様な髪形。だが一切変化しないものもあった。
ホムンクルスたちは常に独特の白色と赤色をその身に有している。
アーチャーが理解できたのは、ここではかつての城の日々を、アインツベルンの人々の振る舞いを、どのようにか再現させては飽きることなく繰り返し続けているという現実だった。
この舞台はかつて聖杯戦争の駒となった人々を、彼らがこの地で送った日々を、そして降り積もる歴史の断片を終わりなく上演し続けている。
観客はひとり、アーチャーだけだ。
そしてまた、アーチャーの前で『アーチャー』さえ再現されている。明確な姿かたちを隠されたまま。ぼんやりとした輪郭の人影は、これは確かに己なのだと納得せざるを得ない精度でバーサーカーと戦い、或いは少年と対峙している。
限界まで折り重なり、やがて自重で崩壊していくように消え去る日々に耐え切れず、アーチャーは時折こうして礼拝堂に逃避する。口うるさい影こそまとわりついてくるものの、ここに干渉する過去はないと言われる前から気づいていたからだ。
どのようなきっかけでこんな処へ迷い込んだのか、心当たりもなければ己がここでなにを為すべきかもわからない。アーチャーがなにかしらの希望や欲求を抱くこともない。 うんざりとした気持ちで、目にしたくない日々からはそっと遠ざかり、暇をつぶすためにアインツベルンの魔術を盗み見るだけだ。だが知識を得たところでここから持ち出す手段も未来もない。
袋小路に追い詰められたままだ。どことも知れぬ小路に追い詰められているのに誰に命を奪われるわけでもなく、解放されるわけでもなく困惑し立ち呆けている。
ろくでもない場所だという感想しかない。
――ネガイヲ。
あの人形は願いを乞う相手を間違えている。
諦めと共に、椅子から立ち上がった。
礼拝堂から出るために重い扉を開けたアーチャーは、外の曇る日差しに目を細めた。生い茂る鮮やかな緑の雑草を踏みしめ、花壇が広がる中庭の中心に敷かれた石畳を進む。人形はじっと待っていた。
たったひとり、アーチャーを歓待するぎこちない人形。『イリヤ』の姿をした少女は中庭に佇み、両手を胸の前で重ね、噴水から流れる水がちろちろと落ちる盆を見つめていた。半分枯れている落ち葉が引っかかり、水流にあわせてゆるゆると回転している。
「素手だと寒いだろう。手袋はないのか?」
少女は無垢な瞳でアーチャーを見上げ、ゆっくりと首を傾げた。数秒後に、こくりと首を縦に振る。
――まったく、調子の狂う。
意思の疎通に関しては正直なところ、互いに理解しあえる余地が一ミリもないとはいえ、礼拝堂の影との方が余程容易だった。少女はぎいぎいと、油の差されていない機械のような身振り手振りで未熟な意思を示すのみで、口にするのは常に同じ台詞。
「……ドウゾ、」
木々はざわめき、喜びに葉を重ね鳴らしている。
――ああ、まただ。またあの青が駆けている。
強風と共に現れるそれは、森に満ちる生命をすべて引き連れているのではないだろうかといつも思わせる。湿ったいのちの匂いをさせて、青い風は大地を駆け抜ける。
「……アナ、タガ、望メバ……カナウ」
少女はカタカタとぎこちなく告げる。
「ネガイ ヲ、ドウ、ゾ」
アーチャーは少女を気遣う視線をちらり投げると、中庭を後にしようと歩き出した。願いが叶うなど、どこかに存在していた聖杯でもあるまいし。
……ネガイ、願い。そう、曖昧な思いを「願い」と無理に表現するならば。
アーチャーは背後を振り返り問いかける。
「アインツベルン、ここはどうすれば終わる? それとも、脱出するにはどこから出ればいい?」
少女はアーチャーの問いを理解するために、数秒を要した。小さな桜色の唇が動く。
「ヲヤ、……スミ。ヨイ、ネムリヲ」
「眠れということか?」
眠り。アーチャーにはとうに不要になったもの。そういえば、眠るという行為を随分と長い間忘れていた気がする。
眠り。眠るべき時さえここでは曖昧だ。
次の終焉はいつだろうか。この城は過去を巡らせては星降る日を合図にして終わり、ねじが巻かれるように幻影を巻き戻しては再び過去の日々を再現する。確固たる意志を持つものは、アーチャーと礼拝堂の影くらいなものだ。
アーチャーは、自分の居場所と勝手に決めた四階の部屋に戻ることにした。その一室は城がどのように姿を変えても常に同じ位置にあり、共に暮らす羽目になる過去の亡霊もいない。
