fate(槍弓)

 [二月中旬]

 羊毛で織られたマフラーを手に取り、しげしげと暗い灰色の製品を観察する。それを脳内のランサーに巻きつけてみると、寸前まで見ていた別のものより優れているように思えた。暖かさも十分だ。金を払い、包んでもらった袋を片手に店をでる。これであの男が街へ出かけて行く度にぼやいている寒さは多少緩和されるのではないだろうかと満足する。コートも買い与えたばかりだ。ランサーと共に暮らす日々はどこかぎこちなく、始終二人で家にいる日は必要最低限の会話と重い沈黙しかないが、外へ出たら出たでランサーの顔を思い浮かべ、二人の部屋へ持ち帰るものを選んでいる。ランサーはアーチャーと共同生活を始めようとしたときに、それを児戯だといった。その通りだ、と客も疎らな百貨店のフロアを歩きながらアーチャーは自嘲する。殺しあうはずのサーヴァント同士が、まるで人間のように平穏な日々を営もうと無駄な努力をして、二人でルームメイトだか家族だかのように振舞おうとしている。きっと外から見れば、滑稽なままごと遊びにしか思えないだろう。
 大雪の影響で商品も人も欠けた店を出ると、冬の日は早々に傾いていた。心の中で無意識に二人の部屋を思い浮かべて、帰ろう、と呟いた。
“帰ろう”
 煌々と電気で照らされた百貨店の入り口から、薄暗いアスファルトの上に数歩進み、アーチャーは己の心が発した言葉に凍りつき立ち竦んだ。車が何台も行き交う大通りを前にしたアーチャーの背中を、百貨店から漏れる強い光が照らす。
 私はなぜ、“帰る”などと考えた?

 少年と少女の団体が騒ぎながら店外へ出て、立ち竦むアーチャーをわらわらと追い越していく。金髪の少女がちらりと警戒する目つきでアーチャーを流し見た。けれど、アーチャーは肉体を得て人として生きているサーヴァントの少女には目もくれず、薄闇の中で一際目立っている一人の少年だけに全身を捕らわれていた。長い髪の少女と笑いながら道なりに進む、明るい色をした短髪の少年。寒そうにマフラーへ顎を埋め、荷物を沢山抱えた妙齢の女性へ手を伸ばして、荷物を代わろうと促す。
「それでな、言ったんだよ。お前なら肉がないなんていつもの事じゃないかって」
「でもわかるわぁ、その気持ち。もう雪かきって肉体労働だもの」
「本当ですね。先輩のお家も、ちょっと重みで屋根が鳴っていません?」
「え、嘘だろ。もう毎日毎日うんざりしてきたよ」
「だが身体を鍛えるのにはぴったりなのだ。励め少年」
「鍛えるにしても食い物がないとなあ。いつ復旧するんだろ」
彼らが連れに呼びかける。――おーいセイバー。どうしたんだよ。置いていくぞ。
 動きを止めたまま瞳だけで彼らの姿を追うアーチャーを気にして、少し離れていた少女はすっと顔を伏せ
「はい。……帰りましょう」
と、ただ一人いる少年の名を呼んだ。アーチャーの所有する真名と同一のもの、同一の音。
 アーチャーはぎこちない動きで彼らに背を向け、反対の方向へ歩き出した。目的もなく、どこへ進めばいいのかもわからず、混乱しきった頭ではどこを歩いているのか見当もつかなかった。指先が冷え、足元は踏みつけた雪によって重く湿る。ビルとビルの合間を抜け、吸い寄せられるように、街中にある広々とした、けれど荒れ果てている大地の中心で足を踏みしめた。怨念の渦巻く上空を仰ぐ。どこか懐かしい灰色の空から、一つの疑問がアーチャーにもたらされた。
 あの“彼”はいま、どのような暮らしをしているのだろうか。
冷え切った胸の中で、やめておけ、と誰かが制止する声を無視して目的地を目指す。ビル街を通り、赤い橋を渡って住宅地の坂道を上っていく。身体のどこかが家への行き方を覚えている。
 ふと気づけば、いつの間にか武家屋敷の前に立っていた。屋敷の門扉は開かれ、幾つもの足跡が坂道から家の玄関の手前まで入り乱れて続いていた。その隣に一定の距離を置いて平行に歩いた足跡が残っている。一人で歩いてきたアーチャーの存在を示している。
 門の前に立つだけで、屋敷の中で人々が動く和やかな様子を想像することが容易にできた。中から放たれる暖かな光が、周囲に穏やかな夜を形作っている。賑やかな声と、米を炊ぐ匂い、熱が屋敷の凛とした佇まいと調和して家全体を優しく包んでいる。
 ――私は今更こんな場所にきて、一体なにをしようというのか。
雲が上空の風に押し流され、灰色の空の奥に隠れ続けていた月が珍しく顔を出した。世界を笑うような弓なりの月が、孤独に立ち尽くすアーチャーを捉える。アーチャーの心臓は、どくり、どくりと脈打つ。落ち着いた鼓動とは裏腹に、アーチャーの胸は強く痛み今にも張り裂けてしまいそうだった。どうにか“諦め”という概念を思い出し、この場から去るべきだと主張する理性に同意する。
 かつて己がいたはずの場所は、いまやアーチャーにとって一番遠い場所になってしまったという事実になすすべもなかったが、それでも武家屋敷はアーチャーの心を奪い、離れがたい魅力を放っていた。息苦しさを覚え服の胸元を握りしめる。首を絞められたように息ができない。再び息をすることが不可能でも、せめてこの中にいるであろう少年をこの手にかけなければ、この苦しみは少しも楽になってくれない気がしていた。そのための力さえ奪われている現実は、全身に苦しみという棘を絡みつかせ、アーチャーを痛めつける。息がしたい、と手を喉に持っていこうとして、屋敷から音も立てずに出てきた人影に気づいた。門の影で立ち止まった少女が、硬い声で歓迎されない客人を咎める。
「何用か」
端的な問いに、アーチャーは即座に取り戻した他者への顔を向けた。
「なに、敵情視察だよ。『セイバー』」
少女は身体を闇に溶けこませていたが、月光の下では輝きを完全に抑えることができていなかった。冷めた白肌と金糸の髪を晒し、顔は伏せられている。
「その目的の割には、随分大人しい様子だ」
「心外だな。だが、確かに戦うつもりはないとも。それは同じだろう、貴様も。私たちのやむを得ない事情とやらによってな」
セイバーは沈黙し、やがて呆れたように腰に手を当てた。
「戦うつもりはない。ええ、同じでしょう。けれど貴方がいまだ自分は“戦える”と認識しているならば、要らぬ忠告をしましょう。……貴方はもう“牙を抜かれて”いるのですよ。貴方を見ていると、まるで」
セイバーは躊躇い、小さく呟いた。
「まるで今の私を見ているようだ」

