fate(槍弓)

この世すべての地獄をみる

暗闇にいる

地獄に立つ

暗闇のなか糸をたぐる

いまにも千切れ、霧散しそうな糸をたぐる



 反撃し、戦い、諦め、逃亡したところで、この眠りの主人が目覚めない限り日々は繰り返される。夢見る誰かは私を自由にさせない。いくら抗おうとも私をまたこの街に引き戻すだろう。
 小雨は道路をじっとりと黒く染めていた。駅へ行くために通る最後の交差点、けぶる空気の中で赤い信号が青く点る瞬間を待つ。革製のトランクは様々な事情によって、アーチャー自身にとってもずっしりとした重みを主張していた。人々は散在し、幾人かが横断歩道の前で退屈そうに止まって立っていた。排気ガスを残しながら車が横切っていく。気怠い雨の気配にまぎれて、アーチャーのうしろに立つ男がいた。存在そのものが心を重くさせる。地面へ一ミリ沈んでしまった心地になる。

「いい加減、腹ァくくれよアーチャー」
それが男からの餞別の言葉だった。振り返りなどしない。例え振り返ったところで姿はすでに消えていただろう。いつ、誰から、アーチャーが日本を発つなどという情報を仕入れたのか。信号が変わる。周囲にあわせて右足を踏み出しながら、目を閉じて冬木を振り切る。
 そこでようやく、先程吐き捨てられた台詞は、男なりの口説き文句だったのだと理解した。


 ねえ、アーチャー? やっとつかまった。どこへ行ってたのよ。間に合わないから桜にエアメールを送るよりいいかと思ってたのに。まあいいわ、そう貴方にお願いがあって、日本に置き忘れてきた薬草のレシピブックを今すぐこっちへ送ってほしいの。ついでにアレとソレとコレ。速達で、幾らかかっても構わないから、ほんっとーに今すぐ。
「いくらになっても構わないというのは本当かね?」
ええ、正当な対価であれば払うわ。どういう意味?
「偽造パスポート一人分と、成人一名の往復チケットが含まれていても“正当”の枠に納まるものだろうか」
彼女はしばらく沈黙していた。
……パスポート代だけは不当ね。後から取り立てるわ。だって私が渡すものは、この後もずっと自由に使えるシロモノだから。どこへでも行けるの、その人が望む限り。ええ、どこへでも。ねえそれって、タダには見合わないと思わない?
「ああそうだな。その通りだよ」
モノ自体は貴方で作れるわよね。一時間後にあなたの名前とナンバーを教えるから、そのままそこにいて。また電話するわ。ついでに暇なら掃除をしておいてくれると嬉しいけど、贅沢を言いすぎかな。
 手短に終わった電話と、通話の終了を知らせる電子音に浸りながら、荷造りをしなければ、と静かに声を出して言った。沈黙する洋館の中に、声が微かに響いて消える。ロンドンで飛行機から吐き出されたのはアーチャーだけ、レシピ本も、ストックされている日本独自の薬草も、凛が依頼したあれこれ全部を日本に置き忘れてきました、とでもいう冗談にもならない大きなへまをしでかしてしまいそうだった。記憶にノイズがまじる。視覚が、聴覚が、肌と内臓が侵される。あの男の唾液の味と、ぬめりと共に舌が肌を這う感触が甦る。
 荷造りをしなければ、とアーチャーは大きな声を出した。受話器を勢いよく元の位置に戻す。電話機の上に両手を重ねて置き、あぁ、凛にスーツケースを借りることができるか一時間後に訊かなければならないなと、なにかを誤魔化すようにひとりで喋った。


 ロンドンは随分寒いなと、挨拶代わりに告げた。苦笑した彼女はアーチャーが手渡したトランクを両手で支えながら、まだまだ寒くなるわ、これからもっとねと応じる。ねえこれを片付けたら一杯飲みに行きましょう、ここまで来たのなら食事くらい奢るわ。悪くない店があるの。
「めずらしい、明日のロンドンは雪でも降るのかね」
そうなれば貴方は幸せね、英国旅行の土産話が一つできるわ。ところでアーチャー、貴方今日の宿はあるの? 私と同じ建物は無理だけど、まだ決まってないならゲストハウスを手配するわよ。
「いや、気を使ってもらわなくても結構だよ。アテはある」
そう。彼女は話を終わらせると部屋のベッドの上で、持ち込んだトランクを豪快に逆さまにして中身を一気に空けた。

 男の口説き文句を思い出す。
 飛行機の狭いエコノミークラスで体を縮め新聞を開きながら。凛の下宿先を探して露に濡れた石畳の歩道を歩きながら。早く日本に帰りたいと言う酔った凛に相槌を打ちながら。適当に飛び込んだ、隙間風のよく通る牢獄を思わせる古い安宿のベッドに腰かけながら。
 鍵の開閉が自由なだけの牢獄で、私はじっと冬木の街と、冬木に住む槍兵について思いを巡らせていた。きっと今でもあそこでは四日間が繰り返されている。
 外套を脱いだ姿のまま、固いマットレスの上で横になる。お情け程度の擦り切れた毛布を手繰り寄せ、冷え切った空気を吐き続ける暖房から身体を遮る。薄い壁越しに鈍く、水が流れ落ち誰かが怒鳴る声が響いてくる。ガタン、と椅子を引き摺る音が耳元でした。
 遠くから、ベッドが重さと動きに軋み、女が喘ぐ間延びした声がする。男を求め、感じては甘える猫のような粘ついた高音。

「声を出せよアーチャー。苦しいんだろ」
食い縛った歯の痛みだけがぼんやりと記憶に残っている。ランサーは固く閉ざされた私の身体を押し開き、交わることを強制した。秋風がカーテンを揺らす午後。日が翳る一日の終わり、窓の外は夕日で真っ赤に染め上げられていた。日の光が及ばぬ暗く寒い部屋で散々取っ組み合い、主に私が抗い戦ったことで二人汗にまみれながら、最後私は男に貫かれていた。