使用人が利用するために作られた暗い階段を上ると、その半ばでは金属で編まれた洗濯籠を傍らに置いたメイドが深く項垂れていた。
「申し訳ございません……動けるようになったら、すぐに仕事に取りかかりますので……申し訳ございません……」
細い声の横を通り過ぎようとして、不意にアーチャーは進路を変えた。上っていた階段を下り、二階まで駆け降りる。
廊下を徘徊する、黒い襤褸を纏った亡霊がロングギャラリーに消えた。
アーチャーは二階の表側に位置し、バルコニーに隣接する部屋の壁にかかる武器を一度部屋に持ち帰り検分しようと少し前から考えていた。それを初めて見たときは心底戸惑い、これは剣と呼んでもよいものなのだろうかと迷う形状をしていた。波打つ断面は研ぎ澄まされ刃物となっておりヒトを殺傷できる鋭さを持っているが、ヒトや魔獣、使い魔を殺すにはあまりにも使いにくい形をしている。鍔も柄もなく、うねる金属が複雑に半月型を形作っているだけだ。どのように使えばいいのか見当もつかないが、そこには作り手の確固たる意志が存在していた。
この名も分からぬ刃の過去が知りたい。
だが、一度部屋をでてしまったばかりに、次に訪れたときには時代が動いてその刃物は姿を忽然と消していた。それから何度となく部屋を覗いては、また無かったと落胆することを繰り返していた。
期待がなかったとは言えない。だがまたしても部屋はいずこかの時代に消え去ったままだった。かつて部屋の扉があった場所は壁の中に塗り込まれ、色が微妙に異なる壁紙に覆われている。
――今度少女に会ったなら、あの刃物を見せてくれと頼んでみてもいいかもしれない。
他に願うこともない、と自嘲しながらホールにつながる廊下を進んだ。毛足の長い絨毯が足音を消す。アーチャーのものも、目前から駆けてくる青い男のものも。
ワゴンを押すメイドの間をすり抜けて青い獣が駆けてくる。あの獣も、変化の乏しい庭遊びに飽きたのだろうか。
酔狂な願いを思い出したことで胸が高鳴っていたからか、アーチャーは視線を下げながら男とすれ違う寸前、ふと悪戯心に突き動かされるまま特に考えもなく、気まぐれに、男と触れ合いでもするかのように腕を伸ばした。彼の身体の前に、敵意なく。
――私は彼らに干渉できない。
青色の獣は突き出された腕にぶつかる直前、身体をたわませるとアーチャーを見つめながら跳躍し、アーチャーの上空を越えた。なめらかな曲線を描いて飛ぶ爪先がアーチャーの視界に残り、軌道を残しながらやがて消えていく。銀色の輝きが、視界の隅でまたたいた。
驚きと共にゆっくりと振り返る。数歩先に立つ男はいかなる表情も浮かべずに、じっとアーチャーを見ていた。
男の身体からは余分な力が全て抜けている。ただ自然に、彼はそこに在った。
凍りつくアーチャーと向き合っていた男は、身を翻し再び城の一部として彼が目指す奥へと走り去っていった。尾のような長髪が跳ねて舞う後ろ姿が徐々に遠ざかる。
アーチャーは思わず手を傍らの椅子の背に置き、今あった出来事を噛み締める。玄関ホールで繰り広げられていた戦いの残響はアーチャーに気づかれないまま終わりを迎えていた。
***
「そんなところで眠ると身体が辛いだろう」
アーチャーがかけた声に反応した少女は、寝そべっていた身体を起こそうと不自由な手つきで腕を突っ張るが、すり減った階段の表面で手のひらを滑らせ再び冷たい石の上に重い頭を落とした。城の裏にある薄暗い階段で二人の影が重なる。
少女はむずかるように身をよじらせた。
「……イオ、ネガ、イヲ」
「今は、君が私の膝に頭を乗せてくれることだな」
少女は目を見開き、差し伸べられた大きな褐色の手に導かれるまま、階段に腰かけたアーチャーの太ももへ大人しく頭を乗せた。
音楽室からレコードの歌が大音量で流れている。呻く女の声をかき消すために。レコードの女は歌う、甘やかなシャボンが私をくるんでいる……。そしてピアノに伏せている女性をもまた、くるもうとしているのだ。
城の裏手は慌ただしく動いていた。古い形のメイド服を着たホムンクルスたちが、押さえた口調で不安を囁きあう。悪が出た、聖杯から悪を引き摺りだした。――悪が顕現した。そして負けた。誰が? 一体誰が? なんのために?
