グラブル(フェルラガ)

     26
 人々は去ってしまった。実りの秋が終わり、枯れ果てた大地にはとめどなく雪が降り積もる。
 俺は湯船から汲んだ湯を身体に流しかけ、一度大きく身震いした。風呂場には湯気が充満しているが、扉や窓の隙間から冷え切った空気が流れ込んできていた。
「明日も明後日も雪だろ、これ。いつになったらこの家から出ていけるんだァ?」
 湯船に浸かっていた男がゆったりとした動きで両手を上げ、顔を掌で擦った。真っ白な髪から雫が滴り落ちる。
「そう焦ることはない。食料は倉庫に十分貯蔵されているし、薪だって水だって不足していない。越えようと思って準備をすれば、冬は越えられるものなんだよ。家屋からは出られなくてもね」
 もの言いたげにフェルディナンドをじっと見ていると、彼は俺に向かって手招きした。唇を曲げて不服の意は示したが、結局俺は素直に立ち上がりフェルディナンドが寛いでいる湯船に足を踏み入れた。熱い湯が俺の肌を舐めると同時に、彼の手が俺の腰に回る。
 静かだった。家は静寂に包まれていた。ぽたり、ぽたりと水滴が蛇口から落下する音がだけが響いている。しんしんと雪が降り積もる張りつめた気配が家の周囲に満ちていた。
 俺は冷たいバスタブに頬を当て、目を閉じていた。フェルディナンドの足が俺の肌を撫でる。彼の掌が俺の肩をすべり、やがて重く水を含んだ毛先を摘まみ上げた。
「伸びたね。また切ってあげよう」
「なあフェルディナンド、寒いな」
 熱い湯に茹だった俺は言う。
「こう冷える日は、きっとひとりで寝ると寒くて仕方がないんだ」
 フェルディナンドは浴槽の縁に頬杖をついて、もう片方の手で俺の髪を弄っていた。彼の口角は上機嫌に上がっている。
「そういって毎晩私のベッドにくるから、きみの枕は私のベッドに置かれたままじゃないか」
 俺は目を閉じ、彼に身を委ねた。俺の枕は、この長い冬が終わるまで彼のベッドから移動しそうになかった。


     27
 寄せては引いて返す波の音が絶え間なく騒めいている。海の上に立つ建物の群れを指して海辺の人は「あれはリュウグウなんだ」と言った。
 泊まった海上の家の床は硝子張りで、透き通った青い光が辺りに満ちていた。壁の上を光の筋が揺らめく。宇宙の色を写し取ったような深い青をしていた。眼下では色鮮やかな魚の背が時折横切り、銀色の鰭が光を弾く。
 フェルディナンドは潮でべたつく俺の肩に薄いタオルケットを掛け、いつも同じ寝物語を語って聞かせた。
 異星に住んでいた彼女は、ある日地上に誤って落ちてきた。勢い余って海の底まで沈んでしまった彼女は、襲い掛かってきた八本脚の怪物と果敢に戦う。彼女はそいつに勝ったけれど、乗ってきた船が壊れてしまった。そこへ通りがかった魚が言う。
 深海で燃え盛っている青い炎を捕まえられたなら、あなたは故郷に帰れるでしょう……。それから彼女は海底で燃え盛る青い炎を探し続けている。時折海上へ顔をのぞかせては、故郷を思って泣くように歌をうたう。彼女は探している、願いを叶える幻の炎を……。
 俺はうとうととフェルディナンドの声を聴きながら、目を閉じて迷子になってしまった自分自身を想像する。俺は暗くだだっ広い海底を彷徨い、フェルディナンドを恋しがっては泣いているのだ。


     28
 暗闇で揺らめく蝋燭を吹き消した。部屋がふっと暗くなる。俺は椅子から立ち上がり、部屋に明かりを灯した。
 机の上には溶けかかった蝋燭の刺されたケーキが載っている。中心にはチョコレートでできたプレートが置かれ、カラフルな文字で誕生日おめでとう、と書かれている。
 俺は銀色のフォークを手に取ると、繊細な曲線を描く砂糖菓子の乗ったケーキにフォークを突き刺した。ケーキを一匙すくい取り、口に運ぶ。
 口の中いっぱいに、脳天を突き抜けるような甘さが広がった。俺はただ咀嚼し、ケーキを胃の中に送り込む。
 机の上に置かれた肉も、パンも、サラダも胃に収めていく。俺はただ機械のように口を動かし、歯で食物をすり潰し、飲み込んでいく。
 窓の外から声が聞こえてきた。通りがかった家族連れが賑やかな声を出した。彼らは手をつないで、自分たちの家に帰っていく。
 俺はひとりで、今日という日の夜に帰ってこなかったフェルディナンドを待ちながら、ケーキを最後の一片まで食らい尽くした。

