fate(槍弓)
静寂だけが街に満ちている。がらんどうの洋館に結界は張られていなかった。人の気配さえ残っていない。住人のぬくもりも、匂いも、声も。
「凛……リン、……遠坂」
いないのか、なあ。そう呼ぶ声は、広がる空間の中へ散って消えていくだけだった。
静寂だけが満ちている。空気のよくとおる武家屋敷に、笑い声は響いていなかった。
「おい、小僧。……凛。小僧。大河」
民家の庭で洗われたばかりの洗濯ものがはためいている。犬小屋をのぞくと、主人をなくした首輪と鎖だけが土埃にまみれて力なく地面の上に横たわっている。周囲をきょろきょろと見まわしながら、連なる家々をながめ、赤い橋を目指してひとりで歩く。背後にある柳洞寺の方角をみても、学園の方角をみても、人々の動きはない。息遣いがない。熱がない。不穏さに心がざわつき、それをごまかすように足で跳ね、飛び立った。新都にそびえるビル群の、最も高いビルの屋上を目指す。空気は澄み、どこか春らしい気怠さを漂わせている。ビルの屋上から大橋のタイルさえ数えられる瞳は健在だった。私はどこも損なわれていない。戦いのための能力も、鋭敏な頭脳も。魔力の貯えも十分だ。私は損なわれていない。誰にも騙されてはいない、はずだ。
街を見下ろしても、動くものは一つもなかった。否、生命を持って動くものは、アーチャーの視認できる範囲にひとつとして見当たらなかった。ただ一人を除いて。後ろに立つただ一人を除いて。
「……説明を、求めても?」
後ろの男はアーチャーの問いに肩を落としたようだった。なにかを諦めたように深々と息を長く吐き、
「お前もかよ」
とだけ言った。
「サーヴァントには遭遇したか?ほかの……」
「ないない。どこにもいねえ、誰もいねえ、文字通り猫の一匹もいねえ」
お前こそ、とランサーはアーチャーに近づきながら問いかけた。
「お前のほうが目はいいだろう。なんかわかんねえのか。人か、魔術のなにか、いやそもそも、お前は」
「貴様は」
「「本物か?」」
座りこんでいたアーチャーのすぐ隣に腰を下ろしたランサーは、アーチャーへと手を伸ばした。褐色の耳を右手で触り、くすぐったそうに首を振るアーチャーの頬をざらざらと撫でた。慣れ親しんだ、どこかが少し荒いその動きに抗わず、アーチャーも手を伸ばした。鍛えられた大きな手を、そっと、健康なランサーの白い頬にあてて数度撫で、その感触を確かめた。ほのかな体温に目を細める。
「どうしたものかな」
「ああ」
「私には君が本物に見えてしまうのだが」
「なんだそりゃ」
見えてしまってなんか困るのかよ、と笑ったランサーは、アーチャーの白い髪に指先を入れて触っていたが、やがて満足したようにその手を離した。
肩を並べて、ふたり冬木の街を見下ろす。ひどく静かだった。ビルとビルの間を駆け抜ける風の音だけが二人の周囲を包んでいた。
「水は出たんだ、蛇口から」
「ああ」
「電気だって供給されている」
「確かにな」
「凛は大丈夫だろうか。大河もいなかった。……ついでに、あの小僧も」
「オレのところにも、誰もいなかった。あの野郎なら別に、いや、まあ……でもまあ、なんていうんだ。皆がいなくなったというよりかは、オレたち二人が騙されている気がするっちゃあ」
するが。ランサーは乾いた声で囁くように呟き、ぼんやりと空を見上げた。
「ううむ……」
「……腹が減ったな」
「貴様な。こんなときに……いや、こんなときだからか。確かになにがあるかわからん。力は蓄えておくべきだろうな」
「飯でも食いに行くか!」
