fate(槍弓)

[凛]

 出立の決まったある日、凛は言った。
「アーチャー、こんなこと私だって言わなくていいと思ってるの。だけど一応言っておくわ。
私がいなくなっても、あんたはこの家のどこに居たっていい。どの椅子に座るのも自由だし、それは居間も客間も私の部屋もってことよ。
礼節さえ弁えてくれるならどの寝台で休んだっていい。この家はあんたの家として振る舞っていいし、その意味はこの家はあんたを受け入れているってことよ」

 心の内で用意していたのであろう言葉を、凛は滔々と述べる。言葉のリズムにあわせてゆらゆら動かしていた人差し指を下ろすと両手を身体の後ろで組み、足をそわそわとさせながら、けれどゆっくりとした口調で告げる。まるで幼子に懇々と言い聞かせる母親か教師のようだ。
「もしこの家が嫌だとか、落ち着かないとかなら士郎の家だってあるわ。誰かが訪ねてくるとか、そういう面倒は私の家よりあるとは思うけど、士郎の家を気に入っているのならあんたは住んでいいのよ。わかった?」

 私達は互いに顔をあわせない。家中をひっくり返す大騒動の末に凛が荷作りしたスーツケースを意味なく見た。正体の分からぬ荷物がはみ出そうに膨張している。あれでは空港で追加料金を支払わねばならぬだろうと、要らぬ心配をした。
 なんと答えたものか、非常に難しい問題だった。それは現実としてアーチャーがどう暮らすかという問題ではなく、いかに穏便に凛の関心をアーチャーから遠ざけるかという問題だった。

「一応言っておくがな、凛。その二軒の建物の手入れと掃除ならば、私が居る限り心配することはない」
その返答は不満を抱かせるどころか不興を買ってしまったらしい。凛が無言で肩を怒らせている姿に、確かに誠実さに欠けていたかと反省する。
「気を使わなくていいんだ、凛。君についてもそうだし、小僧に関しては、私も奴も双方御免被る類の話だろう」
そう言いながら、きっと小僧はもう既にこの話について承知しているのだろうなと、ぼんやり思った。
 凛はアーチャーの発言などなかったという素振りで続ける。
「なにか問題があるとか、誰かに文句を言われたときは私に電話しなさい。たとえ深夜でも怒鳴りつけてやるから」
凛は艶のある黒髪の先を、くるりと指先に巻きつけた。

「凛」
アーチャーは出来うる限りの努力で、角がなく丸みを帯びた声を出そうとした。
「私とて幼児ではない。変わらんよ。君達がこうして学校を卒業するまで私がこの街で暮らしてきたように、これからも暮らしていくだけだ。君達に私がどう生きているように見えているのかわからないがね、私にとっては普通に暮らしているだけだ。もし君の不在中に座へ戻ることがあったとしても、それは私にとってそれこそ普通のことだ。騒ぐことでも、君が骨を折るべき事柄でもない」

 言葉を重ね過ぎただろうか、と凛の顔を暗い影が横切った様子を見て思った。それとも足りないのだろうか。私には判別がつかない。凛は大きな瞳でゆっくりと瞬きをし、そして長い睫毛を伏せた。
「私はただ、わかってほしいだけよ」
その後に言葉を付け足そうとして凛は口を開き、しかし言葉を発することなく小さな唇へ軽く歯を立てた。凛が私のなにについてそこまで苦労しようとするのか、わかるようで、けれど肝心な部分には理解が及ばなかった。
「わかっているよ凛。余計なことを言うようだがね、君は英国へ行くという変化のせいで少々神経質になっているんだろう。不安に思うことはない。
こちらのことは私に任せてしまって、君は君のことだけを考えていればいいんだ」

アーチャーの言葉にしばらく沈黙し、やがて凛は諦めたように息を吐いた。
「そうね、そうかもしれない。あんたの言う通りねアーチャー。けど一つだけ、そう一つだけ言うとしたら、私にとってはあんたについてのことも私のことなのよ。
……貴方の、マスターとしてね」

そうして会話は終わった。だが、アンタは絶対わかってない、私はアンタを立てて引いただけなのよという凛の恨み言が聞こえてくるようだった。
 あなたの居場所ならここにあるの。お願いだから、せめてここで生きていて。
凛はアーチャーへ、親愛という名の温かみを惜しむことなくアーチャーへ降り注ぐ。その温度を忘れずに、大切にとっておこうと私は胸に手を当てていた。
 冬木の街で、異国に旅立つ少女と少年を見送る。
少女は何の因果か座へ戻ることなく、マスターとも離れてしまう孤独なサーヴァントの厚い掌へ、遠坂邸の鍵を無理矢理捻じこんだ。冷えた小さい金属を用いなくとも自由に出入りできる存在だと知りながら。

 アーチャーは微笑み、簡単な挨拶だけを交わして手をあげた。手渡された遠坂邸の鍵は、それ以降凛の私室の机上に置かれ、二度と使われることはなかった。



[弓兵]

