グラブル(フェルラガ)
「うるせえっ! 出てけ!」
「二度とくるかよォ! 覚えてろテメエ!」
ラガッツォは叩きつけられた地面から起き上がると、鼻からだらだらと流れ落ちる鼻血を拳で拭った。赤い血が周囲に飛び散る。店先に置かれた看板を、苛立ちを紛らわすように蹴り上げ、踵を返した。
怒りを露わにしたまま道を進むラガッツォを目にして、周囲の人々は目を合わさぬようにしながら道を譲る。道端からラガッツォを無邪気に見上げる幼女を睨みつけると、彼女の母親らしき女性が焦った表情で彼女の手を引いてその場から立ち去った。
「――クソ」
腹の中が怒りで煮えくり返る。店の金を盗んだ濡れ衣を着せられたこともそうだが、店主の男が最後に見せた、行き場のないラガッツォを見下す侮蔑の視線がなによりも癇に障った。いつだって他者はラガッツォにあの視線を向ける。才能がなく、金も愛想もないラガッツォを人々は常に蔑み、馬鹿にした。
「……っくしゅ」
冷たい風が二の腕を撫で、ふと我に返った。街路樹の並んだ大通りを歩く人々は、いつの間にか厚い生地でできた服を纏って行き来している。彼らに対して、ラガッツォは夏に着る薄い生地の服のままだ。尻のポケットから平べったい財布を取り出し、中を覗く。数枚の銀貨が乾いた音を立てた。これでは新しい服や靴を買うどころか、今晩の食事を買えるかも怪しい。
馴染みの店に行ってツケで飯を食うしかねェな、あのクソ野郎、十日は働いたんだから給料払えよタダでこき使いやがって、と内心で毒づいた。
「……すみません」
大体一日八時間の約束で入ったのに新入りは仕事を覚えろだのなんだの言って何時間も残業させて、気まぐれに怒鳴りつけてくるし客の質はろくでもねェし
「すみません、貴方、貴方ですよ」
給料だって支払いが遅れてるって話だったから腹に据えかねた誰かが盗んだんじゃ
「止まってくださいませんか」
「んだよ、うるせーなァ」
ラガッツォは怒鳴りながら振り返ったが、背後には誰もおらず呆気にとられた顔をした。
「こちら、こちらです私はこちらに」
腰のあたりから声がするので見下ろせば、ラガッツォの足元にはスーツを着たハーヴィンの男がちょこんと立っていた。彼の金髪が太陽光を反射し濡れるように輝いている。
「もしよければ、少しお話しませんか。貴方にぴったりの仕事があるんです」
緑に黄金の混じったような色合いの瞳がラガッツォをまっすぐ見上げていた。
――なんだこの胡散臭い野郎は。
ラガッツォは男の第一印象をぐっと飲みこみ、なんとか返事をした。
「仕事ォ?」
「興味を持っていただけたようで嬉しいですね。立ち話もなんですから、店へ行きませんか。ああ、勿論支払いは私が持ちますから、ご心配はなさらずとも結構ですよ。貴方にぴったりの仕事があるんです」
口を挟むことが許されない調子で捲し立てられ、ラガッツォは男の勢いに押されたまま彼が案内する方向へと歩き出した。
***
「で、仕事ってのはなんなんだよ」
ラガッツォはソーダに刺さったストローを意味もなく回しながら眼前の男に問いかけた。彼は先程、分厚い紙でできた名刺を差し出しながら「ラヴィリタと申します」と名乗った。
「貴方、これまでどんな仕事をしてきましたか」
「どんなっつってもよォ、」
工事現場の使い走り、魔物退治の後方支援、店番、農場の餌やりとかだけど、と消え入るように呟く。十代の半ばに里親の家を飛び出してから、雇ってくれると言ってくれたところなら仕事を選ばず勤めてきたが、未熟な少年の身体でできることも限られており、子供の手伝いのような仕事しか回ってこなかったのが現実だった。
成人すれば少しはましな仕事があるかと考えていたが、それが甘い考えであると保証人を担ってくれる家族もきちんとした住所もないラガッツォが実感したのもそう昔の話ではなかった。
「そうですか。ならば保証しましょう。貴方の人生で一番楽な仕事がありますよ」
「はァ……」
つくづく胡散臭い男だなァ、とラガッツォはソーダを啜りながら思った。この男がいう「仕事」とやらが地獄に垂らされた最後の希望なのか、それとも地獄の更に底へ導こうとする使者なのかラガッツォには判別がつかない。
「ところで、最近の犬というのはいいものだと思いませんか」
「は? 犬?」
「そう。犬ですよ。わんわん、と吠える四つ足の動物」
ラヴィリタは頭に両手を当て、わんわん、と鳴いてみせた。
「で? 犬がなんなんだよォ」
「犬というのはいいものですよ。なんたって最近都市部では室内で飼うのが主流ですからね。厚い絨毯のうえで一日ごろごろしているだけで飼い主に褒められる。雨風凌げる家で三食食べて、散歩に行って可愛がられるのが仕事です。退屈だと思えば吠えればいいんです。飼い主がボールで遊んでくれるでしょう。ねだればおやつだって貰えるかもしれない」
「はァ……ああ、なんだ、犬を飼う仕事かァ? あの、金持ちのかわりに散歩させたりとか……」
「いいえ。でも良い暮らしだと思いませんか? 犬って」
「思うけどよォ……俺とは関係ねェし、犬なんて」
「犬になる仕事があるんです。いかがです?」
「は?」
ラガッツォは何を言われているのかわからず、ぽかんと口を開けたままラヴィリタを見つめた。彼は優雅な手つきでティーカップを持ち上げると、音もなく紅茶を啜り、ふと外を見遣った。枯れ葉が音を立てて色褪せた街を舞っていく。
「貴方が金持ちの犬になるのです。良い暮らしができますよ」
ラヴィリタの瞳が、暗く光った。
***
上着のポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出し、日付と店の場所を改めて確認した。今日だけで何度この紙を確かめたかわからないが、再度紙切れを眺めた。
オープンテラスの席から、巨大な硝子越しに喫茶店の店内を見渡すと、多くの人がティーカップを片手に肩を寄せ合って談笑している。
ラガッツォは仄かな疎外感を抱きながら椅子に座り直し、表通りに顔を向けた。人々はせかせかとした足取りで通りを行きかっていく。
ラヴィリタのいうことには――ラガッツォは未だ半信半疑だが――ラガッツォのような人間をペットにしたい金持ちがいるらしい。それは結局売春なのか? と問いかけたラガッツォに、ラヴィリタは冷めた瞳で、貴方は犬に欲情するんですか? と返して「飼い主」と待ち合わせをする日付と場所を書いたメモを押し付け去っていった。
数日後、ラガッツォには相変わらず仕事も金も伝手もなく、仕方なく教えられた場所を訪れている。
身なりの良い人々が集まった高級店で飲み物を注文することも気後れし、テーブルの上にはメニュー表以外なにも置かれていないままだ。顔を隠すように掛けている眼鏡を押し上げた。早くその「飼い主」とやらがきてくれ、いや、こなくていい、という相反する気持ちに揺れ動きながら、こんな気持ちになるくらいならもういっそ帰ってしまおうか、とラガッツォが腰を上げた瞬間、テーブルの上にがさりと物が置かれた。色とりどりの花がよりあつまってリボンが掛けられ、いまにもこぼれ落ちそうな花束になっている。
「失礼、遅れてしまったようだ」
低音が耳に滑り込んだ。瞬間、香水の香りがふと漂い、消えた。白いコートを身にまとった銀髪の男がラガッツォの傍に立ち、穏やかな表情で彼を見下ろしている。
「待たせてしまったようだね。申し訳ない。仕事場で少し……そう、この花束も職場で貰ってね、置いておく場所がなかったものだから」
そういいながら男はラガッツォの向かいに腰を下ろし、メニューを広げた。手の甲に広がる刺青に視線が引き寄せられる。
「なにがいい? 紅茶は飲めるかい? すまない、紅茶を二人分頼むよ」
いつの間にか近寄ってきていた店員に注文すると、男はラガッツォに向き合った。
「さて……。そうだ、まだ名乗っていないね。私の名はフェルディナンドだ。きみはラガッツォくんだね?」
そうだ、と返事をしようとして、ラガッツォは思わず頷いた。
「よかった。聞いていた通りだ。『仕事』の件も、ラヴィリタが上手に説明してくれているといいんだけど」
彼は手を組み、上品に笑ってみせた。細い瞳がさらに細められ、赤い唇から整った歯列が覗いた。溌溂とした胸元ではタイが形よく結ばれている。うつくしい男だ、とラガッツォは思った。こんなに整った顔面と、恵まれた肢体を持っているのなら、女でも男でも選びたい放題だろうに。
何を好き好んで、こんな荒んだラガッツォのような男を飼おうとするのだろう。なにか隠された理由でもあるのだろうか。
「アンタの、」
犬になれって、と言いかけて、ここが外で誰かに聞かれる可能性もあることに思い至り、言葉をかえる。
「家で、アンタに言われた通り過ごすんだろ」
フェルディナンドは小さく首を傾げると、唇を綻ばせた。
「そうだね。どう振る舞えばいいかは私がきちんと指示するから、きみが考えないといけないことはそんなにないと思うよ。私の家で、契約通りの日数を過ごしてもらう。まずは一日きて慣れてもらおうかな。一日の契約だと翌日に、それ以上の日数だと週末に給料を支払おう。きみの望む方法でね。あとは――」
フェルディナンドは言葉を止め、紅茶を持ってきた店員に軽く会釈を返した。
「どうぞ。喉が渇いているだろう」
ラガッツォはフェルディナンドに促されるまま、ティーカップに手を伸ばした。華やかな香りが鼻を擽り、紅茶を口に含むと微かに甘い後味を残し喉を滑り落ちていった。
「きみからなにか質問はあるかい?」
「あー」
ラガッツォはテーブルの上で落ち着きなく手を握っては開いた。ここでなにも言わなければ話がまとまってしまいそうな雰囲気に僅かな焦りが生じる。
「その。に、人間の言葉とかって喋ってもいいのかァ?」
フェルディナンドは不思議そうな表情を浮かべ、肘をついて顎を手の甲に乗せた。
「勿論だとも。静かにしていてほしい場面もあるかもしれないけど、そのときはきちんと私が指示するよ」
