fate(槍弓)
一章 星落つる日
不信、疑い、ほのかな敵意。様々な負の感情をのぞかせるランサーの冷え切った瞳にアーチャーが微笑みを返すことはなかった。
「私たちは自由だよ。何者にも強制されない、命令されない。ここでは君が思うがままに振る舞えばいい。
記憶はなく、何処からかもたらされた知識だけが植え付けられている肉体が存在し、その状態で生きる。こういった場合の振る舞い方を我々は知っているだろう。まあ己に主がいない状態は珍しいものだろうが、そんなことは些細な事柄だ。気に留める必要のない、な」
知っていた。些細な事柄であれば、そう些細な事柄ならば時が押し流していく場合もあるのだとアーチャーは既に学んでいた。
ふたりが共に出た外では、灰色がかった薄い雲と天から差し込む光、薄暗い世界にそびえる背後の城の影が溶けてまじる。
ランサーは、結局オレはなんであんな場所に寝っ転がってたんだ? と問い、よくわからねえがじゃあ、自由なら別に城から出ていってもいいんだよなと問いを重ねた。
「自分で確かめてみたらどうだ。行きたいところにいけばいいんだ。君にはそれが許されている」
ランサーは、ならひとまず確認だけしてくると言葉少なに立ち去った。最後の問いを残して。
「アーチャー、おまえはオレの敵か?」
「望むならば敵になろう。たとえ事実がどうであろうとも」
疲弊した両眼を休ませようと、アーチャーはひとり城に戻る。ランサーは近いうちに戻ってくるだろう。どれほど足掻こうとこの世界は閉ざされている。玄関ホールへとつながる、大理石の敷かれた長い廊下の途中で、アーチャーは横に伸びる細い通路に進路を変更した。玄関ホールに戻る気にはなれなかった。それでも判別はできる、いま誰と「己」が戦っているのかを。
ぐらりと城が揺れた。分厚い壁を勢いあまった武器が穿ち、刃が掠めたシャンデリアは粉々に砕け散って硝子の破片を周囲一帯に降り注がせるのだ。
巨体が一瞬動きを止める。
アーチャーは廊下に飾られた威厳ある男性の肖像画の前で足を止め、かたかたと震える金色の額縁へ指を這わせた。この城を訪れた少年少女たちが駆け去っていく足音は、もう聞こえる時が過ぎただろうか。シルクハットを頭に乗せた紳士が描かれたカンバスは小刻みに振動する。
あの空間に存在しているのはイリヤが指揮するバーサーカーと、そのサーヴァントと戦うアーチャーの形をしたどこか曖昧な影。
アーチャーは影と化した自分を上手く認識することが叶わない。だがそれでも、と思う。一撃ごとにアーチャーは呟く。
なにをしている、首を刎ねる角度が浅い。弓を射る精確さが置き去りにされている。己の身を犠牲にするタイミングが早すぎる、たとえ敵の肉体を裂くチャンスを見出したとしても。
アーチャーは指を置いたままだった額縁から指を外し、己の眉間を揉んだ。また要らぬことに考えを巡らせている。もう自分には成長がないというのに、それでも己の伸びしろを探そうとしている。
迂回をしたものの、結局階段を上った廊下の先で二階の吹き抜け近くに差しかかる。
「ねえ早く終わらせて。やっちゃえバーサーカー。なにをしているの、後れをとらないで。距離を詰めて!」
魔力ならいくらでも、と声を上げようとしたイリヤは不意に大きく開けた口を閉ざすとゆっくりと瞼を下げ、そのまま顔を上空に向けた。しばしの沈黙のあと――静かに背後のアーチャーを振り返った。
ぐるりと上半身を捻り、イリヤの形をした人形は喋る。
「ねえ、終わりというものはわかった?」
「……ああ」
それは返答ではなく、押し殺すことのできない感情が音となってしまったものだった。天井が崩れ、壁際の胸像は粉砕される。ホールに満ちる轟音の中で独り言つ。
「わからないな。ここには存在しないものなのだから」
関心なく己の影を追う。目で捉えようとすればするほど輪郭は曖昧になる。成長を望むことは義務だった。最早なにに対して義務を負っていたのかなど思い出せなくとも。
冷たく小さな手がするりと、大きな褐色の掌へとまわされた。アーチャーを一心に見上げる澄み切った赤い瞳。今日は何日だったろう。
『今日は始まりの日。ゼンマイは巻かれたばかり』
「あなたの彼は不在?」
「なに、そのうち戻るだろう。気にすることはない」
奥の廊下で、白色のお仕着せを身にまとったメイドが轟音に怯むことなく歩き去った。玄関ホールでは変わらず嵐が吹きすさぶっている。アーチャーとイリヤは共に、城の奥に向かおうとその場に背をむけた。
***
対人地雷が爆発した巨大な音と振動が遠くから響いた。城を震源地とした地震のような揺れがアーチャーとイリヤを襲う。
二人は三階の廊下にいた。互いに手をつないで目的もなく歩んでいる。前に伸びる通路を黒いコートを翻す男が駆けていった。つられてふらりと後を追う。二人に行くべき目的地はなかった。
形を変えながら床をすべり、あるいは宙に浮く水銀を引き連れて、金色の髪を持つ細身の男が二人を追い越し、廊下の突き当たりに獲物を追い詰めようとしていた。
距離を保つアーチャーたちの足元に、何十発も撃たれた弾丸の薬莢が転がってくる。そうして、水銀で己の身を守る魔術師に対し、衛宮切嗣は隠していた起源弾を放つのだ。その後放たれる魔術師の苦悶の声を、アーチャーは何度も聞いていた。
弾丸の雨の合間に、足元まで跳ね飛んできた薬莢をつま先でコツン、とイリヤが蹴飛ばした。水銀の上で痛みにのたうつ魔術師を足元に置き、手を下そうとする男をアーチャーはイリヤと眺めていた。彼は『イリヤ』の父であり、かつて己の養父だった男だと、以前に隣の少女が教えてくれた。
「かつての娘をみて、あなたはどう思うのだろう」
こぼれ落ちた言葉は、反応を求めて発せられたわけではなかった。ぎゅう、と小さな手が大きな手を握りしめる。衛宮切嗣は二人に視線を寄越すことも呼吸に躊躇いを含ませることもしない。起源弾を吐き出したばかりの銃口からは硝煙が立ち昇っている。
アーチャーの問いが宙に浮いたまま、時は進みやがて緑色の武装を纏ったランサーが現れ、主を引き連れて退却する。
「あなたはその答えを本当に欲しいと思う? それはあなたの願い? ……違うわね。きっと、彼にわたしが見えていてほしいと思っているだけ」
「そうかもな、おそらくそうなのだろう」
「見えてほしい?」
「やめてくれ、そこまで趣味が悪くなったおぼえはない」
アーチャーは少女の手を一度強く握り、そして放した。
「ではここで、『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』」
「ええ、よい一日を」
アーチャーは、魔術師たちが争っていた廊下の突き当たりを横目に流し見ながら、城の奥にある使用人専用階段の横を通り過ぎた。ガス燈に照らされた薄暗い階段に腰を下ろしていた女が、ぼんやりとした口調で問う。
「今日の天気はいかがでございましょう」
「きっと晴れているだろう」
「ああ、それはよかった。お喜びになりますでしょう……奥様がお喜びに……」
「そうだな。それはおそらく素晴らしいことだ」
女は己の傍らに置かれていた洗濯籠を引き寄せると、深々と安堵の息を吐いた。
「ああ、お邪魔して申し訳ございません……私は行きます、身体が動けばすぐに……」
「気にするな。誰の邪魔もしていない」
城の裏側に作られていてもなお数メートルの幅を持つ通路を進んでいくうちに、途切れ途切れの音楽が届きだす。壊れたレコードは、女が切なく歌い上げる同じフレーズを何度も繰り返している。……甘やかなシャボンが私をくるんでいる……覚えてしまった旋律が廊下で、アーチャーの脳内で幾度も鳴り響く。城の中心部に作られた音楽室の扉が全開にされているせいで、大音量の音楽が方々に響き渡っているのだ。
扉が開け放たれ音楽が満ちる部屋には入らず、手前のサロンに置かれた長椅子にアーチャーは腰かけ、力なく背もたれに身体を預けた。中にいる女もまたピアノの上に顔を伏せ壊れたレコード越しに誰かを想っているのだろう。いつもと変わらぬ姿勢のまま。
遠くの廊下で、厚い絨毯越しでもなお伝わる強さで床を苛立たし気に叩くステッキの音がした。アーチャーの脳裏に、厚い冬の外套を羽織った紳士が怒りをにじませながら姿を消す様子が浮かぶ。
一度腰を下ろすと、再び立ち上がる気力を生み出すことができなかった。時間だけが無為に巡っていく。メイドがどこからともなく姿をあらわし、汗をかくほど冷え切った水差しから新鮮な水をクリスタルのグラスに注いでアーチャーに近い机に置いた。彼女は礼を尽くして立ち去る。
微かに揺らぐ水を喉に流し込めば、身体の中に篭もり冷めることのない嫌な熱を下げてくれるだろう。だがグラスに手が伸ばされることはなく、注がれた水が温くなってもなお置き去りにされたままだった。
重く閉ざされた瞼の裏で、城を駆ける足音を捉える。冷えた空気の満ちる荒涼とした城を探り、扉を開けてはうろつき回る男の気配。その身に燃やす熱を遠くからでも感じることができる。奴はそのうちにアーチャーを発見するが、しかし端緒となる言葉に悩み珍しく躊躇いをみせるのだ。
「やあランサー、帰ってきたのか」
廊下の死角にいる男にアーチャーがかけた言葉は、一見親しい間柄で交わされる類いのものだったが、声に特別な感情はこもっていなかった。それどころかアーチャーの声は自分でも驚くほどに重く沈み切っていた。汗ばむ額を掌で擦る。
「なあアーチャー。おまえ」
姿を見せたランサーは言い淀んだまま、腕を組み壁に身を委ねた。
「おまえ外に出たことがあるか? この城の、森の……」
「森に出たことならばある」
「最果てまで行ったか? いや、最果てってなんだろうな。そんな大層なモノじゃなくていいんだが」
ランサーは顎に手をあて、困惑する様子も隠さずに考えこみながら問う。二人の間にふと沈黙が落ちる。
「……私が辿りつくことは、叶わなかったな。迷ったんだよ。行こうとしたが迷ってしまったんだ」
「おまえもか」
「ああ、そうだな。君もだろう」
ランサーはじっとアーチャーを見つめ、やがて視線を外して手をうなじに当てた。そのまま身を翻す。
「また出るのか?」
「城ん中、見てまわるわ。テメエと違ってオレにはここに関する知識が欠けていそうだからな」
「そうか。私は四階の、城の入り口側にある部屋にいる。用があればそこまでこい」
振り返ったランサーが、先程よりも鋭い視線でアーチャーを観察する。
「まだなにか?」
「――いや」
歯切れの悪い返事を残して、ランサーは去った。
途中で書斎に寄り、自室に持ち帰った書籍を無造作に机の上に重ねて、アーチャーは固い椅子に座っていた。一冊の本を開いたまま胸元に置き、目を閉じて天井を仰ぐ。部屋にあるベッドは綺麗にメイキングされた状態のままで、使用した跡は一切なかった。
開け放たれた窓から風が吹きこみ、本の頁の角がふわりと浮く。穏やかな冬の昼の空気が城をくるんでいた。
けれど平穏の隙間にそっと血の匂いが入り混じる。生臭い海魔が森の地面を這いずりだした。森の入り口で発生した強烈な鉄まじりの臭気が城を支配する。
アーチャーは閉ざした目の上に手の甲をあて暗闇に沈む。 知っていた。城から弾丸のように飛び出していく騎士王を。怪物たちを操るキャスターは誇り高く彼女に告げるのだ「ようこそジャンヌ」。
アーチャーは知っていた。危機から逃れようと裏口から外に出ていくであろう女性たちを。そして繰り広げられた銃撃戦――先程繰り広げられていた光景だ。時間の軸はちぐはぐに入り乱れている。
『時は意味をもたない。ここで時を正確に刻むのはただひとり』