     29
 再び生まれるとき、最初に聞くのは赤子の泣き声だ。酸素を求め泣き叫ぶ声。私は自分とは異なる個体の泣き声と共に生まれる。
 眩しい光が瞼を貫き、この世界で初めて息をするとき、過去の記憶がどっと流れ込む。私のこれまでの人生。私のこれまでの死。
 時間の軸と幅があやふやになってしまった記憶の渦は私を混乱に叩きこみ、態勢を整えるまでしばし時間を要する。だがのんびりしている暇はない。子を産んだばかりの母を囲んだ人々が顔を顰め、嫌悪の表情と共に私を見つめ、石を投げ始めるまでさして時間は残されていないからだ。
 未熟な身体を使って、私は再びこの地を旅し始める。大地を裸足で踏み、そよぐ風を感じる。そして混乱した記憶の中から、ひとつ、ふたつと必要な情報を拾い上げようとする。
 思い出す顔も曖昧だ。私と利害関係にある者。私が使っている者。どこか遠くで、懐かしい声で泣いている者。誰かが泣いている。暗闇でひとりぼっちになってしまい、肩を震わせている子。ああそうだ、彼は私の子どもだ。今すぐ彼の傍に行って、抱きしめてやらないと。彼には私以外に守ってくれる人間がいないのだ。
 すすり泣く声に導かれるように、私は歩を進める。彼の顔を再び思い出すために、私は前を向いた。


     30
 昨夜の馬鹿騒ぎの気配を残す甲板には、疲れ果てて眠り込んでしまった人々がゴロゴロと横になっていた。親切な少女が被せた毛布を鼻先まで引き上げ、人々は夢の中に沈んでいる。
 むくりと起き上がった誰かが、眠い目を擦りながら言った。
「夜が明けるぞ!」
 その声に導かれ、俺もまた瞼を開けた。遠く空の果てで、紺色の夜空に引かれている一直線の白い筋。薄く淡い色彩の帯が幾層にも重なり、やがて黄金となって空に広がっていく。
 冬の空気が頬を撫で、産毛を震わせた。透き通る青を仰ぎ見ながら、そこにある気配を感じていた。
 彼は後ろから俺の肩を掴み、耳元に唇を寄せる。吐息が耳にかかり、俺はくすぐったさに含み笑いをこぼすのだ。
『新しい年だ。ラガッツォ、今度はどんな街に住みたい? そういえばこんな話を聞いたんだ。北の町に、どこまでも凍りついた大地が広がっていて、ポプラの並木が続いているというよ――』
 彼はきっと俺に微笑みかけるだろう。少し冷えた手が優しく俺の頬を撫でるだろう。
 けれど、俺はもう彼の手を握れない。



     31
 渇いた喉で唾を呑み込む。身体の奥から滲みだした汗が顎から滴り落ちた。湿気に満ちた森林では汗が蒸発せず、熱がぐるぐると身体に溜まっていく。
 女が歌っていた。肌も露わな服とも呼べない布切れだけを纏った女たちが歌い、踊りながら歩いていた。長く聞いていると脳髄が痺れ、身体が麻痺してしまいそうだ。その祠はそんなに大事なのかと聞いた。魔物に襲われる危険を冒してまで祭らないといけない祠なのか。
 あら、その魔物から私たちを守るのがあなたの仕事でしょ。
 私たちは、偉大なるおとうさまを崇めているの。私たちは私たちをお創りくださったおとうさまを慰めるために、踊って歌ってあげないといけないの。彼はいつもさみしがっているから。
 女が俺の腕を取りしなだれかかる。柔らかな胸が押し当てられる。人間の体温が俺を抱きしめる。
 アイツとは全く違う温度。アイツとは全く違う身体の硬さ。
 あなたにもいるでしょう、大好きなお父さんが。
 蒸発しない熱が身体の中で渦巻く。いつか抱いた欲が腹の内側で滴り落ちる。
 いない。俺にはいない。
 俺が愛した父親は、もうこの世に存在しない。