「……ふぬけ、同士か」
アーチャーの自嘲に被さって居間の方角でどっと笑いが起き、折り重なった声がさざ波のようにアーチャーのセイバーの間に広がっていく。凍りついた冬の夜の中で、セイバーは感情を制して告げる。
「今退くならば、私は貴方を見なかったことにしましょう。貴方の本来の目的がなにかは知りませんが」
遠い国で故郷を懐かしむ、そんな感傷をのぞかせながらアーチャーは頭を下げた。
「感謝する、というべきなのかな、セイバー。邪魔したな」
アーチャーは振りかえることもなく立ち去る。セイバーは小さくなっていく男の姿をしばらく目で追い、やがて首を横に振って門扉を閉じた。セイバーは、誰かに無用な同情を抱けば足をすくわれるだけだと十分に理解していたが、それでも閉めた門扉にそっと手の平をあてて目を閉じ、彼に帰る場所があればいいのだが、と願うことを自分自身に許した。

 アパートやマンションの窓の形をした光が周囲を取り巻く光景は、季節外れの蛍の群れの中にいるようだった。背の高い建物に囲まれて光の届かぬ雪深い公園の片隅で、ギイギイとブランコが独りでに揺れ、錆びた金具が耳障りな音を発している。黒々とした遊具の影が、ヒトの存在しない暗く狭い小さな空間にどっしりと根を下ろしている。真っ新な白い地面の上には、一人分の足跡だけが残る。アーチャーはぎぃぎぃと揺れるブランコの隣に座って、掌をあわせたまま祈るように深く項垂れていた。月は姿を隠し、灰色の空からは再び粉雪が舞い落ちる。石像のように冷え固まったアーチャーの上に落ちた雪は融けることなく全身へ積もり続けていた。
 遠くの道から、ざく、ざくと凍りついた地面を踏みしめて歩く足音が届き、やがてその音の主は迷いなく明かりのない公園へ辿りつくと、アーチャーのいるブランコへ一直線に向かう。
日頃自分のためには使わない傘を手に持った男は、溜息をつきながら傘を開いて、アーチャーの上へさしかけた。アーチャーは微動だにしない。
「よくわからん気分に浸るのはいいが、もう少しマシな場所でやれよ」
 ブランコの上で項垂れていたアーチャーは、数秒後にのろのろと伏せていた面を上げ、理解できぬものを発見したかのように驚いた表情をしてランサーをまじまじと観察した。
「……君はなにをしているんだ、こんなところで」
呆れかえった調子のアーチャーに対して、ランサーは鼻に皺を寄せ雪で湿った頭をがりがりと掻いた。
「それは俺の台詞だ」
「なんだ。……ああ、もう夜か。腹でも空いたのか?そうだな……なにをする」
 押し黙ったランサーは手にしていた傘をアーチャーに無理矢理押しつけ、面倒のあまり力が抜けたように、雪で服が濡れることも厭わずに座りこんだ。左手を首の後ろにまわして当て、赤い瞳で下からアーチャーを覗きこむ。
「……監視対象にはいつもべったりと張りついていなければならない、夜は特に、という訳かねランサー」
傘を閉じながら放たれたわかりやすい挑発には乗らず、ランサーは静かに右手を伸ばした。僅かに仰け反ったアーチャーに構わず、そのまま血の気を失った褐色の左頬を、ぐに、とつまんだ。
「お前いつも不機嫌っつうか、いや、なんか不幸せそうなツラしてんな。たまには笑えよ」
グイ、と頬を上方へ持ち上げる。頬から生まれた痛みが、アーチャーへ正面の男の存在をありありと感じさせる。
「やへ……、ほの、やへたまえよランサー。私のことなど君には関係のない話だ」
ランサーの手を振り払い、アーチャーは右太ももに右肘をついて掌を額に当てた。重みにギイギイと金属の鎖が鳴る。ランサーは深く息を吐くと勢いよく立ち上がった。
「冷える。帰るぞ」
“帰る”という単語へ反射的に身体を強張らせる。苛立ちが腹の中で疼く。
「……“貴様には関係のない話だ”」
「お前なあ」
ランサーは上へ伸びるブランコの支柱に腕を置き体重を掛けた。
「寒いだけだろうが、こんなところにいても」
「私は別に構わない。サーヴァントには土台関係のない話だ」
「アーチャー、なぁ。駄々こねてんじゃねえよ」
むっと口を曲げ、アーチャーは意地でもここから動かないと身体全体で主張する。
「帰るぞ」
再びランサーが放った言葉にアーチャーは身を震わせて、両掌を組み口元を皮肉に歪めた。
「帰るなど、私に帰る場所など、はじめからないさ」
ランサーは腕を組んで、視線を遠くへやった。人々の営みから外れた空間で、人々が日々を過ごす明かりに取り巻かれている。粉雪がちらりと遠い街灯の光を弾く。
「不幸な考えの奴には不幸が喜んで食らいついてくるぞ。……まあ、俺たちにとってみれば、この状況は初めから十分に不幸だろうがな。だが開き直って多少は幸せそうな顔でもしてりゃあ、少しはましになるかもしれねえじゃねえか」
楽天的なランサーの考えに、はっ、と蔑んだ声が出た。
「貴様はこんな身に今更、幸せなどというものを説くのか」
ランサーは感情のない目のままアーチャーと対峙し、無表情に告げた。
「ああそうだ。下らねえが、今更面倒なこと言ったって仕方ねえじゃねえか。ほらもういいだろう、行くぞ」
ランサーは反動をつけて支柱から起き上がり、両手を広げた。
「それともなんだ?俺がお前を家まで両手で抱えて行ってやりゃあ満足かよ姫様」
「断る」
「っ……」
「そんな趣味が君にあったとは知らなかったなランサー」
「お前なあ、そんなところだけなあ、そんなすぱっと……もしかして本当はちょっと期待してんじゃねえの」
アーチャーは大上段に構えた口振りで、長身を真直ぐ伸ばして起き上がる。
「君がかね。ならばこれからは重々警戒しておこう」
 馬鹿くせえ、とランサーが繰り出した蹴りを素早く躱し、アーチャーは傘をさすと一人でさっさと歩き出した。少しくらい感謝しても罰は当たんねえだろ手前ェ、と毒づいたランサーはそれでも距離を保ったままアーチャーの後を追う。
迷いなく二人が暮らす部屋へ向かう、アーチャーの後を追う。


