fate(槍弓)
――これは遊び
君と私、空白をうめるための
[プロローグ〕
私たちはいくつかの約束を交わした。明確なものも、互いに黙って了承しあっているつもりの不明瞭なものもあった。それでも私たちは互いに納得し、合意し、ときには同意して二人で同じ場所に住んでいた。同じ部屋で、同じ食事を朝晩向かいあって摂る。私たちの身体はもう人間と同じ栄養を必要としなくなっていたけれど、彼は
「お前の作る飯、美味いからまた作ってくれよ」
と、私の作った料理を初めて口にした後に言い、私も私で得意分野の、それも生臭い人の血の臭いが染みついていない行為、を改めて褒められることが満更でもなかった。
互いの小さな喜びだったのだと思う。けれど、その姿はある一部分で形を変えた。約束はいつしか、ある意味で私たちの儀式となったのだ、互いに無言のまま。
ランサーは現界中の暇潰しに、と始めたアルバイトを気に入っているらしく、毎日規則正しく働きに行く。確かに、彼が呼び出された本来の理由と役割を取り上げられたまま、一日を家の中で過ごすことは彼に苦痛しかもたらさないだろう。毎朝彼は出かけ、毎晩決まった時間に帰ってくる。寒さに赤らむ頬を緩ませ、靴を脱いで傾いだ身体にまとわりつく雪を三和土で払い、私に
「ただいま」
という。そして外の空気を玄関に漂わせながら、台所の火にかかった鍋とその前に立っている私を交互に見て、
「うまそう。一口味見させてくれよ」
と飽くことなく必ず乞うのだ。私はその言葉をどこかで予感している。そして、知らぬうちに定位置に納まるようになった銀色の匙を手に取り、鍋の中で湯気を立ちのぼらせている食物を一掬いする。最初のうちは、行儀の悪い、とか自分でしたまえよ、とか夕食まで待ちたまえよ、などと言って咎めていた気がする。だが、いつからか皮肉が消え、忠告が消え、交わしあう言葉が消えて、私は慎重な手つきで、砂漠で得た一口の水を与えるかのように、彼へ一匙の食物を差し出すのだ。
彼は匙の位置を正確に測り、震えを無理矢理押さえつけている私のぎこちない手と、腕と、どのような表情をすればいいのか困惑している私を静かに見つめながら、ゆっくりと大きな口を開き匙を口の中へとおさめていく。今となっては、差し出す食物が熱すぎる、多すぎる、などといった過ちを犯すことはない。彼は寒さでかさつく赤い唇で匙を一気に食み、満足そうな目をして輝く匙だけを私の手元に残して身体を引く。私には、私と彼が今日も無事にこの儀式のようなふるまいを終えることができた、という達成感と僅かな脱力感だけが残る。
私たちは、理由もわからずに与えられた無為な生活のなかで、理由なく身を寄せあい、冷たい金属を通して互いと関わっている。私たちは了解している。こんな関係は、他愛もない、持て余す時間を潰すことだけを目的としている、ただの子供じみた遊びでしかないのだと。
私たちは言葉にせず約束している。いつか時がきたなら、互いを殺しあう戦士に戻ろうと。
[二月上旬]
深山の町にある家電販売店の店頭に置かれたTVには、大きく天気図が映され、ダークスーツを着た男性が指示棒を持って今の天候がいかに異常なのか、落ち着いた声で詳細に解説している。TVが置かれているショーケースの前の道路には汚れた雪がうず高く積まれ、下層部分は固く凍りついている。表を歩く人の姿は数えるほどしかなく、休日の昼間だというのに商店街は閑散としていた。当初、温暖なこの地に降った雪に、子供たちは胸を躍らせ大人たちは交通機関の乱れを憂いた。その日から凡そ一か月、雪は休みなく上空から落下し続けた。徐々に勢いを失いつつも、いまだマスメディアや大人たちの話題とならない日はない。
アーチャーのマスターも出立前難しい顔をして、居間にあるTVの画面から視線を外さなかった。彼女はマスターの様子を窺うアーチャーに対し、外から洋館を震わす重い揺れについて、あの音はチェーンね、バスがチェーンをつけて走ってるのよ、とどこか上の空な様子で教える。。定刻じゃないから運行時間が狂っているんでしょうね、電車で行くにしても空港で便が止まっているかもしれない、フライトの情報がどこにも出てないわ。そう畳みかけるように言い募り、……どちらにしても行くしかないわね。呼ばれているんだから。結局違うのはかかる時間だけ、とうんざりした様子でTVの電源を落とした。
疲れた表情で急ぎながら出発した彼女は、どうやら無事に日本から旅立てたらしく、肩を落として再び洋館に戻ることはなかった。
アーチャーは無人のマスター宅から出ていく際に、召喚されてから与えられた暗い色の外套を羽織り、午前と午後の区別もなく降り続く粉雪の下へと歩みだした。かろうじて道となっている庭の中の獣道も、近いうちに埋まってしまいそうだった。舞うように落ちる雪の姿は軽く見えるが、マスターの邸宅へ、庭へ、道路へと重く圧しかかっていく。道を行く人影は稀だ。坂の上に立つ洋館の周囲となれば尚更だった。アーチャーは広大な敷地の上で、ずぐ、ずぐと雪を押し固めるように、一歩ずつ慎重に足を運ぶ。また雪を下ろして片づけなければ、と思いながら門扉へ向かっていると、通行人の声が遠くから届いてきたのでアーチャーは足を止めた。
まあ本当に大変な天気で、異常気象ですねえ、変な事件も多くて今年はどうなっているんでしょうね……。
