fate(槍弓以外)

 神へのおそれを知らぬ足音が、教会を訪れている。

 綺礼は寝台で身体を横たえ、胸の上で手を組んでいた。祈るように、今から埋葬されでもするように。かつて、その姿を偶然目にした男は笑っていた。
「まるでいまから死に行くようではないか、言峰」
「であれば話は早いが、まだこの身は赦されまい」
ふふ、と壁に肘をもたれさせた古代の王はなにが可笑しいのか含み笑いと共に、そうであろうな、と唇を指先でなぞりながら呟き、気まぐれに去った。時間の感覚が薄れてきてはいるが、あれは確かに以前の出来事だった。そう、奴が綺礼を「コトミネ」と呼びだした頃だ。今とは違う気楽さが、二人の間にはまだ存在していた。

足音が回廊を巡る。輪郭の際立つ影が壁をつたい、教会の空気と靴の音が呼応する。

 いつからだろう。あの青い獣を連れてきた頃だろうか。いや、それよりも以前からかもしれない。ギルガメッシュはたまに姿を見せたかと思うと地下に篭り、一人きりで考え込むことをいつからか繰り返していた。奴には似合わぬ陰鬱さをまとって、じっと正面を見つめている。その目はおそらく心のうちを向き、綺礼には計りきれぬ事柄を思案していたのだろう。
 奴の姿を教会で見る頻度は徐々に減っていた。戯れに少年を奴のマスターにあてがったという事実を除いても、意識的にここから足を遠ざけているようだった。だが一度現れれば、奇妙な熱を孕んだ赤色の眼で綺礼のあとを追う。視線を隠す気は一切ないらしい。
 私たちの関係は変容している。上手く捉えることもできないまま、刻一刻と姿形を変えている。切欠を過去に求めても心当たりがない。ただ絡みつく視線が、地下と通路を巡る高い靴音が、悪戯に何かを訴えかける。察してみよと要求する。コトミネ、わかるか。我の望みが。曲げた唇の端がからかう。困惑し、たじろぐ綺礼を。
 あの男は、聖杯を前にして新たな命の誕生を祝福しようと昂る言峰の後ろで囁くのだ、口の端を吊り上げながら。おまえの望みは叶うだろう、……さあ、我の望みを

音もなく扉は開かれた。

「起きているのか、言峰」
生ぬるい呼気が綺礼の耳に吹きかかる。手を組み横たわる綺礼に覆いかぶさるようにして、ギルガメッシュは寝台を軋ませた。
「……寝ていた」
「ふん、つまらぬ男だ。面白味の欠片もない」
「今更だろう」
「狗は健在か」
「……珍しいことがあるものだ。おまえはああいったものに興味がないとばかり」
「あるわけがなかろう。だが言峰、おまえへの興味までは失くしてはおらぬ」
「それは幸せだ。王の関心を賜るとは」
綺礼の、言葉の内容とは裏腹なそっけのない返事を聞くと、つまらなさそうに鼻を鳴らしてギルガメッシュは立ち上がった。
「新たなマスターはどうだ、問題はないか」
「……そんなものもいたな。忘れておったわ」
そのまま姿を薄れさせながら、去り際、鋭い目線で綺礼を刺し貫いた。
「死ぬなよ、言峰。我が許すまでな」
かき消える赤い瞳が、綺礼の心臓を疼かせる。一瞬、生きていた頃の感覚を思い出させるように。

 ***

はっはっと上がる息を、ようやく自分が吐いているのだと認識できた。掌底を骨の中心へ叩きこむ。背骨を折れば立ち上がれまいと、何体も骨の中心を砕き破壊してようやく自室に辿りついた。革で作られた頑丈なスーツケースを奥から取り出し、人に見せられぬ機密書類、切り札、聖遺物に武器を幾つか流し込むように放り込んだ。鞄に付属する鍵を手早くかけ、ドアを開けた瞬間勢いよく中庭へと放り投げる。偶然にも鞄が直撃した一体の竜牙兵が崩壊した。幸運だが一体二体減ったところで、教会を取り巻く脅威に変化は微塵もない。綺礼は足を回して襲い来る竜牙兵を薙ぎ払うと、できた空間に転がり込み、スーツケースを拾って礼拝堂へと抜ける。だらだらと身体から切りなく流れる血を止める暇もなかった。

