fate(槍弓以外)
人を拒むように固く閉じられた分厚い硝子扉のむこうには、だだっ広い空間と、まばらに日焼けした白い塗壁しかなかった。用途のわからぬコードがまとめられ、片隅に放置されている。がらんとした箱型の空間の意味を示すように、扉には薄いコピー用紙が貼りつけられている。
バタバタと四隅が風に煽られているその紙には、色褪せた文字で「閉店のおしらせ」と印刷されていた。
士郎は立ちどまったままなんとなく、肩から下げている鞄のストラップの位置を直した。それと同時に思わずため息が出る。それは自分が明日の朝食のためのパンを調達しそこなったことについてではなく、
「あら、あそこ行くの?だったらバゲットとドーナツ買ってきて~、おつかい。払うもの払うから、ね?あ~楽しみ!」
と喜んでいた大河をがっかりさせてしまうことについてだった。
仕方なく歩きだそうと、硝子に反射する自分自身の姿をみながら足をあげる。硝子の奥にうつる新都の街並みはいつまでも同じように見えていて、しかし一つ二つと確実に店は入れかわり、建物が古びて壊されては新たに建ち、そしてすれ違う人々の顔は毎回異なっている。
どうしようか、と右手に持つ書籍のはいった紙袋を抱えなおした。パン屋なんて何軒もあるはずなのに、どこへ行けば大河が喜ぶ商品を手に入れられるかがわからない。ぶらぶらと多くの人が行きかう通りをあてなく進む。高校生たちが白い夏服を着てベンチに座り、歓声を上げては互いのソフトクリームを交換しあっている。自分も昨年までは彼女たちと同じ立場にいたはずなのに、士郎には彼女たちが随分離れた場所で物憂いた青春を享楽しているように感じられた。
ともかく、今晩のメインを買いに行こう、と思考を切り替える。道沿いの旅行品店をのぞき、途中で新たなパン屋のひとつでもひやかしながらスーパーで夕食の材料を調達する。その計画に誤りはないだろう。きっと、多分。そうして帰ろう。時間が余れば庭の手入れをして夕食を作ればいい。
士郎は歩き出した。ビルの合間を行きかう無数の人間の一人となって。
***
ひぐらしが鳴いている。
ふとその響きに導かれ士郎はうつむく顔をあげた。力強く根をはり、庭を我がものとして占拠する雑多な草を抜く手をとめ、首にかけているタオルでしたたり落ちる汗を拭う。
首をかしげ耳をすませた。
油蝉の鳴き声の背後にひぐらしの声はなかった。まだ早い。ひぐらしが鳴くには早すぎる。だが暦は確実にうつりかわっている。何週間か前には、この時間に外へ出て庭の手入れをしようとは思わなかった。新緑ほどの勢いはないが夏らしく青々と茂る木々と、蔵のむこうに広がる夕方の空を見上げる。白く薄い雲が筆ではいたように伸びていた。
立ち上がって「うー…ん」と背をそらす。膝にこびりつく泥を軽くはたき落とした。広さだけは十分にある武家屋敷を手入れし、そして閉じていくためには途方もない時間と人手が必要だった。近いうちに、各々の好物が並ぶ食卓で釣って、居間で頻繁にくつろいでいる面々の手を借りたところでバチなどあたらないだろう。道場も蔵も汚れが気になっている。母屋もすべて拭き清めてから出ていきたかった。
ゴミ袋と道具を片づける。今日の夕飯にはいったい誰がくるのだろうか、楽しいのはいいけど計画だけは立てにくいんだよなあ、と今日買ってきた食材とそろそろ食べ切ってしまいたい食材を脳内で秤にかける。
固まった身体で伸びをしながら家屋へ近づくと、リズム良く廊下を走る軽い足音がした。
「シロウ、……シロウ!」
「お、どうしたんだセイバー。飯ならまだだぞ」
家から顔をのぞかせたセイバーは、あからさまにむくれた。
「――っ!人のことを食欲しかない生き物みたいに言わないでください。無礼ですよ」
そう憤りながら、両手で下げていた重たそうな袋を士郎にぎゅう、と押しつける。
「なんなのさ、これ」
持ってみるとずしりと重い。上からのぞきこむと梨がいくつかあり、その下に巨大な西瓜があった。
「ランサーが先程置いていきました。シロウを呼ぶといったのですが、かまわんといって行ってしまって……今ならまだ、道にいるかもしれません」
まあ”人間”として行動していればの話ですが、と広げた両腕だけで表現するセイバーに「ありがと」と礼をして表へむかった。靴を鳴らして表の道路を見渡せば、小さくなったランサーの後ろ姿があった。
派手な色あいの男に呼びかける。
「ランサー!」
そう叫んでから次の言葉を探していると、遠い男は手をだらりと伸ばしてへらへらと振った。こちらを振りかえることなく。
「あとで食べにこいよ!」
その声は届いたようだった。ランサーは足を止めて僅かに身を傾げ「おう」と間延びした了承だけを残していく。
「あら~西瓜と梨!もう夏も終わりかけって感じねえ~」
大河は顔を見せるや否や到来物について言及した。縁側では大きすぎて冷蔵庫にはいりきらなかった、丸々と十分に太った西瓜が盥の中でぷかぷかと水に浮いている。
「ランサーからいただきました。流石大河、目ざといですね」
そういうセイバーの目は、梨をむく士郎の手元へ一直線に注がれている。あら湯呑がない、と呟く大河が問う。
「今日は桜ちゃんくるのかしら」
「あー、今日は部活関係で用事があるからお邪魔できません、だってさ」
士郎は瑞々しい梨を切りわけて器に盛り、冷蔵庫に入れる。その一瞬の隙をついて、台所をのぞきこんだ大河に一切れ奪われた。
「なっ……、行儀が悪いですよ大河」
そう咎めたセイバーの瞳は、きらきらと羨ましそうに輝いていた。セイバーにむけ、てへっとおどけた大河は
「あ、電話」
と電話の方向へ首をむける。その途端、電話がじりじりと鳴りだした。
士郎は下味に漬けこんでいた鶏肉を台に置き、エプロンで手をふきながら受話器を手にする。耳にあてると同時に、高い声が鋭く士郎の頭の中心を貫いた。
「あっ士郎!?悪いんだけど、今日そっちにアーチャーが行くから。なにか適当に食べさせてやって、お願いね!」
ざわめきに掻き消えそうなノイズまじりの音をよく聞こうと、士郎は受話器を耳に押しあてた。
「えっ、え?……遠坂、なのか?なんだよ急に」
「いや、今日アーチャーとアンタの家で約束してたのよ。でも別件がはいって行けなくなったの!」
凛の声に重なるように列車の発車を知らせるベルと行き先を告げる駅員の声がする。アナウンスの言語は日本語だ。
「えっ、遠坂お前もしかして帰って」
「それじゃよろしく!」
がちゃん、と思い切りよく回線は切断された。つー、つー、と機械音だけがむなしく繰り返される。士郎はぼんやりとした声で、とーさか、帰ってきてたのか?と言い損ねたフレーズを力なく放った。
「あら、遠坂さん予定より随分早いのねえ。……それにしても、お部屋一つ準備するのもむこうと行き来して大変よねえ」
大河は、威厳があると自分では思っている顔つきで士郎へ説く。
「士郎、あんた英国への準備は遠坂さんがしてくれるからって思ってない?これからもお世話になるんだから、きちんとしなさいよ」
士郎は、それはそうだけど、と呟く。
それはそうだけどさ、しっかし、人ん家を飯つきの集会所みたいに使うなよな、と腹を立てながら受話器を置いた。
***
武家屋敷の玄関は、この男には少々狭いのかもしれない。
黒い服を着た大柄な男は腕を組み、玄関の空間を物理的に支配しながら不満気に言い放った。
「私のマスターの不手際のせいで申し訳ないがな、そういった場合には遠坂家へ断りの電話の一本も寄越してもらえたなら心底助かるのだがね、勿論手間をかけさせてしまうことについては十分に謝罪しよう」
アーチャーは謝罪の意思をかけらも示さぬ態度で士郎を睨みつける。
「そうすれば互いに無駄足を踏まなくてすむだろう」
と、上がるのか上がらないのかはっきりしない態度の男に、士郎は無性に苛立ちをおぼえた。
