グラブル(フェルラガ)
浅い眠りがもたらす厭な気怠さを感じ、ラガッツォは身体を捩った。外で人々が活動する気配がする。少女の笑い声が庭から響いていた。ボールが壁に打ち付けられる衝撃が伝わってくる。
ぐらり、と身体が揺れる。ベッドが軋み、耳元に吐息がかかった。
「もう昼だよ、お寝坊さん」
「……」
夢との境界を彷徨いながら、ラガッツォは天井を見上げた。太い梁が一直線に天井を貫いている。フェルディナンドは昨夜のことなどなかったかのようにラガッツォを親し気に抱きしめていた。
昨晩は風呂に入った後、会話もなくベッドの端で丸まって寝た。フェルディナンドは一階に下りることなく、ラガッツォの隣で夜を越したようだった。
「今日の夜は光華大会があるそうだよ。夕方ごろから街へ出ようか」
穏やかな声に、まるで自分たちが本物の親子であるかのような錯覚を覚える。俺たちは親子で夏祭りにきていて、花火を鑑賞し、やがて故郷に帰るのだ。
そうであったらどれほどよかっただろう。
ラガッツォは夢想する。ふたりであの小さな家に帰る。
彼は家から一歩も外に出ず、毎晩ラガッツォに物語を読み聞かせてくれる。キスを贈ってくれる。
そして父と子として互いの生を全うする。
そんな、あり得ない未来。
フェルディナンドは親し気にラガッツォの頬に口づけを贈ると、ベッドから起き上がった。
「……じゃあもう少しゆっくりしていてもいいなァ」
頭の下で手を組み、ラガッツォは自棄になって言った。
その言葉に頷いたフェルディナンドは、新聞を手にしてソファに腰を下ろす。テーブルにはどこかから持ってきたと思しき紅茶の注がれたカップが置かれていた。
彼の姿は日常生活を共にしていた頃から微塵も変化していなかった。小さな一軒家で、幼いラガッツォと昼下がりを過ごしていた頃の姿のままだ。
「なァ……話をしてくれよ」
フェルディナンドは唇をたわませ、応える。
「どのお話がいいんだい?」
「驢馬の話」
フェルディナンドは新聞を開いたまま、まるで紙面を読み上げるように訥々と語り出した。
「あるところに驢馬が生まれました。彼は飼い主にたいそうかわいがられました。成長した彼は荷馬車に乗って」
驢馬は旅に出る。荷物を背負い、主を得て、世界中を旅する。山道で落石に巻き込まれて怪我をする。草を食んで、主の入っていった建物の扉を見上げる。朝焼けに包まれた川を渡り、水の冷たさを感じる。花畑を横切って、雨に打たれ、嵐の中を行進し、砂漠の気配を感じ、騎空艇に乗って島を渡ることさえあった。彼は荷物を運び、兵器を運び、生まれたばかりの赤子を運んだ。
「そして彼は故郷の地に戻ることを夢見ながら草原で眠るようにその生を閉じました。その姿を見ていた女神は哀れみ、かつての飼い主のもとへ魂を運んでやったのです。彼は今でも生まれた地を自由に駆け回っています。自由な魂となって」
話はそこで終わる。そしてそのあとに彼は必ず言う。
「神さまなんてものを信じてはいけないよ、ラガッツォ」
ラガッツォもまた必ず言う。
「どうしてだよ」
「存在しないものだからね。存在しないものに願ってはいけないのさ。願いというものは、確かに願いを聞き届けてくれるものに願わなければ」
そう言って、アンタは願った。神なんていないといった口でアンタは願ったのだ、歪な星晶獣に。
そして「願い」ごと墜落した。地に落ちた隕石のように、土にまみれて、汚れて、ちっぽけになってしまった。
アンタの願いが全ての元凶だった。
女神は正しいことをしたのだ。彷徨う魂を掬い上げ、あるべき場所に戻してやった。人々は祈るべきだ、星にではなく、この世に存在しない神にこそ祈るべきだ。
「願い事なんざ、自分の手で叶えてこそだろォ」
「そうだ。けれど、叶えられない願いもときにはある」
アンタの願いは叶わなかった。
俺の願いだって叶わない。星々でさえ救えない。
俺は祈り続けている。
彼の願いが叶いませんようにと祈り続けている。
かみさま。かみさま。
どうか彼が無事に彼の生を終われますように。
美しく特別な彼の魂がどうか救われますように。
太陽の強い光は地上にまっすぐに降り注ぎ、日差しの届かない部屋を濃い影が包む。
フェルディナンドが遠くで言った。
「宿の人たちは今日は家族で過ごすそうだよ」
日が翳ってきたきた時間に、ラガッツォとフェルディナンドは街に出た。宿を出るとき、サラはロベルタにユカタヴィラを着せながら、光華は川で打ち上げられるから川沿いに会場が作られているのだと教えてくれた。
色とりどりのユカタヴィラが通りを歩いていた。大柄な花が描かれたピンク色が目の前を横切る。少女たちの頭で髪飾りが揺れて七色の光を放っていた。
通りで歓声が上がる。
星晶獣を象った神輿が男衆に担がれ、声を上げながら通りを練り歩いていく。紙で作られた女神像が遠くを見つめ、指さしている。彼女の足元には父殺しの英雄が月桂樹を戴いて剣をかざしている。
人々が拍手でそれを迎えた。
ぼんやりとその光景を眺めていると、
「気をつけなさい」
とフェルディナンドがラガッツォの腰を抱いた。背後を少年が走り去る。彼の手には焼きそばがあった。
フェルディナンドに手をつながれ、ラガッツォは川まで続く通りを歩く。道の隅で、切れた下駄の緒を片手にぶら下げた少女がエルーンの男の子に何事か文句を言っていた。
「きみもなにか食べるかい? ホラ、あそこにあるポム焼きなんかはどうかな」
「別に腹は減ってねェからいい」
そうかい、と呟いたフェルディナンドは、いそいそと財布を取り出すと出店に近寄った。彼は自分のためにかき氷を買い、青色のシロップをなみなみと注いでいた。
「なあ、会場ってあそこかァ?」
人混みの頭越しにラガッツォが指さした河川敷には、人が密集していた。既にあらゆる場所に人々が座り、足の踏み場もない。ラガッツォの周囲の人々も、半ば諦めた口ぶりで場所を探しながら周辺を回遊しているようだった。
「ちょっとくるのが遅かったんじゃねェか。もう場所がないぜ」
フェルディナンドはラガッツォの言葉にしばし思案すると、
「私についておいで」
と、手を引きながら道を外れて、大通りから繋がる小路に入った。
「お、おい」
戸惑うラガッツォを他所に、彼は迷いのない足取りで直進する。角を曲がり、耳の折れた雑種の犬が吠える坂を上り、夏蜜柑の生る雑木林の隣を抜ける。
彼はそのまま、とある敷地のなかに踏み入った。青い木々が茂る空間は、静かで人の気配がなかった。
「おい、勝手に入っていいのかよォ、ここ」
「おいで」
フェルディナンドの声に導かれ木々の間を抜けると、そこは教会だった。小さな聖堂が建ち、敷地の傍らには数人が座れる板張りのベンチが置かれている。
「ここなら邪魔がない」
「……変なことに詳しいんだな、アンタ」
「褒め言葉として受け取っておこうかな」
見てごらん、と彼が言うので視線をやると、彼は口を開き舌を伸ばして悪戯に笑った。舌の表面が真っ青に染まり、艶めいた姿を晒していた。
不意に見せられた彼の油断しきった姿に、胸が思わず高鳴った。息を呑み、そして深々とため息をつく。
「アンタが楽しそうで俺は嬉しいよ……」
ラガッツォは脱力し、ベンチの上で胡坐をかくと肘をついた。日は完全に落ち、周囲が暗闇に包まれる。
隣に座るフェルディナンドの姿さえ紛れてしまうほど闇は濃密だった。虫のなく声だけが、その場に響いていた。木の葉が重なり、乾いた音を立てていた。
ふと背後に気配を感じ振り返る。しんとした闇が背後に広がっていた。
「なあ、フェルディナンド……」
アンタはそこにいるんだよな、と問いかけようとした瞬間、遠方でわっと人の歓声が上がった。
光が、空で舞い散った。
身体を揺さぶる破裂音がする。ぽつり、ぽつりと空に花開く大輪の光が敷地を照らした。空に打ち上げられる光華はやがてその数と頻度を増し、夜空を華やかに彩った。
