グラブル(フェルラガ)
ぼんやりと辺りを見渡していた。
乾いた厚い一枚木で作られたカウンター越しに広がる部屋があった。
昼下がりの日差しが穏やかに差し込む窓には純白のカーテンが掛けられ、細かく編まれたレースが風に揺れながら模様を床の上に映し出している。
ぼんやりと辺りを見渡していた。木で組まれた華奢な椅子。色が少し褪せているけれど丈夫な麻布で作られたソファ。水仙の薄っすら黄色がかった花弁が透明なガラスの花瓶の中で強い匂いを放っている。
なんだかからっぽだ、と思った。世界は何でこんなにからっぽなんだろう。なんだかここに立っているだけで心がすうすうする。そしてふっと思考の隅に、薄暗い影が忍び寄ってくる。
――お母様、お父様。痛いよ。こわいよ。叩かないで、怒鳴らないで、許してください。僕が悪かった、僕が間違っていた、直すから。僕の悪いところはすべて直すから、だからどうか
「なにも考えなくていいんだよ」
布を掴み、左手に持ったグラスの曇りを拭おうと力を籠める。グラスの汚れを拭い去れば、どこからか忍び寄ってくる気配を消せるとでもいうように。
「きみはなにも考えなくていいんだよ、ラガッツォ。必要なことは全て私が考えてあげよう。必要なものは全て私が与えてあげよう。きみの靴紐が解けていれば結んであげるし、食べ物が食べられないというなら匙を口まで運んであげよう。悪夢を毎晩みるというのなら、毎晩起こして毛布を掛けてあげる。だからきみは、ずっとこの家にいるべきだと思うんだ。私はね」
悪夢を見る。そうだ、俺は毎晩悪夢を見る。夢は俺に思い起こさせる。両手に残る肉の感触、鼻を突きさす鉄臭い血の臭い。肌が焦げる痛み。なにより。
地獄の底で、俺は笑っている。全身を貫く悶えるような苦しみと共に、途方もない解放感に身を浸し、歓喜に震え俺は笑っている。
――あァ、自由だ。俺は自由だ。
全身が逆立つほどの歓びに叫んだ途端、恐怖が襲う。
――ひとりになってしまった。俺はひとりになってしまった。もう誰も俺のそばにいない。誰も俺を愛してくれない。
血がざっと下がって手先がぶるぶると痙攣し、縋るものを探して周囲に怯えた眼を向ける。そんな惨めな俺に、彼は声を掛ける。その大きな掌で、骨ばった指で俺の肩を掴み、そっと揺り起こして彼は声を掛ける。
「大丈夫かい? 随分と魘されていたよ」
そこで俺ははっと目を覚ます。今俺がどこにいるのか、今俺が誰と共にいるのかを思い出す。
ほら、風邪をひくといけない。ああ、汗はかいていないかい? 横になって、きちんと毛布を肩までかけて。
そう言葉を発する男を見上げる。彼の瞳はいつだってまっすぐ俺に向けられている。彼ほど正面から俺を見る人間はこの世界に存在しない。
「ん?」
毛布を頭まで被って背を向けた俺の背中を何度か掌を叩いて、彼も隣で横になる。隣の気配に背を向けてエビのように丸まって、両掌に顔を埋めながら思う。
彼ほど俺をまっすぐ見る人間は他にいない。喜ばしいことのはずだ。俺を見てくれる人間がいる。目と目が合って、微笑んでくれる。アンタが好きだと言えば、私も好きだよと即座に返ってくる。身体が歓びに満たされたっておかしくないだろう。
なのに俺はいつも哀しくなる。アンタが俺を見るたび心に穴が空くような心地になる。いや、違うな。アンタはその視線で俺の中に元々ある、でっかくて埋まることのない空白を照らし出すんだ。
――彼の名を唇で呼ぶ。声を出さないまま。
まるで彼は俺に与えられた軛だ。自由に耐えられなかった俺に嵌められた首輪。伸びた鎖はしっかりと、ふたりきりで住むこの家に繋がっている。
ぼんやりと思考に耽っている内に、左手に持っていたグラスは曇りひとつなく磨き上げられていた。
「考えなくていいんだよ」
彼の言葉の意味を理解できる。けれど何故か受け止められない。きっと考えることをやめて、彼の匂いに、体温に包まれていれば時が過ぎて全て収まるべきところに収まっていくはずなのに。鳥の雛のように喉の奥まで食べ物を突っ込まれ、腹を充満させられ、とろりと思考が蕩けたまま――
「あッ」
その瞬間、震えた左手からグラスが飛び出した。宙に飛び出したグラスが弧を描き板張りの床に落下していく軌道が、スローモーションのように眼前で再生される。
高い音を立てて、床に打ち付けられたグラスが粉々になった。破片が辺りに散らばり、鮮やかに光を跳ね返して輝いている。