アーチャーは人目を避けるために庭木の陰で足を止めていたが、それにはなんの意味もなかったことを知りため息をついた。犬が甲高く鳴き、飼い主と共に遠ざかっていく。その気配にまじって紫煙が周囲に漂っていた。門前の道路で派手な色をした長髪の男が暇そうに煙草をくゆらしながらぼうと立っていては、身を隠そうとするアーチャーの些細な努力など水泡に帰す。
アーチャーは洋館の玄関から庭を経由して表の道路の轍までつながる小道を辿り、視線を動かすことなく外へ歩みでた。表は人家が限られているせいで一層雪が深く、根雪と新雪を踏むたびに、足元からしゃくしゃくと音がする。一定のリズムを崩さずに前進する。
青い髪の男は、季節外れの薄いコートを羽織った肩を寒さですぼませながら、ゆっくりと道路に出たアーチャーの後をついてくる。アーチャーの足音に、男の足音がまるで影のように重なりあう。
「嬢ちゃんは発っただろう。俺の言った通りに」
男の声は寒さゆえか、少し鼻にかかっていた。アーチャーを揶揄う軽い調子で、どこか暗い言葉を投げつける。
「悲観することじゃねえ、決まっていたことだ。連れていかれなかったことが不満か?……大いに不満だって面してんな、それは」
男は笑いを噛み殺せぬ様子のまま、アーチャーの後をのろのろと遅く追う。アーチャーは正面だけを見つめ、足取りを乱すことなく前へと進む。確実などこかへ向かうように振舞っているくせに、その実、行く場所などどこにもないことは後ろの男が一番よく知っていた。
「悲しむなら、俺たちは七人同時に悲しむんだろうな。だけどな、知っているか?セイバーも、キャスターも、アサシンも上手くやっているんだ。バーサーカーは頭数に入らねえな。奴には、戦えないことが不満かもしれねえな」
ふぇくしっ、とランサーは一回大きくくしゃみをして、寒さに体を震わせてぼやく。
「まあ、深く考えねえこった。どうやったって使い魔は所詮使い魔さあね。あぁ、ヤダヤダ」
アーチャーは交差点に出て、ミラー越しにランサーを見つめた。じゅくじゅくと水気でぬかるむアスファルトを踏みしめて停止し、不快そうに口を開く。
「それで、貴様は私に情報をひけらかして、その代わりになにを得ようとしているのかね。私は貴様に言うべきことも、貴様から聞くべき事柄もない……」
アーチャーは息を止めて内心で暫し躊躇し、しかしきっぱりと言い切った。
「貴様と馴れあうつもりはない、ランサー」
ランサーは吸っていた煙草を銜えたまま、にぃ、と唇を曲げた。瞳はどこか光を失い陰っている。
「気があうな。俺もだよ」
けどな。ランサーは手触りのない笑いを顔にはりつけ、アーチャーへ顎をしゃくった。
「ここを右に行くんだ」
硬い表情のまま背後を振り返ったアーチャーは、挑むようにランサーを見据える。ランサーはコートのポケットに両手を突っ込んで、ざかざかと雪を跳ね散らかすように歩きだした。アーチャーの視線が己の身体に突き刺さっていることを知りながら、それでも決して正面から対峙しようとはせず、優しく溶けた声でアーチャーに囁く。まるで親密な相手へ、愛を囁いているかのように。
「難しいコトを考える必要なんかねえ。それは今、戦争と、聖杯を止めている下らねえマスター連中が考えるべきことだ。俺たちはまた役割が割り振られるまでか、あっちへ還って消え失せるまでは自由にしてりゃいいんだ。裏を返せばそれ以外に選択肢なんざねえ。……よく知ってるよなァ、アーチャー」
アーチャーはランサーの言葉に一切反応しなかったが、その態度こそ槍兵の言葉を聞き逃すことのできない弓兵そのものを示していた。
「暇だろう?嬢ちゃんまでいなくなって」
赤い目を細めたランサーは、誰かに与えられた言葉をそのまま口にしているかのように、つらつらと言葉を並べていく。風向きが変わったのか、ランサーの吸う煙草の匂いがアーチャーの全身を包んだ。
「そうだ、心底下らねえ、人間同士の争いってのはな。……アレは長引くぞ」
アーチャーは、ランサーが外に出すことは決してないが、反面とても表現したがっている感情に薄々検討がついてしまった。彼は言いたいのだ。
――もう還りてえんだよ、俺だって、本当は。
ランサーはアーチャーへ進む道を教えるために数歩前に出て、きちんと後ろをついてきているか確かめるために振り返った。
「前も言っただろ。暇があるなら潰すんだ。不善を為さないことが、今のマスター連中には聖杯の次に大事なんだとさ。深く考えることはない」
槍兵は一瞬宙へ視線をやり、俯いてぽつりと言った。
「こんなもの、児戯だ。ただのな……」
[二月下旬]
瞼を開いて、節の目立つ天井の木目を眺めながら、ランサーがこの部屋の入り口でくるりと手品のように小さな銀色の鍵を掌に出した光景を思い出す。2DKの古びた、大柄な男同士には狭ささえ感じさせるアパートの二階。どこからこんなものを調達したのだろうか、と男に対し胡乱な目をしていたアーチャーへ
「ツテだ、身分がないときは伝手がものをいう」
とランサーは言い、アーチャーに鍵のスペアを放り投げた。
アーチャーは毎朝、早い時間に覚醒する。最早睡眠を特に必要としない身体ではあるが、狭い部屋の中でランサーと布団を並べて毎夜眠りにつく。そして翌朝に、隣で気分良く寝こけている男を見て、ああ、私は今日もまだ世界に繋がれている、と喜びか悲しみかわからない思いで確認するのだ。