「いや、別にお前のぶんくらいなら」
飯あるんだけど、と口にすべきか否かで迷いながら言葉は口の中に消え、重い沈黙だけが二人の間にのしかかる。俺も暇じゃないんだけどなあ、と心中でぼやいていると軽い音と共に玄関の扉が開いた。
「……あっ?驚かせるなよ。なにしてんだよお前ら。おう小僧、食いにきたぞ」
お言葉に甘えてな、と人好きのする笑顔を浮かべたランサーが、アーチャーの後ろから顔を出す。
「アーチャーなにしてんだ、早く上がれよ。邪魔で仕方ねえ」
ランサーに促されるままアーチャーは衛宮邸に上がり、慣れた様子で居間へむかった。その後をランサーが追う。集まった面々が散らかした靴を片づけようと士郎が身を屈めると
「でもお前あそこにあんまいねえじゃ……いてっ」
という小さな声と鈍い音が耳に入った。
***
「花火?」
士郎はオーブンの中を観察しながら問い返す。
「そう、いつもの花火。遠坂さんも士郎もしばらくは見れないでしょう」
「え、見たことない。私も行きたい、行きた~い!」
「ぜひ行きましょう、シロウ」
四方八方から声が飛ぶ。士郎はオーブンから焼けた鶏肉を取り出し、手早く包丁を入れて大皿に盛りつける。花火と聞いて、なにかを忘れている気がした。もやもやとした心のまま声をかえす。
「セイバーはともかく、イリヤは帰りが遅くなりすぎるだろ。終わるの9時とかだぞ、しかもそっから帰るんだから」
大皿を持ちながら居間へ戻ると、頬を膨らませたイリヤが拳を握りしめていた。
「セラやリズに迎えにきてもらえるもん!……あっ、じゃあ、シロウの家に泊めて!それならいいでしょう」
士郎はテーブルの中央へ大皿を乗せた。
「それは……それこそセラやリズに聞いてみないと」
「いいって言うよ!ねえいいでしょう?ねえ大河」
「そうねえ、それならいっそ皆で士郎の家に泊まるっていうのも……」
「ねっ、決まり。シロウ、わかった?」
イリヤは大河の肩に掴まりながら、士郎へ満面の笑みをみせた。うーん、と煮え切らない返事をして盛り上がる女性陣の反対側へ顔をむける。
「あんたらは……行く?」
アーチャーは目を閉じて不動のまま、なにも言わない。皮を剥いてある生のとうもろこしを手に持ち、矯めつ眇めつしていたランサーは
「それはいいが、人が多いのはどうも。……海ですんのか?ならオレらは橋から見りゃあいいな」
可愛い女の子でもいりゃあ別だがな、という一言については皆が聞こえていないふりをした。
「橋かあ、でもあそこ風下になると大変なのよねえ」
主に煙が、と大河は言うが、きっと藤ねえのいってる橋からの花火とランサーのいってる橋からの花火には随分隔たりがあるんだろうな、と胸の内で士郎は思った。
「なあ、それよりこれ本当に生のままで食えんのかよ」とランサーは隣りあうアーチャーに問う。
「そういう品種らしいからな、”食える”だろう。もっとも、貴様ならどんな品種でも生で食べられるだろうがな」
ランサーはアーチャーの言葉に鼻をならし、「珍妙なもんだな」と歯をむき出しにしてそのまま齧りついた。神妙な顔で咀嚼してから、ランサーは続ける。
「ま、若えもんは若えもん同士で行ってこいよ」なァ、とアーチャーに同意を求め、「しかし本当に甘え、果物みてえだ」と独りごちた。
***
閑散とした居間の机を拭く。大河だけが残り、ぱらぱらと資料らしい書類の束をめくっている。時刻は9時半を過ぎていた。士郎は夜に訪れるこの静かな時間が嫌いではなかった。一日を無事終えた安心感に満足できる。藤ねえが帰ったら風呂に入ってしまおう、と台所の後始末をする。
静かな空間に、がらりと玄関の開く音が大きく響いた。あれ藤ねえ帰るのかよなにも言わないでと振りむけば、不思議そうに玄関の方向をうかがう藤ねえの後頭部が見えた。
「シ……ロ……ウ……ぅぅ」
なにやら玄関から女が呻く声がする。不気味に思いながらそっと廊下から暗い玄関を見遣ると、女が長髪を振り乱して廊下へ伏せている。その艶やかな黒髪と、隣にある巨大なスーツケースには覚えがあった。
「うっ……わ、遠坂、やめてくれよそれ。完全にホラーじゃないか」
士郎の言葉にぎぎぎ、と頭を上げた遠坂は、
「おなか……すいた……」
と呟き、力を失った。
「あー、やっぱりご飯は日本食に限るわ。それも士郎の作ったやつね。外の食べ物って最初は目新しくても、結局すぐに飽きちゃうのよね」
士郎のご飯は格別、と生気に満ちた笑顔で空の器を持った腕を伸ばし、五目雑炊のおかわりを士郎にねだる。士郎は受け取った器へおかわりをよそいながら、
「いいけど、連絡くらいくれよ。びっくりするじゃないか。……イギリスの手続きは上手くいったのか?」
「それはもう、大丈夫よ。抜かりなし。全部が完璧に進んでるから」
そうかあ、なにかうっかりしてそうだなあ、と首をひねりながら台所に立っていると、遠坂と大河の会話が届く。花火、ぜひご一緒したいです。しばらくそんな時間もないでしょうし……その響きにはっと思い当たった。
「遠坂、藤ねえ。そこら辺の棚に花火のチラシがある、桜が持ってきてくれたんだよ前に。皆さんで行きたいですねって」
棚って棚のどこよ、と凛がごそごそ紙類をめくる音がする。
「……見つからないわよ」
「ええ、あぁそこじゃない」
士郎はエプロンで手を拭きながら凛の上に覆いかぶさり、二段上からチラシを抜き出そうとした。すると、はらり、とカラフルな文字と写真が載っているパンフレットがチラシの下から落下した。畳の上で動きを止めた、見覚えのないそれを凛と士郎が同時に見下ろす。凛が自然な手つきでそれを拾い上げた。大きく書かれた大学名を声に出して
「……あら、桜が受けるところじゃない」
と言った。
「……え、そうなのか?」
桜、こんな名前の大学を受験するなんて一言もいってなかったのに。戸惑う士郎の呟きに凛は、まずっ、という表情をした。手と頭を大きく振る。
「いえ、いいえ、詳しくは聞いてないわ。なに、知りたいなら本人に聞いてよね、わたしは知らないから。ほんっとうに」
士郎が白々と凛を見つめると、凛はそっぽを向いて「雑炊美味しいなー」とそ知らぬふりをする。納得のいかぬ態度を示す士郎を見て、大河が口を開けた。
「そうよ~士郎。どこの大学かとかはともかく、桜ちゃんだってずっと高校にいるわけじゃないんだから。頑張ってるみたいだから、静かに応援してあげなさい。一応年長じゃない」
「一応ってなんだよ。……藤ねえ今日はまるで教師みたいだ」
「あら教師で悪かったわね」
大河はふん、と日本茶を啜る。
誰へ言うでもなく、凛がぽつりとこぼした。寺の息子だってそうでしょう。大学へ行ったのか、修行へ行ったのか知らないけど、最近家をあけてるじゃない。皆どこかへ行くのよ。私達が一足遅れて時計塔にいくみたいに。
凛が士郎をまっすぐ見つめた。
「士郎も早く準備しておいてね。夏が終わってしまう前に、むこうへ行ってしまいたいから」
遅かったら私が勝手に荷造りしちゃうわよ。と告げて凛は手洗いに立った。
「あ、っていうかわたし士郎の家に道具置きっぱなしじゃない……」
士郎は空になった食器を下げようと身を屈める。そこで大河に言い忘れていることを思い出した。
「あ、藤ねえ。そういえば潰れてたんだよ、頼まれてたパン屋」
大河は大袈裟に目を見開き「えっ」と驚いた。
「うそ、潰れちゃったの?新都のパン屋さん?ええ~そんな~、あそこのドーナツがわたしの生きがいだったのに~」
油のよく切れたかりっかりのドーナツがあぁ、と机に伏せながら地団駄を踏むという器用なことをやってのける。
「行ったら店がなかったんだよ」
士郎は宙を見ながらぼんやりと続けた。
「なんだか俺が帰ってきた時には、もう全部違う街になっていそうだ……」
大河は机に伏せたまま、目だけで士郎へ驚いてみせた。
「珍しい、士郎が弱気になってるなんて」
「いや、弱気とかじゃなくて……」
