グラブル(フェルラガ)
「人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。」
――マタイによる福音書24:31
1
「最後の審判のとき、喇叭が鳴ると書いてあった」
僕は表紙に革が張られた重い本を机の上に置いた。図書館で借りてきた本は数多の人々の手に触れてきた影響で独自の艶を持ち、糸でかがられた背は綻びかけている。黄ばんだ紙から、埃くさい臭いがした。
「僕にはちゃんと喇叭の音が聞こえるだろうか?」
フェルディナンドは眉を軽く顰め、指を組んだ。彼は椅子の上で姿勢を変えると、僕と向き合った。
「その音はおおきな、と書いてあるけれど、私たちにとっては、とても小さな音だろうね。遠く、果てのような場所で鳴って、囁き声よりも小さな音で世界に響くんだ。聞くためには、じっと耳を澄ませないといけない。きみは、その音が聞きたいのかな?」
聞く聞かないの問題ではないのだと思った。その音が真実鳴るなら、僕は耳を澄まして目を開けて、必ず聞かなくちゃいけない。
行く道を、間違えてはいけないのだから。
「大丈夫だよ、ラガッツォ。喇叭の音がしたら、パパが教えてあげよう。今鳴った、耳を澄ましてご覧と、教えてあげるからね」
2
僕の暮らしは旅行鞄のサイズをしている。鞄に収まるだけの服、下着、靴下、替えの靴、タオル、パジャマ、本とおやつ――それで仕舞いだ。
重い荷物をフェルディナンドは嫌った。だから僕は物を持たない。彼はなんでも欲しいものをくれる。それを僕は置いていく。
僕たちは旅をしている。ひとつの家に住み続けるということはしない。フェルディナンドの仕事に合わせて、家を転々とする。艇に乗り、島から島へと渡る。密集した木々が生い茂る蒸し暑い島から雪の積もる島へ、砂漠から都市へ、聳える山の麓から煌めく波がしぶく海へ。
ある日甲板から流れる雲を眺めていると、渡り鳥たちが隊列を作って空を切り裂いていった。彼らの姿はすぐに雲に隠れてしまって見えなくなる。
「私たちも同じだよ」とフェルディナンドが言った。
彼は僕の後ろに座り、本を捲っていた。眩しい日差しがじりじりと僕らを焼いていた。
「私たちも季節によって場所を変える。生き方が同じなんだ、彼らとね」
遥か彼方まで広がる大空を見つめる。青は揺らいで細やかに色を変え、宙に浮かぶ島々を抱いていた。
「だから僕たちには家がないの」
「すべてが家なのさ。この世界のすべてを家として、私たちは生きるんだよ」
3
僕たちが新しい街へ行くと、彼らが来た、と人々は顔を顰める。フェルディナンドは僕をそっと外に追いやった。彼は「仕事」をする。僕はそのあいだ時間を潰す。
夕日の差す公園でボールを追っかけていた少年たちが、またあした、と口々に言い合って散っていった。
僕は落ち葉の舞い散る公園の遊歩道を歩いた。革靴で道端の石ころを蹴ると、石は軽い音を立てて溝に転がり落ちていった。
人々は僕たちを嫌う。かつては人々が「僕」を嫌悪した。価値のないもの、役に立たないものだと言った。今は違う。今は人々が「僕たち」を嫌う。フェルディナンドもまた人々から嫌われている。けれど、彼はかつての僕のように無価値だから厭われているのではない。彼が誰にも理解できないことをするから、人々は彼と彼に付随する僕を拒絶するのだ。
「居場所がないと感じるのは正しいんだよ」とフェルディナンドは言った。
「私たちは未来に向けて旅を続けているのだからね。いま、ここに居場所がないことで悩むことはないんだ。きみの居場所はいずれ用意される」
僕はその言葉に嬉しそうな表情を浮かべ頷いてみせたが、彼の言葉が真実なのか僕を騙すための嘘なのかなど気にしていなかった。彼は知らなかったのだ。僕の居場所は既にできつつあった。人々が彼を嫌うように、彼もまた嫌っているこの世界に僕の居場所を見出しつつあった。僕はなにもいらなかった。
フェルディナンドの隣にいられるなら、未来なんていらなかった。
4
包丁と火の使い方は同時に覚えた。
「こんなにも幼い子が覚える必要があるのかな」
フェルディナンドはいつまでも渋っていた。
「だったらフェルディナンドがいなくなるとき、食事くらい用意していけよ。僕はアンタがいなくなったら、ずっと冷えたパンと冷えた野菜とハムばっかり食べる羽目になるんだ。スープのひとつも用意できない不自由をアンタはどうにかしてくれるのか?」
僕は呆れた口調で言いながら卵の殻を割り、鍋の上に中身を落とした。黄金色の半球がなめらかに表面をすべっていく。
「諦めろよ、子供はいつか大人になるんだ。親がひとりだったら、その時期は早まるんだよ」
「この子はまた、知った口をきいて……」
フェルディナンドは溜め息をついて、僕の手に彼の大きな手をそっと添えた。
「火から目を離してはいけないよ。包丁を使うときは添える手を丸めて。そう……」
彼の吐息が耳を擽る。大きな掌が僕の手の甲を包み込む。彼の体温に心臓が跳ねた。
「なあ」
「うん? なにか難しかったかい?」
僕は口ごもりながら言った。
「でも、僕は、フェルディナンドが作ってくれるごはんが世界でいちばんすきなんだよ」
5
口の中に入りこんできた砂がじゃりじゃりと音を立てた。呼吸をするたびに熱風が肺に満ち、身体の隅々まで巡って焼き尽くしていく。
一面を砂で覆われた大地を歩いていた。火傷しそうな太陽が、風が、地表を舐めてじりじり焦がしていく。
汗でぬめる手で旅行鞄を持ち直し、前を行く広い背中に声を掛ける。
「街はまだなの?」
いつも通りの服を着た――流石にコートは脱いでいたが――フェルディナンドは汗ひとつかかずに、僕を振り返ると涼し気な微笑みを浮かべて返事をした。
「あと三十分くらい歩いたら到着するよ」
「ええー」
僕は重い足を止め、天を仰いだ。緑ひとつない、砂に覆われた褐色の大地。不意に風が起こり、砂が巻き上げられる。
「仕方ない、水をあげるから少し休もうか」
フェルディナンドが僕の肩を叩き、そっと頬を撫でた。彼の手の冷たい温度が、まるで氷河から削りとられた氷のような気配を纏い僕の腹の底まで落下していった。
6
暗闇にはなにかが棲息しているのだ、と彼に告げたとき、彼は僕を笑わなかった。そうだね、と同意さえした。
「だから夜に歩くときは気を付けないといけないよ」
そう警告した彼は深い闇の中を歩いている。じっとりとした明かりのない暗闇が僕たちを隙間なく包み込んでいる。
遠く、街の明かりが浮かびあっていた。縋るもののない小島のように頼りなく、けれどそこに人がいることを知らせるように。
僕たちは前も見えない道をただ歩いていた。周囲に街灯はなく、空に星さえ浮かんでいない。彼は時折うしろを振り返り、僕が確かについてきていることを何度も確かめた。
道の脇で、なにかが蠢く。獣たちの息遣いが聞こえる。彼らはじっと狙いを定め、今にも僕たちを食らわんとしているのだ。不安になった僕はフェルディナンドに手を伸ばした。大きな掌を掴むと、彼は彼の体温と共にぐっと力強く握りしめてくれる。
心があたたかな液体で満ちる。
僕はどこにでも行けるのだと思った。
彼と手をつないでさえいたら、おそろしいものなどこの世に存在しなくなる。暗闇でさえ栄光に輝く一本の道になるのだ。僕たちが歩くべき道を、僕は胸を張って進む。この世に真の闇など存在しない。明かりを亡くした世界で、ただフェルディナンドだけが輝いている。
7
