fate(槍弓)


 序

 パイプの外側に付着していた水滴が、重みに負け一滴落ちた。黴のにおいが染みついている石床は冷たく、固い。ずっと横たわっていると肉体が負けてしまいそうになる。ぐずぐずと、溶けていくように。
 再び水滴が落ちる音がした。どこかで水が漏れているのかもしれない。カカカ、と鼠か家屋に棲みつく小動物かが足音を響かせて水路の片隅を走り抜けていった。じとりと肌を濡らす湿気の合間に、嗅ぎなれた匂いがふわりと漂う。暗闇のなかでもわかるその気配は、ふっと近づいたかと思えば、口元への軽い接触だけで去っていく。

 しんと静まる空間に身を横たえていた。気づけば指先を動かすことができた。右の手が当たっている石造りの床はじっとりと湿っている。不快感に顔をしかめながら、力を込めてみると動いた左手で強張った瞼を擦る。頭が重くて思考できない。もどかしさに苛立ってぶん、と頭を振れば長い髪が水滴を撒き散らした。
「あぁ、くそっ……」
血液がしばらく流れていなかったのではないかと、疑いを抱くほど強張っている身体を両手で支え、ぎこちなく上半身を起こした。冷えた空気が流れている。黴の臭い、排水の臭い、そしてどこかから侵入している新鮮な木々の青く甘やかな匂い。

 ここはどこだ。オレはなにをしている。

 深々と吐いた息は白く、けれどすぐに冷えて透明になった。眠っていたとは到底思えない、爽快感とは無縁の目覚めだった。膝を立てて座り目線だけで周囲を探る。ランサーを囲んでいる石の壁は黒く、へばりついた水滴によってぬらりと光を反射していた。床も同様だった。三方が壁、そして残された一面は――どうみても檻を構成する鉄格子だ。左下には人がひとりくぐれるだけの格子入りの枠が存在している。他に出入り口はない。
 牢屋か。
 自分は誰かに拘束され、投獄でもされたのだろうか。ゆるく首を振っても「これまで」を思い出すことはできなかった。奥歯を噛み締め目を固く閉じ、強く過去を捕まえようとしても脳内にはなにも残っておらず、空白だけがあった。
 虚無から掬えるものは虚無だけだ。ランサーにはいま、幾つかの戦いと己の生前についての記憶以外に、残っているものがなにもない。
 薄く目を開く。ならば他の奴に訊くほかない。自分にないものを持っているかもしれない、現状を認識しているいけすかねえ別の奴に。
「――そうして君は言うんだ、なにがあった、とな」
 腕を組んで牢屋の壁にもたれかかっていた男の顔は、光が足りないせいで窺うことができなかった。だが僅かな光も潤沢な闇も、男からにじみ出る疲れを覆い隠すことはできないらしい。
「オレはなにをした、でもいい。それともどこだここは、でも。好きなように問いたまえよ。だがオレになにをした、は止めてくれ。それはとんだ濡れ衣だ」
「……口だけはよく回る奴の言い分ほど信じられんものはねえな」
かわいた喉から出た声は掠れていた。
「ならば私は沈黙しよう。ああそうだ。ひとつ、これを言うのをどうか許してくれ。『また君の顔だ、飽きもせず。私たちは何度顔をあわせれば気が済むのだろう』」
「こっちの台詞だそれは。で?」
 赤い外套を身にまとった男が鼻先で笑う気配がする。だがその仕草は精彩を欠いていた。男から伝わるのは積もり続けた疲れだ。あいつは心底、そう、己よりも強大な敵を倒したあとか、久しく睡眠から遠ざかっているときのように疲労しきっていることが伝わってくる。
「いい知らせをやろう。それとも先ほど言った通り沈黙していた方がいいかね」
「いいか、オレはまどろっこしいことが何よりも嫌いなんだ」
 はっ、と笑う男は、投げやりな調子で腕を組みなおした。金属の靴が床を蹴って高い音を響かせる。
「君は拘束などされていない。本当か、と思うならばそこの扉を押してみればいい。鍵はかかっていないからな」
 意識せず視線が鉄格子と陰る赤い外套の男の間を何度も往復した。半ば疑いを抱きながらも所々に水がたまっている床から腰を上げ、身体をほぐすために一度大きく背を伸ばしたあと鉄格子まで歩み寄った。
 出入り口として区切られている一部分を軽く手で押してみると、その箇所はギィ、と長く油の差されていない耳障りな金属音を立てながら外に向けて開いた。
「……どういうことだ?」
「まあ、こんなところで話すこともなかろう。外へ出たまえ」
 ランサーは言われた通りに牢獄が面している通路へと歩み出た。先程までランサーが横たわっていた牢獄の向かいには通路を挟んで同じ作りの一室が存在しており、通路の左奥は行きどまりとなっていた。右側には明かりの乏しい空間が広がり、石造りの階段が上に伸びている。
 億劫そうに牢獄から大きな身体を出した男は、慣れた口調で喋りだした。
「ここはアインツベルンの城だ、君の記憶にもあるだろう。その城の牢獄だ。ああしかし、君の顔を見るのは何度目だったか」
「ふん、そんなにオレの面を見るのが嫌か。そりゃ儲けもんだ。オレのツラだけでおまえを不愉快にできるんならな」
「こんなにも親切な人間を不愉快にしたいと? まあいい、まず。君は囚われてなどいない。ある一面では囚われているが。どう言えばいいのだろうな……そう、私たちは置き去りにされているんだ」
 男はランサーの前に立ち、危うい足取りで階段を一段ずつ上っていく。ランサーが抱いたものは奇妙な不安だった。
 こいつがかつて己と矛を交えた確かな戦士であることを知っているのに、そして奴にとって階段を上ることなど息をすることと同様に行える行為なのに、なぜ自分は奴の動きに不安を抱くのだろう。男の一挙手一投足が、ランサーの胸を不穏で疼かせる。
「ほら、外の明かりだ。心配ならば一度目を閉じておけ。残りの段数を数えたあとでな」
 階段は途切れ、踊り場と呼ぶには少し広く思えるスペースがあった。その先に存在する鉄製の扉には小さな窓がついており、眩しい光が牢の眠る階下に差し込んでいた。
「なんだ。さっきのは地下か」
「ああ、地下牢だよあそこは。だから十分な光が差さないんだ」
 なんだってそんなところに寝そべっていたんだ、と訊ねる前に男は重い扉の取っ手を引いていた。開かれる速度と同調して、カッと強烈な光が地下に差す。
 ランサーは思わず目を閉じ、階段の途中でたたらを踏んだ。両瞼を手のひらで覆い深呼吸をしてから、そっと覆う手を外した。