「あァ……」
ラガッツォはしばし沈黙した。やがてひどく疲労した気配を滲ませながら緩く長く息を吐いた。右手に持っていた布をカウンターに置くと、キッチンから出て物置につながる廊下を進んだ。突き当りにある扉を開け、物置の手前に立てかけられていた箒とちりとりを手にしようとして動きを止める。
物置にある空気取りの窓越しに、かすかな水音が響いていた。天はいまだ明るく光輝いているにもかかわらず、晴れ渡った空から雨が降り出しているらしい。
――雨。雨。雨が降った。あのときも雨が降りだしてきた。燃え盛る炎を鎮火させようとでもするかのように。でもそんなちっぽけな量の水じゃ鎮まらなかった。
燃え盛る炎は鎮まらなかった。ずっと燃え続けている。今もこの身を焼き続けている。地獄の業火は焼き続けている。俺があのとき感じた解放を、与えられた自由を、祝福するかのように全身を炎で舐め尽くしている。
廊下を進み、手にした箒とちりとりをリビングに放り投げ、一面に広がる掃き出し窓を開けて庭に降りる。むわりと緑の匂いが全身を包む。柔らかな土の湿った感触を裸足の裏に感じる。
彼は庭で熱心に植物を育てる。植物たちも彼の手の体温に応えるようにその背をすくすくと伸ばし自由に枝葉を広げる。花は咲き誇り、木々は伸びゆく。植物と俺に違いなんてない。彼の手で咲かされ、彼の手にした鋏で収穫される。
足の甲にぽつりぽつりと大きな雨粒が当たる。伸ばした指を水滴が伝う。
庭の中心で翻る白いシーツに触れると、甘い雨の香りがぶわりと辺り一面に噎せかえった。
「なにも考えなくていいんだよ。きみはずっと私が面倒を見てあげる。この家にずっといるといい。一歩も外に出る必要はない。欲しいものは全て私が持ってきてあげる。考えることはしなくていい、これ以上悲しまなくていい。きみの感情も、全て私が背負ってあげる」
幸福そうな笑みを浮かべながらラガッツォの髪を撫でて、彼は言う。
竿に広々と干されたシーツに手を伸ばす。白く大きなシーツが風に翻り、向かいに立つ男の姿を隙間から覗かせる。
すっと地面を踏みしめる革靴。世界の総てを映すように曇りひとつなく磨き上げられている。
アンタにわかるだろうか。俺はまるで木の軸に括りつけられているみたいな心地がするんだ。手も、指の一本一本も、腕も足も胴体だって感情だって。余すところなく一本のすっと通った木が縄で括りつけられている。アンタの思うようにこの身体は矯められ、アンタの意思に従って動く。でも外からは自由に動けるように見えるんだ、不思議だろ? 踊ることだってできる。アンタが望むなら。全身が木に括りつけられたまま、アンタの息に合わせてステップを踏む。まるで木で作られた人形のように。翻るシーツを挟んで、俺は踊る。自由。それをアンタは自由という。
アンタと踊れることを自由という。
でも知ってる。俺は存在を知っている。この首元に嵌められた目に見えない首輪の存在を。アンタは与える。俺に俺の持つべき感情まで与える。怒りと、喜びと、悲しみと、楽しみと、あとなんだっただろうな。アンタが俺に与えたもの。
アンタが与えたもの、そして遂に与えてくれなかったもの。
「ラガッツォ、風邪をひくよ。家に戻りなさい。シーツはパパが仕舞っておいてあげるから」
彼の声がする。俺の軛。この家に縛り付ける鎖と化した声。
俺は踊り続けている。彼の掌の上で、与えられる愛情に溺れてひとり踊り続けている。彼の愛情は炎となって俺の全身を舐める。
「あァ――」
ラガッツォは目を開いた。世界の総てが水晶体を通して飛び込んでくる。雨は天から終わりなく降り続いている。甘い香りを放ちながら大地に水を注ぐ。
世界は回り続ける。昨日も朝がきたし、明日だって朝はくる。その境目で引き裂かれ疼く傷口を、アンタが見ることは叶わない。
「……ごめんな、フェルディナンド。俺はアンタのものになれなかったみたいだ」
だってこんなに――アンタのいる世界はこんなに光り輝いている。地獄から見るアンタのいる世界はどうしようもなく美しくて、息が詰まる。
アンタが存在する限り、俺は俺の言葉を持たずにいられない。
シーツの向こうで彼は手を広げているだろうか。目をじっと見開いているだろうか。そんなのどうでもよかった。ただ確かなのは。
「すまねェな、フェルディナンド。でも、アンタのことが好きで好きでたまらないから――だから、俺はアンタのもんになれなかったのかなァ」