     32
 多くの手が俺に伸ばされた。その手は俺の髪を引っ張る。頬を抓る。打ちのめす。関節を逆の方向に引っ張り、内臓を潰す。
 刺青の刻まれた手が、俺を抱きあげた。彼は俺の頭を撫でた。手をつないだ。彼の手には体温があった。幼い俺はそのぬくもりこそ俺が求めていたものだと知った。彼の手が指さす方向には常に未来があった。
 強い風が吹く大地で、彼の指に俺の指を絡めたとき、世界は完結したと思った。慎ましく光り輝く星の下、これからはずっとふたりでいられるのだと俺は無邪気に信じていた。
 彼の手が俺の手を持っていってしまったときも、俺に後悔などなかった。けれど彼の手は俺にとどめを刺してくれなかった。
 暗闇のなかで、誰かが俺の頭を優しく撫でてくれる。
 垢まみれの指が天を指す。終末はきたれり……。
 天は割れ、我々の上に降り注ぐだろう……。
 終わりはこない。
 様々な手が俺に伸ばされた。彼らは虚ろな俺に偽りの手を作り上げた。彼らは俺に油を差した。彼らは立ち上がった俺の肩を叩き、勇気づけるように背中を撫で、そのしなやかな手で零れる涙を拭っていった。
 そして新たに作られた俺の手は、彼の背を押した。俺は、愛したひとを空の底へと導いた。
 フェルディナンド。俺はあなたの最後の体温を感じられなかった。俺の手をあなたが持って行ってしまったからだ。
 フェルディナンド。あなたが最後俺に縋ったなら、きっと俺はあなたを手放せなかった。あなたから伸ばされた手を突き放すなんて、俺にはきっとできなかっただろう。けれど、あなたは俺に手を伸ばさなかった。
 だから、この話はこれ以上続かない。


     33
 夢を見る。いつも同じ夢を見る。
 深い森が夜に包まれている。世界はとても静かだ。足音がひたりひたりと夜に響く。森の奥の闇から、異形の怪物たちが次々に姿を現す。
 何本もの足を持つ獣。ひとつ目がぎょろりと世界を睨む。幾枚もの翼を持った羽毛の塊が空を飛んでいる。三叉の鉾を担いだ巨人が足で地面を揺らす。すべて彼が夜に語って聞かせた怪物。彼が声で命を吹き込んだいきもの。彼らは森を守るように周囲を威嚇する。恐ろしい牙を見せ、黄ばんだ歯から涎が飛び散る。彼らは叫ぶ。
 叫ぶ。次々に叫ぶ。歌うように、木霊するように。声を重ね、轟かす。やがて森の奥から声がする。哀しみに満ちた声が細く長く夜空に響く。狼が泣いている。大切なものを失くしてしまった、愛するものを失くしてしまった、帰ってきてくれ今すぐ俺のもとへ! 世界は形を変え、喪失は永遠となった。あなたが不在の世界を生きることに耐えられない、あなたがいないことに耐えられない。この身は息をするたび引き裂かれ、朝目を開けるたび焼き尽くされる。亀裂の入ってしまった世界は傷口を晒し続け、俺の居場所はどこにもない。
 あなたは今どこにいるんだ。何故俺を迎えに来てくれない。
 失ったはずなのに、この世界にはあなたの形がありありと残っている。世界のあちらこちらに散らばっている。どの地を踏んでもあなたの姿を思い出す。あなたが語って聞かせた声が柱となり、あなたの掌が屋根となり、あなたの瞳が太陽となって僕の世界は出来ている。
 恋しい。あなたが恋しい。
 もうこれ以上あなたのいない世界を生きられない。こんな思いをするなら命を与えられたくなかった。あなたに救われたくなかった。あなたの体温を知りたくなかった。
 あなたのせいだ。
 狼は泣く。喪失の苦しみに泣く。彼は森の奥で泣き続ける。
 その声を聞く者は、誰もいない。森は静寂に包まれている。