 クリーム色の壁と、高い天井。毛の長い柔らかな絨毯の敷かれた廊下に二人は出た。赤い絨毯には汚れも埃ひとつもなく、ただ行くことのできる道だけをその場にいる二人に教えている。
 男は迷うことなく右手に向かって歩き出した。反射的にランサーもその後を追う。移動した距離は短いものだった、巨大な城の中を移動したことを考慮すれば。城の内部には、ランサーには馴染みのない彫像や花器が一定の距離をおいて廊下に並べられていた。
 細い通路の終わりは吹き抜けのホールだった。記憶をなくしたランサーにも覚えがある、戦いの場所。本来ならば訪れた客人を手厚く迎え入れ、そして別れを告げ送り出すための玄関ホール。どっしりと構える大階段が二階に続いていた。だが男は広いホールを躊躇いなく一定の歩調で抜け、寸分の迷いもなくホールから外へと通じる巨大な通路を進んでいった。
 やがて突き当たった閂の外された巨大な扉の前に立ち、男は慣れた手つきで豪奢な取っ手に手をかける。

 ゆっくりと、重い木製の扉が内側に開いていく。城になだれ込む朝露と葉を広げる木々の香り。乱れ咲く花々の芳香が森に漂う新鮮な空気を引き連れて通路を満たした。立ち尽くすランサーの前で、開けられた扉とその先にある森を背にし、アーチャーは片手を胸に当てて深々と腰を折った。彼は言う。

「アインツベルンの城へ、ようこそおいでくださいました。
ここは願いの叶う庭園。あなたを手厚くもてなしましょう」

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