 [二月下旬・続]

 際限なく道を覆い隠している白雪は、坂を上るにつれて強固さを増しており、その中をかきわけて進んでいくことはアーチャーにとっても手間だった。重い足取りで坂を上り切ると、その先には厚くのしかかる雪の塊によって本来のフォルムを失っているマスターの洋館と、それを背景にして立つ紺色の服を身に着けた小さな人影があった。あやふやな輪郭が浮かび上がっている洋館には結界がはられており、訪れる人をかたく拒んでいる。結界によって閉ざされた門扉の手前で少女は、る、る、るる、と鳴いた。銀色に輝く長髪をさらりと流し、厚い生地を縫った紺のケープと、それと同色の帽子を被って一面の銀世界の中で可憐に佇む。右手には白銀で編まれた華奢な鳥籠をぶら下げている。その姿はまるで絵本かおとぎ話から抜け出てきたようだ。
 手に下げた鳥籠は、細い蔓が調和しながら絡み合い、芸術品としては完璧なほど乱れの一切ない危ういバランスで美を表現していたが、それ故にその内部に鳥を閉じ込めてしまうことも、または内部に鳥を匿い保護することも出来ない位に、脆く弱い作りをしているだろうと思われた。
 少女の背後に立つ巨大な魔力の塊は、そこにただ立っているだけで、本来有していたであろう猛々しさや獰猛さは微塵も残っていない。案山子のように立ち尽くす“ふぬけ”だ。アーチャーはそこから深く考えだすことを止め、目を逸らした。いつか言われたことと同じ、目前のサーヴァントと向きあうことは、今ここに存在している己自身と向きあうことだったからだ。
『珍しいところで会うものだ』
 喉元までせり上がった皮肉をごくりと飲みこみ、少女と目をあわせないまま結界の張られたマスターの家の門扉へ手をかける。凍りついた重い金属を動かそうとするアーチャーへ、少女は歌うように喋りかけた。
「いい日だと思わない。鳥の散歩に適した日だわ。……散歩をしにきたの、いくら外が終わりのない回雪でも、鳥は飛ばないといけないもの。私だって寒くない……そう、私の故郷はもっと雪が深くて、その雪だってもっとこわかった。こことは比べられないほどに」
まるで淡雪で作られた妖精のような少女には汚れ一つなく、故にその存在は歪だった。
「ねえ、私の鳥がどこへ行ったか、あなたは知っている?」
 アーチャーは少女がぶら下げている鳥籠を無意識のうちにちらりと見たが、そこには根元が灰色がかっている白い羽が一枚、痛々しく横たわっているだけだった。
「上には飛べない、下では歩けない。外では生きていけないのに、内に篭っていては心が弱り衰弱していく……」
少女は冷めきった横顔をアーチャーに向けた。唇は青く、肌は壊れてしまいそうになるほど白く張りつめている。
「あなたもそうなのでしょう。けれど、ねぇ、あなたはもうひとりではなくなったのね……アーチャー」
アーチャーを見透かすような少女の物言いに無益な反発心を抱いたアーチャーは、とっさに反論を口にした。
「私は常に一人だ。例外なく」
 くす、と少女は小さく笑って、息を吐くように声なく、湿った唇だけを動かした。
『うそつき』
「ねえ、ひとりって寂しいわよね、私にはわかる。……そう、でもあなたはもうひとりではないのね。それはとても喜ばしくて、そしてとても残酷なことだわ」
類するものがないほどに。少女はそう言って、傍らに立つ自分のサーヴァントに寄り添い、アーチャーに背を向けた。そのまま、落ち着きすぎている声で問う。
「――ねえ、アーチャー。あなたは、だあれ?」
 少女は凍えた小さな手を開き、上空へと差し出す。
「おいで、る、る、る。一人にならないために。一人きりで、こんな世界を生きないために……」
 少女は去る。ゆっくりと、なにも飛ぶものがない灰色の重い空を見上げながら。