 落ちることを繰り返している。

 夜の帳が下りた冬木の街は平穏そのものだった。争いもなく、人々は変わらぬ日常の一日を過ごしていた。
新都に立つ高層ビルは闇に光を撒き散らしながらそそり立ち、今日の役目を終えようとしている。 
 その頂点に人の姿は滅多に現れない。無数の室外機が低い音をたてて羽を回している。収納された清掃用のゴンドラ。腰を掛けるのに丁度いい貯水タンク。
冬木の人々が織りなす色とりどりの生活と、彼らが放つ光を見渡せる屋上は、いつか凛ときた場所だ。風はいつも強く、不安定な人間など一吹きで吹き飛ばしてみせる。屋上の空調設備が吐き出す熱と、コンクリートが昼間に抱え込んだ熱によって、夜になってもどこかこもった暑さがある。
ここへ辿りつくと、アーチャーはごうごうと排熱している開口部の隣を歩き、赤々と誇り高く輝く航空障害灯を見据える。屋上の平地の上には目立つ色で「R」と示されている。
 艦船の飛行甲板を思わせる屋上の光景は、舳先に立ち冬木の大海を往く幻想を胸の内に呼び起こす。街は今日一日をつつがなく終えた。
どこまでも狭くどこまでも広い範囲のわずかな安寧を見届けたアーチャーは、毎日最後にこの場所へ到達する。夜、赤い光の隣に立ち、自身が守り切った現実を記憶へ収める。

 そして、大海を見下ろす姿勢をくるりと反転させ、とん、とどこまでも自然に背中から飛び立つ。
耳元で風を切る音がする。血の巡りが止まる。加速と共に全身を風圧が襲う。まるで地上へ落ちることを拒むように。この身体は未だ自由ではないのだ。
 遠い星空を霞む目で見上げながら、近づく地面の硬い感触を背中で感じる。一拍の後、ばらばらに散る身体をイメージしながら、手を伸ばした。頭上の星へ。

足はバネの様に弾み、どこの骨も折れることなく道路へ着地する。風で僅かに乱れた衣服を整え、その場に立ち尽くした。己が落ちてきたビルの高みと、それよりも遠い夜空を見上げる。


「お兄ちゃん」
いつの間にか、幼い子供が近くに立っていた。
アーチャーの膝位までしかない身長で、無邪気に顔を覗きこむ。オフィスビルの一角に構える保育所の紺の制服を着て、解けかかっている緑のリボンを片手でしつこく弄っている。小さな足は新しい靴に包まれていた。夜の九時過ぎにオフィスタワー裏で遭遇する人間としては、違和感だけしかない。
親はいないのかとあたりを見渡せば、赤信号の横断歩道に足止めされた女性が、車の騒音に負けじと声をはり上げ、その後に失敗してしまったという表情で己が口を両手でふさいだ。足を苛立たし気に踏み鳴らしている。

「お兄ちゃん、いたくないの」
濁りの一切ない大きな瞳を見開き、不思議そうに首を傾げる。幼児の手は涎でべたついている。
アーチャーは子供を見下ろした。己へ話しかける人間は久しく存在していなかった。とっさの言葉が出ずに黙り込むアーチャーから視線を離さないまま、幼児は爪を噛み
「Yちゃんは落ちると怪我するの、いたい、いたいだよ」
と大きな声を響かせる。

「Y!Y!なんでこんなところにいるの。一人で歩いて行っちゃダメでしょう!」
横断歩道から転がるように一目散に走ってきた母親は、髪を乱したまま幼児の手首を力強くつかんだ。二度と離すまいと絞り上げるように握りしめ、荒い息でゼイゼイと呼吸を繰り返す。名を呼ばれた子は、母親と男の間で視線を往復させた。
「お兄ちゃんがふってきた。いたい、いたいだよ」
母親は子の言葉で冷静さを取り戻し、胸へ片手をあてながら周囲を見渡した。その場に広がるのは、いつもと違いのない平常のオフィス街だけだ。
「今日、上の子が落ちてきたの?なに、遊びの時間の話?」
ううん、と髪の短い男児は首を振った。ビルから落下してきたアーチャーを指さす。
「この赤いお兄ちゃん、ふってきたんだよ」
てっぺんから。

 その言葉に母親は身を強張らせた。
我が子が指さす薄汚れたアスファルトの歩道上と、冬木市のランドマークタワーの頂点へ交互に視線をやり、猫一匹存在しない周囲を神経質に幾度も確認する。
余計な心労をかけてしまった、とアーチャーは疲れた顔の女性を気遣い首を振った。事実はわからないが何かよくないものだ、と判断したらしい母親は子供を半ば引きずりながら、じりじりと移動する。
「帰ろう、Y。早く帰ってお風呂に入らないと」
涎をべたつかせた手を銜え頷く幼児へ、アーチャーは力なく笑いかけた。余計なことだと知りながら告げる。

「それがな、ちっとも痛くないんだ。――なんでだろうな?」
久しぶりに発した声は掠れていた。けれど徐々に遠ざかる子はアーチャーに身体をむけ、バイバイ、と手を振った。
母親が子を抱え走り出す。走り出した母親と入れ違いに、アーチャーの視界で影がちらつく。怒りを迸らせる青い影が現れ、やがて消える。

***

 いつか凛は言った。あまりいい趣味じゃないわね、アーチャー。
笑いながら、正確には笑いと信じる表情を浮かべながら、アーチャーは応じた。いい趣味などこの世にはないものだよ。それに、かわいいものだろう。
君とて無心に繰り返さなかったかね、子供の頃の遠い昔に、道路の片隅で、縁石の上からアスファルトへ下りることを、何度も。
 肩をすくめた凛は、そんな無駄なことする暇なんてなかったわよ、と呟き、それにしたっていい趣味じゃないわ、と再度繰り返した。



 落ちることを繰り返している。星の瞬く闇を見上げ、ただ一人になる孤独きわまりない瞬間に
私は星に抱かれている気がする。



[槍兵]