「この家には幽霊が出るんだってさ」
僕の言葉を聞くと、僕のより二回りは大きい旅行鞄を開いていたフェルディナンドは目を細めた。
「へえ、誰がそう言ったんだい」
「裏の家に住んでる男の子。この家には幽霊が出るんだって。二階にある窓」
僕はちらりと薄暗い階段とその先にある踊り場を見つめた。古びた木で組まれた家には冷えた空気が漂っている。
「そこから道路を見下ろす人影を何人も見たんだって」
フェルディナンドは少し首を傾げると、唇を緩ませた。
「ラガッツォ、その幽霊に会ったら何をしてほしいのか聞いておいてくれないかい?」
「ええ、嫌だよ。こわいし。会いたくない」
「そうかな」
フェルディナンドはシャツを畳みながら言う。
「どんな幽霊もパパは怖くないよ。始まりは誰かに愛された記憶を持つ、ただの人間だからね。無闇に怖がらないで、相手の話を聞いてみてもいいんじゃないかな」
僕は息を詰め二階を見上げる。小さな嵌め殺しの窓から空が覗いている。
「それでもやっぱり、家に知らないなにかがいるって、なんかやだなァ」
8
「なんだ、随分と早く帰ってきたんだね。結局国立図書館には行かなかったのかい?」
「いや、行った。行ったんだけどよ」
俺は外套を放り投げるとソファに腰掛け、足を組んだ。
「なんか無駄にでかくてさ。広いし、本は多すぎて何がどこにあるかもわかりゃしねェし、人が多くて段々頭がぼんやりしてきて」
「一応、この国の首都にある一番大きな図書館だからね。歴史もあるし蔵書数も近隣では一番だと聞く。栄えているんだろう」
「なんでか怖くなってくるんだ。歩いても歩いても本棚が途切れない。上にも下にも左にも右にもずっと背表紙が並んでる。こんなに沢山の本を溜め込んでどうするんだ。誰がこんなに読むんだ、人はどれだけの本を生きてるうちに読めるんだ、どれだけの知識がこの世にあるんだ、って。んで、もう何も読む気にならなくなったんだ、変な話だけどよォ」
「別にいいんだよ」
フェルディナンドは静かに言った。
「図書館に行って本を読まない自由だって我々にはあるのだから。本がある場所に行ったからといって本を手に取らなければならない決まりはない。きみは自由なんだよ、ラガッツォ」
「……自由ってそんなにいいもんかな」
フェルディナンドは微笑んでみせた。
「行く場所も食べるものも読むものも、アンタに指図されたいって思うときがたまにあるよ」
「きみは、いい子だからね」
9
不格好な猫だった。背中に広がる模様は歪で、顔は一度押しつぶされてから手で無理矢理直されたようなかたちをしていて、尻尾は何段にも折れていて、餌を前にしたって愛想のひとつもなかった。
それでも俺はその猫が好きだった。その街でできたただひとりの友人だったからだ。
彼は気分屋だった。好きな場所で寝て、好きな相手と愛し合って、勝手気ままに他の猫と喧嘩した。そして彼はいなくなった。
俺が街を去る二日前に、ふとその姿を消したのだ。
「どこにいったのかなァ」
俺は鍵を掛けた旅行鞄を持ち上げながら、割り切れない思いで借家の窓を閉めるフェルディナンドに声を掛けた。そうすることで、出立を五分でも遅らせようとするように。
「彼には彼の人生があり、私たちには私たちの人生があるんだ。それが重なれば嬉しいだろうけれど、ラガッツォ、執着してはいけないよ。私たちはひとつの所に留まれないのだから」
俺に向き合ったフェルディナンドが手を伸ばして頬を撫でる。むずかる子供を宥めるみたいに。
「きみは彼の人生に責任を取れないんだ、その意味がわかるかい? さあ、そろそろ行こう」
俺は猫がよく出入りしていた窓をちらりと見遣り、やがて目を閉じた。静かに息を吐いて、フェルディナンドのあとを追った。
10
終わりなく雨粒が天から降り注いでいた。長雨に乾くことを忘れた屋根から、水滴が滴り落ちている。硝子には無限に無秩序な線が描かれ、湿った匂いが街中に充満していた。
テラスの傍の薄暗い席で、私たちは出されたばかりの朝食を前にしていた。
ラガッツォは口を閉ざしたまま、苛々とフォークでスクランブルエッグをつつきまわしている。彼の小さな手から、銀色の大きなフォークがはみ出してしまいそうだ。
「食べないのならやめなさい。お行儀の悪い」
私が咎めると、彼はムッとした表情をあからさまに浮かべ、しかし動かす手を止めた。
彼には時折嵐が訪れる。彼の心をかたちづくる小さな瓶のなかに、手綱の取れない嵐が訪れるのだ。それは些細な切欠で顕れる。
大事にしていたタオルをどこかで失くしたこと。歩いている最中に靴紐が切れてしまったこと。食べようと思っていたものが売り切れだったこと。
他にも数えきれない小さな出来事で、彼は爆発し、感情の行き場を見失ってしまう。口にすべき言葉を忘れ、褒められる振る舞いを忘れ、私に向かって拒絶を露わにする。
けれど、それでいいと私は思っていた。きっとこれは時間が解決する類のものなのだ。彼が順調に成長し、大人への階段を踏み外さずに上っていけば、いつか思い出すこともなくなるだろう小さな反抗。
「お腹が空いているならきちんと食べてしまいなさい。今日は幾つも行くところがあるのだからね」
彼の慎ましい形をした利発な耳は、私の言葉を逃さず聞いているだろう。彼にとって私の言葉が持つ重みを、私は知っている。
「長い雨だ。私たちが旅立つ頃には、上がっていてくれるといいのだけれどね……」
天は晴れることの意味を知らないかのように、鈍い色をした雫を落下させ続けていた。
11
誰もが見ないふりをしていた。さりげなく顔を背ける通行人の中心で、彼は天を指さし、声高に叫んでいた。
「終末はきたれり。神は私たちを救い給う。祈れ、道を誤らぬために」
何日も風呂に入っていない出で立ちをしていた。男は擦り切れたローブを被り、縺れた髪を垂らし、白いものの混じる髭を伸ばしたままにしていた。
彼は垢に汚れた爪で天を指さし、叫んでいた。彼は叫んでいた。けれど救済の言葉を誰にも聞かせるつもりはないようだった。
彼は彼自身を救うために叫んでいたのだ。
泥にまみれた素足で大地を踏みしめ、煌々と輝く太陽に照らされた舞台の上で終末を説く男の隣を、フェルディナンドは平然とした表情で通った。
俺もまた顔を伏せ、男と目を合わさぬようにしながら通りを進む。背後から言葉が追いかける。終末はきたれり……。
その言葉の裏には、慟哭が潜んでいる気がした。
12
しんぴんになってる、と俺はよく揶揄った。
フェルディナンドは書き置きを残さずに姿を消すことが度々あった。そのときは唐突に訪れ、俺は数日間ひとりぼっちになる。不安を抱いたままひとりの家で変わらない日常を送る。このまま一人残されるのだと密かに絶望する。
そして数日後、何食わぬ顔をして帰ってくる彼を家に迎え入れる。けれど、俺たちにはいつもとは違うところがひとつだけある。
彼の肌に刻まれた刺青がきれいさっぱりなくなっているのだ。
どうしてそんなことになるんだ、と幼い頃訊ねた。
「知らなかったのかい? パパは魔法が使えるんだよ」
嘘つくなよォ、そんな魔法聞いたことないぜ。
そう言って彼の帰還に喜びじゃれつく俺を、フェルディナンドはやさしく抱きとめてくれた。言葉なく彼の胸に顔を埋めると、やさしい匂いが俺を包んだ。
それからというもの、俺は彼が帰ってくるたびに新品のフェルディナンドが帰ってきた、とアイツを揶揄う。彼のまっさらな肌に再びインクを刻み込ませる針先を眺めることさえあった。