広がった夜空一面に、光が舞い散る。
様々な形を描きながら、咲いては消えていく。
振動に背筋が震える。ラガッツォは、手を伸ばした。闇の中で、隣にあるはずの体温を探る。
探し当てたフェルディナンドの左手を、強く握った。
光華に照らされたフェルディナンドの横顔が浮かび上がる。青、緑、黄、赤と色を変え、彼の髪の縁が光る。
彼はラガッツォを見下ろすと、愛おしいものを眼前に見つけたといった表情を浮かべた。だがそれはラガッツォも同じだった。
唯一無二の存在がそこにいた。二度と手放したくないと思った。彼は何度でもラガッツォのもとに戻ってくる。
ここで決めるしかない、とラガッツォは覚悟した。
彼に己の言葉が通じるかはわからない。自分の思いを受け取ってもらえるかわからない。けれど、彼と一緒にすごせる存在はこの世に自分しかいない。
彼を受け入れられる存在は、彼を見送れる存在は、自分しかいない。
俺がやるしかない。俺ならできる。
彼がかつて木漏れ日のような光で俺を包み込んでくれたように、俺もまた彼を愛せばいいのだ。
顔を伏せる。大輪の花が空に咲く。
低い声で、ラガッツォは言った。
「なァ、言ってなかっただろうけどよォ、俺はいま騎空艇を降りてひとりなんだ」
闇に包まれた世界が虹色に変化する。生い茂る木々の葉先が光の筋を映し出す。フェルディナンドの顔をまっすぐ見ることはできなかった。
「行く場所もねェ」
彼の手がラガッツォの手を優しく握り返す。
「アンタを見つけたからには、もうこれ以上人を殺させるわけにはいかない」
アンタにこれ以上悪事を働かせるわけにはいけない。
「こうなったからには、アンタが本当に死ぬまで俺はアンタの隣にいる」
そう言い切って、ラガッツォはフェルディナンドを見つめた。彼の瞳に色とりどりの光が差し込む。
一際大きな歓声が上がった。空一面に数多の光華が打ちあがる。
フェルディナンドは酷く冷たい表情で、ラガッツォを見下ろしていた。ラガッツォの背筋がぞっと凍る。この世界に存在を否定されたかのような恐怖が全身を襲う。繋がった手が、固く強張る。
やがて、フェルディナンドは満面の笑みを顔に作った。
「そうか。じゃあ、私を止めてみなさい」
「は?」
彼は立ち上がり、コートの裾を払った。
光華を背景に、彼は立つ。ラガッツォを嘲るように見下ろしながら。
「私はあの父を殺して本物の父になってみせよう。それが今の願い」
彼は歌うようにいった。
「止められるというなら、止めるといい」
星々が静止した気がした。
迷いなく歩くフェルディナンドの後を追う。怒り、説き、懇願する。彼の手を引いて、ラガッツォは駄々をこねる。
ラガッツォに甘い言葉を囁いたフェルディナンドはもうどこにも存在しない。
彼はラガッツォの言葉をはね退け、怒りを嗤い、手を振り払う。
アンタと語り合いたいとラガッツォは願う。
きみと話す言葉はないとフェルディナンドは一蹴する。
夏の大三角形が夜空で輝く。フェルディナンドのあとを追いかけるラガッツォの足元を照らし続ける。フェルディナンドへ尽きることのない言葉を捧げるラガッツォの行く先を照らし続ける。
フェルディナンドは宿の玄関に立つと迷いなく扉を開いた。ラガッツォは彼の腰の布を掴むとがむしゃらに彼を引き摺り、汗を撒き散らしながら階段を上る。あの父親と対面すればフェルディナンドは迷いなく彼の短剣を父親の胸に突き刺すだろう。
そんなこと、もう二度と彼にさせたくなかった。美しく特別な彼に、美しく特別なまま存在してほしかった。
ラガッツォに笑いかけた父親として存在し、
そのまま死んでほしかった。
引き摺ったフェルディナンドの身体を二階の部屋に放り込む。ラガッツォは床に倒れたフェルディナンドに馬乗りになり、そのまま彼の頬を殴った。
義手の拳を握りしめ、左右の頬を殴りつける。フェルディナンドの唇が切れ、血が飛び散った。
「言えよォ」
肩で息をしながら、ラガッツォは喉を震わせた。更にフェルディナンドを殴ろうとして、力の籠もらない拳が床を殴った。瞼が痙攣し、涙がこぼれ落ちる。
世界が歪んでいた。
「もう人を殺さないって、言えよォ……」
フェルディナンドは音もなく横たわり、部屋の中にはラガッツォの荒い息遣いだけが響いていた。
終わりなく涙がこぼれてくる。馬乗りになった太腿からフェルディナンドの体温が伝わってくる。
このひともまた人間なのだと、信じさせようとしてくる。
ラガッツォは手の甲で涙を拭った。大きくしゃくりあげる。
「……きみは、私のなんなんだろう?」
感情のない声を彼は出した。
「私には願いしかなかった。それが皆を救うと信じていた」
フェルディナンドの掌がラガッツォの首を掴む。身体の上にあるラガッツォへ腕を伸ばしながら、彼は言う。
「それがどうだ、全部きみたちに無茶苦茶にされた。家族であるナビスだってきみたちに破壊された」
彼は憎悪を滾らせた這いずるような低音を口から吐き出す。ラガッツォの身体を床に引き倒し、乗りあがる。首へ手を掛ける。
「家族がいなくなって願いさえも私を裏切った。私にはなにも残されていない、お前以外なにも! もとより私にはなにもない、お前には指図されないぞ。人としての核を欠落した人間の苦しみが誰かにわかってたまるものか、求めても求めても埋められない、私の内側にいつもある暗闇が私のすべてを呑み込んだ!
感情も、理性も、人間性というものが欠落していると理解できても私にとっては永遠に手にできないままだ!
人は当たり前にそれを手に入れて幸せに生活している、私には手にできないものを当然のように享受している、お前にはわかるまいこの苦しみが! 人間なのにヒトとして存在できないこの苦痛がお前にわかるか! 誰かにわかられてたまるか!」
フェルディナンドは目を見開き、唾を飛ばして叫ぶ。
全身で苦しみを訴えていた。彼は震える肩でその身に抱く痛みを訴えていた。
彼の怒りに打ち震える姿は、弱弱しく、羽ばたく力を失った鳥のように健気だった。
「――わからねェ」
俺にはわからない、フェルディナンド。
俺だって人間とは思えない仕打ちをされた。
ヒトとしての存在を許されなかった。
でもアンタはそんな俺の存在ごと愛してくれた。肯定し、承認し、どんなときもただ傍にいてくれた。
あなたが愛を語る言葉で、俺は人間になれた。
「けど、俺はアンタのことをわかりたいと思う」
ずっとそれだけを願っていた。アンタとわかりあいたい、言葉を交わし、愛を交わし、本物の家族になりたいと願っていた。
愛したいと、願い続けていた。
「アンタは、俺を殴るのか。俺を殺すのか」
震える声で問いかけながら、ラガッツォは機械の両手でフェルディナンドの両頬を包んだ。彼の両頬は柔く、繊細だった。
「……そんな酷いこと、する訳ないだろう……」
フェルディナンドはラガッツォの手に掌を重ね、静かに言った。
「命の価値を見誤ってはいけないよ、ラガッツォ」
彼の手はわずかに震えていた。
「……アンタが望むなら、俺はなんだってしてやるよ」
ラガッツォの血管を奇妙な熱が駆け巡っていた。彼に手を差し伸べたい。いまならできるかもしれない。彼の心の叫びを聞いた今なら、彼に奥底に楔を打ち、ずっとラガッツォに繋ぎとめられるかもしれない。
そうしたら、俺はこの手を二度と離さない。
「アンタのただ一人の家族でいれるなら、俺はそれ以上を望まねェ。アンタは俺のことだけ見て、俺のことだけ感じて、そして死んでいけばいい。俺だけはアンタが死ぬまで傍にいる。
……なんたって俺は、アンタがいるだけで幸せだからなァ」
目を閉じる。過去の幸福をアンタは確かに俺に与えてくれた。ならば、次は俺がアンタに返す番だ。
どこまでも共にいくつもりだった。このひとが俺を見てくれるなら、このひとの苦しみが終わりを迎え、彼の魂を両手で掬い空へ還す日がくるまで、どこまでも旅をする。