 アルバイト先で酒の配達を依頼された。表にくすんだアーケードから薄暗い光が差す、古びた建物で営まれている飲食店へ。
周囲は狭い二階建ての建物が隙間なく密集し、表には飲食店やスポーツ品店、衣料品店が並び、いつの物かわからぬ色褪せた商品が埃を被って陳列されている。裏通りにはスナックや風俗店がひしめきあい、夜だけ活気を呈する。
 目的の店は、二階にある麻雀店へつづく急で狭い階段と、理容店に挟まれている小さな食堂だった。その仕事自体は日頃と特に変わらず、なにがあったという訳でもない。
上空を覆うアーケードは、商店の並びが終わる位置で途切れている。途切れた先には手入れの行き届いていないアスファルトの道が延び、日光が直接当たる袋小路になっている。生活に使われている狭い私道はいくつかそこに繋がっており、その中にまぎれて今にも壊れそうな映画館がぽつねんと建っている。壁は剥げ、柱にはヒビが入り、入口の床は毎日磨かれているのに、何十年分かわからぬ蓄積された汚れによって本来有していた色の判別がつかない。

 外には雨が降る度に重ねられた泥まみれの、巨大な上映作品の看板が掛けられている。今では滅多に見ることもない手書きの巨大な看板は汚れ、日に白く焼けて、周囲の風景に完全に溶けこんでいた。
 ビールケースを抱えながら、以前そこで出会った男を思い出す。思い出すと同時に、気配に気が付いた。
姿の見えない霊体であっても、かつて命をやり取りし、そして互いに理由もわからぬ余暇を手に入れてしまった者同士だとはっきりわかる。人の形に収束し形を成す魔力の塊は、映画館の前で静かに首を上に向けていた。

 退色したポスターからは画鋲が落ち、風が吹く度に角が煽られている。あの男が仰ぎ見る看板と作品は、あのときと同じなのだろうと思った。 
 暗い空間で青白い光に照らされ、虚ろな瞳をしていた男は、相も変わらず暗闇を彷徨い続けているのか。時間を持て余している弓兵の姿は、ランサーを無性に苛立たせた。
それほど意味のない生を与えられたのなら、いっそこの手で奪い取ってやりたい。
 ランサーは青く流れる髪を振り、己の苛烈な感情を追いやった。それは今、この状態で抱くべき種類のものではなかった。


 マスターであった、正確には二人目のマスターであった野郎には決して明かさなかった秘密がある。
例え協力関係、そして三回に限られた主従関係の下にあっても、己の手の内を文字通りすべて晒す愚かな真似はしない。二つや三つくらい、誰に対しても自分が沈黙している事柄を抱えきる、そんな図太さがなければとてもじゃないがサーヴァントなどしていられない。
だが、秘め事としてはたいして意味のない出来事だ。学園の校庭で刃を交わした数日後に、太陽が天の頂点にいた真昼、槍兵と弓兵が同じ場所に居たというだけの事なのだから。


***


 偵察かなにかの帰りだった。昼間なのだ、サーヴァント同士の争いなど起きないだろうと神父の下へ戻る前に冬木の、特に新都の街中を霊体でぶらぶらしていた。こじんまりとした地方都市のなかでランサーを魅了したのは、再開発の進む場所ではなく、古く狭く傷みのある下町だった。
いつかあったという火事のあと、何故一緒に再開発の手が及んでいないのか不思議なほど活気はなく、うらぶれた面影を白日の下に晒していた。
夜は人が来るのかもしれない飲み屋街もあったが、磨かれていないくすんだ硝子のせいで、薄暗い屋内を見通すことはできず、黒ずんだ看板と表に積まれた酒の空瓶も相まって、なにもかもが古びて見えた。
 だが光が十分に届かぬ通りの奥には暗い影が棲んでおり、正体の分からぬ人の形をしたものが、粘ついた目で周囲と表を歩く人間を警戒するように追っては、酒を呷っている。

 下町の細く狭い道は分岐し、うねり、複雑に絡まりあっている。ビルとビルの間を抜けたかと思えば道はトンネルとなり、ランサーの上でけたたましい音と振動を放ちながら鉄道が走り抜けた。
所々陥没したアスファルトの上や、雑草の蔓延る土の上を目的なく進む。設置した理由を推し量れぬ腐った木戸を通り抜けると、冬の日光でぬくもる袋小路に出た。左は民家の塀によって行き止まりになっており、右はしばらく続くアスファルトの道の先に雑多な店が連なって、商店街のアーケードが覆い被さっている。様々な方向へ延びる小道がいくつかあるが、室外機や積み重なったビールケースが無造作に置かれ、その合間から雑草が顔を出していた。

ランサーは木戸を抜けた瞬間に、全身を虫が這いずるような怖気を感じた。そしてそれは間違っていなかった。ランサーと20mも離れていない場所に、姿の見えぬ霊体の塊が立っていたからだ。
何故もっと早く存在に気がつかなかったのか。知っていれば足を踏み入れなかったものを。ランサーは歯噛みしながら身構えた。霊体化をしてはいても、いつ襲い掛かってくるかわかったものではない。
 しかし、ランサーの警戒心が予測するほど霊体と霊体であるランサーのにらみ合いは続かなかった。いつでも戦闘態勢へ移行しようとするランサーとは対照的に、ランサーの目前に姿なく立つサーヴァントは身構えもせず、興味のないまま一瞥する気配だけをランサーに残して、そのままするりと建物の中へ侵入していった。

 待ち伏せか、罠かと思考を巡らし、しかし生来持ち合わせている好奇心を殺しきれなかったランサーは、魔力の後を追い建物の前に立った。
錆びた金枠には上映作品の巨大な看板が収まり、高々と掲げられている。しかし手書きであろうと推測できる絵は泥にまみれ、注意深く観察しなければ何が描かれているか理解できない。
青を基調としていたらしい絵は、暗い洞窟と空を描き、彫りの深い俳優が宙を見つめている。文字が踊る。