今でも、アーチャーとマスターの間には細くてどこまでも長いレイラインが延びている。彼女が冬木にいたときの線はもう少し丈夫で、記憶や感情の行来は活発だった。けれど、物理的にも精神的にも遠く離れるにつれてその線は次第に細くなり、遥か遠方へと延びていった。最低限の魔力だけが日々アーチャーへと流れこみ、かろうじてその肉体を支えている。多くを望まないアーチャーにはそれで十分だった。アーチャーはかつて出立前のマスターへ問うたのだ。
“もしも君のいない間に戦う必要が生じた場合はどうすればいい”
彼女は端的に告げた
“争わないで、何者とも。私の許可なく”
――それは命令か?と訊ねたアーチャーに、彼女は平然と答えた。
「ええ」
それ以降、アーチャーは現界するために要する最低限の魔力供給だけを必要とした。
うるさくしないよう注意を払いながら布団から出て、朝食はどうしようかと思案しながら窓の外を窺うと、変わりばえのしない一面の白銀へ灰色の空から終わりなく雪が降っていた。雪は夜の音を吸い尽くし、世界中を無音にさせてはきらきらと輝いている。火の気のない室内は冷え切っていた。暖房をつけ、凍る寸前の水を厭うことなく水道で顔を洗う。白い前髪から水が滴り落ちている鏡の中の己の顔と向かいあい、自身に与えられた役割を再び一から数えなおした。
部屋の中に朝餉の匂いが充満する。ごそ、と寝返りを打ったランサーは声を上げながら両腕を上へと伸ばした。その勢いのままむくりと起き上がると、寝惚けた表情でがりがりと乱れた頭を掻き、大きく欠伸をした。怠そうに起き上がり
「相変わらずはええなァ」
と呟きながら顔を洗いにいく。
アーチャーは焼いていた魚を皿に乗せ、白米、みそ汁と香の物を一緒に、手前の一間へ置かれている卓袱台の上へ運ぶ。ランサーは前髪に残った水滴を邪魔そうに弾き飛ばし、自身の朝食の前に座りこんで
「ああ、よく寝た。寝過ぎて眠いくらいだ」
と唸り、いただきます、と手をあわせた。アーチャーもランサーに倣う。
この部屋へこの卓袱台を置くことに拘ったのはランサーだった。まだ互いが、刺々しささえ残る他人行儀な関係だった当初、ランサーも思うところがあったのかこの部屋に安住してはいなかった。夜更けに部屋に姿を見せたかと思うと、会話もなくごろりと畳の上に直に寝ころび、そのまま数時間眠ってはまた出ていく。
深夜の暗い部屋の中、寝息を立てるランサーの近くで距離を測りかねたままアーチャーが所在なく佇み、使っている毛布を片手に下げて難しそうに悩んでは、やがて首を振って自分の布団に帰り窓の外を見ながら眠れぬ一夜を過ごす、そんな男の存在にランサーが気づいていたのかはわからない。だがランサーはある日、アパート中に響く重い足音を立ててアーチャーとの共同部屋に帰ってきた。部屋の奥に座って警戒心を隠そうともしないアーチャーへ、珍しくおう、と気安く声をかけ
「貰ってきたから置く」
と、裸のままの卓袱台を、どしんと柱を揺らす勢いでキッチンと奥の和室に挟まれている一間に置いた。卓袱台は雪に降られてきたのかじっとり濡れていて、落ちた水滴が古く焼けた畳に染みを作る。頭と肩に雪を乗せているランサーは、堪えきれずくしゃみをした。
「……」
アーチャーは驚きに固まったまま、仕方なく
「とりあえず、きみ……ランサー? 外で服の雪を払ってきたまえよ」
と忠告した。見て見ぬ振りも出来ず洗面所までタオルを取りにいこうとして、無意識のうちに自分が一人のときには使っていなかった、傍らのヒーターの電源を押して立ち上がる。
「くっそ、寒いな。耐えらんねえ、随分冷えてんなこの部屋。お前も帰ってきたばっかりか?」
ランサーの言葉にはなにも返さずに、アーチャーは清潔に洗われ几帳面に畳まれたタオルを男へずい、と差し出す。
「あ? ……俺に? 俺どこか濡れてるか?」
鳩が豆鉄砲を食ったような阿呆な顔つきのランサーをよそに、アーチャーは開け放たれていた玄関を無言で閉め、目の前の男の腕を掴み火がともったヒーターの前まで引きずる。
「お、おい」
と制止する声に構わず、溶けた雪が染み込んで濡れそぼる青髪の全体をタオルでわしゃわしゃと拭う。その勢いにのまれたランサーは抵抗も出来ず、ヒーターに当たりながら借りてきた猫のように背を丸めた。
「――。置く場所が、ないだろう」
しばらくして後ろの男が発した溜息まじりの声に反応し、「えっ」とランサーは背後を反射的に振り返った。驚いた顔をして眉を下げたアーチャーと正面から目線がぶつかる。
「だから、置く場所がないだろう。見たところ折り畳み式でもないようだし、キッチンに置くと言っても、私はキッチンの地べたに座って食事をするのは断る。畳の部屋があるのだから」
ランサーは丁寧な手つきで頭を拭い続けるタオルに身を委ねながら首を傾げ
「ココの部屋に置いときゃあいいじゃねえか」
と言い放った。
「……そうしたら、今度は貴様の寝る部屋がなくなってしまうだろう」
「なんでそうなるんだ。こっちの部屋は机で、奥の部屋に寝りゃあいいじゃねえか」
「……私も寝る場所を必要としているのだがね、一応」
「おう、奥で寝てるんだろ。その隣で寝るわ。そういや、この部屋に俺の布団ってあるか?近頃寝てると妙に寒いんだよなあ」
はぁ、と再びアーチャーから吐き出された溜息のあとに、反論は重ねられなかった。
