グラブル(フェルラガ)
互いに交わすべき言葉もなく、ラガッツォは宿までの道を黙々と歩いた。時折背後を振り返り、フェルディナンドが後ろをついてきていることを確認する。彼は真面目くさった表情を浮かべ、よそ見することもなくラガッツォの背中を追っていた。
暗闇に沈んだ宿の玄関には、ランタンがぶら下げられ黄色の灯りを周囲に投げかけていた。緑色に塗られた木製の扉を開く。周囲には夕食の香ばしい匂いが漂っていた。
「あら、おかえりなさい」
女主人が食堂の奥から姿を現す。彼女はラガッツォに微笑みかけ、次いで背後のフェルディナンドに目を遣り、怪訝な顔をした。
「すまねェ、しばらくふたりで泊まっていいか。宿代は二人分払うからよォ」
「そうなんですね。構いませんが……じゃあ、夕飯は二人分用意しましょうね」
「助かる」
ラガッツォが身を縮めて謝罪する間、フェルディナンドは物珍しそうな様子で宿の中を眺めていた。玄関と食堂の上で緩やかに回転する飾りを目で追っていたかと思うと、受付に置かれていた女の子の人形を手に取ってしげしげと観察する。人形を元置かれていた場所に戻すと、彼は彼女が身にまとっているユカタヴィラの裾を神経質に指先で整えた。
「こちらの席へどうぞ」
夕飯の用意された席へ促される。机が三つ置かれた食堂に、他の宿泊客の姿はなかった。隅の机で、ロベルタと呼ばれていた宿の娘がノートにクレヨンで落書きをしていた。
「きみと食事を共にするのも久しぶりだ」
フェルディナンドはそう言いながら平然とテーブルナプキンを手に取り、膝に掛ける。彼は慣れた手つきでワインリストを広げると、女主人を呼んでこの島のワイナリーの十年物はあるかなと尋ねていた。
ラガッツォは食事を前にして深くため息をつくと、焼き上げられたばかりのパンを手に取り、千切って口に運ぶ。この地方のスープも、牛のワイン煮も、近所の農家で採れたばかりだという野菜で作られたサラダも、フェルディナンドの存在にかき消されて碌に味がしなかった。
フェルディナンドは注文したワインで唇を湿らせながら、時折小さく口を開き料理を食んでいた。彼は酒と共にメインを食べ、野菜の付け合わせを間に挟む。主食は滅多に食べない。それが昔からのフェルディナンドの食事だった。
必要のないことはいつまでも忘れられないものだ、とラガッツォは内心で自嘲する。彼にまつわる事柄を忘れることは、ラガッツォにとって酷く困難だった。フェルディナンドという男の存在を忘れたいと願った日も多くあったが、いざ彼を前にすれば、彼が手を動かすたび、瞬きをするたび、髪をかき上げるたび、目線がつられて彼のあとを追う。
昔からの癖だった。フェルディナンドのあとを追い、彼の一挙手一投足を目で追うのは昔から癖だった。彼の動きをなにひとつ見逃したくなかったのだ。彼のことはすべて知りたかった。フェルディナンドはいつだって優雅に指先を動かし、周囲を指揮した。ラガッツォも彼の指示に従うことに喜びを見出していた。かつての彼は、一流の楽団の指揮者のようだった。彼に従うことで世界は調和し、美しく公転する。彼の完成された動きをすべて、この身に刻みたいと願って幼いラガッツォは生きていたのだ。その願いは、彼にふさわしい子供でいたいという願いと、彼のことをすべて知り尽くしたいという願いの両方を孕んでいた。
重苦しい空気に包まれたまま食事をしていると、宿の玄関が開く音がした。低い男の声が玄関から響く。
「サラ、ロベルタ、ただいま。帰ったよ」
ロベルタが弾かれるように顔を上げ、席から降りると走り出した。
「パパ~!」
「あなた、」
女主人もキッチンから顔を出す。日によく焼けた短髪の若いヒューマンが、ロベルタを抱っこしながら食堂に現れ、駆け寄る女主人の腰に手をまわした。彼は並べられた席を振り返り、大きな口を開いて驚いた顔をした。
「おお、お客さんがいらっしゃったんだな。いらっしゃい、夏祭りをたのしんでいってくださいね。光華大会は明後日だったかな? ぜひ。見て後悔はしませんよ」
彼は白い歯を見せ、ラガッツォとフェルディナンドに笑いかける。そして娘を抱いたまま、奥へ姿を消した。
彼に対し軽く会釈をしたラガッツォは、彼が姿を消したことを確認して視線を下げ、一拍の間をおいてフェルディナンドに視線を合わせた。
その瞬間、恐怖に背筋がぞっと粟立った。
フェルディナンドは目を見開き、眼をまるで磨き抜かれた翡翠のように艶めかしく光らせていた。彼の視線は、男の消えた扉に向けてじっと向けられたまま動く気配がない。
「……おい」
ラガッツォの声も聞こえているのかどうかわからない。フェルディナンドの瞳には暗く沈んだ炎がじっとりと燃え上がっていた。
「……なんだい」
どこか上の空ではあるが、返答があったことに安堵する。フェルディナンドは指先で自身の顎に触れ、唇をたわませた。いつか見たことがある。獲物を見つけた肉食獣の表情。
「あんまり露骨な目つきをするんじゃねェ。見苦しいだろォ」
「失礼したね。素敵なものを見て、少々浮ついた態度を取ってしまったようだ」
フェルディナンドは上機嫌に言い、フォークを手に取った。煮込まれた肉に銀色の金属が食い込む。先端が肉の組織を破壊していく。開かれた彼の口の狭間から、赤く湿った舌がちろりと覗いた。
赤い肉とグラスに注がれた赤い液体を交互に口に運ぶフェルディナンドの目尻が仄かに上気していた。彼の精神の高揚を感じながら、ラガッツォは皿に載った料理の残りを掻きこみ、口に詰め込んだ。指と舌にまとわりつく脂が酷く厭わしかった。
***
二階の部屋からは星空がよく見えた。街から少し外れた場所に宿が位置しているため、都市の明かりが届かず星の輝きを邪魔するものがないのだ。
二階にはラガッツォに宛がわれた一室だけがあった。一階にはシングルの部屋が二部屋存在するらしい。部屋には洗面所と風呂が備え付けられ、ダブルベッドの他にはこぢんまりとしたテーブルとソファが置かれていた。