――君は見たか、暁の空を。

 ランサーは建物の中をしげしげと観察した。埃の雑じった雨によって筋が描かれた硝子の奥で、老人が椅子に座り舟をこいでいる。霊体化したまま、警戒と共に室内へ侵入する。敷かれた赤いリノリウムが破れ、反り返っているフロアを横切ると、重い扉が一つだけ外に開いていた。
ああ、建物の中にホールがある構造なのかと得心し、霊体ならばなにが待っていてもすぐ消滅するような失態はなかろうと気合をいれつつ、緑の裏地があてられている黒く重い帳をくぐった。

 暗い。黒い人工的な闇をわざと作っているのか。闇の中を青白い光が照らし、爆音が響いている。
ホールの右側面から室内に入ったランサーは右手のスクリーンに目をひかれ、しばらくして左上の小窓からスクリーンへ映像が投影されている仕組みを理解した。広がる席数はざっと数えて300程か。天井が高いせいか、人間の姿が一人もないからか、がらんとした印象だけが残る空間の真ん中に、一つだけ白い頭があった。
ああ、アーチャーだったのかと実体化した男の頭を見て妙な納得をした。同じ屋内に存在し、そして敵同士として今すぐ殺しあったとしても不思議でないにも関わらず、アーチャーの意識はランサーへ向いていないようだった。
 フィルムが回る。白黒の画面が、正面を向いて微動だにしないアーチャーの横顔を照らしている。マスターを放り出してこの男は一体なにをしているのだろうと疑問を抱き、それは自分自身にも言えるではないかと己を笑った。

 突っ立っていても仕方あるまい、あちらさんに戦う気はなさそうだと一番手近な席に陣取った。実体化した身体で表布の擦り切れた狭い椅子にふんぞり返り、手を頭の後ろで組んで両足を前の椅子の背もたれにどかりと乗せる。どのような勝手をしようと、それを咎めるものはこの場に存在していなかった。
ノイズ混じりに画面の男が喋る。黒い電話を乱暴に叩き切り、鞄へ札束、拳銃、カセットテープと分厚い書類を詰め込む。今話が始まってからどれほど時間が経過しているのかもわからず、ぼんやりと頭を停止させ、大画面とその手前で微動だにしない上背のある男の白い頭を視界に収めていた。
 大きな欠伸が出る。逃避行を始めようとする男と女の単調な会話は心地よい子守歌のようだ。懐かしい故郷の響きに少しだけ似た言葉が、ランサーを眠りに押し流していく。アーチャーは何を考えているのだろうと思いながら、まぶたが、落ちた。

***

 敵を前にして眠る、非常識なサーヴァントへ払う注意などなかった。
白黒の画面で愛人の手を取った男が駆ける。主人公と対立する男が無造作に銃を取り出す。映画をその瞳の表面にうつしていても、アーチャーの摩耗した心はぴくりとも動かなかった。この地へ呼び出されて数日、己が心を一度強く揺さぶったのは、少年をこの手で殺せるかもしれないという、否、なにがなんでも殺して見せる、という昏い歓びだけだった。
 力なく狭い椅子に座り、かつて訪れたかもしれない映画館で、かつて見たかもしれない映画を眺める。この地をめぐる記憶などとうに忘れ去り、ただひとつ、自分自身が呪いにまみれながら二度目の誕生をした日の赤い空だけが、いつまでも焼きついて残っていた。かつて愛していたであろう凛という少女さえ、今のアーチャーには宇宙の果てで偶然出会った古巣の生命体のような遠さしか感じさせない。
 事は慎重に進めなければ、と胸の内で何度も唱える。少年を手にかける、その願いが叶うチャンスは気の遠くなるような確率の果てに巡ってきたのだ。自分自身の、もう骨の一片たりともすり減らすところがないままそれでも終わりなく時を繰り返し、消耗し、絶望などという言葉では甘いくらいの現実だけを見つめ、それでも両足で立ち続けてきた。
耐え抜いたのは、この機会だけが最後に残された希望だったからだ。

 もう己に捨てるものは己しかなく、己を縛るものは令呪以外にない。
「振り返るな。前を見ろ。前だけだ!あいつらは雑魚だ、……俺たちは姿もあらわさずに笑ってる卑怯者を、ここへ、引きずり出さなけりゃいけねえんだ……」

聖杯などいらない。どんな汚い手を使っても構わない。
アーチャーは神経質に、指で数度ひじ掛けを叩いた。
あの小僧の命を。それだけを。

「ねぇリチャード、貴方一体なにから逃げているの?一体なにを守ろうとしているの?答えて、教えてよ……ねぇ……」

***

 前にいる物体がゆらりと動いた。ランサーの動物的な察知能力が警告と共に目覚めを促す。目を深く閉じたまま身体を殺気立たせ、男が身を起こしゆっくりと出口へ向かう気配を執拗に追う。
出口を通ってこの場を去るには、ランサーの隣に延びる通路を抜けなければならない。

 仕掛けてくるだろうか。

 それは仄かな期待だった。数日前の偵察とそれに伴った打ち合いで、正体の察しがつかない弓兵と戦いたいという欲求はいやがうえにも高まっていた。
ランサーは内心舌なめずりをしながら待ち伏せている。あからさまに。堂々と。
 こつ、こつと足音を立てながらアーチャーは通路を進む。無駄のない動きのままランサーの斜め前まで来て、するりとすべりこんで止まった。異様な距離だ。正面で対峙する戦闘には近すぎる。
アーチャーはまるで親しい人間同士が気安く挨拶する間合いへ、抵抗なく侵入した。僅かに空気が揺れる。アーチャーがランサーへ静かに覆い被さった。互いの息が止まる。
ランサーは瞼の反対側を思い描く。緊張する空気の中で、俺たちはどうして戦おうとしないのだろう、とランサーは思った。