そのときから、どこかで使いこまれてきた古く丈夫な卓袱台は一間の中心を我が物顔で支配して、アーチャーとランサーはそこで向かいあって食を共にするようになった。夜はアーチャーの意地を示してできる限り距離をとった二床の寝具を同じ一間に並べ、眠る。
今では、のんびりとした手つきで器用に魚をほぐし口へ放り込んで咀嚼するランサーの存在に、違和感を覚えることもない。
「今日は休みなのか、ランサー」
ごくり、と食べていたものを飲みこみ、熱い茶を啜ったランサーは「ああ」と返す。日頃の日中の行動には互いに干渉しないが、それでも交わす情報は増えていく。アルバイトのこと、食事のこと、出掛先のこと、互いのこと。
「お前こそ今日出かけんのか?」
「ああ、だが急ぎではない。ゆっくり出るさ」
ちらりとランサーを上目遣いに窺うと、白米をかきこんで窓の外を見ていた。不意に、ランサーが休みならば私も一日部屋にいると言えばよかっただろうか、と後悔する。きっと会話もなく、沈黙だけが圧しかかる一日になるだけだとわかり切っているはずなのに、それでも平穏なまま共に過ごす一日をアーチャーは好んでいた。
食器を洗って片付けると手持無沙汰になり、部屋の狭さも相まって胡坐をかくランサーの近くに腰を下ろす。外で洗濯機がうるさく回っている。ランサーはどこかから調達したらしい釣り雑誌を片手に持ち、正座していたアーチャーの膝を伸ばした足の爪先でこつんと小突いた。
「なあ、足伸ばせよ」
「……?」
アーチャーが不審な表情で両足を畳の上に伸ばすと、ランサーは遠慮なくその片足に青い頭を乗せる。アーチャーの足を枕に、だらしなく寝そべって雑誌を顔の上に広げる。
「……これでは私が動けない」
「動く時にゃどいてやるよ」
言葉に詰まったアーチャーをさして気にすることなく、パラリパラリと頁を捲っていく。静かな二人の空間に、洗濯機が回転し、雪が屋根から落ち、チェーンを装着したトラックが走り、子供が叫びながら雪の上で跳ね、大人が雪かきの合間に声を交わす、雑多な音が混然一体となって遠くから響いてくる。ランサーとアーチャーが息をするかすかな震えが、互いの身体が接している部分を起点として伝わりあう。二人の息は近く、やがて同調して混じりあう。血液の流れる速さが、心臓の鼓動が、足並みを揃えていく。
アーチャーは、緊張するな、と己に強く言い聞かせた。気を逸らそうと、ランサーの気配にしっとりと汗をかく掌で、太腿に重なるランサーの長い髪を手に取り、指で梳いていく。
「同じものを使っているのに、君の髪の方がなめらかだな」
「そうか?気にしたことねえな」
アーチャーはランサーの髪をしばらく梳いた後、長く艶めく髪を三束に分けて、順々に交差させながら結っていく。ランサーはアーチャーの手の動きになんら口を挟まないことで、頭の下に敷いた男を受容していると伝えていた。規則正しく編み目を作りながら、アーチャーは静かに息を吐いた。騒めく心を持て余しながら両手を動かし続ける。手を伸ばした距離に誰かがいるという状況を体験したのは、もうずっと遠くの、記憶もないいつかだった。。
誰かが自分の傍にいる、ただそれだけのことがこれほど私を動揺させるなんて、私はもう覚えていなかった。肌の温もりが胸を締めつける強さなど、ずっと忘れていた。
気づくと先端まで狂いなく青糸は編まれ、赤い両目が静かにアーチャーの手元を見守っていた。ランサーはアーチャーに、はっ、と笑いかける。
「あんなに殺気立っていたのが嘘みてえだな、俺達」
自嘲を滲ませた口調を誤魔化すように、
「器用なことのできる奴だ」
と、うなじからアーチャーの手元まで続く三つ編みを評した。
「 “牙を抜かれた”のさ、私たちは。……もしかしたら七人とも、もう碌に戦えないのかもしれない」
珍しくアーチャーが放った冗談めいた台詞にランサーは身を折るようにしながら笑い声をあげた。
「かもしれねえな、下らねえ話だ。笑い話にもならねえ」
アーチャーは慎重な手つきで編み目をほぐしていく。一本たりとも、誤って傷つけることがないように。全てをほどいた後、丁寧に梳いて再び編み始める。
私の。
私の思いは彼に銀の匙を与える回数に従って姿を変えていく。
当初は敵意が混じっていた。私を言いくるめてどうするつもりなのかと、私は貴様らに騙されてなるものかと。不信や訝しみ、ため息。やがて知った、ランサーの自堕落なふるまいへの呆れ、怒り。同じものを食べ、小鳥に餌付けするような儀式から生まれる親密さ。いつからか、一番近くにいる存在が彼であったという心安さ。うまかった、という一言への喜び。ともに時間を過ごす存在ができたという歓喜。
そしていつからかアーチャーを苛み始めた、それでも互いの間に一線があることへの切なさ、もどかしさ。
アーチャーが日々、一人きりで編んでいた感情は一本の道を作っていた。そこへランサーという糸が入りこみ、共に道を作り出す。アーチャーの思いにランサーが編みこまれていく。
アーチャーは、ランサーの存在に恐ろしくなるほどの速さで馴染んでいた。二人の境界は溶けだしはじめている。ピースが合致するなどという手ぬるい言葉では表現できないほど、二人はどこまでも近く、そしてどうしようもなく遠い。
アーチャーは、自分の心が動き出した日を明確に指摘することができる。