「街が変わっていくことが不安?」
濁りのない大河の瞳が士郎へ問いかける。
「もしかして、他の子と距離があいていくことが怖い?」
ぐっ、と言葉に詰まった。そんなこと、と言いたいのに声が出ない。
そんなこと、怖くなんてない。けれど士郎は知っていた。己の心のどこか隅っこで、この心地いい冬木での時間がどこまでも続くのだと、根拠なく信じている自分自身を。いつもの面子が家に集まり、食事を共にしてイベントへ出かけ、アルバイトをして家を手入れする、そんな日常が。自分が海外へ行くんだということを頭が知っていても、心は冬木に留まっている。頭は先へ進めと士郎を焦らせる。でも心は……。
士郎は考えても詮無いと頭を振った。大河がにっ、と無邪気に笑う。
「士郎の弱気なんておっきな花火を見ればなくなっちゃうわよ。……もういい時間だし寝ましょ。今日は店じまい。ごめんね、長く居すぎた」
***
数え切れないほどの人間が、海辺の公園に集まっていた。周囲は人の熱気で溢れかえっている。屋台の発電機が熱を発し、唸りを上げて動いている。色とりどりの看板が手狭に連なり、食べ物が焼け、揚げられ、甘い香りを放つ、それらの匂いが無秩序に充満している。
「わ、すごい。ねえシロウ、あれ美味しいの?白くてふわふわしてる。……でもかき氷もおいしそう」
「ここの名物はなんですかシロウ。まずは王道をいってから、次を見つけなければ」
ねえあそこで煮込まれてるのはなに?あの赤いのは?なにを買ってもいいの?切りなく問いを発するイリヤの好奇心とセイバーの食欲が収まることはない。周辺を何度もながめ、シロウ早く一緒に行こう、シロウあの黄色い看板が気になります、と二人そろって身体をうろうろさせる。
「あらー、ちょっと遅かったかな。花火の席あるかしら。この先だっけ、いっつも混むのよねえ」
「あ、じゃあわたしが席をとってくるから、みんな買い物してて……」
桜の提案を、凛は即座に却下した。
「駄目よ。これははぐれると絶対に合流できないわ。絶対によ」
「まあまあ、一度でも席とっちゃえば目印くらいあるだろ」
士郎は今にも人波に飛び込まんとしているイリヤとセイバーを押さえつける。
「藤ねえさえいてくれたら、あっちの家が場所とってくれるんだけど……」
だが肝心の大河は、数日前に肩を落とし「学校が……休日出勤……なんで……」と咽び泣いていた。
「ないものをねだっても仕方ないわ。さあ、行くわよ」
まるで戦闘にでも臨むかの意気込みで、凛は人ごみへと足を踏み出す。
「……なんであんなにリンは張りきってるの」
イリヤは疑問符を浮かべた純粋な顔で士郎を見上げた。
堤防の上に腰かけている人々へ、退避を促すアナウンスが幾度も流れる。迷子のお知らせがその間に挟まる。
「イリヤ、はぐれないように俺と手をつないでおけよ」
イリヤは士郎の申し出に対し、複雑そうな面持ちで差しだされた手を眺め、いい、わたしのことを子ども扱いするのには怒ってるけど、シロウだから”わたしが”手をつないであげるんだよ、と口を尖らせた。
屋台を通り過ぎて会場へ向かう道には人がぎっしりと詰まっていた。凛が溜息をつく。
「ココ途中で一ヶ所狭くなるから動きが悪いのよねえ。皆はぐれちゃだめよ」
はい姉さん、了解しました凛、と互いに距離を縮める。イリヤは周囲の背の高い人々のなかにうもれ、きゃあ、と悲鳴のような高い声を上げた。
「ねえ、リンたちはどこ。離れないでねシロウ。……すごい人。あっ、リンがあっちへ行っちゃう。シロウ、早く!」
するりと小さな手が士郎から離れていく。イリヤ、駄目だ。そう叫ぼうとしたとき、背後から士郎を呼ぶ声がした。
ふっと振り返る。
みっしりと屋台と人々が集まり、際限なく騒ぐ地上から、遠く存在する赤色を振り返る。遠くの巨大な赤い橋は暗い空に明かりを瞬かせ、どっしりと存在して川の両岸をつないでいる。ぞわり、と士郎の神経がざわめいた。
――――夜空に溶けるあの赤の頂点に、赤い男たちが立っている気がした。
士郎は顔を遥かな高みへとむける。……なんだよ。これじゃまるで、こんな距離、あいつと俺の関係そのものじゃないか。あいつが遠い上から俺を見下ろしている。人に押し流されながら俺が歩んでいく道と、その結果を冷えた目で見下ろしている。
全てを悟りきったように―――。
「しろう」
甘い声が士郎を呼ぶ。細い手が人ごみの中からつきでる。その少し汗ばんだ手は士郎をしっかりと掴み、士郎には見えぬ先へと導く。道の先へ。己の行く先へ。
俺はこんな場所で、遊んでただ周りと笑いあって、理想だけを磨き上げて、人に手を掴まれたまま前進しようとしている。……そしてその果てで、俺は潰えた理想の結果を受け入れるのか。同じ経過と同じ結果をあいつにただ示し、それでもなお”お前は是であった”とでも俺は言うのだろうか。
そんなの間違っている。
士郎は己を掴む汗ばんだ細い手を強く握り返した。あいつと辿る理想が同じでも、結果が同じだと一体誰が言うのだろう。よく考えろ。あいつにただ、理想の果ての結果が違ったと言えるのは、地球上で俺しかいないじゃないか。ただ一人、俺だけが。
士郎は人の群れに飛び込み、繋ぐ手だけを強く握りしめ歩き出す。唐突に噴き出した感情は冷えることを知しらず、その熱は士郎を戸惑わせ続けた。
***
「あ~よく寝た。士郎、わたし朝ごはんいいや。あと離れにいるわ。道具を片づけないと」
凛が少し癖のついた長髪をまとめながら、居間を通りすぎる。イリヤはまだ夢の中だ。白と黒の身体をして、細く長い足を持つ鳥が庭で餌をつつく様子を、ぼんやりと士郎は見ていた。朝食は台所で、食べられる時をひっそりと待っている。
「シロウ、おはようございます」
すでに顔を洗ったセイバーが、さっぱりとした表情で士郎に近づく。
「昨日は楽しかった。実にいい経験でした。花火というのは素晴らしい芸術ですね。特にあの滝のような……」
楽し気に語るセイバーはふと喋るのをやめ、目の前に立つ士郎を見つめた。
「シロウ、……なんだか顔色が悪い。昨夜に無理をしましたか?確かにすごい人でしたが……」
士郎は焦点のずれた目で、靴下をはいた自分の爪先を見下ろした。
「いや、大丈夫だよ。そういうことじゃないんだ、セイバー」
セイバーは困惑し、ではどうしたのですか、と訊いた。ワックスの剥げかけた縁側を踏みながら、士郎は小さく言った。
「この間から、なにかに焦ってる気分なんだ。それがなにか、よくわからないけどさ。正体の分からないなにかが俺を動かしてる。どうにかしたいけど、どうにもできない。……いや、ごめんセイバー、変なこと言って。忘れてくれ。朝食にしよう」
手を振って士郎は台所へ行こうとした。セイバーは短く沈黙したあと、背をむける士郎の手を後ろからそっと握った。
「旅立つ前には不安があるものです。だがシロウには凛がいる。彼女はきっとあなたの味方ですよ、変わらずに。……実は私はシロウが向こうへ旅立つことが寂しくもあり、楽しみでもあるのです。シロウが、私の生まれ育った地の空気を知ってくれるのですから」
士郎は呆気にとられたままふりかえり、セイバーの穏やかな顔を見つめた。
「え、セイバーは……」
一緒に行くんだろう、英国まで。あれ、そういえばこの話をした覚えがない。てっきり同行するとばかり。なぜこんなにも重要なことがすっぽりと頭から抜け落ちていたんだろう。
「セイバー……」
すべてを見通すような微笑みで、セイバーは告げる。
「私はこの地に残りますよ、シロウ。私はこの地で召喚されたのですから」
「いや、でも着いてくることはできるんだろう?冬木の外には出られるだろ」
さあ、どうなるのでしょうね、今の身体では試したことがありませんから。そういってセイバーはかわいらしく首を傾げた。
「なあ、それ、凛は」
「ええ、知っていますよ。むしろ、一番最初に確認したのは彼女なのです」