彼の手がラガッツォをまさぐる。服を捲り、素肌に掌を当てる。刺青の入った彼の骨ばった手がラガッツォの素肌に重なっている情景の想像は、直接的な熱をラガッツォにもたらした。
平和だと思う。彼の手が脇腹を撫で、鼠径部を指で辿る。なんと平和な形だろう。
「……抗わないのかい」
フェルディナンドの声は蜜のように甘く滴り、ラガッツォに降り注いだ。
「どうしてだァ? アンタが望むなら、俺は受け入れるだけだ」
あなたに愛された日々は、かつての俺の心を晴れ渡る夏空のように照らした。そして今も、彼の掌は俺の身体を満たしてくれる。
誰かを殺すのではなく、誰かを愛そうとするフェルディナンドが好きだ。彼が俺を求めるというのなら、俺は彼をどこまでも受け入れよう。
目を開く。ラガッツォに覆いかぶさったフェルディナンドは顔を顰めていた。
「おいおい、なんだってそんな顔してんだよォ」
フェルディナンドは言われて初めて気づいたというように己の顔に手を遣り、奇妙な顔で笑った。
「私はね、ラガッツォ。今とても泣きたいんだ」
手を伸ばす。フェルディナンドの背中を抱え、そっと身体を添わせる。
「アンタが泣けないっていうなら、かわりに俺が泣いてやるよ」
フェルディナンドの頭を掻き抱き、ラガッツォは哀しみに満ちた声で言った。フェルディナンドの手がラガッツォの背中に回る。ふたりは固く抱きしめ合った。
少しでも離れてしまえば、誰かに引き裂かれてしまうのではないかという怖れを抱いているかのように、隙間なくくっつき、互いの熱を感じていた。
ベッドの上に寝ころぶと同時に、フェルディナンドの手によってラガッツォは服を脱がされた。上半身の服を捲り上げられ両腕から抜き去り、下半身の衣服もずり下げられる。フェルディナンドは無造作に脱がした服をベッドの下に落とし、ラガッツォの上に跨がった。
彼の瞳が被験者を観察する研究者のようにラガッツォの身体を観察する。
「んな……まじまじ見んなって」
フェルディナンドは首を傾げ
「ずっと見ていたいよ」
と返すと、手にしていた硝子の小瓶をベッドの枕元に置いた。ふたりがベッドに上がる前、彼が洗面所から持ってきた油だ。それが何に使われるのかをラガッツォは想像し、腹の下に溜まる熱を感じた。
フェルディナンドが上半身を折り曲げ、両手でラガッツォの頭を固定する。
彼の顔が迫ってきたかと思うと、唇が重なった。表面を数度啄ばまれる。乾いた唇の柔らかな感触を楽しんでいると、彼の舌がするりと口内に侵入した。
「はっ……」
錆びた鉄の味が広がる。口と口が隙間なく覆いかぶさり、彼の舌がラガッツォの舌を捕らえる。舌の表面をぬるぬると撫でられ、歯の形を一粒一粒確かめるように舌が縦横無尽に口内を動き回る。それは愛撫というよりも、フェルディナンドがラガッツォという人間の形を確かめる行為だった。
舌に舌を絡め、ラガッツォも応える。俺という人間がここにいるのだと主張し、俺もアンタを愛したいのだと訴えかける。
「はっ、あ……んっ」
フェルディナンドの唇がラガッツォの首筋を辿り、唇で食んでいく。ちり、とした痛みが肌に走った。彼は所有の証を、熱心にラガッツォの肌に刻んでいた。
耳殻をピアスごと舐めたフェルディナンドは、舌先でピアスを弄ぶように触れ、ラガッツォの肌に開けられた穴を探っていた。
「んん……っ」
フェルディナンドの左手がラガッツォの胸の尖りを捉え、指先で何度も擦り上げる。服を脱いだ寒さで縮まっていたそこは、フェルディナンドが与える刺激によってしこり、硬く立ち上がった。
「あっ、」
彼は先端を捏ね、押しつぶす。そのたびラガッツォの中心に熱がわだかまった。熱の存在を知られまいと、ラガッツォは両足を摺り寄せる。
「おや、勃起しているのかい」
フェルディナンドは平然と言ってのけ、ラガッツォの両膝を掌でこじ開けた。羞恥に頬が染まる。
「あっ、クソ、なに……」
彼の手がラガッツォの中心で震える性器に伸び、そっと指を絡ませる。そのまま自慰を思わせる動きで掌を上下し擦られ、ラガッツォは腰を撥ねさせた。直接的な刺激に熱が上がり、全身から汗が噴き出す。
「あァ……んん、っふう」
性器を上下する手に身を委ね、湧き上がる快楽に歯を噛み締める。次第に高まる解放したいという欲に従おうとした瞬間、フェルディナンドは手を離した。
「あっ、なん、なんでっ」
彼はラガッツォの両脚を両手で強く掴み、ぐっと腹に向かって押し上げた。そして上半身を屈みこませる。
「やっ、アンタ、まさか、やっ……!」
やめろテメエ、と身を捩るラガッツォの抗いなどものともせず、フェルディナンドは濡れた舌をラガッツォの最奥に伸ばした。
「あっ、あっ、やァ……っ!」
彼の舌が密やかに息づく最奥の襞を舐める。ぬるりと表面を濡らし、何度も往復する。吸い付いては離し、皮膚がふやけるほどしつこくしゃぶる。やがて先端が穴を潜った。
「あっ……」
ラガッツォの瞳の表面に涙が滲む。身体を強張らせたまま震わせ、フェルディナンドの舌が体内に侵入する感触に耐えた。縮んだ腹筋が痙攣する。シーツを握りしめ、顔をベッドに擦りつける。
フェルディナンドは舌でラガッツォの体内を探り、何度も出し入れしてはラガッツォに悲鳴を上げさせた。
最奥をこじ開けられる慣れぬ感覚に散々喚き散らし、疲れ果て、ぐったりとその身を横たえたころようやくフェルディナンドは満足したのか両脚を解放した。
ベルトの金具を外し、服を脱ぐ気配がする。
そのままフェルディナンドはベッドに置かれていた小瓶を手に取る。蓋を開ける澄んだ音が部屋に響いた。
油を手に垂らし、フェルディナンドは掌を擦り合わせた。ラガッツォは呆然とその光景を眺めていた。素肌をさらしたフェルディナンドの手の上を油が滴り、刺青の表面をぬらりと光らせる。
「痛かったら、言うんだよ」
「言ったところでアンタが止める気がしねェ……」
ラガッツォの口答えも気に留めず、フェルディナンドは中指の腹を最奥に擦りつけた。
足の指で、シーツを掻いた。彼の指は油を丁寧に周囲に塗り付け、やがてラガッツォの内部に侵入した。
「んんっ」
異物感に、眉を顰める。
「口をあけて、息をしてごらん」
フェルディナンドに促されるまま、ラガッツォは口を開き、溺れた人間が必死に空気を求めるように呼吸を繰り返した。
彼の指が奥まで差し込まれ、内部を探るように隙間なく広げていく。更に油を注ぎこまれ、ラガッツォの下半身から濡れた音が響く。
彼の指を腹に含まされているという倒錯した状況に、ラガッツォの精神はこれまでになく昂ぶった。
全身に充満し、破裂しそうな熱を発散させるために一際大きく息をする。瞬間、フェルディナンドの指が腹の内側を強く押した。
「ああっ……!」
全身に走った電流のような快感に、ラガッツォは思わず喘いだ。
「や、やだ」
「気持ちいいだろう?」
フェルディナンドの冷静な声が憎らしかった。彼はラガッツォの弱点を的確に捉えると、同じ個所を何度も指で押した。力を失いかけていたラガッツォの中心が、再び固く頭を擡げる。
「はあっ……、あァ」
気づくと身体に含まされているフェルディナンドの指の数が増え、彼はラガッツォの内部を拓くように大きく動かした。そのあとに何を咥えこまなければならないのか、ラガッツォとて知らないわけではない。
んん、んん、と切ない喘ぎをこぼしていると、フェルディナンドが慰めるように額に口づけを落としてくれた。
そのまま、彼はラガッツォの全身に口づけを落としていく。
「もっと……」
「ん?」
ラガッツォの懇願に応え、フェルディナンドは身体の隅々まで唇で触れる。鎖骨を這い、義手の接続部を妖しい舌遣いで愛する。まるで己が刻んだ傷跡を確かめ、愛でるように。そして両脚を抱え、太腿に歯を立てた。
「……ァ」
フェルディナンドが身を起こした。