君と私、空白をうめるための
[プロローグ〕
私たちはいくつかの約束を交わした。明確なものも、互いに黙って了承しあっているつもりの不明瞭なものもあった。それでも私たちは互いに納得し、合意し、ときには同意して二人で同じ場所に住んでいた。同じ部屋で、同じ食事を朝晩向かいあって摂る。私たちの身体はもう人間と同じ栄養を必要としなくなっていたけれど、彼は
「お前の作る飯、美味いからまた作ってくれよ」
と、私の作った料理を初めて口にした後に言い、私も私で得意分野の、それも生臭い人の血の臭いが染みついていない行為、を改めて褒められることが満更でもなかった。
互いの小さな喜びだったのだと思う。けれど、その姿はある一部分で形を変えた。約束はいつしか、ある意味で私たちの儀式となったのだ、互いに無言のまま。
ランサーは現界中の暇潰しに、と始めたアルバイトを気に入っているらしく、毎日規則正しく働きに行く。確かに、彼が呼び出された本来の理由と役割を取り上げられたまま、一日を家の中で過ごすことは彼に苦痛しかもたらさないだろう。毎朝彼は出かけ、毎晩決まった時間に帰ってくる。寒さに赤らむ頬を緩ませ、靴を脱いで傾いだ身体にまとわりつく雪を三和土で払い、私に
「ただいま」
という。そして外の空気を玄関に漂わせながら、台所の火にかかった鍋とその前に立っている私を交互に見て、
「うまそう。一口味見させてくれよ」
と飽くことなく必ず乞うのだ。私はその言葉をどこかで予感している。そして、知らぬうちに定位置に納まるようになった銀色の匙を手に取り、鍋の中で湯気を立ちのぼらせている食物を一掬いする。最初のうちは、行儀の悪い、とか自分でしたまえよ、とか夕食まで待ちたまえよ、などと言って咎めていた気がする。だが、いつからか皮肉が消え、忠告が消え、交わしあう言葉が消えて、私は慎重な手つきで、砂漠で得た一口の水を与えるかのように、彼へ一匙の食物を差し出すのだ。
彼は匙の位置を正確に測り、震えを無理矢理押さえつけている私のぎこちない手と、腕と、どのような表情をすればいいのか困惑している私を静かに見つめながら、ゆっくりと大きな口を開き匙を口の中へとおさめていく。今となっては、差し出す食物が熱すぎる、多すぎる、などといった過ちを犯すことはない。彼は寒さでかさつく赤い唇で匙を一気に食み、満足そうな目をして輝く匙だけを私の手元に残して身体を引く。私には、私と彼が今日も無事にこの儀式のようなふるまいを終えることができた、という達成感と僅かな脱力感だけが残る。
私たちは、理由もわからずに与えられた無為な生活のなかで、理由なく身を寄せあい、冷たい金属を通して互いと関わっている。私たちは了解している。こんな関係は、他愛もない、持て余す時間を潰すことだけを目的としている、ただの子供じみた遊びでしかないのだと。
私たちは言葉にせず約束している。いつか時がきたなら、互いを殺しあう戦士に戻ろうと。
[二月上旬]
深山の町にある家電販売店の店頭に置かれたTVには、大きく天気図が映され、ダークスーツを着た男性が指示棒を持って今の天候がいかに異常なのか、落ち着いた声で詳細に解説している。TVが置かれているショーケースの前の道路には汚れた雪がうず高く積まれ、下層部分は固く凍りついている。表を歩く人の姿は数えるほどしかなく、休日の昼間だというのに商店街は閑散としていた。当初、温暖なこの地に降った雪に、子供たちは胸を躍らせ大人たちは交通機関の乱れを憂いた。その日から凡そ一か月、雪は休みなく上空から落下し続けた。徐々に勢いを失いつつも、いまだマスメディアや大人たちの話題とならない日はない。
アーチャーのマスターも出立前難しい顔をして、居間にあるTVの画面から視線を外さなかった。彼女はマスターの様子を窺うアーチャーに対し、外から洋館を震わす重い揺れについて、あの音はチェーンね、バスがチェーンをつけて走ってるのよ、とどこか上の空な様子で教える。。定刻じゃないから運行時間が狂っているんでしょうね、電車で行くにしても空港で便が止まっているかもしれない、フライトの情報がどこにも出てないわ。そう畳みかけるように言い募り、……どちらにしても行くしかないわね。呼ばれているんだから。結局違うのはかかる時間だけ、とうんざりした様子でTVの電源を落とした。
疲れた表情で急ぎながら出発した彼女は、どうやら無事に日本から旅立てたらしく、肩を落として再び洋館に戻ることはなかった。
アーチャーは無人のマスター宅から出ていく際に、召喚されてから与えられた暗い色の外套を羽織り、午前と午後の区別もなく降り続く粉雪の下へと歩みだした。かろうじて道となっている庭の中の獣道も、近いうちに埋まってしまいそうだった。舞うように落ちる雪の姿は軽く見えるが、マスターの邸宅へ、庭へ、道路へと重く圧しかかっていく。道を行く人影は稀だ。坂の上に立つ洋館の周囲となれば尚更だった。アーチャーは広大な敷地の上で、ずぐ、ずぐと雪を押し固めるように、一歩ずつ慎重に足を運ぶ。また雪を下ろして片づけなければ、と思いながら門扉へ向かっていると、通行人の声が遠くから届いてきたのでアーチャーは足を止めた。
まあ本当に大変な天気で、異常気象ですねえ、変な事件も多くて今年はどうなっているんでしょうね……。