 アーチャーの気配がふっと遠ざかる。興味を失い顔を背けたアーチャーの右腕を有無を言わさぬ速さで捕らえた。無表情に槍兵を見下ろす弓兵の顔を無遠慮にのぞきこむ。
明かりのない映画館の中でも際立つほど、アーチャーの存在は深い闇に支配されていた。スクリーンの上をすべるように文字が流れ、ピアノの物悲しい伴奏が鳴る。

「何用かね、ランサー」
感情のない声が問う。ランサーはアーチャーを掴んだ手の人差し指で、するり、とアーチャーの腕の内側を撫でた。
「結局あの男は殺された妻子の仇をとったのか?」
アーチャーは問いの意味が分からぬとでもいうように白い睫毛を数回瞬かせた。だが沈黙は長くない。
「マフィアの手先は共に逃げた愛人だったからな。彼女を撃ち殺したのだから、敵討ちだけを考えたのなら仇はうったのだろう」
「ふぅん。結局最後はどうなったんだ」
組んでいた足を下ろし、ランサーは顔をアーチャーへ近づける。その間も、弓兵は感情のない声で訥々と喋る。
「主人公の男がマフィアに追われて洞窟に逃げ込む。岩肌には水滴が伝い、中で迷い込んだ動物か何かが死んで腐っている。ただ海の傍にあるだけと思っていたその洞窟は、実は海底の一部だ。男が入って満潮に差し掛かり、やがて水面が上昇する。
外に出れば待ち伏せしている奴らに撃ち殺される。やがて奥にある湖に突き当たる。水位が上がる中で、男は底に差し込む光に気づき、判断を迫られ……そのまま湖に飛び込んだ」
「……それで?」
アーチャーの、光を全て吸い込むような眼に捕らわれたまま、訊く。右手から伝わる男の体温は、これ以上ないほどに冷え切っていた。
「それで、とは?」
「いや、主人公はそのあとどうしたんだよ」
アーチャーが顔を寄せてくる。互いの吐息がかかる距離で、ひっそりと互いの目を覗きこむ。アーチャーの赤い唇がなまめかしく動いた。
「記憶にないな。だが表の看板を見ればわかるだろう。きっと男は、暁に妻子と愛人を弔ったんだ」

その謎めいた言葉と同じ温度のまま、弓兵は”君は睫毛まで青いのだな”と呟いた。

”こんなにも暗いのに、君だけはよく見える”

ランサーはただ沸き上がる衝動に身を任せて乾いた唇を間近なアーチャーの唇へ近づけた。ぶつかりあった、柔らかで親密な弾力を二人だけで共有する。重なった二人の唇は愛や温もりを伝えずに、二人の動きを停止させて互いの戸惑いをありありと描き出した。
フィルムの回るカタカタという音が頭上から響く。画面が落ち、空間は一瞬だけ真の闇に包まれ、幕が下りる。終了を告げるブザーが鳴った。

***

 ずっしりと重いビールケースを抱えたランサーを真昼の光が包む。意識が過去から浮上する。
もう聖杯を巡って弓兵と争うこともない。アーチャーと共有した一時は、思い出すだけでもあまりに虚ろだ。もしや己が白昼に見ていた夢ではないのだろうか、という考えさえ頭を過る。
けれど、あの広い背中がアーケードの途切れた小路の奥で今も立ち尽くしている限り、夢にはならない出来事なのだ。かさついた唇の感触を思い出す。

 アーチャー。
マスターの少女と、少女と共に生きる少年を失くした男に、言葉にならぬ感情が湧く。

 おまえはどうするんだ。
お前の隣には一体誰が立つんだ、アーチャー。



[幕間]

 水の中を沈んでいく。身体にまとわりつく気泡がはがされ、上に戻っていく。私と周囲は厚い水の膜によって隔てられている。
現実は動き続けていても、その音は遠い。こもったような重低音が、水音に交じって終わりなく届く。
 その音に私の心が揺らぐことはない。私の心はとうに動くことをやめ、反応することはない。
ただ鈍い日々の中で陰を生き、与えられたわずかな時間、行く場所もなく生きる方法もなく、かといって還ることも許されず、毎日毎日私が失った人間としての暮らしとはどういったものだったかを終わりなく突きつけられている。己が生まれた街をさすらい、同じ場所へ行きつき一日は終わる。
 それでいい。この身体はいつか確実に還る。
目の前で同じ大地に立ち歩いていく人間がいたとしても彼らは世界の表を歩き、私は反転した裏を歩く。どこまで行こうと私はネガの中の生きものなのだ。

 私は落ちることを繰り返している。空高くにある星へ手を伸ばしながら、風を身体で切り私を抱く星の水底のような深みへ落下していく。この星は決して私を逃がそうとしない。
星に抱かれる感触を求め、幾度となく繰り返す。落ちながら手を伸ばす。見上げる空で、鮮やかな青色が跳ねる。

 ――いつからだろう。ここに異物が混じりだしたのは。

 始まりもわからないまま気配がまじり、視線がまじり、影がまじり、敵意がまじる。
私の注意が逸れる。落ちる。手を伸ばす。星へ。男へ。白い手へ。
私へ差し出される白い手へ。

 君は私を高みからのぞきこみ、昂る感情をふつふつと滾らせている。君はなぜ、殺意と共に私などへ手を伸ばすのか。彼の姿を見ないために、私は私と表を切断する。この身体は少しづつ分解され、やがて還っていく。それでいい。それでいいのだ。

どうか私を引き上げないでくれ。私の居場所は、ここにはないのだから。




[回転]