***

 短い日が落ち切る前に部屋へ戻った。玄関でただいま、とアーチャーが声をかけると、おう、と奥にいたランサーが応じた。買ってきた食材を冷蔵庫に仕舞っていると、大きな音を立てて玄関の戸を元気よく開け「ただいま」と叫ぶ、隣の少年の声が壁越しに響いてきた。部屋の床を力一杯に歩く振動がぴりぴりとアーチャーを揺らす。アーチャーは、隣室の少年が在宅の母親へ話しかける賑やかな声をBGMにして夕食を作り出した。   
 かつてアーチャーがマスターと離れて一人で暮らしだしたとき、夕暮れに街を彷徨い歩いていると、どこからかコメの炊ける匂いとなにかが煮える匂いが漂い、肉の焼ける香ばしさや換気扇から漏れ出る家族同士の会話に、ぎりぎりと胸を締めつけられたものだった。英霊となっても、ヒトであったころと同じ郷愁がアーチャーの胸の内に燻り続けていたのだと、そのときに知った。一人で部屋にいるだけでは決して出すことのできない温度と会話。冷えた部屋に立ち尽くし、私にはそんなもの無用だと幾度となく割り切っても、それでも心のどこかで乞うことをやめられない、私に応じてくれる誰かの声。
 アーチャーは青魚をまな板に置き、包丁をいれて解体していこうとしながら、よく通る声で問うた。
「ランサー、塩焼きと味噌煮とどちらがいい」
「あ?」
ランサーは手にしていた雑誌から目を上げ、のっそりと台所へ立ってアーチャーの後ろから手元を覗きこんだ。
「魚か。なあ、この間食ったそれの餡かけ、美味かったな」
「そうか。ではそうしよう」
「いいのか」
「勿論」
冷蔵庫から調味料と野菜を取り出そうとして白いドアに手をかけたところで、アーチャーは己をじっと見つめるランサーの視線に気づいた。訝りながら瓶を手に取る。
「……なにか、言いたいことでも?」
ランサーは柱に凭れながら腕を組んでいる。
「お前さあ」
「……なにかね」
ランサーは気負いのない軽い調子で言った。
「なんていうか、最近優しい顔になったよな」
「――――どういう、意味だ」
 動きを止めたアーチャーに、ランサーは躊躇いなく手を伸ばし、ぐしゃぐしゃと白く強い髪をかきまわすように撫でた。遠慮のない強い力で、几帳面に上へセットされていた髪ごと頭を撫でまわす。アーチャーは思わず息を止め目を瞑った。数回したところでランサーは満足したのか、そのままなにも言わずに離れて背を向けた。アーチャーの全身に、掌から伝わってきた男の温みが、じん、と広がっていく。驚きのあまり凍りついていたアーチャーは垂れ下がる前髪越しに、まるで誰かに降参するように両手を上げたランサーの姿を見る。
「な、なんなんだ一体。……ランサー?」
「したかったからした。それだけだ」
突き離すように答えたランサーを、アーチャーは両手で髪を直しながら心配した。
「貴様、少し変だぞ。熱でもあるのか?」
「熱ねえ。あるかもしれねえなあ」
「体温は測ったのか?もし消化の良い物の方がいいなら今からでも……」
ふっ、とアーチャーの勢いを鼻で笑ったランサーは
「お前、俺がサーヴァントだってこと忘れてんじゃねえの」
と揶揄い、煙草の箱を尻のポケットから取り出した。刺々しい目つきでわざとらしく睨む。
「そうだ、ついでに忘れんなよアーチャー。……お前を殺すのは俺だからな。他の奴にそれを許すなよ、くれぐれも」
そう念押しをして、精々それまで暇なうちにやりたいことをやっておけよ、と言い残しがらりと窓を開け、外のベランダへ出た。遠くに、ライターが照らすランサーの煙草を銜えた口元が、ぼう、と浮かぶ。少女の幻影が告ぐ。
 “あなたはもうひとりではなくなったのね。――――それはとても残酷なこと”
 あの少女は、私たちの関係が砂の上に築かれた仮初の城にすぎないものだと知っていたのだろうか。彼女は知った上で、あんな男にこんな下らぬ思いを抱く私を愚かだと笑ってくれるだろうか。私は私が戻るべき場所を思う。鎖で足に繋がれた枷は私を常に縛り、いつでも好きに引き戻せるのだと涎を垂らしながら待ち構えている。ランサーの忠告は私の心を喜ばせ、同時に私の心を根元から引き裂いた。
 アーチャーは冷静さを保ちながら包丁を手に取り、ごん、と鋭い刃先で魚の頭を切り落とす。刃がまな板に当たる鈍い音は、いつもよりも虚ろに、部屋の中へ響いた。

 夜半に一人、ふと目を覚ました。並べられた二組の布団は、窓から入る静かな月明かりに照らされていた。窓の外へ視線をやり、外の闇を窺う。雪は音なくやみ、煌々と光る月が紺色の空と厚く世界を覆う白銀の形を描き出している。どこかから垂り雪の重い落下音が届く。アーチャーはごそごそと身体を反転させ、隣の布団で腕を枕にして眠るランサーの寝顔をながめ、規則正しい寝息に耳を澄ます。どこか寝惚けたままの頭の片隅で、アーチャーは思う。
 ――君といられるだけで、私にはここでの暮らしが価値あるものになってしまったのかもしれない。長い間一人で時をすごしてきたのに、君と暮らし時折言葉のないまま笑みを交わす、そうして繰り返される日々の営みによって、枯れ果てていた心の土地に水が撒かれ、砂地に緑が芽吹き、豊かに育っていく。錆びついていた剣は急速に朽ち果て、歯車は耳障りな音を立てて軋む。
 私の世界が揺れ始めている。
 止まりかけた歯車に油が差され、なめらかに回転しだす。亡霊は肉を得て、炎の空には恵みのための雨雲が広がりつつある。私が抱いた君への思いで、身体に血が巡り始める。鈍くくすんでいた心が動き出す。
 アーチャーは根底から揺さぶられていた。
 偽りの暮らしで、幸せそうにしていろと君は言った。けれど、と眠気で霞む頭でランサーに呼びかける。私にはもう幸せというものがわからないんだ。君と暮らすこの平穏な日々こそが幸せというものだったのか、あまりにも長い間一人でいた私には正確に判別することができないんだ。すやすやと寝息を立てている君は知らぬうちに私の中へ入りこんでいて、拒む隙もなくここまで深く根差していた。
 ――ランサー。君を愛するということは、私にとって喜びというよりもむしろ、とても深い悲しみの中を泳ぐことに似ている。