ラガッツォは自身の足越しに彼を見上げる。彼の中心が立ち上がり、天を向いていた。彼もまたラガッツォの姿態に欲情しているのだ、という事実に心底安堵した。
彼が性器を最奥にあてがい、ぐっと力をこめる。
「――ッ! あ、うっ」
暴れるラガッツォを抑え込み、フェルディナンドは性器を体内にめり込ませる。注がれた油のぬめりを借りて、最奥が限界まで開いたと思った瞬間、性器の太い部分を腹の中に呑み込んだ。
「あ、っあ」
ラガッツォは手を伸ばし、フェルディナンドに抱きついた。彼は上半身を屈め、ラガッツォの背中を抱き寄せる。その動きで、性器が全て腹の中におさまったようだった。
「うう……腹が、気持ち悪ィ……」
「いい子だね、ラガッツォ。全部はいった」
フェルディナンドはラガッツォのこめかみに唇を押し当て、片手で男の性器を呑み込んだ腹を愛おしそうに撫でた。
「少し我慢するんだよ」
そういうとフェルディナンドはラガッツォをベッドに押し付け、腰を緩く前後させた。
「や、あっ……うっ、」
固く張り詰めた性器が濡れた音を立てながらラガッツォの内部を擦る。数度奥を突かれ、苦しさにラガッツォは呻いた。
「ほら、ここだろう」
「ああっ!」
性器の先端で腹側の一点をぐりぐりと押され、ラガッツォは悲鳴のような喘ぎを上げた。
「あ、あっ……んん、ふっ」
ラガッツォの両手にフェルディナンドの両手が絡みつき、ベッドに縫い留められる。何度も性器で腹の奥を叩かれ、ラガッツォは流れる汗に瞬きした。
――ああ、俺、アンタとつながったんだ。
ラガッツォは声を上げ続けた。フェルディナンドに与えられる刺激全てに応え、彼の性器を慣れぬ腰つきで締め上げる。
ラガッツォ、と彼が切羽詰まった声で呼んでくれることが酷く嬉しかった。
フェルディナンドがラガッツォに体重のすべてを掛ける。ラガッツォを強く抱きしめながら、息を止めた彼が種を体内に吐き出したとき、薄れゆく意識のなか、これまでの人生で感じたことのない充足感が身体を満たした。
***
胎動する闇に包まれていた。世界は温度を持ち、その身に虚ろな影を抱いていた。
草木の青い匂いが草原を吹き抜けていく。風に吹かれた叢が生きているかのように脈打った。地の果てにある湖の湖畔で、彼は今日も影の家族たちが灯す光を突きつけられている。
ラガッツォは小さな湖の湖畔に立ち、波止場で小さく丸まる男の背中を見下ろしていた。
草原を歩いてきた影たちは、規則正しく建物に収容されていく。行き場のない二人だけが湖に取り残されている。
彼が小さく囁く。
「私はひとり」
ラガッツォは一歩足を踏み出し、波止場を歩く。行き止まりで腰を下ろし、彼の横に並んだ。
彼と肩を並べて、家族たちが灯す明かりを見つめる。
「どうして私の愛は受け取ってもらえないんだろう」
「アンタが見てねェだけさ。受け取った相手を」
ラガッツォは疲れた声で呟き、夢見る。
影の家族たちが収まる建物のなかに彼と収まって、狭い部屋で肩を寄せ合い、ふたりで小さな明かりを分かち合う人生を夢見る。
その人生はささやかな幸福であふれ、笑い声が響き、ラガッツォの心を満たすだろう。
けれどふたりが収まることのできる部屋は世界に存在しないのだ。
ラガッツォは隣の彼を見上げる。闇夜に浮かぶ孤独な「彼」は美しかった。銀色の髪が星の光を弾き光っていた。近づいてみれば、彼の表面は光の粒子に包まれ薄く輝いていた。
誰もそれに気づいていない。彼自身さえ彼が光り輝いていることに気づいていない。
きっと彼のいるべき場所はここじゃない。
ラガッツォと光を分かち合う建物の狭い部屋でもない。
彼はこの地に落ちてくるべきじゃなかったんだ。誰かがこの人を間違ってこの地に引き摺り落としたんだ。
ラガッツォは胸の内に穴が開いたような気持ちになった。
戻してやらないと。
彼をあるべき場所まで、還してやらないと。
「見てごらん。私の死だ」
「それは本物の死じゃねェ。いつまでもそんな下らねェもんに拘るな、上を見ろ。アンタが見るべきは空だ」
ラガッツォは星たちが自由に輝く夜空を指さす。
「知ってるだろォ。アンタは星座を作ったことだってあるんだ」
そこに自分を当てはめ生きていた。星たちはアンタを中心に回っていた。星々の公転と自転を支配して生きようとする姿は力強く圧倒的だった。
星々が自由に生きるいま、アンタだって自由に生きていいんだ。どうか歩んでほしい。
燃え尽きるまで輝いてくれ。あるべき場所で、あるべき姿で。
広げた手でも掴みきれない、広大な夜空で星々が回り出す。空が急速に回転する。
「アンタは俺に聞かせたじゃねェか。帆を張った船を流れ星に曳かせて空へ旅立つ物語を。誰だってできるといった、願えばなんだって叶うとアンタは昔の俺に教えた」
アンタは立ち上がり空へ向かうべきだ。かつて俺に笑いかけてくれたときのように黄金の光を纏い、気高く前を向いて前進すべきだ。俺にアンタの背中を見せてくれ、その姿が俺の生きる理由そのものだった。アンタの願いが俺の願い。アンタの言葉が俺の言葉。
あなたの物語こそ俺が聞きたい物語。
あなたは語り続けることで、俺の愛をかたち作った。
「お願いだ、二度とこの手を離さないでくれ」
俺も共に行く。
アンタがいるべき場所まで共に旅をする。
世界の果てまで行こう、そこにきっとある。
俺たちの願いが叶う場所が、きっとある。
***
下半身にまとわりつく、初めて感じる種類の痛みにラガッツォの意識は揺さぶり起こされた。
「……ってェ」
丸めていた身体を伸ばし、ベッドに仰向けになる。伸ばした右手で空のシーツを掻いた。目線を室内にやる。
朝日の差し込んだ部屋は明るく輝いていた。白い壁紙の表面で光が幾つも円を描いている。
部屋のなかに人影はなかった。
ラガッツォは億劫な気持ちのまま上半身を起こし、のろのろと服に手を伸ばす。昨晩脱がされた服は几帳面に畳まれてベッドの脇に置かれていた。
全身に残されていた噛み痕を覆い隠すように服に袖を通し、ブーツを引き上げる。彼がいる場所には心当たりがあった。
宿の玄関の扉を開けると、外には鮮やかな景色が広がっていた。木々が庭に生い茂り、オレンジ色の羽を持った小鳥が黄色の果実を啄ばんでいる。
胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込み、ラガッツォは歩き出した。
宿の裏手に広がる林に踏み入ると、足元で小枝が破裂するような音を立てて折れた。落ちた葉を踏みしめ、虫たちが奏でる鳴き声に誘われるように散歩道を進む。
水のあまやかな匂いが鼻を擽った。くたびれた身体を叱咤しながら歩いた先に、彼は立っていた。
彼方まで広がる湖の波止場に立ち、彼はコートを風に靡かせていた。強い風が水面をすべり、白い布地を大きく膨らませる。
俺はずっと求めていた。この広い背中を。
ラガッツォは歩き、フェルディナンドの隣に立った。彼の横顔を見上げる。
鼻の筋が朝日を受けて光り輝いていた。赤い唇はゆるやかにたわみ、白い睫毛が光を蓄えて透き通る。
彼はラガッツォを見下ろし、腕を回して肩をそっと抱いた。
花の香りに全身が包まれる。頬をフェルディナンドの胸元に擦り付けると、彼の心臓の音と己の心臓の音が重なり、同じリズムを刻みだした。
「私に欠けているものは、生まれた時から欠けているものだよ。それは埋まらないし、私はずっと満たされないだろう」
ラガッツォは祈りを捧げるように呟かれるフェルディナンドの言葉に耳を澄まし、彼のコートをぎゅっと握った。
「私と共に暮らしたところで、きみには真綿で首を絞められる幸福しか待っていないよ。それを理解しているのかい」
ラガッツォは湖に目を遣った。深く透き通った水がなみなみと湛えられ、底を見通すことはできない。
銀色の鱗を光らせた大きな魚が跳ね、やがて奥に姿を消した。
ラガッツォは目を閉じる。
「それでいい。……それがいい」