全部、俺の知らない間に事態は進んでいたんだ。士郎はずくりと痛む胸を押さえた。セイバーとの会話を放りだして、凛のいる離れを目指す。心を赤い影がよぎる。凛と肩を並べるあのサーヴァント。
あいつもここに残るのだろうか。マスターと、離れ離れになったまま。
凛は段ボールへ雑多な道具を仕舞いこんでいた。様々な色の宝石箱と、分厚い専門書、用途の分からぬ曲がった金属。士郎は柱にもたれかかり、精神が落ちつくまでしばらくその様子を観察していた。
「なあ遠坂。……アイツはどうするんだ。秋からは、連れて行くのか?」
なんでもないことだと、至極日常的なことを述べているのだと、そういうふりを、士郎は、した。
「あいつって?」
凛が目を伏せ、口元だけで笑みを作りながら問い返す。
「セイバー?ランサー?キャスター?それともバーサーカーかしら?」
士郎はむっとした顔で、凛とむきあった。
「わかって言ってるだろう、遠坂」
ふふ、と凛が笑う。その姿はどこか寂しそうだった。
「ごめんなさいね、からかいすぎかな。……あいつには冬木を守ってもらうわ。私がいなくなっちゃうから、その代わりとしてね。まあ、あいつが自分の意思で、いてくれるまでは……ね」
士郎は思わずうろたえ、どもった。どうしたの、と士郎につられて焦った遠坂に頭を振ってみせる。
「いや、別にただ。……ただ」
「連れていくのだと思っていた」
穏やかな表情で、静かな声で彼女は言う。
「置いていくことが不満。もしくは心配。まさか可哀そう?むしろ信用ならない」
畳みかけるように言い募る凛の様子はいつもと違っていて、士郎には理解しえない話をしているようだった。けれど、士郎にはわかる。凛は士郎が抱えている、士郎にもわからないものの正体を知っているのだ。
「わっ、わかんないよ。……わからない」
自分が海外へ行くということは知っている。凛と二人で旅立つことは知っている。それが自分の理想へ向けて前進することだということも、そしてあいつはここに残ることも。
凛は作業をしていた手を休め、士郎を見守るように微笑む。その笑顔を前にして、士郎は理解した。きっと彼女はもう俺の何歩も先をすでに歩いているんだ。この細く小さい身で、あらゆる出来事を、喜びを、苦しみをたった一人で受け止めてきたんだ。
そしてそれは同じなのだ。あの男がここへ辿りつくまでに繰り返してきたことと。
セイバーは微笑んで言った。心配することはない、シロウ。ずっとここにいるという約束こそこの身ではできませんが、貴方が望む限り私はここにいますよ。私を存在させているなにかが、私を許しつづける限り。
その言葉に偽りはないだろう。セイバーはいつも繊細な手つきで士郎の望みを掬い上げてくれる。けれど、あの男はどうなのだろう。マスターとはすでに遠い距離を保ち、同じ境遇のサーヴァントと必要以上に馴れあう様子もみせず、世界を見下ろし続けるあの男。あの男はずっとこの冬木にいるのだろうか。そんなこと、考えてもみなかった。いや、違う。なにもかも考えないようにしていたんだ俺は。
セイバーが労わる表情の、凛が見守る表情のむこうに、物言わぬ頑強な背中が見えている。風に吹かれ、雨に晒され、内側から剣に身体を貫かれても、それでも倒れぬあの男。
――――あの男もいつか、どこかへ去ってしまうのだろうか。俺の姿を見届けぬまま。
士郎には許すことができなかった。あいつが何もなかったかのように人知れず、静かに去るなど許せなかった。俺を見ろ、アーチャー。俺の行く末を、その目を見開き見ててみろ。俺は違う、お前とは違うと証明してやる。たとえ同じ理想を抱いて同じ道を歩んだとしても違うのだ、だって俺は出会ったのだ、「俺は」。人生の途中で出会ったのだ俺自身の行く先と!
わけもわからず歩いていた。やがてその遅さにじれったくなり、足と心は焦る。走れ、走れとなにかが告げる。目に見えぬものが士郎を駆り立てる。アスファルトを全力で踏みしめ前進する。街並みの過ぎる速度が徐々に早くなる。風を切り裂いて走る。腕を振り、驚いた顔をして士郎を振り返る子供をよけて、この先にいる存在をただ目指して駆ける。
様々な人間の生きる線がこの冬木で交差し、やがて離れていく。
アーチャー。
抗うことのできない、この喪失感がなにか知ってるか。この焦りと、戸惑いと、両手で掬うそばからこぼれおちる感情の、その正体をお前は知っているか。背をむけた男を目指しながら問う。アーチャー、お前は俺が抱いている感情の名を知っているか。
ただお前だけに抱くこの感情の名を。
この先で男が佇んでいる。誇り高くその朽ちた身を晒し、二本の足だけで地の上に立っている。感情を読ませぬあの男の正面に立てるのは、きっと今だけなのだ。なにを言えばいいかなど俺にはわからない。けれどそれでも、俺はお前に今、告げなければならない気がするんだ。
***
息は荒く、出る声は掠れて途切れとぎれだ。
「アーチャー」
士郎は深く空気を吸い込み、膝に手をついた。必死の思いで問いかける。
「アーチャー、なあ、お前はずっとここにいるのか?それともどこかへ行くのか?ここを離れて……」
汗のにじむ身体で橋の欄干に立つアーチャーを振り仰いだ。鋼の両眼が士郎を感情なく見下ろした。
「それがどうした。……貴様に言う必要があるとでも?」
「俺は」
赤子が遠くで泣く声がする。水面を涼しい風と風鈴の音がすべっていく。
「俺はお前に見せてやるんだ、お前と俺が違うところを!俺は何度でもここに帰ってくる。 俺は何度でも”俺”をここでお前に見せてやる……」
花火を橋の上から見ていたサーヴァント達の姿。大皿を取り合ってした食事。ひらかれた日本家屋を中心として、鮮やかに過ぎ去っていった青い季節。目に眩しい緑の山々に囲まれた街で、わずかな時間だとしても、確かに俺たちは共に生きたのだ。
「ここにいろよ、アーチャー。――――ここに……!」
アーチャーは鋼の目を細め、ふっと鼻で笑った。橋の欄干の上で尊大に身を反らし、士郎をふてぶてしく見下ろす。
「青いな小僧。人と己を較べることも、なにかと己を較べることも」
青い。男はそう繰り返した。日頃無口な英霊が言う。この地で生まれた英霊は言う。
「だがいいだろう。それでかまわん。―――思うように生きてみろ小僧。己の力で生き抜いてみろ。そうすれば、次に会ったとき貴様は確かに変わっているだろうさ」
低い声が士郎に降り注ぐ。変化というものを手放した英霊が、士郎をしっかりと見据える。
「それでこそ人間なのだ。―――それこそまさに、生きるということなのだから」
二人の周囲を蝉の合唱が包む。風は冷えてきていた。やがてくる秋を予感させるように。
***
走り去った士郎を、アーチャーは無言で見守る。柱の陰でシュッ、とライターが火をともす音がし、やがて煙草の焼ける匂いが辺りに漂った。煙を深々と吸い込んだ青い髪の男は、アーチャーに背をむけたまま言った。
「流石、格好いい奴は言うことが違う」
アーチャーは応えない。きらきらと光をはじく水面を見つめる。潮は満ち、やがて引こうとしていた。海に近いこの川では、潮の満ち引きで水面が上下する。
「まあオレは」
水面をじっと見つめ佇むアーチャーを横目に、煙で肺を満たす男は言う。
「あの嬢ちゃんに会えなくなるのが寂しいがね」
煙草をすべて灰にした男は、吸殻をぴん、と弾き飛ばした。じろり、と鋼の眼が動く。
「貴様こそ格好つけるのはいいが、その吸殻は拾っていけよ」
ランサーは首を竦め「へいへい。まったく慣れんことするもんじゃねえな。むしろ格好が悪すぎて締まらねえ」とこぼす。
海風を受けながら、アーチャーは背後にそびえる赤く塗られた大橋を振り返った。様々な線が交差した中心地で、偶然交わった二本の線。
―――その先を見守るくらい、たまには許されてもいいではないか。そうだろう、こんなにも身をすり減らして、私はここまで歩んできたのだから。