     34
 人々が噂する。口から口へ、影から影へ。彼らはこっそりと伝え合う。決して聞かれてはならぬと。人々の間を漂った噂は、やがて漂着する。決して聞かれてはならぬ人間へ。
 食堂の隅で、廊下の影で、武器庫の片隅で、俺は伝え聞く。人々の間に膾炙する噂を。
 ――死人が蘇ったらしい。確かに見たと誰かが言っていた。知り合いが見たといった。
 死んだ人が歩いているのを確かに見た。彼は確かあなたの、
 俺は人々に笑ってみせる。そんな噂、見間違いだ、冗談を言われたのさ、嘘をつかれたんじゃないかァ?
 親しい人が俺に向けてくる眼差しが鬱陶しい。俺の心の奥底を見通そうとする視線が纏わりつく。
 俺は部屋でベッドに腰掛け、身じろぎせずに部屋にあるクローゼットをじっと見つめる。その扉の奥に眠っているものを頭に思い描く。
 何年も、何年も運び続けてきたくたびれた旅行鞄。それをもって、俺はアイツと旅をした。空を飛び回ってきた。
 俺はどうしてあの鞄を棄てなかったんだろう?
 アイツが選んだ店でアイツが仕立てた鞄だ。丈夫だからまだ使える、こんな仕事だ、旅をすることはまだあるだろう、鞄に罪はない、次々湧き上がる言い訳に身を任せる。俺は決して直視しない。
 アイツと共に作り上げた思い出を棄てられない己を直視しない。


     35
 仕事をした。命ぜられるままに任務をこなした。仲間と笑い合って日々を過ごした。酒を飲み、拳を振るい、艇で眠り、新しい島に降りた。
 どの島に行っても感じていた。ひとりの男の気配を。
 がむしゃらに働いた見返りとして、古い旅行鞄の中に金貨が貯まっていった。俺は金を使わなかった。使わなくても生活はできた。俺は仕事の報酬を全て旅行鞄に放り入れた。金貨の入った革袋ごと。いつしか旅行鞄はずっしりと重くなっていた。
 鞄を持ち上げるのも難しくなったある日、俺は思った。
 潮時だ。もう俺がこの場に留まる意味はない。
 なァ、アンタが言った通りだったな。
 俺には居場所がないみたいだ。
 いま、ここに俺の居場所はない。アンタが持って行ってしまった。空の底へ、俺のこの世界の居場所ごと落下してしまった。
 俺にはもうわからない、自分がどう生きればいいのか、アンタがいない世界をどう生きればいいのか、考えて考えて考え続けたけどわからなかった。
 でも、だからどうだっていうんだァ? アンタも地平から蘇ってふらふらしてるらしいじゃねェか。死にきれずこの世を彷徨う亡者同士、俺たち似合いの存在だ。笑えるぜ。
 俺には難しいことなんてわからない。だから旅をする。
 かつて一緒に世界を廻ったように、今度は俺ひとりで旅をする。アンタが見ていた景色を辿り、アンタが巡らせていた思考を理解しようと大地を踏みしめる。
 なァ、知ってるぜ。アンタが語って聞かせた「俺たちの未来」なんてどこにも存在しなかったんだろ。
 アンタには遂に理解できなかったんだ。そこにあるいまを認めて根を下ろすって生き方も、傍にいる人を愛すってことも、人を愛した果ての慟哭も、アンタには理解できなかったんだ。
 でも構わない、どんな生き方をしようと俺たちは確かに生きていた。そして今だって、俺たちはいま、ここでやっていくしかない。俺はいつかアンタに追いつく。そして言ってやるんだ。アンタとの暮らしはまるで暴風が荒れ狂うようで、振り回されて、ついていくのに必死で、でも俺の心臓は力強く脈打っていた。


     36
 家を探しているんだ、と告げた。しばらく滞在するための小さな家を。
 男は俺の言葉に首を振り、悪いことは言わないからこの島はやめなさい、といった。彼は続けた。
 この地には災いが満ちている。
 始まりは嵐だった。すべての家の屋根を引きはがし持っていく。家は柱ごと倒れ、巻き込まれた人々の身体は傷ついた。旱魃が次に襲った。川は干上がり、作物は大地にならなくなった。痩せ細った果実は実ることを知らず腐り溶け落下してしまう。家畜たちは疫病に倒れていった。我々は幾多もの亡骸を埋め弔った。
 多くの人はこの地を捨て離れていった。人々の心は乱れ、互いに争い始めている。
 この地は呪われてしまったんだ。最早だれも平らかに過ごすことはできない土地になってしまった。
 旅人よ。この地に根を張ることはない。新しい土地に行きなさい。もっと優れた場所があるはずだ。
 君が生きるにふさわしい地があるはずだ。