 “――ああ、もっと。もっと強くして”
己をねじ伏せる男に、喘ぐ声など死んでも聞かせたくなかった。男はぬめる孔に自身の陰茎をみっちりと食いこませている。畳へ爪を立てると、い草が爪の間に入り込んだ。いやだ、いたい、抜いてくれ、怖い。私は確かに拒んだのだろうか。
 そこだ、もっと奥。突いてくれ、中を擦ってくれ、胸に手を這わせつねってくれ、腰を深く押しつけてくれ。私は求めたのだろうか。眠りに落ちかけている声がいっときの愛を告げる。

 “かわいいひと。いとしいひと”
そんな言葉は交わさなかった。寝返りを打つと、壊れかけたスプリングが耳障りな音を発する。熱を持ち始めた身体へ、強く毛布を巻きつけた。穏やかな眠りは、明けの鳥が鳴きだすまで私を祝福してはくれなかった。


***


 軽いトランクだけを片手に下げて冬木の地に舞い戻った。くらりと目が眩む。ロンドンのどんよりとした空気、飛行機の乾ききった空調と噎せるほどの人の臭い、日本に戻った安堵が、何者かによって知らぬうちにこっそりと遠ざけられていく。さて、今日は一体何日だろうか。駅の階段を降りると、街の人々は陰鬱な色の外套を羽織り、色とりどりの傘を差して地上を交差していた。しとしとと終わりなく降る秋雨の下で、一時的に居を構えている新都のアパートに戻ろうと頭で考えながら、足は勝手に繁華街へと向かう。傘を差す人々の間をすり抜けて道路を渡った。ビルの一階で営業している木材で縁取られた上品な喫茶店を、大通りを挟んだ歩道から目立たぬように観察した。屋内で働くウエイターの姿は、入口の隣にはめられた大きな硝子の窓越しにまじまじと見ることができた。店には大勢の客がおり、賑わっている様子が見て取れる。注文に応える店員もめまぐるしく動き回っている。一際目立つ長身の、異質な色の髪を伸ばしている一人の男も、また。
 トランクを下げた左手が雨で冷えていく。霧のようなじっとりとした雨に濡れていく私に、男は気づいた。背を伸ばし茶器を抱えながら、底のない赤い瞳で私を見返す。まるで時が止まったかのような、永遠と言えそうな一瞬。耐え切れずに顔を背け、男の反応を確かめることなく踵を返した。わざわざ帰郷を知らせでもするように己の姿を晒す真似をした自分を愚かだと罵りたかった。それでも熱は腹で渦巻き、男の言葉が木霊する。
 いい加減、腹ァくくれよ。

 トランクを返却してからアパートの一室に戻り、雨に濡れた身体をシャワーで温める。丁寧に一杯の煎茶を淹れて啜った。そして、夜が忍び寄る街の様子を確かめるために部屋を出る。
 ――昼は平和だ。恐ろしい存在が人々を喰らっているなど、ありえない妄想だ。
けぶる街を歩く。幾人もの人間と、何体かのサーヴァントとすれ違う。様々な存在にまぎれて、するりとランサーは私の隣に立つ。互いに無言のまま身じろぎもせず、なにも交わさず、二十センチの距離を埋めようとすることもない。暗くどんよりした夜の雲の下で、どうしようもない熱だけを孤独に抱えあい、二人で大通りを進む。
 繁華街の突き当りで、彼は一歩私の前に進んだ。向きあわず、会話せず、ずんずんと裏町を行く。坂道に連なるホテルの群れを前にして、そのあからさまで即物的な雰囲気に呆れかえっていると、彼は取って返してきて私の背中を強い力で押した。安いライトに照らされた、ホテルが密集している場所で躊躇いなく一つの建物に飛び込み部屋を取る。大柄で、むっつりと黙りこくっている男二人がエレベータに乗り、上がっていく回数ボタンを眺める最悪な光景。ランサーは両手で部屋の鍵を玩んでいた。金属の音が狭い箱に満ちる。私は手持無沙汰に腕を組んだ。
 じくじくと腰が疼く。ランサーの、シャツの下に隠された筋肉質な体を思い描く。歩くたびに跳ねるランサーの長い後ろ髪を見つめながら、判決を聞きに行く罪人のように後をついて廊下を進む。

