グラブル(フェルラガ)

「ターゲットを『処理』してきてほしいんだ」
 フェルディナンドは至極軽い調子で俺に言った。彼が書類の束を机の上に置く。俺はそれをただぼんやりと眺めた。
 朝晩に寒さを感じるようになった秋のことだった。俺はフェルディナンドに引き取られて、片手で数えられる以上の年数を彼の元で過ごしていた。フェルディナンドから学問を教わり、師について武術を修め、その傍らナビスの仕事の使い走りのようなことをしていた。
 フェルディナンドが頼んでくるのはいつも他愛ない仕事だった。彼は俺に柔らかく微笑んで、手を握って申し訳なさそうに懇願する。この手紙を直接届けてきてくれるかい、暫くこの事務所で留守番していてほしいんだ、この住所まで荷物を受け取りに行ってくれると嬉しいな……。そのたび俺は彼の役に立てるという事実に胸を躍らせ、なんでも言うことを聞いた。彼の命令に従えることは喜びだった。
 けれど、これまで人を殺してくれなどと頼まれたことはなかった。俺はずっと人を殺していない。正確に言えば、己の両親を殴り殺してから、新たに人を殺したことはない。
 両親を手に掛けたときは少なくとも彼らに対する抗いという名目があった。否、それ以上に俺は無我夢中だった。彼らから与えられる苦痛に対して俺は激昂していた。
 ナビスの仕事を請け負い、命令に従って人を『処理』することは、感情に任せた行動とはいえない。そこには理性と選択が入り込んでいる。俺は、自分自身の意思で己の手を汚さなければならないのだ。
 逡巡する俺に対し見定めるような視線を送っていたフェルディナンドは、目を細め、俺の肩に手を置いた。
 彼の骨ばった掌が服越しに体温を伝える。心臓が一気に高鳴る。近頃、彼は図ったように互いの距離を詰めてくるようになった。まるで、俺がフェルディナンドに抱いている感情の正体を知っているかのように。
「なにか気になることがあるのかな? きみの身体も成長して、武術も一通り身につけたと聞いているし、サポート役も付き添う。この仕事を無事成功させれば、きみのナビスでの位もあがるだろう」
「そう、だろうけどよォ……」
 俺はフェルディナンドと目を合わせられず、床に目線をやった。彼のよく磨かれた革の靴が目に入る。
 この仕事を受けたら、きっと俺は逃げられなくなるのだろう、という予感があった。親を手に掛けた身で今更どこに逃げるというのか、行く先などあるはずもないのに、と心の中で嘲る声がする。
 それでも、自分の選択として人の命を奪うことは怖かった。怯えていた。自分が自分でなくなってしまうような気がした。
 フェルディナンドがゆっくり手を伸ばし、俺の頭を撫でた。じわり、と胸の中心と腹の奥に熱が生じる。
「ラガッツォ」
 俺は思わず、フェルディナンドのコートの裾を掴んだ。言葉なく、布地の端を手で握っては離す。そうしている間も、彼の手は俺の頭に優しく触れていた。
 ちらり、と彼の顔を見上げる。フェルディナンドは横を向き遠くへ視線をやっていた。そして一度目を瞑ると、薄い笑顔を顔一面に浮かべ、俺を見下ろした。
 ああ、まただ、と俺は思う。
 彼はこうやって仮面を被ってみせる。彼自身の感情を丁寧に覆い隠して心の奥に置き、俺には俺が欲しがっている表情を見せる。フェルディナンドはそうやって、俺を操る。
 彼の刺青が刻まれた指が俺の顎を捕らえる。
 フェルディナンドの顔が近づいた、と思った瞬間ふに、と柔らかな感触が唇に与えられた。俺は思わず凍りつき、手足を強張らせたまま彼の動きを受け入れる。
 俺は、フェルディナンドにキスをされていた。
 感じてはいけない場所でフェルディナンドの体温を感じる。彼は唇を動かして俺の唇を一度軽く食むと、顔を離し微笑んだ。
「仕事をしてきてくれるね、ラガッツォ? きみが無事に帰ってきたら、続きをしよう」
 逃げられないのだ。俺は逃げられない。このひとに全てを見抜かれている。俺の迷いも、怯えも、彼への恋情も、何もかも全て見抜かれてしまっている。そして彼は何もかも知ったうえで、こんなことをするのだ。
「汚れて帰ってきてもいいんだ。汚れてしまったきみを、足の先から頭のてっぺんまで綺麗にしてあげよう。パパが、全部」
 俺は頷き、この部屋を出ていくのだろう。俺は彼の言うことを従順に聞き、人を殺めるのだろう。俺は落ちていくのだ、どこまでも。落ちた先で、彼が俺を受け止め、頭を撫でてよくやったと褒めてくれる限り、俺はどこまでも落ちていくのだ。
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