丁寧に手入れがされた室内で、ラガッツォは深くソファに腰掛け両足を放り出しながら、ぶっきらぼうに言った。
「俺はソファで寝る」
コートをウオールハンガーに掛けたフェルディナンドは、ベルトの金具を外しながら首を傾げた。
「どうして? それじゃあ身体が休まらないだろう。いいじゃないか、ベッドはダブルだし。私たち二人が寝ても余裕はありそうだ」
「アンタと一緒に寝る気分じゃねェ」
苛立つラガッツォを諭すように、フェルディナンドは穏やかな声を発した。彼がタイを解く手つきを、ラガッツォは視線だけでじっと追う。
「そうはいっても、風邪をひいたら一大事だろう。勿論、きみが風邪をひいたら私が看病してあげるけどね。我が儘を言ってはいけないよ、ラガッツォ。そもそもこの部屋は元々君が借りていたものじゃないか」
主はきみだろう? 違うかい? と重ねて言い聞かせられる。
フェルディナンドがシャツを脱ぐ。上半身の白い素肌と、そこに刻まれた刺青が露わになる。ラガッツォは思わず目線を彷徨わせた。幼い頃、己が無邪気にあの線を辿った思い出を頭の中から振り払う。
「ラガッツォ」
フェルディナンドの声が一段低くなる。『言うことを聞きなさい』の合図だ。
「おいで、ラガッツォ」
ベッドに横になったフェルディナンドが、片腕を広げる。
ラガッツォは窓の外を眺め、髪を掻きむしり、深く息を吐くと、意を決して立ち上がりベッドに近づいた。
ベッドに膝を乗せる。ギィ、と軋んだ音が鳴った。ラガッツォはフェルディナンドの傍らに手をつき、そっと静かに横たわった。
フェルディナンドの纏う花の香りが、全身を包み込む。
彼の腕の下に広がる空間は、まるでラガッツォのために特別に誂えられたかのようだ。その位置に寝そべるとラガッツォの身体はいつだってぴったりと収まった。昔のように彼の脇の下で丸まると、周囲の音がすっと遠のき、世界に蔓延る怖いものすべてから守られている心地がした。
フェルディナンドの腕が伸び、ラガッツォを力強く抱きしめる。彼の素肌が頬を押し、肌のざらりとした感触を伝えた。久しぶりに感じた人肌の温もりに、体温が一気に上昇する。
「……っ、おい、離せ。離せって言ってんだろォ」
ラガッツォを抱きしめるフェルディナンドに腕を突っ張らせて抗うと、彼は意外そうな顔でラガッツォを見下ろした。
「きみは私に抱かれて眠ることが好きだろう。何故嫌がるんだい?」
頭に血が上った。上半身を起こし、反論しようと息を吸い込む。今更父親面か。アンタはそうやって、拒絶したかと思うと愛を囁いて俺をコントロールする。突き放した瞬間抱き寄せる。愛おしそうに頭を撫でる。けれどそれはアンタがしたいからじゃない。俺が言ったから、俺が望んだから、俺がしてほしそうだったから、俺のためになるかと思って、きみのために私はしているんだよと責任をすべて俺になすりつける。どこにも逃げ場のない状況でアンタは言う。
アンタの操り人形になるのはもう十分だ。嘘偽りはもう十分だ。俺たちの「家族」という虚像は壊れて砕け散ってしまった。俺が信じたアンタの愛も、アンタが囁いてくれた愛さえも、虚空に消え去ってしまった。
俺は信じていたのに。アンタが口にしてくれた言葉を信じていたのに。
だが言葉は出てこず、ただ眼前の男に紅潮した顔を晒すだけに終わった。
「んな……、昔の話を持ち出すんじゃねェ。さっさと寝ろォ!」
毛布をガっと掴み、ラガッツォはフェルディナンドに背を向けて横になった。フェルディナンドはしばらく沈黙していたかと思うと、衣擦れの音をさせて小さく動き、やがてラガッツォの脇腹の上に音もなく掌を乗せた。
彼は幼いラガッツォを寝かしつけるときそうしたように、規則正しくラガッツォの身体を軽く叩いた。
過ぎ去ったいにしえの日を思い出し、ラガッツォの胸は限界まで締めつけられた。こぼれそうな涙を誤魔化すため、シーツに目元を押し付ける。喘ぐような息を殺し、ただ無心に早く背後の男が寝てくれと願った。
「……理解したかった」
掠れた声で絞り出されたラガッツォの言葉に、返事はなかった。男はゆっくりと、ラガッツォを慰めるように一定のテンポで触れることを繰り返す。
幼い自分は思っていた。いつか自分が大きくなり、彼と対等になれたなら、彼がやさしく頭を撫でてくれるように自分も彼を抱きしめ返せるのだと思っていた。
自分も彼のようにありたかった。彼が贈ってくれる愛の言葉に、ひとりの人間として彼に思いを返したかった。
彼の言葉を聞き、彼の言葉を信じている間に与えられたぬくもりは酷くやさしかった。
大人になればわかるのだと思っていた。彼のあたたかさがどこからくるのか。どうすれば彼のように他者へ陽だまりを与えられるのか。
どうすれば彼にこのぬくもりを与えられるのか。
ラガッツォに与えられたフェルディナンドという謎を解き明かせば、もっと世界を愛せると信じていた。
ああ、俺はアンタを、理解したかった。
ラガッツォは、底なし沼に引き摺りこまれるように、暗く深い眠りへ引き摺りこまれた。
***
全身から力が抜けていた。ぬるま湯に浸かっている快楽。なめらかな感触が掌からすべり落ちていく。
暗闇に抱かれていた。親しみの持てる暗闇が、ラガッツォを守っていた。やがて冷えた空気が流れ込み、そっと地面に横たえられる。
草の鋭い感触が肌を舐めた。むせ返るほどの青い匂いが周囲に充満している。
促されるまま瞼を上げると、満天の夜空が視界に飛び込んできた。見覚えのない星座。星たちは混乱し、己のいるべき場所を飛び出して自由に光っている。
ああ、アイツが見たら嘆くだろう。
アイツとは誰のことなのかわからないまま、そう思った。
重い手足を持ち上げ、生まれたばかりの動物そのままの動きで立ち上がる。ラガッツォは、草原に立っていた。
夜の闇に包まれた草原に、風が吹き渡る。草が生き物のように遠くまで波打っていく。