ふっ、と笑いアーチャーは歩き出す。その姿を目で追うランサーは、やがて間をおいて同じ方向に歩きだした。
バタバタと四隅が風に煽られているその紙には、色褪せた文字で「閉店のおしらせ」と印刷されていた。
士郎は立ちどまったままなんとなく、肩から下げている鞄のストラップの位置を直した。それと同時に思わずため息が出る。それは自分が明日の朝食のためのパンを調達しそこなったことについてではなく、
「あら、あそこ行くの?だったらバゲットとドーナツ買ってきて~、おつかい。払うもの払うから、ね?あ~楽しみ!」
と喜んでいた大河をがっかりさせてしまうことについてだった。
仕方なく歩きだそうと、硝子に反射する自分自身の姿をみながら足をあげる。硝子の奥にうつる新都の街並みはいつまでも同じように見えていて、しかし一つ二つと確実に店は入れかわり、建物が古びて壊されては新たに建ち、そしてすれ違う人々の顔は毎回異なっている。
どうしようか、と右手に持つ書籍のはいった紙袋を抱えなおした。パン屋なんて何軒もあるはずなのに、どこへ行けば大河が喜ぶ商品を手に入れられるかがわからない。ぶらぶらと多くの人が行きかう通りをあてなく進む。高校生たちが白い夏服を着てベンチに座り、歓声を上げては互いのソフトクリームを交換しあっている。自分も昨年までは彼女たちと同じ立場にいたはずなのに、士郎には彼女たちが随分離れた場所で物憂いた青春を享楽しているように感じられた。
ともかく、今晩のメインを買いに行こう、と思考を切り替える。道沿いの旅行品店をのぞき、途中で新たなパン屋のひとつでもひやかしながらスーパーで夕食の材料を調達する。その計画に誤りはないだろう。きっと、多分。そうして帰ろう。時間が余れば庭の手入れをして夕食を作ればいい。
士郎は歩き出した。ビルの合間を行きかう無数の人間の一人となって。
***
ひぐらしが鳴いている。
ふとその響きに導かれ士郎はうつむく顔をあげた。力強く根をはり、庭を我がものとして占拠する雑多な草を抜く手をとめ、首にかけているタオルでしたたり落ちる汗を拭う。
首をかしげ耳をすませた。
油蝉の鳴き声の背後にひぐらしの声はなかった。まだ早い。ひぐらしが鳴くには早すぎる。だが暦は確実にうつりかわっている。何週間か前には、この時間に外へ出て庭の手入れをしようとは思わなかった。新緑ほどの勢いはないが夏らしく青々と茂る木々と、蔵のむこうに広がる夕方の空を見上げる。白く薄い雲が筆ではいたように伸びていた。
立ち上がって「うー…ん」と背をそらす。膝にこびりつく泥を軽くはたき落とした。広さだけは十分にある武家屋敷を手入れし、そして閉じていくためには途方もない時間と人手が必要だった。近いうちに、各々の好物が並ぶ食卓で釣って、居間で頻繁にくつろいでいる面々の手を借りたところでバチなどあたらないだろう。道場も蔵も汚れが気になっている。母屋もすべて拭き清めてから出ていきたかった。
ゴミ袋と道具を片づける。今日の夕飯にはいったい誰がくるのだろうか、楽しいのはいいけど計画だけは立てにくいんだよなあ、と今日買ってきた食材とそろそろ食べ切ってしまいたい食材を脳内で秤にかける。
固まった身体で伸びをしながら家屋へ近づくと、リズム良く廊下を走る軽い足音がした。
「シロウ、……シロウ!」
「お、どうしたんだセイバー。飯ならまだだぞ」
家から顔をのぞかせたセイバーは、あからさまにむくれた。
「――っ!人のことを食欲しかない生き物みたいに言わないでください。無礼ですよ」
そう憤りながら、両手で下げていた重たそうな袋を士郎にぎゅう、と押しつける。
「なんなのさ、これ」
持ってみるとずしりと重い。上からのぞきこむと梨がいくつかあり、その下に巨大な西瓜があった。
「ランサーが先程置いていきました。シロウを呼ぶといったのですが、かまわんといって行ってしまって……今ならまだ、道にいるかもしれません」
まあ”人間”として行動していればの話ですが、と広げた両腕だけで表現するセイバーに「ありがと」と礼をして表へむかった。靴を鳴らして表の道路を見渡せば、小さくなったランサーの後ろ姿があった。
派手な色あいの男に呼びかける。
「ランサー!」
そう叫んでから次の言葉を探していると、遠い男は手をだらりと伸ばしてへらへらと振った。こちらを振りかえることなく。
「あとで食べにこいよ!」
その声は届いたようだった。ランサーは足を止めて僅かに身を傾げ「おう」と間延びした了承だけを残していく。
「あら~西瓜と梨!もう夏も終わりかけって感じねえ~」
大河は顔を見せるや否や到来物について言及した。縁側では大きすぎて冷蔵庫にはいりきらなかった、丸々と十分に太った西瓜が盥の中でぷかぷかと水に浮いている。
「ランサーからいただきました。流石大河、目ざといですね」
そういうセイバーの目は、梨をむく士郎の手元へ一直線に注がれている。あら湯呑がない、と呟く大河が問う。
「今日は桜ちゃんくるのかしら」
「あー、今日は部活関係で用事があるからお邪魔できません、だってさ」
士郎は瑞々しい梨を切りわけて器に盛り、冷蔵庫に入れる。その一瞬の隙をついて、台所をのぞきこんだ大河に一切れ奪われた。
「なっ……、行儀が悪いですよ大河」
そう咎めたセイバーの瞳は、きらきらと羨ましそうに輝いていた。セイバーにむけ、てへっとおどけた大河は
「あ、電話」
と電話の方向へ首をむける。その途端、電話がじりじりと鳴りだした。
士郎は下味に漬けこんでいた鶏肉を台に置き、エプロンで手をふきながら受話器を手にする。耳にあてると同時に、高い声が鋭く士郎の頭の中心を貫いた。
「あっ士郎!?悪いんだけど、今日そっちにアーチャーが行くから。なにか適当に食べさせてやって、お願いね!」
ざわめきに掻き消えそうなノイズまじりの音をよく聞こうと、士郎は受話器を耳に押しあてた。
「えっ、え?……遠坂、なのか?なんだよ急に」
「いや、今日アーチャーとアンタの家で約束してたのよ。でも別件がはいって行けなくなったの!」
凛の声に重なるように列車の発車を知らせるベルと行き先を告げる駅員の声がする。アナウンスの言語は日本語だ。
「えっ、遠坂お前もしかして帰って」
「それじゃよろしく!」
がちゃん、と思い切りよく回線は切断された。つー、つー、と機械音だけがむなしく繰り返される。士郎はぼんやりとした声で、とーさか、帰ってきてたのか?と言い損ねたフレーズを力なく放った。
「あら、遠坂さん予定より随分早いのねえ。……それにしても、お部屋一つ準備するのもむこうと行き来して大変よねえ」
大河は、威厳があると自分では思っている顔つきで士郎へ説く。
「士郎、あんた英国への準備は遠坂さんがしてくれるからって思ってない?これからもお世話になるんだから、きちんとしなさいよ」
士郎は、それはそうだけど、と呟く。
それはそうだけどさ、しっかし、人ん家を飯つきの集会所みたいに使うなよな、と腹を立てながら受話器を置いた。
***
武家屋敷の玄関は、この男には少々狭いのかもしれない。
黒い服を着た大柄な男は腕を組み、玄関の空間を物理的に支配しながら不満気に言い放った。
「私のマスターの不手際のせいで申し訳ないがな、そういった場合には遠坂家へ断りの電話の一本も寄越してもらえたなら心底助かるのだがね、勿論手間をかけさせてしまうことについては十分に謝罪しよう」
アーチャーは謝罪の意思をかけらも示さぬ態度で士郎を睨みつける。
「そうすれば互いに無駄足を踏まなくてすむだろう」
と、上がるのか上がらないのかはっきりしない態度の男に、士郎は無性に苛立ちをおぼえた。
「いや、別にお前のぶんくらいなら」
飯あるんだけど、と口にすべきか否かで迷いながら言葉は口の中に消え、重い沈黙だけが二人の間にのしかかる。俺も暇じゃないんだけどなあ、と心中でぼやいていると軽い音と共に玄関の扉が開いた。