アーチャーは人目を避けるために庭木の陰で足を止めていたが、それにはなんの意味もなかったことを知りため息をついた。犬が甲高く鳴き、飼い主と共に遠ざかっていく。その気配にまじって紫煙が周囲に漂っていた。門前の道路で派手な色をした長髪の男が暇そうに煙草をくゆらしながらぼうと立っていては、身を隠そうとするアーチャーの些細な努力など水泡に帰す。
アーチャーは洋館の玄関から庭を経由して表の道路の轍までつながる小道を辿り、視線を動かすことなく外へ歩みでた。表は人家が限られているせいで一層雪が深く、根雪と新雪を踏むたびに、足元からしゃくしゃくと音がする。一定のリズムを崩さずに前進する。
青い髪の男は、季節外れの薄いコートを羽織った肩を寒さですぼませながら、ゆっくりと道路に出たアーチャーの後をついてくる。アーチャーの足音に、男の足音がまるで影のように重なりあう。
「嬢ちゃんは発っただろう。俺の言った通りに」
男の声は寒さゆえか、少し鼻にかかっていた。アーチャーを揶揄う軽い調子で、どこか暗い言葉を投げつける。
「悲観することじゃねえ、決まっていたことだ。連れていかれなかったことが不満か?……大いに不満だって面してんな、それは」
男は笑いを噛み殺せぬ様子のまま、アーチャーの後をのろのろと遅く追う。アーチャーは正面だけを見つめ、足取りを乱すことなく前へと進む。確実などこかへ向かうように振舞っているくせに、その実、行く場所などどこにもないことは後ろの男が一番よく知っていた。
「悲しむなら、俺たちは七人同時に悲しむんだろうな。だけどな、知っているか?セイバーも、キャスターも、アサシンも上手くやっているんだ。バーサーカーは頭数に入らねえな。奴には、戦えないことが不満かもしれねえな」
ふぇくしっ、とランサーは一回大きくくしゃみをして、寒さに体を震わせてぼやく。
「まあ、深く考えねえこった。どうやったって使い魔は所詮使い魔さあね。あぁ、ヤダヤダ」
アーチャーは交差点に出て、ミラー越しにランサーを見つめた。じゅくじゅくと水気でぬかるむアスファルトを踏みしめて停止し、不快そうに口を開く。
「それで、貴様は私に情報をひけらかして、その代わりになにを得ようとしているのかね。私は貴様に言うべきことも、貴様から聞くべき事柄もない……」
アーチャーは息を止めて内心で暫し躊躇し、しかしきっぱりと言い切った。
「貴様と馴れあうつもりはない、ランサー」
ランサーは吸っていた煙草を銜えたまま、にぃ、と唇を曲げた。瞳はどこか光を失い陰っている。
「気があうな。俺もだよ」
けどな。ランサーは手触りのない笑いを顔にはりつけ、アーチャーへ顎をしゃくった。
「ここを右に行くんだ」
硬い表情のまま背後を振り返ったアーチャーは、挑むようにランサーを見据える。ランサーはコートのポケットに両手を突っ込んで、ざかざかと雪を跳ね散らかすように歩きだした。アーチャーの視線が己の身体に突き刺さっていることを知りながら、それでも決して正面から対峙しようとはせず、優しく溶けた声でアーチャーに囁く。まるで親密な相手へ、愛を囁いているかのように。
「難しいコトを考える必要なんかねえ。それは今、戦争と、聖杯を止めている下らねえマスター連中が考えるべきことだ。俺たちはまた役割が割り振られるまでか、あっちへ還って消え失せるまでは自由にしてりゃいいんだ。裏を返せばそれ以外に選択肢なんざねえ。……よく知ってるよなァ、アーチャー」
アーチャーはランサーの言葉に一切反応しなかったが、その態度こそ槍兵の言葉を聞き逃すことのできない弓兵そのものを示していた。
「暇だろう?嬢ちゃんまでいなくなって」
赤い目を細めたランサーは、誰かに与えられた言葉をそのまま口にしているかのように、つらつらと言葉を並べていく。風向きが変わったのか、ランサーの吸う煙草の匂いがアーチャーの全身を包んだ。
「そうだ、心底下らねえ、人間同士の争いってのはな。……アレは長引くぞ」
アーチャーは、ランサーが外に出すことは決してないが、反面とても表現したがっている感情に薄々検討がついてしまった。彼は言いたいのだ。
――もう還りてえんだよ、俺だって、本当は。
ランサーはアーチャーへ進む道を教えるために数歩前に出て、きちんと後ろをついてきているか確かめるために振り返った。
「前も言っただろ。暇があるなら潰すんだ。不善を為さないことが、今のマスター連中には聖杯の次に大事なんだとさ。深く考えることはない」
槍兵は一瞬宙へ視線をやり、俯いてぽつりと言った。
「こんなもの、児戯だ。ただのな……」
[二月下旬]
瞼を開いて、節の目立つ天井の木目を眺めながら、ランサーがこの部屋の入り口でくるりと手品のように小さな銀色の鍵を掌に出した光景を思い出す。2DKの古びた、大柄な男同士には狭ささえ感じさせるアパートの二階。どこからこんなものを調達したのだろうか、と男に対し胡乱な目をしていたアーチャーへ
「ツテだ、身分がないときは伝手がものをいう」
とランサーは言い、アーチャーに鍵のスペアを放り投げた。
アーチャーは毎朝、早い時間に覚醒する。最早睡眠を特に必要としない身体ではあるが、狭い部屋の中でランサーと布団を並べて毎夜眠りにつく。そして翌朝に、隣で気分良く寝こけている男を見て、ああ、私は今日もまだ世界に繋がれている、と喜びか悲しみかわからない思いで確認するのだ。