「服は着てていいのか?」
「……きみの意思に任せようかな。きみが部屋では裸でしか落ち着けないっていうなら――」
「着ていたい」
「ならそうするといい」
「飯は三回? 二回とかじゃなく?」
「心配せずとも人間用の食事を日に三回用意しよう」
ふふ、とフェルディナンドは笑い、残りの質問は? とラガッツォを促した。
「夜は一緒に寝ないといけねェのか?」
「それもきみ次第だけど……まずは自分の部屋に慣れてほしいな。私の部屋とは分かれているからね」
ラガッツォはフェルディナンドを見上げ、口を閉ざした。
「もう質問はない? 契約には合意してくれるかい」
断ったところで、行く当てもなかった。ラガッツォはラヴィリタから提示された給料の額を頭の中で思い浮かべながら、フェルディナンドの胸元を見つめ、一度静かに頷いた。
***
「ここがアンタの家かァ?」
「そうだよ」
ラガッツォは石造りの一軒家を見上げ、喉を鳴らした。閑静な住宅街の奥まった場所に位置する、白い壁でできた平屋がフェルディナンドの家だった。門扉から玄関まで蛇行した石畳が敷かれており、庭には緑に色づく木々が植えられている。
「奥には中庭もあるから人目を気にせずゆっくりできるよ」
フェルディナンドはコートを翻しながら言い、玄関を開けて花束を片手に姿を消した。あとを追ってラガッツォも家の中に入る。広々とした空間には、背の低い落ち着いた色調の家具が置かれ、リビングの窓からは広い中庭を一望できた。
フェルディナンドはキッチンに花束を置くと、コートを脱いで手に掛けながらラガッツォに声を掛けた。
「好きなところに座って。きみはなにがあると落ち着くタイプだい? 毛布でもクッションでもぬいぐるみでも、なんでも用意しよう。ああ、服や靴もいるならいま言うといい」
ラガッツォは戸惑いながらリビングのソファに腰を下ろし、背に掛けられていた白い毛布を手に取った。ふと、フェルディナンドの香りが漂う。
「おや、それが気に入ったのかい」
上着を脱いでシャツを腕まくりしたフェルディナンドが、ティーカップとティーポットを手に現れた。
「いや、別に、新しいのわざわざ用意しなくても……」
「ではそれをあげよう。この家はきみの家だと思っていいから自由に振る舞いなさい」
注がれた茶から湯気が立ち昇る。机の上を整えたフェルディナンドは立ち上がって暖炉に近づくと、置かれた箱を手に取り、リボンをほどいてラガッツォに声を掛けた。
「『ラガッツォ』」
彼の呼びかけに背筋が伸びる。フェルディナンドを振り向くと、彼は真っ直ぐこちらを見つめていた。
唇が開く。強い口調で彼は命令する。
「『COME』」
ラガッツォは一気に張り詰めた空気に怯え、身を竦ませた。フェルディナンドという男の正体が急にわからなくなる。人間のかたちをした不気味な存在が、不意に眼前に現れた気がして恐怖心が心の中に立ち込めてくる。
「聞こえなかったのかな? ラガッツォ、『おいで』」
フェルディナンドの視線がラガッツォにじっとりとまとわりつく。白い睫毛に縁どられた緑色の瞳に囚われる。
彼の命令に従わなければ許されそうになかった。そもそも、彼の犬になるという契約に合意したのはラガッツォだ。彼からの命令は、仕事だ。これは仕事なのだ。
ラガッツォは唾を呑み込むと、意を決して立ち上がった。震えそうになる両足を叱咤して、フェルディナンドに近寄る。彼は近づいてきたラガッツォを褒めるように優しく手を取り、近くの椅子へと導いた。腰を下ろしたラガッツォの頭を彼は優しく撫で
「言うことを聞けたじゃないか。いい子だね」
と優しく囁く。甘い言葉に、身体の芯がじわりと熱を孕んだ。
フェルディナンドは片手で持っていたものをラガッツォに披露した。
「これはきみにきっと似合うと思うんだ」
それは、黒く光沢のない革でできた首輪だった。頑丈そうな作りのそれは、金具が鈍く輝き、ラガッツォにこの場の上下関係をありありと教えていた。
「首を出しなさい。なに、こわがることはない」
フェルディナンドの命令に、しばし躊躇い、やがてラガッツォは顎を上げてそっと首を彼に差し出した。
彼の骨ばった手が首輪を解き、ラガッツォの首に巻き付ける。首に微かな圧迫感が加えられ、耐えきれず目を閉じた。間近に迫ったフェルディナンドの存在感に背筋が震える。彼の吐息が耳の産毛を揺らした。
金属音を鳴らしながらベルトは締められ、ラガッツォの首におさまった。まるで元からその場所にあったように、革でできた首輪はラガッツォの首にしっくりと馴染んでいた。
「私の想像した通りだ。きみによく似合う」
フェルディナンドはラガッツォの頭を撫で、大人しくできていい子だね、と褒めた。
ラガッツォがそっとフェルディナンドの服の裾を掴むと、彼は掌に力をこめた。ラガッツォの肩を抱き
「頭を撫でられるのが好きかい?」
と問いかける。
ラガッツォは赤くなった顔を隠すように俯き、一度小さく頷いた。
テーブルに用意された紅茶を飲み干すと、部屋を案内しようと言ってフェルディナンドは立ち上がった。
リビングを出て、廊下を進む。ここは空き部屋で、今は物置になっていると言われた扉を通り過ぎ、ここがきみの部屋だよ、と案内された部屋を覗き込む。
アイボリーの壁紙が張られた広い部屋に、クローゼットとベッドが置かれていた。
「近いうちに机や椅子を置こう。それともソファがいいかな? なにか欲しいものはあるかい」
フェルディナンドはラガッツォの肩を抱いて弾む声で問いかける。必要なものがあればすぐに揃えよう、と彼は繰り返した。
廊下に出て、フェルディナンドは奥を指さした。
「この先には私の書斎と部屋がある。私がそこにいるときはいつでも来て構わないよ。寂しくなったら私のところへおいで」
ラガッツォは「わかった」と返し、しばし沈黙した。
「なァ、トイレってどこだ……借りたいんだけど」
フェルディナンドはラガッツォの手を取ると、廊下を戻る。
「トイレはここだよ」
と案内されたことに安堵したラガッツォは、油断した隙に扉の開かれた個室へ押し込まれた。
「なっ……」
その場で思わず足踏みし、壁に手を突く。
一緒に個室に入り扉を閉めたフェルディナンドは、腕を組み扉にもたれかかった。
「トイレはそこだよ。してご覧」
「は?」
ラガッツォはフェルディナンドの真意を測るように彼の顔を見上げた。薄い微笑みを湛えた彼はラガッツォを見下ろし、「聞こえなかったかい?」と言った。
「トイレの躾も飼い主の仕事だからね」
「なっ……に言ってんだよォ、出てけ、出てかねェか」
「おや、ひとりでできないのかな」
フェルディナンドに抗うラガッツォの手首を掴むと、フェルディナンドはラガッツォの身体を抱きしめるように拘束した。動きを封じられたラガッツォは、唸るような声を出した。
「っざけんな、テメエ……!」
「そう怯えることはない。ひとつひとつ覚えていこうね」
腰のベルトが器用に外され、下着ごと服をずり下ろされる。
「ひっ……!」
性器が外気に触れ、鳥肌が立った。フェルディナンドの掌がラガッツォのペニスを掴み、方向を定める。人生で初めて他者から陰部に触れられ、ラガッツォはその強烈な違和感に身を捩らせた。
「ほら、してごらん。恥ずかしがることはない。きみの面倒をみるのが私の役割だからね」
「ふっ……」
羞恥に顔が染まる。心臓が音を立てて鼓動を打っていた。今すぐこの場から逃げ出したかった。フェルディナンドの顔面を蹴り上げ、ついでに股間も蹴り上げ、この変態男、金なんて要らねェよクソがと罵って家を去りたかった。
しかしフェルディナンドの力に逆らうだけの強さはラガッツォに備わっておらず、昼から何杯も飲んだ飲料の所為で尿意の我慢も限界に達していた。
「あ、離せっ……離せよォ……!」
ラガッツォは腕を振り回そうともがき、暴れ、そして沈黙した。両目から涙が溢れる。しばらくして、水音が個室に響き渡った。
「……あっ」
脱力したラガッツォが洟を啜ると同時に、フェルディナンドがタンクのレバーを押した。水が流れる音に、ラガッツォの嗚咽が混じる。
フェルディナンドは手際よくラガッツォの服を整えると、洗面所まで彼を導き、タオルで涙に濡れた顔を拭ってから力強く抱きしめた。
「いい子だね、ラガッツォ。言うことをきけるきみはなんて賢いんだろう。私は幸せ者だ。かわいい子、ずっと私がかわいがってあげるからね――」
ラガッツォは呆然と洗面所の鏡を眺めた。銀髪の男に抱きしめられ、頭をぐしゃぐしゃに撫でられている赤髪の痩せた男は、泣きはらした瞼のまま、何故か幸福そうな笑みをその顔に浮かべていた。
***
包まった毛布からは、フェルディナンドの匂いがした。
フェルディナンドからされた行為に腹を立て、ラガッツォは黙りこくったまま床の上で毛布に包まっていた。フェルディナンドは口をきかない事には何も言わず、
「床の上だと身体が冷えてしまうからソファの上にしなさい」と言ったきりで、ラガッツォが返事をしないと追加の毛布やクッションを幾つか、ついでに白色のテディベアもラガッツォの横に置いてキッチンに去った。
日がとっぷりと暮れ、中庭の様子もリビングからは窺えなくなった頃、フェルディナンドが立ち働くキッチンからいい香りが漂い始めた。
数日碌に食事を摂れていない腹がきゅう、と情けなく鳴る。
「ラガッツォ、ご飯だよ。おいで。それとも私が食べさせないといけないかい?」
フェルディナンドの呼びかけに、ラガッツォはのろのろと毛布から顔を出すと、渋々立ち上がった。
食卓に座り、用意された料理を眺める。焼きたてのパンに、パンの漬かったスープ、インゲン豆と肉の煮込みが湯気を立てている。大鉢には新鮮な緑のサラダが山盛りになっていた。