意識しないまま、一歩目を踏み出した。足に草が刺さる。爪の間に挟まる土塊の鮮やかな感触が脳を揺さぶった。
褪せた色の世界を進んでいく。しばらく歩いていると、どこからか影が現れだした。表面に濃淡のある人型をした影たちは、何体も現れてラガッツォと同じ方向に進んでいく。
群れになった影たちが、声もなく直進していく。
皆が行く先には何があるのだろう。足を動かしながら目を凝らすと、草原の終わりがぼんやりと見えた。背の高い建物が幾つも身を寄せ合い、重なり合ってじっと暗闇の中に佇んでいる。
建物の手前には、小さな湖があった。
ラガッツォの足が、湖畔の板を踏む。影たちは湖を回り込み、音もたてずに建物に吸い込まれていく。彼らは自分の行くべき場所を理解しているようだった。足取りは迷いなく、群れの行動に混乱はない。
けれど、俺にはいく場所がないのだ。ラガッツォは孤独に打ち震えながら湖畔に佇み、闇に沈む建物を眺める。
ふと、湖の波止場にいる人影に気づいた。彼は波止場に腰を掛け、背を丸め、足を宙に放りだしていた。
彼は寂しそうだった。広い背中が孤独を物語っていた。
彼の背後に立ち、ラガッツォは耳を澄ます。彼が何かを語っていた。
「始まりを覚えているだろうか? 否、記憶にない」
湖は深く底が見えなかった。水は透き通っているのに、光が捻じ曲げられてでもいるのか内部を見通すことができない。
「私に始まりなどなかった。最初に存在したのは拒絶だ」
遠くに建つ建物の一階に、明かりが灯る。誰かが己の部屋に着いたのだ。
「皆が私を嫌う。私を嫌悪の目で見る。私を追い出す。私という存在をなかったことにする」
明かりがひとつふたつと増えていく。それに従って湖畔の闇は深くなる。彼の表情が濃い闇に包まれる。
「私の表現する愛はそれほどいびつだろうか? 彼らの愛と私の愛のどこが違う?」
建物の光が瞬き、部屋のなかで暮らす影たちを明るく照らす。その光は決してこちら側に届かない。
「私の死体を数えるといい。すべてここに積み重なっている。私の抱いた愛と同じ数だ。なにひとつ間違いはなかった。私はすべての家族を愛そうとした」
家族が灯す明かりを前に、彼は湖を指さし、ひとり己の死を数えている。
「私は彼らを殺した。彼らは私を殺した。そこになんの違いがある?」
彼は世界でひとりぼっち。
「なのに彼らは一方的に私を拒む」
心を閉ざして、誰のことも見ようとしない。
アンタに言葉は届かない。誰の言葉も届かない。断絶された言語を使って、未知の感情をはるか彼方から送り合うような交信しかできない。
わかり合いたかった。この男とわかりあいたいと俺はかつて願っていた。善に塗りつぶされた清らかな関係じゃなくたっていい。醜くたって、泥にまみれていたって、互いに人間であるなら言葉と肉体を楔とした確固たる関係を築けるのだと信じていた。
幼い俺は信じていた。アンタが俺をこの世界に繋ぎとめたように、アンタを俺という世界に縛り付けられると信じていた。楔を打ち込めない人間がいるなんて俺は知らなかった。
俺が願った願いはひとつだけだ。
最早周囲に人影はなく、眼前の男は目を閉じ他者を拒絶している。ラガッツォはひとりきりだった。見知らぬ家族たちが灯す明かりに照らされながら、ただ自分は、自分だけは彼の死体を数えまいと決意する。
ラガッツォは声なく叫ぶ。
いつか強くなれば、アンタは俺だけを見てくれると思った。
俺は祈っていた。
かみさま。かみさま。
俺はこのひとと本当の家族になりたい。
――誰かが泣く声が、聞こえたような気がした。
じっとりと蒸す暑さに耐えかね、己の上にかぶさっていた布を無意識のうちに蹴り飛ばす。誰かが手を伸ばし腹の上に布団を掛け直した。寝返りを打ち、シーツに頬を擦り付ける。耳が壊れてしまいそうなほど、外で虫が盛んに鳴いている。
部屋に満ちる朝日の気配に、ラガッツォは目を閉じたまま眉を顰めた。
頭上で小さく笑う息遣いが聞こえる。寝起きに何度も聞いた、声なく笑う彼の息遣い。彼はよく目覚めの悪いラガッツォを覗き込んでは上機嫌に笑っていた。
『ラガッツォ、きみはいつだって不機嫌な顔でぐずっているのに、私が抱っこするとあっという間に機嫌を直してしまうんだ。
きみが大人になってもいつまでもきみに教えてあげたいよ、ほら見てごらん、朝がきたよとね。
そして私の手で、きみをご機嫌にするんだ』
「朝だよ。そろそろ起きなさい」
至近距離で発せられた低音に耳が震えた。目を開ける。透き通った緑の瞳がラガッツォを真正面から見つめていた。
「おはよう、かわいい子」
「ハョ」
寝起きの掠れ声でラガッツォは応えた。フェルディナンドはラガッツォを抱くようにベッドに寝そべっていた。身支度は既に終えたのか、ウエストコートまで身に着けている。
急速に薄れていく夜の気配に引きずられたまま、眼前の顔を眺める。整った顔をしている、と彼を前にしていつも思う。鼻筋が通って、睫毛は長く、肌はいつも白く輝いている。どこか上機嫌に唇は弧を描き、赤い唇の間からは慎ましく並んだエナメルの歯がのぞいていた。
これほどまでに美しいのだから、この人は世界でも特別なひとなのだと思っていた。世界に愛された特別なひとなのだと。
その証拠にフェルディナンドが指をさすと、世界は色を得て無限に広がっていった。彼はラガッツォの前で世界を作った。雲が流れ星が瞬く空を、野原に咲き誇る花を、初夏に萌える草木を、分厚い書物に書かれた戦記を、高く築かれた建築物を指さすことで世界に出現させた。
そして彼はラガッツォを指さし、きみは私にとって特別な存在なのだと言ってくれた。
ラガッツォの居場所は彼の腕の中にあり、見るべきものは彼の指先の指し示す方向にあった。力を振るうべき対象も、守るべき家族も、愛も憎しみもすべて彼が用意してくれた。