アーチャーとアインツベルンの娘は彼女たちの動揺から疎外されていた。アーチャーは己の足に乗る温かく華奢な身体に、失礼にならない強さで手を添わせる。アインツベルンの娘は気持ちよさそうに、うとうとと微睡んでいた。疎外、とアーチャーが呟いても身じろぎひとつせずに。
疎外ということもかつてあったよ。生前の遠い、遠い話だがね。
少女の長い白髪が、古びた階段にすべり落ちていた。
「私は色々なところへ行ったんだ。生前にな。それは対価を求めての行動だったときもあるし、己の欲求に従った結果でもあったし、誰かが私に望んだ行動という場合もあった。君は何処に行ったことがある? 私は生前に何処へ行ったのか、数えることすら困難で、詳しく思い出すのにも苦労する。常に移動していたから、それを思えばむしろ何処に留まっていたことがあるのかを数えるべきなのかもしれない。
私を歓迎する者たちはどの地でも少数だった。まあそうだろうな。身元は往々にして不明だったし、人種もあやふや、貴方たちを救いだすと言い、それを実行してみせ――多くの人を可能な限り救うが、それを実現する方法は伏せられている。詳細を語らないし教えない。そうその男はどのような力を、技術を、知恵と知識を用いているのかを周囲の人々に決して明かそうとしない。なのに対価に金も求めないんだ。生きていくのに必要な最低限のものをくれたらそれでいいのだという。なんとも気味の悪い存在だ。気味の悪い存在に命や危機を救われる、裏を返せば気味の悪い存在に生命線を握られていることは、人々に恐怖をもたらすだろう。言ってしまえば、彼らは、屈辱さえ感じることがあったのかもしれない。
私は常に共同体の外にいたな。共同体の外にいる人々の、更に外にいたんだ。
あるとき荒れて痩せた土地の村落の外れに泊まっていてな。水を求めて村の中にある井戸へと行った。粗末な家の扉の隙間でぎらぎらと光るいくつもの眼が、私の一挙手一投足を監視していた。それはそうだろう、水に不気味な『呪い』を私が使えばその村は立ち行かなくなる。
私は井戸の傍らにいた、親のいない痩せこけた少年に水を汲んではくれないかと乞うた。この器一杯の水を恵んでくれないかと。彼は願いを叶えてくれたよ、恐る恐るといった体だったがね。彼とはそのあと少し話す関係になった。今思えば孤独で、話し相手を求めていたんだ。互いにな」
アインツベルンの娘は静かに寝返りをうった。
「彼はあるとき言ったんだ。もうすぐ奴らがくるからお前は立ち去った方がいいと。……あそこで火が灯っていた油の焦げるにおいまで思い出せそうだ。彼らとは、奴らとは、と私は問うた。――その答えを既に知っていながら。
奴らは死を運んでくる、森を冒す呪いだ。あいつらはあの森を冒してこの村に死を運んでくるんだ、と訴えるんだ。 私もその連中の一味だということを知らずにな。
本当は、一味でもなかったんだがね。状況は少し込み入っていた。その、村から少し離れた場所にある森の奥にはな、そこにしかない病に冒された木が植わっていたんだ。その木の樹皮は、魔術的には価値あるものだった。それ故そこを管理する魔術師の目を盗んで奪おうとする輩が絶えない。私はその魔術師に使われていて、侵入者を監視して魔術師の財産を守り、同時に侵入者の出自と、存在するならばそいつらの雇い主の正体を突き止める役目を負っていた。侵入者の案内役に成りすましてな。なぜあんなことをする羽目になったのか……。
確か、あの魔術師に借りだか貸しだかを作ったんだったかな。なにしろ魔術師によって閉ざされ支配されていたあの土地を開くと確約してもらわなければ、周辺の村々が滅びることは時間の問題だった。あの村と道の結界さえ解放されれば、物資を輸送する手段は格段に改善されるはずだったんだ。