「足りるといいんだけど……きみはいっぱい食べた方がいいからね。足りないようならチーズやソーセージを切ってあげよう。果物もあるから心配しなくていい。明日の朝は果物のケーキを焼こうか。パウンドケーキは好きかな?」
「なァ……」
ラガッツォは磨き抜かれた銀食器を見下ろし、言いづらそうにフェルディナンドに切り出した。
「俺、テーブルマナーとかいうやつよく知らねェんだけど……」
フェルディナンドは不意を突かれた表情を浮かべると、柔らかく微笑んだ。
「ただの家の食事だよ。そう肩肘張ることはない」
彼はグラスにワインを注ぐと、きみもいるかな? と問いかけ、首を振ったラガッツォにじゃあきみは葡萄ジュースにしよう、と瓶を出した。
「マナーを知りたいなら今度一緒にレストランまで食事にいこう。なに、心配はいらない。私が教えてあげるからね」
フェルディナンドの言葉に安堵し、ラガッツォはフォークを手に取った。適当に目の前の食べ物を口に運び、咀嚼する。その瞬間、これまでに感じたことのない旨味が口の中に広がった。
「……」
手でせっせと皿と口を往復し、無心に食べ物を頬張っていると、途中でフェルディナンドからの視線を感じた。途端にばつが悪くなり、手を止める。
「もういいのかい?」
「いや……なんか、すまねェ。飯が美味くて」
「口にあったならなによりだよ。きみの好きなものを教えてほしいな。料理は得意なんだ。なんでも作ってあげるよ」
酷く優しい言葉にラガッツォは詰まり、そのまま料理に集中した。押し殺した心の奥から、言葉が這いずり出す。目の前の男は、なぜこれほど価値のない己に優しくしようとするのだろう。きっとなにか狙いがあるのだ。ラガッツォの知らない何かが。だって俺にはなにもない。才能も、なにも。食事を続けるラガッツォの心の中では疑念がずっと渦巻いていた。
***
身体を洗ってあげようか、と提案するフェルディナンドをなんとか押しとどめ、ラガッツォは一人で入ることのできる風呂を手に入れた。
風呂から上がると、洗面所には新品のパジャマがいつの間にか用意されていた。袖を通し、リビングを覗く。フェルディナンド
がソファで分厚い書籍を開いている。
「俺はもう寝てもいいのかァ?」
言葉にすると、一気に眠気に襲われ、ふわぁ、と欠伸が出た。
「なにか困ったことはない? ないんだね、そう、おやすみ。きみのベッドに行って寝なさい。暖かくするんだよ。寒ければ別の毛布がクローゼットに入っているからね」
フェルディナンドはラガッツォを抱きしめ、こめかみに軽いキスを贈った。
明かりを落とし、ベッドで布団に包まる。安らかな暗闇に包まれ、ラガッツォはどっと疲労を覚えた。
屋根と壁がある。風が吹くたびミシミシと鳴らない屋根と壁が。なにかあれば助けを求められる人が隣の部屋にいる。何を考えているかわからないけれど、作る料理が美味くて金を持っていそうな男。そして明日の朝には金が手に入る。
彼は言った。マナーを教えるためにまたレストランに行こうと。彼はラガッツォが望めばこの暮らしを続けさせてくれるのだろう。
そっと首に手を伸ばす。風呂に入る前、フェルディナンドはラガッツォから首輪を外し、
「明日の朝またつけようね」
といって黒革の首輪を暖炉の上の箱に仕舞った。
彼の優しい手を思い出す。彼がラガッツォの頭を撫で、いい子だねと褒めるたび奇妙な熱が身体を巡る。腰の奥が熱くなる。
ラガッツォは目を閉じたまま、そっと手を己のペニスに伸ばした。昼間に触れられたフェルディナンドの掌の感触を思い出すと、腰に熱がわだかまり熱く張り詰めた。
性器を掌で包みこみ、上下する。瞼の裏にはフェルディナンドの笑顔が浮かんでいた。
彼が耳元で囁く。
「おや、もうこんなに大きくして。私に触られるのが好きかい」
彼はあの長い指でラガッツォのペニスを上下するだろう。先端をくじり、双球を柔く揉む。
「ラガッツォ、いい子だね」
「あ……」
彼の手が滑りの助けを借りて、強烈な快感を与えてくれる。
性器を擦る手に力が籠もった。熱が昂ぶり、限界が見え始める。フェルディナンドが耳たぶを食み、低音で囁いてくれる幻を見る。
「好きにいってごらん、私が全部してあげるからね」
「あぁ……っ、フェルディナンドッ……」
彼に抱きしめられ、頭を撫でられる幻想に身を委ねながら、ラガッツォは己の掌に精を放った。
***
食卓を見下ろすと、朝早くに焼き上げられたと思しきドライフルーツ入りのパウンドケーキが厚くスライスして並べられてあった。傍には角の立った生クリームと、自家製のジャムが置かれている。机の上には他にも、焼きたてのパンやオムレツ、水を弾く新鮮な野菜で作られたサラダ、スープ、果物が載っていた。
ラガッツォは顔を心持ち伏せたままフォークに手を伸ばした。フェルディナンドの顔を真っ直ぐ見ることはできなかった。
朝早くからキッチンで立ち働く彼の後ろ姿を目で追いながら、考えたのは昨夜の自分の行いだった。彼の掌の感触を思い返しながら己を慰め、精を放った事実がじわりと心を蝕む。明るい日差しの中で改めて考えると、ラガッツォがした行為はフェルディナンドを冒涜する振る舞いであったような気さえしていた。包丁を握ってリズムよく上下する彼の手を通して淫らな昨夜の記憶が否応なく思い起こされ、ラガッツォは思わず目を反らした。昨夜はよく眠れたかい、と通った声で問いかけられても、口の中で返事のようなものを呟くことしかできなかった。
「私は朝はあまり食べなくてね。でもきみは食べた方がいい」
言葉の通り、フェルディナンドの前にはコーヒーカップが置かれたきりだった。彼は手で挽いた香ばしい匂いを放つコーヒーを啜りながら届けられた朝刊を手繰る。その様子を上目遣いで窺いながら、ラガッツォは気になっていた事柄を恐る恐る切り出した。
「なァ……」
「ん? なんだい」
「まずは一日の契約って言ってたけどよォ……そのあとはどうするんだァ?」
「ああ」
フェルディナンドは唇をたわませ微笑む。
「私は今後もずっと契約してほしいね。判断はきみに任せよう。私と共に過ごしてもいいと思えたなら、また私のところへおいで」
フェルディナンドは新聞を畳んで机の隅に置くと、ラガッツォの頬へ手を伸ばした。彼の大きな掌が頬を軽く撫で、ラガッツォの唇の端についていたパン屑を払った。
「きみはとてもかわいいよ。一晩一緒の家で過ごして改めて思ったな。きみはかわいい。ずっと私が守ってあげたい。きみが許す限りずっと飼ってあげたい」
フェルディナンドの手がラガッツォの赤毛を撫でる。頭部をゆっくりと彼の手で愛撫され、ラガッツォの心がとろりと溶けだす気配がした。
「いつだって私は待っているよ、きみのことをね。きみの居場所はいつだって私の家にある。心配することはない、なんだって用意してあげるよ。いつまでも心安らかに過ごせるはずだ――」
彼の手が離れる。名残惜しさに身じろぎした瞬間、フェルディナンドが椅子から立ち上がり、椅子と床が擦れる音にラガッツォははっと我に返った。
「さて、それとは別に約束のものを渡そう」
家の奥に消えたフェルディナンドはすぐにリビングへ戻ってきたが、彼の手には見慣れぬ革袋が握られていた。
「約束分に上乗せして入れてある。受け取っておきなさい」
ラガッツォは居心地が悪い思いをしながら、フェルディナンドから金貨の詰まった革袋を受け取った。彼の言った言葉の通り、袋はずっしりと重く、この金があれば二、三ヶ月は生き延びられそうだった。だが、ラガッツォが感じたのは喜びではなかった。むしろ、金など渡されなければよかったのにという苦い思いだった。
フェルディナンドは偶に奇異な振る舞いをするが――奇異と言えばそもそもラガッツォを『飼う』こと自体おかしな振る舞いだ――彼はラガッツォに対して優しく接し、温かな環境をくれた。腹いっぱいの食事と安らげる部屋をくれた。頭を撫で、いい子だと褒めてまでくれた。それらは、どんなに乞い願っても子供の頃のラガッツォに与えられなかったものたちだ。こんなぬくもりをくれたのは、フェルディナンドが初めてだった。
これが無償で与えられたものだったならどれほど幸せだっただろう、とラガッツォは思った。まるで胸の内に穴が開いたような気分だった。穴のなかには冷たい風が流れ込んでは吹き去っていく。人生で初めて与えられたこのあたたかな「何か」を金に変換しないでほしい、という言葉をぐっと飲みこみ、ラガッツォは金貨の詰まった革袋を固く握り締めた。
その様子を静かな瞳で見下ろしていたフェルディナンドは、己の椅子に戻るとラガッツォが使っていたフォークを手に取り、温室で栽培された苺を突き刺した。赤く艶めかしく光る果実をラガッツォの口元へと運ぶ。
「ほら、ご飯を食べてしまいなさい」
ラガッツォはフェルディナンドの紋様が刻まれた手をじっと見つめ、やがてそっと口を開いた。口の中に運ばれる果実へ歯を立てる。フェルディナンドを窺うと、緑色の透き通った瞳がラガッツォを捕らえた。口内に酸味が広がる。
もうこのまま、この家から出るなと言ってくれたらよかったのに。私の元にいろと命令してほしい。
ただきみがほしいと願ってほしい。
ラガッツォは果実を咀嚼しながら、宛てのない考えを巡らせた。
***
一日ぶりに戻った自室は、色褪せて見えた。壁紙は破れて剥がれ、窓枠は僅かに歪んでいる。硝子にはずっと罅が入ったままだ。隣家に接した窓から日光が差し込むことはない。
天国のようなフェルディナンドの家とは正反対の、この牢獄のような家に再び戻ってきたのだ、とラガッツォはため息を吐いた。靴を脱ぎ、暫くうろうろと室内を彷徨ったあと、枕の下にフェルディナンドから渡された金貨の詰まった革袋を隠した。
そのままベッドに寝ころび、腕を頭の下で組む。無数のシミが浮き出た天井をぼんやりと眺めた。
――あなたには一切の才能がない。魔法の才能が完全に欠如している。