 いつの間にか、ランサーは暗闇の中で瞼をひっそりと開き、赤い瞳の表面を覆う泪で月光を淡く反射させていた。唇を動かさずに囁く。
「眠れないのか」
「……君こそ」
ランサーは布団の中から、肌を刺すように痛めつける冷え切った空気へと右腕を晒した。そのままアーチャーへ向けて手を伸ばす。アーチャーは、自分へ向けられて、そして長さが足りずに布団と布団の間で止まる、ランサーの肉がしっかりとついた白い手を不思議な思いで見つめた。
「……ひとというものは、あたたかいものだったのだな」
ランサーはごろりとだらしなく寝そべったままアーチャーと向きあい、穏やかに返す。
「俺はサーヴァントだぞ」
アーチャーは体温で温もる布団から、そろりと左手を伸ばして、ランサーの右腕に触れる寸前で動きを止めた。
「そんな意味ではないよ」
ランサーはもう少しでアーチャーの指先に触れることのできる位置で、立てた人差し指の先でこんこん、と呼ぶように畳を叩き、喉の奥でくく、と可笑しそうに笑った。
「寒いならいつでも温めてやるよ。俺は構わねえぜ」
男の揶揄に、アーチャーは全身から感情を拭い去り、白い手と触れ合う寸前にあった褐色の手を引き上げて布団に丸まり直した。ランサーの指先が五センチほどアーチャーの後を追い、諦めたようにその動きを止めた。互いの視線だけが交差する。
「間にあっているよ、そんなことは」
 そう口にして、けれどランサーと向きあった姿勢のまま布団をかぶって横たわるアーチャーは、首を傾げて誘うように目を細めた。洗ったばかりのぱさついた白髪がすべすべとした額に落ちる。気怠そうに数回瞬きをすると、ランサーは肩を震わせた。
「ならその、物欲しそうなツラをどうにかしろよ。……目の毒だ」
ランサーはこもった声で短く下世話に笑い、急に凛とした真面目な口調に戻ったかと思うと、俺はかまわねえ、……ああ、そうだな、と言い聞かせるように呟いた。

***

 天がぐずつき、牡丹雪が降る日の昼下がりにアーチャーがアパートへ帰宅すると、アパートの敷地への入り口に接する道路の前に、小型の引越しトラックが停車していた。アパートの入口へは、トラックの外側を回りこまなければ到達できない。開け放たれた荷台には、隙間なく家具と段ボールが詰め込まれている。アーチャーがなんの気なしに荷台へ視線をやった時、アパートの玄関先からいきり立った男女の怒鳴り声が辺り一面に響き渡った。
「――っ。ああ、清々するわ!もう顔も見たくない、どこでも好きなところへ行ってよ!」
「それはこっちの台詞だ!散々世話したのに、なんだその言い草は!」
中年に差しかかっているであろう男女が、今にも掴みかからんばかりに互いに罵りあい、遠巻きに引越し会社の制服を着た作業員と大家が、困惑した様子で二人をながめている。思わずトラックの脇で足を止めたアーチャーは、トラックの陰に蹲り項垂れている小学校の高学年くらいの少年に気づいた。少年は肩身の狭い思いをしているのか、小さく縮こまって何もないぐずついた地面を凝視していた。アーチャーは、ああ、この少年は私の部屋の隣に住んでいた親子の子かと思い至り、そしていま派手に喧嘩している女性は確か少年の母であったと理解した。それは遠慮がちにアーチャーを窺う少年も同じであったらしく、食料品の入った袋を下げたアーチャーをおずおずと見上げ
「ごめんなさい。うるさくて」
と、小柄な体に似合わない、大人びた口ぶりでアーチャーに頭を下げた。
「気にすることはないよ。――引越し、するのか?」
アーチャーの問いに、こくり、と少年は頷いた。
「ばあちゃんの家に戻る。ばあちゃんの体調がよくないからって」
「……あの男性は君の父親なのか?」
「違う。知らない人。でも時々きてた」
「そうか……」
少年の母と散々罵りあった男は、
「勝手にしろ!」
と最後に言い放ってアパートの敷地から立ち去ろうとし、ぶつぶつと不満を呟きながら「くそっ」と門柱を蹴りつけ、姿を消した。修羅と化した表情の母親は腰に手を当て、仁王立ちのまま歯を強く食いしばり
「――!車乗んな!行くよ!」
と少年を呼んだ。そして、上り切った血はもうそれ以上に上がりようもないのか、怒りが収まらない様子ではあるが、息子の傍らに立つアーチャーに気づくと「すみませんねえ」と頭を下げ
「あ、お兄ちゃん、これあげるよ」
と小さな金属をアーチャーの胸元に放り投げた。反射的に受け止めた、銀製の長方形をした塊には、表に繊細な彫刻が施されており、ぷん、と鼻につくオイルの匂いがした。架空の獣が表面でのたうつライターを、アーチャーは戸惑いながら受け取った手で差し出し
「いや、戴くわけには」
と、母親へ返却しようとする。彼女は笑いながら顔の前で手を横に振り
「見苦しいところを見せて悪かったね。それは餞別だよ。あの青いお兄ちゃんにでも渡しておいてよ。……それじゃ、ああ、大家さん本当にすみませんでした。もう行きますんで……」
と、アパートの入口にいた大家と作業を終えた作業員に声をかけに行く。ライターのモチーフはアーチャーが見たことのないものだった。彫りは細かく、どこにも黒ずみが見られないほど完璧に磨き上げられている。
「ばあちゃんの近くで煙草吸ったらダメだから、禁煙するんだってさ」
困惑しているアーチャーに対し、少年は呆れたように母を笑って「それじゃあね」と立ち上がり、服の汚れを払った。トラックの反対に停車している乗用車にむかう。アーチャーは彼をじっと見つめ
「君、元気でな。気をつけたまえよ」
と別れを告げた。少年は溌剌とした笑顔で
「おう!」
と無邪気に手を振る。こうして、互いに名を知ることもなかった隣人同士は、各々の道を進むために分かれていった。