「……あっ?驚かせるなよ。なにしてんだよお前ら。おう小僧、食いにきたぞ」
お言葉に甘えてな、と人好きのする笑顔を浮かべたランサーが、アーチャーの後ろから顔を出す。
「アーチャーなにしてんだ、早く上がれよ。邪魔で仕方ねえ」
ランサーに促されるままアーチャーは衛宮邸に上がり、慣れた様子で居間へむかった。その後をランサーが追う。集まった面々が散らかした靴を片づけようと士郎が身を屈めると
「でもお前あそこにあんまいねえじゃ……いてっ」
という小さな声と鈍い音が耳に入った。
***
「花火?」
士郎はオーブンの中を観察しながら問い返す。
「そう、いつもの花火。遠坂さんも士郎もしばらくは見れないでしょう」
「え、見たことない。私も行きたい、行きた~い!」
「ぜひ行きましょう、シロウ」
四方八方から声が飛ぶ。士郎はオーブンから焼けた鶏肉を取り出し、手早く包丁を入れて大皿に盛りつける。花火と聞いて、なにかを忘れている気がした。もやもやとした心のまま声をかえす。
「セイバーはともかく、イリヤは帰りが遅くなりすぎるだろ。終わるの9時とかだぞ、しかもそっから帰るんだから」
大皿を持ちながら居間へ戻ると、頬を膨らませたイリヤが拳を握りしめていた。
「セラやリズに迎えにきてもらえるもん!……あっ、じゃあ、シロウの家に泊めて!それならいいでしょう」
士郎はテーブルの中央へ大皿を乗せた。
「それは……それこそセラやリズに聞いてみないと」
「いいって言うよ!ねえいいでしょう?ねえ大河」
「そうねえ、それならいっそ皆で士郎の家に泊まるっていうのも……」
「ねっ、決まり。シロウ、わかった?」
イリヤは大河の肩に掴まりながら、士郎へ満面の笑みをみせた。うーん、と煮え切らない返事をして盛り上がる女性陣の反対側へ顔をむける。
「あんたらは……行く?」
アーチャーは目を閉じて不動のまま、なにも言わない。皮を剥いてある生のとうもろこしを手に持ち、矯めつ眇めつしていたランサーは
「それはいいが、人が多いのはどうも。……海ですんのか?ならオレらは橋から見りゃあいいな」
可愛い女の子でもいりゃあ別だがな、という一言については皆が聞こえていないふりをした。
「橋かあ、でもあそこ風下になると大変なのよねえ」
主に煙が、と大河は言うが、きっと藤ねえのいってる橋からの花火とランサーのいってる橋からの花火には随分隔たりがあるんだろうな、と胸の内で士郎は思った。
「なあ、それよりこれ本当に生のままで食えんのかよ」とランサーは隣りあうアーチャーに問う。
「そういう品種らしいからな、”食える”だろう。もっとも、貴様ならどんな品種でも生で食べられるだろうがな」
ランサーはアーチャーの言葉に鼻をならし、「珍妙なもんだな」と歯をむき出しにしてそのまま齧りついた。神妙な顔で咀嚼してから、ランサーは続ける。
「ま、若えもんは若えもん同士で行ってこいよ」なァ、とアーチャーに同意を求め、「しかし本当に甘え、果物みてえだ」と独りごちた。
***
閑散とした居間の机を拭く。大河だけが残り、ぱらぱらと資料らしい書類の束をめくっている。時刻は9時半を過ぎていた。士郎は夜に訪れるこの静かな時間が嫌いではなかった。一日を無事終えた安心感に満足できる。藤ねえが帰ったら風呂に入ってしまおう、と台所の後始末をする。
静かな空間に、がらりと玄関の開く音が大きく響いた。あれ藤ねえ帰るのかよなにも言わないでと振りむけば、不思議そうに玄関の方向をうかがう藤ねえの後頭部が見えた。
「シ……ロ……ウ……ぅぅ」
なにやら玄関から女が呻く声がする。不気味に思いながらそっと廊下から暗い玄関を見遣ると、女が長髪を振り乱して廊下へ伏せている。その艶やかな黒髪と、隣にある巨大なスーツケースには覚えがあった。
「うっ……わ、遠坂、やめてくれよそれ。完全にホラーじゃないか」
士郎の言葉にぎぎぎ、と頭を上げた遠坂は、
「おなか……すいた……」
と呟き、力を失った。
「あー、やっぱりご飯は日本食に限るわ。それも士郎の作ったやつね。外の食べ物って最初は目新しくても、結局すぐに飽きちゃうのよね」
士郎のご飯は格別、と生気に満ちた笑顔で空の器を持った腕を伸ばし、五目雑炊のおかわりを士郎にねだる。士郎は受け取った器へおかわりをよそいながら、
「いいけど、連絡くらいくれよ。びっくりするじゃないか。……イギリスの手続きは上手くいったのか?」
「それはもう、大丈夫よ。抜かりなし。全部が完璧に進んでるから」
そうかあ、なにかうっかりしてそうだなあ、と首をひねりながら台所に立っていると、遠坂と大河の会話が届く。花火、ぜひご一緒したいです。しばらくそんな時間もないでしょうし……その響きにはっと思い当たった。
「遠坂、藤ねえ。そこら辺の棚に花火のチラシがある、桜が持ってきてくれたんだよ前に。皆さんで行きたいですねって」
棚って棚のどこよ、と凛がごそごそ紙類をめくる音がする。
「……見つからないわよ」
「ええ、あぁそこじゃない」
士郎はエプロンで手を拭きながら凛の上に覆いかぶさり、二段上からチラシを抜き出そうとした。すると、はらり、とカラフルな文字と写真が載っているパンフレットがチラシの下から落下した。畳の上で動きを止めた、見覚えのないそれを凛と士郎が同時に見下ろす。凛が自然な手つきでそれを拾い上げた。大きく書かれた大学名を声に出して
「……あら、桜が受けるところじゃない」
と言った。
「……え、そうなのか?」
桜、こんな名前の大学を受験するなんて一言もいってなかったのに。戸惑う士郎の呟きに凛は、まずっ、という表情をした。手と頭を大きく振る。
「いえ、いいえ、詳しくは聞いてないわ。なに、知りたいなら本人に聞いてよね、わたしは知らないから。ほんっとうに」
士郎が白々と凛を見つめると、凛はそっぽを向いて「雑炊美味しいなー」とそ知らぬふりをする。納得のいかぬ態度を示す士郎を見て、大河が口を開けた。
「そうよ~士郎。どこの大学かとかはともかく、桜ちゃんだってずっと高校にいるわけじゃないんだから。頑張ってるみたいだから、静かに応援してあげなさい。一応年長じゃない」
「一応ってなんだよ。……藤ねえ今日はまるで教師みたいだ」
「あら教師で悪かったわね」
大河はふん、と日本茶を啜る。
誰へ言うでもなく、凛がぽつりとこぼした。寺の息子だってそうでしょう。大学へ行ったのか、修行へ行ったのか知らないけど、最近家をあけてるじゃない。皆どこかへ行くのよ。私達が一足遅れて時計塔にいくみたいに。
凛が士郎をまっすぐ見つめた。
「士郎も早く準備しておいてね。夏が終わってしまう前に、むこうへ行ってしまいたいから」
遅かったら私が勝手に荷造りしちゃうわよ。と告げて凛は手洗いに立った。
「あ、っていうかわたし士郎の家に道具置きっぱなしじゃない……」
士郎は空になった食器を下げようと身を屈める。そこで大河に言い忘れていることを思い出した。
「あ、藤ねえ。そういえば潰れてたんだよ、頼まれてたパン屋」
大河は大袈裟に目を見開き「えっ」と驚いた。
「うそ、潰れちゃったの?新都のパン屋さん?ええ~そんな~、あそこのドーナツがわたしの生きがいだったのに~」
油のよく切れたかりっかりのドーナツがあぁ、と机に伏せながら地団駄を踏むという器用なことをやってのける。
「行ったら店がなかったんだよ」
士郎は宙を見ながらぼんやりと続けた。
「なんだか俺が帰ってきた時には、もう全部違う街になっていそうだ……」
大河は机に伏せたまま、目だけで士郎へ驚いてみせた。
「珍しい、士郎が弱気になってるなんて」
「いや、弱気とかじゃなくて……」
「街が変わっていくことが不安?」
濁りのない大河の瞳が士郎へ問いかける。
「もしかして、他の子と距離があいていくことが怖い?」