ああそれがルールだ。己に囁きかける存在に、アーチャーは皮肉な笑みを返す。
『変わることがないものをルールと呼べるのかしら』
周囲に漂う血の匂いは一層濃くなった。子供たちの甲高い悲鳴が混じる。恐怖に怯え劈くような悲鳴が一帯を裂いた。
アーチャーは椅子に身体を預けたまま両手を耳にあてて数秒間己のうちに閉じこもってから、ぎこちのない動きで両腕を支えに椅子から立ち上がろうとした。歯を食いしばりながら体重を床に下ろした足にかける。部屋のドアをあけよろめきながら出た先の廊下で、黒髪を清潔に切り揃えた女性が緊張を隠せぬ面持ちで歩み去った。
城は忙しなく動いている。子供が助けを求める絶叫に呼び寄せられるようにアーチャーは階段を飛び降り、広間を抜け開け放たれていた城門をくぐった。乾いた土を踏み木々の間をすり抜けるように駆ける。
だが一キロメートルほど進んだ時点で、繰り広げられていた光景は急速に静まり、血肉の沼が広がり穢れた戦場と化していた森には、柔らかな花の匂いと木々の青い香りだけが残された。
行き場のなくなった衝動を抱えたまま力なく地表を見つめ、城へと引き返す。足は重く、のろのろと歩むことしかできなかった。こらえきれず傍らに立つ巨木に手をあて深呼吸すると、ささくれ立つ木の表面が手の皮膚を刺した。 外に出たところで打つ手がないことなど自分が一番よく知っている。キャスターを制圧することができるのはかつての王とかつての騎士だけだ。
城へと延びる道の終わりで、アーチャーは男を見つけた。一際大きく育ったオニグルミの樹の下に寝ころぶランサー。腕を頭のうしろにまわして枕とし、横たわったまま両足を器用に組んでいる。奴は既に森から帰還したアーチャーに気づいているであろうし、本当に眠っているわけでもない。鈍く差す冬の日の下で不可解な現状について思いを巡らせているだけだ。
それでもアーチャーは抗いきれぬ衝動に駆られ、躊躇いなく近寄ってランサーの脇にかがみ込み、閉じた口元へ手をかざした。唐突に距離をつめたアーチャーに対するランサーの動揺が、乱れて掌にぶつかる息にありありと表れている。繰り返される息によって示される生命の存在にアーチャーは安堵し、怖れではち切れそうになっていた胸を撫で下ろした。
***
悟られないように息を整えたランサーは、瞼を閉じたまま静かにアーチャーの手首を掴む。
「なあ、おまえいやに疲れた顔してんな」
「――私を見もしていないくせに、よく言う」
わずかにのぞいたアーチャーの拗ねに、ランサーは小さく驚き目を開いて掴んでいた手首に思わず強い力を込めた。その振る舞いに頓着せず、アーチャーは空いたもう一方の手で己が手首を掴む手を外し、なにもなかったかのように首を振って、よく眠れていなくてね、とぼんやりとした口調で弁明した。この地の異常のせいだ、と呟く。
「あぁそういえばランサー、知っているか? アインツベルンは虎を飼っているんだ」
「へぇ。珍しいモンがいるんだな。……どこに?」
「城の外れにある廃墟で、虎を飼っているんだ。気になるか?」
興味をそそられたらしいランサーは促されるままに立ち上がり、指差された先へひとりで歩き出す。一見しただけでは見落としてしまいそうな、踏み固められただけの細い道は、城の脇までせりだしている森の更に奥へと歩む者を導こうとしていた。
城に遮られることによって己の姿が隠される場所まで到達したランサーは、一度アーチャーがいる方角を振り返り、訝し気な表情をあからさまに浮かべてみせた。
崩れかけた低い石塀沿いに、歩を進めた。深く茂る木々をかきわけながら、ランサーは己の深い部分で考えを巡らせる。
余りにも考え事に集中していたせいか、我に返ったときには道の終わりが見え始めていた。城の裏手にも、植物に浸食されていない、表の広場のような開けた場所が存在していた。そして城壁の内部から外に伸びている道の先には、石造りの背の高い建物がひっそりと佇んでいる。城壁との間には背の高い木々が生い茂り、城の内部からは死角となっているだろうと思われた。
「なんだ、礼拝堂まであんのか。……まあでも普通あんな建物で虎は飼わねえな」
それに廃墟と言っていた。目的地を通り過ぎたかこりゃ、と辿ってきた獣道を戻り始めたところで不意に、首筋にちりちりとした違和感が生じ、ランサーは思わず鋭い屋根が天を指す神の家を振り返った。ざわざわと風が木々を揺らす。
ランサーはその場にしばしとどまり、天を指す建物から目を離さなかった。
***
森で栄える濃淡の緑が穏やかな風にそよぐ。アーチャーは先程までのランサーのように、周囲より一層大きく育った大樹の陰で休んでいた。離れた場所で、誰かが城を訪れる。エミヤシロウの足音だ。アーチャーの瞼は重たくて仕方がないのに、頭は冴えきっていた。常に冷めることのない熱を発しながら身体と脳は動き続けている。
ぎい、と上階の窓が内から外へ開かれる。少女は窓枠に肘をついて虚空に話しかける。アーチャーに聞こえていると知りながら。
「今回も星は降るかしら」
「降るのだろうな。君はあれが余程気に入ったとみえる」
寂しさを滲ませた上品な笑い声がそよぐ風に乗る。
「わたしはあれが好きなのね、多分。ええ、好きなんでしょう。あなたはきらい?」
「もうなにも感じない」
「かなしいひとね」
少女はそう言い残すと、客人を迎えるために部屋の奥へ取って返した。
***
「おいアーチャー、なにもなかったぞ。なにも居ねえただのボロ家しかねえじゃねえか」
ランサーは大樹が影を落とす地面に寝ころぶ男に不平をぶつけながら周囲を見渡した。城の前の広場にはアーチャーの姿だけがあった。先程と逆転した二人の位置、そしてアーチャーもまたランサーがそうしていたように、眠りに落ちず神経を張りつめさせている。城の窓は全てが固く閉ざされ、ぬるい空気が宙でとぐろを巻いていた。
――その木の下は居心地がよさそうだな。よさそうなんだから、もう少し楽な姿勢になれよ。その眉間の皺をどうにかしろ。
互いの関係に不釣り合いな、距離の近すぎる台詞がランサーの胸中に浮かぶ。どこから生じたのか判別のできない台詞に戸惑ううちに、かけようとした言葉は儚くはじけて霧散した。
いいようのない困惑を抱えたままアーチャーに近づき、無造作に皺が刻まれた眉間を親指でぐい、と押してみる。柔らかな皮膚の感触を、ランサーは全身で受け止めた。
神経質な溜め息を吐いたアーチャーは、邪魔くさそうに己に触れる手を払いのける。その勢いのまま二人の指は器用に絡み、深くつながって地に落ちた。互いの手が違和感なく重なっている。その事実に、二人の馴染み加減に、なにか重大な齟齬が生じているのではないかとランサーは眉をひそめた。
アーチャーにつられるようにランサーもまた言葉なく乾いた大地に横たわり、鈍い色の雲に覆われた大空へ己が胸を開け放す。正面から空を抱きながら、つながった互いの手を起点として生ずる体温を、妙に安らいだ気持ちで感じていた。
***
アインツベルンの城は、城壁に囲まれた四角の土地に建ち、四隅に塔を擁している。外からは不可視の奥まった場所に中庭があり、また四階のフロアの中心部には緑が植えられた空中庭園が整備され、外側をより高さのある棟が周囲を囲む設計になっている。奥の中庭の上には、塔と塔を結ぶ回廊が渡してある。
城のなかは豪奢な作りをしているが、侵入者への警戒と強制排除を目的とした仕掛け以外には魔術の要素が慎重に取り除かれていた。アインツベルンの魔術の神髄は、四隅に建つ塔の内部に築かれた魔術工房へ慎重に隠匿されている。
アーチャーは一階の中庭に敷かれた石畳の上を歩いていた。木々が茂り、目立たぬ色の花々が慎ましく咲く中庭の地面の下には、ランサーが目覚めた地下牢が位置している。
アーチャーは道なりに進み、城壁に設えられた小さな裏門を抜け、鬱蒼とした森が広がりはじめる土地の端に建てられた礼拝堂を目指していた。
日に焼けた石畳に従って、石造りの暗い灰色をした、三階の建物ほどの高さがある――実際には一階建ての――信仰の家の扉に手をかけた。木製の扉をあければ厳かな空間に流れる冷涼な空気の歓迎を受ける。しかし敏感な鼻ならば同時に、少しの埃臭さとじめりとした湿気を感じ取るだろう。
アーチャーは迷いなく、礼拝堂の横壁に嵌めこまれたひとつのステンドグラスの下に立ち、色鮮やかに描かれた女性たちに見入った。
礼拝堂は作りこそ丈夫だが、複雑な設計はされていない。祈るための空間と、ここで生活する者のための小部屋だけで出来ている。採光の加減か、なぜか礼拝堂の奥には光が十分に届かない。高い位置から差し込む日光は祈るひとびとを照らす反面、祭壇の周辺を深い闇の中へ押しやっていた。
闇が孕み、生み出した影がぞわりと蠢き、輪郭も曖昧な姿を作りだす。
白色のドレスをまとった純白の女性は、硝子板の中で数名の男と幾人ものホムンクルスに崇められている。彼女が伸ばした手から赤色の光が放たれ、その中心で輝く金色の杯。その絵を一心に見つめるアーチャーが物珍しいのか、影はこらえきれぬ笑いをこぼす。嘲笑ではなく、ただ珍しさを押し殺せないだけらしい。祭壇を支配する闇に半ば溶け込みながら厚い聖典をぱらぱらとめくり、机に肘をついている。
アーチャーの視界には、白銀の髪を流した女性が湛える微笑みがひろがっていた。愛を伝え、救いの手を差し伸べ――アインツベルンの末裔に悲願への道を教えようとする。
「告解が必要か? それとも主の言葉を求めるか? 望むのならば説き、赦そう、祈ろう、祝福しよう。主は常に私たちと共にある」
誠実な内容とは裏腹に、からかいが混じった口調で放たれる言葉。
「ならば貴様は異端だな。ここを作った人間は明確に魔術師を讃えているのだから」
「さて」
からかいは確かに混じっているが、影の発言について穿った見方をする必要はないだろうとアーチャーは考えていた。アーチャーが本当に望むのならば、影は告解を受け入れる用意があるのかもしれなかった。この地で望まれる「叶えられるべき願い」とは関係なく、ただ影の自由な意思のみを理由として。
「私は彼女に会いにきただけだ。そして残念ながら、私は私の上にいかなる存在も置いていない」
ふむ、と影は意外そうに手の指を組んだ。
「私と君は、そしてホムンクルスたちもまた、それぞれが同じ存在に仕えている訳ではないだろうが」
アーチャーは冷酷と呼べそうなほど冷え切った視線をちらりと向ける。
「君の上になにもないということはなさそうだ。或いは、なかったとも言えないだろう」
そう述べた影はわずかな沈黙のあと、アーチャーに興味を失くしたのか、崩れ落ちるように姿を消した。かき消えたあとに一握の砂が残り、それらもやがて虚空のなかに吸い込まれていく。
心を乱す存在がいなくなったアーチャーは、再びステンドグラスを仰いだ。聖女は冠と衣を与えられた姿で人々の上に立ち、礼拝堂の片隅で穏やかに微笑み続けていた。
***
ランサーは脳内に、城の全てを網羅した図面を作成しようと、地下から順に城の構造を確かめていた。独立して地下に埋め込まれている牢獄、城の半地下にあるランドリールームと使用人用の食堂、幾名ものコックが働いていたであろう広々として設備の充実した厨房。
とある一角で発見した異国の煙草と燐寸を手にして――一階の城門、通路、玄関ホールにサロンと巡る。歩けど歩けど廊下に終わりはなく、同じ色の壁と、あるときは長方形の、あるときは優雅な曲線を描く木製の扉が現れては過ぎ去る。サーヴァントの身体であっても、この広さの城を隅々まで把握するには骨が折れるな、とランサーは感じていた。