俺は俺のもとに帰ってきた彼のまっさらな手の甲を撫でることを好いていた。
彼の手を言葉なく撫でる静謐な時間。そのときだけ、この世界には俺たちしか存在しないと感じられた。
13
この井戸は昔から水が出ないんだ、と村人は言った。
なんでもこの井戸を掘った男は井戸を掘ることが人生で一番の愉しみだったらしい。それでこの国の、この島の、ありとあらゆる場所に井戸を掘った。それは住民たちの助けにはなったさ。彼が掘ったという言い伝えの残っている井戸がこの辺りには幾つもある。俺たちはその水で生きてる。
けれど彼は井戸を何本掘っても満足しなかった。そして最後、彼はこの井戸を掘った。夢中で掘っていた彼は気づかなかったんだ。ここに水はなく、いつしか島の底に到達してしまったことに。
彼は島の底に空いた穴から空の底に落下してしまったらしい。そして、だから、この井戸からは水が出ないという訳さ。だってこれは、ただのトンネルなんだからね。
「本当かァ? その話」
さあ、あくまで言い伝えだからね。覗いたところで暗闇しか見えないしさ。降りてみるかい? 島の底まで、行けるかもしれないよ。ま、そのまま下に落ちてしまうのがオチなんだけど。
「変な話が伝わってるもんだなァ」
「降りてみたかったら降りてみてもいいんだよ。私はここで待っているから」
「イヤに決まってんだろォ。人に降りさせようとするのは卑怯だぜ」
14
「図書館で借りてきた本がよォ」
俺はレタスの葉を千切りながら隣に立つフェルディナンドに話しかけた。
「俺が生まれる前に書かれてたみたいでさ、発行日が俺の生まれた年だったんだよなァ」
「ふぅん。少し前……のような気がするけど、もう随分昔の本になってしまっているんだろうね」
「俺が生まれた頃ってどんな時代だったんだ?」
「うーん、よく覚えていないなあ。そのとき住んでいた帝国の山が噴火した年だったかな? あれ、あれは随分前かもしれないなあ。あ、前にパパの友達に会っただろう。彼と知り合ったのもそのくらいだったような気がするけど、どうだったかな……」
俺は人参の皮を剥きながら、横目でフェルディナンドの指先を眺めた。
「思ってたんだけどよォ、アンタ記憶力だいぶ怪しいよな。何聞いてもあやふやなことしか言わなくないか。仕事のしすぎじゃねェだろうな」
ははは、とフェルディナンドは笑ってみせた。
「仕事であっちこっちに行っているから、国も島も出来事もごっちゃになってしまっているんだろうね。大丈夫だよラガッツォ」
何を忘れてしまっても、きみのことだけは覚えているよ。
15
世界中に紙吹雪が舞っているようだった。空高く飛ぶ飛行艇から、紙片が吹雪のように舞い落ちてくる。色とりどりのインクで刷られたチラシには「来たる、移動サーカス! 革命的演技到来」と謳い文句が躍っている。
中心では空中ブランコに乗った少女が飛び跳ね、周囲を珍妙な動物たちが囲んでいる。なんでもこのサーカス団は魔物まで手懐けているらしい。
火吹き、回転木馬、剣を腹の底まで呑む男。牙をむく猛獣。
「色んな催し物が世間にはあるんだなァ」
「見たいかい?」
「興味……はあるけど、これがここにくるの三日後だぜ。俺たち、明日には発つんだろう」
フェルディナンドは目を細め、宙を見上げた。
「私たち、近頃少し働きすぎだと思わないかい?」
「つまり?」
「つまり、今日と明日の定期船が満席で、私たちはチケットが取れなかったんだよ」
へへ、と俺は共犯者の笑みを浮かべ、宿泊の予定を延長するって言いに行かなきゃな、と呟いた。
16
一歩足を踏み出すたび、さらさらとした新雪に足が埋もれる。頭痛がするほどの寒さに、耳が千切れそうだった。視界はずっと晴れない。強い風が絶え間なく顔面に吹き付ける。鈍色の雲が空一面を覆い、雪山の表面に風雪が叩きつけられては舞い上がっていた。
遠くで獣が咆哮した。壮絶な苦しみに身を焦がす叫び。
俺は厚い手袋を嵌めた手でフェルディナンドのコートの裾を掴み、山の頂を見上げた。聳え立つ山の上部には渦巻く雲が厚くかかり、隠された内部を見通すことは叶わない。
「心配することはない。星晶獣の声さ。封印が解かれたんだろう」
私たちの目的は彼には関係のないことだ、とフェルディナンドは静かに告げた。
「本当にこんなところに人が住んでたのかァ?」
「どこだって住んでいるよ。人間は世界のあらゆるところに住み、痕跡を残していっている。ほら、ラガッツォ。しっかり歩きなさい。目的地に着いたら屋根がある」
俺は前を行く白髪を嵐の中で見失わないように精一杯追っていた。銀色が滲む世界に、真っ白な彼が今にも溶けて一体化してしまいそうだった。
17
外に出てはいけないよ、と彼は繰り返した。
外に出てはいけないよ、ラガッツォ。狼に食べられてしまうからね。
俺は明かりのない外を窓越しに眺めた。鼻先が窓ガラスに当たり、表面が曇る。呼吸と共に透明な部分が狭くなり、また広くなる。
外には森林が広がっている。明かりのついた部屋から眺める森は、暗く鬱蒼としていて、内部に得体の知れない生き物を沢山抱え込んでいるようだった。
遠く、遠くで狼が鳴く。
「狼がいる」
俺はフェルディナンドを振り返った。
「なんだかとても悲しそうに泣いている」
フェルディナンドは腕を伸ばし、静かに俺を抱き寄せた。
「大切なひとを失くしてしまったんだろう。そんな狼こそ危ういんだ。遠ざかりなさい、近づいてはいけないよ」
夜に泣く狼に近づいてはいけないよ。きみもまた、大事なものを失ってしまうからね。
18
彼は倉庫から古びた椅子を一脚持ってくる。それを俺の向かいに置く。そして彼は言う。
「今日から一緒に暮らす、新しい家族だよ」
それは色々なかたちをしていた。ある者の身長は高く、或いは低く、ある者の髪は金髪で、或いは黒髪だった。けれど皆一様に共通して、同じものを持っていた。
瞳だ。光を失い、絶望に染まった瞳。
俺はそのとき、絶望や、喪失の痛みや、人生で与えられる苦しみは皆似たような色合いを帯びているのだと学んだ。
彼らは家族を亡くし、言葉を失くし、居場所を取り上げられた。そしてフェルディナンドに恐怖している。けれど彼らは笑ってみせる。フェルディナンドに嫌われないために、媚びへつらい、愛想のようなものをぎこちなく顔に浮かべてみせる。
彼らの存在は長くは保たない。気づけば居なくなり、空の椅子が残されている。彼らが生涯の最後に座った、借り物の椅子。
「なァ、これさっさと片付けろよ。また俺たち二人に戻ったんだから」
フェルディナンドが興味の欠片もなさそうに椅子を再び片付けるときに抱く俺の安堵を、世界の誰も知らない。
19
被った布団を翻しフェルディナンドの部屋に駆け込んだ。人間を裁くように空から大地に轟く稲妻が地面に落下し、古い家を揺らす。恐怖に怯え思わず漏れ出た声は、雨音にかき消されたと信じたかった。
「そんなに大騒ぎして、どうしたんだい」
フェルディナンドは既に風呂を済ませて着替え、ベッドに腰掛け古い本を開いていた。傍らに置かれた蝋燭が隙間風に吹かれゆらりと揺れた。
俺は口を閉ざしたままフェルディナンドのベッドの上掛けを捲り、そのまま芋虫のようにベッドの中に入り込んだ。
「かわいい子、雷が怖くなったのかい」
フェルディナンドは俺の身体を布団の上からぽんぽんと叩いた。顔だけを出し、彼を見上げる。彼は目を細め微笑んでいた。
