空の境界

 苦しみを繰り返している。

 甲高い音とともに石床の上を転がっていくスプーンを、呆然と視線だけで追った。遅れて訪れた手の甲の痛みに手首が震える。先程まで食物であったマッシュポテトが、無残にも床に散っていた。
 目を閉じて姿勢を正し、幼いアルバは再び食卓へと身体を戻した。気配なく近寄った召使たちが、あるべき姿へと周囲を整える。再び得た視界では、新たなスプーンが行儀よくテーブルクロスの上に鎮座している。
 この、腫れあがった右手の痛みは、正当な痛みだ。そう先程の時間に、私は正しくなかったから罰を与えられた。私が完璧であれば、このような仕打ちを受けることはなかった。
 父上はアルバが詠唱を一単語誤るや否や即座に手の甲を打つ。無言の父上に促され、どこが間違っていたか自分自身で即座に答える。そう、失敗に数限りはなく種類も多様だ。 だが絶対に間違ってはならぬもの。
 魔術は死と隣り合わせである。また家名は名誉とともに存在する。死は忌むべきものである。我々が得た魔術回路は、魔術刻印は、魔術の知識は我々だけのものではない、先人が積み上げたものだ、お前は脈々と続く一流の血をいまこの時にも背負っているのだ。お前の死は、すなわち我々の血の途絶を意味する。同じくお前の不名誉は、我々の血の不名誉を意味する。決して誤ってはならないコルネリウス。魔術に関して、お前は、絶対に、間違いを犯してはならない。
 そう、私は完璧でなければならない。だからこそ、過ちは是正せねばならない。あの女は、私の下の存在でしかないのだと、証明しなければならない。


 過去に与えられた右手の痛みは、やがて生ぬるい湿った感触へと変化した。舐められている右手を伸ばしたまま、なめらかな肌触りのシーツの上で寝返りをうつ。眠りから帰還する途上で、アルバは掌で小さな頭を撫でた。優しい手での愛撫に満足したのか、ベッドの脇に控えていた使い魔はしばらく頭を下げており、やがて姿を消した。
「……う、ぅ」
 起きなければならない。今日もやるべきことが山のようにある。アルバは右腕を顔にのせ、大きくため息をついた。アラヤから与えられた上層階の一室は、己が心地よくすごせるように、工房としても私室としても隙なく設えた。しかし憎悪の渦巻くマンションは、徐々にその圧を強めつつある。それは構造として、そしてアラヤの狙いとして狂いはない。だが。
「……早く終わらせたいものだ」
右手で宙を掴む。肉体から脳髄を引きずりだす作業を飽くほどした。もう数も覚えていないほど。そして人形を作り続けている。作った数を誰かに教えてほしいほど、おおく。だが求めるものはひとつ、ただ一人のいのちだけだ。
 上半身をなんとか持ち上げ、流れる金髪を手でまとめながら軽く咳をした。アラヤが求め満ちた怨嗟は強く、魔術回路へ魔力を流し続けていても、ふとした拍子に身体の綻びから浸食されてしまいそうになる。ニホンにきてから、ここで居を構えてから、まるでアラヤに全身を絡めとられているような感覚を抱いてやまない。
「気分転換にでも」
今日はそとにでるか、と呟きながら長い足をカーペットの敷かれた床に下ろし、身体を包むゆったりとしたローブを捌いて、クローゼットに下げられている糊のきいたシャツを手に取った。
 
 冬の光は低く、眩しい。ステッキが床を叩く音は、歪なマンションには不釣り合いなほど真っ直ぐだった。
「……コルネリウス」 
背後からかけられた声に対して、聞こえていないふりをしようかと、一瞬考えた。なぜなのか理由もわからないまま。
「夜になる前には帰るよ。たまには外の空気を吸わないと、肉体に精神、ついでに腕が鈍るんでね。”仕事”なら夜にするさ」
「……承知した」
目立つことをするな、などと忠告しあうような仲ではなかった。アルバに興味をなくしたアラヤはマンションの中で再び、人々の螺旋だけを観察するのだろう。外套を翻して街へ向かう。さあ食事だと薄い唇を舐めた。