静寂が二人を包む。ラガッツォは瞼越しに光を感じながら力強く言い切った。
「アンタが本当に死ぬまで、俺は隣にいる。次は俺が教えてやるよ、アンタに本当の愛ってやつを」
ぐらり、と身体が揺れる。ベッドが軋み、耳元に吐息がかかった。
「もう昼だよ、お寝坊さん」
「……」
夢との境界を彷徨いながら、ラガッツォは天井を見上げた。太い梁が一直線に天井を貫いている。フェルディナンドは昨夜のことなどなかったかのようにラガッツォを親し気に抱きしめていた。
昨晩は風呂に入った後、会話もなくベッドの端で丸まって寝た。フェルディナンドは一階に下りることなく、ラガッツォの隣で夜を越したようだった。
「今日の夜は光華大会があるそうだよ。夕方ごろから街へ出ようか」
穏やかな声に、まるで自分たちが本物の親子であるかのような錯覚を覚える。俺たちは親子で夏祭りにきていて、花火を鑑賞し、やがて故郷に帰るのだ。
そうであったらどれほどよかっただろう。
ラガッツォは夢想する。ふたりであの小さな家に帰る。
彼は家から一歩も外に出ず、毎晩ラガッツォに物語を読み聞かせてくれる。キスを贈ってくれる。
そして父と子として互いの生を全うする。
そんな、あり得ない未来。
フェルディナンドは親し気にラガッツォの頬に口づけを贈ると、ベッドから起き上がった。
「……じゃあもう少しゆっくりしていてもいいなァ」
頭の下で手を組み、ラガッツォは自棄になって言った。
その言葉に頷いたフェルディナンドは、新聞を手にしてソファに腰を下ろす。テーブルにはどこかから持ってきたと思しき紅茶の注がれたカップが置かれていた。
彼の姿は日常生活を共にしていた頃から微塵も変化していなかった。小さな一軒家で、幼いラガッツォと昼下がりを過ごしていた頃の姿のままだ。
「なァ……話をしてくれよ」
フェルディナンドは唇をたわませ、応える。
「どのお話がいいんだい?」
「驢馬の話」
フェルディナンドは新聞を開いたまま、まるで紙面を読み上げるように訥々と語り出した。
「あるところに驢馬が生まれました。彼は飼い主にたいそうかわいがられました。成長した彼は荷馬車に乗って」
驢馬は旅に出る。荷物を背負い、主を得て、世界中を旅する。山道で落石に巻き込まれて怪我をする。草を食んで、主の入っていった建物の扉を見上げる。朝焼けに包まれた川を渡り、水の冷たさを感じる。花畑を横切って、雨に打たれ、嵐の中を行進し、砂漠の気配を感じ、騎空艇に乗って島を渡ることさえあった。彼は荷物を運び、兵器を運び、生まれたばかりの赤子を運んだ。
「そして彼は故郷の地に戻ることを夢見ながら草原で眠るようにその生を閉じました。その姿を見ていた女神は哀れみ、かつての飼い主のもとへ魂を運んでやったのです。彼は今でも生まれた地を自由に駆け回っています。自由な魂となって」
話はそこで終わる。そしてそのあとに彼は必ず言う。
「神さまなんてものを信じてはいけないよ、ラガッツォ」
ラガッツォもまた必ず言う。
「どうしてだよ」
「存在しないものだからね。存在しないものに願ってはいけないのさ。願いというものは、確かに願いを聞き届けてくれるものに願わなければ」
そう言って、アンタは願った。神なんていないといった口でアンタは願ったのだ、歪な星晶獣に。
そして「願い」ごと墜落した。地に落ちた隕石のように、土にまみれて、汚れて、ちっぽけになってしまった。
アンタの願いが全ての元凶だった。
女神は正しいことをしたのだ。彷徨う魂を掬い上げ、あるべき場所に戻してやった。人々は祈るべきだ、星にではなく、この世に存在しない神にこそ祈るべきだ。
「願い事なんざ、自分の手で叶えてこそだろォ」
「そうだ。けれど、叶えられない願いもときにはある」
アンタの願いは叶わなかった。
俺の願いだって叶わない。星々でさえ救えない。
俺は祈り続けている。
彼の願いが叶いませんようにと祈り続けている。
かみさま。かみさま。
どうか彼が無事に彼の生を終われますように。
美しく特別な彼の魂がどうか救われますように。
太陽の強い光は地上にまっすぐに降り注ぎ、日差しの届かない部屋を濃い影が包む。
フェルディナンドが遠くで言った。
「宿の人たちは今日は家族で過ごすそうだよ」
日が翳ってきたきた時間に、ラガッツォとフェルディナンドは街に出た。宿を出るとき、サラはロベルタにユカタヴィラを着せながら、光華は川で打ち上げられるから川沿いに会場が作られているのだと教えてくれた。
色とりどりのユカタヴィラが通りを歩いていた。大柄な花が描かれたピンク色が目の前を横切る。少女たちの頭で髪飾りが揺れて七色の光を放っていた。
通りで歓声が上がる。
星晶獣を象った神輿が男衆に担がれ、声を上げながら通りを練り歩いていく。紙で作られた女神像が遠くを見つめ、指さしている。彼女の足元には父殺しの英雄が月桂樹を戴いて剣をかざしている。
人々が拍手でそれを迎えた。
ぼんやりとその光景を眺めていると、
「気をつけなさい」
とフェルディナンドがラガッツォの腰を抱いた。背後を少年が走り去る。彼の手には焼きそばがあった。
フェルディナンドに手をつながれ、ラガッツォは川まで続く通りを歩く。道の隅で、切れた下駄の緒を片手にぶら下げた少女がエルーンの男の子に何事か文句を言っていた。
「きみもなにか食べるかい? ホラ、あそこにあるポム焼きなんかはどうかな」
「別に腹は減ってねェからいい」
そうかい、と呟いたフェルディナンドは、いそいそと財布を取り出すと出店に近寄った。彼は自分のためにかき氷を買い、青色のシロップをなみなみと注いでいた。
「なあ、会場ってあそこかァ?」
人混みの頭越しにラガッツォが指さした河川敷には、人が密集していた。既にあらゆる場所に人々が座り、足の踏み場もない。ラガッツォの周囲の人々も、半ば諦めた口ぶりで場所を探しながら周辺を回遊しているようだった。
「ちょっとくるのが遅かったんじゃねェか。もう場所がないぜ」
フェルディナンドはラガッツォの言葉にしばし思案すると、
「私についておいで」
と、手を引きながら道を外れて、大通りから繋がる小路に入った。
「お、おい」
戸惑うラガッツォを他所に、彼は迷いのない足取りで直進する。角を曲がり、耳の折れた雑種の犬が吠える坂を上り、夏蜜柑の生る雑木林の隣を抜ける。
彼はそのまま、とある敷地のなかに踏み入った。青い木々が茂る空間は、静かで人の気配がなかった。
「おい、勝手に入っていいのかよォ、ここ」
「おいで」
フェルディナンドの声に導かれ木々の間を抜けると、そこは教会だった。小さな聖堂が建ち、敷地の傍らには数人が座れる板張りのベンチが置かれている。
「ここなら邪魔がない」
「……変なことに詳しいんだな、アンタ」
「褒め言葉として受け取っておこうかな」
見てごらん、と彼が言うので視線をやると、彼は口を開き舌を伸ばして悪戯に笑った。舌の表面が真っ青に染まり、艶めいた姿を晒していた。
不意に見せられた彼の油断しきった姿に、胸が思わず高鳴った。息を呑み、そして深々とため息をつく。
「アンタが楽しそうで俺は嬉しいよ……」
ラガッツォは脱力し、ベンチの上で胡坐をかくと肘をついた。日は完全に落ち、周囲が暗闇に包まれる。
隣に座るフェルディナンドの姿さえ紛れてしまうほど闇は濃密だった。虫のなく声だけが、その場に響いていた。木の葉が重なり、乾いた音を立てていた。
ふと背後に気配を感じ振り返る。しんとした闇が背後に広がっていた。
「なあ、フェルディナンド……」
アンタはそこにいるんだよな、と問いかけようとした瞬間、遠方でわっと人の歓声が上がった。
光が、空で舞い散った。
身体を揺さぶる破裂音がする。ぽつり、ぽつりと空に花開く大輪の光が敷地を照らした。空に打ち上げられる光華はやがてその数と頻度を増し、夜空を華やかに彩った。
広がった夜空一面に、光が舞い散る。
様々な形を描きながら、咲いては消えていく。