彼と共に築いた世界はラガッツォの心の中の箱に大切にしまわれている。その事実を突きつけられながら、じっとフェルディナンドを見つめた。視線があう。彼はしばらくラガッツォを無言のまま観察し、やがてゆっくりと顔をラガッツォに近づけてきた。
ふに、と柔らかな感触が唇に当たった。彼の静かな光を湛えた緑色に視界を支配されながら、二度、三度と与えられる感触に身体を硬直させる。
「……どう、いう」
唇が耳に寄せられる。フェルディナンドの吐息が耳朶を擽る。
「きみは随分と寂しそうな顔をする」
その言葉に、ラガッツォはフェルディナンドを力いっぱい突き飛ばした。彼は驚いた様子もなく、ベッドに手をついて起き上がると
「ああ、歪んでしまった」
と言いながら優雅な手つきでよれてしまったタイを直した。
息が上がる。膝立ちになり、ラガッツォは固く拳を握りしめた。
激しい感情に思考が塗りつぶされる。手の甲で口元を荒々しく拭い、気持ちを落ち着けるため、数度深呼吸をした。
彼はいつだってこうして無造作に距離を縮める。そのたびにラガッツォの思考は散り散りになり、腹の奥底で奇妙な熱が渦巻きはじめる。感情に任せ怒鳴り散らしたかった。怒りで誤魔化したかった。
そして自分が抱いている思いを見て見ぬふりしてしまいたかった。知っている、これは恐怖だ。
彼への押し殺した欲情をまるで見透かされたような気がしたから、俺は。
かつて抱いていた感情と情欲が現実のものとなってラガッツォに背後から襲い掛かる。過去が足首を掴み、俺を忘れることなどできないだろうとけたたましく笑い声をあげている。
父に対し欲情する息子を告発している。
フェルディナンドが手を伸ばし、ラガッツォの頭を優しく数度撫でた。穏やかに彼は言う。
「突然でびっくりしてしまったのかな」
ラガッツォは項垂れ、フェルディナンドの手をただ受け入れた。フェルディナンドが口を開き、何事か言おうとする。数回唇が開閉し、やがて彼は諦めたように呟いた。
「私は今更、きみになにを言おうというんだろう……」
ラガッツォは顔を歪めた。心が反射的に叫ぶ。
待っている。
俺は今だって、アンタの言葉を待っている。
***
前を歩くフェルディナンド越しに、空を覆う厚い雲が目に入った。鈍色の雲が一面を覆っている。昼間だというのにどこか薄暗く、湿った空気が流れていた。
サラと呼ばれていた宿の女主人に朝食の席で勧められるがまま、ふたりは街へ行くことになった。
他にすることもねェしな、とフェルディナンドの顔色を窺うと、彼は満更でもなさそうにサラに街の有名店について尋ねていた。
街は人で溢れ、店から店に移動することも一苦労するほどの密度だった。人の背中が現れては消えていく。ラガッツォは足元を見た。数多くの足が石畳を踏み、幅広の革靴が、先端のとがったヒールが、ベルトのついた幼児の靴がラガッツォを避けて流れるように進んでいく。
唐突に行く手を阻む男がいた。看板を手にした売り子たちが、人々に声を掛けている。この混雑に乗じてフェルディナンドとはぐれてしまおう、という目論見を見透かすように、するりとフェルディナンドの手がラガッツォの手を握った。
「なっ……なにしてんだよォ」
フェルディナンドは振り返って首を傾げた。
「きみが迷子になってしまってはいけないだろう?」
フェルディナンドが手を握る力は強く、ラガッツォは振りほどくことができなかった。
白い手が義手を握り、進む方向を示す。機械の手では彼の体温を昔のように感じられず、ラガッツォは目を伏せた。心の中をうすら寒い風が吹き抜けていく。
「昔に戻ったみたいだ」
前を向いたまま、フェルディナンドは言った。彼の後頭部を見上げ、ラガッツォは言葉の続きを待つ。
「きみはよく迷子になっていたね。きみは私のいうことをよく聞いたけど、獲物を前にすると頭に血が上ってしまうから……路地の奥まで追いかけては戻る道を見失っていた」
「あれは、でも、アンタがいたから」
「そう。後ろに私が絶対いるときみは信じていた」
「アンタがいないときはそんな油断しなかっただろォ」
「私はいつだって心配していたんだ。この子は私がいなかったらどこへ行ってしまうのだろうと」
「心配しすぎだったんだ。アンタは普段から」
帰るのが少し遅くなっただけで探しにきた。薄着をしていれば上着を着せた。口論をして翌朝口をきかなければ手紙を置いて仕事に行った。
彼は子供のラガッツォを大事に育てた。まるで実の親のように。否、実の親以上に。
「おや、りんご飴が売っている。食べるかい? 好きだっただろう」
「いつの話してんだよォ……」
ラガッツォはフェルディナンドに引き摺られるように出店の前に立ち、色とりどりの飴を眺めた。
「これをひとつ」
フェルディナンドが選んだものは、小ぶりだけれど身の張った果実に透明な飴が掛けられたものだった。艶やかな赤色がフェルディナンドの手を経由してラガッツォに渡される。
「ありがと……」
果たして俺は礼をいうべきなのか、と思いながらラガッツォはりんご飴に歯をたてた。飴の濃厚な甘さと果実の酸っぱさが同時に口の中に広がった。
「前にきたときも買ってあげたんだよ」
ラガッツォはフェルディナンドの顔を見上げた。穏やかな表情で、彼は遠くを見つめていた。
「なあ、昔、俺たちここへきたんだよなァ?」
「覚えていたのかい? 君がまだ幼かった頃に一度来たんだよ。あれは……確か、郵便屋(パツセンジヤー)が荷物を持って行方不明になったんだったかな。最後の目撃情報が、私たちがいま泊まっている宿の奥にある湖でね」
「そうだったのか……」
「彼は結局荷物を彼の泊まっていた宿に置いて、あの湖で姿を消したままだ。住民は彼が入水自殺したんじゃないかと湖を浚っていたけど、手掛かりはなにも出なかった」
ラガッツォは今になって知る事実に目を見張った。
「けれど、彼はどこにも行っていない気がするね。彼は会いたい人に会ったんだよ」
「それは、」
どういう意味だ、と問いかけようとするラガッツォの前に、にゅっと腕が伸びてきた。