幼いラガッツォに教師から告げられた言葉を聞いて、親は泣き崩れた、らしい。らしい、というのはそれらを養父母から飽きるほど聞かされたからだ。実の両親との思い出は然程脳内に残っていない。朧げに覚えているのは、夜に家から閉め出され、雪の降る庭に立ち尽くし恐怖と心細さと霜焼けの痒さに震えていたことと、なにか失態を犯したのか手の甲をしたたかに鞭で打ち据えられたことだけだ。
彼らは魔法の才能がないラガッツォを邪険に扱った。両親とは遠縁にあたる養父母の元へ行かされたのは九歳の頃だったが、きっと彼らはこれでようやく厄介払いができたと心の底から安堵しただろう。
不出来な子供を半ば無理やり押し付けられた養父母との折り合いも悪く、十代の半ばには既に彼らの元から出奔していた。
あなたには才能がない。
教師の冷ややかな声がラガッツォの人生を縛ってきた。
魔法の才能がなければ人間としての存在価値がない。
おまえには価値がない。
両親が囁いた侮蔑に満ちた言葉が、今も耳に残っている。
だからこそ謎なのだ。何故フェルディナンドは、こんな『価値のない』ラガッツォを欲しがるのだろうか。彼は暖かな部屋を与えてくれるという。食事を出してくれるという。その対価として金までくれるという。
金持ちの考えることはよくわからねェ、とラガッツォは寝返りを打った。外見が好みだったのだろうか。こんな痩せっぽちの枝みたいな身体をした可愛げのない男が? わからねェといえば、アイツよりにもよって俺のペニスを素手で掴んで、と考えたところで頬が紅潮する。
――あんな、
ラガッツォが音を立てて唾を呑んだ瞬間、玄関のドアが煩く鳴った。ガンガンと扉が叩かれ、部屋の壁が微かに震える。
「おい、ラガッツォ、いるんだろ? 出てこいよ」
ラガッツォは大きく息を吐いて頭を掻き、玄関までのろのろと歩いていく。ドアを開けると、大声の主がせわしない様子で立っていた。
「やっぱりいるじゃねえか。昨日何処に行ってんたんだよ。遂にお前が飛んだってみんな噂してたぜ」
玄関先に立つラガッツォの悪友は、そう言うとポケットに突っ込んでいた手を差し出した。
「で?」
「で? なんだよォ」
「どっかで稼いできたんだろ。千ルピ返せよ、貸してただろ」
「あー……ちょっと待ってもらっていいか。別に逃げねェからよ」
ラガッツォは一旦扉を閉じると、ベッドに戻り革袋から金貨を取り出した。革袋に詰まった大金の存在を友人たちに知られると、その出所を追及されて面倒なことになる未来が見えていた。
再び玄関に戻り、扉を開けて友人と相対する。
「ほら、これで帳消しだなァ? なんだよ、カジノにでも連れてってもらうのかァ?」
「おう、今日こそ当てて一攫千金よ。見てろよ、この金百倍にしてみせるからな」
拳を握ってみせる友人に苦笑しながら彼を見送り、扉を閉じる。背を扉に預けると、どっと疲れに襲われた。眉間を指で揉み、ラガッツォは頭を振る。何故か無性に寂しかった。こんな隙間風の吹く部屋など捨てて、フェルディナンドの元に戻り、彼の匂いのする柔らかな毛布に包まれたかった。
――きみの居場所はここにあるのに、なぜ来ないんだい?
フェルディナンドがラガッツォの肩を両手で掴み、耳元で囁いた気がした。
***
連続してくしゃみをすると、ラガッツォは鳥肌の立つ肩を擦った。秋の風は容赦なく吹きすさび、薄着のラガッツォから体温を奪っていく。
空を見上げると、鈍色の雲が一面を覆っていた。近いうちに雨が降りそうな天気だった。どこか湿った空気が周囲に充満している。
昨夜は自室で薄い毛布に包まって眠った。フェルディナンドの家に戻れば歓迎されるかもしれない、という淡い期待を抱きながら、しかし金を目当てにすぐ戻ってきたと嘲られることが怖かった。
暗い部屋で昼過ぎに見慣れた悪夢から目覚め、ラガッツォは自分自身に対して認めた。俺はフェルディナンドの家に戻りたがっている。
結局正式に『契約』を結んだら家に住まわせてもらえるのかも聞いていなかった、と考えながらラガッツォは住宅街まで道を歩き、静かな邸宅の並ぶ住宅地の更に奥まで迷わず進んだ。一瞬の躊躇いのあとフェルディナンドの家の扉を叩いたが、中から返事はなかった。てっきり返事があるものと思ってここまで来たラガッツォは落胆したが、よく考えれば一般的な勤め人は仕事へ行っている時間だ、と思い至る。
そのままフェルディナンドの家の前に座り込み、ただ過ぎる時間をすごした。住宅街の奥まった場所に位置しているせいか、往来を通る人もいない。人っ子一人存在しない空間で、ラガッツォはあてなく座り続けた。
日差しが傾き、周囲が薄暗がりに包まれる頃、門に人影が現れた。彼は玄関先に蹲るラガッツォに気づくと、足早に駆け寄ってきた。
「ラガッツォ、いつから居たんだい。……ああ、なんてことだ。身体がこんなに冷えてしまっている」
フェルディナンドはそう言いながらコートを脱ぐと、ラガッツォの肩に被せた。服を通して伝わってくる彼の匂いに、ラガッツォの胸が高鳴る。
「上着を買えるくらいのお小遣いは渡しただろうに。きちんときみ自身のために使わないとだめだよ」
フェルディナンドは小言を口にしながら玄関の鍵を開け、ラガッツォを室内に押し込んだ。すぐに火を熾すから、とフェルディナンドが動き回る傍で、ラガッツォはソファに腰を下ろし、フェルディナンドから与えられたコートをぎゅっと握りしめた。
暖炉に火を熾し、湯を沸かして淹れた紅茶のカップを手に、フェルディナンドもまたラガッツォの隣に腰を下ろした。さりげなく腰へ回された片腕に、思わず身体が強張る。
「それで、何の用だったんだい? これからもここで暮らしてくれる気になってくれたのかな」
ラガッツォは手にしたカップを両手で包み込み、じっと見下ろした。乾いた唇を舌で舐める。
「あ、ああ。考えたけどよォ、アンタに『飼われて』やってもいいんじゃねェかなって……」
目を閉じる。薪の爆ぜる音が静かな空間に響いていた。
「どうせ俺には身寄りも行く場所もねェし、才能だってねェし、なんもないからアンタが欲しいっていうならやるよ。俺なんか、犬が似合いだ」
「そうかな」
フェルディナンドは静かな声で応えた。
「きみがそんなことを二度と口にしないほど可愛がってあげたいものだ」
そう言って、彼はラガッツォの身体を服越しに数度撫でた。
「じゃあ、この書類にサインしてもらおうかな」
と立ち上がったフェルディナンドが棚から取り出した書類には、専門的な単語が細かい字で長々と綴られていた。ラガッツォは眉を顰め、書類を手に取ってはみたものの、すぐに読むことを諦めた。
「ここに君の名前を書いて」
指示された場所に自身の名前を書く。何枚かに名前を書いたところで書類とペンを取り上げられ、
「これで我々は『契約』したことになる」
と微笑みかけられた。
「なァ」
「なんだい?」
「今日はこの家に泊まっていっていいのかァ?」
フェルディナンドは目を細めると、書類を片付け、手を組んだ。人差し指でリングが鈍く光っていた。
「これから、きみはこの家に住むことになる。ルールを説明しよう。まず、私の言うことを必ず聞かなければいけないよ。できるね?」
ラガッツォは内心で、もしかしてなにか迂闊なことをしてしまったのではないだろうか、と曖昧な疑念を抱きながらフェルディナンドの言葉に従い頷いた。
「次に、食事は私が与えるもの以外は食べてはいけないよ。外に出かけて食べてくるのも駄目だ。なにかを口にするときは必ず私に許可を取りなさい」
フェルディナンドの指先が一定のリズムを刻んでいる。彼の心のペースを表現するように。
「あまりルールが多いと覚えられないだろうから、これを最後にしよう。お風呂に入るとき以外は首輪をつけるよ。いいね」
ラガッツォはフェルディナンドの顔を窺い、そっと首を縦に振った。まるでフェルディナンドの手が鎖を握っているかのような気がした。彼はその鎖をラガッツォの首輪に繋げる。鎖を通して彼の意思を教える。彼は鎖でラガッツォの身体を包み、愛おしむのだろう。
彼はラガッツォを愛おしそうに撫でるのだ、巻き付けた鎖越しに。
自由のないラガッツォを愛すのだ。
支配され、隷属したラガッツォを。
「……わかった」
「呑み込みの早い子が私は好きだよ」
彼の手が伸び、ラガッツォの頭を撫でた。ぬるく甘いミルクが満ちたようなラガッツォの心が波打ち、仄かな熱を放った。
「そうだ、きみに見せたいものがあるんだ。きみの部屋においで」
フェルディナンドがラガッツォの手を取り、与えられた部屋まで導く。前を行く彼の背中は広く逞しかった。
「ほら、少し物を増やしたんだ」
彼が言った通り、部屋の中心には以前にはなかった背の低い机とソファが置かれていた。麻布が張られたソファの上には、新品のクッションが幾つか置かれている。
「きみの趣味じゃなかったら買い直そうと思うんだが、暫くはこれを着るといい」
フェルディナンドが開いたクローゼットの中には新品の洋服が一列に並べられていた。近くの一着を手に取り、ラガッツォは自分の身体に押し当てる。シャツのサイズはラガッツォの身体とぴったり一致していた。
「あとこれを昨日文具屋で見つけてね。きみに是非贈りたいと思ったんだ」
そう言って、フェルディナンドは机の上に置かれていた小さな包みを開封した。中からは精巧な細工が施された小箱が現れた。
「これはオルゴールなんだよ」
彼がそう言いながら優雅な手つきで蓋を開けると、中には軽やかな音楽と共に回転する天体の細工が収まっていた。
「可愛いだろう。きみにも見せたいと思って……」
そう告げるフェルディナンドの頬はかすかに上気していた。彼が抱いているらしい浮ついた喜びを感じ、ラガッツォの唇も思わず綻ぶ。
「……ありがとう」
素直な気持ちでフェルディナンドに言うと、彼からオルゴールを手渡された。手の上に載ったそれをしげしげと眺め、繊細な作りの小箱を壊さないように注意しながら机まで運ぶ。
フェルディナンドが背後からラガッツォの肩を掴んだ。耳元で低音が囁く。