***

 その日の晩、ランサーの帰宅は遅かった。連絡の一つもなく、アーチャーは台所で冷めていく夕食と壁に掛けられている時計を交互に見比べ続け、やがて夕食を冷蔵庫に仕舞っては時計を見上げ、風呂を浴びてまた時計を見た。長針と短針が頂点で重なりあい、それから暫くして部屋の鍵を回す金属音が玄関から響く。近づく足音は不機嫌さを露わにして隠そうともせず、忙しない様子で奥の部屋の布団の上に座りこんでいたアーチャーへ直進する。訝し気に己を窺うアーチャーを、帰宅したランサーは感情なく見下ろした。
「どうしたんだ。……おかえり、ランサー。夕食はもう済ませたのか?」
「いや。だが、いや。ああそうだな、食う」
アーチャーは、はっきりと返事をしたまえよと男を咎めながら、それでも立ち上がって台所で夕飯を温めなおそうとする。アーチャーの後を追おうとしたランサーは、アーチャーの布団の枕元に置かれた見慣れないライターに目を止め、冷ややかにそれを睨みつけながら、硬い声で問う。
「どうしたんだ、あれは。あのライターは何だ、アーチャー」
「ああ、どうしたもなにも、貰いものだよ。君にな。隣の部屋に親子が住んでいただろう。今日引越すからと、くれたんだよ餞別に」
 ランサーは半眼のまま宙を睨み、アーチャーからは表情を窺うことのできない位置の卓袱台の横に立って、苛立った様子のままがりがりと頭を掻いた。まるで呻くように、低音の声でランサーは警告する。
「誰かと交流なんかするんじゃねえよ」
アーチャーは、日頃のランサーとはあまりに落差のある冷え切った態度に、思わず手を止めた。
「なぜ。……そんなこと、私の勝手だろう」
「お前のためだ。そんなことをしてなんの意味がある。ただ自分を余計に苦しめるだけだ」
ランサーはアーチャーに背を向けたまま、無造作に自分自身の苛立ちにまみれた鋭い言葉を投げつけ、アーチャーを傷つけようとしているように思えた。腹に据えかねるランサーの台詞は、アーチャーの頭へ一気に血を上らせる。
「はっきり言おう、大きなお世話だ。それに第一、君に言えたことか。働いている君の方が“交流”とやらは多いのではないかね。そのライターだって君にくれたものだ。私の前に、まずは君自身が身の振り方を考えたまえよ」
ランサーは音がなるほど強く奥歯を噛みしめていた。
「前を見ろ、アーチャー。俺たちが行きつく先を」
「そんなもの。こんなところに前などない。私には前も後もない。ただ無為にいるだけだ。それともなんだ。『君達』はこんな暮らしでさえも、私の全て、そうとも、すべてを管理せねば満足しないとでも言うつもりか」
「あいつらと俺は違う!」
「同じではないか!」
ドンッ、と苛立ちに任せて壁を拳で殴ったランサーの上に、ぱらぱらと天井から埃が落ちる。ぎりぎりと音のなる歯の隙間から、ランサーは恨みを絞り出す。
「違う。あいつらは、俺たちを。……いや、あァ!そうなんだろうさ!」
怒りを全身に滲ませ、ランサーはアーチャーには解らぬ言葉を吐き捨てると、そのまま一度もアーチャーを振り返ることなく、荒々しい動作で玄関の扉を閉め、部屋の外へ出ていった。靴がカンカンと高い音を響かせ階段を下っていき、唐突にふっと気配は消えた。
 台所の蛇口から、ぴちゃん、と水が滴り落ちる。
 アーチャーはたまらず枕元まで行き、置いてあったライターを勢いよく拾い上げるとそれを窓の外へ放り投げようと大きく振りかぶり、そのまま相反する気持ちに縛られ震えながら止まった。
 終わりなど幾つも経験してきた、悲しみを押し殺す術など数え切れない位にあった。思いあう人間同士の関係が呆気なく崩壊する姿など飽きるほど見てきた。けれど、それでもアーチャーの何処か、軟い心の何処かが際限なく生々しい悲しみに引き絞られている。
 ランサー。私は君に、この思いを伝えることは決してないだろう。私は私が言ったことを否定しない。それでも、君が私の、私たちの、そして君の、この先に苦しんでいるのならば私は、その苦しみに寄り添わせてほしかった。私がどうにかしてやりたかった。まるで関係そのものを断ち切るように、君に出ていってほしくなどなかった。
 私にランサーを追う資格などない、とアーチャーは口にできぬ思いを噛み殺す。隣の部屋にも、二人の部屋にも人の動く気配はなく、静寂だけが空間を埋める。
 君はいつか“幸せ”と言った。
アーチャーの力なく項垂れた手からライターが畳の上に落ち、曖昧な音を立てた。そのままフラフラと台所に戻り、硝子のコップへ水を汲んで一気に飲み干した。乱暴にコップを流し台に置き、狭く寒い台所の片隅にずるずるとへたりこむ。微かに唸る冷蔵庫のドアにもたれかかりながら、ぼんやりとこの部屋でランサーがアーチャーの手料理を幸せそうに頬張る光景を思い返した。彼は白米を大きな口にかきこみ、肉や魚へかぶりつく。彼が食べる姿は生気に満ち満ちていて、とても気持ちのいいものだと思う。
 食べるとき、ヒトはとても原始的で、限りなく無防備だ。だからこそ、愛しくてたまらない。私は彼との思い出を確かに慈しんでいる。私にとって、君さえいたらきっとこれからも幸せで、きっとこれまでも幸せだったのだ。その幸せは、ささやかで、それでもアーチャーにはあまりにも身分不相応すぎた。
 アーチャーは、胸に抱くランサーへの愛情をこれ以上なく明確に自覚し、その思いの深さにどこまでも絶望した。陰る台所に残され、一人孤独に問いかける。部屋に残る彼の体温に訊く。
 なあ、ランサー。君はどうしてこんなことをしようと考えたんだ。君は誰に何を言われて私と共に生活を共にし、私に対して親しく、それも限度を超えた親しさで振る舞うことにしたんだ。命令だろうか。君自身の欲だろうか。教えてほしい。
この無様極まりない状況は、君の思い描いていた計画通りだったのか、どこかで大きく食い違ったのか。
 アーチャーは組んだ腕に顔を埋め、心の中で幾度も問いかける。返事などない。それでも問い続け、そして何度目かの問いの後に、ああ、君を愛するということはこれほどまでに悲しいことなのかと、迸りそうになる叫びを堪えて喉を震わせた。