冬場に夫人が闊歩するロングギャラリーは複数設えられ、ギャラリーによって趣向の異なる芸術品が並べられていた。二階の大食堂と食堂、ビリヤードルームからバルコニーに行きつき、これがまだ六階まで続くのかよと休憩を兼ねて足を止めた。
三階に数多く置かれた客室を全て見て回ることは後に回し、中心部に寄せて作られた図書室に音楽室、談話室とギャラリーの位置を頭に叩き込んで、城の正門側の通路に出てから、近くにある幅の広い階段に足をかけた。そのまま四階まで駆けあがる。
こうも魔術を排除した造りをしているのならば。
ランサーにもわずかな「アインツベルン」に関する知識は残っている。彼らは由緒正しい魔術師の一族だ。従って彼らが築く陣地には幾重もの魔術によって防御機構が敷かれ、本来であれば城そのものが魔術工房として使用されているであろう。
しかし城を巡っても目立った魔術式や使い魔の類は発見できない。魔術に関する資料や素材、道具に至ってもなお存在を確認できない。ならば魔術に関する事柄は慎重に腑分けされたうえで隔離されているのであり、城の四隅に立つ塔が工房として機能しているのではないのだろうか、と予測していた。塔への入り口が容易に発見できないことも、その考えに拍車をかけていた。
軽い足取りで四階の廊下に飛び乗り、廊下を進む。左手に、魔力の残滓が流れ出ている一室があった。固く閉ざされた扉の横を通り過ぎながら、ここがあの弓兵のねぐら、と脳内の地図に書き加える。
来客を導く通路に従い、城の中心部でT字型に交差している廊下まで出る。一面に広がっている壁には巨大な窓が並び、燦々と日が差し込む回廊となって中心にある緑を取り囲んでいた。
なんだ空中庭園があるのかと気が付いたランサーは、そこで思わず足を止めた。
傍らに置かれていた長椅子でうたた寝をしていたアイリスフィールが来客に気づき、ふぁ、と小さく上品な欠伸をする。可愛らしくのびをして、細く長い白銀の髪をゆったりとかき上げた。いつのまにか傍にいたランサーの視線を追い、同じ方向をむいて寂しげに微笑む。
「ここから出られないのね。彼も、あの子も。あの人も。ここから、でられないのね」
冬の日は急速に傾きつつあった。
「また問答が始まるわ。ほら、チャリオットの音が聞こえない? ……いえ、あれはもう過ぎたのかしら」
音もなく立ち上がったアイリスフィールは、冷え切った柱を細い指でやさしく撫でる。
「ねえ槍兵さん、眠らせてあげればいいのよ。簡単なこと、彼を眠らせてあげればいいの」
「――リ、――アイリ」
「あらあら、あの人ったら。お構いできなくてごめんなさい、失礼するわ。あの人に呼ばれているから……」
ランサーは立ち去るアイリスフィールを気にもとめず、質の悪いモノに憑りつかれた哀れな人間の形相のまま、その場に立ち尽くしていた。やがて王たちの饗宴が始まる空中庭園に打ちのめされ、その場から一歩たりとも動くことができずにいた。
***
金星が鋭い光を身にまとい己の存在を主張している、紺色の空が窓の外に広がっていた。石造りの城の一画では、暖かな蒸気と肉が焼ける香ばしい香りが漂い始めている。イリヤは足早に絨毯の上を横切ろうとして、柱の陰にいたアーチャーに気づき足を止めた。弓兵もまた緩やかに頭を傾け微笑む。
「いい匂いがするな、イリヤスフィール。幸福を香りにしてみろと命ぜられたなら、この香りを瓶詰にして差し出したくなるほど」
イリヤもまた男に微笑みを返し、上品な同意の表情を形作る。
「ええ、今日は飛び切りのご馳走を振る舞う日だったから。きっと喜んでもらえると、わたしたちは張り切るの」
廊下に佇む少女は、首を大きく反らして弓兵を見上げる。
「あなたにもディナーをご用意しましょうか」
「気遣いは不要だ。私のことは気にするな」
イリヤは下げた眉に寂しさをちらりとのぞかせたが、それを上手く覆い隠して、呆れた様子で肩をすくめた。
「頑固な主ね。わたしの記憶にもここまでの頑固者はそうそういないわ。ええ、いないとは言わないけれど」
「客でしかない。主ではない」
「ならばこう言いましょう。主として振る舞ってくれない、客らしくない客」
ふ、とアーチャーは気が抜けたように笑ってみせた。手で目元を擦り、そうかもしれないな、と目を隠したまま小さく呟く。
「ひとつ、頼みごとをしてもいいだろうか?」
「どうぞ。それこそわたしが待ち望むもの」
「今夜塔のひとつをお借りしても構わないかな?」
赤い瞳の濡れた表面が、ガス燈の黄ばんだ灯りを反射させる。
「飽きないひとね。断りなど今更いいのに」
「私は客でいたいんだ、主ではなく」
イリヤは一歩足をひき、濃い影を背負いながら膝を軽く折った。
「では、わたしは二人の世話をしなければならないから失礼するわ。どうぞ、なにもかも、望むがままに」
「かたじけない。あと、私が言う筋合いのものでもないだろうが、どうかよろしくと、彼女に。……暇ならば、奴にもついでに」
ふふ、と含み笑いをその場に残し、小柄な少女は去った。
アーチャーの背後にある少し離れた通路から、透き通った甲高い音が小さく響いた。戸惑いのあまり思わず立ててしまった足音そのもの。その音が一切聞こえていないふりをして、アーチャーは足音とは反対方向に歩みだした。正門の右側にそびえ、魔術工房を内部に隠匿する塔を目指して。
常に背筋を正し几帳面な仕草で振る舞う老人は、通常であれば十分な貫禄を備え、周囲の人々に威圧感さえ与えていたであろう。しかし今の彼はうらぶれた様子で背を丸め、壁に隠された魔術工房の隠し扉から、緩慢に弱々しくステッキをついて姿を現した。
「……また、駄目だったとは」
呻くように絞り出された嘆息がかき消える。神経質に髭を扱きながら立ち去る老人と入れ替わりに、アーチャーは塔へするりと身を滑りこませた。
重い扉に刻み込まれた、アーチャーとは相性の悪い魔術式を指でなぞり、魔力を垂らして入り口を固く閉ざす。先にある小さく古びた閂付きの木製の扉をあけ、石を積んで作られた螺旋階段をのぼる。
厚い壁をくり貫いて作られた小さな窓は全て内側から塞がれ、時折現れる小さな燭台の灯りが狭いステップを、上る者を惑わせるように照らしていた。蝋燭はアーチャーの気配を察知して順々に炎を灯していく。
足元をかろうじて照らすささやかな火しか許されない、暗闇に沈み空気の澱んだ工房の壁際を円を描きながら通り過ぎ、六階に到達したところで現れる朽ちた扉を押し開けた。
露台に躍り出た身体を森の大気が優しく包み込む。まるで地底を彷徨うかのような深い闇をくぐり抜けた眼にとって、紺色の空に輝く星々は夏の太陽以上に眩しく、くっきりと形を持つ存在だった。アーチャーは汗ばむ皮膚を夜風で冷ましながら、手摺りを足場として、重い躰を半ば引きずって眼下に広がる瓦屋根に飛び降りた。
星々が明るい月のない夜に、少年少女の夢をかなえる舞台として城が回り始める。城のランプはひとつ残らず灯され、少年少女の正装を揃え、メイドたちは厨房の窯の火を絶やさぬよう薪をくべる。
もう彼らは大階段で顔を合わせただろうか。今宵彼らは華々しく着飾り、少しの戸惑いと緊張と共に手を重ね、ぎこちのないエスコートで、足取りで、和やかに肩を寄せ合い、城の主と賑やかな食卓を囲んでいるのだろう。
アーチャーは目を閉じて、現実で繰り広げられる一夜の夢に思いを馳せ、慣れない手つきで白銀製の花弁を投影した。包む手の皮膚を切り裂く鋭利な縁を持った花弁が、幾枚も終わりなくアーチャーの世界から零れ出る。アーチャーは両腕から溢れてしまいそうな花々を愛おしそうに抱き、ためらいなく幾億もの星が瞬く夜空へ舞い散らせた。
白銀の表面はちらちらと地上の遠い光を反射させる。何度も何度も同じ動作を繰り返す。手に傷を負い、その身を切り裂かれてもなおアーチャーは、霞む目で夜空を見上げ、尽きぬ祝福と共に金属の花を散らし続けた。
――私は祝福しているのだ。少年のためにでは決してなく、ただ幸せを掴んだ少女のために。
ぐらりと天地を失くした身体が傾ぐ。ああ彼が私を探していると、とりとめのない思考のひとつが教える。彼が私を探している。荒々しい足音は、塔の入り口がどこにも見当たらないことに苛立っている。焦れたのか彼は城の階段を飛び跳ねるように駆けあがり、途中で回廊から屋根へ身軽によじ登ってみせる。瓦を踏み砕かんばかりに力強く飛び跳ねては、高みにいる私を目指す。
傾いだアーチャーの身体は地上目がけて落下しようとした。それでもなお花弁を散らす両手は宙に伸ばされている。屋根の上で飛び跳ねた勢いを利用しアーチャーの胴体を両腕で抱えてみせたランサーは、不安定な姿勢でどうにか安定した場に二つの身体を担ぎ上げようと、意味もなく奮闘していた。
霞む景色の中心にいる青色の戦士に、唇の端を吊り上げてみせた。心底馬鹿にした口調で、アーチャーは吐き捨てる。
「落ちたところでこの身は死なん。死んでなどくれない」
汗で滑る手を用いてなんとか赤色の武装を強く掴もうとする怒れる槍兵は、腹立たしさを一切隠さない乱暴な口ぶりで応えた。
「死なねえことと落ちねえことは違えんだよ。んなことも分からねえのか」
アーチャーは己の身を支える白い手を力の加減なく掴み、無理矢理に振りほどくと、五階部分の屋根から転がり落ち宙に身を躍らせた。ランサーの詰問が上から降り注ぐ、アーチャーを裁かんとする憤りを迸らせて。
テメエ、なにを隠していやがる。その性根、心底気に食わねえ――。
地に落ちる瞬きほどの時間に、少女の言葉を思い出す。 そのうちに星が降るわ。ねえ、ええそう。なにごとも、終わり時を見失ってからその存在に気付くのね。もう過ぎたと知るのよ。終わらせられるものと、終わりを許されないもの。――わたしは行くわ、『イリヤ』はこの城の主なのだから。
そう、炉心の消滅はきっと安定をもたらすでしょう。けれどわたしはあなたに。
重い音を響かせて勢いよく、草が茂る大地に叩きつけられる。城の灯りが周囲を照らし、暗闇のなかの木立は天の星をその先端で指し示す。柔らかく温かな女の香りが鼻先を擽る。
白色の長髪を靡かせた女が倒れるアーチャーの傍らに屈みこんでいた。俯きながら、細く長い指ですべり落ちる髪を耳にかき上げる。
――星の降る日。一筋の尾をひく光が始まりの合図。
幸福であったエミヤシロウ。一夜の夢ではにかむ彼は、別の時に己が未来と矛を交える。ホールで戦っているのだ、過去が現実となり過去は過去と重なる。彼は己が身を刃に変え、己が理想が潰えた姿を否定せんと血を流しながら両足で立つ。
「共に踊ってはいただけないだろうか、レディ」
精根尽き果てた細い声に対して、女は心底嬉しそうに「光栄だわ」と顔を綻ばせ、土に汚れるアーチャーを支えるために手を添わせた。
土埃にまみれながら、鉄のように重く強張る身体を起こし姿勢を正したアーチャーは、礼儀正しく女性へ手を差し伸べた。
互いに深く腕を組み、遠くから運ばれる音楽を感じながら足を運ぶ。同調する息と迷いのないステップ、二つの身体は共に廻り地を蹴り、アーチャーの赤く汚れた外套と一点の染みもない純白のスカートが風に吹かれ宙を舞う。いつしか彼らは裸足となり、地を踏んで子供に帰ったかのように無心に踊る。大きく円の軌道を描きながら二人回転し、互いの目線を合わせた。
秘密を囁くように女はアーチャーの耳元へ口を寄せる。
「眠ればいいのよ、弓兵さん。思い悩む必要なんてないわ」
血に汚れた手でしなやかな手を取り、細い腰を支えながら囁き返す。君の忠告は有り難いが、私には不要だ。ああ、君はアイリ? それともイリヤ? ユスティーツァ?