 昼間の熱が残る屋上で影が動く。赤い服を身にまとった大柄な男は貯水タンクの上に片膝を立てて座り、夜が更けネオンもまばらな眼下の街並みを睥睨している。アーチャーの反対方向の屋上の際に、少し前闇にまぎれて姿を現した青い服で身体を包む男は、首を傾げるアーチャーから視線を外さないまま時折苛立った様子でなにもない足元を蹴りつける。
アーチャーは眼下を睨みつける外見を装いながら、実際には己の内に存在している荒れ果てた砂地の丘にひとり閉じこもっている。その身体は、弓兵の精神と同調するかのように日を追って希薄化し、重みを徐々に欠き始めていた。

繰り返している。
私たちは繰り返している。
俺たちは繰り返している。
ランサーが手を差し出す。アーチャーはその手をあしらい、決して応ずることはない。


 ランサーは覚えている。初めて屋上を訪れたときに、弓兵はどこか億劫そうな様子で、内にある何かを見つめながらランサーに問うた。アーチャーの声を聴いているのが「ランサー」であると認識しているのかさえあやふやなまま。
 私達は霊体となって建物の上に立ち、そこからすり抜けることができるのに、なぜ地面には立つことしかできずこの星をすり抜けられないのだろう。空を見ながら落ちていっても、この身は地に縛り付けられ、星を通り抜けて虚空の宙に至ることはできない。
英霊という身体であっても、例え神という身体であっても、それが人の見る夢である限りこの地に根づいて生まれ、その足が地を離れることはない……。

 槍兵は弓兵を鼻で笑い、図体に似合わずロマンチストなんだなと嘲笑し罵倒した。その振る舞いこそ、赤い布を纏う男に対しては礼儀正しくふさわしいものに思えた。
……それほど虚ろに生きるなら俺のものにでもなるか、アーチャー。

 ランサーの言葉がアーチャーの身体に染み込むまで、幾分かの時間を要した。やがてアーチャーの片側の口角がゆっくりと上がっていく。身体を気持ちばかり槍兵に向け、両掌をランサーに対してひらいた。
「君が私の胸を貫いたのは……さて、何度だろうか」
アーチャーは骨ばった褐色の掌をそっと自分の胸の上に置いた。黒い生地の上で指を開き、なまめかしく這わす。布の下の肌に刻まれた痕を確認し、愛でようとする。
「君がまた……私の胸を貫くのなら、或いは……私が君のものになるということも、あるのかもしれない」
槍兵は怒りを全身に行き渡らせ、けっ、と吐き捨てた。赤い瞳が凶暴な色を帯びる。
「俺のもんになるくらいなら死にてえってか、アーチャー」
「私にとっては最大の愛情表現だとも、ランサー」
 救いようがねえ。槍兵は荒々しく言い捨てる。悪態をつきながらそれでも弓兵に近づき、掴まれという。
決して槍兵の手には縋らないと、アーチャーの身体がかしぐ。人々が眠る暗い地上へ落下していく。


 ランサーは無性に苛立っていた。その理由は主に、毎晩飽きることなく目前で虚ろに落下していく弓兵だった。けれども、その男に飽くことなく手を伸ばし、その度に拒まれている自分自身への苛立ちこそランサーの感情の土台となっていた。
 別に無意味な生を与えられた同士で傷の舐めあいをしたい訳ではない。なのにランサーを見ようともしない弓兵を、何故か放っておくことができない。彼岸に行きついた男を此岸に連れ戻さねばならぬ義務も、それがランサーであるべき理由もない。
けれどランサーの胸は焦げついている。この街で生きる時間を与えられたのならば、その時間が虚ろでも、無意味でも、たとえその上で俺たちが無意味な生き方をするにしても、生きねばならないのだ。
 いや、理屈や言い訳などいらない。俺は弓兵に手を伸ばす。俺は単純にお前のそんな姿を見たくないだけだ。お前を俺のものにしたいという欲望も、それが叶わぬならお前をねじ伏せてやりたいという欲望も、現在の弓兵相手では力を持たない。
死人を倒して何が楽しい。
死人を愛して何が楽しい。

俺はお前をこの手で殺めるために、今お前を引き戻すのだ。ランサーの複雑に絡み合ったいくつもの感情が、腹の底から声を響かせる。
「見苦しい真似をするんじゃねえアーチャー!そんなに死にてえなら、俺と死ぬ気で戦いやがれ!」


***


 霞む青色が背景に溶けていく。赤い槍がもどかしそうに天を指す。

 私は君を認めることができないんだ。
アーチャーの落下していくからっぽな肉体の中で声がこだまする。
君は知っているだろうか。私は残された心のどこかで、君を妬んでさえいる。当然だろう、君はこの地を去ったときに全てをなかったことにできるのだから。
 私は私を上からのぞきこむ君を、いつから親しい気持ちで受け入れていただろう。君から差し出される、生気が行き渡った白い掌に応じてみたいと、いつからか願っていた。けれど私はそっと己を閉じ、なにも気づいていないふりをする。そんな願いなど初めからなかったことにする。

 一度私が目覚めれば、私は尽きぬ痛みに苛まれ泣き叫んでもなおこの世界に縋りつくだろう。地に爪を立て、涙をこぼし全身に力をこめ、二度とこの地を去るまいとする。君を置いて去ってしまうことなどできない。それでも私は消えねばならない。私は戻る。鋼の埋まる牢獄へ。
私の声を聴く者はなく、会話をする者はなく、救える者などどこにもいない。

 私は君を拒む。
私は一度たりとも君を抱きしめたくない。私は君を忘れ、君に関わる全てを拒む。そうだろう、私は君を好いているからこそ、やがて訪れる別離に心の底から恐怖している。