 教会を襲った竜牙兵から不意打ちで喰らった一撃は深かったが、この場から離脱するまで構ってはいられない。生命の危機を感じ聖杯の鼓動に共鳴する身体を抱えながら外に出た。己が聖杯戦争の表舞台から姿を消す程度の出来事は、当初の計画の範囲内だ。むしろ竜牙兵を指揮しているのであろうキャスターと直接接触せずにいられたことは僥倖だった。その分手持ちのカードを切らないで済む。ただ一つ心に引っ掛かっているのは、事態を把握してはいるだろうに姿を見せない、金色のサーヴァントについてだ。

 動けば動くだけ残された時間を失うとわかっていても、動かなければならないことがいくつもある。ランサーも遊び歩かせている訳にはいかない。綺礼は街を歩くために必要最低限の止血措置だけをとって、冬木大橋を渡り深山へ足を運んだ。柳洞寺を横目で見ながら、反対方向の円蔵山の麓にある石造りの一軒家へと向かう。いざという時身を隠し、街を監視することのできる一棟を以前から確保していた。
周囲を警戒し監視の目がないことを確認してから、ようやく人心地つけると結界を踏み越えたところで、抱いた違和感によって身体が強張った。綺礼以外の侵入者が存在している。簡易な結界に綻びが生じている。
 即座に行動できるよう肉体に血液を力強く巡らせ、暫くそこに立って注意深く気配を探り、静かに建物の周囲を観察する。窓から内部を観察できるのは、侵入者が引かれていたカーテンを開け放っていったからだ。慎重に周囲を一周したが、建物の中に人影は存在していなかった。最後に裏口に気配なく近づき確かめる。鍵はかたく閉ざされたままだ。
侵入者は結界に構わず正面から家へ入り、日差しと外部からの視線を遮るカーテンを開け放ち、見覚えのある同一のラベルが貼られた酒を何本も消費して寝台を使用した。外からの観察で判別がついたのはそれだけだが、侵入者の予想がついたことで綺礼は構えを緩めた。常にない息苦しさを緩和させるためにカソックの胸元を解く。安心はしたが、その事実によって綺礼の感情が揺さぶられることはなかった。
近頃姿を見ないと思っていたのは、綺礼の隠れ家を根城として確保していたからかもしれない。しかしわざわざそのような手間をかけずとも、住処の確保は奴にとって容易いだろうに。なぜこんなことを、と呆れながら正面に回ってドアを開けた。鍵は壊されて使い物にならなくなっている。


 上がる息に、間隔の延びた脈に、残された己の命の時間を悟る。

 再び開きかけた傷口を押さえながら家へ上がり、こらえきれず玄関で立ち尽くした。したたり落ちる血によって手からすべり落ちたスーツケースが、重く音をたてて落下し横に倒れる。身体を引きずるような歩き方をしている自覚はあった。自由気ままに刻まれた靴跡が踊る廊下を見下ろし、ただ休息が欲しいと心底願う。人が死に至る量の出血をしていても、頑強な身体は流れ込む泥の息吹によって生き延びている。だが肉体は確実に衰え、秒針が時を刻むように現世での残り時間が削がれていく。
 壁に手をつきながら玄関の段差を越え、よろよろと居室を目指した。乱れた布が広がる寝台へ向って重い足を歩ませる。途中に置かれた椅子の背に手を置き、そのまま大きく息を吐いて一度床に座りこんだ。

「死した心臓はいまだおまえを殺してはくれぬらしい。……つらいと思うか? 言峰」

寝室の暗がりに溶け込むかのようにして、いつの間にかギルガメッシュが部屋の片隅で石壁に凭れかかっていた。腕を組み、表情のないまま脂汗をたらす綺礼を眺めている。白い肌は死人のようにさめざめとした色をしながら、真珠のようにうっすらとした白い輝きを帯びていた。死したような肉体を得た美しい英霊と、とっくに死んだ心臓で現世にしがみついている男。まるで生者のいない凶宴だ。だが王は綺礼より遥かに人間らしいのかもしれないと、奴が現れてから過ごしていた年月を想う。なまめかしく、唇が動いた。
「ひとつ、おまえに求めたいものがあってな」
なァ、と甘く絡みつく声が綺礼を縛る。
「……その話は今でなくてはならぬものか」
「当たり前であろう。我の望みは疾く叶えられなければならぬ。当然の理だ……特に言峰」
おまえがそのように弱っておるなら奇貨居くべし、このような機を逃すのは勿体ないというもの。
 ギルガメッシュはおもむろに近づいてきたかと思うと身を屈め、蹲る綺礼の耳元でこらえ切れぬように短く笑った。