今でも、アーチャーとマスターの間には細くてどこまでも長いレイラインが延びている。彼女が冬木にいたときの線はもう少し丈夫で、記憶や感情の行来は活発だった。けれど、物理的にも精神的にも遠く離れるにつれてその線は次第に細くなり、遥か遠方へと延びていった。最低限の魔力だけが日々アーチャーへと流れこみ、かろうじてその肉体を支えている。多くを望まないアーチャーにはそれで十分だった。アーチャーはかつて出立前のマスターへ問うたのだ。
“もしも君のいない間に戦う必要が生じた場合はどうすればいい”
彼女は端的に告げた
“争わないで、何者とも。私の許可なく”
――それは命令か?と訊ねたアーチャーに、彼女は平然と答えた。
「ええ」
それ以降、アーチャーは現界するために要する最低限の魔力供給だけを必要とした。
うるさくしないよう注意を払いながら布団から出て、朝食はどうしようかと思案しながら窓の外を窺うと、変わりばえのしない一面の白銀へ灰色の空から終わりなく雪が降っていた。雪は夜の音を吸い尽くし、世界中を無音にさせてはきらきらと輝いている。火の気のない室内は冷え切っていた。暖房をつけ、凍る寸前の水を厭うことなく水道で顔を洗う。白い前髪から水が滴り落ちている鏡の中の己の顔と向かいあい、自身に与えられた役割を再び一から数えなおした。
部屋の中に朝餉の匂いが充満する。ごそ、と寝返りを打ったランサーは声を上げながら両腕を上へと伸ばした。その勢いのままむくりと起き上がると、寝惚けた表情でがりがりと乱れた頭を掻き、大きく欠伸をした。怠そうに起き上がり
「相変わらずはええなァ」
と呟きながら顔を洗いにいく。
アーチャーは焼いていた魚を皿に乗せ、白米、みそ汁と香の物を一緒に、手前の一間へ置かれている卓袱台の上へ運ぶ。ランサーは前髪に残った水滴を邪魔そうに弾き飛ばし、自身の朝食の前に座りこんで
「ああ、よく寝た。寝過ぎて眠いくらいだ」
と唸り、いただきます、と手をあわせた。アーチャーもランサーに倣う。
この部屋へこの卓袱台を置くことに拘ったのはランサーだった。まだ互いが、刺々しささえ残る他人行儀な関係だった当初、ランサーも思うところがあったのかこの部屋に安住してはいなかった。夜更けに部屋に姿を見せたかと思うと、会話もなくごろりと畳の上に直に寝ころび、そのまま数時間眠ってはまた出ていく。
深夜の暗い部屋の中、寝息を立てるランサーの近くで距離を測りかねたままアーチャーが所在なく佇み、使っている毛布を片手に下げて難しそうに悩んでは、やがて首を振って自分の布団に帰り窓の外を見ながら眠れぬ一夜を過ごす、そんな男の存在にランサーが気づいていたのかはわからない。だがランサーはある日、アパート中に響く重い足音を立ててアーチャーとの共同部屋に帰ってきた。部屋の奥に座って警戒心を隠そうともしないアーチャーへ、珍しくおう、と気安く声をかけ
「貰ってきたから置く」
と、裸のままの卓袱台を、どしんと柱を揺らす勢いでキッチンと奥の和室に挟まれている一間に置いた。卓袱台は雪に降られてきたのかじっとり濡れていて、落ちた水滴が古く焼けた畳に染みを作る。頭と肩に雪を乗せているランサーは、堪えきれずくしゃみをした。
「……」
アーチャーは驚きに固まったまま、仕方なく
「とりあえず、きみ……ランサー? 外で服の雪を払ってきたまえよ」
と忠告した。見て見ぬ振りも出来ず洗面所までタオルを取りにいこうとして、無意識のうちに自分が一人のときには使っていなかった、傍らのヒーターの電源を押して立ち上がる。
「くっそ、寒いな。耐えらんねえ、随分冷えてんなこの部屋。お前も帰ってきたばっかりか?」
ランサーの言葉にはなにも返さずに、アーチャーは清潔に洗われ几帳面に畳まれたタオルを男へずい、と差し出す。
「あ? ……俺に? 俺どこか濡れてるか?」
鳩が豆鉄砲を食ったような阿呆な顔つきのランサーをよそに、アーチャーは開け放たれていた玄関を無言で閉め、目の前の男の腕を掴み火がともったヒーターの前まで引きずる。
「お、おい」
と制止する声に構わず、溶けた雪が染み込んで濡れそぼる青髪の全体をタオルでわしゃわしゃと拭う。その勢いにのまれたランサーは抵抗も出来ず、ヒーターに当たりながら借りてきた猫のように背を丸めた。
「――。置く場所が、ないだろう」
しばらくして後ろの男が発した溜息まじりの声に反応し、「えっ」とランサーは背後を反射的に振り返った。驚いた顔をして眉を下げたアーチャーと正面から目線がぶつかる。
「だから、置く場所がないだろう。見たところ折り畳み式でもないようだし、キッチンに置くと言っても、私はキッチンの地べたに座って食事をするのは断る。畳の部屋があるのだから」
ランサーは丁寧な手つきで頭を拭い続けるタオルに身を委ねながら首を傾げ
「ココの部屋に置いときゃあいいじゃねえか」
と言い放った。
「……そうしたら、今度は貴様の寝る部屋がなくなってしまうだろう」
「なんでそうなるんだ。こっちの部屋は机で、奥の部屋に寝りゃあいいじゃねえか」
「……私も寝る場所を必要としているのだがね、一応」
「おう、奥で寝てるんだろ。その隣で寝るわ。そういや、この部屋に俺の布団ってあるか?近頃寝てると妙に寒いんだよなあ」
はぁ、と再びアーチャーから吐き出された溜息のあとに、反論は重ねられなかった。