そう、私は一見善良な旅人、或いはよそ者として村にしばらく滞在していた。だが私は村に先着した、森を冒す連中の案内役という皮を被っていた。そしてまた連中を見定めるために仲間の振りをしていただけなのだから、結局私は誰にとっても裏切り者だった。悲しいことにな。
少年の『あいつらは死を運ぶ』という訴えも、実際には間違いではなかったんだよ。確かに『あいつら』は運んでいた。村の人々が抵抗する術を持たない病原体をな。
あそこの魔術師は村の人々の命よりもなによりも、森にある木を第一に考えていた。他人に森が荒らされることに我慢がならない様子だった。同時に村人が教育や医療を得た結果村が発展し、彼らの暮らしが変わりやがて周囲や森を拓いていく、そうして森の木を取り巻く環境に変化が生じることも恐れていた。
だが村人を陣地とその周辺一帯から排除することはない。なぜならそこで暮らしてきた人々もまた、木が存在する周囲の環境を構成する部品の一部だったからだ。
魔術師にとっては、病を持つ木を取り巻く状況が変化し、樹皮の魔術的価値が失われることこそ最もおそれるべき事態だった。当然無礼な簒奪者のことも心底嫌っていたがね。
私は姿を現した侵入者共と合流し、促されるまま森に踏み込んだ。あのとき親なき少年が私に遠慮なく向けた眼差しと言ったら……共同体から外れた者同士の、ささやかな信頼や共感は目に見えて崩れ去っていた。彼は私を蔑んでいた、憎悪していた。心の底から。自分が彼にあんな感情を抱かせた張本人なのだと思うと、私はいまでも自分に対して苦々しい気分になる。
まあいい、そうして。どこまで話した? ああ、そうだ、連中と合流したんだ。そう、彼らと共に村からしばらく歩いた先にある山の麓の森に分け入ってな。途中までは順調だった、私が案内する先に病を得た樹木がなかったことを除けばな。
同行した連中が途中で見せていた余所余所しい態度や私に対する慎重な対応は、互いに顔を合わせたばかりだからだと信じ込んでいた。彼らはずっと身内同士、低音で喋りつづけていた。私も最初は訛りの強いどこかの言葉だと勘違いしていたが、そのうちに彼らは彼ら独自の符丁を交わしていたのだと気づいた。
彼らが、私に背後から襲い掛かかる直前に。彼らは目的が行き先に存在していないとみるや否や武器を取り出して私に切りかかり、辛うじて刃を避け彼らから距離を稼ごうとする私を追跡し始めた。
結局、私は誰にとっても疎ましい存在だったのだろう。私と交渉を成立させた魔術師でさえ私を疎んじていた。
わかるだろう、魔術師は、彼らとも接触を試みていたんだ。そいつは吹きこんでいたのさ、村で待っている案内役の男は、お前らが金にする樹皮をひとりで手に入れるためにお前らを利用しようとしているぞ、あいつを殺してくれるなら分け前をやらないこともないとな。
つまらない話だ、結局どんな形であれ樹皮の存在を嗅ぎつけた犬共は魔術師にとって、一人残らず排除するべき存在でしかなかった。だが全てを己の手で始末する必要もなかろう。犬共を争わせ、あわよくば情報を吐き出させ、最後に残ったモノを自分の手で片付ければ多少は手間を省くことができるのだから。
私が彼らに望んだのは交渉だった。口頭で何らかの交渉ができれば話がうまくまとまる糸口を発見することができるかもしれない。だが既に彼らの獲物は私にスライドして、狩りは始まっていたんだ。