「大丈夫だよ、何があってもパパが守ってあげるからね」
――子ども扱いするな、という抗いは声にならなかった。一際大きな雷鳴が空気を引き裂き、ふっと明かりが消えたからだ。
「ああ、もう今夜は寝てしまおうか。ほら、ラガッツォ。狭いからもっと私に近づいて」
彼の手が俺の背中に回る。穏やかな体温に包まれ、俺は大きく深呼吸した。彼の匂いが全身を巡り、脳を甘やかに溶かしていく。
その夜俺は夢を見た。アイスクリームにとろとろの蜜がかけられる夢。俺は溶けたシロップになり、フェルディナンドにひとくちで食べられてしまうのだ。
20
晴れた空に高らかな鐘の音が響き渡っていた。最低限の家具が置かれた居間、大きな窓。この掃き出し窓を気に入って私はこの家に住むことを決めたのだ。
私は簡素な木製の椅子に腰かけ、よく研がれた鋏を手に、目にも鮮やかな赤色を切り落としていた。
ラガッツォの髪の毛は硬く、丈夫だ。けれど彼の繊細さを表すように、毛先は時折思いもかけないところへうねり、切ろうとすれば意固地に跳ねてみせる。
ラガッツォは言って聞かせなくても静かに椅子に座ったまま、ケープを纏って少し俯きがちな姿勢を取っている。小さな手が椅子の縁を掴んでいた。行儀よく並ぶ爪も、清潔な長さに整えられている。私が週に一度、彼の爪を削り磨くからだ。
退屈したのか、彼の足が前後に揺れる。
「こら、じっとして。もうすぐ終わるよ」
ラガッツォは私の声に足を止め、じっと前を向いた。燃え上がるような赤毛が彼から切り取られ、私の手の上をすべり落ちていく。
まるで新鮮な血液が肌の上を伝うような。
「フェルディナンド。終わったら頭を洗ってくれる?」
甘えを含んだ幼い声がねだるさまは、かわいいものだと思う。 彼は私が手をかけるほど、うつくしい少年になる。きっと彼はこれから、清潔な笑顔を浮かべる青年へと成長していくのだろう。
「今日はパパと一緒にお風呂にはいろうか」
ラガッツォが満足そうに笑う気配がした。人は、こんな光景をしあわせと呼ぶのかもしれなかった。
21
今から行く村では言葉を話してはいけないよ、とフェルディナンドは言った。何故、と俺は問い返した。彼は続けた。
ある宗教を村人全体で信仰している村なんだ。彼らの教団は言葉の使用を禁じているからね。
何の変哲もない村だった。小さく古い田舎の家々が集落に点在し、村人たちは農業や畜産で生計を立てているようだった。
とても静かな村だった。人々はひっそりと暮らしていて、生活する気配すら感じることができない。川が流れ魚が跳ねる水音や、山で木々がさざめく音だけが薄い膜を幾重にも重ねるように村に降り積もっていた。
俺たちは案内人に連れられ、客人用の家に泊まった。そこでも言葉の使用は禁じられていた。フェルディナンドは、なにかを伝えたいとき俺の瞳をじっと見つめた。なぜか、彼の伝えたいことが明瞭に俺の心へ描かれた。俺もまた、彼になにか伝えたいとき、彼の肌に触れた。指先が触れる一瞬だけを、彼は俺の理解に要した。
日に数度鳴る鐘の音を耳にしながら、俺は思った。
俺たちに言葉など必要なかったのだ。俺たちが互いを理解し合うために、言葉はむしろ障害なのだ。もっと知りたい。己の身体を捨てて彼の奥深くまで沈み、内側から溶けあいたい、と。
22
鼻をつんと刺す油の臭いが辺り一面に漂っていた。俺は抱えていた瓶を放り投げると、懐からマッチ箱を取り出し、一本取り出した。
一軒の家の前に俺は立っていた。その家は、昨日まで幸福に満ち溢れていた。仕事熱心な夫と、庭づくりが上手な妻と、ふたりを慕う大きな白色の犬。
夫が違法な商売に手を染めていたことも、妻が金貨を床下にせっせと溜め込んでいたことも、近隣の人々は何一つ知らない。今日彼らがこの世とおさらばしたことも、まだ知らない。
俺は感情なくマッチを擦り、火を油の海に放った。
青白い炎がさっと横に広がっていく。這いずるように家の壁を上り、やがて屋根から赤い火の粉が吹きはじめる。
夜空に火の粉が散る。まるで砕けた星が降り注いでいるようだ。全てを灰に還す炎が大地を走り、ごうごうと音を立てて罪の詰め込まれた家を燃やしていく。
――いつかみた光景。いつかみた家。
俺はこれから何度も家を焼くだろう。それは誰かが暮らした家で、それは誰かが愛した家で、
その家からはいつも幼い俺が俺を見下ろしている。
23
もうアンタとは一緒に寝ない、と言おうとした。俺はひとりで眠る。アンタに子供のように寝かしつけられる必要はない。もう子守唄を必要とする年齢じゃないんだ。
けれど、彼は気まぐれに俺の肩に手をまわす。優しい声で囁く。
「ラガッツォ、今夜は一緒に寝ようか」
その瞬間、俺の心は昂ぶる。そして思い出す。
彼の腕の下には俺の居場所がある。背を丸めて、鼻を彼の肋骨のあたりに擦りつけて、手足を畳んで彼の腕の中に収まると、俺は背骨を抜かれた魚のように弛緩してしまう。
彼の匂いに包まれ理解する。俺はこのひとに守られているのだ。
このひとは母鳥が雛を包み込むように俺を包み込んでくれる。彼の腕の中で俺は微睡む。背中に大きな翼が生え、ありとあらゆる世界を飛び回ることができるようになる甘美な夢に耽る。
俺は彼の腕の下に収まる誘惑に抗えない。それを知り尽くしているかのように、フェルディナンドは肩に回した手に力をこめる。
24
獣が咆哮する音が大気を揺らした。俺たちは飛行艇に乗り、彼方で繰り広げられる光景をただ見ていた。
大地が裂け、砕け散った周縁の岩が地平に落下していく。木々が崩れ落ち、湖は割れ、家々は巨人に引き裂かれるように真っ二つになっていく。
すべてが玩具のように壊され、空の底に落下していく。それは、ひとつの島の終わりだった。島に残っていた人が投げ出され、なすすべなく呑まれていく。
「星晶獣の舵取りを間違えるとあんな風になるんだよ。ラガッツォ、よく見ておくといい。彼らにとっての世界の終わりだ」
動揺を欠片も見せず、いっそ冷酷とさえいえる表情を浮かべて眼前の光景を眺めているフェルディナンドに、内心怯んだ。
俺は言葉を発することもできず、ただ音を立てて唾を呑み込んだ。脂汗ごと拳を握りしめる。
遠く、獣が咆哮した。
理性を失った彼は、長い尾を振り回し、引き起こした暴風と共に島へ最後の一撃を与えた。
25
「アンタがよく聞かせてくれた話、なんだったっけ。なんかこう、喉のところまで出かかってるんだけどよォ」
思い出せねェ、と頭を掻くと、フェルディナンドは思案するように指を顎に当てた。
「昔読み聞かせた話かい? 宇宙人が星から星へ旅する話、王様が冒険する話、星晶獣と女の子が友達になる話、狐が贈り物を探す話? 夜中に転がっていくお城の話もきみは好きだったね」
「ううん、そこまで昔じゃねェ気がするな。あとアンタに関わる話だったような……」
「寒いところ、それとも暑いところ? 色々な話を聞かせた気がするよ。私は色んなところへ行ったから……。氷河を艇で遡った話? ジャングルで巨大魚に食べられそうになって逆に食べた話? 王国で兵隊に捕まって命からがら逃げだして戦った話?」
「……思ったんだけどよ、アンタ俺が子供だからって適当な話ばっかりしてくれたよな。無人島で一ヶ月暮らした話とか、あれ絶対嘘だろ」
「おや、酷いなあ。私が話して聞かせたのは全部実話だよ。多少はそれはね、脚色したり端折ったり色々しているけれど……」
「やっぱり嘘じゃねェか。はあ、なんだったかなァ。もう少しで思い出せそうなのに、アンタが語って聞かせてくれたってことしか、思い出せないんだ……」