***

 2DKに隙間なく折り重なり、破裂してしまいそうなランサーとの思い出に耐えきれず、アーチャーは目的もなく冬木の街へ出た。周回魚のように、決まった手順でぐるぐると街の様子を確認していく。雪の重みで潰れてしまった古い木造の家から、住人らしき数人が家財道具を持ち出していた。アーチャーはその脇を通りすぎる。何故か街はどこかよそよそしく、時間の感覚もないまま泥と雪が混じりぬかるむ道の上をさすらい続ける。   
 赤い橋、海岸、オフィス街。アーチャーは無意識のうちに、一人の男の気配を宛てなく探していた。
 私は、この街のあちこちで惨めに一人踊り続けている。君の思いを理解できず、上手く動けないまま君が差し出した手を取り損ねて、最果てで一人でくるりくるりと道化のように踊っているんだ。この街のどこを歩いても、君の気配が確かに私に寄り添って、私は幻だと知りながら君の手を取り、この街を舞台にして一緒に踊っている。流れない涙と共に、君の手を取った先にある甘い世界を夢想する。

 アーチャーの前から、手に抱えた紙袋をがさりごそりと鳴らしながら女が接近してくる。魔女の正体を隠した魔力の塊は、通りにある八百屋で買い物をしてきたらしい。アーチャーは商店街の中心を貫く通りで自分が立ち尽くしていることに気づいて、今日はランサーになにを食べさせてやればいいのだろうか、それとももう二度とそんな心配をする必要はないのだろうかと迷い、悩む。魔女はアーチャーへの警戒を仄かに匂わせながら、袋を抱えて足音も立てずにアーチャーの隣をすり抜けようとし、その瞬間艶やかで青味がかった唇を意地悪く歪めた。
「近頃随分浮かれているようね、アーチャー。私をここまで近づけるなんて、現世での暮らしに目が眩んでいるのではなくて」
「……その台詞は私のものだな。君こそ近接戦に最も向いていないクラスではないか」
野菜と果物の詰まった茶色い紙袋を抱えて、キャスターは
「あらあら」
と幼児の悪戯を発見したかのように呆れてみせた。
キャスターが買い物をしたらしい八百屋の店頭に置かれている幾つもの小さなかごには空白が目立っていた。だがなぜか林檎だけは山積みになり、皮は瑞々しく真っ赤にはりつめ、ワックスを刷いたように光を反射させている。キャスターは抱えていた紙袋から、店頭に山積みにされているものと同じ、赤々と太った林檎を細く長い指でそっと掴みあげた。憂いた表情へ色気を添える長髪がさらりと肩に流れる。
「貴方たちは、なんとも狭い世界で生きているのねえ。あらあら、大変な坊やたちですこと。ふふ、浮かれているようにみせて、本当のところはどうなのかしら」
 持ち上げられた赤く歪な球体を挟んで、青い唇が三日月の形を描く。アーチャーを面白がって揶揄う魔女は、そんな振舞いをしているが、その実アーチャーに最も近い存在かもしれなかった。
「生憎占いなら間に合っている。他所でやりたまえよ」
魔女は、覇気のない弓兵と、それでも強がってみせる口先を嘲笑う。彼女は弓兵の抱く思いの遥か底まで、知りすぎるほどに知り尽くしていた。
「確かに私は現世でのサーヴァントの生き方など知らなかったからな、さぞかし不格好だろう。何しろ余暇などというものを手にしたのは初めてでね。――だが君も同じだろう、キャスター。浮かれたふりをして無理やりにでも楽しんでみせなければ、今にも罪悪に押し潰されそうなんだろう、君」
 キャスターは仮面を思わせる笑顔のまま顔を傾け、顔に纏わりつく長髪を優雅な仕草で振り払った。何事もなかったように歩き出そうとし、その寸前に手を横に差し出して毒々しいほど深い赤色をした林檎をアーチャーの掌に落とす。
「与えられた空白に戸惑い、抱いてしまった愛に苦しむ。まるで人間に戻ったような、贅沢な悩みよ。……そう思わなくて?」
 ――そう思いたいのは、もしかして君自身なのではないか、キャスター。奇妙な縁を手にした互いの心を知らぬうちに抉る、そんな言葉を、アーチャーは決して口にしようとしなかった。