振動に背筋が震える。ラガッツォは、手を伸ばした。闇の中で、隣にあるはずの体温を探る。
探し当てたフェルディナンドの左手を、強く握った。
光華に照らされたフェルディナンドの横顔が浮かび上がる。青、緑、黄、赤と色を変え、彼の髪の縁が光る。
彼はラガッツォを見下ろすと、愛おしいものを眼前に見つけたといった表情を浮かべた。だがそれはラガッツォも同じだった。
唯一無二の存在がそこにいた。二度と手放したくないと思った。彼は何度でもラガッツォのもとに戻ってくる。
ここで決めるしかない、とラガッツォは覚悟した。
彼に己の言葉が通じるかはわからない。自分の思いを受け取ってもらえるかわからない。けれど、彼と一緒にすごせる存在はこの世に自分しかいない。
彼を受け入れられる存在は、彼を見送れる存在は、自分しかいない。
俺がやるしかない。俺ならできる。
彼がかつて木漏れ日のような光で俺を包み込んでくれたように、俺もまた彼を愛せばいいのだ。
顔を伏せる。大輪の花が空に咲く。
低い声で、ラガッツォは言った。
「なァ、言ってなかっただろうけどよォ、俺はいま騎空艇を降りてひとりなんだ」
闇に包まれた世界が虹色に変化する。生い茂る木々の葉先が光の筋を映し出す。フェルディナンドの顔をまっすぐ見ることはできなかった。
「行く場所もねェ」
彼の手がラガッツォの手を優しく握り返す。
「アンタを見つけたからには、もうこれ以上人を殺させるわけにはいかない」
アンタにこれ以上悪事を働かせるわけにはいけない。
「こうなったからには、アンタが本当に死ぬまで俺はアンタの隣にいる」
そう言い切って、ラガッツォはフェルディナンドを見つめた。彼の瞳に色とりどりの光が差し込む。
一際大きな歓声が上がった。空一面に数多の光華が打ちあがる。
フェルディナンドは酷く冷たい表情で、ラガッツォを見下ろしていた。ラガッツォの背筋がぞっと凍る。この世界に存在を否定されたかのような恐怖が全身を襲う。繋がった手が、固く強張る。
やがて、フェルディナンドは満面の笑みを顔に作った。
「そうか。じゃあ、私を止めてみなさい」
「は?」
彼は立ち上がり、コートの裾を払った。
光華を背景に、彼は立つ。ラガッツォを嘲るように見下ろしながら。
「私はあの父を殺して本物の父になってみせよう。それが今の願い」
彼は歌うようにいった。
「止められるというなら、止めるといい」
星々が静止した気がした。
迷いなく歩くフェルディナンドの後を追う。怒り、説き、懇願する。彼の手を引いて、ラガッツォは駄々をこねる。
ラガッツォに甘い言葉を囁いたフェルディナンドはもうどこにも存在しない。
彼はラガッツォの言葉をはね退け、怒りを嗤い、手を振り払う。
アンタと語り合いたいとラガッツォは願う。
きみと話す言葉はないとフェルディナンドは一蹴する。
夏の大三角形が夜空で輝く。フェルディナンドのあとを追いかけるラガッツォの足元を照らし続ける。フェルディナンドへ尽きることのない言葉を捧げるラガッツォの行く先を照らし続ける。
フェルディナンドは宿の玄関に立つと迷いなく扉を開いた。ラガッツォは彼の腰の布を掴むとがむしゃらに彼を引き摺り、汗を撒き散らしながら階段を上る。あの父親と対面すればフェルディナンドは迷いなく彼の短剣を父親の胸に突き刺すだろう。
そんなこと、もう二度と彼にさせたくなかった。美しく特別な彼に、美しく特別なまま存在してほしかった。
ラガッツォに笑いかけた父親として存在し、
そのまま死んでほしかった。
引き摺ったフェルディナンドの身体を二階の部屋に放り込む。ラガッツォは床に倒れたフェルディナンドに馬乗りになり、そのまま彼の頬を殴った。
義手の拳を握りしめ、左右の頬を殴りつける。フェルディナンドの唇が切れ、血が飛び散った。
「言えよォ」
肩で息をしながら、ラガッツォは喉を震わせた。更にフェルディナンドを殴ろうとして、力の籠もらない拳が床を殴った。瞼が痙攣し、涙がこぼれ落ちる。
世界が歪んでいた。
「もう人を殺さないって、言えよォ……」
フェルディナンドは音もなく横たわり、部屋の中にはラガッツォの荒い息遣いだけが響いていた。
終わりなく涙がこぼれてくる。馬乗りになった太腿からフェルディナンドの体温が伝わってくる。
このひともまた人間なのだと、信じさせようとしてくる。
ラガッツォは手の甲で涙を拭った。大きくしゃくりあげる。
「……きみは、私のなんなんだろう?」
感情のない声を彼は出した。
「私には願いしかなかった。それが皆を救うと信じていた」
フェルディナンドの掌がラガッツォの首を掴む。身体の上にあるラガッツォへ腕を伸ばしながら、彼は言う。
「それがどうだ、全部きみたちに無茶苦茶にされた。家族であるナビスだってきみたちに破壊された」
彼は憎悪を滾らせた這いずるような低音を口から吐き出す。ラガッツォの身体を床に引き倒し、乗りあがる。首へ手を掛ける。
「家族がいなくなって願いさえも私を裏切った。私にはなにも残されていない、お前以外なにも! もとより私にはなにもない、お前には指図されないぞ。人としての核を欠落した人間の苦しみが誰かにわかってたまるものか、求めても求めても埋められない、私の内側にいつもある暗闇が私のすべてを呑み込んだ!
感情も、理性も、人間性というものが欠落していると理解できても私にとっては永遠に手にできないままだ!
人は当たり前にそれを手に入れて幸せに生活している、私には手にできないものを当然のように享受している、お前にはわかるまいこの苦しみが! 人間なのにヒトとして存在できないこの苦痛がお前にわかるか! 誰かにわかられてたまるか!」
フェルディナンドは目を見開き、唾を飛ばして叫ぶ。
全身で苦しみを訴えていた。彼は震える肩でその身に抱く痛みを訴えていた。
彼の怒りに打ち震える姿は、弱弱しく、羽ばたく力を失った鳥のように健気だった。
「――わからねェ」
俺にはわからない、フェルディナンド。
俺だって人間とは思えない仕打ちをされた。
ヒトとしての存在を許されなかった。
でもアンタはそんな俺の存在ごと愛してくれた。肯定し、承認し、どんなときもただ傍にいてくれた。
あなたが愛を語る言葉で、俺は人間になれた。
「けど、俺はアンタのことをわかりたいと思う」
ずっとそれだけを願っていた。アンタとわかりあいたい、言葉を交わし、愛を交わし、本物の家族になりたいと願っていた。
愛したいと、願い続けていた。
「アンタは、俺を殴るのか。俺を殺すのか」
震える声で問いかけながら、ラガッツォは機械の両手でフェルディナンドの両頬を包んだ。彼の両頬は柔く、繊細だった。
「……そんな酷いこと、する訳ないだろう……」
フェルディナンドはラガッツォの手に掌を重ね、静かに言った。
「命の価値を見誤ってはいけないよ、ラガッツォ」
彼の手はわずかに震えていた。
「……アンタが望むなら、俺はなんだってしてやるよ」
ラガッツォの血管を奇妙な熱が駆け巡っていた。彼に手を差し伸べたい。いまならできるかもしれない。彼の心の叫びを聞いた今なら、彼に奥底に楔を打ち、ずっとラガッツォに繋ぎとめられるかもしれない。
そうしたら、俺はこの手を二度と離さない。
「アンタのただ一人の家族でいれるなら、俺はそれ以上を望まねェ。アンタは俺のことだけ見て、俺のことだけ感じて、そして死んでいけばいい。俺だけはアンタが死ぬまで傍にいる。
……なんたって俺は、アンタがいるだけで幸せだからなァ」
目を閉じる。過去の幸福をアンタは確かに俺に与えてくれた。ならば、次は俺がアンタに返す番だ。
どこまでも共にいくつもりだった。このひとが俺を見てくれるなら、このひとの苦しみが終わりを迎え、彼の魂を両手で掬い空へ還す日がくるまで、どこまでも旅をする。