ランサーはそう吠えると、ばねのように飛び上がった。跳ねる青い後ろ髪を、親しい気持ちで追う。
***
小銭を無人のカウンターへ、つり銭がないように几帳面に置いた姿を見て
「こまけえ奴、あいかわらず」
と、カウンターの中に入りこんでいたランサーは呆れてみせた。そして適当に見つくろったカップへ、置かれていたポットから熱々のコーヒーを二人分注ぐ。そのまま二人は表を監視できる、木製デッキに設えられたテラス席に陣取り、冷蔵されていて冷たいサンドイッチの袋を開けた。
「もう少ししっかりしたモンが食いてえな。肉とコメとか」
「あるもので我慢しろ。あまり手間をかけてはいられん」
そう言うアーチャーの両眼は油断なく周囲を監視している。ランサーは遠慮なく、大量の野菜とローストビーフが挟まれたバゲットへ、大きく開けた口でかぶりついた。ランサーは咀嚼しながらカップへなみなみと注がれたコーヒーに口をつけ、日光の下のアーチャーをまじまじと見つめた。活き活きと動く鋼の目、緊張を滲ませている目尻、かみつきたくなる鼻筋、固く結ばれているが、そこからいくらでも毒と甘い鳴き声があふれ出すことを知っている唇。夜の褥で、しっかりとした太さのある首筋から、厚い胸板まで口づけていくことをランサーは好んでいた。途中、丈夫だが折れやすい鎖骨も忘れてはならない。アーチャーは嫌がっても、途中から熱に浮かされどうでもよくなっていくのだ。
「……さっきからなにを、人のことをまじまじと見ているんだ、気持ちの悪い」
「日の下でお前を“まじまじ”眺めていられるなんて、こんなとき位しかねえからな」
「……」
アーチャーは無言のまま、コーヒーカップを持ち上げて口をつけ、上目遣いでランサーの視線を受け止めた。
***
そう言って残りの食べ物を大きな口の中に放り込んだ男は、テーブルへだらしなく肘をつき、顔を傾けた。余分な力を抜いて周囲を観察している。確かに、とアーチャーは思った。日光の下で、この男を真正面からじっくりと観察できる機会はそうはなかった。骨ばった指先、しなやかな筋肉に覆われた上腕。隙なく武装しているアーチャーとは対照的に、ラフなシャツをTシャツの上に羽織り、革のパンツを履いた男。顔のむきを変えるたびに青い髪が揺らぎ、生命のない街を前にして不思議そうに、唇を指の荒れた節でなぞる。
大柄な男二人には狭すぎるテーブルとチェアを使っているせいで、テーブルの下で不意に互いの膝がぶつかった。アーチャーは意識的に、静かに足を引こうとしたが、ランサーは表情をかえないまま乱暴に、膝から下をアーチャーに押しつけた。アーチャーは退こうと足を避ける。ランサーは追う。しばしの攻防のあと、むっと口を曲げたアーチャーはガタガタと椅子ごと身体の向きを変えた。
「……ぶっ、ふっ、はっ……アーチャー」
アーチャー。
面白そうに肩を震わせながら、そう、ランサーは名を呼んで、テーブルの上に置かれた弓兵の握り拳の上に、やわらかな動きで白い手を重ねた。
「……っ!」
アーチャーはとっさに手を退けようと力を込めたが、上に重ねられた右手は器用に下の左手へ絡みつく。
「――ランサー!」
「なんだ」
ランサーは幸せそうに笑いかけた。
「貴様、こんな……こんなことを表でするな」
「おもて?」
ランサーはわざとらしく周囲を見まわしてみせた。
「誰もいないじゃねえか、どこにも」
「なにが起きているのかを、わかっていないのが私たちだという話だ。誰かに監視されているか、とりこまれて……っ!」