「どうぞ! このあとステージで劇が始まります!」
大粒の雫と巨大な口を顔に描いたクラウンの少女がカラフルなチラシをラガッツォに押し付け去っていく。周りの人々も口々に喋りながら流れるようにステージのある方向へ歩き出す。
「ふむ。この地の英雄譚だね」
ラガッツォの手にあったチラシを取り上げて読んだフェルディナンドが言う。
「この島は歴史が長いんだ。紛争がなかった時代には芸術が花開いて、物語も多く書かれたんだよ。そしてその物語に音楽が重ねられたりね。この島は興味深くて滞在が楽しかったものだ」
「へェ」
大通りの先は行き止まりになり、クラウンの言っていたとおりに大掛かりな舞台が木材で組まれていた。
板張りのステージの上でバンドたちが音楽を奏でている。バイオリンが高音を鳴らし、ピアノの鍵盤が昼下がりにふさわしい緩やかなメロディを添わせた。ステージの前に用意されたベンチは食事をする家族連れや手をつないだ男女で埋まっていた。
空いていた後方の席にフェルディナンドと共に腰を下ろす。フェルディナンドは足を組んで肘をつき、ステージを眺めていた。
ラガッツォは上空を見上げた。朝から怪しかった天気は徐々に崩れ出している。雲は黒さを増し、周囲には雨の湿った甘い匂いが漂い出している。
演奏を終えたバンドがお辞儀をし、楽器を抱えてステージから去る。スタッフがピアノを押して舞台の脇に下げた。男性がマイクを持ち、次は劇が始まると告げる。
まばらな拍手と共に、役者たちが前に出る。王冠を被った大柄な男が、中心に据えられた王座に座った。
物語は悪政を敷く王から始まる。
「この地には悪い王がいたんだ」
フェルディナンドが囁いた。
彼はよく物語を声に出して聞かせた。ラガッツォがそう願ったからだ。寝る前には必ず本を読み聞かせた。そこでラガッツォは世界を作った神々と星たちとの間にあった悲劇を知った。彼は朝食の席で新聞に連載されている小説を音読した。ラガッツォは朝のひと時、古代の戦士と共に戦場を駆けた。休日の昼下がりには、ラガッツォはフェルディナンドの語る言葉で、驢馬と共に世界を巡る旅をした。
彼の言葉はラガッツォの胸を躍らせ、別の世界の人間となって別の世界を旅する喜びを与えた。ラガッツォは愛していた。物語そのものを、物語を読み聞かせる彼の低い声を。
彼の言葉はラガッツォに想像という名の大きな翼を与え、高く空を舞い上がらせた。
空から見下ろしたステージでは人々が嘆き苦しんでいる。
王は民を苦しめる。民は貧困にあえぎ、明日食べる小麦すら底を尽く。種籾まで食らいつくして一揆を起こすも、兵隊たちは容赦なく弾圧する。子を殺された母は泣く。そして民は頼る。願いをかなえるという星晶獣に。
「あの星晶獣を祭ったのが今回の祭りの起源なのさ」
星晶獣は願いを叶え、一人の男をこの地に呼び寄せる。
ステージに若く溌溂とした男が剣を片手に現れた。彼の頭には月桂樹で作られた冠が載っている。
男は数々の試練を越え、仲間を得る。次々に襲い来る敵を倒し、星晶獣の祝福を得て王宮へ向かう。
ひしめく軍隊を一人で蹴散らし、彼は王と問答する。
――なぜこれほど民を苦しめるのか。
だが王に話は通じない。王はただ王座で支離滅裂な言葉を繰り返す。王は人の心を失ってしまっているのだ。
「かつてこの地で使われていた薬草には精神錯乱作用があった。恐らくその副作用だろうね」
男は王の首を撥ね、新たな王となる。
民の歓声によって迎えられた新たな王は、その日の夜に王宮の裏庭で慟哭する。
己が殺した王は、己の実の父だったと教えられたのだ。
そこで劇は終わる。
「めでたし、めでたし。そのあとこの王国は栄え、三百年もの間戦争が起きなかったと伝承ではいわれている」
再びまばらな拍手が起こる。役者たちが一列に立ち、礼をした。
フェルディナンドもゆったりとした拍子で拍手を繰り返した。彼の大きな掌が規則正しく音を立てる。
「彼が最後に泣く気持ちが、私にはずっとわからなくてね。だって父親は殺すものだろう?」
ぽつり、と雨粒が頬に落ちた。
ラガッツォが天を仰ぐと同時に幾つもの雨粒が落下してくる。人々が慌てて腰を上げ屋根の下に向かって散っていく。フェルディナンドは微動だにせず、淡々と言葉を続けた。
「私には今だってわからないよ。彼は喜ぶべきだったんだ。彼は無事に己の父親を乗り越えて、そして王宮の家族が自分の家族となったのだから」
降り出した雨によってフェルディナンドが雨に濡れていく。ラガッツォは水滴が服にしみこみ、義手を伝っていく冷たさを感じていた。体温が雨風に奪われていく。人がいなくなる。声が遠ざかっていく。ふたりきりになる。
舞台を前にして、殺した者と殺されたものが対峙する。
「父親を殺したところで、手に入るもんなんかなにもない」
「そうかな」
フェルディナンドは首をひねり、薄っすらと微笑んだ。
「きみにはまだ家族がわからないのかな」
身体が芯から冷えていく。彼の言葉はラガッツォの心を吹雪く野原に置き去りにする。
「アンタは家族を欲しがるが、最後には殺されるのがオチだ」
「それもまた家族のありようだよ」
「そう言ってすぐ忘れられるような家族が家族な訳ねェだろ」
「おや、私は覚えているよ。これまで私の家族になった人々をね。皆大切な人たちだ」
有象無象と一緒くたにしないでくれ。
「皆私を愛してくれたよ」
アンタに傷跡を残した俺を見てくれ。
「意見のすれ違いがあって一緒にいられる時間が長くなかった人たちが多いけれど、そういうものさ」
「……殺されてもそう言うのか」
アンタを殺した俺を許さないでくれ。どうか殺した俺を罰してくれ。
「勿論。酷いことをしたら叱らないとといけないけどね」
アンタを愛した人間なんて存在しない。皆恐怖に顔を歪め、偽りの父親という他人に恐れおののいていた。
けれど、俺は違う。俺だけは違う。
「現実を、見ろよ」
「現実?」
アンタの言葉を信じ、アンタの愛を感じていた。