――マタイによる福音書24:31
1
「最後の審判のとき、喇叭が鳴ると書いてあった」
僕は表紙に革が張られた重い本を机の上に置いた。図書館で借りてきた本は数多の人々の手に触れてきた影響で独自の艶を持ち、糸でかがられた背は綻びかけている。黄ばんだ紙から、埃くさい臭いがした。
「僕にはちゃんと喇叭の音が聞こえるだろうか?」
フェルディナンドは眉を軽く顰め、指を組んだ。彼は椅子の上で姿勢を変えると、僕と向き合った。
「その音はおおきな、と書いてあるけれど、私たちにとっては、とても小さな音だろうね。遠く、果てのような場所で鳴って、囁き声よりも小さな音で世界に響くんだ。聞くためには、じっと耳を澄ませないといけない。きみは、その音が聞きたいのかな?」
聞く聞かないの問題ではないのだと思った。その音が真実鳴るなら、僕は耳を澄まして目を開けて、必ず聞かなくちゃいけない。
行く道を、間違えてはいけないのだから。
「大丈夫だよ、ラガッツォ。喇叭の音がしたら、パパが教えてあげよう。今鳴った、耳を澄ましてご覧と、教えてあげるからね」
2
僕の暮らしは旅行鞄のサイズをしている。鞄に収まるだけの服、下着、靴下、替えの靴、タオル、パジャマ、本とおやつ――それで仕舞いだ。
重い荷物をフェルディナンドは嫌った。だから僕は物を持たない。彼はなんでも欲しいものをくれる。それを僕は置いていく。
僕たちは旅をしている。ひとつの家に住み続けるということはしない。フェルディナンドの仕事に合わせて、家を転々とする。艇に乗り、島から島へと渡る。密集した木々が生い茂る蒸し暑い島から雪の積もる島へ、砂漠から都市へ、聳える山の麓から煌めく波がしぶく海へ。
ある日甲板から流れる雲を眺めていると、渡り鳥たちが隊列を作って空を切り裂いていった。彼らの姿はすぐに雲に隠れてしまって見えなくなる。
「私たちも同じだよ」とフェルディナンドが言った。
彼は僕の後ろに座り、本を捲っていた。眩しい日差しがじりじりと僕らを焼いていた。
「私たちも季節によって場所を変える。生き方が同じなんだ、彼らとね」
遥か彼方まで広がる大空を見つめる。青は揺らいで細やかに色を変え、宙に浮かぶ島々を抱いていた。
「だから僕たちには家がないの」
「すべてが家なのさ。この世界のすべてを家として、私たちは生きるんだよ」
3
僕たちが新しい街へ行くと、彼らが来た、と人々は顔を顰める。フェルディナンドは僕をそっと外に追いやった。彼は「仕事」をする。僕はそのあいだ時間を潰す。
夕日の差す公園でボールを追っかけていた少年たちが、またあした、と口々に言い合って散っていった。
僕は落ち葉の舞い散る公園の遊歩道を歩いた。革靴で道端の石ころを蹴ると、石は軽い音を立てて溝に転がり落ちていった。
人々は僕たちを嫌う。かつては人々が「僕」を嫌悪した。価値のないもの、役に立たないものだと言った。今は違う。今は人々が「僕たち」を嫌う。フェルディナンドもまた人々から嫌われている。けれど、彼はかつての僕のように無価値だから厭われているのではない。彼が誰にも理解できないことをするから、人々は彼と彼に付随する僕を拒絶するのだ。
「居場所がないと感じるのは正しいんだよ」とフェルディナンドは言った。
「私たちは未来に向けて旅を続けているのだからね。いま、ここに居場所がないことで悩むことはないんだ。きみの居場所はいずれ用意される」
僕はその言葉に嬉しそうな表情を浮かべ頷いてみせたが、彼の言葉が真実なのか僕を騙すための嘘なのかなど気にしていなかった。彼は知らなかったのだ。僕の居場所は既にできつつあった。人々が彼を嫌うように、彼もまた嫌っているこの世界に僕の居場所を見出しつつあった。僕はなにもいらなかった。
フェルディナンドの隣にいられるなら、未来なんていらなかった。
4
包丁と火の使い方は同時に覚えた。
「こんなにも幼い子が覚える必要があるのかな」
フェルディナンドはいつまでも渋っていた。
「だったらフェルディナンドがいなくなるとき、食事くらい用意していけよ。僕はアンタがいなくなったら、ずっと冷えたパンと冷えた野菜とハムばっかり食べる羽目になるんだ。スープのひとつも用意できない不自由をアンタはどうにかしてくれるのか?」
僕は呆れた口調で言いながら卵の殻を割り、鍋の上に中身を落とした。黄金色の半球がなめらかに表面をすべっていく。
「諦めろよ、子供はいつか大人になるんだ。親がひとりだったら、その時期は早まるんだよ」
「この子はまた、知った口をきいて……」
フェルディナンドは溜め息をついて、僕の手に彼の大きな手をそっと添えた。
「火から目を離してはいけないよ。包丁を使うときは添える手を丸めて。そう……」
彼の吐息が耳を擽る。大きな掌が僕の手の甲を包み込む。彼の体温に心臓が跳ねた。
「なあ」
「うん? なにか難しかったかい?」
僕は口ごもりながら言った。
「でも、僕は、フェルディナンドが作ってくれるごはんが世界でいちばんすきなんだよ」
5
口の中に入りこんできた砂がじゃりじゃりと音を立てた。呼吸をするたびに熱風が肺に満ち、身体の隅々まで巡って焼き尽くしていく。
一面を砂で覆われた大地を歩いていた。火傷しそうな太陽が、風が、地表を舐めてじりじり焦がしていく。
汗でぬめる手で旅行鞄を持ち直し、前を行く広い背中に声を掛ける。
「街はまだなの?」
いつも通りの服を着た――流石にコートは脱いでいたが――フェルディナンドは汗ひとつかかずに、僕を振り返ると涼し気な微笑みを浮かべて返事をした。
「あと三十分くらい歩いたら到着するよ」
「ええー」
僕は重い足を止め、天を仰いだ。緑ひとつない、砂に覆われた褐色の大地。不意に風が起こり、砂が巻き上げられる。
「仕方ない、水をあげるから少し休もうか」
フェルディナンドが僕の肩を叩き、そっと頬を撫でた。彼の手の冷たい温度が、まるで氷河から削りとられた氷のような気配を纏い僕の腹の底まで落下していった。
6
暗闇にはなにかが棲息しているのだ、と彼に告げたとき、彼は僕を笑わなかった。そうだね、と同意さえした。
「だから夜に歩くときは気を付けないといけないよ」
そう警告した彼は深い闇の中を歩いている。じっとりとした明かりのない暗闇が僕たちを隙間なく包み込んでいる。
遠く、街の明かりが浮かびあっていた。縋るもののない小島のように頼りなく、けれどそこに人がいることを知らせるように。
僕たちは前も見えない道をただ歩いていた。周囲に街灯はなく、空に星さえ浮かんでいない。彼は時折うしろを振り返り、僕が確かについてきていることを何度も確かめた。
道の脇で、なにかが蠢く。獣たちの息遣いが聞こえる。彼らはじっと狙いを定め、今にも僕たちを食らわんとしているのだ。不安になった僕はフェルディナンドに手を伸ばした。大きな掌を掴むと、彼は彼の体温と共にぐっと力強く握りしめてくれる。
心があたたかな液体で満ちる。
僕はどこにでも行けるのだと思った。
彼と手をつないでさえいたら、おそろしいものなどこの世に存在しなくなる。暗闇でさえ栄光に輝く一本の道になるのだ。僕たちが歩くべき道を、僕は胸を張って進む。この世に真の闇など存在しない。明かりを亡くした世界で、ただフェルディナンドだけが輝いている。
7
「この家には幽霊が出るんだってさ」