 世界が反転する。

 オートロックのドアが、男二人を抱え込んだ部屋の出入り口を閉ざす。その音をきっかけにしてのしかかられた。手でランサーを押しのけようとしても、正面から無理やり壁に押しつけられ、背中の布がずるずると壁紙を擦る。男の膝頭が私の足の間にねじ込まれ、中心をぐいぐいと押し上げた。ぎらついた眼が照明もつけられていない部屋の暗闇で光る。獣のような荒い息が空間に満ちていた。ざらついた舌が私のうなじを舐め、軟体動物のようにぬらりと動いては肌を食む。生ぬるい湿った感触。ランサーは急いた様子で私のボトムの留め金を外し、下着の中へ直接冷えた手を差し込んだ。ざりざりと下生えを擽られる。
「――あ、あぁ」
震えた。思わず目を閉じ、鮮烈な感触をかみしめる。全身に鳥肌が立った。ランサーは、はだけたシャツの上から、ぴんと立ち上がり存在を胸で主張する二つのしこりの片方に食らいついた。布が唾液でべたつきぴったりと厚い胸板へ張りつく。布越しの刺激が余りにももどかしく、身をよじりねだるように胸を反らすと、ランサーは荒い息の合間にひっそりと笑った。羞恥に耐えられず、熱に溺れながらランサーへ手を伸ばす。人差し指でつい、と奴の喉元を撫で上げてみると、かわりに男のごつごつした手が下着越しに私の性器を揉んだ。もどかしい、もっと直に、と首を振る。
「はぁ……んうっ、……あぁ」
暗闇のなかで一枚ずつ、身を覆う布をはぎ取られていく。ボトムを下ろされ、シャツが両腕から滑り落ちる。履いていた靴は自分で放り出した。ランサーの肌と己の肌との間を遮るものは何一つとしてほしいと思わなかった。ずるずると埃くさい床の上を二人で這い、身体を絡ませる。狭い出入り口でがっしりとした体格の男二人が、身体のあちこちを床や壁にぶつけさせながら、互いの肉体だけを追う。ごろりと勢い余って床にうつ伏せになると、ランサーはマウントでもするかのように私の身体の上にずしりと被さった。掌が床と身体の境に侵入し、下腹を探る。べたついた舌がうなじから背骨を舐る。
「はっ……、アーチャー。なあ、不便だと思わねえか」
二の腕を擦る男に応えるように、思わず腰をうねらせた。裸の背を舌が、右上腕を骨ばった右手が、身体の下で押しつぶされている陰茎をねじ込んだ左手が、終わりのない愛撫をアーチャーの肌の上で繰り返す。
「なに、がだ……ふ、っうん……」
欲望の色にまみれた己の言葉にさえ興奮する。はしたない、と頭の片隅にしがみついていたちっぽけな理性が叫んだ。つばを飲み込む。ランサーのごつごつといきり立っている熱が尻に当たり、そのたびに頭蓋骨の内部の温度が上昇していくようだった。
「男同士ってぇのはすぐに突っ込めねえから不便だ」
明け透けで情緒も何もない言葉に、はっ、と吐息か笑いか分からぬものが零れ落ちた。裸体を抱く男の服へ、肌を擦りつける。
「突っ込みたまえよ、いくらでもっ……んふっ、本当にできると、思うならすればいいっ……!」
ランサーは荒々しく後頭部の白髪に顔を埋め、飢えきった呻きを漏らした。
「くそっ、煽るんじゃねえよ。本当にやっちまいそうだ」
ごり、と後頭部に歯を立てられた。のしかかる男の顔など見えなくとも、どのような表情をしているのかありありと、手に取るようにわかる。ランサーはからかうように、興奮しきった性器を張りつめさせている革のボトム越しに、アーチャーの尻の狭間へ押しつけた。床に伏せる白髪を掴まれ、上半身を反し顔を上げさせられる。耳殻をしゃぶられる水音に、ランサーの息に、脳ごと犯される。金具を外す音がした。ランサーの先走りに濡れた陰茎が、私の尻の間をずるずると往復してべたべたに汚していく。私の、安物のカーペットと重い体に挟まれた性器も、下のカーペットに染みを作っていそうなほど濡れそぼっていた。腕を伸ばし、後ろにあるランサーの頭を引き寄せ囁く。
「やっと帰って、きたんだ……あっ、せめて……ベッドで寝させて、く……んぅふ」
冗談言うな、寝させるかよ。そう吐き捨てながら、アーチャーを押さえていた男は身を起こした。やれやれと茹だりきった頭を冷まそうとするが、そんな時間は与えられなかった。ざらつくカーペットに片頬をあてていると、遠慮のない力で担ぎ上げられ世界が回る。回っていると認識している間に数歩移動して、ベッドの上へ文字通り放り投げられた。アーチャーが落下する衝撃で、ベッドのスプリングが致命的な悲鳴を発する。加減なく投げた後に忠告する「舌を噛むなよ」という言葉が虚しく響いた。この男とのセックスは良くて格闘技、悪くて嵐の直撃だ。なにもかも吹き飛ばされ、あたり一面がぐちゃぐちゃに壊滅する。
「……は、荒々しい。ベッドが壊れたら貴様に弁償させるからな」
「お前が直しゃいいだけの話じゃねえか」
私は便利屋ではないんだぞ、という不平はしゃぶりついてくる唇によって封じられた。せわしなく私を求め、手を全身に這わせ覆いかぶさろうとするランサーの肩へ、蹴りつけるような動きで重い右足をのせて牽制する。嵌め殺しの小さな、磨り硝子で作られた窓越しに淡い光が差していた。私の秘所は、暗闇に差すぼうとした光の下で微かな色を伴ってランサーの眼前に余すところなく晒されている。白い陰毛の中心で張りつめ天を指す陰茎が、てらりと濡れて反射し、零れる雫はその狭間の奥まで垂れていた。
「それ以上私に触れるなら、シャツも服も脱げ、すべて。すべてだ」
淡い光に横顔を照らされているランサーは、おどけた顔をして、ひゅうと口笛を吹いた。
「それを靴下つきのお前に言われるとクるものがあるな」
俺好みだ、と行儀よく並ぶ白い歯を覗かせる。私は眉根を寄せ、人差し指で布をひっかけて最後まで己の身体に残っていた衣服を両足から取り去った。
「残しときゃいいのに」
「っ――!」
馬鹿者、という言葉は喘ぐような息になった。ランサーが私の中心に吸いつき、啜るように舌が動く。
「ああ……アァ、はぁ、ひっ……」
口が上下するたびにペニスは硬度を増し、たらたら切りなく雫をこぼす。喉の奥に導かれるたびに足先が跳ねる。苦しい、苦しい、がむしゃらにシーツを掴み仰け反った。
「ひ、はぁっ……あ、うぅ」