アーチャーは、覆いかぶさるように重なったランサーの顔を、至近距離から目を見開いて受けいれるしかなかった。うるさい口を黙らせるためにされた口づけは、コーヒーの苦みを伴うものだった。口はわずかに触れあい、あっけなく離れる。アーチャーの左手とランサーの右手は深く絡むことを止めた互いの舌のかわりに、深く深く絡みあう。ランサーはアーチャーの親指の爪を幾度か、指の腹で撫でた。
「……誰もいねえな」
「ああ、なぜだ。くそっ、だれも、……いない」
霞む空気が漂う世界の頂点に、太陽はいた。鳥一羽も飛ばない鈍い色の青空。
水の中に魚はいるんだろうか、とランサーは言った。同意して二人は―アーチャーはわざわざ使った二人分のカップをすすいでから―まずは新都から大橋にでも行ってみようと、店舗が連なる道路の、日が照らすアスファルトの上を会話もなく歩いた。どこかで音楽がなっている。姿勢よく歩くアーチャーは、腕を頭の後ろで組んでぶらぶらと歩くランサーがはるか後方で止まっていることに気づいた。花屋の店頭でバケツの水に浸かる色鮮やかな花々から離れる様子がないことを見て取って、来たばかりの道を戻る。
「ランサー。……ランサー、どうしたんだ。なにか、気になることでもあったのか」
ランサーは声に促されるように目の前のバケツから赤い花を一輪、器用に引き抜いた。切られた根元から水を滴らせる花をそのまま、アーチャーの姿と重ねあわせるようにゆっくりと差し出した。
「――似てんな」
二人は赤い一輪の花を境にむきあう。ランサーは無造作に花を渡そうとして、弾かれたように身を震わせて花を道路に落とした。驚いたアーチャーの鼻先で、白い指の腹から一粒の血液が球を作る。
「……いってえ」
思わず、といった調子でこぼしたランサーの指先をそっと手にとると、なにも考えないままアーチャーは棘で傷ついた指先を口にくわえ、ちゅう、と柔らかく傷を吸った。やがて水音を立てて指先から唇を離し、「注意しないか」と目を伏せながら諭した。
二人の間に交わす言葉はなく、そのまま互いに顔を近づけ、唇を重ねた。太陽の下、誰もいない街にかすかな水音が響く。乾いた口づけは徐々に深くなり、ついばむ動きはやがて互いの舌を舌で絡めとるように変化する。
ふ、ふふ、はっ、とランサーは長い口づけの間に笑いだした。上気した顔のアーチャーはそれを厭って、唾液にまみれた口を耳の下に押し当てた。ランサーの両腕はしっかりとアーチャーの身体にまわされ、唐突に、ぐわりと抱いた胴体を抱え上げる。
「ぐっ……、おい、たわけ、なにをする……!」
アーチャーは突如上下が反転した世界に戸惑い、焦りと共に両手で目の前の背中の服を目一杯の力で掴んだ。思わず足をばたつかせると、「静かにしてろ、じゃじゃ馬」と尻を叩かれる。
「おろせ、今すぐおろさないか馬鹿者」
「いいじゃねえか、アーチャー。このまま橋まで連れて行ってやるよ」
歩ける、己の足で、己の力で歩けるともがくアーチャーを軽々と抱え、ランサーは大きく笑った。その振動がアーチャーの身体を、心を揺さぶる。
「アーチャー、アーチャー。おいだって、見てみろよ。誰もいねえ、なにもいねえ。自由、」
じゆうだ、とランサーは呆気にとられたように呟いた。じゆう。アーチャーも心の中で同じ単語を繰り返した。霞んだ青空と風ではためく商店の旗。街路樹の葉がそよぐ。
じゆう。
ランサーは大股に歩きだした。アーチャーを抱えたまま。は、はは、とたまらず笑い出した。馬鹿らしい、あほくさい。
「ランサー、君は自由などと本気で言っているのか」
「おう」