「さあ、戻って首輪をつけようか」
***
「二度とくるかよォ! 覚えてろテメエ!」
ラガッツォは叩きつけられた地面から起き上がると、鼻からだらだらと流れ落ちる鼻血を拳で拭った。赤い血が周囲に飛び散る。店先に置かれた看板を、苛立ちを紛らわすように蹴り上げ、踵を返した。
怒りを露わにしたまま道を進むラガッツォを目にして、周囲の人々は目を合わさぬようにしながら道を譲る。道端からラガッツォを無邪気に見上げる幼女を睨みつけると、彼女の母親らしき女性が焦った表情で彼女の手を引いてその場から立ち去った。
「――クソ」
腹の中が怒りで煮えくり返る。店の金を盗んだ濡れ衣を着せられたこともそうだが、店主の男が最後に見せた、行き場のないラガッツォを見下す侮蔑の視線がなによりも癇に障った。いつだって他者はラガッツォにあの視線を向ける。才能がなく、金も愛想もないラガッツォを人々は常に蔑み、馬鹿にした。
「……っくしゅ」
冷たい風が二の腕を撫で、ふと我に返った。街路樹の並んだ大通りを歩く人々は、いつの間にか厚い生地でできた服を纏って行き来している。彼らに対して、ラガッツォは夏に着る薄い生地の服のままだ。尻のポケットから平べったい財布を取り出し、中を覗く。数枚の銀貨が乾いた音を立てた。これでは新しい服や靴を買うどころか、今晩の食事を買えるかも怪しい。
馴染みの店に行ってツケで飯を食うしかねェな、あのクソ野郎、十日は働いたんだから給料払えよタダでこき使いやがって、と内心で毒づいた。
「……すみません」
大体一日八時間の約束で入ったのに新入りは仕事を覚えろだのなんだの言って何時間も残業させて、気まぐれに怒鳴りつけてくるし客の質はろくでもねェし
「すみません、貴方、貴方ですよ」
給料だって支払いが遅れてるって話だったから腹に据えかねた誰かが盗んだんじゃ
「止まってくださいませんか」
「んだよ、うるせーなァ」
ラガッツォは怒鳴りながら振り返ったが、背後には誰もおらず呆気にとられた顔をした。
「こちら、こちらです私はこちらに」
腰のあたりから声がするので見下ろせば、ラガッツォの足元にはスーツを着たハーヴィンの男がちょこんと立っていた。彼の金髪が太陽光を反射し濡れるように輝いている。
「もしよければ、少しお話しませんか。貴方にぴったりの仕事があるんです」
緑に黄金の混じったような色合いの瞳がラガッツォをまっすぐ見上げていた。
――なんだこの胡散臭い野郎は。
ラガッツォは男の第一印象をぐっと飲みこみ、なんとか返事をした。
「仕事ォ?」
「興味を持っていただけたようで嬉しいですね。立ち話もなんですから、店へ行きませんか。ああ、勿論支払いは私が持ちますから、ご心配はなさらずとも結構ですよ。貴方にぴったりの仕事があるんです」
口を挟むことが許されない調子で捲し立てられ、ラガッツォは男の勢いに押されたまま彼が案内する方向へと歩き出した。
***
「で、仕事ってのはなんなんだよ」
ラガッツォはソーダに刺さったストローを意味もなく回しながら眼前の男に問いかけた。彼は先程、分厚い紙でできた名刺を差し出しながら「ラヴィリタと申します」と名乗った。
「貴方、これまでどんな仕事をしてきましたか」
「どんなっつってもよォ、」
工事現場の使い走り、魔物退治の後方支援、店番、農場の餌やりとかだけど、と消え入るように呟く。十代の半ばに里親の家を飛び出してから、雇ってくれると言ってくれたところなら仕事を選ばず勤めてきたが、未熟な少年の身体でできることも限られており、子供の手伝いのような仕事しか回ってこなかったのが現実だった。
成人すれば少しはましな仕事があるかと考えていたが、それが甘い考えであると保証人を担ってくれる家族もきちんとした住所もないラガッツォが実感したのもそう昔の話ではなかった。
「そうですか。ならば保証しましょう。貴方の人生で一番楽な仕事がありますよ」
「はァ……」
つくづく胡散臭い男だなァ、とラガッツォはソーダを啜りながら思った。この男がいう「仕事」とやらが地獄に垂らされた最後の希望なのか、それとも地獄の更に底へ導こうとする使者なのかラガッツォには判別がつかない。
「ところで、最近の犬というのはいいものだと思いませんか」
「は? 犬?」
「そう。犬ですよ。わんわん、と吠える四つ足の動物」
ラヴィリタは頭に両手を当て、わんわん、と鳴いてみせた。
「で? 犬がなんなんだよォ」
「犬というのはいいものですよ。なんたって最近都市部では室内で飼うのが主流ですからね。厚い絨毯のうえで一日ごろごろしているだけで飼い主に褒められる。雨風凌げる家で三食食べて、散歩に行って可愛がられるのが仕事です。退屈だと思えば吠えればいいんです。飼い主がボールで遊んでくれるでしょう。ねだればおやつだって貰えるかもしれない」
「はァ……ああ、なんだ、犬を飼う仕事かァ? あの、金持ちのかわりに散歩させたりとか……」
「いいえ。でも良い暮らしだと思いませんか? 犬って」
「思うけどよォ……俺とは関係ねェし、犬なんて」
「犬になる仕事があるんです。いかがです?」
「は?」
ラガッツォは何を言われているのかわからず、ぽかんと口を開けたままラヴィリタを見つめた。彼は優雅な手つきでティーカップを持ち上げると、音もなく紅茶を啜り、ふと外を見遣った。枯れ葉が音を立てて色褪せた街を舞っていく。
「貴方が金持ちの犬になるのです。良い暮らしができますよ」
ラヴィリタの瞳が、暗く光った。
***
上着のポケットからくしゃくしゃになったメモを取り出し、日付と店の場所を改めて確認した。今日だけで何度この紙を確かめたかわからないが、再度紙切れを眺めた。
オープンテラスの席から、巨大な硝子越しに喫茶店の店内を見渡すと、多くの人がティーカップを片手に肩を寄せ合って談笑している。
ラガッツォは仄かな疎外感を抱きながら椅子に座り直し、表通りに顔を向けた。人々はせかせかとした足取りで通りを行きかっていく。
ラヴィリタのいうことには――ラガッツォは未だ半信半疑だが――ラガッツォのような人間をペットにしたい金持ちがいるらしい。それは結局売春なのか? と問いかけたラガッツォに、ラヴィリタは冷めた瞳で、貴方は犬に欲情するんですか? と返して「飼い主」と待ち合わせをする日付と場所を書いたメモを押し付け去っていった。
数日後、ラガッツォには相変わらず仕事も金も伝手もなく、仕方なく教えられた場所を訪れている。
身なりの良い人々が集まった高級店で飲み物を注文することも気後れし、テーブルの上にはメニュー表以外なにも置かれていないままだ。顔を隠すように掛けている眼鏡を押し上げた。早くその「飼い主」とやらがきてくれ、いや、こなくていい、という相反する気持ちに揺れ動きながら、こんな気持ちになるくらいならもういっそ帰ってしまおうか、とラガッツォが腰を上げた瞬間、テーブルの上にがさりと物が置かれた。色とりどりの花がよりあつまってリボンが掛けられ、いまにもこぼれ落ちそうな花束になっている。
「失礼、遅れてしまったようだ」
低音が耳に滑り込んだ。瞬間、香水の香りがふと漂い、消えた。白いコートを身にまとった銀髪の男がラガッツォの傍に立ち、穏やかな表情で彼を見下ろしている。
「待たせてしまったようだね。申し訳ない。仕事場で少し……そう、この花束も職場で貰ってね、置いておく場所がなかったものだから」
そういいながら男はラガッツォの向かいに腰を下ろし、メニューを広げた。手の甲に広がる刺青に視線が引き寄せられる。
「なにがいい? 紅茶は飲めるかい? すまない、紅茶を二人分頼むよ」
いつの間にか近寄ってきていた店員に注文すると、男はラガッツォに向き合った。
「さて……。そうだ、まだ名乗っていないね。私の名はフェルディナンドだ。きみはラガッツォくんだね?」
そうだ、と返事をしようとして、ラガッツォは思わず頷いた。
「よかった。聞いていた通りだ。『仕事』の件も、ラヴィリタが上手に説明してくれているといいんだけど」
彼は手を組み、上品に笑ってみせた。細い瞳がさらに細められ、赤い唇から整った歯列が覗いた。溌溂とした胸元ではタイが形よく結ばれている。うつくしい男だ、とラガッツォは思った。こんなに整った顔面と、恵まれた肢体を持っているのなら、女でも男でも選びたい放題だろうに。
何を好き好んで、こんな荒んだラガッツォのような男を飼おうとするのだろう。なにか隠された理由でもあるのだろうか。
「アンタの、」
犬になれって、と言いかけて、ここが外で誰かに聞かれる可能性もあることに思い至り、言葉をかえる。
「家で、アンタに言われた通り過ごすんだろ」
フェルディナンドは小さく首を傾げると、唇を綻ばせた。
「そうだね。どう振る舞えばいいかは私がきちんと指示するから、きみが考えないといけないことはそんなにないと思うよ。私の家で、契約通りの日数を過ごしてもらう。まずは一日きて慣れてもらおうかな。一日の契約だと翌日に、それ以上の日数だと週末に給料を支払おう。きみの望む方法でね。あとは――」
フェルディナンドは言葉を止め、紅茶を持ってきた店員に軽く会釈を返した。
「どうぞ。喉が渇いているだろう」
ラガッツォはフェルディナンドに促されるまま、ティーカップに手を伸ばした。華やかな香りが鼻を擽り、紅茶を口に含むと微かに甘い後味を残し喉を滑り落ちていった。
「きみからなにか質問はあるかい?」
「あー」
ラガッツォはテーブルの上で落ち着きなく手を握っては開いた。ここでなにも言わなければ話がまとまってしまいそうな雰囲気に僅かな焦りが生じる。
「その。に、人間の言葉とかって喋ってもいいのかァ?」
フェルディナンドは不思議そうな表情を浮かべ、肘をついて顎を手の甲に乗せた。
「勿論だとも。静かにしていてほしい場面もあるかもしれないけど、そのときはきちんと私が指示するよ」