うう、いい、と背を反らせ声なくハアハアと口だけを動かす。久しぶりの刺激は強烈すぎて目が眩んだ。まるで独立して生きているようなランサーの舌が、口が、粘膜が神経の塊と化した私の陰茎に絡みつき、密着し、身体を果てへと追い詰めようとする。腰を思い切り押しつけたい欲望を必死で堪えようとすると全身が震えた。シーツに爪を立て、滲む汗を散らす。目が勝手に潤む。暗がりで、形のいい男の唇が己の身体の中心を食み、艶めかしく動いてみせる様が脳天を直撃する。今にも果ててしまいそうだった。
 私の限界を悟ったらしいランサーは、頬張っていた性器をずるりと吐き出し、ちゅうと亀頭へ口づけてから身体を離した。いきり立った性器も陰毛も濡れそぼっている。じりじりと身体が疼くもどかしさに耐えられず両手で顔を覆い、そのまま白髪をがりがりとかいた。はァ、と息が漏れる。両手に顔を埋めながらシーツへ全身を擦りつける。獣を思わせる呻きは己の口から発せられていた。
「どうした」
ランサーが余裕のない手つきで服を脱ぎ捨て、頭上に用意されているローションを掴む。傍らにある個包装されたコンドームが巻きこまれバラバラと床に散った。
「はぁ、……いきた、っかせてくれ……」
低いけれど甘ったるい、自分のものとは思えぬ声が舌足らずに訴える。頭が冷え切っているときには死んでも耳にしたくない、欲望だけをあからさまに伝える声。ランサーは熱い溜息を苦しそうに吐き、ベッドに力なく寝そべる私の身体を力任せに裏返した。
「っあ……は、ん……」
勃ちあがったものがシーツに擦れ、快感が背筋を駆け上る。たまらず手をやると、横からぐいと伸びてきた手に払い落とされる。
「一人で遊んでんじゃねえよ」
広い褐色の背中に手を置いた男の青く長い髪がすべり落ち、私の頬を擽った。衝動的に髪の束を銜え、ぐいと引っ張る。私の左足の太ももを両足で跨ぎ前にかがんでいるランサーは、いきり立つペニスを左の尻たぶに当てながら、掌に、にちにちと音をさせて潤滑油を広げていた。
「どっちが犬かわかりゃしねぇなこりゃ」
怒りと共に歯を剥いてみせる。
「どっちも犬だ畜生」
返答はなく、長く節ばっている指が尻たぶの狭間を辿る。ぬちゃりと濡らされる感触は、何度体験しても違和感だけしかない。そのあとに必ず、ランサーのものを目一杯咥えさせられることも含めてだ。
 ぐに、と後孔を探り当てぬちりと侵入してくる。枕を手元に寄せ顔を埋めた。まっすぐ寝そべらせたままでは不自由なのか、ランサーは私の左足を跨いで、右足を無理のない角度で曲げさせた。わずかな高さができた空間に、上から潤滑油が垂らされる。
 はあ、はあと二人分の荒い息が部屋に満ちる。枕を噛み締め涎まみれにしている間に、ランサーは手際よく後孔を拡げ、使われない口を男を受け入れ、愛するための淫猥な性器へと変化させていく。下手をすると私よりもそこについて詳しいかもしれない。最悪すぎる、これ以上考えるのはやめだ。
「――っ!あっ、う、ランサ、ァ」
指で腹の内側の一点をぐに、と刺激された瞬間、鋭い快感に全身を支配される。布に埋めていた顔を上げてランサーを窺うと、熱を持った赤い瞳が細められた。汗ばむ肌にまとわりつく青色を片手で邪魔くさそうにかき上げ「だらしのねえ面してんな」と笑った。指を食まされている後孔が反応してきゅう、と締まる。己の正直すぎる反応に腹が立ち、枕を力なく殴った。頭を横に振ると白髪が額におちる、その小さな刺激にまで苛立った。
「わかりやすい奴」
ランサーは何を言えば私が昂るのかを、十分に理解している。溶けた声でなされたからかいに、腹の底が甘く締まる。反抗心でランサーの身体の下から抜け出ようと試みても、ランサーはそれを許さない。ベッドの縁を掴み、身を捻って蹴りつけると、厚い胸板を正面から圧迫され、抜け出た指を再び体内へ挿される。内のしこりを繊細な手つきでこねられ、我慢できずに声があふれた。
「あ、ひっ……んぅ、あぁも、ぅ」
うう、と顔を顰める。背骨から指先まで電流が走る。指の足でシーツをかき仰け反る私に、低く囁く。
「欲しくてたまんねえんだろ、アーチャー。入れてほしくてたまらねえって顔だ」
涙と涎がにじむ顔面を汗ばむ掌で拭った。拓かされた足の間に陣取る男を見上げて睨む。
「いらない、っ、今すぐ退けっ……」
断じるように、ランサーを求めてやまない声を出した。言葉の意味は正反対でいて、それでもただ一つのことしか伝えない。
「聞くまでもねえな」
ランサーが尻肉を指で割り開く。思わず生唾を飲む、その音が体内にこもって頭をうるさくさせる。力の抜けてしまった私の重い片足を抱え、ランサーは天を向く己の陰茎を持つと、口をひくひくと蠢かせ待ちかねている私の体の中へ侵入した。ぐじゅ、と接している部分から水音がする。あぁと吐く息が熱くてたまらない、火傷してしまいそうだ。目を閉じるとランサー以外を感じられなくなる。爪を立て、下に敷かれた布に縋りつく。ランサーは迷いなく肉棒を最奧まで突き立てたというのに、何故かじわりじわりと犯されているような、妙にゆっくりとした歪んだ時だけがあった。
「はっ……、あぅう」
ごり、と奥歯を噛んだ。快感か異物感か。口のなかが乾ききって舌がはりつく。ランサーを咥えた腹は燃えているようだ。ぱたりとランサーの汗が落下して胸元が震える。見なくとも、刺激に反応した両胸の先端が痛いほど張りつめていることがわかった。
「……アーチャー、ゆるめろ」
掠れた声につられて、私を拘束するように抱くランサーを見上げると、逆上せでもしたように、眉を寄せ熱に浮かされた表情があった。目を伏せ、私の身体で快感を抱いているらしいランサーの色気に思わず腰を揺らし、侵入している性器を締め上げる。
「は、んん……」
腹の中のモノの形を思い知らされた。
「っ……、あぁっ、――!」
揺さぶられる度に欠けていく。現実も、周囲も、己の肉体も精神もはがれ落ちていく。
「ランサ……あっ……」
ランサーは私に重なって、両腕をシーツの上に立てていたかと思うと、私の身体へ隙間なく密着し、抱えてはぐじぐじと腰を前後させる。痺れが全身を伝い、だらしのない声だけを意味なく発する。
「ふっ、あー……いっ」
んん、と鳴く己を、浅い眠りの中でむずかる赤子の声だ、とぼんやり思ってはすぐに思考がかき消える。何もかもを手放した身体で、ゆるくランサーの筋ばっている腕を撫でた。ベッドが軋む。意識せずにランサーを両腕でかき抱くと、唾液にまみれた口づけと柔らかな体温が与えられた。手に手が重ねられる。激しい感情の波に揺られながら、すがるようにその手を握り返した。