逃げながら私は恐れていたよ。連中はどうみても魔術師ではなかったからな。樹皮を狙っていたのはおそらく他の魔術師や聖堂教会の連中だったんだろうが、直接私を襲ったのは彼らに使役されているだけの、事情を知らないただの人間だった。無理矢理に魔術の素養を植え付けられ、駒として使い捨てられるだけの。私とてきれいな生き方をしていた訳ではない、必要に迫られれば彼らを殺す覚悟くらいはあったさ。
私が恐れたのは――必死の形相で追いかけてくる女が、私を殺すという咎を背負うことだった。彼女の手を私の血で汚してしまうことを、なぜか理由なく恐れていたんだ。そんなことをさせてはならないと思った。
結局私は撤退を選んだ。私が求めていたものは彼らの正体に関する情報と、その結果得られる村と道路の解放なんだ。彼らと殺し合いをすることではない。
魔術師と契約を結んだ男、だが連中の仲間なのだという建前の男、そいつに送られた少年の侮蔑の視線のすべてを受け止めながら、全力で足を前に出していた。心臓がはち切れそうだった、両脚がもぎ取れてしまいそうだった。木々の合間を縫い光を求め私は進み、跳躍した――森の果ての断崖から飛び降りながら、逆さまになった世界を通り過ぎた。私は少年に対して決して口にはしなかったし、するべきでもないとわかっていた。それでも。
私が疎外されれば疎外されるほど、逆さまになれば逆さまになるほど、この世界は輝きを増すと感じていたんだ。
息をすることさえ忘れるくらい、私をとりまく世界は美しかった」
少女は少し前から薄っすらと開けていた目を、眠気の残る仕草で擦り
「――オハ、ヨウ」
と、アーチャーを見上げて言った。
「ああ、おはよう。よく眠っていたようだな」
少女は身体を少し浮かせて首を縦に振り、しかし再び頭をアーチャーの太ももの上に戻した。アーチャーの掌が少女の肩を優しい手つきで抱く。二人は静かに、暗い階段の上で寄り添っていた。
城の片隅で、黒色の襤褸をまとった亡霊が蹲る。アインツベルンの故郷を描いた絵が一面に並び、懐かしい灰色の世界を作り出すロングギャラリー。枠の中に収められた灰色を規則正しく配置した空間で、奥にぽつんと置かれたひとつのカンバスには、絵の具によってあふれる光が描かれていた。眩しさの中心に滲んだ青。人々が焦がれるつかの間の晴天、冬国でなされた太陽との再会。
亡霊は作られた光に縋るように、青色をすべらせたカンバスの前に蹲り続けていた。
***
建物のあちらこちらで、時を問わず発生する過去の争いは、アーチャーにとって忌むべきものとなりつつあった。幾度も同じ争いを目にすることを避けるために、アインツベルンの魔術の粋を集めた工房に入り浸る。四つの塔に隠匿されていたアインツベルンの魔術工房と魔術の成果は、アーチャーの趣味にそぐわぬものも多々あったが、いつまで探っていても飽きることがなかった。
ホムンクルスが操ることを目的として最適化された武器の設計図を眺めていると、出入り口から姿を見せた若い男がステッキで床を叩きながら『邪魔者がきた』と叫んだ。
城の裏手から、見知らぬサーヴァントたちが攻め入る気配がする。アーチャーはこの後、サーヴァント同士の争いによって城の一部が騒がしく破壊されることを知っていた。
被害が生じない表側の塔へ移動しようと工房から脱出する。長い廊下を歩み城の表側に辿りついたところで、アーチャーは目を見開いた。
――かつての部屋が存在している。
今度出現すれば手に取りたいと渇望していた、剣が飾られている部屋の扉が廊下の先で姿を現していた。思わず速足で近づき、扉を荒々しく開ける。
「あった」
独り言ちたアーチャーの目線の先では、波打つ半月型の刃が冷えた輝きを放っていた。近づいて手を伸ばし、銀色の表面におそるおそる伸ばされた指先が金属に触れる。その冷たさを直に感じた瞬間、目に見えぬ力で両脚を掬われたと錯覚する衝撃に襲われた。巨大な振動によって部屋がぐらつき、家具が飛び跳ね、けたたましい音をさせて床に倒れこんでいく。