 いらっしゃいませー、と表にむかって大声を張り上げる女店員は、派手な赤色をまとったアルバへ注意を払うこともない。姿を街に溶け込ませ、いないものとして振舞うことは清々しいほど自由だった。空気は淀んでいるが、しがらみのない東国も悪くはない。そしてなにより、生命が街に満ち溢れている。足取りも軽く、歩道でくるりと一回転し街頭に流れる音楽に乗って浮いた歩調で進む。そのまま路地に入り、ビルにはりついている金属製の非常階段をカンカンと上っていく。
 アルバの魔術回路は一流だ、しかしどれだけ優れていたとしても、魔力そのものを欠いていては「道具」に過ぎず役に立たない。そして魔力はいくらあっても足りない、現状では足りなさすぎる。終わりなく脳髄を引きずりだす度に体内の魔力を消耗し、人形を組み立て肉を与えるたびに、アラヤのマンションに満ちる噎せかえりそうな濁った魔力を咀嚼する羽目になる。アラヤが作り出した怨嗟が美味いと感じるのにも限度がある、アルバの好みは武骨さだけではない。故郷を思い出す、多様な材料を使い彩りも豊かなエスプリのきいた上品な味が懐かしくなるというものだ。

 数日前に描いておいた魔法陣は健在だった。この地を這う霊脈は把握しているが、これ見よがしにアンカーを下しておくわけにもいかない。ならば薄く、広く。目立たぬ量を継続的に吸い上げればいいだけだ、街の人々から、街の各所に描いた魔法陣を利用して。
 血を一滴したたらせるように指先から魔力をこぼせば、陣の文字の上を光り輝く魔力が走り、アルバを青白く照らす。金髪が踊るように揺れる。足元から吹き上がる甘い風を一身に受け、アルバはうっとりと目を閉じた。新鮮な流れに舌が痺れてしまいそうなほどの陶酔が生まれる。一瞬の静寂、その次に街の人々の生命が身体の上で爆発した。魂の欠片が束となり、濁流となってアルバの足先から頭の天辺まで駆け抜ける。あぁ、と歓喜の声があふれ出た。すばらしい、素晴らしいものだよアラヤ、と散り散りになる思考が謳う。
 君は知らないのだろうな、この色鮮やかな魔力の快楽を。咀嚼の感触を、味を。地を流れる数多の命の味を知らないのだろう。――ああ、あれ、これは、なんだ。なんだ? ……知らない。わたしも、しらぬ、この味。この、
 とぐろを巻いた黒色が、暴力的にアルバを貫いた。

「誰だ!」

 手指に力を込め、異常を求めてアルバの青い目が素早く周囲を探る。食事の最後に紛れこんだ、暗く歪な塊が身体をすり抜けた感触に肌が粟立つ。雨の跡が残るビルの屋上にアルバ以外の人影はなく、乾いた冬風だけが寒々と吹いている。灰色の屋上に紛れた魔法陣は力を失い、端がわずかに焦げついていた。
 アルバは回路に通してしまった不愉快な魂の感触を排除しようと、唾を飲み込む。しかしそれは既に形なく、残された影がうっすらと纏わりついているだけだった。
 苛立ちに歯ぎしりをするアルバへ、なにかが囁いた。
「手折ろうぞ、首を」
聞き取れぬ速さの詠唱によって、屋上に炎が立ち昇る。姿なきものを焼き尽くそうとする。だが炎はなにものも焼きはしなかった。アルバは日頃せぬ舌打ちをして、冷え切った気分のまま、非常階段へと向かった。思うようにならぬ現実へ戻っていくために。

 重い足取りで街を進むうちにじくじくと身体を蝕み始めた違和感は、アラヤの結界に足を踏み入れたことで、最高潮に達した。肉体を無理に引き裂かれているとしか思えぬ痛みが、終わりなくアルバを襲う。痛みがなんだと歯を食いしばりながら、各戸のポストから荷があふれ、片隅で宅配便が山積みになっているエントランスを抜ける。傍らの使い魔が咥えて運ぶには口の数が足りない。”仕事”に必要な材料を人々に感づかれることなく運び入れる煩わしさが、常になくアルバの神経を逆なでる。放っておけ、と使い魔の姿を消し去った。一直線に、簡易な工房が備わった私室へと向かう。

 荒い手つきでステッキを投げ出し、積みあがった人形の部品を薙ぎ倒しながら寝室を目指した。シルクハットをコートスタンドへひっかけ、外套を床に放って服のままベッドに寝ころんだ。行儀の悪さなど二の次だ。痛みに小さな呻きを漏らしながら、胸をかきむしった。ろくでもない。ろくでもないものを拾ってきてしまった。実体のない影が呪いをまき散らしながらアルバを苛む。アラヤの結界に反発し、アルバを引き裂こうとする。
「は……ぁ」

