グラブル(フェルラガ)
フェルディナンドは季節がくると家の庭を耕し、決まった花を一定の間隔で植えた。葉を茂らす樹木は規則正しく庭を囲み、小さな家を周囲から隠していた。家の中は清潔に整えられ、汚れている場所も乱れている部分もなかった。階段の隅に埃が落ちていることはなく、靴が乱雑に脱ぎ捨てられていることもない。
そんな空間に安心を覚えていたのが、遠い昔のようにラガッツォには思える。フェルディナンドの腕に抱かれているような家での暮らしは、いつからかラガッツォの首を緩慢に締め上げるようになった。
「ラガッツォ、今日は何時に帰ってくるんだい」
「ラガッツォ、冬服を出しておいたからね」
「ラガッツォ、遠くまで行ってはいけないよ」
フェルディナンドは礼儀正しくラガッツォの肩を抱く。その手つきの清潔さに耐えられなくなったのはいつからだろう。彼の緑色の瞳がじっとラガッツォの動きを追う、その視線の温度に気づいてしまったのはいつからだろう。
「知らねェよ」
「勝手に俺の部屋に入るな」
「獲物に言えよ、遠くまで逃げるなってな」
真空に包まれたような息苦しい家から逃げ出すように這いだし、図書館で本を開く。適当に開いた本に書かれている文章はあまりに難解で理解が及ばなかった。だがとある一文がふと目に入った。人々は離れなければならない。近づきすぎた人々は離れなければならない。そうだ、俺たちはあまりにも近づきすぎている。あの小さな家にふたりはおさまらないのだ。だから言った。
「家を出る」
その言葉を聞いて、フェルディナンドはナイフで肉を切る手を止めた。時が止まる。食卓の上で水に差された水仙が小さな花弁に水滴をにじませていた。
「どういう意味だい?」
フェルディナンドは言葉を一度口の中で馴染ませるようにしてから平らな声で言った。
「そのままだよ。俺は家を出る。もう俺も大人だろォ? アンタといつまでも一緒に暮らす必要もねェ」
「仕事はどうするんだい?」
「続けるさ。ひとり暮らししながらやりゃあいい」
「ラガッツォ、きみは――」
フェルディナンドはナイフを置き、口元を布で拭った。そして真っ直ぐラガッツォを見た。
「ラガッツォ、きみはパパを捨てるのかい」
フェルディナンドの瞳は冷え切っていた。その瞳は息子に期待を裏切られたことを物語っていた。凍てついた緑色を目にして、ラガッツォの腹の底がぐわりと揺れた。熱を感じる。肉体を内側から焙られるような焼けつく熱を感じる。
俺はアンタが俺に執着を示すと泣きたくなるくらい嬉しくなる。別に執着じゃなくたっていい。冷ややかな眼差しで軽蔑してくれたって、罵倒の言葉を投げかけてくれたって、その熱を帯びない手で俺の頬を殴ったっていい。それでアンタの体温を感じられたなら、俺は腹を出して尻尾を振って喜ぶだろう。
でもアンタは一度目を閉じると、自分自身の感情を難なく飲み込んでしまい、その顔にうっすらとした微笑みを浮かべる。一瞬みせた執着は綺麗に隠してしまい、穏やかな声で俺を諭す。
「よく考えなさい。パパはきみが出ていく必要はないと思うな」
そう言ってフェルディナンドは立ち上がり、ラガッツォの傍に立つと頬に口づけた。清潔な親子の口づけ。どういった種類の欲も伴わない、まるでお手本のような愛情表現。
「――俺は、」
それが我慢ならねェんだよ。
「ラガッツォ?」
不思議そうな声が頭上から降り注ぐ。ラガッツォはたまらず両手で顔を覆って上半身を丸めた。
アンタが一瞬で飲み込んでしまった執着が欲しい。アンタの変化することのない体温が上がる瞬間が欲しい。アンタの欲にまみれた声がほしい。
平穏な家の平穏な暮らしに息が詰まる。
「フェルディナンド、」
ラガッツォは息を止めたまま目線を上げる。愛した男の白い布地に包まれた胸元が見える。
――俺は耐えられない。これ以上アンタを欲しがる自分自身に耐えられない。だから出ていく。この家から俺は出ていく。
でももし、アンタが瞳の色を変えることがあるなら。もし、俺を手放したくないと欲望を抱いてくれるなら。
俺たちの関係を変える、決定的な一言をその口から発してくれたなら。