アーチャーは女をリードし、流れるように二つの身体を放してから再び合流する。
すべてわたし、わたしは彼女、彼女はわたし。
「礼拝堂のステンドグラスに描かれた君は美しかった」
穏やかに笑んだ女は徐々にステップを踏む速度を落とし、やがてアーチャーをそっと突き放して、距離を保ったまま動きを止めた。
「だが眠れと告げるのはおそらく、君の役目ではない」
星が落ちる。
星の尾が一筋、二筋と、闇が厚く塗り込められた空に白色の線を描き始めた。曲面に沿って流れる幾筋もの線が空を覆う。城に火が放たれる、輝かしい日々を覆い隠すために。
けれどこの火は彼の火だ、神がもたらす火をどうして非難できよう。半神の火もかつての日々と同等にまた尊いのだ――過去が過去と戦う。アーチャーとエミヤシロウが対峙する空間をルーンの火が包む。
星もまた青白い炎をその身にまとわせ地上を目指す。幾筋もの弾道が唸りをあげアインツベルンの城に向けて降り注ぎ無秩序に破壊する。轟音と共に城の屋根は突き破られ、硝子を砕き壁をえぐり、城は震え地には次々に穴が空く。かつての城の一部が炎と煙をあげ地中に没する、瓦礫となり積みあがる。
叩きつけるように襲う星々、空気が引き裂かれるなかアーチャーはひとり踊る。炎の海だ、君の炎と星々の炎が混じり灼熱の海を作り出す。
破壊的な星の弾道を躱しながらアーチャーは苦しさに喘ぎ腕を伸ばし、裸足で小さく土を削り、たたかうように痛みをうちつけるようにランサーの炎と遊び戯れる。燃える星が地表に、城に、木々にぶつかり破片が舞う。崩れた城壁が四方に飛び散る。跳ねとんだ一片が、舞い翻るアーチャーの外套を深々と切り裂いた。
女は言う。「痛みを感じる」痛みすらもう感じない。踊る、踊る、星降るなか。世界が消し去られるこの時に、君のことだけを想っている。「苦しそうに見える」苦しさなどとうに縁を切った、けれどそうかもしれない。息の仕方など疾うに忘れた。「血を流してみえる」それはかつての君だ。
踊る、目の前の手に縋りつき。踊る、両手に重い剣を持ち。世界と同じリズムで鼓動を鳴らし大地を踏み、巡る大空を抱えるように限界まで両手をひろげ――最後、彼に手を伸ばそう。
アーチャーに残されたただ一つの枷。アーチャーが抱くただ一つの愛。
「今度は君が手を取ってくれるのか? ランサー」
尾を引き連れ閉ざされた空を駆ける星々はただひとり、ランサーを破壊することだけが叶わない。
いつの間にか地に降り立ち、仁王立ちになったランサーは己の感情を押し殺して問う。
「申し開きを聞こうかアーチャー、存分に。……誰もいねえ城でなにを遊んでやがる。なにと喋ってやがる、随分タチの悪い。それに――庭園の剣の山はなんだ」
ランサーの尖った声が、容赦のない言葉が、露わな不信がアーチャーの心を貫く。
「聞こえるか、ランサー?」
「なにがだ」
「ゼンマイの音が。ゼンマイが緩み切る音だ。終わりが近い」
機械的に笑ってみせたアーチャーに対し、ケルトの戦士は抱いている不愉快さを隠さなかった。その胡散臭えツラをいい加減やめねえかと這いずる低音が言う。
徹底的に破壊され尽くし、煙と砂塵をあげる瓦礫の前でぼろぼろの身体を抱え立ち尽くしていた。ぜんまいは緩み、閉ざされた庭園は終焉を迎える。
痛みはない、痛みなどあってはならない。自分が選んだのだ、弱音など決して吐かない。だがひとたび口を開けばこぼれ落ちてしまいそうだと歯を食いしばる。
苦しい、ランサー。
見えない傷から血を流し続けている。可笑しなことだ。苦しい、圧迫されている。背骨ごとぎりぎりと締め上げられている。ああそうだ、君を好いてしまったが故に、君を諦めるしかなかったが故に。
自分は確かに願い、君を選び、そして囚われ――どこまでも苦しみぬいている。
なにもかもなかった事にされるこの地、ぜんまいが緩んでは巻きなおされるこの不条理な地で。
地表で燻る火がすっと消失し、かろうじて形を残していたランプの灯りも消える。静寂に支配された空間で、修羅の顔をしていたランサーはふと糸が切れたかのように力を失い、どさりと倒れ地に伏した。
照らす光も火が爆ぜる音も木々が焼ける匂いもなくなり、ただアーチャーの脳内で、星が空気を裂く高音が終わりなく鳴り響いている。
人形たちは皆倒れ、来るべき時を待っている。その時がまた訪れてくれるのかも知らないままに。
そして焼け跡をじっと観察したあとに、何者かはようやく巻き鍵を差し込むのだろう。
アーチャーはランサーの足元まで近寄り、跪いて両手で抱える。まだ仄かな体温が残っている身体は、青い武装越しにアーチャーの掌へぬくもりを伝える。
アーチャーは初めて他人と唇を触れ合わせた、今はもう思い出せない過去を再現するかのように、不器用に唇を近づける。
口づけよう、ランサー。この終わらぬ過去をまた繰り返すために。乾いた唇をあわせ、私は私の肺に残る生命の息吹の名残を君に送り込む。
息を吹き込んだ瞬間、全身の毛が逆立ち寒気が漣となって身体を駆け巡る。ランサーの身体は抱く者に悲しみをもたらすほどに冷え切り、やがて抱えた腕の上でほろほろと崩れ去っていく。消えたランサーの重みだけがアーチャーに残される。
両手を拳にして大地に押し付ける。君を愛していられるのならば、つらいなどと絶対に口にしない。
幻影が走り出す。人々の暮らしと戦いを逆巻き、始まりの時に戻す。
『行こう、バーサーカー。いい、おにいちゃんに会いに行くの――』
声だけが通り過ぎた。駆け巡る過去の中にひとり蹲る。両手で顔を覆う間にぜんまいはきりきりと巻きなおされていく。庭園は過去の栄光を思い出し、崩れた城は元の姿を取り戻す。星がぶつかり捻じ曲がっていた窓枠は、規則正しく整列する。消された燈が再び点り、城に人々の活気が満ちる。城の主人は頑丈な城の入り口を開放して優雅に腰を折った。
アインツベルンの娘は凛として、己が主となる客を迎え入れる。
「アインツベルンの城へ、ようこそおいでくださいました。
ここは願いの叶う庭園。あなたを手厚くもてなしましょう」
世界は始まりの形に嵌まった。カチリと音を立て。
アーチャーは邪魔な身体を引きずり、這いずるようにして階段を上る。ただ己に課した義務だけのために四階を目指していた。廊下を遅々とした速度で進んだ果てに、城の中心部に辿りつく。
回廊に囲まれ緑が豊かに茂っていた空中庭園には、夥しい数の剣が山となって突き刺さっている。最早人間には数え切ることのできぬ本数の剣たちが、土の起伏に沿い曲線を描く。細長い金属は闇の中でぬめる光を反射させていた。グロテスクな光景のなかに身を投じ、林立した剣をかきわけてアーチャーは「印」を求めた。すれ違う刃に少しずつ身を切り裂かれながら。
奥にわずかに残された、なにもない地面の前に立つとアーチャーは銘のない簡素な剣を投影し、悲鳴を上げる全身の筋肉に力を込め、全力を振るい土の上に刃を突き立てた。
ごつりと地中の石にぶつかりながら飲み込まれていく鋼。上下の奥歯がゴリゴリと鳴る。強く噛み締めた歯列の奥から、獣そのものの唸り声が漏れ出す。
月光によって血にまみれたように光る幾本もの剣に囲まれながら、身体を限界まで仰け反らせアーチャーは虚空にむかって咆哮した。
なにを失くしても君を愛す、私は君を愛している、たとえ想いを告げることを諦めてもなお熱は治まる気配さえみせない。さあ繰り返そう、終わりのない夢を。さあ行こう地下牢へ、何もかも忘れたランサーを再び迎えるために。
アーチャーは鍛え抜かれた広い背を真っ直ぐに伸ばし、堂々と外套を翻す。迷いは微塵もない。アーチャーはただ、記憶を失っては目覚めを繰り返す男だけを支えとして生きている。
この地の終わりを、見つけられぬまま。
不信、疑い、ほのかな敵意。様々な負の感情をのぞかせるランサーの冷え切った瞳にアーチャーが微笑みを返すことはなかった。
「私たちは自由だよ。何者にも強制されない、命令されない。ここでは君が思うがままに振る舞えばいい。
記憶はなく、何処からかもたらされた知識だけが植え付けられている肉体が存在し、その状態で生きる。こういった場合の振る舞い方を我々は知っているだろう。まあ己に主がいない状態は珍しいものだろうが、そんなことは些細な事柄だ。気に留める必要のない、な」
知っていた。些細な事柄であれば、そう些細な事柄ならば時が押し流していく場合もあるのだとアーチャーは既に学んでいた。
ふたりが共に出た外では、灰色がかった薄い雲と天から差し込む光、薄暗い世界にそびえる背後の城の影が溶けてまじる。
ランサーは、結局オレはなんであんな場所に寝っ転がってたんだ? と問い、よくわからねえがじゃあ、自由なら別に城から出ていってもいいんだよなと問いを重ねた。
「自分で確かめてみたらどうだ。行きたいところにいけばいいんだ。君にはそれが許されている」
ランサーは、ならひとまず確認だけしてくると言葉少なに立ち去った。最後の問いを残して。
「アーチャー、おまえはオレの敵か?」
「望むならば敵になろう。たとえ事実がどうであろうとも」
疲弊した両眼を休ませようと、アーチャーはひとり城に戻る。ランサーは近いうちに戻ってくるだろう。どれほど足掻こうとこの世界は閉ざされている。玄関ホールへとつながる、大理石の敷かれた長い廊下の途中で、アーチャーは横に伸びる細い通路に進路を変更した。玄関ホールに戻る気にはなれなかった。それでも判別はできる、いま誰と「己」が戦っているのかを。
ぐらりと城が揺れた。分厚い壁を勢いあまった武器が穿ち、刃が掠めたシャンデリアは粉々に砕け散って硝子の破片を周囲一帯に降り注がせるのだ。
巨体が一瞬動きを止める。
アーチャーは廊下に飾られた威厳ある男性の肖像画の前で足を止め、かたかたと震える金色の額縁へ指を這わせた。この城を訪れた少年少女たちが駆け去っていく足音は、もう聞こえる時が過ぎただろうか。シルクハットを頭に乗せた紳士が描かれたカンバスは小刻みに振動する。
あの空間に存在しているのはイリヤが指揮するバーサーカーと、そのサーヴァントと戦うアーチャーの形をしたどこか曖昧な影。
アーチャーは影と化した自分を上手く認識することが叶わない。だがそれでも、と思う。一撃ごとにアーチャーは呟く。
なにをしている、首を刎ねる角度が浅い。弓を射る精確さが置き去りにされている。己の身を犠牲にするタイミングが早すぎる、たとえ敵の肉体を裂くチャンスを見出したとしても。
アーチャーは指を置いたままだった額縁から指を外し、己の眉間を揉んだ。また要らぬことに考えを巡らせている。もう自分には成長がないというのに、それでも己の伸びしろを探そうとしている。