冬の日に差す木漏れ日のようなあたたかさを受け取っていた。
「この世に――この世にアンタの家族なんかひとりもいねえだろうが!」
俺がいると言ってくれ。俺だけが特別だと言ってくれ。
ラガッツォの半ば叫びと化した言葉に、フェルディナンドは微動だにしなかった。まるで誰もなにも言葉を発しなかったとでもいうかのような彼の平然とした態度に苦々しく歯を噛み締める。
「俺は止めるからなァ」
フェルディナンドがラガッツォを見下ろした。
「なにをだい?」
「ひとごろしを」
じっと瞳を見つめる。父という存在を追い求めるフェルディナンドの瞳はいつだって奇妙な熱を孕んでいる。
「もうアンタを誰の『家族』にもしない」
赦さない。
アンタが俺以外の家族を求めることを、絶対に赦さない。二度と家族を求めてその手を汚させない。
アンタを愛すのは、この俺だけだ。
アンタの居場所は、俺の隣だ。
「でもね、ラガッツォ」
彼は静かな笑みを浮かべて言った。
「私は温かな家庭が欲しいんだ。
妻と子のいる家庭がね」
酷く冷静に、彼は言った。雨が降る。勢いよく雨粒は大地を叩き、人々を追いやる。下がってきた髪が鬱陶しくなり、勢いよくかき上げた。肩先が無性に寂しかった。
フェルディナンドが手を伸ばし、ラガッツォの肩に触れた。
「帰ろう。風邪をひいてしまうよ」
鼻を啜り、ラガッツォは立ち上がった。ずぶ濡れのフェルディナンドを見下ろす。何故か彼の姿がとても小さく見えた。
「ラガッツォ」
甘い声が、名を呼ぶ。湧き出た感情を断ち切るように、ラガッツォは歩き出した。
***
「まあまあまあ」
なんてことでしょう、と半ば叫びながらサラはタオルを取りに宿の奥へ走り去った。ずぶ濡れの男二人が玄関に立ち尽くす様を、ロベルタは不思議そうな顔で見つめていた。
板張りの床に水が滴り落ち、水たまりができていく。
「どうぞ、これで足りるかわからないけど。早くお風呂に入った方がいいわ」
厚手のタオルを山ほど持ってきたサラがそれらを二人に押し付けながら言う。
「ありがとう」
「すまねェ」
すると、玄関の騒ぎを聞きつけたのか奥から人影が現れた。
「どうかしたのかい」
ロベルタの父親が顔を出す。濡れ鼠になったラガッツォとフェルディナンドの姿を認め、大きく顔を顰めた。
「さっきの大雨だね」
「今日は朝から天気が悪かったから、もしかしてって思っていたのよねえ」
ラガッツォはこっそりとフェルディナンドの顔色を窺う。フェルディナンドは父親へ視線を固定させたまま、髪から落ちる水滴を拭った。
彼は「父親」を刈り取るべき瞬間を、見定めているようにラガッツォには感じられた。彼はいつだって気配なく獲物に近寄り、寸分の躊躇いなく脈打つ心臓を刺した。
「明日は晴れるといいんだがなあ」
「ほら、おふたりは早く部屋まで戻った方がいいわ」
サラに追い立てられるがまま、ラガッツォは二階に向かう。フェルディナンドが小さな声でサラと会話し、そのままラガッツォの元まで歩いてくると、背を押しながら言った。
「着替えよう。身体が冷えてしまうからね」
ラガッツォは口を曲げ、不満と同意を同時に示した。
部屋へ入ると同時に上着を脱ぎすてる。手にした服を置く場所に困り、とりあえず洗面所に放り込んだ。
ベッドに腰掛け、ぐっしょりと水を吸ったブーツを脱ぐ。フェルディナンドもコートをハンガーに掛け、シャツの手首の釦を外しながらラガッツォの横に腰を下ろした。
「先に風呂へ入るといい」
親切な口ぶりに、神経が逆立った。
「で、その間にアンタはなにをしようってんだよ」
「なにを?」
なんだろう、と無垢な表情でフェルディナンドは問いかける。
「随分あの父親にご執心じゃねェか」
フェルディナンドの瞼が薄く開いた。
「そうかな」
「今度はここの家族を乗っ取って父親面するつもりかよォ」
「なんだ、そんなことを心配していたのかい」
模様の刻まれた彼の手がラガッツォの手首を油断なく捕らえる。雨で冷えたリングがラガッツォの肌にめり込んだ。
「考えすぎだよ、ラガッツォ。……きみが考えていることは起こらないさ」
フェルディナンドの顔が近づく。キスができる距離で、彼は言葉なくラガッツォを咎める。
きみは私を疑ってはならないと。
「きみがシャワーを浴びて出てくるまで私はベッドの上で待っているよ」
赤い唇が開く。舌が奥で蠢いている。ラガッツォを誘い、誑かす言葉を発するために。
「それとも一緒に入ってほしいのかい? 子供のころのように、背を流してほしいのかな。洗ってほしい? きみの身体の隅々まで」
嘲るような揶揄いの言葉に舌打ちし、ラガッツォはフェルディナンドの胸倉を掴み上げるとベッドに両腕で押し倒した。二人分の体重を受け止めたベッドがうるさく軋む。
手加減せず太腿に体重のすべてを乗せ、彼を拘束する。だが彼にとってはラガッツォの体重など軽いものだ。彼が望めば、かつて何度もそうしたようにラガッツォの身体などあっけなくあしらわれてしまうだろう。
馬乗りになったラガッツォを乗せたフェルディナンドは、額に手を当てると心底可笑しそうに笑い声をあげた。
甲高い声が神経に障る。
「なにがおかしい、テメエ、」
「わかったよ、ラガッツォ。きみの望みが」
「んだとォ」
彼は目を細め、上機嫌に言った。
「きみはパパを独占したいんだね」
息が止まる。大きく心臓が鳴った。周囲の音が遠ざかる。
フェルディナンドはラガッツォの手を取り、愛おしそうに頬擦りした。
「もっと欲しがるといい、欲望は願いだ。願いは私たちの本能だ。私たちは欲しがり、願うことでこの世界を発展させてきた。願いなさい、ラガッツォ。きみは私になにをしてほしいんだい?」
――わからない。
わからない。このひとには俺の言葉が通じるのだろうか? このひとになにを言えば思いを交わせるんだろう。
俺はこのひとになにを言いたかったんだろう?
俺はこのひとのなにを理解できるっていうんだろう?