そうか、とアーチャーは応えた。そうか、そんなものかもしれない。ランサーの背に縋りつき、顔を反らして上空を仰いだ。折られた腹が肩に食いこみ息苦しい。止まらない笑いの中で目に涙がにじみ、アーチャーの世界のさまざまな輪郭はやがてすべてじわりと溶けだした。
はるか遠くの、波打つことをやめた海を遠くに臨みながら、ランサーは隣に座るアーチャーの肩に頭をのせた。川は沈黙した海へと流れているのに、そこに棲む影はひとつとして発見できなかった。周囲で動くものは風に吹かれて舞う木の葉くらいで、時の流れは測ることができないほど緩慢だった。ぼんやりと傾いていく太陽の下で、アーチャーとランサーは肩を並べ、橋の片隅に座り続けていた。
アーチャーがランサーの肩を抱く。その動きにつられて、ランサーはアーチャーの腰へ右手をまわしてぐっとアーチャーの身体を寄せた。隙間なく二体の身体は寄り添い、互いのぬくもりをわかちあう。
「……どうしたものかな」
ランサーは、ゆっくりと上下するアーチャーの喉仏を見ているらしかった。
「足でも見つけて、どこかへ行ってみるか?運転くらい、できるだろうしな、適当に」
「車でもどこかで見つくろうか」
「隣町にか、どこでも、いってみりゃいい、なんかわかるかもしれねえ」
「ああ……地図でも探して、発つか」
ゆるり、とランサーが赤い瞳で朱色の空を見上げる気配がした。瞳と、夕空と、橋の赤が混ざる様子を、アーチャーは目を閉じて想像した。
「地図はいらねえな」
「……なぜ」
「地図なんざいらねえ、行きたいところに行くだけだ」
だがランサー、それでは戻ってこられないだろう。アーチャーは胸の内に湧いた反論を口にせず、しばし息をこらえ、やがて「あぁ」と呻くように低音を絞り出した。
いくつもの星が重なり瞬くスピカが、陰りだした夕空の中心でかがやく。
そうだな、行きたいところへ行くだけだ。地図などいらない。君の隣という居場所さえあるならば、私は。
「凛……リン、……遠坂」
いないのか、なあ。そう呼ぶ声は、広がる空間の中へ散って消えていくだけだった。
静寂だけが満ちている。空気のよくとおる武家屋敷に、笑い声は響いていなかった。
「おい、小僧。……凛。小僧。大河」
民家の庭で洗われたばかりの洗濯ものがはためいている。犬小屋をのぞくと、主人をなくした首輪と鎖だけが土埃にまみれて力なく地面の上に横たわっている。周囲をきょろきょろと見まわしながら、連なる家々をながめ、赤い橋を目指してひとりで歩く。背後にある柳洞寺の方角をみても、学園の方角をみても、人々の動きはない。息遣いがない。熱がない。不穏さに心がざわつき、それをごまかすように足で跳ね、飛び立った。新都にそびえるビル群の、最も高いビルの屋上を目指す。空気は澄み、どこか春らしい気怠さを漂わせている。ビルの屋上から大橋のタイルさえ数えられる瞳は健在だった。私はどこも損なわれていない。戦いのための能力も、鋭敏な頭脳も。魔力の貯えも十分だ。私は損なわれていない。誰にも騙されてはいない、はずだ。
街を見下ろしても、動くものは一つもなかった。否、生命を持って動くものは、アーチャーの視認できる範囲にひとつとして見当たらなかった。ただ一人を除いて。後ろに立つただ一人を除いて。
「……説明を、求めても?」
後ろの男はアーチャーの問いに肩を落としたようだった。なにかを諦めたように深々と息を長く吐き、
「お前もかよ」
とだけ言った。
「サーヴァントには遭遇したか?ほかの……」
「ないない。どこにもいねえ、誰もいねえ、文字通り猫の一匹もいねえ」
お前こそ、とランサーはアーチャーに近づきながら問いかけた。