細く光る糸をたぐる。

 暗闇のなか、いまにも千切れ先を見失いそうな、脆く細い糸をたぐる。
疲れ切った体を横たえ、増殖する記憶を知覚する。いくつもいくつも、終わりなく降り積もる。

 記憶は乱雑に収納されていく。たとえ規則正しかろうと、散らかっていようと大差はない。そもそも内容に大差がないのだ。
見る者もいない。保存するものもいない。支障などなにもない。

 記憶に溺れる暗闇で、私はそっと糸をたぐる。いつからあったのかわからないそれは、闇や炎にかき消されそうになりながらも、確かな力をもって私を導いている。



ビニールサンダルが間抜けな音を立てる。それを履いている男も間の抜けた顔をしてぶらぶらと歩き、時折片手に持つ缶ビールを呷った。プールでは飲み切れなかったのだ。缶の表面はうっすらと汗をかいていた。アロハシャツの裾が秋風ではためく。日が傾いてしまうと、もうその恰好では寒いだろうと余計な世話を焼きたくなってしまう。
 ランサーの姿を捉えた瞬間、くらりと眩暈がした。塩素の匂いが鼻を刺す。
「――っ」
私が立ち止っている間に、ランサーは空き缶を公園の屑籠に放り投げ、訝しげに振り返った。
「どうかしたのか、アーチャー」
身体が重く熱く、妙に気怠い。まるで丸一日水の中で、思う存分遊んできたかのように。
「……倫敦、から」
「へ?」
「倫敦から、帰って」
「おい、大丈夫かアーチャー。はしゃぎすぎたのか? いやアレくらいで音を上げる性格してねえだろ、お前」
頭を振る。ランサーは「女の水着がそんなに強烈だったか」と笑いながらも、足を止めていた。
 入り乱れた記憶が結びつかない。散り散りになり確かなものを一つとして捕まえられない。前を行くランサー以外のものが。ランサーは両手をポケットに差し込み、私を覗きこんだ。
「遊びも終わりだ、しっかりしろよ」
「……なあ、私はいつ帰ってきた」
「帰る途中だろうが」
「そうではなくて、今ではなくて」
ランサーは眉を寄せた。
「気は確かか? お前はずっとここに居ただろう」
 影が長く伸びる。朱色の太陽はするすると落ちていく。早く帰らなければ。また夜が、また夜が来てしまう。月が明るく照る黒い夜が。
「……そうか、そうだったな。すまない、人が多かった所為で疲れたのかもしれない」
乾いていない髪をかき上げ、己の頬を抓った。意識が変な場所を彷徨っている。
「まさか、そのついでに今日の賭けまでなかった事にしようってんじゃないだろうな」
ランサーは気の利いた冗談を言ったかのように顔を崩した。
「賭け……」
鳥が幾羽も羽ばたいて巣へ帰る。黒い影が朱色の空を横断していく。さて、私はこの男となにかを賭けたのだろうか。そう、言われてみれば。
「おい」
――勝つに決まっているだろう。いいとも、試合で負けたなら。一回だけ、言うことを。
「……アーチャー?」
「言うこと、を」
近い距離にある赤い瞳は丸くなり、やがてランサーは満面の笑みを浮かべた。
「覚えてんな。で、勝者は」
「知るか」
わざとらしく鼻で笑って見せると、ランサーは嬉しそうに笑い声をあげた。
「そう都合よくいくかよ、テメェの顔に“私が負けました”ってはっきり書いてあんじゃねえか」
さて、そんなものどこにあるかなと、歩きながら己の掌に顔を擦りつけ、目立たぬように俯いた。
「なあ、今度は何にするかな」
「なんだ足りないのか、まだ私になにかさせたいのか」
「違えよ、また休みがあるから」
何処かへ行くか。何処へ行くか。考えを巡らせるアーチャーのサンダルが、ぺたぺたと間抜けな音をさせながら私の横を歩く。胸の奥底に、じわりと熱いものが広がった。平穏だけに支配された二人の時間が、この時間が、いつまでも続いてくれたなら。
 やめておこう、……やめておこう。微睡みのなかで「次」を探すのは。地続きの平穏を求めてしまうのは。永遠の平穏などない、内にあふれる思いはなかった事にしなければ。幸せは区切りがあって初めて幸せとして独立してくれるのだ。
「なあ今度こそ」
「……やめてくれ」
互いに歩きながら、隣に立つ気配を感じあう。
「やめよう、約束など」
同じ歩幅で閉ざされた街を歩く。歩みを止めることはない。
「……あァ、そうだな」
それ以上の言葉はなく、ただランサーの手の甲が私の手の甲を撫で、去った。
アスファルトに伸びる、黒く長いランサーの影を足でそっと踏む。彼の一部分をこっそりと、自分の下へ留めておくために。