俺はこのひとになにを求めていたんだろう。
俺はこのひとになにを求めているんだろう。
「俺は、アンタに、」
俺は理解したいと願った。フェルディナンドの言葉が嘘偽りで構成されていたと知ったあの日、俺は理解したいと思った。
アンタの吐く言葉が全て嘘でもいい、そのうしろにあるフェルディナンドという男を理解したいと願った。
もう二度とアンタを信仰しない。
アンタの言葉を盲信したことがすべての間違いだった。俺は理解するべきだったんだ。アンタの言葉を受け取り、その裏を探り、思考を、感情を、思いを理解するべきだったんだ。
それでも俺は祈っている。アンタが囁いてくれた偽りの愛の中に、真実があったと祈っている。アンタは嘘と真実を同時に言ったのだと縋っている。
だって俺の世界はアンタの言葉によって生まれた。
彼の言葉が俺をかたち作り、彼の愛が背中を押した。そうして俺はこの世に送り出された。
誰かを愛そうとする俺の心を、あなたが生み出した。
フェルディナンドはラガッツォの両頬を抱き、誘うように囁く。
「君が望む言葉はなんでもあげるよ。だから言うことを聞いて、いとしい子」
「……いらない。なにもいらない」
ラガッツォはフェルディナンドに縋りつくように、言葉を発した。
「ただ、アンタが本当に考えていることを知りたい」
ラガッツォの言葉に、フェルディナンドは虚を突かれた表情を浮かべた。沈黙が二人を包む。
フェルディナンドは、聞き分けのない子供を諭すように囁いた。
「そして、きみはまた私の言葉を信じるのかい?」
やり場のない無力感に支配されていた。
「……重いよ、ラガッツォ」
重かった。ふたりの間に満ちる空気さえ。
「誰も……」
ラガッツォは力なく項垂れたまま、掠れた声を発した。
「誰もアンタを救えない」
フェルディナンドは笑みの名残を残したまま、ラガッツォの顔に手を伸ばし、愛おしいものを撫でる手つきで掌を肌にすべらせた。
「やっとわかったのかい、坊や」
慈愛に満ちた言葉に、涙が滲んだ。
暗闇に沈んだ宿の玄関には、ランタンがぶら下げられ黄色の灯りを周囲に投げかけていた。緑色に塗られた木製の扉を開く。周囲には夕食の香ばしい匂いが漂っていた。
「あら、おかえりなさい」
女主人が食堂の奥から姿を現す。彼女はラガッツォに微笑みかけ、次いで背後のフェルディナンドに目を遣り、怪訝な顔をした。
「すまねェ、しばらくふたりで泊まっていいか。宿代は二人分払うからよォ」
「そうなんですね。構いませんが……じゃあ、夕飯は二人分用意しましょうね」
「助かる」
ラガッツォが身を縮めて謝罪する間、フェルディナンドは物珍しそうな様子で宿の中を眺めていた。玄関と食堂の上で緩やかに回転する飾りを目で追っていたかと思うと、受付に置かれていた女の子の人形を手に取ってしげしげと観察する。人形を元置かれていた場所に戻すと、彼は彼女が身にまとっているユカタヴィラの裾を神経質に指先で整えた。
「こちらの席へどうぞ」
夕飯の用意された席へ促される。机が三つ置かれた食堂に、他の宿泊客の姿はなかった。隅の机で、ロベルタと呼ばれていた宿の娘がノートにクレヨンで落書きをしていた。
「きみと食事を共にするのも久しぶりだ」
フェルディナンドはそう言いながら平然とテーブルナプキンを手に取り、膝に掛ける。彼は慣れた手つきでワインリストを広げると、女主人を呼んでこの島のワイナリーの十年物はあるかなと尋ねていた。
ラガッツォは食事を前にして深くため息をつくと、焼き上げられたばかりのパンを手に取り、千切って口に運ぶ。この地方のスープも、牛のワイン煮も、近所の農家で採れたばかりだという野菜で作られたサラダも、フェルディナンドの存在にかき消されて碌に味がしなかった。
フェルディナンドは注文したワインで唇を湿らせながら、時折小さく口を開き料理を食んでいた。彼は酒と共にメインを食べ、野菜の付け合わせを間に挟む。主食は滅多に食べない。それが昔からのフェルディナンドの食事だった。
必要のないことはいつまでも忘れられないものだ、とラガッツォは内心で自嘲する。彼にまつわる事柄を忘れることは、ラガッツォにとって酷く困難だった。フェルディナンドという男の存在を忘れたいと願った日も多くあったが、いざ彼を前にすれば、彼が手を動かすたび、瞬きをするたび、髪をかき上げるたび、目線がつられて彼のあとを追う。
昔からの癖だった。フェルディナンドのあとを追い、彼の一挙手一投足を目で追うのは昔から癖だった。彼の動きをなにひとつ見逃したくなかったのだ。彼のことはすべて知りたかった。フェルディナンドはいつだって優雅に指先を動かし、周囲を指揮した。ラガッツォも彼の指示に従うことに喜びを見出していた。かつての彼は、一流の楽団の指揮者のようだった。彼に従うことで世界は調和し、美しく公転する。彼の完成された動きをすべて、この身に刻みたいと願って幼いラガッツォは生きていたのだ。その願いは、彼にふさわしい子供でいたいという願いと、彼のことをすべて知り尽くしたいという願いの両方を孕んでいた。
重苦しい空気に包まれたまま食事をしていると、宿の玄関が開く音がした。低い男の声が玄関から響く。
「サラ、ロベルタ、ただいま。帰ったよ」
ロベルタが弾かれるように顔を上げ、席から降りると走り出した。
「パパ~!」
「あなた、」
女主人もキッチンから顔を出す。日によく焼けた短髪の若いヒューマンが、ロベルタを抱っこしながら食堂に現れ、駆け寄る女主人の腰に手をまわした。彼は並べられた席を振り返り、大きな口を開いて驚いた顔をした。
「おお、お客さんがいらっしゃったんだな。いらっしゃい、夏祭りをたのしんでいってくださいね。光華大会は明後日だったかな? ぜひ。見て後悔はしませんよ」
彼は白い歯を見せ、ラガッツォとフェルディナンドに笑いかける。そして娘を抱いたまま、奥へ姿を消した。
彼に対し軽く会釈をしたラガッツォは、彼が姿を消したことを確認して視線を下げ、一拍の間をおいてフェルディナンドに視線を合わせた。
その瞬間、恐怖に背筋がぞっと粟立った。
フェルディナンドは目を見開き、眼をまるで磨き抜かれた翡翠のように艶めかしく光らせていた。彼の視線は、男の消えた扉に向けてじっと向けられたまま動く気配がない。
「……おい」