――この男は、私と敵対でもするつもりなのだろうか。綺礼の胸の内を影がよぎる。何故今更。
何故、いま。
「なに、難くはない。おそれることもない」
「おそれなど……最早この身におそれなどあるものか」
玉顔を伏した王が笑う。力を失い、半ばギルガメッシュの首筋に顔を埋める格好になりながら濁る意識で、放たれる言葉を逃すまいと綺礼は己を律する。
「ただ我は惜しいのではないかと思ってな。このままおまえを失う可能性を勘案したならば、その前に一度、おまえを知るのもいいのかもしれぬと。――喜べ言峰。我の十年越しの寵愛を貴様にくれてやろう」

 反射的に、逃れる隙を作るため撃ち込もうとした拳を、白い指先で軽々と絡めとりながらギルガメッシュは囁く。
「拒むか我を? そうでなければな」
ふざけた話だ。綺礼は面を上げ、正面を睨みながら口角を吊り上げた。ギルガメッシュ、その言葉をもっと前に言っていてくれたなら、私は

「容赦なく、全力で叩きのめし抗ってやったのに」
哄笑と共に、支えを失った身体が床に落とされた。綺礼は寸前で手をつき身体をかろうじて静止させながら、目の前の男の自由にはならぬと歯を食いしばる。ハァ、と息を肺から絞り出して呻く。
「ギルガメッシュ、私は……おまえと契約はしたが、おまえの民となった覚えはない」
相手が狂うことを知らぬ王であれば、己の耳を疑うほかない。だが己の耳も機能している以上、確かなのは王が気まぐれを、よりにもよってこのタイミングで、起こしたという事実だけだ。そしてギルガメッシュにとって、綺礼が拒絶する選択肢はないのだろう。だが、返すことのできる答えはひとつだ。
 許容すべき理由はない。
 それだけだ。呪われた身であったとしても、傲岸不遜な男に屈辱的に犯されるなど御免だった。手を組みこそすれそう易々と支配に服する身分になった覚えなどない。

人を色へ誘う悪魔の笑みをみせた金色の男は、獲物の反抗を予想していたのだろう。細腕を背後へ伸ばすと、するりと、宙から撓る細長い物体を取り出した。よくよく観察すれば、持ち手に獅子の顔が刻まれ赤い房を垂らす、おそらく乗馬鞭であろうと推測される一本だった。先端はわずかに平たく、黒い革を貼ってあるのが見て取れた。ギルガメッシュは手に馴染ませるように一度鞭を振り、風を切る鋭い音に満足げな表情を浮かべた。豪奢な鞭は、対象を叩く力そのものは強くないのかもしれない。

 ――けれど、加減なくあの鞭がこの身に振るわれれば、肌は裂け、今以上の血が流れ落ちるだろう。
 痛みの予感が背骨を貫いた。
かつて何度も受け止めた、懐かしささえ感じる「痛み」を思い出す。快とも不快とも判別のできない感情を悟られまいと目を伏せる。傷みかけた肉体から血が流れ落ちる幻影が、綺礼の心に鮮やかに焼きつく。密やかに抱いた悦びを見通したギルガメッシュは頬を歪ませ、鞭で数度、己の掌を叩いた。
「おまえの身体に傷はつけぬよ、言峰。己が財産に傷をつけるなど、愚か者のすることだ。わかるだろう? 我は命じたいことがあるからおまえに鞭を振るうのだ……傷つけることは目的でない。馬に傷を与えるために鞭を振るうのではなく、躾をするために鞭を振るうのと同じことよ。……知っておろうな。我とおまえのどちらが主人であるかは。なァ言峰?」
ピシ、と空気が鳴る。
「それともおまえは、わからないとでも言うつもりか?」
窓辺に立ち光を背負うギルガメッシュは、部屋の中央で蹲る綺礼を見下ろし、じわりじわりと血を流す身体に鞭の先を動かすことで命じる。
「我の前にひざまずくことを許す」