なのになぜ。
なぜ私は、君の槍を甘んじて受けようとしないのだろう。



[結]

 ランサーは血管の浮く力強い腕を突き出した。落下する英霊へこの手に掴まれと声にならない叫びを上げる。
ランサーの差し出した手を意思を欠いた頭で認識したアーチャーは、虚ろな闇の広がる目でランサーを嘲笑し手を突き放して空中に躍り出た。
雨雲の去った塵一つない夜空を背景に、全身へ神経を行き渡らせた身体全体を柔軟に撓らせる。
アーチャーの反った背中のふちを細く光る月光が甘く浮かび上がらせる。
 
 ランサーの臓腑は耐えきれないほどに煮えくり返っていた。ランサーの奥深くに積み上げられ、渦巻き続ける怒りは物理的な熱を確かに帯びていた。その熱をもたらす元凶へバネで弾かれたように遂に飛びかかる。
最早我慢の限界を超え、ランサーはアーチャーの喉元へ食らいつく。餌を狙い定めた猛獣と同じように、息をするように赤い槍で空間を切り裂きアーチャーを突く。明確な殺意を伴って。
不安定な体勢で突き出された槍であっても力を失うことなく、弓兵の腹を抉ったかに見えた。

 しかし弓兵は穂先をするりと躱し、ビルの壁面の硝子へ着地するとそのまま全身を捩じって転進した。落下しながらビルの側面を幾度となく跳ね、槍兵の攻撃を躱しては着実に距離を稼ぐ。
 ランサーの咆哮が辺り一面に轟いた。

「なぜ俺の手を拒む、アーチャー!」
アーチャーはその身の希薄さとは対照的な、芯の通った声でランサーへ怒鳴り返した。
「なぜ貴様の手を取らねばならぬ、ランサー!」

互いの譲りようがない鋼の意思が正面から激突する。それらは硬く、わずかばかりも欠けることなくぶつかり合い火花を散らした。
距離を取らせてはならないとランサーは大きく跳ねた。眼下に冬木の街がどこまでも広がり、アーチャーが手にする双剣が中心で輝く。
やっとその気になったか。
ランサーは重力に従って下に落ち、槍の穂先を腰布を翻す弓兵に突きつける。しかしアーチャーは剣越しにちらりとランサーを流し見るだけで、辿りついた赤い橋を駆けのぼり頂点から飛び降り己の姿を隠そうともがく。



 橋を超えてもランサーは執拗にアーチャーを追った。しつこい、とアーチャーは舌打ちして罵った。いったいなぜそこまで私につきまとう。住宅地の屋根を足場に坂を上っていく。闇の中でうるさく鳴る己の息にまぎれ、なにかがアーチャーに囁いた。

 もう十分だろう。お前はこの地で十分に役目を果たしたのだろう。ここいらが潮時じゃないか?親切な男がお前を貫き殺そうとしている。それは幸運ではないか。お前にはもうないだろう。名誉も、誇りも、人格も。
戻るだけだ、好いた男の手で、いるべき場所へ。
 アーチャーは足を弛めることなく住宅の屋根を踏みしめては跳躍し、明かりの届かぬ広い空間へ転がりこんだ。
ああそうだな、と光のない空間で思う。アーチャーは腹を決めた。ランサーを迎え撃つ姿勢を取り双剣を煌めかせる。

 どうにも私は長居をしすぎてしまったんだ。




 ランサーはアーチャーが迎え撃つ様子を見せたことに歓喜し、声をあげて笑った。やっとやる気になったかと腰に力をこめ、着地した柵の上で身をぐっと縮めた。身体全体の筋肉を伸縮させ、アーチャーの正面を目指して飛び立つ。
 アーチャーは重い双剣を握り感情なく言った。
「君にはわからないのだろうな、私の思いなど」
大地を乱暴に踏み土埃を立てたランサーは、はっ、と呆れた声を出してアーチャーを睨みつける。
「言えよ。言ってみろよアーチャー。言わねえとわからねえ、わからねえから俺は聞くんだ」
「……”わからない”」
アーチャーはランサーの言葉を淡々と繰り返した。
「わからないな、私も。なぜ君は私にそれほど構うのか。それこそ私にとって”理解できない”」
「知らねえフリをしてんじゃねえぞアーチャー。言葉が欲しいならいくらでもくれてやる」
ランサーはじり、と足へ力をこめた。土がずれ、地に痕が残る。
「目を覚まして俺を見るんだ」
アーチャーの双剣に仮初の殺意がこもる。ランサーは周囲の魔力を吸いながら告げる。
「俺と生きてみろよ。……アーチャー」

 その言葉が始まりだった。
弓兵は歯を食いしばり、槍兵の首を狙って莫耶を叩きつける。当然のように赤い槍が白い刃を弾き返した。重い金属の擦れる音をたて、間を置かず干将を下から振り上げる。ランサーは踵に力を入れその刃を力任せに押し流した。一歩踏み込み、横から勢いをつけ弓兵を薙ぎ払おうと槍を振るう。
弓兵は横に飛び、そのまま槍の届かぬ場所へ後退する。双剣を構えなおし再び槍兵へ挑む。
 筋肉を張りつめさせ、弓兵は槍兵へ鋼を振るう。ランサーには、その動きの全てを細かく、止まったまま見ていくことができた。アーチャーは酷く苦しそうな顔をして、鋭く光る剣を何度も打ちおろしては跳ね返されている。槍がアーチャーの胸の際をかすめる度に、眉の間に刻まれた皺は深くなる。
アーチャーは髪を乱し槍兵の裡へ潜りこもうとしては槍に返され、むしろ己の裡へ槍を近づけさせている。金属のぶつかる音が何重にも重なり互いの緊張と荒い息が空気を揺さぶる。
ランサーは足を出して息を止め、血の色をした己が武器で弓兵の肉体を貫こうとする。弓兵が防戦のため振るった干将が飛ぶ。力の届かぬ弓兵の足がもつれる。
背中を張り、槍を押し出して、ランサーは思った。