 苦しみを繰り返している。
 ――手折ろうぞ、首を。
 手折る夢を、繰り返している。

 霞む目を開いたとき、漆黒の闇がアルバに圧し掛かっていた。闇は手を伸ばし、指先でアルバの喉元から胸元をすっとなぞった。肌に触れる寸前の距離を保ちながら。
 乾いた咥内から、掠れた声を絞り出した。
「……契約と、違う。アラヤ、私の、こちらの工房へは不可侵だと、約束したから」
「では謝罪しよう。しかし、見逃すわけにはいかないものもある」
アルバの心臓の真上に、指先が突き立てられる。厚い服に遮られているというのに、裸の赤子にでもなった気分だった。
「好くないものに魅入られたな、アルバ。おまえともあろうものが」
「不可抗力だ」
「なにもいうまい。元来おまえの防御が手薄であることは承知している」
あまりの言葉に、アルバは力なくアラヤを睨みつけた。
「それで、なんの用だ」
闇は人の形へと収束し、アラヤは寝そべったアルバに圧し掛かったまま、しばし口を閉ざした。
「以前から、考えていた。……コルネリウス、おまえはこの結界に幾分か」
反発する力が強いようだな、と感情のない言葉が感情のない視線と共に告げられる。
「当然だろう、魔術師同士が、魔術同士が反発するのは必然だ」
アラヤは思案気に大きな掌で己が顎をするりと撫で、
「そうとも限らぬ、が、しかし現状には不都合がある」
「なんだ、もっと便利な道具であってほしいのかい、私に」
「私の腕であると認めているのだ」
「甘言などいらない、おまえはそうは思うまいよ。アラヤ」
「常になく弱気だ。それほどか、これは」
トン、と胸元を指先で叩かれると、そこを起点として痛みが全身に走った。ゆっくりと外界と意識を分離させ、深く深く息を吸う。
「……コルネリウス。反発を続けるか? それとも」
 同化させてしまった方が有意義であろうか?

 アルバは皮肉に唇を歪めた。この男は他者への問いに、望む回答を既に用意している。
「それが目的でわざわざ出向いてきたのかい、ご苦労だねえ」
「いまおまえを欠くわけにはいかない。すべきことは明確だ。目的は違えどもおまえもそうだからこそ、ここにいるのだろう」
「本当にな……そうだ、そうだよ」

 手折ることを、夢見ている。

「それで、どうしようって言うんだ。場合によっては、私は」
精一杯の強がりを口にした。痛みに裂かれる思考の中で、アラヤの下から抜け出す手段をなんとか絞り出そうとしている。どちらかが致命的な傷を負わない限り不可能であると知っていながら。
 アラヤのがっしりとした手が静かに伸び、アルバのループタイを緩めた。金属部品と紐のこすれる音が、ベッドの上で響いた。
「……ああ、あァ、そういうことか」
 アルバは自嘲の表情を浮かべながら、うんざりとした気分で横を向いた。ベッドに敷かれた絹のシーツの上に、毛先まで入念に手入れされた金髪が広がる。ベストの釦をアラヤが外し始めた段階に至って、アルバは下唇を噛み締め、そして覚悟を決めた。
「アラヤ、……あれを」
ベッドの脇の小棚を細く白い指で指し示す。雑多に置かれた硝子瓶の中の一つを指示通り持ち上げたアラヤは一言
「不純である」
と切り捨て、その隣にあった別の瓶を迷いなく取り上げた。
「はっ……おまえは本当に……」
残りの言葉は出てこなかった。アルバは己に言い聞かせる。これは手段だ、価値も何もない、アラヤの勝手にさせておけばいい。私が求めるものはただ一つ、それさえ見失わなければ、問題などない。こんなことに、こんなただの手段に意味はないのだから。