そのときから、どこかで使いこまれてきた古く丈夫な卓袱台は一間の中心を我が物顔で支配して、アーチャーとランサーはそこで向かいあって食を共にするようになった。夜はアーチャーの意地を示してできる限り距離をとった二床の寝具を同じ一間に並べ、眠る。
今では、のんびりとした手つきで器用に魚をほぐし口へ放り込んで咀嚼するランサーの存在に、違和感を覚えることもない。
「今日は休みなのか、ランサー」
ごくり、と食べていたものを飲みこみ、熱い茶を啜ったランサーは「ああ」と返す。日頃の日中の行動には互いに干渉しないが、それでも交わす情報は増えていく。アルバイトのこと、食事のこと、出掛先のこと、互いのこと。
「お前こそ今日出かけんのか?」
「ああ、だが急ぎではない。ゆっくり出るさ」
ちらりとランサーを上目遣いに窺うと、白米をかきこんで窓の外を見ていた。不意に、ランサーが休みならば私も一日部屋にいると言えばよかっただろうか、と後悔する。きっと会話もなく、沈黙だけが圧しかかる一日になるだけだとわかり切っているはずなのに、それでも平穏なまま共に過ごす一日をアーチャーは好んでいた。
食器を洗って片付けると手持無沙汰になり、部屋の狭さも相まって胡坐をかくランサーの近くに腰を下ろす。外で洗濯機がうるさく回っている。ランサーはどこかから調達したらしい釣り雑誌を片手に持ち、正座していたアーチャーの膝を伸ばした足の爪先でこつんと小突いた。
「なあ、足伸ばせよ」
「……?」
アーチャーが不審な表情で両足を畳の上に伸ばすと、ランサーは遠慮なくその片足に青い頭を乗せる。アーチャーの足を枕に、だらしなく寝そべって雑誌を顔の上に広げる。
「……これでは私が動けない」
「動く時にゃどいてやるよ」
言葉に詰まったアーチャーをさして気にすることなく、パラリパラリと頁を捲っていく。静かな二人の空間に、洗濯機が回転し、雪が屋根から落ち、チェーンを装着したトラックが走り、子供が叫びながら雪の上で跳ね、大人が雪かきの合間に声を交わす、雑多な音が混然一体となって遠くから響いてくる。ランサーとアーチャーが息をするかすかな震えが、互いの身体が接している部分を起点として伝わりあう。二人の息は近く、やがて同調して混じりあう。血液の流れる速さが、心臓の鼓動が、足並みを揃えていく。
アーチャーは、緊張するな、と己に強く言い聞かせた。気を逸らそうと、ランサーの気配にしっとりと汗をかく掌で、太腿に重なるランサーの長い髪を手に取り、指で梳いていく。
「同じものを使っているのに、君の髪の方がなめらかだな」
「そうか?気にしたことねえな」
アーチャーはランサーの髪をしばらく梳いた後、長く艶めく髪を三束に分けて、順々に交差させながら結っていく。ランサーはアーチャーの手の動きになんら口を挟まないことで、頭の下に敷いた男を受容していると伝えていた。規則正しく編み目を作りながら、アーチャーは静かに息を吐いた。騒めく心を持て余しながら両手を動かし続ける。手を伸ばした距離に誰かがいるという状況を体験したのは、もうずっと遠くの、記憶もないいつかだった。。
誰かが自分の傍にいる、ただそれだけのことがこれほど私を動揺させるなんて、私はもう覚えていなかった。肌の温もりが胸を締めつける強さなど、ずっと忘れていた。
気づくと先端まで狂いなく青糸は編まれ、赤い両目が静かにアーチャーの手元を見守っていた。ランサーはアーチャーに、はっ、と笑いかける。
「あんなに殺気立っていたのが嘘みてえだな、俺達」
自嘲を滲ませた口調を誤魔化すように、
「器用なことのできる奴だ」
と、うなじからアーチャーの手元まで続く三つ編みを評した。
「 “牙を抜かれた”のさ、私たちは。……もしかしたら七人とも、もう碌に戦えないのかもしれない」
珍しくアーチャーが放った冗談めいた台詞にランサーは身を折るようにしながら笑い声をあげた。
「かもしれねえな、下らねえ話だ。笑い話にもならねえ」
アーチャーは慎重な手つきで編み目をほぐしていく。一本たりとも、誤って傷つけることがないように。全てをほどいた後、丁寧に梳いて再び編み始める。
私の。
私の思いは彼に銀の匙を与える回数に従って姿を変えていく。
当初は敵意が混じっていた。私を言いくるめてどうするつもりなのかと、私は貴様らに騙されてなるものかと。不信や訝しみ、ため息。やがて知った、ランサーの自堕落なふるまいへの呆れ、怒り。同じものを食べ、小鳥に餌付けするような儀式から生まれる親密さ。いつからか、一番近くにいる存在が彼であったという心安さ。うまかった、という一言への喜び。ともに時間を過ごす存在ができたという歓喜。
そしていつからかアーチャーを苛み始めた、それでも互いの間に一線があることへの切なさ、もどかしさ。
アーチャーが日々、一人きりで編んでいた感情は一本の道を作っていた。そこへランサーという糸が入りこみ、共に道を作り出す。アーチャーの思いにランサーが編みこまれていく。
アーチャーは、ランサーの存在に恐ろしくなるほどの速さで馴染んでいた。二人の境界は溶けだしはじめている。ピースが合致するなどという手ぬるい言葉では表現できないほど、二人はどこまでも近く、そしてどうしようもなく遠い。
アーチャーは、自分の心が動き出した日を明確に指摘することができる。