***

 つめたい空気の流れる孤独な部屋に帰る気になれず、日が落ちるまであてどなく街をぶらついていた。けれど、もしかしたらランサーが帰宅して腹を空かせていたら、と想像しては心を痛め、帰ってきていなかったらと想像しては苦しみに呼吸が細る。帰ってきていたら、帰ってきていなかったら、と心中の天秤がゆらゆら上下している状態で二人の部屋へ行くための坂道の下に立った。引き裂かれそうな心のまま、手前の街路樹を透かして道の上のアパートを見上げると、右端の部屋の二階の窓から四角い光が明々と屋外の闇の中に浮かび上がっていた。
 ランサーが帰ってきている。アーチャーは痺れて固まった頭のままぬかるむ道の上を、つるつると滑りそうなる度手を上下し急き立てられているように駆け上がっていく。足が取られ厚く積もった雪の中に手をついて、雪を撒き散らしながらそれでも窓の明かりを見上げ起き上がっては坂を這うように上る。アーチャーは固まった頭で、きっと希望というものが実在するのならば、このような形の思いに縋ることをいうのだと思った。
 雪の間に轍を描く坂道の途中で、アーチャーは一人の男とすれ違う。視界にも入らぬ男とすれ違ってから二歩、三歩と進み、全身が逆立つ強烈な違和感を抱いてアーチャーは思わず足を止めて去りつつある男を振り返った。暗闇に溶け込む黒を基調とした服を着ている男は、どうやらカソックを着用した宗教関係者のようだった。アーチャーと同じタイミングで背を向けたまま歩を緩めた男は、噛み殺しきれていない笑みを滲ませ、なにかが嬉しくてたまらない、そんな調子の声を静かに闇へ放つ。
「心配などいらない、なに、じきに動く。……そろそろ、君の一番大切なものを返して貰おう」
 そう、誰になにを宛てたのかアーチャーには不明な言葉だけを残し、顔も見せぬまま男は暗闇へ去る。アーチャーは坂道の途中で立ち尽くしたまま、道を下っていく存在を目で捉え続けた。
 いま、あいつを、始末するべきだ。
弓兵の警戒心が叫び、警告に視界が赤く染まる。だが、アーチャーは部屋に明かりを灯している存在だけを求めて、アパートへと身を翻した。

 金属の扉の向こうから、換気扇を通して夕食の匂いが漂ってきていた。怯える心を励まして、冷たいドアノブを回してみると、鍵はかかっていなかった。がちゃりと軽い音を立てて簡単に開く。その音に、台所にいたランサーが弾かれるように振り返る様子が、アーチャーの目に飛び込んできた。料理の匂いにまぎれて、煙草の焼ける匂いが漂ってくる。開け放たれた玄関には投げつけられたと思しきかつて皿であった陶器の欠片が粉々に砕け散り、その上の一面に醤油が広がってぴちゃりぴちゃりと滴り落ちている。玄関には、馴染んだ二人の気配以外に、正体の知れぬ誰かが残していった濃密な気配がありありと残っていた。
「悪ぃ、気ぃつけろ、そこ」
ランサーは昂る気を静めようとしているのか、煙草へ火をつけて気まずそうに換気扇の傍で紫煙を吐き出す。台所を見ると、飯は炊けており、鍋ではなにかが煮込まれていた。スパイスの強い香りが紫煙と共に辺り一面を支配している。
 アーチャーは砕けた破片を踏みつけないように慎重に足を下ろし、金属で覆われた台の上に右手を乗せた。調理台に寄りかかりながら、煙草片手にアーチャーへ注意を向けるランサーへ、そっと願いを差し出す。
「 “ただいま。おいしそうじゃないか、一口味見させてくれないか”」
 ランサーはじわじわ目を見開いていった。驚いた顔のあと急に真剣な表情をして、煙草の火を潰した。冷え切った足を包むアーチャーの靴下に、床に広がる醤油が染み込み、足先を刺すように刺激する。
アーチャーは足が汚れることも厭わずに乞い、ランサーも右手で宙をかいて、いつもアーチャーが食物を差し出す銀の匙を探しあてると、大切そうにその柄を持ち上げた。
 アーチャーには、誰がこの部屋を訪ねてきていたのか、なぜランサーが皿を投げつけるほど神経を逆なでされたのかなど分かりそうにもなかった。けれどそんなことは些事だ。アーチャーにとって、アーチャーとランサーの二人に必要だったのは、仲違いを上手く収めてくれる一本の銀の匙だけだったのだ。ランサーの、煙草の香りに混じる体臭が、暖かな湯気を放つ料理の香りが、孤独なアーチャーを包む。ランサーの髪が揺れるたび、アーチャーの髪と同じはずの、けれどどこか違うシャンプーの香りを放つ。ぎこちない手つきで差し出された銀の匙に意識を全て集中させ、アーチャーは口をひらいた。緊張で味もわからぬなにかを舌の上に乗せながら、そっとランサーを上目遣いに窺うと、ランサーも緊張に口を堅く結び、それでも匙へ噛りつくアーチャーの全てを愛おしそうに見守っていた。
 
 二人で食事をしている間、アーチャーとランサーは一切会話をしなかった。ランサーは自分の作った野菜の煮込みと焼いた魚を食しながらも、ここには無いなにかに気を取られているらしく、どこか上の空だった。食器と箸のぶつかる澄んだ音、湯呑を机の上に置く鈍い音に耳を傾けながらアーチャーは皿の上だけを凝視して黙々と箸を皿と口の間で往復させる。ランサーが折角作ってくれたものを食べ切ってしまうことは例えようもなく残念だったが、浮足立っている感情のせいで、料理の味や温度はよくわからなかった。
 汚れた食器の上に落ちる凍てつく温度の水道水が、湯になるのを流しの前でじっと待っていると、奥にいたランサーがのそりと立ち上がった。外套を手に取り、砕けた皿が全て片付けられ拭き清められた玄関で靴へ足を突っ込む。アーチャーは平静さを装いながら問う。
「出るのか」
「ああ、出てくる」
「……今日、帰ってくるのか」
ランサーは顔をあげた。視線の交わる息苦しさに耐え兼ねたアーチャーは、皿を洗うことに集中しているふりをする。
「あァ、すぐに帰ってくる」
ランサーの声も、誰かに喉を絞められているような息苦しさを伴っていた。
「そうか、気をつけて行ってきたまえよ」
「先に風呂にでも入ってろ。俺はあとでいい」
そう言い残して、ランサーは風の強い外へ出かけて行った。ぬるい湯で鍋の底を洗うアーチャーは、濡れたままの手の甲で鼻の下を強くこすった。そのまま動きを止めた前で、開かれた蛇口の水だけが終わりなく流れ続けている。
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