ああ、俺、こいつ殺せねえわ。

それは辿りついた真実だった。
そして終わるはずだった。
弓兵が残る白刃を振るい、槍を退けさえすればなにもかも終わるはずだった。
けれどアーチャーは最後苦しみに満ちた表情を緩め、笑いさえしてふっと力を抜き、手を止めた。


 奥歯が割れ欠ける音がした。
ランサーは己に与えられた屈辱のあまり、自身の奥歯を自らかみ砕いた。

「……そこは貫くべきだと思うのだがね。私はいささか君を見誤ったようだ」
槍兵は身体を不自然に強張らせ、アーチャーを貫くはずだった槍を止めていた。穂先はアーチャーの武装を破き、表皮を切り裂いたところで震えながらとどまっていた。
 たらり、と血が一滴傷口から盛り上がり、玉となって下に伝い落ちた。
怒りのあまり全てが白く染まる。じわりと口の中に広がる血の味は不快極まりなかった。何かを言おうとしても母音の一つさえ発せられない。目前に佇む生を諦めた男が憎しみでぶれて見える。喉の奥から空気を押し潰した音が漏れる。
それは今にも形になりそうだった。
宝具の真名を形作ろうとしていた。

 ああ、忌々しい声が出る。俺はどこかで間違ったのか?俺はこんな下らない結末のためにここまでこの男を思ってきたのか?
血に濡れた口を開ける。
俺たちは、なんのために、ここまで。

「あぁ」

 ああ、駄目だ、とアーチャーが思ったときにはもうその視界の中から槍兵の姿など消え失せていた。
弓兵の視線は上空の一点だけに集中していた。
喉が震える。槍兵の殺意と弓兵の諦めの間に、一輪の花が咲く。白い花が凛々しく背を伸ばし、二人の争いを否定しようとする。

「アーチャー」

背の高い箱型の建物と多くの窓を見て、アーチャーは己が立っている場所が学園の校庭だと今更知った。
校庭から屋上を仰ぐ。彼女は星のようにそこに立っていた。
小柄な少女は星と見紛う輝きの金髪を結い、白いブラウスと青いスカートを風にはためかせながらアーチャーとランサーを見下ろしていた。なにかを押し殺した無表情のまま、再び名を呼んだ。
「アーチャー」

アーチャーは自身に与えられたクラスの名の響きに唇をわななかせた。君まで出てきたのか、と虚ろな心が呟く。
「……君まで……」

ランサーが怒りのまま歯をむき出しセイバーを威嚇しながら怒鳴る。
「何の用だセイバー!退け、退け!踏み込みすぎだ!」
少女はいたわしそうに形のいい眉をひそめ、二人の男を見下ろした。静かに可憐な口を開く。

「あなたはもう、十分すぎるほどに己と向きあっている」

 彼女はきっと、加減を間違えた赤い槍が私を貫こうとするときその身体を私達の間に捻じこんで止めに入るのだろうと確信できた。アーチャーは震える唇を噛みしめる。
なにもかもが私を生かそうとする。
なぜ私を生かそうとする。
なぜ私を苦しみへ引きずり戻す……。

 セイバーはランサーを気遣わしそうに一度見て、姿を消した。警告をしたのだ。表向きにはランサーへ、実質的にはアーチャーへ。
エミヤは冷えた腹の底から声を、呻きを絞り出した。なぜ生かそうとする。なぜ共に生きようとする。
姿を隠した少女へ、苦しみに苛まれる全身を捩じりあげて罵った。

「この男の槍に貫かれて死ぬことが、どれほど私の救いになるかわからないのか……!」
ランサーは苛立ちと共に槍を乱暴に投げ捨てた。エミヤの面前まで肩を怒らせて歩き、胸ぐらを力任せにつかみあげる。
「それでも生きろっつってんだよ、お前は、俺が、ただお前と生きたいと願う、それ以上の……それ以上の言葉が欲しいのか!」
ランサーはエミヤに唾を飛ばして叫び、唸る。
「……俺と」
生きてくれよ。

 その言葉に互いの力が抜け、もつれあいながら地に落ちる。力の入らないエミヤの身体がランサーの上へ崩れ落ちた。男の胸が耳の真下にある。理解の及ばぬ物質で形作られた私達は、それでも形ある偽りの心臓を持ち、血液のようななにかを全身に巡らせている。
ランサーの立てる荒い息遣いに同調して上下する胸を枕にして、エミヤは激しく脈打つ互いの命の音に耳を澄ませていた。
重く下がるまぶたに耐えきれず、目を静かに閉じる。
ランサーが手を伸ばし、エミヤを抱こうとした。力なく振り払っても、しつこく何度もエミヤを抱きしめようとする。
無理矢理エミヤを包む手を払い除け、エミヤはよろよろと上半身を持ち上げた。
 ランサーは疲れたように片腕で顔を隠し、掠れた声だけで生きろと囁く。

 果てのない夜空が天に広がり、数え切れぬ遠くの星を瞬かせている。けれどエミヤは己の下に続く大地だけを見据え、虚空に抱かれようとはしなかった。
エミヤはゆっくりと顔を両手で覆い、やがて全身を振り絞って咆哮を上げた。身体を戦慄かせ、星が抱く地の上で言葉にならぬ叫びをあげた。
この地に再び生まれ落ちるための産声を上げた。
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