 互いに湯を浴びたにも関わらず、冷え切っている肌を探る。舌が交わったときに、ほのかなビールの苦みが舌の表面を掠めた。腕をランサーの背までまわし抱く。強い力で抱え込んでも壊れない頑丈な身体。ランサーのひんやりとした手がぺたりぺたりと私の背を這う。私を上に乗せたランサーは、満足そうな顔をして布団の上に横たわった。私を見上げ、愉し気に口角を上げる。
 ――自分でいれてみろよ、アーチャー。準備はしてやるから。
「おい、俺に背をむけるのはなしだろ」
「何故だ。“自分でいれる”が命令なら私がどこをむこうと自由だろう」
羞恥に顔が染まっていることを、誤魔化すように抗った。
「つまらねえじゃねえか。ほら」
ぐずぐずと溶ける。ランサーの勃ちきったものを片手で触ると、散々ローションでほぐされた後孔が収縮した。これを食むのだ、と喉が小さく鳴る。ランサーの腰の上を跨いで膝立ちし、重く熱を孕んだ腰と怠い身体で、そこで生じる快楽を学んだ最奧へ導く。ランサーが私の脇腹へ手をやる。ぐず、と先端が内部にめり込んだ。ランサーの顔を目にしないために固く両目を閉じ、顔を歪ませ、あ、あ――っ、と間延びする声を吐き出した。心臓がうるさいほど鼓動を繰り返している。額に手に、汗がにじむ。一際張り出した先端をすべておさめようと力を抜きながら、重力に従い落ちていく。ランサーのものが濡れそぼった内壁をずるりとこすりながらめり込んでいき、やがて硬く育ちきった陰茎を丸ごと呑んだ。串刺しにされ、強張る顎の先から、汗が一滴したたり落ちた。
「う、ふっ――う、ぁ」
ンぁ、と上半身が反る。ランサーの腹に両手を置いて腰をよじらせ、膝でシーツをかく。尻に男の陰毛がざりざりと当たり、むずがゆさに頭を振った。涙のにじむ視界で、ランサーはひどく満足した、幸せそうな表情で自ら串刺しにされた喘ぐばかりの私を見つめていた。その視線に焼かれ、焦げついていく。
「なあランサー」
吐息と言葉が混じりあって口からでる。ひたりとランサーの身体に触れなおした。
「気持ち、いいのか」
ああ、と囁くように呟いて、ランサーは両手を広げると私の胸を包むように揉み、ピンと立ち上がった両方の尖りをコリコリといじる。つままれ、捏ねられている内に掻痒感がたまらなくなり、尻を押しつけた。上半身を揺らすたびに中が抉られる。
「気持ちいい……お前が動けば、もっと」
咥えたものをずるりと出し入れするたびに全身が痺れる。思わず、自らの快感が最も強くなる一か所を突いてもらうように腰を振りたくなる。
「ぁ、ランサ、あっ……」
「んん」
「ちから、が……」
はいらない、と訴える。横たわるランサーは指先で私の腹筋の割れ目を一つ一つゆっくりとなぞっていく。
「急くなよアーチャー。まだ夜がきたかどうかだ。……いくらでも付きあってもらうぞ、今日は」
「あっ、んぅ」
悪戯に腰を上下されるたび、肺から息が流れ出す。ランサーはやると言ったらなにがなんでも実行してみせると、私は知っている。おそらくこれだけでは済まないのだ。私はこの夜に幾度もランサーに犯されるのだろう。思考の輪郭を失った頭で、ランサーを抱きしめたい、ランサーに抱きしめられたい、と率直な望みが渦巻いた。
「っ、きみ、起き上がらないのか」
乳首を弄っていた男の手首を両方とも掴む。
「一人遊びは嫌か」
「……君を、この手で抱きしめたい」
きょとんとした表情は、日頃目にできない珍しいものだった。胸のすく思いがする。
「どうしたんだお前、妙に素直だな」
それでもランサーは戦士らしく、私を支えながら腹筋だけで軽々と上半身を起こし、熱でもあんのか、まさかなァと額を額に当てた。不意に与えられた強い動きに仰け反り、下の口が勝手に締まる。ぞくぞくするほど気持ちがいい。
「――は、ぃっ、ああっ、うぁ」
恐ろしくなるほど深いところまでランサーを飲み込み、先端に奥を突かれる。思わず近くにあった首筋に縋りつき顔を埋めた。息が静まるのを待って、白い肌を伝う汗を舐めた。もうどちらのものか、混じってわからなくなっているものを。ランサーは何も言わずに私を抱え、肌や髪を味わうように撫でる。しんとした秋の夜、人の気配さえない完全な静寂。閉じた世界にランサーと二人きりでいることが、妙に不思議に思えた。
 後ろで男を感じながら、その感触を与えるものとは別のものとしてランサーが目の前にいるような気が、何故かした。
「ん?」
汗をかいて口を結んでいたかと思えば、偶にハァと色めく微かな声を吐くランサーの存在を、沸騰した思考から一歩引いたところで感じている。ああ、いいなと呟きながら腰を揺らされ、繋がっているところが上下する。ぐちゅぐちゅと水音が響いた。静かな部屋で二人繋がったまま、やがて境界は溶けどろどろと二人一緒に姿のないなにかになってしまいそうだった。感じているのに、くたりと下がっている己の陰茎から、白濁が零れ落ちる。力を抜いてランサーにもたれかかった。
「あぁ、ランサー……」
「……どうした」
「ランサー……」
「ああ」
俺ならここにいるぞ。そう囁く声の主は、顔をうなじへ埋めている私の耳へ、互いが口にできぬ願いのすべてを知っているかのように頬を寄せた。ひんやりとした耳の温度をわかちあう。夜の終わりは手で掴めぬほど遠くにあった。