彼の手がラガッツォをまさぐる。服を捲り、素肌に掌を当てる。刺青の入った彼の骨ばった手がラガッツォの素肌に重なっている情景の想像は、直接的な熱をラガッツォにもたらした。
平和だと思う。彼の手が脇腹を撫で、鼠径部を指で辿る。なんと平和な形だろう。
「……抗わないのかい」
フェルディナンドの声は蜜のように甘く滴り、ラガッツォに降り注いだ。
「どうしてだァ? アンタが望むなら、俺は受け入れるだけだ」
あなたに愛された日々は、かつての俺の心を晴れ渡る夏空のように照らした。そして今も、彼の掌は俺の身体を満たしてくれる。
誰かを殺すのではなく、誰かを愛そうとするフェルディナンドが好きだ。彼が俺を求めるというのなら、俺は彼をどこまでも受け入れよう。
目を開く。ラガッツォに覆いかぶさったフェルディナンドは顔を顰めていた。
「おいおい、なんだってそんな顔してんだよォ」
フェルディナンドは言われて初めて気づいたというように己の顔に手を遣り、奇妙な顔で笑った。
「私はね、ラガッツォ。今とても泣きたいんだ」
手を伸ばす。フェルディナンドの背中を抱え、そっと身体を添わせる。
「アンタが泣けないっていうなら、かわりに俺が泣いてやるよ」
フェルディナンドの頭を掻き抱き、ラガッツォは哀しみに満ちた声で言った。フェルディナンドの手がラガッツォの背中に回る。ふたりは固く抱きしめ合った。
少しでも離れてしまえば、誰かに引き裂かれてしまうのではないかという怖れを抱いているかのように、隙間なくくっつき、互いの熱を感じていた。
ベッドの上に寝ころぶと同時に、フェルディナンドの手によってラガッツォは服を脱がされた。上半身の服を捲り上げられ両腕から抜き去り、下半身の衣服もずり下げられる。フェルディナンドは無造作に脱がした服をベッドの下に落とし、ラガッツォの上に跨がった。
彼の瞳が被験者を観察する研究者のようにラガッツォの身体を観察する。
「んな……まじまじ見んなって」
フェルディナンドは首を傾げ
「ずっと見ていたいよ」
と返すと、手にしていた硝子の小瓶をベッドの枕元に置いた。ふたりがベッドに上がる前、彼が洗面所から持ってきた油だ。それが何に使われるのかをラガッツォは想像し、腹の下に溜まる熱を感じた。
フェルディナンドが上半身を折り曲げ、両手でラガッツォの頭を固定する。
彼の顔が迫ってきたかと思うと、唇が重なった。表面を数度啄ばまれる。乾いた唇の柔らかな感触を楽しんでいると、彼の舌がするりと口内に侵入した。
「はっ……」
錆びた鉄の味が広がる。口と口が隙間なく覆いかぶさり、彼の舌がラガッツォの舌を捕らえる。舌の表面をぬるぬると撫でられ、歯の形を一粒一粒確かめるように舌が縦横無尽に口内を動き回る。それは愛撫というよりも、フェルディナンドがラガッツォという人間の形を確かめる行為だった。
舌に舌を絡め、ラガッツォも応える。俺という人間がここにいるのだと主張し、俺もアンタを愛したいのだと訴えかける。
「はっ、あ……んっ」
フェルディナンドの唇がラガッツォの首筋を辿り、唇で食んでいく。ちり、とした痛みが肌に走った。彼は所有の証を、熱心にラガッツォの肌に刻んでいた。
耳殻をピアスごと舐めたフェルディナンドは、舌先でピアスを弄ぶように触れ、ラガッツォの肌に開けられた穴を探っていた。
「んん……っ」
フェルディナンドの左手がラガッツォの胸の尖りを捉え、指先で何度も擦り上げる。服を脱いだ寒さで縮まっていたそこは、フェルディナンドが与える刺激によってしこり、硬く立ち上がった。
「あっ、」
彼は先端を捏ね、押しつぶす。そのたびラガッツォの中心に熱がわだかまった。熱の存在を知られまいと、ラガッツォは両足を摺り寄せる。
「おや、勃起しているのかい」
フェルディナンドは平然と言ってのけ、ラガッツォの両膝を掌でこじ開けた。羞恥に頬が染まる。
「あっ、クソ、なに……」
彼の手がラガッツォの中心で震える性器に伸び、そっと指を絡ませる。そのまま自慰を思わせる動きで掌を上下し擦られ、ラガッツォは腰を撥ねさせた。直接的な刺激に熱が上がり、全身から汗が噴き出す。
「あァ……んん、っふう」
性器を上下する手に身を委ね、湧き上がる快楽に歯を噛み締める。次第に高まる解放したいという欲に従おうとした瞬間、フェルディナンドは手を離した。
「あっ、なん、なんでっ」
彼はラガッツォの両脚を両手で強く掴み、ぐっと腹に向かって押し上げた。そして上半身を屈みこませる。
「やっ、アンタ、まさか、やっ……!」
やめろテメエ、と身を捩るラガッツォの抗いなどものともせず、フェルディナンドは濡れた舌をラガッツォの最奥に伸ばした。
「あっ、あっ、やァ……っ!」
彼の舌が密やかに息づく最奥の襞を舐める。ぬるりと表面を濡らし、何度も往復する。吸い付いては離し、皮膚がふやけるほどしつこくしゃぶる。やがて先端が穴を潜った。
「あっ……」
ラガッツォの瞳の表面に涙が滲む。身体を強張らせたまま震わせ、フェルディナンドの舌が体内に侵入する感触に耐えた。縮んだ腹筋が痙攣する。シーツを握りしめ、顔をベッドに擦りつける。
フェルディナンドは舌でラガッツォの体内を探り、何度も出し入れしてはラガッツォに悲鳴を上げさせた。
最奥をこじ開けられる慣れぬ感覚に散々喚き散らし、疲れ果て、ぐったりとその身を横たえたころようやくフェルディナンドは満足したのか両脚を解放した。
ベルトの金具を外し、服を脱ぐ気配がする。
そのままフェルディナンドはベッドに置かれていた小瓶を手に取る。蓋を開ける澄んだ音が部屋に響いた。
油を手に垂らし、フェルディナンドは掌を擦り合わせた。ラガッツォは呆然とその光景を眺めていた。素肌をさらしたフェルディナンドの手の上を油が滴り、刺青の表面をぬらりと光らせる。
「痛かったら、言うんだよ」
「言ったところでアンタが止める気がしねェ……」
ラガッツォの口答えも気に留めず、フェルディナンドは中指の腹を最奥に擦りつけた。
足の指で、シーツを掻いた。彼の指は油を丁寧に周囲に塗り付け、やがてラガッツォの内部に侵入した。
「んんっ」
異物感に、眉を顰める。
「口をあけて、息をしてごらん」
フェルディナンドに促されるまま、ラガッツォは口を開き、溺れた人間が必死に空気を求めるように呼吸を繰り返した。
彼の指が奥まで差し込まれ、内部を探るように隙間なく広げていく。更に油を注ぎこまれ、ラガッツォの下半身から濡れた音が響く。
彼の指を腹に含まされているという倒錯した状況に、ラガッツォの精神はこれまでになく昂ぶった。
全身に充満し、破裂しそうな熱を発散させるために一際大きく息をする。瞬間、フェルディナンドの指が腹の内側を強く押した。
「ああっ……!」
全身に走った電流のような快感に、ラガッツォは思わず喘いだ。
「や、やだ」
「気持ちいいだろう?」
フェルディナンドの冷静な声が憎らしかった。彼はラガッツォの弱点を的確に捉えると、同じ個所を何度も指で押した。力を失いかけていたラガッツォの中心が、再び固く頭を擡げる。
「はあっ……、あァ」
気づくと身体に含まされているフェルディナンドの指の数が増え、彼はラガッツォの内部を拓くように大きく動かした。そのあとに何を咥えこまなければならないのか、ラガッツォとて知らないわけではない。
んん、んん、と切ない喘ぎをこぼしていると、フェルディナンドが慰めるように額に口づけを落としてくれた。
そのまま、彼はラガッツォの全身に口づけを落としていく。
「もっと……」
「ん?」
ラガッツォの懇願に応え、フェルディナンドは身体の隅々まで唇で触れる。鎖骨を這い、義手の接続部を妖しい舌遣いで愛する。まるで己が刻んだ傷跡を確かめ、愛でるように。そして両脚を抱え、太腿に歯を立てた。
「……ァ」
フェルディナンドが身を起こした。
ラガッツォは自身の足越しに彼を見上げる。彼の中心が立ち上がり、天を向いていた。彼もまたラガッツォの姿態に欲情しているのだ、という事実に心底安堵した。