僕の言葉を聞くと、僕のより二回りは大きい旅行鞄を開いていたフェルディナンドは目を細めた。
「へえ、誰がそう言ったんだい」
「裏の家に住んでる男の子。この家には幽霊が出るんだって。二階にある窓」
僕はちらりと薄暗い階段とその先にある踊り場を見つめた。古びた木で組まれた家には冷えた空気が漂っている。
「そこから道路を見下ろす人影を何人も見たんだって」
フェルディナンドは少し首を傾げると、唇を緩ませた。
「ラガッツォ、その幽霊に会ったら何をしてほしいのか聞いておいてくれないかい?」
「ええ、嫌だよ。こわいし。会いたくない」
「そうかな」
フェルディナンドはシャツを畳みながら言う。
「どんな幽霊もパパは怖くないよ。始まりは誰かに愛された記憶を持つ、ただの人間だからね。無闇に怖がらないで、相手の話を聞いてみてもいいんじゃないかな」
僕は息を詰め二階を見上げる。小さな嵌め殺しの窓から空が覗いている。
「それでもやっぱり、家に知らないなにかがいるって、なんかやだなァ」
8
「なんだ、随分と早く帰ってきたんだね。結局国立図書館には行かなかったのかい?」
「いや、行った。行ったんだけどよ」
俺は外套を放り投げるとソファに腰掛け、足を組んだ。
「なんか無駄にでかくてさ。広いし、本は多すぎて何がどこにあるかもわかりゃしねェし、人が多くて段々頭がぼんやりしてきて」
「一応、この国の首都にある一番大きな図書館だからね。歴史もあるし蔵書数も近隣では一番だと聞く。栄えているんだろう」
「なんでか怖くなってくるんだ。歩いても歩いても本棚が途切れない。上にも下にも左にも右にもずっと背表紙が並んでる。こんなに沢山の本を溜め込んでどうするんだ。誰がこんなに読むんだ、人はどれだけの本を生きてるうちに読めるんだ、どれだけの知識がこの世にあるんだ、って。んで、もう何も読む気にならなくなったんだ、変な話だけどよォ」
「別にいいんだよ」
フェルディナンドは静かに言った。
「図書館に行って本を読まない自由だって我々にはあるのだから。本がある場所に行ったからといって本を手に取らなければならない決まりはない。きみは自由なんだよ、ラガッツォ」
「……自由ってそんなにいいもんかな」
フェルディナンドは微笑んでみせた。
「行く場所も食べるものも読むものも、アンタに指図されたいって思うときがたまにあるよ」
「きみは、いい子だからね」
9
不格好な猫だった。背中に広がる模様は歪で、顔は一度押しつぶされてから手で無理矢理直されたようなかたちをしていて、尻尾は何段にも折れていて、餌を前にしたって愛想のひとつもなかった。
それでも俺はその猫が好きだった。その街でできたただひとりの友人だったからだ。
彼は気分屋だった。好きな場所で寝て、好きな相手と愛し合って、勝手気ままに他の猫と喧嘩した。そして彼はいなくなった。
俺が街を去る二日前に、ふとその姿を消したのだ。
「どこにいったのかなァ」
俺は鍵を掛けた旅行鞄を持ち上げながら、割り切れない思いで借家の窓を閉めるフェルディナンドに声を掛けた。そうすることで、出立を五分でも遅らせようとするように。
「彼には彼の人生があり、私たちには私たちの人生があるんだ。それが重なれば嬉しいだろうけれど、ラガッツォ、執着してはいけないよ。私たちはひとつの所に留まれないのだから」
俺に向き合ったフェルディナンドが手を伸ばして頬を撫でる。むずかる子供を宥めるみたいに。
「きみは彼の人生に責任を取れないんだ、その意味がわかるかい? さあ、そろそろ行こう」
俺は猫がよく出入りしていた窓をちらりと見遣り、やがて目を閉じた。静かに息を吐いて、フェルディナンドのあとを追った。
10
終わりなく雨粒が天から降り注いでいた。長雨に乾くことを忘れた屋根から、水滴が滴り落ちている。硝子には無限に無秩序な線が描かれ、湿った匂いが街中に充満していた。
テラスの傍の薄暗い席で、私たちは出されたばかりの朝食を前にしていた。
ラガッツォは口を閉ざしたまま、苛々とフォークでスクランブルエッグをつつきまわしている。彼の小さな手から、銀色の大きなフォークがはみ出してしまいそうだ。
「食べないのならやめなさい。お行儀の悪い」
私が咎めると、彼はムッとした表情をあからさまに浮かべ、しかし動かす手を止めた。
彼には時折嵐が訪れる。彼の心をかたちづくる小さな瓶のなかに、手綱の取れない嵐が訪れるのだ。それは些細な切欠で顕れる。
大事にしていたタオルをどこかで失くしたこと。歩いている最中に靴紐が切れてしまったこと。食べようと思っていたものが売り切れだったこと。
他にも数えきれない小さな出来事で、彼は爆発し、感情の行き場を見失ってしまう。口にすべき言葉を忘れ、褒められる振る舞いを忘れ、私に向かって拒絶を露わにする。
けれど、それでいいと私は思っていた。きっとこれは時間が解決する類のものなのだ。彼が順調に成長し、大人への階段を踏み外さずに上っていけば、いつか思い出すこともなくなるだろう小さな反抗。
「お腹が空いているならきちんと食べてしまいなさい。今日は幾つも行くところがあるのだからね」
彼の慎ましい形をした利発な耳は、私の言葉を逃さず聞いているだろう。彼にとって私の言葉が持つ重みを、私は知っている。
「長い雨だ。私たちが旅立つ頃には、上がっていてくれるといいのだけれどね……」
天は晴れることの意味を知らないかのように、鈍い色をした雫を落下させ続けていた。
11
誰もが見ないふりをしていた。さりげなく顔を背ける通行人の中心で、彼は天を指さし、声高に叫んでいた。
「終末はきたれり。神は私たちを救い給う。祈れ、道を誤らぬために」
何日も風呂に入っていない出で立ちをしていた。男は擦り切れたローブを被り、縺れた髪を垂らし、白いものの混じる髭を伸ばしたままにしていた。
彼は垢に汚れた爪で天を指さし、叫んでいた。彼は叫んでいた。けれど救済の言葉を誰にも聞かせるつもりはないようだった。
彼は彼自身を救うために叫んでいたのだ。
泥にまみれた素足で大地を踏みしめ、煌々と輝く太陽に照らされた舞台の上で終末を説く男の隣を、フェルディナンドは平然とした表情で通った。
俺もまた顔を伏せ、男と目を合わさぬようにしながら通りを進む。背後から言葉が追いかける。終末はきたれり……。
その言葉の裏には、慟哭が潜んでいる気がした。
12
しんぴんになってる、と俺はよく揶揄った。
フェルディナンドは書き置きを残さずに姿を消すことが度々あった。そのときは唐突に訪れ、俺は数日間ひとりぼっちになる。不安を抱いたままひとりの家で変わらない日常を送る。このまま一人残されるのだと密かに絶望する。
そして数日後、何食わぬ顔をして帰ってくる彼を家に迎え入れる。けれど、俺たちにはいつもとは違うところがひとつだけある。
彼の肌に刻まれた刺青がきれいさっぱりなくなっているのだ。
どうしてそんなことになるんだ、と幼い頃訊ねた。
「知らなかったのかい? パパは魔法が使えるんだよ」
嘘つくなよォ、そんな魔法聞いたことないぜ。
そう言って彼の帰還に喜びじゃれつく俺を、フェルディナンドはやさしく抱きとめてくれた。言葉なく彼の胸に顔を埋めると、やさしい匂いが俺を包んだ。
それからというもの、俺は彼が帰ってくるたびに新品のフェルディナンドが帰ってきた、とアイツを揶揄う。彼のまっさらな肌に再びインクを刻み込ませる針先を眺めることさえあった。
俺は俺のもとに帰ってきた彼のまっさらな手の甲を撫でることを好いていた。