「お前のほうが目はいいだろう。なんかわかんねえのか。人か、魔術のなにか、いやそもそも、お前は」
「貴様は」
「「本物か?」」
座りこんでいたアーチャーのすぐ隣に腰を下ろしたランサーは、アーチャーへと手を伸ばした。褐色の耳を右手で触り、くすぐったそうに首を振るアーチャーの頬をざらざらと撫でた。慣れ親しんだ、どこかが少し荒いその動きに抗わず、アーチャーも手を伸ばした。鍛えられた大きな手を、そっと、健康なランサーの白い頬にあてて数度撫で、その感触を確かめた。ほのかな体温に目を細める。
「どうしたものかな」
「ああ」
「私には君が本物に見えてしまうのだが」
「なんだそりゃ」
見えてしまってなんか困るのかよ、と笑ったランサーは、アーチャーの白い髪に指先を入れて触っていたが、やがて満足したようにその手を離した。
肩を並べて、ふたり冬木の街を見下ろす。ひどく静かだった。ビルとビルの間を駆け抜ける風の音だけが二人の周囲を包んでいた。
「水は出たんだ、蛇口から」
「ああ」
「電気だって供給されている」
「確かにな」
「凛は大丈夫だろうか。大河もいなかった。……ついでに、あの小僧も」
「オレのところにも、誰もいなかった。あの野郎なら別に、いや、まあ……でもまあ、なんていうんだ。皆がいなくなったというよりかは、オレたち二人が騙されている気がするっちゃあ」
するが。ランサーは乾いた声で囁くように呟き、ぼんやりと空を見上げた。
「ううむ……」
「……腹が減ったな」
「貴様な。こんなときに……いや、こんなときだからか。確かになにがあるかわからん。力は蓄えておくべきだろうな」
「飯でも食いに行くか!」
ランサーはそう吠えると、ばねのように飛び上がった。跳ねる青い後ろ髪を、親しい気持ちで追う。
***
小銭を無人のカウンターへ、つり銭がないように几帳面に置いた姿を見て
「こまけえ奴、あいかわらず」
と、カウンターの中に入りこんでいたランサーは呆れてみせた。そして適当に見つくろったカップへ、置かれていたポットから熱々のコーヒーを二人分注ぐ。そのまま二人は表を監視できる、木製デッキに設えられたテラス席に陣取り、冷蔵されていて冷たいサンドイッチの袋を開けた。
「もう少ししっかりしたモンが食いてえな。肉とコメとか」
「あるもので我慢しろ。あまり手間をかけてはいられん」
そう言うアーチャーの両眼は油断なく周囲を監視している。ランサーは遠慮なく、大量の野菜とローストビーフが挟まれたバゲットへ、大きく開けた口でかぶりついた。ランサーは咀嚼しながらカップへなみなみと注がれたコーヒーに口をつけ、日光の下のアーチャーをまじまじと見つめた。活き活きと動く鋼の目、緊張を滲ませている目尻、かみつきたくなる鼻筋、固く結ばれているが、そこからいくらでも毒と甘い鳴き声があふれ出すことを知っている唇。夜の褥で、しっかりとした太さのある首筋から、厚い胸板まで口づけていくことをランサーは好んでいた。途中、丈夫だが折れやすい鎖骨も忘れてはならない。アーチャーは嫌がっても、途中から熱に浮かされどうでもよくなっていくのだ。
「……さっきからなにを、人のことをまじまじと見ているんだ、気持ちの悪い」
「日の下でお前を“まじまじ”眺めていられるなんて、こんなとき位しかねえからな」
「……」
アーチャーは無言のまま、コーヒーカップを持ち上げて口をつけ、上目遣いでランサーの視線を受け止めた。