「服は着てていいのか?」
「……きみの意思に任せようかな。きみが部屋では裸でしか落ち着けないっていうなら――」
「着ていたい」
「ならそうするといい」
「飯は三回? 二回とかじゃなく?」
「心配せずとも人間用の食事を日に三回用意しよう」
ふふ、とフェルディナンドは笑い、残りの質問は? とラガッツォを促した。
「夜は一緒に寝ないといけねェのか?」
「それもきみ次第だけど……まずは自分の部屋に慣れてほしいな。私の部屋とは分かれているからね」
ラガッツォはフェルディナンドを見上げ、口を閉ざした。
「もう質問はない? 契約には合意してくれるかい」
断ったところで、行く当てもなかった。ラガッツォはラヴィリタから提示された給料の額を頭の中で思い浮かべながら、フェルディナンドの胸元を見つめ、一度静かに頷いた。
***
「ここがアンタの家かァ?」
「そうだよ」
ラガッツォは石造りの一軒家を見上げ、喉を鳴らした。閑静な住宅街の奥まった場所に位置する、白い壁でできた平屋がフェルディナンドの家だった。門扉から玄関まで蛇行した石畳が敷かれており、庭には緑に色づく木々が植えられている。
「奥には中庭もあるから人目を気にせずゆっくりできるよ」
フェルディナンドはコートを翻しながら言い、玄関を開けて花束を片手に姿を消した。あとを追ってラガッツォも家の中に入る。広々とした空間には、背の低い落ち着いた色調の家具が置かれ、リビングの窓からは広い中庭を一望できた。
フェルディナンドはキッチンに花束を置くと、コートを脱いで手に掛けながらラガッツォに声を掛けた。
「好きなところに座って。きみはなにがあると落ち着くタイプだい? 毛布でもクッションでもぬいぐるみでも、なんでも用意しよう。ああ、服や靴もいるならいま言うといい」
ラガッツォは戸惑いながらリビングのソファに腰を下ろし、背に掛けられていた白い毛布を手に取った。ふと、フェルディナンドの香りが漂う。
「おや、それが気に入ったのかい」
上着を脱いでシャツを腕まくりしたフェルディナンドが、ティーカップとティーポットを手に現れた。
「いや、別に、新しいのわざわざ用意しなくても……」
「ではそれをあげよう。この家はきみの家だと思っていいから自由に振る舞いなさい」
注がれた茶から湯気が立ち昇る。机の上を整えたフェルディナンドは立ち上がって暖炉に近づくと、置かれた箱を手に取り、リボンをほどいてラガッツォに声を掛けた。
「『ラガッツォ』」
彼の呼びかけに背筋が伸びる。フェルディナンドを振り向くと、彼は真っ直ぐこちらを見つめていた。
唇が開く。強い口調で彼は命令する。
「『COME』」
ラガッツォは一気に張り詰めた空気に怯え、身を竦ませた。フェルディナンドという男の正体が急にわからなくなる。人間のかたちをした不気味な存在が、不意に眼前に現れた気がして恐怖心が心の中に立ち込めてくる。
「聞こえなかったのかな? ラガッツォ、『おいで』」
フェルディナンドの視線がラガッツォにじっとりとまとわりつく。白い睫毛に縁どられた緑色の瞳に囚われる。
彼の命令に従わなければ許されそうになかった。そもそも、彼の犬になるという契約に合意したのはラガッツォだ。彼からの命令は、仕事だ。これは仕事なのだ。
ラガッツォは唾を呑み込むと、意を決して立ち上がった。震えそうになる両足を叱咤して、フェルディナンドに近寄る。彼は近づいてきたラガッツォを褒めるように優しく手を取り、近くの椅子へと導いた。腰を下ろしたラガッツォの頭を彼は優しく撫で
「言うことを聞けたじゃないか。いい子だね」
と優しく囁く。甘い言葉に、身体の芯がじわりと熱を孕んだ。
フェルディナンドは片手で持っていたものをラガッツォに披露した。
「これはきみにきっと似合うと思うんだ」
それは、黒く光沢のない革でできた首輪だった。頑丈そうな作りのそれは、金具が鈍く輝き、ラガッツォにこの場の上下関係をありありと教えていた。
「首を出しなさい。なに、こわがることはない」
フェルディナンドの命令に、しばし躊躇い、やがてラガッツォは顎を上げてそっと首を彼に差し出した。
彼の骨ばった手が首輪を解き、ラガッツォの首に巻き付ける。首に微かな圧迫感が加えられ、耐えきれず目を閉じた。間近に迫ったフェルディナンドの存在感に背筋が震える。彼の吐息が耳の産毛を揺らした。
金属音を鳴らしながらベルトは締められ、ラガッツォの首におさまった。まるで元からその場所にあったように、革でできた首輪はラガッツォの首にしっくりと馴染んでいた。
「私の想像した通りだ。きみによく似合う」
フェルディナンドはラガッツォの頭を撫で、大人しくできていい子だね、と褒めた。
ラガッツォがそっとフェルディナンドの服の裾を掴むと、彼は掌に力をこめた。ラガッツォの肩を抱き
「頭を撫でられるのが好きかい?」
と問いかける。
ラガッツォは赤くなった顔を隠すように俯き、一度小さく頷いた。
テーブルに用意された紅茶を飲み干すと、部屋を案内しようと言ってフェルディナンドは立ち上がった。
リビングを出て、廊下を進む。ここは空き部屋で、今は物置になっていると言われた扉を通り過ぎ、ここがきみの部屋だよ、と案内された部屋を覗き込む。
アイボリーの壁紙が張られた広い部屋に、クローゼットとベッドが置かれていた。
「近いうちに机や椅子を置こう。それともソファがいいかな? なにか欲しいものはあるかい」
フェルディナンドはラガッツォの肩を抱いて弾む声で問いかける。必要なものがあればすぐに揃えよう、と彼は繰り返した。
廊下に出て、フェルディナンドは奥を指さした。
「この先には私の書斎と部屋がある。私がそこにいるときはいつでも来て構わないよ。寂しくなったら私のところへおいで」
ラガッツォは「わかった」と返し、しばし沈黙した。
「なァ、トイレってどこだ……借りたいんだけど」
フェルディナンドはラガッツォの手を取ると、廊下を戻る。
「トイレはここだよ」
と案内されたことに安堵したラガッツォは、油断した隙に扉の開かれた個室へ押し込まれた。
「なっ……」
その場で思わず足踏みし、壁に手を突く。
一緒に個室に入り扉を閉めたフェルディナンドは、腕を組み扉にもたれかかった。
「トイレはそこだよ。してご覧」
「は?」
ラガッツォはフェルディナンドの真意を測るように彼の顔を見上げた。薄い微笑みを湛えた彼はラガッツォを見下ろし、「聞こえなかったかい?」と言った。
「トイレの躾も飼い主の仕事だからね」
「なっ……に言ってんだよォ、出てけ、出てかねェか」
「おや、ひとりでできないのかな」
フェルディナンドに抗うラガッツォの手首を掴むと、フェルディナンドはラガッツォの身体を抱きしめるように拘束した。動きを封じられたラガッツォは、唸るような声を出した。
「っざけんな、テメエ……!」
「そう怯えることはない。ひとつひとつ覚えていこうね」
腰のベルトが器用に外され、下着ごと服をずり下ろされる。
「ひっ……!」
性器が外気に触れ、鳥肌が立った。フェルディナンドの掌がラガッツォのペニスを掴み、方向を定める。人生で初めて他者から陰部に触れられ、ラガッツォはその強烈な違和感に身を捩らせた。
「ほら、してごらん。恥ずかしがることはない。きみの面倒をみるのが私の役割だからね」
「ふっ……」
羞恥に顔が染まる。心臓が音を立てて鼓動を打っていた。今すぐこの場から逃げ出したかった。フェルディナンドの顔面を蹴り上げ、ついでに股間も蹴り上げ、この変態男、金なんて要らねェよクソがと罵って家を去りたかった。
しかしフェルディナンドの力に逆らうだけの強さはラガッツォに備わっておらず、昼から何杯も飲んだ飲料の所為で尿意の我慢も限界に達していた。
「あ、離せっ……離せよォ……!」
ラガッツォは腕を振り回そうともがき、暴れ、そして沈黙した。両目から涙が溢れる。しばらくして、水音が個室に響き渡った。
「……あっ」
脱力したラガッツォが洟を啜ると同時に、フェルディナンドがタンクのレバーを押した。水が流れる音に、ラガッツォの嗚咽が混じる。
フェルディナンドは手際よくラガッツォの服を整えると、洗面所まで彼を導き、タオルで涙に濡れた顔を拭ってから力強く抱きしめた。
「いい子だね、ラガッツォ。言うことをきけるきみはなんて賢いんだろう。私は幸せ者だ。かわいい子、ずっと私がかわいがってあげるからね――」
ラガッツォは呆然と洗面所の鏡を眺めた。銀髪の男に抱きしめられ、頭をぐしゃぐしゃに撫でられている赤髪の痩せた男は、泣きはらした瞼のまま、何故か幸福そうな笑みをその顔に浮かべていた。
***
包まった毛布からは、フェルディナンドの匂いがした。
フェルディナンドからされた行為に腹を立て、ラガッツォは黙りこくったまま床の上で毛布に包まっていた。フェルディナンドは口をきかない事には何も言わず、
「床の上だと身体が冷えてしまうからソファの上にしなさい」と言ったきりで、ラガッツォが返事をしないと追加の毛布やクッションを幾つか、ついでに白色のテディベアもラガッツォの横に置いてキッチンに去った。
日がとっぷりと暮れ、中庭の様子もリビングからは窺えなくなった頃、フェルディナンドが立ち働くキッチンからいい香りが漂い始めた。
数日碌に食事を摂れていない腹がきゅう、と情けなく鳴る。
「ラガッツォ、ご飯だよ。おいで。それとも私が食べさせないといけないかい?」
フェルディナンドの呼びかけに、ラガッツォはのろのろと毛布から顔を出すと、渋々立ち上がった。
食卓に座り、用意された料理を眺める。焼きたてのパンに、パンの漬かったスープ、インゲン豆と肉の煮込みが湯気を立てている。大鉢には新鮮な緑のサラダが山盛りになっていた。
「足りるといいんだけど……きみはいっぱい食べた方がいいからね。足りないようならチーズやソーセージを切ってあげよう。果物もあるから心配しなくていい。明日の朝は果物のケーキを焼こうか。パウンドケーキは好きかな?」