乾いた厚い一枚木で作られたカウンター越しに広がる部屋があった。
昼下がりの日差しが穏やかに差し込む窓には純白のカーテンが掛けられ、細かく編まれたレースが風に揺れながら模様を床の上に映し出している。
ぼんやりと辺りを見渡していた。木で組まれた華奢な椅子。色が少し褪せているけれど丈夫な麻布で作られたソファ。水仙の薄っすら黄色がかった花弁が透明なガラスの花瓶の中で強い匂いを放っている。
なんだかからっぽだ、と思った。世界は何でこんなにからっぽなんだろう。なんだかここに立っているだけで心がすうすうする。そしてふっと思考の隅に、薄暗い影が忍び寄ってくる。
――お母様、お父様。痛いよ。こわいよ。叩かないで、怒鳴らないで、許してください。僕が悪かった、僕が間違っていた、直すから。僕の悪いところはすべて直すから、だからどうか
「なにも考えなくていいんだよ」
布を掴み、左手に持ったグラスの曇りを拭おうと力を籠める。グラスの汚れを拭い去れば、どこからか忍び寄ってくる気配を消せるとでもいうように。
「きみはなにも考えなくていいんだよ、ラガッツォ。必要なことは全て私が考えてあげよう。必要なものは全て私が与えてあげよう。きみの靴紐が解けていれば結んであげるし、食べ物が食べられないというなら匙を口まで運んであげよう。悪夢を毎晩みるというのなら、毎晩起こして毛布を掛けてあげる。だからきみは、ずっとこの家にいるべきだと思うんだ。私はね」
悪夢を見る。そうだ、俺は毎晩悪夢を見る。夢は俺に思い起こさせる。両手に残る肉の感触、鼻を突きさす鉄臭い血の臭い。肌が焦げる痛み。なにより。
地獄の底で、俺は笑っている。全身を貫く悶えるような苦しみと共に、途方もない解放感に身を浸し、歓喜に震え俺は笑っている。
――あァ、自由だ。俺は自由だ。
全身が逆立つほどの歓びに叫んだ途端、恐怖が襲う。
――ひとりになってしまった。俺はひとりになってしまった。もう誰も俺のそばにいない。誰も俺を愛してくれない。
血がざっと下がって手先がぶるぶると痙攣し、縋るものを探して周囲に怯えた眼を向ける。そんな惨めな俺に、彼は声を掛ける。その大きな掌で、骨ばった指で俺の肩を掴み、そっと揺り起こして彼は声を掛ける。
「大丈夫かい? 随分と魘されていたよ」
そこで俺ははっと目を覚ます。今俺がどこにいるのか、今俺が誰と共にいるのかを思い出す。
ほら、風邪をひくといけない。ああ、汗はかいていないかい? 横になって、きちんと毛布を肩までかけて。
そう言葉を発する男を見上げる。彼の瞳はいつだってまっすぐ俺に向けられている。彼ほど正面から俺を見る人間はこの世界に存在しない。
「ん?」
毛布を頭まで被って背を向けた俺の背中を何度か掌を叩いて、彼も隣で横になる。隣の気配に背を向けてエビのように丸まって、両掌に顔を埋めながら思う。
彼ほど俺をまっすぐ見る人間は他にいない。喜ばしいことのはずだ。俺を見てくれる人間がいる。目と目が合って、微笑んでくれる。アンタが好きだと言えば、私も好きだよと即座に返ってくる。身体が歓びに満たされたっておかしくないだろう。
なのに俺はいつも哀しくなる。アンタが俺を見るたび心に穴が空くような心地になる。いや、違うな。アンタはその視線で俺の中に元々ある、でっかくて埋まることのない空白を照らし出すんだ。
――彼の名を唇で呼ぶ。声を出さないまま。
まるで彼は俺に与えられた軛だ。自由に耐えられなかった俺に嵌められた首輪。伸びた鎖はしっかりと、ふたりきりで住むこの家に繋がっている。
ぼんやりと思考に耽っている内に、左手に持っていたグラスは曇りひとつなく磨き上げられていた。
「考えなくていいんだよ」
彼の言葉の意味を理解できる。けれど何故か受け止められない。きっと考えることをやめて、彼の匂いに、体温に包まれていれば時が過ぎて全て収まるべきところに収まっていくはずなのに。鳥の雛のように喉の奥まで食べ物を突っ込まれ、腹を充満させられ、とろりと思考が蕩けたまま――
「あッ」
その瞬間、震えた左手からグラスが飛び出した。宙に飛び出したグラスが弧を描き板張りの床に落下していく軌道が、スローモーションのように眼前で再生される。
高い音を立てて、床に打ち付けられたグラスが粉々になった。破片が辺りに散らばり、鮮やかに光を跳ね返して輝いている。
「あァ……」