彼の手を言葉なく撫でる静謐な時間。そのときだけ、この世界には俺たちしか存在しないと感じられた。
13
この井戸は昔から水が出ないんだ、と村人は言った。
なんでもこの井戸を掘った男は井戸を掘ることが人生で一番の愉しみだったらしい。それでこの国の、この島の、ありとあらゆる場所に井戸を掘った。それは住民たちの助けにはなったさ。彼が掘ったという言い伝えの残っている井戸がこの辺りには幾つもある。俺たちはその水で生きてる。
けれど彼は井戸を何本掘っても満足しなかった。そして最後、彼はこの井戸を掘った。夢中で掘っていた彼は気づかなかったんだ。ここに水はなく、いつしか島の底に到達してしまったことに。
彼は島の底に空いた穴から空の底に落下してしまったらしい。そして、だから、この井戸からは水が出ないという訳さ。だってこれは、ただのトンネルなんだからね。
「本当かァ? その話」
さあ、あくまで言い伝えだからね。覗いたところで暗闇しか見えないしさ。降りてみるかい? 島の底まで、行けるかもしれないよ。ま、そのまま下に落ちてしまうのがオチなんだけど。
「変な話が伝わってるもんだなァ」
「降りてみたかったら降りてみてもいいんだよ。私はここで待っているから」
「イヤに決まってんだろォ。人に降りさせようとするのは卑怯だぜ」
14
「図書館で借りてきた本がよォ」
俺はレタスの葉を千切りながら隣に立つフェルディナンドに話しかけた。
「俺が生まれる前に書かれてたみたいでさ、発行日が俺の生まれた年だったんだよなァ」
「ふぅん。少し前……のような気がするけど、もう随分昔の本になってしまっているんだろうね」
「俺が生まれた頃ってどんな時代だったんだ?」
「うーん、よく覚えていないなあ。そのとき住んでいた帝国の山が噴火した年だったかな? あれ、あれは随分前かもしれないなあ。あ、前にパパの友達に会っただろう。彼と知り合ったのもそのくらいだったような気がするけど、どうだったかな……」
俺は人参の皮を剥きながら、横目でフェルディナンドの指先を眺めた。
「思ってたんだけどよォ、アンタ記憶力だいぶ怪しいよな。何聞いてもあやふやなことしか言わなくないか。仕事のしすぎじゃねェだろうな」
ははは、とフェルディナンドは笑ってみせた。
「仕事であっちこっちに行っているから、国も島も出来事もごっちゃになってしまっているんだろうね。大丈夫だよラガッツォ」
何を忘れてしまっても、きみのことだけは覚えているよ。
15
世界中に紙吹雪が舞っているようだった。空高く飛ぶ飛行艇から、紙片が吹雪のように舞い落ちてくる。色とりどりのインクで刷られたチラシには「来たる、移動サーカス! 革命的演技到来」と謳い文句が躍っている。
中心では空中ブランコに乗った少女が飛び跳ね、周囲を珍妙な動物たちが囲んでいる。なんでもこのサーカス団は魔物まで手懐けているらしい。
火吹き、回転木馬、剣を腹の底まで呑む男。牙をむく猛獣。
「色んな催し物が世間にはあるんだなァ」
「見たいかい?」
「興味……はあるけど、これがここにくるの三日後だぜ。俺たち、明日には発つんだろう」
フェルディナンドは目を細め、宙を見上げた。
「私たち、近頃少し働きすぎだと思わないかい?」
「つまり?」
「つまり、今日と明日の定期船が満席で、私たちはチケットが取れなかったんだよ」
へへ、と俺は共犯者の笑みを浮かべ、宿泊の予定を延長するって言いに行かなきゃな、と呟いた。
16
一歩足を踏み出すたび、さらさらとした新雪に足が埋もれる。頭痛がするほどの寒さに、耳が千切れそうだった。視界はずっと晴れない。強い風が絶え間なく顔面に吹き付ける。鈍色の雲が空一面を覆い、雪山の表面に風雪が叩きつけられては舞い上がっていた。
遠くで獣が咆哮した。壮絶な苦しみに身を焦がす叫び。
俺は厚い手袋を嵌めた手でフェルディナンドのコートの裾を掴み、山の頂を見上げた。聳え立つ山の上部には渦巻く雲が厚くかかり、隠された内部を見通すことは叶わない。
「心配することはない。星晶獣の声さ。封印が解かれたんだろう」
私たちの目的は彼には関係のないことだ、とフェルディナンドは静かに告げた。
「本当にこんなところに人が住んでたのかァ?」
「どこだって住んでいるよ。人間は世界のあらゆるところに住み、痕跡を残していっている。ほら、ラガッツォ。しっかり歩きなさい。目的地に着いたら屋根がある」
俺は前を行く白髪を嵐の中で見失わないように精一杯追っていた。銀色が滲む世界に、真っ白な彼が今にも溶けて一体化してしまいそうだった。
17
外に出てはいけないよ、と彼は繰り返した。
外に出てはいけないよ、ラガッツォ。狼に食べられてしまうからね。
俺は明かりのない外を窓越しに眺めた。鼻先が窓ガラスに当たり、表面が曇る。呼吸と共に透明な部分が狭くなり、また広くなる。
外には森林が広がっている。明かりのついた部屋から眺める森は、暗く鬱蒼としていて、内部に得体の知れない生き物を沢山抱え込んでいるようだった。
遠く、遠くで狼が鳴く。
「狼がいる」
俺はフェルディナンドを振り返った。
「なんだかとても悲しそうに泣いている」
フェルディナンドは腕を伸ばし、静かに俺を抱き寄せた。
「大切なひとを失くしてしまったんだろう。そんな狼こそ危ういんだ。遠ざかりなさい、近づいてはいけないよ」
夜に泣く狼に近づいてはいけないよ。きみもまた、大事なものを失ってしまうからね。
18
彼は倉庫から古びた椅子を一脚持ってくる。それを俺の向かいに置く。そして彼は言う。
「今日から一緒に暮らす、新しい家族だよ」
それは色々なかたちをしていた。ある者の身長は高く、或いは低く、ある者の髪は金髪で、或いは黒髪だった。けれど皆一様に共通して、同じものを持っていた。
瞳だ。光を失い、絶望に染まった瞳。
俺はそのとき、絶望や、喪失の痛みや、人生で与えられる苦しみは皆似たような色合いを帯びているのだと学んだ。
彼らは家族を亡くし、言葉を失くし、居場所を取り上げられた。そしてフェルディナンドに恐怖している。けれど彼らは笑ってみせる。フェルディナンドに嫌われないために、媚びへつらい、愛想のようなものをぎこちなく顔に浮かべてみせる。
彼らの存在は長くは保たない。気づけば居なくなり、空の椅子が残されている。彼らが生涯の最後に座った、借り物の椅子。
「なァ、これさっさと片付けろよ。また俺たち二人に戻ったんだから」
フェルディナンドが興味の欠片もなさそうに椅子を再び片付けるときに抱く俺の安堵を、世界の誰も知らない。
19
被った布団を翻しフェルディナンドの部屋に駆け込んだ。人間を裁くように空から大地に轟く稲妻が地面に落下し、古い家を揺らす。恐怖に怯え思わず漏れ出た声は、雨音にかき消されたと信じたかった。
「そんなに大騒ぎして、どうしたんだい」
フェルディナンドは既に風呂を済ませて着替え、ベッドに腰掛け古い本を開いていた。傍らに置かれた蝋燭が隙間風に吹かれゆらりと揺れた。
俺は口を閉ざしたままフェルディナンドのベッドの上掛けを捲り、そのまま芋虫のようにベッドの中に入り込んだ。
「かわいい子、雷が怖くなったのかい」
フェルディナンドは俺の身体を布団の上からぽんぽんと叩いた。顔だけを出し、彼を見上げる。彼は目を細め微笑んでいた。
「大丈夫だよ、何があってもパパが守ってあげるからね」