ラガッツォの目線がフェルディナンドの薄い唇を捉える。彼はいつものような微笑みを唇に浮かべていた。口がゆっくりと開く。まるで、ラガッツォがなにを求めているのかを完全に理解しているように、その唇は言葉を形作ろうとしていた。
そんな空間に安心を覚えていたのが、遠い昔のようにラガッツォには思える。フェルディナンドの腕に抱かれているような家での暮らしは、いつからかラガッツォの首を緩慢に締め上げるようになった。
「ラガッツォ、今日は何時に帰ってくるんだい」
「ラガッツォ、冬服を出しておいたからね」
「ラガッツォ、遠くまで行ってはいけないよ」
フェルディナンドは礼儀正しくラガッツォの肩を抱く。その手つきの清潔さに耐えられなくなったのはいつからだろう。彼の緑色の瞳がじっとラガッツォの動きを追う、その視線の温度に気づいてしまったのはいつからだろう。
「知らねェよ」
「勝手に俺の部屋に入るな」
「獲物に言えよ、遠くまで逃げるなってな」
真空に包まれたような息苦しい家から逃げ出すように這いだし、図書館で本を開く。適当に開いた本に書かれている文章はあまりに難解で理解が及ばなかった。だがとある一文がふと目に入った。人々は離れなければならない。近づきすぎた人々は離れなければならない。そうだ、俺たちはあまりにも近づきすぎている。あの小さな家にふたりはおさまらないのだ。だから言った。
「家を出る」
その言葉を聞いて、フェルディナンドはナイフで肉を切る手を止めた。時が止まる。食卓の上で水に差された水仙が小さな花弁に水滴をにじませていた。
「どういう意味だい?」
フェルディナンドは言葉を一度口の中で馴染ませるようにしてから平らな声で言った。
「そのままだよ。俺は家を出る。もう俺も大人だろォ? アンタといつまでも一緒に暮らす必要もねェ」
「仕事はどうするんだい?」
「続けるさ。ひとり暮らししながらやりゃあいい」
「ラガッツォ、きみは――」
フェルディナンドはナイフを置き、口元を布で拭った。そして真っ直ぐラガッツォを見た。
「ラガッツォ、きみはパパを捨てるのかい」
フェルディナンドの瞳は冷え切っていた。その瞳は息子に期待を裏切られたことを物語っていた。凍てついた緑色を目にして、ラガッツォの腹の底がぐわりと揺れた。熱を感じる。肉体を内側から焙られるような焼けつく熱を感じる。
俺はアンタが俺に執着を示すと泣きたくなるくらい嬉しくなる。別に執着じゃなくたっていい。冷ややかな眼差しで軽蔑してくれたって、罵倒の言葉を投げかけてくれたって、その熱を帯びない手で俺の頬を殴ったっていい。それでアンタの体温を感じられたなら、俺は腹を出して尻尾を振って喜ぶだろう。
でもアンタは一度目を閉じると、自分自身の感情を難なく飲み込んでしまい、その顔にうっすらとした微笑みを浮かべる。一瞬みせた執着は綺麗に隠してしまい、穏やかな声で俺を諭す。
「よく考えなさい。パパはきみが出ていく必要はないと思うな」
そう言ってフェルディナンドは立ち上がり、ラガッツォの傍に立つと頬に口づけた。清潔な親子の口づけ。どういった種類の欲も伴わない、まるでお手本のような愛情表現。
「――俺は、」
それが我慢ならねェんだよ。
「ラガッツォ?」
不思議そうな声が頭上から降り注ぐ。ラガッツォはたまらず両手で顔を覆って上半身を丸めた。
アンタが一瞬で飲み込んでしまった執着が欲しい。アンタの変化することのない体温が上がる瞬間が欲しい。アンタの欲にまみれた声がほしい。
平穏な家の平穏な暮らしに息が詰まる。
「フェルディナンド、」
ラガッツォは息を止めたまま目線を上げる。愛した男の白い布地に包まれた胸元が見える。
――俺は耐えられない。これ以上アンタを欲しがる自分自身に耐えられない。だから出ていく。この家から俺は出ていく。
でももし、アンタが瞳の色を変えることがあるなら。もし、俺を手放したくないと欲望を抱いてくれるなら。
俺たちの関係を変える、決定的な一言をその口から発してくれたなら。
ラガッツォの目線がフェルディナンドの薄い唇を捉える。彼はいつものような微笑みを唇に浮かべていた。口がゆっくりと開く。まるで、ラガッツォがなにを求めているのかを完全に理解しているように、その唇は言葉を形作ろうとしていた。
23/23ページ