ラガッツォはしばし沈黙した。やがてひどく疲労した気配を滲ませながら緩く長く息を吐いた。右手に持っていた布をカウンターに置くと、キッチンから出て物置につながる廊下を進んだ。突き当りにある扉を開け、物置の手前に立てかけられていた箒とちりとりを手にしようとして動きを止める。
物置にある空気取りの窓越しに、かすかな水音が響いていた。天はいまだ明るく光輝いているにもかかわらず、晴れ渡った空から雨が降り出しているらしい。
――雨。雨。雨が降った。あのときも雨が降りだしてきた。燃え盛る炎を鎮火させようとでもするかのように。でもそんなちっぽけな量の水じゃ鎮まらなかった。
燃え盛る炎は鎮まらなかった。ずっと燃え続けている。今もこの身を焼き続けている。地獄の業火は焼き続けている。俺があのとき感じた解放を、与えられた自由を、祝福するかのように全身を炎で舐め尽くしている。
廊下を進み、手にした箒とちりとりをリビングに放り投げ、一面に広がる掃き出し窓を開けて庭に降りる。むわりと緑の匂いが全身を包む。柔らかな土の湿った感触を裸足の裏に感じる。
彼は庭で熱心に植物を育てる。植物たちも彼の手の体温に応えるようにその背をすくすくと伸ばし自由に枝葉を広げる。花は咲き誇り、木々は伸びゆく。植物と俺に違いなんてない。彼の手で咲かされ、彼の手にした鋏で収穫される。
足の甲にぽつりぽつりと大きな雨粒が当たる。伸ばした指を水滴が伝う。
庭の中心で翻る白いシーツに触れると、甘い雨の香りがぶわりと辺り一面に噎せかえった。
「なにも考えなくていいんだよ。きみはずっと私が面倒を見てあげる。この家にずっといるといい。一歩も外に出る必要はない。欲しいものは全て私が持ってきてあげる。考えることはしなくていい、これ以上悲しまなくていい。きみの感情も、全て私が背負ってあげる」
幸福そうな笑みを浮かべながらラガッツォの髪を撫でて、彼は言う。
竿に広々と干されたシーツに手を伸ばす。白く大きなシーツが風に翻り、向かいに立つ男の姿を隙間から覗かせる。
すっと地面を踏みしめる革靴。世界の総てを映すように曇りひとつなく磨き上げられている。
アンタにわかるだろうか。俺はまるで木の軸に括りつけられているみたいな心地がするんだ。手も、指の一本一本も、腕も足も胴体だって感情だって。余すところなく一本のすっと通った木が縄で括りつけられている。アンタの思うようにこの身体は矯められ、アンタの意思に従って動く。でも外からは自由に動けるように見えるんだ、不思議だろ? 踊ることだってできる。アンタが望むなら。全身が木に括りつけられたまま、アンタの息に合わせてステップを踏む。まるで木で作られた人形のように。翻るシーツを挟んで、俺は踊る。自由。それをアンタは自由という。
アンタと踊れることを自由という。
でも知ってる。俺は存在を知っている。この首元に嵌められた目に見えない首輪の存在を。アンタは与える。俺に俺の持つべき感情まで与える。怒りと、喜びと、悲しみと、楽しみと、あとなんだっただろうな。アンタが俺に与えたもの。
アンタが与えたもの、そして遂に与えてくれなかったもの。
「ラガッツォ、風邪をひくよ。家に戻りなさい。シーツはパパが仕舞っておいてあげるから」
彼の声がする。俺の軛。この家に縛り付ける鎖と化した声。
俺は踊り続けている。彼の掌の上で、与えられる愛情に溺れてひとり踊り続けている。彼の愛情は炎となって俺の全身を舐める。
「あァ――」
ラガッツォは目を開いた。世界の総てが水晶体を通して飛び込んでくる。雨は天から終わりなく降り続いている。甘い香りを放ちながら大地に水を注ぐ。
世界は回り続ける。昨日も朝がきたし、明日だって朝はくる。その境目で引き裂かれ疼く傷口を、アンタが見ることは叶わない。
「……ごめんな、フェルディナンド。俺はアンタのものになれなかったみたいだ」
だってこんなに――アンタのいる世界はこんなに光り輝いている。地獄から見るアンタのいる世界はどうしようもなく美しくて、息が詰まる。
アンタが存在する限り、俺は俺の言葉を持たずにいられない。
シーツの向こうで彼は手を広げているだろうか。目をじっと見開いているだろうか。そんなのどうでもよかった。ただ確かなのは。
「すまねェな、フェルディナンド。でも、アンタのことが好きで好きでたまらないから――だから、俺はアンタのもんになれなかったのかなァ」
24/24ページ