――子ども扱いするな、という抗いは声にならなかった。一際大きな雷鳴が空気を引き裂き、ふっと明かりが消えたからだ。
「ああ、もう今夜は寝てしまおうか。ほら、ラガッツォ。狭いからもっと私に近づいて」
彼の手が俺の背中に回る。穏やかな体温に包まれ、俺は大きく深呼吸した。彼の匂いが全身を巡り、脳を甘やかに溶かしていく。
その夜俺は夢を見た。アイスクリームにとろとろの蜜がかけられる夢。俺は溶けたシロップになり、フェルディナンドにひとくちで食べられてしまうのだ。
20
晴れた空に高らかな鐘の音が響き渡っていた。最低限の家具が置かれた居間、大きな窓。この掃き出し窓を気に入って私はこの家に住むことを決めたのだ。
私は簡素な木製の椅子に腰かけ、よく研がれた鋏を手に、目にも鮮やかな赤色を切り落としていた。
ラガッツォの髪の毛は硬く、丈夫だ。けれど彼の繊細さを表すように、毛先は時折思いもかけないところへうねり、切ろうとすれば意固地に跳ねてみせる。
ラガッツォは言って聞かせなくても静かに椅子に座ったまま、ケープを纏って少し俯きがちな姿勢を取っている。小さな手が椅子の縁を掴んでいた。行儀よく並ぶ爪も、清潔な長さに整えられている。私が週に一度、彼の爪を削り磨くからだ。
退屈したのか、彼の足が前後に揺れる。
「こら、じっとして。もうすぐ終わるよ」
ラガッツォは私の声に足を止め、じっと前を向いた。燃え上がるような赤毛が彼から切り取られ、私の手の上をすべり落ちていく。
まるで新鮮な血液が肌の上を伝うような。
「フェルディナンド。終わったら頭を洗ってくれる?」
甘えを含んだ幼い声がねだるさまは、かわいいものだと思う。 彼は私が手をかけるほど、うつくしい少年になる。きっと彼はこれから、清潔な笑顔を浮かべる青年へと成長していくのだろう。
「今日はパパと一緒にお風呂にはいろうか」
ラガッツォが満足そうに笑う気配がした。人は、こんな光景をしあわせと呼ぶのかもしれなかった。
21
今から行く村では言葉を話してはいけないよ、とフェルディナンドは言った。何故、と俺は問い返した。彼は続けた。
ある宗教を村人全体で信仰している村なんだ。彼らの教団は言葉の使用を禁じているからね。
何の変哲もない村だった。小さく古い田舎の家々が集落に点在し、村人たちは農業や畜産で生計を立てているようだった。
とても静かな村だった。人々はひっそりと暮らしていて、生活する気配すら感じることができない。川が流れ魚が跳ねる水音や、山で木々がさざめく音だけが薄い膜を幾重にも重ねるように村に降り積もっていた。
俺たちは案内人に連れられ、客人用の家に泊まった。そこでも言葉の使用は禁じられていた。フェルディナンドは、なにかを伝えたいとき俺の瞳をじっと見つめた。なぜか、彼の伝えたいことが明瞭に俺の心へ描かれた。俺もまた、彼になにか伝えたいとき、彼の肌に触れた。指先が触れる一瞬だけを、彼は俺の理解に要した。
日に数度鳴る鐘の音を耳にしながら、俺は思った。
俺たちに言葉など必要なかったのだ。俺たちが互いを理解し合うために、言葉はむしろ障害なのだ。もっと知りたい。己の身体を捨てて彼の奥深くまで沈み、内側から溶けあいたい、と。
22
鼻をつんと刺す油の臭いが辺り一面に漂っていた。俺は抱えていた瓶を放り投げると、懐からマッチ箱を取り出し、一本取り出した。
一軒の家の前に俺は立っていた。その家は、昨日まで幸福に満ち溢れていた。仕事熱心な夫と、庭づくりが上手な妻と、ふたりを慕う大きな白色の犬。
夫が違法な商売に手を染めていたことも、妻が金貨を床下にせっせと溜め込んでいたことも、近隣の人々は何一つ知らない。今日彼らがこの世とおさらばしたことも、まだ知らない。
俺は感情なくマッチを擦り、火を油の海に放った。
青白い炎がさっと横に広がっていく。這いずるように家の壁を上り、やがて屋根から赤い火の粉が吹きはじめる。
夜空に火の粉が散る。まるで砕けた星が降り注いでいるようだ。全てを灰に還す炎が大地を走り、ごうごうと音を立てて罪の詰め込まれた家を燃やしていく。
――いつかみた光景。いつかみた家。
俺はこれから何度も家を焼くだろう。それは誰かが暮らした家で、それは誰かが愛した家で、
その家からはいつも幼い俺が俺を見下ろしている。
23
もうアンタとは一緒に寝ない、と言おうとした。俺はひとりで眠る。アンタに子供のように寝かしつけられる必要はない。もう子守唄を必要とする年齢じゃないんだ。
けれど、彼は気まぐれに俺の肩に手をまわす。優しい声で囁く。
「ラガッツォ、今夜は一緒に寝ようか」
その瞬間、俺の心は昂ぶる。そして思い出す。
彼の腕の下には俺の居場所がある。背を丸めて、鼻を彼の肋骨のあたりに擦りつけて、手足を畳んで彼の腕の中に収まると、俺は背骨を抜かれた魚のように弛緩してしまう。
彼の匂いに包まれ理解する。俺はこのひとに守られているのだ。
このひとは母鳥が雛を包み込むように俺を包み込んでくれる。彼の腕の中で俺は微睡む。背中に大きな翼が生え、ありとあらゆる世界を飛び回ることができるようになる甘美な夢に耽る。
俺は彼の腕の下に収まる誘惑に抗えない。それを知り尽くしているかのように、フェルディナンドは肩に回した手に力をこめる。
24
獣が咆哮する音が大気を揺らした。俺たちは飛行艇に乗り、彼方で繰り広げられる光景をただ見ていた。
大地が裂け、砕け散った周縁の岩が地平に落下していく。木々が崩れ落ち、湖は割れ、家々は巨人に引き裂かれるように真っ二つになっていく。
すべてが玩具のように壊され、空の底に落下していく。それは、ひとつの島の終わりだった。島に残っていた人が投げ出され、なすすべなく呑まれていく。
「星晶獣の舵取りを間違えるとあんな風になるんだよ。ラガッツォ、よく見ておくといい。彼らにとっての世界の終わりだ」
動揺を欠片も見せず、いっそ冷酷とさえいえる表情を浮かべて眼前の光景を眺めているフェルディナンドに、内心怯んだ。
俺は言葉を発することもできず、ただ音を立てて唾を呑み込んだ。脂汗ごと拳を握りしめる。
遠く、獣が咆哮した。
理性を失った彼は、長い尾を振り回し、引き起こした暴風と共に島へ最後の一撃を与えた。
25
「アンタがよく聞かせてくれた話、なんだったっけ。なんかこう、喉のところまで出かかってるんだけどよォ」
思い出せねェ、と頭を掻くと、フェルディナンドは思案するように指を顎に当てた。
「昔読み聞かせた話かい? 宇宙人が星から星へ旅する話、王様が冒険する話、星晶獣と女の子が友達になる話、狐が贈り物を探す話? 夜中に転がっていくお城の話もきみは好きだったね」
「ううん、そこまで昔じゃねェ気がするな。あとアンタに関わる話だったような……」
「寒いところ、それとも暑いところ? 色々な話を聞かせた気がするよ。私は色んなところへ行ったから……。氷河を艇で遡った話? ジャングルで巨大魚に食べられそうになって逆に食べた話? 王国で兵隊に捕まって命からがら逃げだして戦った話?」
「……思ったんだけどよ、アンタ俺が子供だからって適当な話ばっかりしてくれたよな。無人島で一ヶ月暮らした話とか、あれ絶対嘘だろ」
「おや、酷いなあ。私が話して聞かせたのは全部実話だよ。多少はそれはね、脚色したり端折ったり色々しているけれど……」
「やっぱり嘘じゃねェか。はあ、なんだったかなァ。もう少しで思い出せそうなのに、アンタが語って聞かせてくれたってことしか、思い出せないんだ……」