     37
 目深にローブを被った人たちが行進する。深い夜の闇の中、人々は歩き続ける。行く当てもないまま、明かりを灯したカンテラを翳し、足を前に踏み出す。
 人々はどこまでも列を作っていた。暗闇に浮かぶ灯火は、まるで海を漂う漁火のようだった。
 彼らは口々に言う。この地は災いに満ちている。我々は行くべきだ、祝福された土地へ。
 栄光の地に行こう。進もう。我々は行こう。
 選ばれし者のみが行ける栄光の地へ……。

 俺は彼らが唱える祈りの言葉を閉ざすようにカーテンを引いた。
 旅行鞄を開け、中から荷物を取り出す。数日分の着替え、険しい山を歩くための靴、洗い晒しのタオル、封を開けてしばらく経った食べ物のパッケージ、義手に差すための機械油、草臥れた本に筆記具。
 俺はこの地で一軒の家を見つけた。尖った屋根に、個性的な形をした煙突が突き出ている小さな家だ。まるで玩具のような家を、俺は格安の値段で借りることができた。ここに住んでいた夫婦は、この島に耐えられなくなって去ったのだと家主は言った。
 相応しい場所じゃないか。
 誰もが逃げ出そうとしている、この災いに満ちた地から。
 俺はここに居場所を見出す。祝福された土地に選ばれる行儀のいい生き方なんてしてこなかった。俺は引き裂かれる大地を踏みしめ、割れる天を指さし、破局する世界で災いよきたれと願っている。俺が生きるべき地はここだ。俺は待つ。
 終末と共にきたる、災いのような男の到来を待っている。
     38
 赤子の泣き声は、まるで世界に知らせを告げる喇叭のように響き渡る。眩しい光が世界に満ちていることを瞼越しに感じる。
 混乱する記憶の渦の中、手を伸ばした。
 誰かが、私に手を伸ばしている気がした。
 人々が様々な名で私を呼ぶ。数多ある私の名。私は何度も名付けられ、何度も忘れ去られた。
 身体が膨張する痛みに耐えながら、私は立ち上がる。失うことには慣れている。また新たに作ればいい。
 所属すべき組織も、目指すべき目的も、仲間も家族も身体も新たに作ればいい。世界は無限だ。私は何度でもやり直す。
 恐怖に満ちた眼差しに追い立てられ、人々の手に拒絶され、夜道を進む。遠く、山の奥で狼が遠吠えを繰り返した。
 ふと、私は思い出す。かつて私の子どもとして育てた少年のことを。私は彼になんと呼ばれていただろう。私は彼をなんと呼んでいただろう。
 彼は深く寂しい瞳で私を見上げた。どこまでも私の後ろをついてきた。雪の深い夜に、彼は私に守られ深く眠っていた。
 彼は今も生きているのだろうか? この世界の何処かで息をしているのだろうか?
 最後に見た彼の顔を思い出す。
 彼だけが、この世界で唯一、私を見て哀しんでいた。
     39
 街外れの集落に辿り着く。小さな家々が肩を寄せるようにひしめき合い、人々は息を殺して生きている。
 通りに人影はなく、住む人のなくなった建物が荒れた姿を晒している。野犬が腐りかけの肉を咥え走り去った。
 偉大なる存在が我々を救済してくださるだろう、と書かれたビラが家の扉から外れ飛び去った。
 私は一軒一軒を念入りに調べていく。求めるものは家族だ。頑丈な父親と、たおやかな母親と、可憐な子供がいる家庭がいい。
 だが、この地に私の求めるものはなさそうだった。
 最後、外れた土地で私は小さな家を見つける。濃い色をした、尖った屋根に個性的な形をした煙突が突き出ている。まるで玩具のような家だ。私はかつて、こんな家を借りては家族ごっこを繰り返した。
 固くカーテンが閉ざされた家の中で、誰かが動く気配がする。
 私は酷く懐かしい気持ちになり、門扉に手を掛けたままじっと通りに立ち尽くしていた。
 やがて、中から誰かが出てこようとする気配がする。
 私はその場に立ちながら、遠くから響く狼の声を聞いた。
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