***

 終わりなく雨が地を叩いている。勢いはなく、しとしとと地上にあるものへ染みこまんとする冷えた甘い雨。陰鬱な空気に微睡みながら寝返りをうつと、身体を包むシーツがどこか、じっとりと湿っている気がした。薄暗い部屋で細く目を開け、冷めぬ意識のまま今は何時なのだろうと時計を探す。うろついた視線が、鏡を覗きこむランサーの姿を捉えた。日常に馴染んだシャツや革のパンツではなく、彼に最もふさわしい戦場を駆けるための青い武装。まるで青天から落ちてきたかのような、澄んだ色。
「――どうしたんだ、ランサー」
彼は張りつめた空気を纏って、無表情で鈍く光る剥きだしの鏡と対面している。首をわずかに傾けて。問いかけは無意味だった、その答えを私たちは知っていた。出会う前からずっと、私たちは知っていた。
「悪ぃな、用事ができた」
ランサーは耳元へ手をやった。小さな頼りのない金属の音をさせて、ピアスを外す。洗面台から私がいる布団の枕元までくると、やるよ、と一つのピアスを私の掌に落とした。
「ランサー」
「じめじめしたのは嫌いなんだ、じゃあな。……ごめんな」
ランサーは霊体化しながら別れの言葉を発し、壁を抜けて去っていった。聞こえるか聞こえないかの境で謝罪まで置いて。余韻だけが雨のざわめきに包まれた部屋に残る。
 ランサー、と思わず口にしたアーチャーは呆然とした表情で不思議そうに掌の上のピアスを眺める。それはやがて金色の粒子となって、さらさらと溶けていった。逃すまい、と左手をぐっと握りしめると、金属の冷たさを一瞬だけ、感じられたように錯覚した。その感覚を忘れてしまいたくない、と身を丸める。じっとりとしたシーツごと膝を抱え、そのまま転がるように身を折りたたみ、頭をベッドへつけた。残り香さえない布へ鼻先を埋め、どこかが痛い、と呻いた。
「……私たちは約束などしなかったんだよ、ランサー」
私たちは、約束などしなかった。だから君は、私に謝るべきではなかったんだ。
謝るべきではなかったんだ。


 どうでもいい話だ。そのあとに、私がどれほど冬木の街を歩き、探し求めたなど。しらみつぶしに、それこそ潰す虱すらなくなってしまうほど歩き続けた。見つづけ、聴きつづけ、さぐりつづけた。気配はあるのに君はいなかった。
 君が私の隣に立ち、アーチャー」とぶっきらぼうに呼んで、多少荒い仕草で私の背を叩いてくれさえすれば、私はこの微睡の終わりを悟りきっちりとケジメをつけることができただろうに。

 おかしいな。

いつもなら何も考えず一人でできる簡単な作業が、君がいないというだけでこんなにも困難を伴うなんて。

 おかしいな。

だが投げ出したりなどはしない。私には彼女がいる。私は彼女を守らなければならない、誇りある騎士として。
 凛は私と肩を並べ、全力で魔術回路を回転させている。橋の先で黒く暗く蠢くきりのない獣の群れ。私たちを囲む、目に染みるような橋の赤色。遥か遠くで天まで伸びる、糸のような階段。
 生きている限り終わりはあるのだ。生者は終わらなければならない。遠坂の前に、あるいは隣に立ち共に戦えることはとても誇らしいけれど、それでも私はいま、彼女を未来ある日常に、暴力的なまでに前だけへ進み続ける日々に押し戻さねばならないのだ。
 生ぬるい空気が私たちに圧力をかける。生臭い呼気が新都にむけて吐き出されている。川風の涼しさだけが、私たちへのささやかな慰めとなっていた。
「ねえアーチャー」
「どうした」
「……たのしかった?」
凛は打倒すべき獣だけを一心に睨みつけている。一際強い風が川の水面を駆けあがり、地につけた足の周りで外套がはためく。
「あなた、ここにいて、たのしかった?」
答えあぐね思わず押し黙る。
「……満足、するべきなのだろうな。ああ、楽しかったのだろう」
凛は左手を構え、獣などに怯むことなく両目を閉じた。
「私あんたに言っておかなきゃいけないことがあったわ」
無言のまま、私はつがえた弓の弦を引き絞る。きしきしとはりつめた震えが微かに響く。
「あんたもう少し素直になりなさいよ」
かわらない凛の台詞に、思わず笑みがこぼれた。
「ああそうだな、楽しかった。とても楽しかった。けれど正直、一人だけ私に無礼を働いた不届き者がいてな。あいつの鼻をあかせなかったのが――」
ただひとつ、心残りなんだ。
「そう」
そうだな、十分ではなかった。つかみ損ねたたった一つのもの。捕まえたところでどうにもならないけれど、あの男がいなければ私はここを終えられないと、そんな我儘を言ってしまいそうな――言いそうになるだけだ。
 きてみろ、獣ども。私の背後になど行かせない。十分に微睡んだ私たちの街を、思い出を守り明日へ行かせる。それがここでの、私の最後の望みだ。時は来た。

さあ、弓を、放て。


***

 そうだった、私は知った。わかる、私は知っている。それは“伽藍のアーチャー”の前で美しくきらめいていた。

 揺らめきだけがあった。昼も夜もなく、時間も次元もない。暗闇の深くに抱かれていて、揺りかごのなかで終わりのない地獄を巡っている。私はいつか拒み抗ったのだろうが、それでも血にまみれた大地に立って、悲鳴を、土埃を、血しぶきを浴びながら、この目で確かに見た人々の命を拾い、背負い続けている。私が抱えなければならないもの、自ら刈り取ったいのち、夥しい数の愛しい命によって積み重ねられたありとあらゆる地獄。その隙間に紛れ込んだ、虚ろな現実と「私」がいっとき抱いたちっぽけな夢。唐突に終わったイレギュラーな出来事を、果てなく続く血みどろの記憶の中に埋没させることは容易だった。流れてくる断片的な現実にあやされる存在へ戻ることこそ自然だった。私はあなぐまのように冬眠していればよかったのだ。