迂回をしたものの、結局階段を上った廊下の先で二階の吹き抜け近くに差しかかる。
「ねえ早く終わらせて。やっちゃえバーサーカー。なにをしているの、後れをとらないで。距離を詰めて!」
魔力ならいくらでも、と声を上げようとしたイリヤは不意に大きく開けた口を閉ざすとゆっくりと瞼を下げ、そのまま顔を上空に向けた。しばしの沈黙のあと――静かに背後のアーチャーを振り返った。
ぐるりと上半身を捻り、イリヤの形をした人形は喋る。
「ねえ、終わりというものはわかった?」
「……ああ」
それは返答ではなく、押し殺すことのできない感情が音となってしまったものだった。天井が崩れ、壁際の胸像は粉砕される。ホールに満ちる轟音の中で独り言つ。
「わからないな。ここには存在しないものなのだから」
関心なく己の影を追う。目で捉えようとすればするほど輪郭は曖昧になる。成長を望むことは義務だった。最早なにに対して義務を負っていたのかなど思い出せなくとも。
冷たく小さな手がするりと、大きな褐色の掌へとまわされた。アーチャーを一心に見上げる澄み切った赤い瞳。今日は何日だったろう。
『今日は始まりの日。ゼンマイは巻かれたばかり』
「あなたの彼は不在?」
「なに、そのうち戻るだろう。気にすることはない」
奥の廊下で、白色のお仕着せを身にまとったメイドが轟音に怯むことなく歩き去った。玄関ホールでは変わらず嵐が吹きすさぶっている。アーチャーとイリヤは共に、城の奥に向かおうとその場に背をむけた。
***
対人地雷が爆発した巨大な音と振動が遠くから響いた。城を震源地とした地震のような揺れがアーチャーとイリヤを襲う。
二人は三階の廊下にいた。互いに手をつないで目的もなく歩んでいる。前に伸びる通路を黒いコートを翻す男が駆けていった。つられてふらりと後を追う。二人に行くべき目的地はなかった。
形を変えながら床をすべり、あるいは宙に浮く水銀を引き連れて、金色の髪を持つ細身の男が二人を追い越し、廊下の突き当たりに獲物を追い詰めようとしていた。
距離を保つアーチャーたちの足元に、何十発も撃たれた弾丸の薬莢が転がってくる。そうして、水銀で己の身を守る魔術師に対し、衛宮切嗣は隠していた起源弾を放つのだ。その後放たれる魔術師の苦悶の声を、アーチャーは何度も聞いていた。
弾丸の雨の合間に、足元まで跳ね飛んできた薬莢をつま先でコツン、とイリヤが蹴飛ばした。水銀の上で痛みにのたうつ魔術師を足元に置き、手を下そうとする男をアーチャーはイリヤと眺めていた。彼は『イリヤ』の父であり、かつて己の養父だった男だと、以前に隣の少女が教えてくれた。
「かつての娘をみて、あなたはどう思うのだろう」
こぼれ落ちた言葉は、反応を求めて発せられたわけではなかった。ぎゅう、と小さな手が大きな手を握りしめる。衛宮切嗣は二人に視線を寄越すことも呼吸に躊躇いを含ませることもしない。起源弾を吐き出したばかりの銃口からは硝煙が立ち昇っている。
アーチャーの問いが宙に浮いたまま、時は進みやがて緑色の武装を纏ったランサーが現れ、主を引き連れて退却する。
「あなたはその答えを本当に欲しいと思う? それはあなたの願い? ……違うわね。きっと、彼にわたしが見えていてほしいと思っているだけ」
「そうかもな、おそらくそうなのだろう」
「見えてほしい?」
「やめてくれ、そこまで趣味が悪くなったおぼえはない」
アーチャーは少女の手を一度強く握り、そして放した。
「ではここで、『イリヤスフィール・フォン・アインツベルン』」
「ええ、よい一日を」
アーチャーは、魔術師たちが争っていた廊下の突き当たりを横目に流し見ながら、城の奥にある使用人専用階段の横を通り過ぎた。ガス燈に照らされた薄暗い階段に腰を下ろしていた女が、ぼんやりとした口調で問う。
「今日の天気はいかがでございましょう」
「きっと晴れているだろう」
「ああ、それはよかった。お喜びになりますでしょう……奥様がお喜びに……」
「そうだな。それはおそらく素晴らしいことだ」
女は己の傍らに置かれていた洗濯籠を引き寄せると、深々と安堵の息を吐いた。
「ああ、お邪魔して申し訳ございません……私は行きます、身体が動けばすぐに……」
「気にするな。誰の邪魔もしていない」
城の裏側に作られていてもなお数メートルの幅を持つ通路を進んでいくうちに、途切れ途切れの音楽が届きだす。壊れたレコードは、女が切なく歌い上げる同じフレーズを何度も繰り返している。……甘やかなシャボンが私をくるんでいる……覚えてしまった旋律が廊下で、アーチャーの脳内で幾度も鳴り響く。城の中心部に作られた音楽室の扉が全開にされているせいで、大音量の音楽が方々に響き渡っているのだ。
扉が開け放たれ音楽が満ちる部屋には入らず、手前のサロンに置かれた長椅子にアーチャーは腰かけ、力なく背もたれに身体を預けた。中にいる女もまたピアノの上に顔を伏せ壊れたレコード越しに誰かを想っているのだろう。いつもと変わらぬ姿勢のまま。
遠くの廊下で、厚い絨毯越しでもなお伝わる強さで床を苛立たし気に叩くステッキの音がした。アーチャーの脳裏に、厚い冬の外套を羽織った紳士が怒りをにじませながら姿を消す様子が浮かぶ。
一度腰を下ろすと、再び立ち上がる気力を生み出すことができなかった。時間だけが無為に巡っていく。メイドがどこからともなく姿をあらわし、汗をかくほど冷え切った水差しから新鮮な水をクリスタルのグラスに注いでアーチャーに近い机に置いた。彼女は礼を尽くして立ち去る。
微かに揺らぐ水を喉に流し込めば、身体の中に篭もり冷めることのない嫌な熱を下げてくれるだろう。だがグラスに手が伸ばされることはなく、注がれた水が温くなってもなお置き去りにされたままだった。
重く閉ざされた瞼の裏で、城を駆ける足音を捉える。冷えた空気の満ちる荒涼とした城を探り、扉を開けてはうろつき回る男の気配。その身に燃やす熱を遠くからでも感じることができる。奴はそのうちにアーチャーを発見するが、しかし端緒となる言葉に悩み珍しく躊躇いをみせるのだ。
「やあランサー、帰ってきたのか」
廊下の死角にいる男にアーチャーがかけた言葉は、一見親しい間柄で交わされる類いのものだったが、声に特別な感情はこもっていなかった。それどころかアーチャーの声は自分でも驚くほどに重く沈み切っていた。汗ばむ額を掌で擦る。
「なあアーチャー。おまえ」
姿を見せたランサーは言い淀んだまま、腕を組み壁に身を委ねた。
「おまえ外に出たことがあるか? この城の、森の……」
「森に出たことならばある」
「最果てまで行ったか? いや、最果てってなんだろうな。そんな大層なモノじゃなくていいんだが」
ランサーは顎に手をあて、困惑する様子も隠さずに考えこみながら問う。二人の間にふと沈黙が落ちる。
「……私が辿りつくことは、叶わなかったな。迷ったんだよ。行こうとしたが迷ってしまったんだ」
「おまえもか」
「ああ、そうだな。君もだろう」
ランサーはじっとアーチャーを見つめ、やがて視線を外して手をうなじに当てた。そのまま身を翻す。
「また出るのか?」
「城ん中、見てまわるわ。テメエと違ってオレにはここに関する知識が欠けていそうだからな」
「そうか。私は四階の、城の入り口側にある部屋にいる。用があればそこまでこい」
振り返ったランサーが、先程よりも鋭い視線でアーチャーを観察する。
「まだなにか?」
「――いや」
歯切れの悪い返事を残して、ランサーは去った。
途中で書斎に寄り、自室に持ち帰った書籍を無造作に机の上に重ねて、アーチャーは固い椅子に座っていた。一冊の本を開いたまま胸元に置き、目を閉じて天井を仰ぐ。部屋にあるベッドは綺麗にメイキングされた状態のままで、使用した跡は一切なかった。
開け放たれた窓から風が吹きこみ、本の頁の角がふわりと浮く。穏やかな冬の昼の空気が城をくるんでいた。
けれど平穏の隙間にそっと血の匂いが入り混じる。生臭い海魔が森の地面を這いずりだした。森の入り口で発生した強烈な鉄まじりの臭気が城を支配する。
アーチャーは閉ざした目の上に手の甲をあて暗闇に沈む。 知っていた。城から弾丸のように飛び出していく騎士王を。怪物たちを操るキャスターは誇り高く彼女に告げるのだ「ようこそジャンヌ」。
アーチャーは知っていた。危機から逃れようと裏口から外に出ていくであろう女性たちを。そして繰り広げられた銃撃戦――先程繰り広げられていた光景だ。時間の軸はちぐはぐに入り乱れている。
『時は意味をもたない。ここで時を正確に刻むのはただひとり』
ああそれがルールだ。己に囁きかける存在に、アーチャーは皮肉な笑みを返す。
『変わることがないものをルールと呼べるのかしら』
周囲に漂う血の匂いは一層濃くなった。子供たちの甲高い悲鳴が混じる。恐怖に怯え劈くような悲鳴が一帯を裂いた。
アーチャーは椅子に身体を預けたまま両手を耳にあてて数秒間己のうちに閉じこもってから、ぎこちのない動きで両腕を支えに椅子から立ち上がろうとした。歯を食いしばりながら体重を床に下ろした足にかける。部屋のドアをあけよろめきながら出た先の廊下で、黒髪を清潔に切り揃えた女性が緊張を隠せぬ面持ちで歩み去った。
城は忙しなく動いている。子供が助けを求める絶叫に呼び寄せられるようにアーチャーは階段を飛び降り、広間を抜け開け放たれていた城門をくぐった。乾いた土を踏み木々の間をすり抜けるように駆ける。
だが一キロメートルほど進んだ時点で、繰り広げられていた光景は急速に静まり、血肉の沼が広がり穢れた戦場と化していた森には、柔らかな花の匂いと木々の青い香りだけが残された。
行き場のなくなった衝動を抱えたまま力なく地表を見つめ、城へと引き返す。足は重く、のろのろと歩むことしかできなかった。こらえきれず傍らに立つ巨木に手をあて深呼吸すると、ささくれ立つ木の表面が手の皮膚を刺した。 外に出たところで打つ手がないことなど自分が一番よく知っている。キャスターを制圧することができるのはかつての王とかつての騎士だけだ。
城へと延びる道の終わりで、アーチャーは男を見つけた。一際大きく育ったオニグルミの樹の下に寝ころぶランサー。腕を頭のうしろにまわして枕とし、横たわったまま両足を器用に組んでいる。奴は既に森から帰還したアーチャーに気づいているであろうし、本当に眠っているわけでもない。鈍く差す冬の日の下で不可解な現状について思いを巡らせているだけだ。