逃げ出す経路を反射的に探し、周囲を見渡したアーチャーの視界を影が横切る。部屋から硝子戸越しにつながっているテラスに、凄まじい勢いで衝撃を振りまきながら物体が転がり込んでくる。青色のそれは、痛みに身体を強張らせでもしたのか数秒動きを止めた。
アーチャーは無意識のうちに手に取っていた柄のない刃を器用に指の間へ挟みながら、床一面に砕け散る硝子を踏み割り、歪んでくの字になった金属製の窓枠越しに青い物体を見下ろした。
物体が転がり込んだ際に接触したであろうテラスの床の大理石は、丸まる青色を震源地として表面が粉々になっている。その中心で『それ』はゆっくりと、血を垂らしながら頭をあげた。
きゅう、と細められた赤色の瞳の中心は悦びでぎらついていた。言葉なくアーチャーと向き合い、口角を限界まで吊り上げる。鋭い犬歯が、赤い舌と共に薄く開いた唇の合間から覗いていた。
青く美しい獣は腹の底から湧き出る唸りで喉を震わせ――周囲一帯を薙ぎ払ったことで荒れ地と化した地上で待ち受けるバーサーカーと再びまみえるために、ほどけた青髪を躍らせながら階下へと飛び降りた。ぴちゃり、と遅れて飛び散った血がアーチャーの武装に染みを作る。
その姿を呆然と見送って、そうしてようやく、奴は笑っていたのだとアーチャーは気づいた。
世界が軋む。ゼンマイは今もじりじりと緩んでいる。登場人物たちは舞台で舞い踊る、歯車が噛みあいきしきしと回転している機構に乗ったまま。
壊れたレコードは城の中心で回り続ける。じいじいと針を溝に当て。サーヴァント同志が争い、或いは魔術師と共に城へ攻め入る轟音の隙間を女が歌う同じフレーズが埋めていく。甘やかなシャボンにくるまれながら、誰かが叫ぶ。星が降ると叫ぶ声。アインツベルンの娘は階段に座り、静かに細長い窓を見上げる。
すべり落ちた半月型の刃がテラスに落下した。
アーチャーは手摺りを力一杯掴み、ランサーの姿を追った。ランサーの動きにあわせテラスを走る。血を流しながら心底愉しそうに槍を振るう男を前に、唾を飲み込む。堪え切れずにゆっくりと口をあけ――
アーチャーは自分でも理解できぬ言葉を叫んだ。ランサーになにかを伝えたかった。
星が降り、城を、木々を、大地を破壊する。人々は疾うに動きを止め横たわっている。なのに最後まで戦う意思を失わないランサーは穂先を跳ね上げさせ、いまだ立つバーサーカーの腕を切断し血しぶきを浴びる。
奴に伝えたい、奴の視線が欲しい。私の前に再び立ち笑ってみせろと、墜落する星を跳ね除けるようにアーチャーは咆哮する。
――そうだ、ああそうだ。彼はいのちだ、生きている。この過去が巡るだけの、演者どころか観客さえ虚ろな存在の人形劇のなかで、唯一いのちを持っている。風を吹かせ生を謳歌している。
奴に近づきたい、あの肉体に触れたい。アーチャー自身にさえない自身が実在している確信を、そして孤独へのささやかな慰めをランサーは与えてくれるだろう。
なのに、彼までも倒れてしまうのだ。
廊下に立つ老人はステッキで床を叩き強く問う、誰もいない空間に。礼拝堂の影は笑う。姿かたちを与えられぬままに。黒い襤褸をまとった亡霊が、描かれた故郷を前に苦悶の声をあげる。
ランサーはふらりと重心を失い、星々の光が尽きると同時に地に崩れ落ちた。寸前、アーチャーが立つテラスへちらりと目線をやると――そこに立つ弓兵を認め笑いかけたのではないかという気が、何故かした。