互いに動きを止めても、冷えた洋館に漂う空気はゆったりと巡る。古い置時計が大きな音を立てて時を刻む。ギルガメッシュは優雅に、気品のある仕草で左手の甲を差し出した。
「口づけせよ」
全身が怒りとも困惑ともとれぬ感情で沸騰する。ただ休みたい、と灼熱が渦巻く頭で綺礼は思う。休息さえ与えられれば、三時間の睡眠さえあれば、この男の無礼な命令へのあしらい方を上手く考えることができるだろうに。
 真っ赤な神世の瞳が綺礼を注視している。間違いを起こせば躊躇いなく鞭を振るおうと右手は待ち構えている。無性に腹立たしかった。神と決別した私に差し出される手とはこのようなものだったのか。

「我は足へ口づけせよと命じてもよいのだぞ。これは温情なのだ」
親切そうな口ぶりで、微笑みながらギルガメッシュは告げた。最早対等な関係など望むべくもない。食い違いは決定的だった。そして、綺礼にこの場から逃れる手段など存在しないことも。
 綺礼は重い体を動かし、怒りに身を委ねてギルガメッシュの足へ口づけようと頭を下げる。差し出された左手を見ようともせずに。半ば倒れこむようにして行おうとしたその行為は、綺礼の顔面のすぐ近くで振るわれた鞭の甲高い風切り音で止められた。苛立った鞭はそのままフラップでじっとりと綺礼の顎を撫でる。
 目線を上げると、ギルガメッシュは冷え切った怒りで顔を凍らせ、目に燃え上がる憤怒を滾らせていた。口が静かに開かれる。
 ――我は、なんと、命じた?

その言葉に今更気づく。真実、この場の王は目の前の男以外にいないのだと。


「抗うなら我も相応の手段を取ろう。覚悟はできておろうな」
細い手が綺礼の首を捕らえた。そのまま容赦のない強さで、綺礼の身体が寝台へと放り投げられる。
「――っ、っは、げほっ」
咄嗟に衝撃を逃しながら、受け身をとる。乱れた敷布の上で身をよじり、噎せる綺礼の前へ、ギルガメッシュが寝台を軋ませながら膝をつく。ギルガメッシュは果実のように色づく尖った舌先で白い歯を舐めた。なんとまあ躾の通らぬ奴か、おまえは昔から変わらんなと口だけで可笑しそうに呟いた。
「――」
いま、最も聞きたくない単語が遠くで放たれる。その瞬間、綺礼の手首を縛り上げた金属の頑丈な鎖の感触に、湧き出る呻きを喉の奥で殺した。鎖は両手首を拘束しているのに、両足は自由にされたままだ。その理由に思い至り吐き気がする。
「その鎖に傷をわずかでもつけてみろ。どうなるかわかっておるだろうな?」
ギルガメッシュは綺礼の上にのしかかり、足を押さえながら綺礼の腰の上で両肘をついた。両手の甲で顎を支え、舐めあげるように綺礼を見上げる。蛇のように目を細め、甘い声を出した。
「おまえに口づけしたいものよ」
きゅう、と唇が曲がる。
「娼婦のように迎え入れるか? 応じるが処女のように動けぬか? 悪戯に噛みついてくるか? 血をにじませながら……それともおまえは食いちぎってしまいたいか、我の舌を」
――ああ、どうしような言峰。
「我はその全てのおまえが欲しいのだ。困ったものよ」
愉悦を隠そうともせず、ギルガメッシュはカソックの上着につけられたホックをひとつひとつ、細い指先でゆっくりと見せつけるように外していく。
「可愛がってやるだけだ。おそれることはない。拒めば辛い、応じればこの世の天国を与えてやろう。さて、おまえが本当に悦を感じるのはどちらであろうな?」

 綺礼は己の腕で目を隠しながら、うっそりと笑んだ。そんなもの、おまえが一番よく知っているだろうに、よく言うものだ。
「しっているだろう、ギルガメッシュ。私は……お前の顔が嫌悪で歪む様を欲する」
冷えた指先が、綺礼の唇を撫でる。
「愛い奴だ……だからこそ惜しい。かわいがってやろう、おまえの肉体が滅ぶときがくるまで。……存分にな」
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