それでもアーチャーは抗いきれぬ衝動に駆られ、躊躇いなく近寄ってランサーの脇にかがみ込み、閉じた口元へ手をかざした。唐突に距離をつめたアーチャーに対するランサーの動揺が、乱れて掌にぶつかる息にありありと表れている。繰り返される息によって示される生命の存在にアーチャーは安堵し、怖れではち切れそうになっていた胸を撫で下ろした。
***
悟られないように息を整えたランサーは、瞼を閉じたまま静かにアーチャーの手首を掴む。
「なあ、おまえいやに疲れた顔してんな」
「――私を見もしていないくせに、よく言う」
わずかにのぞいたアーチャーの拗ねに、ランサーは小さく驚き目を開いて掴んでいた手首に思わず強い力を込めた。その振る舞いに頓着せず、アーチャーは空いたもう一方の手で己が手首を掴む手を外し、なにもなかったかのように首を振って、よく眠れていなくてね、とぼんやりとした口調で弁明した。この地の異常のせいだ、と呟く。
「あぁそういえばランサー、知っているか? アインツベルンは虎を飼っているんだ」
「へぇ。珍しいモンがいるんだな。……どこに?」
「城の外れにある廃墟で、虎を飼っているんだ。気になるか?」
興味をそそられたらしいランサーは促されるままに立ち上がり、指差された先へひとりで歩き出す。一見しただけでは見落としてしまいそうな、踏み固められただけの細い道は、城の脇までせりだしている森の更に奥へと歩む者を導こうとしていた。
城に遮られることによって己の姿が隠される場所まで到達したランサーは、一度アーチャーがいる方角を振り返り、訝し気な表情をあからさまに浮かべてみせた。
崩れかけた低い石塀沿いに、歩を進めた。深く茂る木々をかきわけながら、ランサーは己の深い部分で考えを巡らせる。
余りにも考え事に集中していたせいか、我に返ったときには道の終わりが見え始めていた。城の裏手にも、植物に浸食されていない、表の広場のような開けた場所が存在していた。そして城壁の内部から外に伸びている道の先には、石造りの背の高い建物がひっそりと佇んでいる。城壁との間には背の高い木々が生い茂り、城の内部からは死角となっているだろうと思われた。
「なんだ、礼拝堂まであんのか。……まあでも普通あんな建物で虎は飼わねえな」
それに廃墟と言っていた。目的地を通り過ぎたかこりゃ、と辿ってきた獣道を戻り始めたところで不意に、首筋にちりちりとした違和感が生じ、ランサーは思わず鋭い屋根が天を指す神の家を振り返った。ざわざわと風が木々を揺らす。
ランサーはその場にしばしとどまり、天を指す建物から目を離さなかった。
***
森で栄える濃淡の緑が穏やかな風にそよぐ。アーチャーは先程までのランサーのように、周囲より一層大きく育った大樹の陰で休んでいた。離れた場所で、誰かが城を訪れる。エミヤシロウの足音だ。アーチャーの瞼は重たくて仕方がないのに、頭は冴えきっていた。常に冷めることのない熱を発しながら身体と脳は動き続けている。
ぎい、と上階の窓が内から外へ開かれる。少女は窓枠に肘をついて虚空に話しかける。アーチャーに聞こえていると知りながら。
「今回も星は降るかしら」
「降るのだろうな。君はあれが余程気に入ったとみえる」
寂しさを滲ませた上品な笑い声がそよぐ風に乗る。
「わたしはあれが好きなのね、多分。ええ、好きなんでしょう。あなたはきらい?」
「もうなにも感じない」
「かなしいひとね」
少女はそう言い残すと、客人を迎えるために部屋の奥へ取って返した。
***
「おいアーチャー、なにもなかったぞ。なにも居ねえただのボロ家しかねえじゃねえか」
ランサーは大樹が影を落とす地面に寝ころぶ男に不平をぶつけながら周囲を見渡した。城の前の広場にはアーチャーの姿だけがあった。先程と逆転した二人の位置、そしてアーチャーもまたランサーがそうしていたように、眠りに落ちず神経を張りつめさせている。城の窓は全てが固く閉ざされ、ぬるい空気が宙でとぐろを巻いていた。
――その木の下は居心地がよさそうだな。よさそうなんだから、もう少し楽な姿勢になれよ。その眉間の皺をどうにかしろ。
互いの関係に不釣り合いな、距離の近すぎる台詞がランサーの胸中に浮かぶ。どこから生じたのか判別のできない台詞に戸惑ううちに、かけようとした言葉は儚くはじけて霧散した。
いいようのない困惑を抱えたままアーチャーに近づき、無造作に皺が刻まれた眉間を親指でぐい、と押してみる。柔らかな皮膚の感触を、ランサーは全身で受け止めた。
神経質な溜め息を吐いたアーチャーは、邪魔くさそうに己に触れる手を払いのける。その勢いのまま二人の指は器用に絡み、深くつながって地に落ちた。互いの手が違和感なく重なっている。その事実に、二人の馴染み加減に、なにか重大な齟齬が生じているのではないかとランサーは眉をひそめた。
アーチャーにつられるようにランサーもまた言葉なく乾いた大地に横たわり、鈍い色の雲に覆われた大空へ己が胸を開け放す。正面から空を抱きながら、つながった互いの手を起点として生ずる体温を、妙に安らいだ気持ちで感じていた。
***
アインツベルンの城は、城壁に囲まれた四角の土地に建ち、四隅に塔を擁している。外からは不可視の奥まった場所に中庭があり、また四階のフロアの中心部には緑が植えられた空中庭園が整備され、外側をより高さのある棟が周囲を囲む設計になっている。奥の中庭の上には、塔と塔を結ぶ回廊が渡してある。
城のなかは豪奢な作りをしているが、侵入者への警戒と強制排除を目的とした仕掛け以外には魔術の要素が慎重に取り除かれていた。アインツベルンの魔術の神髄は、四隅に建つ塔の内部に築かれた魔術工房へ慎重に隠匿されている。
アーチャーは一階の中庭に敷かれた石畳の上を歩いていた。木々が茂り、目立たぬ色の花々が慎ましく咲く中庭の地面の下には、ランサーが目覚めた地下牢が位置している。
アーチャーは道なりに進み、城壁に設えられた小さな裏門を抜け、鬱蒼とした森が広がりはじめる土地の端に建てられた礼拝堂を目指していた。
日に焼けた石畳に従って、石造りの暗い灰色をした、三階の建物ほどの高さがある――実際には一階建ての――信仰の家の扉に手をかけた。木製の扉をあければ厳かな空間に流れる冷涼な空気の歓迎を受ける。しかし敏感な鼻ならば同時に、少しの埃臭さとじめりとした湿気を感じ取るだろう。
アーチャーは迷いなく、礼拝堂の横壁に嵌めこまれたひとつのステンドグラスの下に立ち、色鮮やかに描かれた女性たちに見入った。
礼拝堂は作りこそ丈夫だが、複雑な設計はされていない。祈るための空間と、ここで生活する者のための小部屋だけで出来ている。採光の加減か、なぜか礼拝堂の奥には光が十分に届かない。高い位置から差し込む日光は祈るひとびとを照らす反面、祭壇の周辺を深い闇の中へ押しやっていた。
闇が孕み、生み出した影がぞわりと蠢き、輪郭も曖昧な姿を作りだす。
白色のドレスをまとった純白の女性は、硝子板の中で数名の男と幾人ものホムンクルスに崇められている。彼女が伸ばした手から赤色の光が放たれ、その中心で輝く金色の杯。その絵を一心に見つめるアーチャーが物珍しいのか、影はこらえきれぬ笑いをこぼす。嘲笑ではなく、ただ珍しさを押し殺せないだけらしい。祭壇を支配する闇に半ば溶け込みながら厚い聖典をぱらぱらとめくり、机に肘をついている。
アーチャーの視界には、白銀の髪を流した女性が湛える微笑みがひろがっていた。愛を伝え、救いの手を差し伸べ――アインツベルンの末裔に悲願への道を教えようとする。
「告解が必要か? それとも主の言葉を求めるか? 望むのならば説き、赦そう、祈ろう、祝福しよう。主は常に私たちと共にある」
誠実な内容とは裏腹に、からかいが混じった口調で放たれる言葉。
「ならば貴様は異端だな。ここを作った人間は明確に魔術師を讃えているのだから」
「さて」
からかいは確かに混じっているが、影の発言について穿った見方をする必要はないだろうとアーチャーは考えていた。アーチャーが本当に望むのならば、影は告解を受け入れる用意があるのかもしれなかった。この地で望まれる「叶えられるべき願い」とは関係なく、ただ影の自由な意思のみを理由として。
「私は彼女に会いにきただけだ。そして残念ながら、私は私の上にいかなる存在も置いていない」
ふむ、と影は意外そうに手の指を組んだ。
「私と君は、そしてホムンクルスたちもまた、それぞれが同じ存在に仕えている訳ではないだろうが」
アーチャーは冷酷と呼べそうなほど冷え切った視線をちらりと向ける。
「君の上になにもないということはなさそうだ。或いは、なかったとも言えないだろう」
そう述べた影はわずかな沈黙のあと、アーチャーに興味を失くしたのか、崩れ落ちるように姿を消した。かき消えたあとに一握の砂が残り、それらもやがて虚空のなかに吸い込まれていく。
心を乱す存在がいなくなったアーチャーは、再びステンドグラスを仰いだ。聖女は冠と衣を与えられた姿で人々の上に立ち、礼拝堂の片隅で穏やかに微笑み続けていた。
***
ランサーは脳内に、城の全てを網羅した図面を作成しようと、地下から順に城の構造を確かめていた。独立して地下に埋め込まれている牢獄、城の半地下にあるランドリールームと使用人用の食堂、幾名ものコックが働いていたであろう広々として設備の充実した厨房。
とある一角で発見した異国の煙草と燐寸を手にして――一階の城門、通路、玄関ホールにサロンと巡る。歩けど歩けど廊下に終わりはなく、同じ色の壁と、あるときは長方形の、あるときは優雅な曲線を描く木製の扉が現れては過ぎ去る。サーヴァントの身体であっても、この広さの城を隅々まで把握するには骨が折れるな、とランサーは感じていた。
冬場に夫人が闊歩するロングギャラリーは複数設えられ、ギャラリーによって趣向の異なる芸術品が並べられていた。二階の大食堂と食堂、ビリヤードルームからバルコニーに行きつき、これがまだ六階まで続くのかよと休憩を兼ねて足を止めた。
三階に数多く置かれた客室を全て見て回ることは後に回し、中心部に寄せて作られた図書室に音楽室、談話室とギャラリーの位置を頭に叩き込んで、城の正門側の通路に出てから、近くにある幅の広い階段に足をかけた。そのまま四階まで駆けあがる。
こうも魔術を排除した造りをしているのならば。
ランサーにもわずかな「アインツベルン」に関する知識は残っている。彼らは由緒正しい魔術師の一族だ。従って彼らが築く陣地には幾重もの魔術によって防御機構が敷かれ、本来であれば城そのものが魔術工房として使用されているであろう。