 けれど私は、糸をたぐりだした。
「ランサー」
散々人のことを好きにしておいて、肝心な時に別れる理由も口にせず、よりにもよって謝罪を残して一人還ってしまった。
別れがいつか到来するものだとしても、まるで夜に互いの寝室に引き上げまた翌朝食卓で会おうと――そんな気軽い調子で、気軽にみえる調子で関係を終わらせたことについて、文句をひとつ、ふたつ言ってもいいだろうか。思い出を手にして、いまだ会えたことのない君を想像し、正面から罵ってしまいそうな怒りを抱く。心のざわめきが煩い。胸がむかむかする。
 ランサー。君にはもう私の体温すら残っておらずに、記録のわずかなスペースにこぼれた染み程度の存在になっていたとしても、私のこころでは君だけが一際強く輝いている。初めて己を羨ましいと思った。戻りたいと願った。足りなかった、私はいまでも直接触れたいと願っている。
 読んでいた本を閉じるようにすべての感覚を遮断しても残る確かなもの。貰ったもの、神だけが持つ太陽の光そのもの、いくら瞼を閉じても私の心臓をつらぬくもの。私の存在は境を失って、怒り、羨望、祈りともつかぬものでどろどろと溶岩のように流れ落ち、溶けた鉄が再び剣の形となるように再生されていく。磨り減った金属は液体となって混ざりあい、原初の感情によって熱を持つ。願いが両足を作る。一歩進むたびにヒトの形へ近づく。暗闇がいくら私にまとわりつき閉ざそうとしても最早構っていられない。地を這いずって天を目指す。足と化したモノがぬめりに遮られ、粘ついた油のように肌へまとわりつくが、地獄の死臭を振り払いかきわける。澄みわたった空、どちらが上か下かもわからない青色がかった虹色。目に見えぬ厚く不快な壁を押し爪が割れるまで抉り掬い、退かせては泳ぐように両手でまわりをかく。私を枠へ捩じ込もうとする力に逆らってただ目指していた。何処とも知れぬ広々とした空間で荒ぶる嵐と化し、泥のような感触の地に下半身が埋もれていっても進むことは止められない。会わせてくれ触らせてくれ抱きしめさせてくれ、身体のすべてを使って精神のすべてを使って君を知りたい、触れずにいられない摩耗の果てに朽ちた私をたわむれに救い上げた男に。会わせてくれ。透明な泥と空気にまみれて君の横顔だけを心に描き続けている。前後も上下も時間も存在もわからないまま身体は意志を持つなにかに沈みきり喉元まで埋もれ息さえ止まったまま――限界まで指先を伸ばした。高く高く遠く、ひとつの姿だけを求めて。
「――あぁ」



落下する。
万華鏡のように概念と存在が無限に広がり、散り散りに乱れて私の周囲を流れ通り過ぎていく。背をみせる英霊の欠片、項垂れる誰かの足先。反響する人々の祈り、呪い、憎しみ、希望。それらを支配する深く静かな眠り。己がむき出しとなって、あちらこちらが勝手に伸び、縮む。剥がれ落ち形を失う。
 糸が見えた。今にも霧散しそうな細い糸が。差し出す手が曖昧でも迷いなどない。迷いなどどこにもなかった。
 遥か遠くで、誰かが呆れ果てた口調で嘲笑し放った声が、幾度も折れ曲がった末に耳であろうところにすべりこむ。

――なんとまあ、酔狂なことよ。
  こんなところにきてまで、まァ――

声の主は確かに落下する私を寸分違わず観測し、意外にも笑っていた。


衝撃と共に全身を強かに打ちつけた。火花が連続で弾けたような光が瞼の裏で踊り、目が眩む。しばらく目を閉じたまま、節々が悲鳴を上げる身体を横たえていた。起きよう、と力を込めたが上手くいかず、そのままごろりと地を転がった。なにかが私に近づいてくる。軽い足音、獣の湿った体臭が慎重な動作で私に迫り、ふんふんと足の先から匂いを嗅いでいる気配がした。ゆっくりと視覚をつなげ対象を認識する。いぬだ、と呆けた頭が言った。
 白い大型犬の形をしたその生物は、ぺらぺらと紙のように薄く、けれど本当の大型犬そのものの動きで鼻をひくつかせて、平らな体で私の周りを自由に駆けた。のろのろと起き上がり座りこんで、周囲を見渡す。
 虹色の世界はどこまでも広く、天と地はわかれておらず、遠くに森があった。色に境界がなく、僅かばかり緑がかっている木々が逆さまに生えている。湖面にうつる地上の影そのものの世界。水が揺れる。姿のない魚が跳ね、水飛沫だけが飛んだ。犬が遠く群れを作る。くもりひとつない、完璧な楽園。
 こうでなくてはならない。そうだ、彼のいるべきところはこうでなくてはならない。ここはきっと彼の世界ではなく、彼に祈る人々によって作られた世界なのだ。天地に区別なく、時の限りもない。ただ君がいる、星の揺りかご。場違いであることなど初めから承知している。
「滑稽だと笑うか。……笑われた方が、どれほど嬉しいか」
彼を取り巻く世界の完璧さに感嘆し、怯え、そしてすぐに興味を失った。
「君は……」
だっているのだ。君が、身体さえ曖昧な私のうしろに。
――君は、私の顔にも名にも覚えなどないだろうが。そう口にしようとして、ごくりと手ごたえのない肉体が喉を鳴らした。震えている。なにかが、すべてが、カタカタと震えている。愚かだろう、そう自嘲しようとして強張る。反応が予測できずに、自らを守ろうとする緊張に支配されている。
 背後の彼はまるで悪戯がばれた子供のような笑い声を小さくさせ、丸まる私の背中にゆるりと覆いかぶさった。耳元をぬるい息が通る。男は噛み締めるように囁いた。
「めずらしい、客人だ。なんだァ――なんか、なつかしいにおいがするな」
頭の隅から隅までが真っ白に吹き飛び固まる私の耳元で、宥めるように、喜ぶように彼は言葉を重ねる。
「お前は戦ってくれんのか、オレと?」
私は私そのものを開け放し、心になだれ込む周囲の光景に身を委ねる。なにも言葉にならず、なにも声にならない。そのときに私は初めて、突き抜けるほど圧倒的な座の藍色を知った。




私は地獄を歩む。


藍色に揺らめく楽園で
足元に広がる業火の大地を踏みしめる。
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