ぐっ、と言葉に詰まった。そんなこと、と言いたいのに声が出ない。
そんなこと、怖くなんてない。けれど士郎は知っていた。己の心のどこか隅っこで、この心地いい冬木での時間がどこまでも続くのだと、根拠なく信じている自分自身を。いつもの面子が家に集まり、食事を共にしてイベントへ出かけ、アルバイトをして家を手入れする、そんな日常が。自分が海外へ行くんだということを頭が知っていても、心は冬木に留まっている。頭は先へ進めと士郎を焦らせる。でも心は……。
士郎は考えても詮無いと頭を振った。大河がにっ、と無邪気に笑う。
「士郎の弱気なんておっきな花火を見ればなくなっちゃうわよ。……もういい時間だし寝ましょ。今日は店じまい。ごめんね、長く居すぎた」
***
数え切れないほどの人間が、海辺の公園に集まっていた。周囲は人の熱気で溢れかえっている。屋台の発電機が熱を発し、唸りを上げて動いている。色とりどりの看板が手狭に連なり、食べ物が焼け、揚げられ、甘い香りを放つ、それらの匂いが無秩序に充満している。
「わ、すごい。ねえシロウ、あれ美味しいの?白くてふわふわしてる。……でもかき氷もおいしそう」
「ここの名物はなんですかシロウ。まずは王道をいってから、次を見つけなければ」
ねえあそこで煮込まれてるのはなに?あの赤いのは?なにを買ってもいいの?切りなく問いを発するイリヤの好奇心とセイバーの食欲が収まることはない。周辺を何度もながめ、シロウ早く一緒に行こう、シロウあの黄色い看板が気になります、と二人そろって身体をうろうろさせる。
「あらー、ちょっと遅かったかな。花火の席あるかしら。この先だっけ、いっつも混むのよねえ」
「あ、じゃあわたしが席をとってくるから、みんな買い物してて……」
桜の提案を、凛は即座に却下した。
「駄目よ。これははぐれると絶対に合流できないわ。絶対によ」
「まあまあ、一度でも席とっちゃえば目印くらいあるだろ」
士郎は今にも人波に飛び込まんとしているイリヤとセイバーを押さえつける。
「藤ねえさえいてくれたら、あっちの家が場所とってくれるんだけど……」
だが肝心の大河は、数日前に肩を落とし「学校が……休日出勤……なんで……」と咽び泣いていた。
「ないものをねだっても仕方ないわ。さあ、行くわよ」
まるで戦闘にでも臨むかの意気込みで、凛は人ごみへと足を踏み出す。
「……なんであんなにリンは張りきってるの」
イリヤは疑問符を浮かべた純粋な顔で士郎を見上げた。
堤防の上に腰かけている人々へ、退避を促すアナウンスが幾度も流れる。迷子のお知らせがその間に挟まる。
「イリヤ、はぐれないように俺と手をつないでおけよ」
イリヤは士郎の申し出に対し、複雑そうな面持ちで差しだされた手を眺め、いい、わたしのことを子ども扱いするのには怒ってるけど、シロウだから”わたしが”手をつないであげるんだよ、と口を尖らせた。
屋台を通り過ぎて会場へ向かう道には人がぎっしりと詰まっていた。凛が溜息をつく。
「ココ途中で一ヶ所狭くなるから動きが悪いのよねえ。皆はぐれちゃだめよ」
はい姉さん、了解しました凛、と互いに距離を縮める。イリヤは周囲の背の高い人々のなかにうもれ、きゃあ、と悲鳴のような高い声を上げた。
「ねえ、リンたちはどこ。離れないでねシロウ。……すごい人。あっ、リンがあっちへ行っちゃう。シロウ、早く!」
するりと小さな手が士郎から離れていく。イリヤ、駄目だ。そう叫ぼうとしたとき、背後から士郎を呼ぶ声がした。
ふっと振り返る。
みっしりと屋台と人々が集まり、際限なく騒ぐ地上から、遠く存在する赤色を振り返る。遠くの巨大な赤い橋は暗い空に明かりを瞬かせ、どっしりと存在して川の両岸をつないでいる。ぞわり、と士郎の神経がざわめいた。
――――夜空に溶けるあの赤の頂点に、赤い男たちが立っている気がした。
士郎は顔を遥かな高みへとむける。……なんだよ。これじゃまるで、こんな距離、あいつと俺の関係そのものじゃないか。あいつが遠い上から俺を見下ろしている。人に押し流されながら俺が歩んでいく道と、その結果を冷えた目で見下ろしている。
全てを悟りきったように―――。
「しろう」
甘い声が士郎を呼ぶ。細い手が人ごみの中からつきでる。その少し汗ばんだ手は士郎をしっかりと掴み、士郎には見えぬ先へと導く。道の先へ。己の行く先へ。
俺はこんな場所で、遊んでただ周りと笑いあって、理想だけを磨き上げて、人に手を掴まれたまま前進しようとしている。……そしてその果てで、俺は潰えた理想の結果を受け入れるのか。同じ経過と同じ結果をあいつにただ示し、それでもなお”お前は是であった”とでも俺は言うのだろうか。
そんなの間違っている。
士郎は己を掴む汗ばんだ細い手を強く握り返した。あいつと辿る理想が同じでも、結果が同じだと一体誰が言うのだろう。よく考えろ。あいつにただ、理想の果ての結果が違ったと言えるのは、地球上で俺しかいないじゃないか。ただ一人、俺だけが。
士郎は人の群れに飛び込み、繋ぐ手だけを強く握りしめ歩き出す。唐突に噴き出した感情は冷えることを知しらず、その熱は士郎を戸惑わせ続けた。
***
「あ~よく寝た。士郎、わたし朝ごはんいいや。あと離れにいるわ。道具を片づけないと」
凛が少し癖のついた長髪をまとめながら、居間を通りすぎる。イリヤはまだ夢の中だ。白と黒の身体をして、細く長い足を持つ鳥が庭で餌をつつく様子を、ぼんやりと士郎は見ていた。朝食は台所で、食べられる時をひっそりと待っている。
「シロウ、おはようございます」
すでに顔を洗ったセイバーが、さっぱりとした表情で士郎に近づく。
「昨日は楽しかった。実にいい経験でした。花火というのは素晴らしい芸術ですね。特にあの滝のような……」
楽し気に語るセイバーはふと喋るのをやめ、目の前に立つ士郎を見つめた。
「シロウ、……なんだか顔色が悪い。昨夜に無理をしましたか?確かにすごい人でしたが……」
士郎は焦点のずれた目で、靴下をはいた自分の爪先を見下ろした。
「いや、大丈夫だよ。そういうことじゃないんだ、セイバー」
セイバーは困惑し、ではどうしたのですか、と訊いた。ワックスの剥げかけた縁側を踏みながら、士郎は小さく言った。
「この間から、なにかに焦ってる気分なんだ。それがなにか、よくわからないけどさ。正体の分からないなにかが俺を動かしてる。どうにかしたいけど、どうにもできない。……いや、ごめんセイバー、変なこと言って。忘れてくれ。朝食にしよう」
手を振って士郎は台所へ行こうとした。セイバーは短く沈黙したあと、背をむける士郎の手を後ろからそっと握った。
「旅立つ前には不安があるものです。だがシロウには凛がいる。彼女はきっとあなたの味方ですよ、変わらずに。……実は私はシロウが向こうへ旅立つことが寂しくもあり、楽しみでもあるのです。シロウが、私の生まれ育った地の空気を知ってくれるのですから」
士郎は呆気にとられたままふりかえり、セイバーの穏やかな顔を見つめた。
「え、セイバーは……」
一緒に行くんだろう、英国まで。あれ、そういえばこの話をした覚えがない。てっきり同行するとばかり。なぜこんなにも重要なことがすっぽりと頭から抜け落ちていたんだろう。
「セイバー……」
すべてを見通すような微笑みで、セイバーは告げる。
「私はこの地に残りますよ、シロウ。私はこの地で召喚されたのですから」
「いや、でも着いてくることはできるんだろう?冬木の外には出られるだろ」
さあ、どうなるのでしょうね、今の身体では試したことがありませんから。そういってセイバーはかわいらしく首を傾げた。
「なあ、それ、凛は」
「ええ、知っていますよ。むしろ、一番最初に確認したのは彼女なのです」
全部、俺の知らない間に事態は進んでいたんだ。士郎はずくりと痛む胸を押さえた。セイバーとの会話を放りだして、凛のいる離れを目指す。心を赤い影がよぎる。凛と肩を並べるあのサーヴァント。