彼が性器を最奥にあてがい、ぐっと力をこめる。
「――ッ! あ、うっ」
暴れるラガッツォを抑え込み、フェルディナンドは性器を体内にめり込ませる。注がれた油のぬめりを借りて、最奥が限界まで開いたと思った瞬間、性器の太い部分を腹の中に呑み込んだ。
「あ、っあ」
ラガッツォは手を伸ばし、フェルディナンドに抱きついた。彼は上半身を屈め、ラガッツォの背中を抱き寄せる。その動きで、性器が全て腹の中におさまったようだった。
「うう……腹が、気持ち悪ィ……」
「いい子だね、ラガッツォ。全部はいった」
フェルディナンドはラガッツォのこめかみに唇を押し当て、片手で男の性器を呑み込んだ腹を愛おしそうに撫でた。
「少し我慢するんだよ」
そういうとフェルディナンドはラガッツォをベッドに押し付け、腰を緩く前後させた。
「や、あっ……うっ、」
固く張り詰めた性器が濡れた音を立てながらラガッツォの内部を擦る。数度奥を突かれ、苦しさにラガッツォは呻いた。
「ほら、ここだろう」
「ああっ!」
性器の先端で腹側の一点をぐりぐりと押され、ラガッツォは悲鳴のような喘ぎを上げた。
「あ、あっ……んん、ふっ」
ラガッツォの両手にフェルディナンドの両手が絡みつき、ベッドに縫い留められる。何度も性器で腹の奥を叩かれ、ラガッツォは流れる汗に瞬きした。
――ああ、俺、アンタとつながったんだ。
ラガッツォは声を上げ続けた。フェルディナンドに与えられる刺激全てに応え、彼の性器を慣れぬ腰つきで締め上げる。
ラガッツォ、と彼が切羽詰まった声で呼んでくれることが酷く嬉しかった。
フェルディナンドがラガッツォに体重のすべてを掛ける。ラガッツォを強く抱きしめながら、息を止めた彼が種を体内に吐き出したとき、薄れゆく意識のなか、これまでの人生で感じたことのない充足感が身体を満たした。
***
胎動する闇に包まれていた。世界は温度を持ち、その身に虚ろな影を抱いていた。
草木の青い匂いが草原を吹き抜けていく。風に吹かれた叢が生きているかのように脈打った。地の果てにある湖の湖畔で、彼は今日も影の家族たちが灯す光を突きつけられている。
ラガッツォは小さな湖の湖畔に立ち、波止場で小さく丸まる男の背中を見下ろしていた。
草原を歩いてきた影たちは、規則正しく建物に収容されていく。行き場のない二人だけが湖に取り残されている。
彼が小さく囁く。
「私はひとり」
ラガッツォは一歩足を踏み出し、波止場を歩く。行き止まりで腰を下ろし、彼の横に並んだ。
彼と肩を並べて、家族たちが灯す明かりを見つめる。
「どうして私の愛は受け取ってもらえないんだろう」
「アンタが見てねェだけさ。受け取った相手を」
ラガッツォは疲れた声で呟き、夢見る。
影の家族たちが収まる建物のなかに彼と収まって、狭い部屋で肩を寄せ合い、ふたりで小さな明かりを分かち合う人生を夢見る。
その人生はささやかな幸福であふれ、笑い声が響き、ラガッツォの心を満たすだろう。
けれどふたりが収まることのできる部屋は世界に存在しないのだ。
ラガッツォは隣の彼を見上げる。闇夜に浮かぶ孤独な「彼」は美しかった。銀色の髪が星の光を弾き光っていた。近づいてみれば、彼の表面は光の粒子に包まれ薄く輝いていた。
誰もそれに気づいていない。彼自身さえ彼が光り輝いていることに気づいていない。
きっと彼のいるべき場所はここじゃない。
ラガッツォと光を分かち合う建物の狭い部屋でもない。
彼はこの地に落ちてくるべきじゃなかったんだ。誰かがこの人を間違ってこの地に引き摺り落としたんだ。
ラガッツォは胸の内に穴が開いたような気持ちになった。
戻してやらないと。
彼をあるべき場所まで、還してやらないと。
「見てごらん。私の死だ」
「それは本物の死じゃねェ。いつまでもそんな下らねェもんに拘るな、上を見ろ。アンタが見るべきは空だ」
ラガッツォは星たちが自由に輝く夜空を指さす。
「知ってるだろォ。アンタは星座を作ったことだってあるんだ」
そこに自分を当てはめ生きていた。星たちはアンタを中心に回っていた。星々の公転と自転を支配して生きようとする姿は力強く圧倒的だった。
星々が自由に生きるいま、アンタだって自由に生きていいんだ。どうか歩んでほしい。
燃え尽きるまで輝いてくれ。あるべき場所で、あるべき姿で。
広げた手でも掴みきれない、広大な夜空で星々が回り出す。空が急速に回転する。
「アンタは俺に聞かせたじゃねェか。帆を張った船を流れ星に曳かせて空へ旅立つ物語を。誰だってできるといった、願えばなんだって叶うとアンタは昔の俺に教えた」
アンタは立ち上がり空へ向かうべきだ。かつて俺に笑いかけてくれたときのように黄金の光を纏い、気高く前を向いて前進すべきだ。俺にアンタの背中を見せてくれ、その姿が俺の生きる理由そのものだった。アンタの願いが俺の願い。アンタの言葉が俺の言葉。
あなたの物語こそ俺が聞きたい物語。
あなたは語り続けることで、俺の愛をかたち作った。
「お願いだ、二度とこの手を離さないでくれ」
俺も共に行く。
アンタがいるべき場所まで共に旅をする。
世界の果てまで行こう、そこにきっとある。
俺たちの願いが叶う場所が、きっとある。
***
下半身にまとわりつく、初めて感じる種類の痛みにラガッツォの意識は揺さぶり起こされた。
「……ってェ」
丸めていた身体を伸ばし、ベッドに仰向けになる。伸ばした右手で空のシーツを掻いた。目線を室内にやる。
朝日の差し込んだ部屋は明るく輝いていた。白い壁紙の表面で光が幾つも円を描いている。
部屋のなかに人影はなかった。
ラガッツォは億劫な気持ちのまま上半身を起こし、のろのろと服に手を伸ばす。昨晩脱がされた服は几帳面に畳まれてベッドの脇に置かれていた。
全身に残されていた噛み痕を覆い隠すように服に袖を通し、ブーツを引き上げる。彼がいる場所には心当たりがあった。
宿の玄関の扉を開けると、外には鮮やかな景色が広がっていた。木々が庭に生い茂り、オレンジ色の羽を持った小鳥が黄色の果実を啄ばんでいる。
胸いっぱいに新鮮な空気を吸い込み、ラガッツォは歩き出した。
宿の裏手に広がる林に踏み入ると、足元で小枝が破裂するような音を立てて折れた。落ちた葉を踏みしめ、虫たちが奏でる鳴き声に誘われるように散歩道を進む。
水のあまやかな匂いが鼻を擽った。くたびれた身体を叱咤しながら歩いた先に、彼は立っていた。
彼方まで広がる湖の波止場に立ち、彼はコートを風に靡かせていた。強い風が水面をすべり、白い布地を大きく膨らませる。
俺はずっと求めていた。この広い背中を。
ラガッツォは歩き、フェルディナンドの隣に立った。彼の横顔を見上げる。
鼻の筋が朝日を受けて光り輝いていた。赤い唇はゆるやかにたわみ、白い睫毛が光を蓄えて透き通る。
彼はラガッツォを見下ろし、腕を回して肩をそっと抱いた。
花の香りに全身が包まれる。頬をフェルディナンドの胸元に擦り付けると、彼の心臓の音と己の心臓の音が重なり、同じリズムを刻みだした。
「私に欠けているものは、生まれた時から欠けているものだよ。それは埋まらないし、私はずっと満たされないだろう」
ラガッツォは祈りを捧げるように呟かれるフェルディナンドの言葉に耳を澄まし、彼のコートをぎゅっと握った。
「私と共に暮らしたところで、きみには真綿で首を絞められる幸福しか待っていないよ。それを理解しているのかい」
ラガッツォは湖に目を遣った。深く透き通った水がなみなみと湛えられ、底を見通すことはできない。
銀色の鱗を光らせた大きな魚が跳ね、やがて奥に姿を消した。
ラガッツォは目を閉じる。
「それでいい。……それがいい」
静寂が二人を包む。ラガッツォは瞼越しに光を感じながら力強く言い切った。
「アンタが本当に死ぬまで、俺は隣にいる。次は俺が教えてやるよ、アンタに本当の愛ってやつを」