しかし城を巡っても目立った魔術式や使い魔の類は発見できない。魔術に関する資料や素材、道具に至ってもなお存在を確認できない。ならば魔術に関する事柄は慎重に腑分けされたうえで隔離されているのであり、城の四隅に立つ塔が工房として機能しているのではないのだろうか、と予測していた。塔への入り口が容易に発見できないことも、その考えに拍車をかけていた。
軽い足取りで四階の廊下に飛び乗り、廊下を進む。左手に、魔力の残滓が流れ出ている一室があった。固く閉ざされた扉の横を通り過ぎながら、ここがあの弓兵のねぐら、と脳内の地図に書き加える。
来客を導く通路に従い、城の中心部でT字型に交差している廊下まで出る。一面に広がっている壁には巨大な窓が並び、燦々と日が差し込む回廊となって中心にある緑を取り囲んでいた。
なんだ空中庭園があるのかと気が付いたランサーは、そこで思わず足を止めた。
傍らに置かれていた長椅子でうたた寝をしていたアイリスフィールが来客に気づき、ふぁ、と小さく上品な欠伸をする。可愛らしくのびをして、細く長い白銀の髪をゆったりとかき上げた。いつのまにか傍にいたランサーの視線を追い、同じ方向をむいて寂しげに微笑む。
「ここから出られないのね。彼も、あの子も。あの人も。ここから、でられないのね」
冬の日は急速に傾きつつあった。
「また問答が始まるわ。ほら、チャリオットの音が聞こえない? ……いえ、あれはもう過ぎたのかしら」
音もなく立ち上がったアイリスフィールは、冷え切った柱を細い指でやさしく撫でる。
「ねえ槍兵さん、眠らせてあげればいいのよ。簡単なこと、彼を眠らせてあげればいいの」
「――リ、――アイリ」
「あらあら、あの人ったら。お構いできなくてごめんなさい、失礼するわ。あの人に呼ばれているから……」
ランサーは立ち去るアイリスフィールを気にもとめず、質の悪いモノに憑りつかれた哀れな人間の形相のまま、その場に立ち尽くしていた。やがて王たちの饗宴が始まる空中庭園に打ちのめされ、その場から一歩たりとも動くことができずにいた。
***
金星が鋭い光を身にまとい己の存在を主張している、紺色の空が窓の外に広がっていた。石造りの城の一画では、暖かな蒸気と肉が焼ける香ばしい香りが漂い始めている。イリヤは足早に絨毯の上を横切ろうとして、柱の陰にいたアーチャーに気づき足を止めた。弓兵もまた緩やかに頭を傾け微笑む。
「いい匂いがするな、イリヤスフィール。幸福を香りにしてみろと命ぜられたなら、この香りを瓶詰にして差し出したくなるほど」
イリヤもまた男に微笑みを返し、上品な同意の表情を形作る。
「ええ、今日は飛び切りのご馳走を振る舞う日だったから。きっと喜んでもらえると、わたしたちは張り切るの」
廊下に佇む少女は、首を大きく反らして弓兵を見上げる。
「あなたにもディナーをご用意しましょうか」
「気遣いは不要だ。私のことは気にするな」
イリヤは下げた眉に寂しさをちらりとのぞかせたが、それを上手く覆い隠して、呆れた様子で肩をすくめた。
「頑固な主ね。わたしの記憶にもここまでの頑固者はそうそういないわ。ええ、いないとは言わないけれど」
「客でしかない。主ではない」
「ならばこう言いましょう。主として振る舞ってくれない、客らしくない客」
ふ、とアーチャーは気が抜けたように笑ってみせた。手で目元を擦り、そうかもしれないな、と目を隠したまま小さく呟く。
「ひとつ、頼みごとをしてもいいだろうか?」
「どうぞ。それこそわたしが待ち望むもの」
「今夜塔のひとつをお借りしても構わないかな?」
赤い瞳の濡れた表面が、ガス燈の黄ばんだ灯りを反射させる。
「飽きないひとね。断りなど今更いいのに」
「私は客でいたいんだ、主ではなく」
イリヤは一歩足をひき、濃い影を背負いながら膝を軽く折った。
「では、わたしは二人の世話をしなければならないから失礼するわ。どうぞ、なにもかも、望むがままに」
「かたじけない。あと、私が言う筋合いのものでもないだろうが、どうかよろしくと、彼女に。……暇ならば、奴にもついでに」
ふふ、と含み笑いをその場に残し、小柄な少女は去った。
アーチャーの背後にある少し離れた通路から、透き通った甲高い音が小さく響いた。戸惑いのあまり思わず立ててしまった足音そのもの。その音が一切聞こえていないふりをして、アーチャーは足音とは反対方向に歩みだした。正門の右側にそびえ、魔術工房を内部に隠匿する塔を目指して。
常に背筋を正し几帳面な仕草で振る舞う老人は、通常であれば十分な貫禄を備え、周囲の人々に威圧感さえ与えていたであろう。しかし今の彼はうらぶれた様子で背を丸め、壁に隠された魔術工房の隠し扉から、緩慢に弱々しくステッキをついて姿を現した。
「……また、駄目だったとは」
呻くように絞り出された嘆息がかき消える。神経質に髭を扱きながら立ち去る老人と入れ替わりに、アーチャーは塔へするりと身を滑りこませた。
重い扉に刻み込まれた、アーチャーとは相性の悪い魔術式を指でなぞり、魔力を垂らして入り口を固く閉ざす。先にある小さく古びた閂付きの木製の扉をあけ、石を積んで作られた螺旋階段をのぼる。
厚い壁をくり貫いて作られた小さな窓は全て内側から塞がれ、時折現れる小さな燭台の灯りが狭いステップを、上る者を惑わせるように照らしていた。蝋燭はアーチャーの気配を察知して順々に炎を灯していく。
足元をかろうじて照らすささやかな火しか許されない、暗闇に沈み空気の澱んだ工房の壁際を円を描きながら通り過ぎ、六階に到達したところで現れる朽ちた扉を押し開けた。
露台に躍り出た身体を森の大気が優しく包み込む。まるで地底を彷徨うかのような深い闇をくぐり抜けた眼にとって、紺色の空に輝く星々は夏の太陽以上に眩しく、くっきりと形を持つ存在だった。アーチャーは汗ばむ皮膚を夜風で冷ましながら、手摺りを足場として、重い躰を半ば引きずって眼下に広がる瓦屋根に飛び降りた。
星々が明るい月のない夜に、少年少女の夢をかなえる舞台として城が回り始める。城のランプはひとつ残らず灯され、少年少女の正装を揃え、メイドたちは厨房の窯の火を絶やさぬよう薪をくべる。
もう彼らは大階段で顔を合わせただろうか。今宵彼らは華々しく着飾り、少しの戸惑いと緊張と共に手を重ね、ぎこちのないエスコートで、足取りで、和やかに肩を寄せ合い、城の主と賑やかな食卓を囲んでいるのだろう。
アーチャーは目を閉じて、現実で繰り広げられる一夜の夢に思いを馳せ、慣れない手つきで白銀製の花弁を投影した。包む手の皮膚を切り裂く鋭利な縁を持った花弁が、幾枚も終わりなくアーチャーの世界から零れ出る。アーチャーは両腕から溢れてしまいそうな花々を愛おしそうに抱き、ためらいなく幾億もの星が瞬く夜空へ舞い散らせた。
白銀の表面はちらちらと地上の遠い光を反射させる。何度も何度も同じ動作を繰り返す。手に傷を負い、その身を切り裂かれてもなおアーチャーは、霞む目で夜空を見上げ、尽きぬ祝福と共に金属の花を散らし続けた。
――私は祝福しているのだ。少年のためにでは決してなく、ただ幸せを掴んだ少女のために。
ぐらりと天地を失くした身体が傾ぐ。ああ彼が私を探していると、とりとめのない思考のひとつが教える。彼が私を探している。荒々しい足音は、塔の入り口がどこにも見当たらないことに苛立っている。焦れたのか彼は城の階段を飛び跳ねるように駆けあがり、途中で回廊から屋根へ身軽によじ登ってみせる。瓦を踏み砕かんばかりに力強く飛び跳ねては、高みにいる私を目指す。
傾いだアーチャーの身体は地上目がけて落下しようとした。それでもなお花弁を散らす両手は宙に伸ばされている。屋根の上で飛び跳ねた勢いを利用しアーチャーの胴体を両腕で抱えてみせたランサーは、不安定な姿勢でどうにか安定した場に二つの身体を担ぎ上げようと、意味もなく奮闘していた。
霞む景色の中心にいる青色の戦士に、唇の端を吊り上げてみせた。心底馬鹿にした口調で、アーチャーは吐き捨てる。
「落ちたところでこの身は死なん。死んでなどくれない」
汗で滑る手を用いてなんとか赤色の武装を強く掴もうとする怒れる槍兵は、腹立たしさを一切隠さない乱暴な口ぶりで応えた。
「死なねえことと落ちねえことは違えんだよ。んなことも分からねえのか」
アーチャーは己の身を支える白い手を力の加減なく掴み、無理矢理に振りほどくと、五階部分の屋根から転がり落ち宙に身を躍らせた。ランサーの詰問が上から降り注ぐ、アーチャーを裁かんとする憤りを迸らせて。
テメエ、なにを隠していやがる。その性根、心底気に食わねえ――。
地に落ちる瞬きほどの時間に、少女の言葉を思い出す。 そのうちに星が降るわ。ねえ、ええそう。なにごとも、終わり時を見失ってからその存在に気付くのね。もう過ぎたと知るのよ。終わらせられるものと、終わりを許されないもの。――わたしは行くわ、『イリヤ』はこの城の主なのだから。
そう、炉心の消滅はきっと安定をもたらすでしょう。けれどわたしはあなたに。
重い音を響かせて勢いよく、草が茂る大地に叩きつけられる。城の灯りが周囲を照らし、暗闇のなかの木立は天の星をその先端で指し示す。柔らかく温かな女の香りが鼻先を擽る。
白色の長髪を靡かせた女が倒れるアーチャーの傍らに屈みこんでいた。俯きながら、細く長い指ですべり落ちる髪を耳にかき上げる。
――星の降る日。一筋の尾をひく光が始まりの合図。
幸福であったエミヤシロウ。一夜の夢ではにかむ彼は、別の時に己が未来と矛を交える。ホールで戦っているのだ、過去が現実となり過去は過去と重なる。彼は己が身を刃に変え、己が理想が潰えた姿を否定せんと血を流しながら両足で立つ。
「共に踊ってはいただけないだろうか、レディ」
精根尽き果てた細い声に対して、女は心底嬉しそうに「光栄だわ」と顔を綻ばせ、土に汚れるアーチャーを支えるために手を添わせた。
土埃にまみれながら、鉄のように重く強張る身体を起こし姿勢を正したアーチャーは、礼儀正しく女性へ手を差し伸べた。
互いに深く腕を組み、遠くから運ばれる音楽を感じながら足を運ぶ。同調する息と迷いのないステップ、二つの身体は共に廻り地を蹴り、アーチャーの赤く汚れた外套と一点の染みもない純白のスカートが風に吹かれ宙を舞う。いつしか彼らは裸足となり、地を踏んで子供に帰ったかのように無心に踊る。大きく円の軌道を描きながら二人回転し、互いの目線を合わせた。
秘密を囁くように女はアーチャーの耳元へ口を寄せる。
「眠ればいいのよ、弓兵さん。思い悩む必要なんてないわ」
血に汚れた手でしなやかな手を取り、細い腰を支えながら囁き返す。君の忠告は有り難いが、私には不要だ。ああ、君はアイリ? それともイリヤ? ユスティーツァ?