「なァ……」
ラガッツォは磨き抜かれた銀食器を見下ろし、言いづらそうにフェルディナンドに切り出した。
「俺、テーブルマナーとかいうやつよく知らねェんだけど……」
フェルディナンドは不意を突かれた表情を浮かべると、柔らかく微笑んだ。
「ただの家の食事だよ。そう肩肘張ることはない」
彼はグラスにワインを注ぐと、きみもいるかな? と問いかけ、首を振ったラガッツォにじゃあきみは葡萄ジュースにしよう、と瓶を出した。
「マナーを知りたいなら今度一緒にレストランまで食事にいこう。なに、心配はいらない。私が教えてあげるからね」
フェルディナンドの言葉に安堵し、ラガッツォはフォークを手に取った。適当に目の前の食べ物を口に運び、咀嚼する。その瞬間、これまでに感じたことのない旨味が口の中に広がった。
「……」
手でせっせと皿と口を往復し、無心に食べ物を頬張っていると、途中でフェルディナンドからの視線を感じた。途端にばつが悪くなり、手を止める。
「もういいのかい?」
「いや……なんか、すまねェ。飯が美味くて」
「口にあったならなによりだよ。きみの好きなものを教えてほしいな。料理は得意なんだ。なんでも作ってあげるよ」
酷く優しい言葉にラガッツォは詰まり、そのまま料理に集中した。押し殺した心の奥から、言葉が這いずり出す。目の前の男は、なぜこれほど価値のない己に優しくしようとするのだろう。きっとなにか狙いがあるのだ。ラガッツォの知らない何かが。だって俺にはなにもない。才能も、なにも。食事を続けるラガッツォの心の中では疑念がずっと渦巻いていた。
***
身体を洗ってあげようか、と提案するフェルディナンドをなんとか押しとどめ、ラガッツォは一人で入ることのできる風呂を手に入れた。
風呂から上がると、洗面所には新品のパジャマがいつの間にか用意されていた。袖を通し、リビングを覗く。フェルディナンド
がソファで分厚い書籍を開いている。
「俺はもう寝てもいいのかァ?」
言葉にすると、一気に眠気に襲われ、ふわぁ、と欠伸が出た。
「なにか困ったことはない? ないんだね、そう、おやすみ。きみのベッドに行って寝なさい。暖かくするんだよ。寒ければ別の毛布がクローゼットに入っているからね」
フェルディナンドはラガッツォを抱きしめ、こめかみに軽いキスを贈った。
明かりを落とし、ベッドで布団に包まる。安らかな暗闇に包まれ、ラガッツォはどっと疲労を覚えた。
屋根と壁がある。風が吹くたびミシミシと鳴らない屋根と壁が。なにかあれば助けを求められる人が隣の部屋にいる。何を考えているかわからないけれど、作る料理が美味くて金を持っていそうな男。そして明日の朝には金が手に入る。
彼は言った。マナーを教えるためにまたレストランに行こうと。彼はラガッツォが望めばこの暮らしを続けさせてくれるのだろう。
そっと首に手を伸ばす。風呂に入る前、フェルディナンドはラガッツォから首輪を外し、
「明日の朝またつけようね」
といって黒革の首輪を暖炉の上の箱に仕舞った。
彼の優しい手を思い出す。彼がラガッツォの頭を撫で、いい子だねと褒めるたび奇妙な熱が身体を巡る。腰の奥が熱くなる。
ラガッツォは目を閉じたまま、そっと手を己のペニスに伸ばした。昼間に触れられたフェルディナンドの掌の感触を思い出すと、腰に熱がわだかまり熱く張り詰めた。
性器を掌で包みこみ、上下する。瞼の裏にはフェルディナンドの笑顔が浮かんでいた。
彼が耳元で囁く。
「おや、もうこんなに大きくして。私に触られるのが好きかい」
彼はあの長い指でラガッツォのペニスを上下するだろう。先端をくじり、双球を柔く揉む。
「ラガッツォ、いい子だね」
「あ……」
彼の手が滑りの助けを借りて、強烈な快感を与えてくれる。
性器を擦る手に力が籠もった。熱が昂ぶり、限界が見え始める。フェルディナンドが耳たぶを食み、低音で囁いてくれる幻を見る。
「好きにいってごらん、私が全部してあげるからね」
「あぁ……っ、フェルディナンドッ……」
彼に抱きしめられ、頭を撫でられる幻想に身を委ねながら、ラガッツォは己の掌に精を放った。
***
食卓を見下ろすと、朝早くに焼き上げられたと思しきドライフルーツ入りのパウンドケーキが厚くスライスして並べられてあった。傍には角の立った生クリームと、自家製のジャムが置かれている。机の上には他にも、焼きたてのパンやオムレツ、水を弾く新鮮な野菜で作られたサラダ、スープ、果物が載っていた。
ラガッツォは顔を心持ち伏せたままフォークに手を伸ばした。フェルディナンドの顔を真っ直ぐ見ることはできなかった。
朝早くからキッチンで立ち働く彼の後ろ姿を目で追いながら、考えたのは昨夜の自分の行いだった。彼の掌の感触を思い返しながら己を慰め、精を放った事実がじわりと心を蝕む。明るい日差しの中で改めて考えると、ラガッツォがした行為はフェルディナンドを冒涜する振る舞いであったような気さえしていた。包丁を握ってリズムよく上下する彼の手を通して淫らな昨夜の記憶が否応なく思い起こされ、ラガッツォは思わず目を反らした。昨夜はよく眠れたかい、と通った声で問いかけられても、口の中で返事のようなものを呟くことしかできなかった。
「私は朝はあまり食べなくてね。でもきみは食べた方がいい」
言葉の通り、フェルディナンドの前にはコーヒーカップが置かれたきりだった。彼は手で挽いた香ばしい匂いを放つコーヒーを啜りながら届けられた朝刊を手繰る。その様子を上目遣いで窺いながら、ラガッツォは気になっていた事柄を恐る恐る切り出した。
「なァ……」
「ん? なんだい」
「まずは一日の契約って言ってたけどよォ……そのあとはどうするんだァ?」
「ああ」
フェルディナンドは唇をたわませ微笑む。
「私は今後もずっと契約してほしいね。判断はきみに任せよう。私と共に過ごしてもいいと思えたなら、また私のところへおいで」
フェルディナンドは新聞を畳んで机の隅に置くと、ラガッツォの頬へ手を伸ばした。彼の大きな掌が頬を軽く撫で、ラガッツォの唇の端についていたパン屑を払った。
「きみはとてもかわいいよ。一晩一緒の家で過ごして改めて思ったな。きみはかわいい。ずっと私が守ってあげたい。きみが許す限りずっと飼ってあげたい」
フェルディナンドの手がラガッツォの赤毛を撫でる。頭部をゆっくりと彼の手で愛撫され、ラガッツォの心がとろりと溶けだす気配がした。
「いつだって私は待っているよ、きみのことをね。きみの居場所はいつだって私の家にある。心配することはない、なんだって用意してあげるよ。いつまでも心安らかに過ごせるはずだ――」
彼の手が離れる。名残惜しさに身じろぎした瞬間、フェルディナンドが椅子から立ち上がり、椅子と床が擦れる音にラガッツォははっと我に返った。
「さて、それとは別に約束のものを渡そう」
家の奥に消えたフェルディナンドはすぐにリビングへ戻ってきたが、彼の手には見慣れぬ革袋が握られていた。
「約束分に上乗せして入れてある。受け取っておきなさい」
ラガッツォは居心地が悪い思いをしながら、フェルディナンドから金貨の詰まった革袋を受け取った。彼の言った言葉の通り、袋はずっしりと重く、この金があれば二、三ヶ月は生き延びられそうだった。だが、ラガッツォが感じたのは喜びではなかった。むしろ、金など渡されなければよかったのにという苦い思いだった。
フェルディナンドは偶に奇異な振る舞いをするが――奇異と言えばそもそもラガッツォを『飼う』こと自体おかしな振る舞いだ――彼はラガッツォに対して優しく接し、温かな環境をくれた。腹いっぱいの食事と安らげる部屋をくれた。頭を撫で、いい子だと褒めてまでくれた。それらは、どんなに乞い願っても子供の頃のラガッツォに与えられなかったものたちだ。こんなぬくもりをくれたのは、フェルディナンドが初めてだった。
これが無償で与えられたものだったならどれほど幸せだっただろう、とラガッツォは思った。まるで胸の内に穴が開いたような気分だった。穴のなかには冷たい風が流れ込んでは吹き去っていく。人生で初めて与えられたこのあたたかな「何か」を金に変換しないでほしい、という言葉をぐっと飲みこみ、ラガッツォは金貨の詰まった革袋を固く握り締めた。
その様子を静かな瞳で見下ろしていたフェルディナンドは、己の椅子に戻るとラガッツォが使っていたフォークを手に取り、温室で栽培された苺を突き刺した。赤く艶めかしく光る果実をラガッツォの口元へと運ぶ。
「ほら、ご飯を食べてしまいなさい」
ラガッツォはフェルディナンドの紋様が刻まれた手をじっと見つめ、やがてそっと口を開いた。口の中に運ばれる果実へ歯を立てる。フェルディナンドを窺うと、緑色の透き通った瞳がラガッツォを捕らえた。口内に酸味が広がる。
もうこのまま、この家から出るなと言ってくれたらよかったのに。私の元にいろと命令してほしい。
ただきみがほしいと願ってほしい。
ラガッツォは果実を咀嚼しながら、宛てのない考えを巡らせた。
***
一日ぶりに戻った自室は、色褪せて見えた。壁紙は破れて剥がれ、窓枠は僅かに歪んでいる。硝子にはずっと罅が入ったままだ。隣家に接した窓から日光が差し込むことはない。
天国のようなフェルディナンドの家とは正反対の、この牢獄のような家に再び戻ってきたのだ、とラガッツォはため息を吐いた。靴を脱ぎ、暫くうろうろと室内を彷徨ったあと、枕の下にフェルディナンドから渡された金貨の詰まった革袋を隠した。
そのままベッドに寝ころび、腕を頭の下で組む。無数のシミが浮き出た天井をぼんやりと眺めた。
――あなたには一切の才能がない。魔法の才能が完全に欠如している。