 ***

 この男にも体温があったのかと、腹を撫でる掌に思った。武骨な手は、その主の在り方を示すように無駄な動きのひとつもなくアルバの服を剥いでいった。素肌に触れられるたびに、身体に巣食うものとアラヤが肌の上で反発しあう。上半身のシャツを寛げられ肌を空気に晒したアルバは、経験したことのない感覚に仰け反った。そこへ突如、喉元に食らいついてきた湿りに驚き全身が痺れる。
「っ、おまえも……愛撫なんてものをするのか」
随分長いこと一緒にいるが、初めて知ったよと震えを隠した声で呟く。喉元で、男が囁いた。
「嫌ならば触れぬ」
霞みがかった視界の中で、ぼうと天井をながめる。
「べつに……いや、では」
どうだろう、わからないなと働かない頭で思う。そんなアルバに構いもせず、アラヤはアルバの下半身の服を全て脱がせ、履いていた靴ごと無造作に放り出した。
 諦めの溜息を吐き出す口へ、アラヤが覆いかぶさる。唾液がアルバの舌に塗り込められるたび、小さな衝撃が弾けた。
「……ん、ふっ……あ、ぁん」
厚い舌がアルバの咥内を蹂躙する。早く終わってくれないかと、仕方なくアラヤの舌に応え、与えられる唾液を嚥下した。二度、三度と受け入れても止めてはくれない。男は差し込んだ手でアルバの背を撫で下し、そのまま腰を数度擦った。終わらない口づけの息苦しさに身をよじるアルバを拘束しながら全身へ指を這わせ、身体を昂らせようとする。
 アルバは長い足の先にある指を丸め、虚しくシーツを数度掻いた。閉じていた両足の間にアラヤの大きな体がねじ込まれる。大きく開かされた足の奥で息衝く孔に指先で触れられ、アルバは固く目を閉じた。瓶を置く音がしたかと思うと、ひんやりとしたぬめりによって孔を濡らされ、ぐに、と異物が体内に侵入する。目を閉じていると、その感覚はより一層際立った。
 ――けれど、わざわざ正面から確かめたい光景でもない。
 緊張を悟られまいと、細く長く息を吐きだす。
「ん、うっ……あ、あらや、そこ……は」
長髪の間から覗く形のいい耳に歯を立てられ、アルバは思わず後孔をきゅうと締めた。自分だけが荒い息を吐いて呻いている腹立たしさに、濃く影が差す男の顔を見上げた。
「おまえは服を、脱がないのか」
「不要だ」
はっ、と笑いが出た。一人裸を晒して、しかも肌を赤く上気させてよがるなど、なんと屈辱的なことだろう。
「もういい、さっさと終わらせてくれ」
ふむ、と思案したアラヤは「ならばこれだけ始末するか」と無造作に裸の胸へ手を当てるや否や、いとも簡単に黒々とした影をずるりと引っ張り出した。アルバの身体に縋りつき蠢いていた呪いは、アラヤの結界に直接触れると苦しそうに悶え、やがて四散した。
「……もうこれだけでいい気がするよ」
「これで終える気はない」
水音が静かな部屋に満ちる。はっはっと喘ぐ息が止められない。アラヤの腕の中で背を反らせ、アルバは強張る身体をベッドに押しつける。増えた指が体内を探る。どれほど拒否しても孔は器用な指先によって溶かされ、傷つくことなく受け入れさせられる。
 指が退き、ぐいと片足を持ち上げられる。耳元でアラヤが告げる。
「縋ってもいい」
言葉なく、アルバは両手をアラヤの太い首筋へ回した。固い切っ先が体内へ入り込もうとする。痛みに苛立ち、アルバはわざとアラヤの首筋へ歯を立てた。そのまま力を込めても、アラヤは拒絶しなかった。ぬちぬちと音をさせながら、肉棒が壁を拓いて進む。
「う……っぅ、は、ぁあっ……!」
腹で男を食う苦しみを逃そうと、両足でアラヤを拘束する。なんだってこんな国で、こんな年になってこんな行為をする羽目になるんだ。幾度心で呪っても、アラヤが動きを止めることはない。ずるり、と退いては押し入られる、その繰り返しに声があふれ出る。
「あぁ、……アラ、や、ひっ……」
身体を引こうとすると抱きしめられる。嫌だと首を振れば宥めるように目元へ口づけられる。はあ、はあと呼吸しながら服越しに、頬をアラヤの胸へ押し当てた。
「いやだ……」
「痛いのか」
「その、逆だ。だから、いやだ……」
「そうか」
汗がこめかみから伝い落ちる。全身を貫く快感に歯を食いしばった。アラヤの動きが徐々に早くなる。アルバ自身を大きな掌で刺激されると、最早堪えることができず、そのまま白濁を吐き出した。

 ***

 アラヤの胸に抱かれ、背後から貫かれながら幻を見る。
太極の渦に巻かれながら、赤色と対峙する。きっと至極簡単に、その首を手折ることができるだろう。
 体内に吐き出されたアラヤの精が肉体を駆け巡る。私も赤色も、溶けだし一体化する。
ずっとみていた、赤色の横顔を。アラヤに抱かれながら、幻へと手を伸ばした。


 傷んだ赤色を手折る夢を、繰り返し見ている。
 いつか夢見ることをやめ、苦しみから解き放たれるために。
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