あいつもここに残るのだろうか。マスターと、離れ離れになったまま。
凛は段ボールへ雑多な道具を仕舞いこんでいた。様々な色の宝石箱と、分厚い専門書、用途の分からぬ曲がった金属。士郎は柱にもたれかかり、精神が落ちつくまでしばらくその様子を観察していた。
「なあ遠坂。……アイツはどうするんだ。秋からは、連れて行くのか?」
なんでもないことだと、至極日常的なことを述べているのだと、そういうふりを、士郎は、した。
「あいつって?」
凛が目を伏せ、口元だけで笑みを作りながら問い返す。
「セイバー?ランサー?キャスター?それともバーサーカーかしら?」
士郎はむっとした顔で、凛とむきあった。
「わかって言ってるだろう、遠坂」
ふふ、と凛が笑う。その姿はどこか寂しそうだった。
「ごめんなさいね、からかいすぎかな。……あいつには冬木を守ってもらうわ。私がいなくなっちゃうから、その代わりとしてね。まあ、あいつが自分の意思で、いてくれるまでは……ね」
士郎は思わずうろたえ、どもった。どうしたの、と士郎につられて焦った遠坂に頭を振ってみせる。
「いや、別にただ。……ただ」
「連れていくのだと思っていた」
穏やかな表情で、静かな声で彼女は言う。
「置いていくことが不満。もしくは心配。まさか可哀そう?むしろ信用ならない」
畳みかけるように言い募る凛の様子はいつもと違っていて、士郎には理解しえない話をしているようだった。けれど、士郎にはわかる。凛は士郎が抱えている、士郎にもわからないものの正体を知っているのだ。
「わっ、わかんないよ。……わからない」
自分が海外へ行くということは知っている。凛と二人で旅立つことは知っている。それが自分の理想へ向けて前進することだということも、そしてあいつはここに残ることも。
凛は作業をしていた手を休め、士郎を見守るように微笑む。その笑顔を前にして、士郎は理解した。きっと彼女はもう俺の何歩も先をすでに歩いているんだ。この細く小さい身で、あらゆる出来事を、喜びを、苦しみをたった一人で受け止めてきたんだ。
そしてそれは同じなのだ。あの男がここへ辿りつくまでに繰り返してきたことと。
セイバーは微笑んで言った。心配することはない、シロウ。ずっとここにいるという約束こそこの身ではできませんが、貴方が望む限り私はここにいますよ。私を存在させているなにかが、私を許しつづける限り。
その言葉に偽りはないだろう。セイバーはいつも繊細な手つきで士郎の望みを掬い上げてくれる。けれど、あの男はどうなのだろう。マスターとはすでに遠い距離を保ち、同じ境遇のサーヴァントと必要以上に馴れあう様子もみせず、世界を見下ろし続けるあの男。あの男はずっとこの冬木にいるのだろうか。そんなこと、考えてもみなかった。いや、違う。なにもかも考えないようにしていたんだ俺は。
セイバーが労わる表情の、凛が見守る表情のむこうに、物言わぬ頑強な背中が見えている。風に吹かれ、雨に晒され、内側から剣に身体を貫かれても、それでも倒れぬあの男。
――――あの男もいつか、どこかへ去ってしまうのだろうか。俺の姿を見届けぬまま。
士郎には許すことができなかった。あいつが何もなかったかのように人知れず、静かに去るなど許せなかった。俺を見ろ、アーチャー。俺の行く末を、その目を見開き見ててみろ。俺は違う、お前とは違うと証明してやる。たとえ同じ理想を抱いて同じ道を歩んだとしても違うのだ、だって俺は出会ったのだ、「俺は」。人生の途中で出会ったのだ俺自身の行く先と!
わけもわからず歩いていた。やがてその遅さにじれったくなり、足と心は焦る。走れ、走れとなにかが告げる。目に見えぬものが士郎を駆り立てる。アスファルトを全力で踏みしめ前進する。街並みの過ぎる速度が徐々に早くなる。風を切り裂いて走る。腕を振り、驚いた顔をして士郎を振り返る子供をよけて、この先にいる存在をただ目指して駆ける。
様々な人間の生きる線がこの冬木で交差し、やがて離れていく。
アーチャー。
抗うことのできない、この喪失感がなにか知ってるか。この焦りと、戸惑いと、両手で掬うそばからこぼれおちる感情の、その正体をお前は知っているか。背をむけた男を目指しながら問う。アーチャー、お前は俺が抱いている感情の名を知っているか。
ただお前だけに抱くこの感情の名を。
この先で男が佇んでいる。誇り高くその朽ちた身を晒し、二本の足だけで地の上に立っている。感情を読ませぬあの男の正面に立てるのは、きっと今だけなのだ。なにを言えばいいかなど俺にはわからない。けれどそれでも、俺はお前に今、告げなければならない気がするんだ。
***
息は荒く、出る声は掠れて途切れとぎれだ。
「アーチャー」
士郎は深く空気を吸い込み、膝に手をついた。必死の思いで問いかける。
「アーチャー、なあ、お前はずっとここにいるのか?それともどこかへ行くのか?ここを離れて……」
汗のにじむ身体で橋の欄干に立つアーチャーを振り仰いだ。鋼の両眼が士郎を感情なく見下ろした。
「それがどうした。……貴様に言う必要があるとでも?」
「俺は」
赤子が遠くで泣く声がする。水面を涼しい風と風鈴の音がすべっていく。
「俺はお前に見せてやるんだ、お前と俺が違うところを!俺は何度でもここに帰ってくる。 俺は何度でも”俺”をここでお前に見せてやる……」
花火を橋の上から見ていたサーヴァント達の姿。大皿を取り合ってした食事。ひらかれた日本家屋を中心として、鮮やかに過ぎ去っていった青い季節。目に眩しい緑の山々に囲まれた街で、わずかな時間だとしても、確かに俺たちは共に生きたのだ。
「ここにいろよ、アーチャー。――――ここに……!」
アーチャーは鋼の目を細め、ふっと鼻で笑った。橋の欄干の上で尊大に身を反らし、士郎をふてぶてしく見下ろす。
「青いな小僧。人と己を較べることも、なにかと己を較べることも」
青い。男はそう繰り返した。日頃無口な英霊が言う。この地で生まれた英霊は言う。
「だがいいだろう。それでかまわん。―――思うように生きてみろ小僧。己の力で生き抜いてみろ。そうすれば、次に会ったとき貴様は確かに変わっているだろうさ」
低い声が士郎に降り注ぐ。変化というものを手放した英霊が、士郎をしっかりと見据える。
「それでこそ人間なのだ。―――それこそまさに、生きるということなのだから」
二人の周囲を蝉の合唱が包む。風は冷えてきていた。やがてくる秋を予感させるように。
***
走り去った士郎を、アーチャーは無言で見守る。柱の陰でシュッ、とライターが火をともす音がし、やがて煙草の焼ける匂いが辺りに漂った。煙を深々と吸い込んだ青い髪の男は、アーチャーに背をむけたまま言った。
「流石、格好いい奴は言うことが違う」
アーチャーは応えない。きらきらと光をはじく水面を見つめる。潮は満ち、やがて引こうとしていた。海に近いこの川では、潮の満ち引きで水面が上下する。
「まあオレは」
水面をじっと見つめ佇むアーチャーを横目に、煙で肺を満たす男は言う。
「あの嬢ちゃんに会えなくなるのが寂しいがね」
煙草をすべて灰にした男は、吸殻をぴん、と弾き飛ばした。じろり、と鋼の眼が動く。
「貴様こそ格好つけるのはいいが、その吸殻は拾っていけよ」
ランサーは首を竦め「へいへい。まったく慣れんことするもんじゃねえな。むしろ格好が悪すぎて締まらねえ」とこぼす。
海風を受けながら、アーチャーは背後にそびえる赤く塗られた大橋を振り返った。様々な線が交差した中心地で、偶然交わった二本の線。
―――その先を見守るくらい、たまには許されてもいいではないか。そうだろう、こんなにも身をすり減らして、私はここまで歩んできたのだから。
ふっ、と笑いアーチャーは歩き出す。その姿を目で追うランサーは、やがて間をおいて同じ方向に歩きだした。