幼いラガッツォに教師から告げられた言葉を聞いて、親は泣き崩れた、らしい。らしい、というのはそれらを養父母から飽きるほど聞かされたからだ。実の両親との思い出は然程脳内に残っていない。朧げに覚えているのは、夜に家から閉め出され、雪の降る庭に立ち尽くし恐怖と心細さと霜焼けの痒さに震えていたことと、なにか失態を犯したのか手の甲をしたたかに鞭で打ち据えられたことだけだ。
彼らは魔法の才能がないラガッツォを邪険に扱った。両親とは遠縁にあたる養父母の元へ行かされたのは九歳の頃だったが、きっと彼らはこれでようやく厄介払いができたと心の底から安堵しただろう。
不出来な子供を半ば無理やり押し付けられた養父母との折り合いも悪く、十代の半ばには既に彼らの元から出奔していた。
あなたには才能がない。
教師の冷ややかな声がラガッツォの人生を縛ってきた。
魔法の才能がなければ人間としての存在価値がない。
おまえには価値がない。
両親が囁いた侮蔑に満ちた言葉が、今も耳に残っている。
だからこそ謎なのだ。何故フェルディナンドは、こんな『価値のない』ラガッツォを欲しがるのだろうか。彼は暖かな部屋を与えてくれるという。食事を出してくれるという。その対価として金までくれるという。
金持ちの考えることはよくわからねェ、とラガッツォは寝返りを打った。外見が好みだったのだろうか。こんな痩せっぽちの枝みたいな身体をした可愛げのない男が? わからねェといえば、アイツよりにもよって俺のペニスを素手で掴んで、と考えたところで頬が紅潮する。
――あんな、
ラガッツォが音を立てて唾を呑んだ瞬間、玄関のドアが煩く鳴った。ガンガンと扉が叩かれ、部屋の壁が微かに震える。
「おい、ラガッツォ、いるんだろ? 出てこいよ」
ラガッツォは大きく息を吐いて頭を掻き、玄関までのろのろと歩いていく。ドアを開けると、大声の主がせわしない様子で立っていた。
「やっぱりいるじゃねえか。昨日何処に行ってんたんだよ。遂にお前が飛んだってみんな噂してたぜ」
玄関先に立つラガッツォの悪友は、そう言うとポケットに突っ込んでいた手を差し出した。
「で?」
「で? なんだよォ」
「どっかで稼いできたんだろ。千ルピ返せよ、貸してただろ」
「あー……ちょっと待ってもらっていいか。別に逃げねェからよ」
ラガッツォは一旦扉を閉じると、ベッドに戻り革袋から金貨を取り出した。革袋に詰まった大金の存在を友人たちに知られると、その出所を追及されて面倒なことになる未来が見えていた。
再び玄関に戻り、扉を開けて友人と相対する。
「ほら、これで帳消しだなァ? なんだよ、カジノにでも連れてってもらうのかァ?」
「おう、今日こそ当てて一攫千金よ。見てろよ、この金百倍にしてみせるからな」
拳を握ってみせる友人に苦笑しながら彼を見送り、扉を閉じる。背を扉に預けると、どっと疲れに襲われた。眉間を指で揉み、ラガッツォは頭を振る。何故か無性に寂しかった。こんな隙間風の吹く部屋など捨てて、フェルディナンドの元に戻り、彼の匂いのする柔らかな毛布に包まれたかった。
――きみの居場所はここにあるのに、なぜ来ないんだい?
フェルディナンドがラガッツォの肩を両手で掴み、耳元で囁いた気がした。
***
連続してくしゃみをすると、ラガッツォは鳥肌の立つ肩を擦った。秋の風は容赦なく吹きすさび、薄着のラガッツォから体温を奪っていく。
空を見上げると、鈍色の雲が一面を覆っていた。近いうちに雨が降りそうな天気だった。どこか湿った空気が周囲に充満している。
昨夜は自室で薄い毛布に包まって眠った。フェルディナンドの家に戻れば歓迎されるかもしれない、という淡い期待を抱きながら、しかし金を目当てにすぐ戻ってきたと嘲られることが怖かった。
暗い部屋で昼過ぎに見慣れた悪夢から目覚め、ラガッツォは自分自身に対して認めた。俺はフェルディナンドの家に戻りたがっている。
結局正式に『契約』を結んだら家に住まわせてもらえるのかも聞いていなかった、と考えながらラガッツォは住宅街まで道を歩き、静かな邸宅の並ぶ住宅地の更に奥まで迷わず進んだ。一瞬の躊躇いのあとフェルディナンドの家の扉を叩いたが、中から返事はなかった。てっきり返事があるものと思ってここまで来たラガッツォは落胆したが、よく考えれば一般的な勤め人は仕事へ行っている時間だ、と思い至る。
そのままフェルディナンドの家の前に座り込み、ただ過ぎる時間をすごした。住宅街の奥まった場所に位置しているせいか、往来を通る人もいない。人っ子一人存在しない空間で、ラガッツォはあてなく座り続けた。
日差しが傾き、周囲が薄暗がりに包まれる頃、門に人影が現れた。彼は玄関先に蹲るラガッツォに気づくと、足早に駆け寄ってきた。
「ラガッツォ、いつから居たんだい。……ああ、なんてことだ。身体がこんなに冷えてしまっている」
フェルディナンドはそう言いながらコートを脱ぐと、ラガッツォの肩に被せた。服を通して伝わってくる彼の匂いに、ラガッツォの胸が高鳴る。
「上着を買えるくらいのお小遣いは渡しただろうに。きちんときみ自身のために使わないとだめだよ」
フェルディナンドは小言を口にしながら玄関の鍵を開け、ラガッツォを室内に押し込んだ。すぐに火を熾すから、とフェルディナンドが動き回る傍で、ラガッツォはソファに腰を下ろし、フェルディナンドから与えられたコートをぎゅっと握りしめた。
暖炉に火を熾し、湯を沸かして淹れた紅茶のカップを手に、フェルディナンドもまたラガッツォの隣に腰を下ろした。さりげなく腰へ回された片腕に、思わず身体が強張る。
「それで、何の用だったんだい? これからもここで暮らしてくれる気になってくれたのかな」
ラガッツォは手にしたカップを両手で包み込み、じっと見下ろした。乾いた唇を舌で舐める。
「あ、ああ。考えたけどよォ、アンタに『飼われて』やってもいいんじゃねェかなって……」
目を閉じる。薪の爆ぜる音が静かな空間に響いていた。
「どうせ俺には身寄りも行く場所もねェし、才能だってねェし、なんもないからアンタが欲しいっていうならやるよ。俺なんか、犬が似合いだ」
「そうかな」
フェルディナンドは静かな声で応えた。
「きみがそんなことを二度と口にしないほど可愛がってあげたいものだ」
そう言って、彼はラガッツォの身体を服越しに数度撫でた。
「じゃあ、この書類にサインしてもらおうかな」
と立ち上がったフェルディナンドが棚から取り出した書類には、専門的な単語が細かい字で長々と綴られていた。ラガッツォは眉を顰め、書類を手に取ってはみたものの、すぐに読むことを諦めた。
「ここに君の名前を書いて」
指示された場所に自身の名前を書く。何枚かに名前を書いたところで書類とペンを取り上げられ、
「これで我々は『契約』したことになる」
と微笑みかけられた。
「なァ」
「なんだい?」
「今日はこの家に泊まっていっていいのかァ?」
フェルディナンドは目を細めると、書類を片付け、手を組んだ。人差し指でリングが鈍く光っていた。
「これから、きみはこの家に住むことになる。ルールを説明しよう。まず、私の言うことを必ず聞かなければいけないよ。できるね?」
ラガッツォは内心で、もしかしてなにか迂闊なことをしてしまったのではないだろうか、と曖昧な疑念を抱きながらフェルディナンドの言葉に従い頷いた。
「次に、食事は私が与えるもの以外は食べてはいけないよ。外に出かけて食べてくるのも駄目だ。なにかを口にするときは必ず私に許可を取りなさい」
フェルディナンドの指先が一定のリズムを刻んでいる。彼の心のペースを表現するように。
「あまりルールが多いと覚えられないだろうから、これを最後にしよう。お風呂に入るとき以外は首輪をつけるよ。いいね」
ラガッツォはフェルディナンドの顔を窺い、そっと首を縦に振った。まるでフェルディナンドの手が鎖を握っているかのような気がした。彼はその鎖をラガッツォの首輪に繋げる。鎖を通して彼の意思を教える。彼は鎖でラガッツォの身体を包み、愛おしむのだろう。
彼はラガッツォを愛おしそうに撫でるのだ、巻き付けた鎖越しに。
自由のないラガッツォを愛すのだ。
支配され、隷属したラガッツォを。
「……わかった」
「呑み込みの早い子が私は好きだよ」
彼の手が伸び、ラガッツォの頭を撫でた。ぬるく甘いミルクが満ちたようなラガッツォの心が波打ち、仄かな熱を放った。
「そうだ、きみに見せたいものがあるんだ。きみの部屋においで」
フェルディナンドがラガッツォの手を取り、与えられた部屋まで導く。前を行く彼の背中は広く逞しかった。
「ほら、少し物を増やしたんだ」
彼が言った通り、部屋の中心には以前にはなかった背の低い机とソファが置かれていた。麻布が張られたソファの上には、新品のクッションが幾つか置かれている。
「きみの趣味じゃなかったら買い直そうと思うんだが、暫くはこれを着るといい」
フェルディナンドが開いたクローゼットの中には新品の洋服が一列に並べられていた。近くの一着を手に取り、ラガッツォは自分の身体に押し当てる。シャツのサイズはラガッツォの身体とぴったり一致していた。
「あとこれを昨日文具屋で見つけてね。きみに是非贈りたいと思ったんだ」
そう言って、フェルディナンドは机の上に置かれていた小さな包みを開封した。中からは精巧な細工が施された小箱が現れた。
「これはオルゴールなんだよ」
彼がそう言いながら優雅な手つきで蓋を開けると、中には軽やかな音楽と共に回転する天体の細工が収まっていた。
「可愛いだろう。きみにも見せたいと思って……」
そう告げるフェルディナンドの頬はかすかに上気していた。彼が抱いているらしい浮ついた喜びを感じ、ラガッツォの唇も思わず綻ぶ。
「……ありがとう」
素直な気持ちでフェルディナンドに言うと、彼からオルゴールを手渡された。手の上に載ったそれをしげしげと眺め、繊細な作りの小箱を壊さないように注意しながら机まで運ぶ。
フェルディナンドが背後からラガッツォの肩を掴んだ。耳元で低音が囁く。
「さあ、戻って首輪をつけようか」
***