***
そう言って残りの食べ物を大きな口の中に放り込んだ男は、テーブルへだらしなく肘をつき、顔を傾けた。余分な力を抜いて周囲を観察している。確かに、とアーチャーは思った。日光の下で、この男を真正面からじっくりと観察できる機会はそうはなかった。骨ばった指先、しなやかな筋肉に覆われた上腕。隙なく武装しているアーチャーとは対照的に、ラフなシャツをTシャツの上に羽織り、革のパンツを履いた男。顔のむきを変えるたびに青い髪が揺らぎ、生命のない街を前にして不思議そうに、唇を指の荒れた節でなぞる。
大柄な男二人には狭すぎるテーブルとチェアを使っているせいで、テーブルの下で不意に互いの膝がぶつかった。アーチャーは意識的に、静かに足を引こうとしたが、ランサーは表情をかえないまま乱暴に、膝から下をアーチャーに押しつけた。アーチャーは退こうと足を避ける。ランサーは追う。しばしの攻防のあと、むっと口を曲げたアーチャーはガタガタと椅子ごと身体の向きを変えた。
「……ぶっ、ふっ、はっ……アーチャー」
アーチャー。
面白そうに肩を震わせながら、そう、ランサーは名を呼んで、テーブルの上に置かれた弓兵の握り拳の上に、やわらかな動きで白い手を重ねた。
「……っ!」
アーチャーはとっさに手を退けようと力を込めたが、上に重ねられた右手は器用に下の左手へ絡みつく。
「――ランサー!」
「なんだ」
ランサーは幸せそうに笑いかけた。
「貴様、こんな……こんなことを表でするな」
「おもて?」
ランサーはわざとらしく周囲を見まわしてみせた。
「誰もいないじゃねえか、どこにも」
「なにが起きているのかを、わかっていないのが私たちだという話だ。誰かに監視されているか、とりこまれて……っ!」
アーチャーは、覆いかぶさるように重なったランサーの顔を、至近距離から目を見開いて受けいれるしかなかった。うるさい口を黙らせるためにされた口づけは、コーヒーの苦みを伴うものだった。口はわずかに触れあい、あっけなく離れる。アーチャーの左手とランサーの右手は深く絡むことを止めた互いの舌のかわりに、深く深く絡みあう。ランサーはアーチャーの親指の爪を幾度か、指の腹で撫でた。
「……誰もいねえな」
「ああ、なぜだ。くそっ、だれも、……いない」
霞む空気が漂う世界の頂点に、太陽はいた。鳥一羽も飛ばない鈍い色の青空。
水の中に魚はいるんだろうか、とランサーは言った。同意して二人は―アーチャーはわざわざ使った二人分のカップをすすいでから―まずは新都から大橋にでも行ってみようと、店舗が連なる道路の、日が照らすアスファルトの上を会話もなく歩いた。どこかで音楽がなっている。姿勢よく歩くアーチャーは、腕を頭の後ろで組んでぶらぶらと歩くランサーがはるか後方で止まっていることに気づいた。花屋の店頭でバケツの水に浸かる色鮮やかな花々から離れる様子がないことを見て取って、来たばかりの道を戻る。
「ランサー。……ランサー、どうしたんだ。なにか、気になることでもあったのか」
ランサーは声に促されるように目の前のバケツから赤い花を一輪、器用に引き抜いた。切られた根元から水を滴らせる花をそのまま、アーチャーの姿と重ねあわせるようにゆっくりと差し出した。
「――似てんな」
二人は赤い一輪の花を境にむきあう。ランサーは無造作に花を渡そうとして、弾かれたように身を震わせて花を道路に落とした。驚いたアーチャーの鼻先で、白い指の腹から一粒の血液が球を作る。
「……いってえ」
思わず、といった調子でこぼしたランサーの指先をそっと手にとると、なにも考えないままアーチャーは棘で傷ついた指先を口にくわえ、ちゅう、と柔らかく傷を吸った。やがて水音を立てて指先から唇を離し、「注意しないか」と目を伏せながら諭した。