コントロールのきかない身体はてんでバラバラな方向へ動こうとし、腹は呼吸の度に痙攣する。テラスの端から傍に立つ木へ飛び移り、時に掴んだ枝から手を滑らせて地表まで下りる。張り出していた木の根に躓き、アーチャーはぐらりと姿勢を崩した。
全身の骨が砕けた心地のまま、覚束ない足取りでランサーの元に向かう。
地上ではちろちろと残り火が燃えていた。砕けた岩の上で、ランサーは髪をひろげ静かに地に伏せている。
アーチャーはそこで発見した。『ランサー』という男を。
――どうしてだ。この男を失くすことが、惜しくてたまらない。
手を差し伸べた。力を失くした肉体へ。アーチャーは血液で湿る土と鎧の間に腕を滑りこませ、重い躯を慎重に持ち上げる。ランサーはだらりと寝そべり、モノのようになってしまっている。意思はなく、仮初めの生命も抜き出ていた。
アーチャーは、自分の喉が唾を飲み込む音を、まるで第三者が発するもののように聞いた。脈打つ心臓にあわせ、終わりなく汗が吹き出てくる。緊張と熱に支配され、肌の表面は炎で炙られているようにひりひりと焼けついていた。爪の間に詰まった土が、ちくちくと不快な痛みをもたらす。
アーチャーはかさついた唇を乾いた舌で舐め、慎重に抱えた物体への距離を詰めていく。姿の見えぬなにかに誘われるまま、アーチャーは色を失ったランサーの唇に口をあわせ、静かに息を吹き込んだ。ほんのわずかな息を。
静寂が二人を包む。ランサーの冷たい身体は、いかなる反応も示さなかった。
アーチャーは力なく倒れた森の木々を眺め、まるで自分の肉体の内部が樹洞と化したようだ、と虚ろに思った。この肉体には洞が巣くい、なかにはただ圧倒的な無が詰まっている。ああ、と嘆きが混じる息を吐いたところで、全身の毛が逆立つ強烈な冷たさが、掌を始点として身体の隅々まで走った。驚きで両手が跳ねる。その上にいたランサーは不意にその重みを失くし、泡が弾けるようにほろほろと肉体が崩れ、消え去っていく。
焦りながら「ランサー!」と叫んだときには、既に彼の姿かたちはなく、砂の一粒ほどさえアーチャーの手元には残されていなかった。心臓が早鐘を打ち、冷え切った血液は一斉に下がっていった。
――私はなにをした? 私はなにをしたんだ、一体なにが起きた? どうなっている、もしかしてなにか取り返しのつかないことを、私は、彼に。
アーチャーがランサーを抱こうとしてもその手は空振りし、余った力で拳を作るだけだった。ランサーを失ってしまったことは明確だった。
「私が君を消したのか?」
アーチャーは途方に暮れた瞳で宙を見る。頼りのない手つきで、失われたものを求め地を撫でる。私のせいなのかと小さな声で呟いた。その声をかき消して緩み切ったゼンマイは再び巻かれる。アーチャーの動揺を置き去りにして、世界は回り幻影が走る。
俯くアーチャーの視界で、赤色の槍が穂先で土に線を描いた。巻き戻る過去を駆ける青い獣。両手からこぼれ落ちた彼がそこにいる。衝動的に立ち上がったアーチャーは幻影のランサーをがむしゃらに追い、導かれるまま城門に辿りついた。
世界は収束していく。
ギイギイと巻き鍵は巻かれ、カチリと枠にはまる。
ぜんまい仕掛けが動き出す。
辺りを覆う霧は晴れ、機械仕掛けの城はなめらかに動き出した。幻影は日光によってかき消され、アーチャーは呆然と立ち尽くすしかなかった。
閂の外された門を内側から開け放ち、城の主は満足げな表情で新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込む。
城の主として振舞う少女は非の打ち所がない姿勢で客人の前に立ち、完璧な笑顔を作った。
「アインツベルンの城へ、ようこそおいでくださいました。
ここは願いの叶う庭園。あなたを手厚くもてなしましょう」
***