アーチャーは女をリードし、流れるように二つの身体を放してから再び合流する。
すべてわたし、わたしは彼女、彼女はわたし。
「礼拝堂のステンドグラスに描かれた君は美しかった」
穏やかに笑んだ女は徐々にステップを踏む速度を落とし、やがてアーチャーをそっと突き放して、距離を保ったまま動きを止めた。
「だが眠れと告げるのはおそらく、君の役目ではない」
星が落ちる。
星の尾が一筋、二筋と、闇が厚く塗り込められた空に白色の線を描き始めた。曲面に沿って流れる幾筋もの線が空を覆う。城に火が放たれる、輝かしい日々を覆い隠すために。
けれどこの火は彼の火だ、神がもたらす火をどうして非難できよう。半神の火もかつての日々と同等にまた尊いのだ――過去が過去と戦う。アーチャーとエミヤシロウが対峙する空間をルーンの火が包む。
星もまた青白い炎をその身にまとわせ地上を目指す。幾筋もの弾道が唸りをあげアインツベルンの城に向けて降り注ぎ無秩序に破壊する。轟音と共に城の屋根は突き破られ、硝子を砕き壁をえぐり、城は震え地には次々に穴が空く。かつての城の一部が炎と煙をあげ地中に没する、瓦礫となり積みあがる。
叩きつけるように襲う星々、空気が引き裂かれるなかアーチャーはひとり踊る。炎の海だ、君の炎と星々の炎が混じり灼熱の海を作り出す。
破壊的な星の弾道を躱しながらアーチャーは苦しさに喘ぎ腕を伸ばし、裸足で小さく土を削り、たたかうように痛みをうちつけるようにランサーの炎と遊び戯れる。燃える星が地表に、城に、木々にぶつかり破片が舞う。崩れた城壁が四方に飛び散る。跳ねとんだ一片が、舞い翻るアーチャーの外套を深々と切り裂いた。
女は言う。「痛みを感じる」痛みすらもう感じない。踊る、踊る、星降るなか。世界が消し去られるこの時に、君のことだけを想っている。「苦しそうに見える」苦しさなどとうに縁を切った、けれどそうかもしれない。息の仕方など疾うに忘れた。「血を流してみえる」それはかつての君だ。
踊る、目の前の手に縋りつき。踊る、両手に重い剣を持ち。世界と同じリズムで鼓動を鳴らし大地を踏み、巡る大空を抱えるように限界まで両手をひろげ――最後、彼に手を伸ばそう。
アーチャーに残されたただ一つの枷。アーチャーが抱くただ一つの愛。
「今度は君が手を取ってくれるのか? ランサー」
尾を引き連れ閉ざされた空を駆ける星々はただひとり、ランサーを破壊することだけが叶わない。
いつの間にか地に降り立ち、仁王立ちになったランサーは己の感情を押し殺して問う。
「申し開きを聞こうかアーチャー、存分に。……誰もいねえ城でなにを遊んでやがる。なにと喋ってやがる、随分タチの悪い。それに――庭園の剣の山はなんだ」
ランサーの尖った声が、容赦のない言葉が、露わな不信がアーチャーの心を貫く。
「聞こえるか、ランサー?」
「なにがだ」
「ゼンマイの音が。ゼンマイが緩み切る音だ。終わりが近い」
機械的に笑ってみせたアーチャーに対し、ケルトの戦士は抱いている不愉快さを隠さなかった。その胡散臭えツラをいい加減やめねえかと這いずる低音が言う。
徹底的に破壊され尽くし、煙と砂塵をあげる瓦礫の前でぼろぼろの身体を抱え立ち尽くしていた。ぜんまいは緩み、閉ざされた庭園は終焉を迎える。
痛みはない、痛みなどあってはならない。自分が選んだのだ、弱音など決して吐かない。だがひとたび口を開けばこぼれ落ちてしまいそうだと歯を食いしばる。
苦しい、ランサー。
見えない傷から血を流し続けている。可笑しなことだ。苦しい、圧迫されている。背骨ごとぎりぎりと締め上げられている。ああそうだ、君を好いてしまったが故に、君を諦めるしかなかったが故に。
自分は確かに願い、君を選び、そして囚われ――どこまでも苦しみぬいている。
なにもかもなかった事にされるこの地、ぜんまいが緩んでは巻きなおされるこの不条理な地で。
地表で燻る火がすっと消失し、かろうじて形を残していたランプの灯りも消える。静寂に支配された空間で、修羅の顔をしていたランサーはふと糸が切れたかのように力を失い、どさりと倒れ地に伏した。
照らす光も火が爆ぜる音も木々が焼ける匂いもなくなり、ただアーチャーの脳内で、星が空気を裂く高音が終わりなく鳴り響いている。
人形たちは皆倒れ、来るべき時を待っている。その時がまた訪れてくれるのかも知らないままに。
そして焼け跡をじっと観察したあとに、何者かはようやく巻き鍵を差し込むのだろう。
アーチャーはランサーの足元まで近寄り、跪いて両手で抱える。まだ仄かな体温が残っている身体は、青い武装越しにアーチャーの掌へぬくもりを伝える。
アーチャーは初めて他人と唇を触れ合わせた、今はもう思い出せない過去を再現するかのように、不器用に唇を近づける。
口づけよう、ランサー。この終わらぬ過去をまた繰り返すために。乾いた唇をあわせ、私は私の肺に残る生命の息吹の名残を君に送り込む。
息を吹き込んだ瞬間、全身の毛が逆立ち寒気が漣となって身体を駆け巡る。ランサーの身体は抱く者に悲しみをもたらすほどに冷え切り、やがて抱えた腕の上でほろほろと崩れ去っていく。消えたランサーの重みだけがアーチャーに残される。
両手を拳にして大地に押し付ける。君を愛していられるのならば、つらいなどと絶対に口にしない。
幻影が走り出す。人々の暮らしと戦いを逆巻き、始まりの時に戻す。
『行こう、バーサーカー。いい、おにいちゃんに会いに行くの――』
声だけが通り過ぎた。駆け巡る過去の中にひとり蹲る。両手で顔を覆う間にぜんまいはきりきりと巻きなおされていく。庭園は過去の栄光を思い出し、崩れた城は元の姿を取り戻す。星がぶつかり捻じ曲がっていた窓枠は、規則正しく整列する。消された燈が再び点り、城に人々の活気が満ちる。城の主人は頑丈な城の入り口を開放して優雅に腰を折った。
アインツベルンの娘は凛として、己が主となる客を迎え入れる。
「アインツベルンの城へ、ようこそおいでくださいました。
ここは願いの叶う庭園。あなたを手厚くもてなしましょう」
世界は始まりの形に嵌まった。カチリと音を立て。
アーチャーは邪魔な身体を引きずり、這いずるようにして階段を上る。ただ己に課した義務だけのために四階を目指していた。廊下を遅々とした速度で進んだ果てに、城の中心部に辿りつく。
回廊に囲まれ緑が豊かに茂っていた空中庭園には、夥しい数の剣が山となって突き刺さっている。最早人間には数え切ることのできぬ本数の剣たちが、土の起伏に沿い曲線を描く。細長い金属は闇の中でぬめる光を反射させていた。グロテスクな光景のなかに身を投じ、林立した剣をかきわけてアーチャーは「印」を求めた。すれ違う刃に少しずつ身を切り裂かれながら。
奥にわずかに残された、なにもない地面の前に立つとアーチャーは銘のない簡素な剣を投影し、悲鳴を上げる全身の筋肉に力を込め、全力を振るい土の上に刃を突き立てた。
ごつりと地中の石にぶつかりながら飲み込まれていく鋼。上下の奥歯がゴリゴリと鳴る。強く噛み締めた歯列の奥から、獣そのものの唸り声が漏れ出す。
月光によって血にまみれたように光る幾本もの剣に囲まれながら、身体を限界まで仰け反らせアーチャーは虚空にむかって咆哮した。
なにを失くしても君を愛す、私は君を愛している、たとえ想いを告げることを諦めてもなお熱は治まる気配さえみせない。さあ繰り返そう、終わりのない夢を。さあ行こう地下牢へ、何もかも忘れたランサーを再び迎えるために。
アーチャーは鍛え抜かれた広い背を真っ直ぐに伸ばし、堂々と外套を翻す。迷いは微塵もない。アーチャーはただ、記憶を失っては目覚めを繰り返す男だけを支えとして生きている。
この地の終わりを、見つけられぬまま。