二人の間に交わす言葉はなく、そのまま互いに顔を近づけ、唇を重ねた。太陽の下、誰もいない街にかすかな水音が響く。乾いた口づけは徐々に深くなり、ついばむ動きはやがて互いの舌を舌で絡めとるように変化する。
ふ、ふふ、はっ、とランサーは長い口づけの間に笑いだした。上気した顔のアーチャーはそれを厭って、唾液にまみれた口を耳の下に押し当てた。ランサーの両腕はしっかりとアーチャーの身体にまわされ、唐突に、ぐわりと抱いた胴体を抱え上げる。
「ぐっ……、おい、たわけ、なにをする……!」
アーチャーは突如上下が反転した世界に戸惑い、焦りと共に両手で目の前の背中の服を目一杯の力で掴んだ。思わず足をばたつかせると、「静かにしてろ、じゃじゃ馬」と尻を叩かれる。
「おろせ、今すぐおろさないか馬鹿者」
「いいじゃねえか、アーチャー。このまま橋まで連れて行ってやるよ」
歩ける、己の足で、己の力で歩けるともがくアーチャーを軽々と抱え、ランサーは大きく笑った。その振動がアーチャーの身体を、心を揺さぶる。
「アーチャー、アーチャー。おいだって、見てみろよ。誰もいねえ、なにもいねえ。自由、」
じゆうだ、とランサーは呆気にとられたように呟いた。じゆう。アーチャーも心の中で同じ単語を繰り返した。霞んだ青空と風ではためく商店の旗。街路樹の葉がそよぐ。
じゆう。
ランサーは大股に歩きだした。アーチャーを抱えたまま。は、はは、とたまらず笑い出した。馬鹿らしい、あほくさい。
「ランサー、君は自由などと本気で言っているのか」
「おう」
そうか、とアーチャーは応えた。そうか、そんなものかもしれない。ランサーの背に縋りつき、顔を反らして上空を仰いだ。折られた腹が肩に食いこみ息苦しい。止まらない笑いの中で目に涙がにじみ、アーチャーの世界のさまざまな輪郭はやがてすべてじわりと溶けだした。
はるか遠くの、波打つことをやめた海を遠くに臨みながら、ランサーは隣に座るアーチャーの肩に頭をのせた。川は沈黙した海へと流れているのに、そこに棲む影はひとつとして発見できなかった。周囲で動くものは風に吹かれて舞う木の葉くらいで、時の流れは測ることができないほど緩慢だった。ぼんやりと傾いていく太陽の下で、アーチャーとランサーは肩を並べ、橋の片隅に座り続けていた。
アーチャーがランサーの肩を抱く。その動きにつられて、ランサーはアーチャーの腰へ右手をまわしてぐっとアーチャーの身体を寄せた。隙間なく二体の身体は寄り添い、互いのぬくもりをわかちあう。
「……どうしたものかな」
ランサーは、ゆっくりと上下するアーチャーの喉仏を見ているらしかった。
「足でも見つけて、どこかへ行ってみるか?運転くらい、できるだろうしな、適当に」
「車でもどこかで見つくろうか」
「隣町にか、どこでも、いってみりゃいい、なんかわかるかもしれねえ」
「ああ……地図でも探して、発つか」
ゆるり、とランサーが赤い瞳で朱色の空を見上げる気配がした。瞳と、夕空と、橋の赤が混ざる様子を、アーチャーは目を閉じて想像した。
「地図はいらねえな」
「……なぜ」
「地図なんざいらねえ、行きたいところに行くだけだ」
だがランサー、それでは戻ってこられないだろう。アーチャーは胸の内に湧いた反論を口にせず、しばし息をこらえ、やがて「あぁ」と呻くように低音を絞り出した。
いくつもの星が重なり瞬くスピカが、陰りだした夕空の中心でかがやく。
そうだな、行きたいところへ行くだけだ。地図などいらない。君の隣という居場所さえあるならば、私は。