ラガッツォの声も聞こえているのかどうかわからない。フェルディナンドの瞳には暗く沈んだ炎がじっとりと燃え上がっていた。
「……なんだい」
どこか上の空ではあるが、返答があったことに安堵する。フェルディナンドは指先で自身の顎に触れ、唇をたわませた。いつか見たことがある。獲物を見つけた肉食獣の表情。
「あんまり露骨な目つきをするんじゃねェ。見苦しいだろォ」
「失礼したね。素敵なものを見て、少々浮ついた態度を取ってしまったようだ」
フェルディナンドは上機嫌に言い、フォークを手に取った。煮込まれた肉に銀色の金属が食い込む。先端が肉の組織を破壊していく。開かれた彼の口の狭間から、赤く湿った舌がちろりと覗いた。
赤い肉とグラスに注がれた赤い液体を交互に口に運ぶフェルディナンドの目尻が仄かに上気していた。彼の精神の高揚を感じながら、ラガッツォは皿に載った料理の残りを掻きこみ、口に詰め込んだ。指と舌にまとわりつく脂が酷く厭わしかった。
***
二階の部屋からは星空がよく見えた。街から少し外れた場所に宿が位置しているため、都市の明かりが届かず星の輝きを邪魔するものがないのだ。
二階にはラガッツォに宛がわれた一室だけがあった。一階にはシングルの部屋が二部屋存在するらしい。部屋には洗面所と風呂が備え付けられ、ダブルベッドの他にはこぢんまりとしたテーブルとソファが置かれていた。
丁寧に手入れがされた室内で、ラガッツォは深くソファに腰掛け両足を放り出しながら、ぶっきらぼうに言った。
「俺はソファで寝る」
コートをウオールハンガーに掛けたフェルディナンドは、ベルトの金具を外しながら首を傾げた。
「どうして? それじゃあ身体が休まらないだろう。いいじゃないか、ベッドはダブルだし。私たち二人が寝ても余裕はありそうだ」
「アンタと一緒に寝る気分じゃねェ」
苛立つラガッツォを諭すように、フェルディナンドは穏やかな声を発した。彼がタイを解く手つきを、ラガッツォは視線だけでじっと追う。
「そうはいっても、風邪をひいたら一大事だろう。勿論、きみが風邪をひいたら私が看病してあげるけどね。我が儘を言ってはいけないよ、ラガッツォ。そもそもこの部屋は元々君が借りていたものじゃないか」
主はきみだろう? 違うかい? と重ねて言い聞かせられる。
フェルディナンドがシャツを脱ぐ。上半身の白い素肌と、そこに刻まれた刺青が露わになる。ラガッツォは思わず目線を彷徨わせた。幼い頃、己が無邪気にあの線を辿った思い出を頭の中から振り払う。
「ラガッツォ」
フェルディナンドの声が一段低くなる。『言うことを聞きなさい』の合図だ。
「おいで、ラガッツォ」
ベッドに横になったフェルディナンドが、片腕を広げる。
ラガッツォは窓の外を眺め、髪を掻きむしり、深く息を吐くと、意を決して立ち上がりベッドに近づいた。
ベッドに膝を乗せる。ギィ、と軋んだ音が鳴った。ラガッツォはフェルディナンドの傍らに手をつき、そっと静かに横たわった。
フェルディナンドの纏う花の香りが、全身を包み込む。
彼の腕の下に広がる空間は、まるでラガッツォのために特別に誂えられたかのようだ。その位置に寝そべるとラガッツォの身体はいつだってぴったりと収まった。昔のように彼の脇の下で丸まると、周囲の音がすっと遠のき、世界に蔓延る怖いものすべてから守られている心地がした。
フェルディナンドの腕が伸び、ラガッツォを力強く抱きしめる。彼の素肌が頬を押し、肌のざらりとした感触を伝えた。久しぶりに感じた人肌の温もりに、体温が一気に上昇する。
「……っ、おい、離せ。離せって言ってんだろォ」
ラガッツォを抱きしめるフェルディナンドに腕を突っ張らせて抗うと、彼は意外そうな顔でラガッツォを見下ろした。
「きみは私に抱かれて眠ることが好きだろう。何故嫌がるんだい?」
頭に血が上った。上半身を起こし、反論しようと息を吸い込む。今更父親面か。アンタはそうやって、拒絶したかと思うと愛を囁いて俺をコントロールする。突き放した瞬間抱き寄せる。愛おしそうに頭を撫でる。けれどそれはアンタがしたいからじゃない。俺が言ったから、俺が望んだから、俺がしてほしそうだったから、俺のためになるかと思って、きみのために私はしているんだよと責任をすべて俺になすりつける。どこにも逃げ場のない状況でアンタは言う。
アンタの操り人形になるのはもう十分だ。嘘偽りはもう十分だ。俺たちの「家族」という虚像は壊れて砕け散ってしまった。俺が信じたアンタの愛も、アンタが囁いてくれた愛さえも、虚空に消え去ってしまった。
俺は信じていたのに。アンタが口にしてくれた言葉を信じていたのに。
だが言葉は出てこず、ただ眼前の男に紅潮した顔を晒すだけに終わった。
「んな……、昔の話を持ち出すんじゃねェ。さっさと寝ろォ!」
毛布をガっと掴み、ラガッツォはフェルディナンドに背を向けて横になった。フェルディナンドはしばらく沈黙していたかと思うと、衣擦れの音をさせて小さく動き、やがてラガッツォの脇腹の上に音もなく掌を乗せた。
彼は幼いラガッツォを寝かしつけるときそうしたように、規則正しくラガッツォの身体を軽く叩いた。
過ぎ去ったいにしえの日を思い出し、ラガッツォの胸は限界まで締めつけられた。こぼれそうな涙を誤魔化すため、シーツに目元を押し付ける。喘ぐような息を殺し、ただ無心に早く背後の男が寝てくれと願った。
「……理解したかった」
掠れた声で絞り出されたラガッツォの言葉に、返事はなかった。男はゆっくりと、ラガッツォを慰めるように一定のテンポで触れることを繰り返す。
幼い自分は思っていた。いつか自分が大きくなり、彼と対等になれたなら、彼がやさしく頭を撫でてくれるように自分も彼を抱きしめ返せるのだと思っていた。
自分も彼のようにありたかった。彼が贈ってくれる愛の言葉に、ひとりの人間として彼に思いを返したかった。
彼の言葉を聞き、彼の言葉を信じている間に与えられたぬくもりは酷くやさしかった。
大人になればわかるのだと思っていた。彼のあたたかさがどこからくるのか。どうすれば彼のように他者へ陽だまりを与えられるのか。
どうすれば彼にこのぬくもりを与えられるのか。
ラガッツォに与えられたフェルディナンドという謎を解き明かせば、もっと世界を愛せると信じていた。
ああ、俺はアンタを、理解したかった。
ラガッツォは、底なし沼に引き摺りこまれるように、暗く深い眠りへ引き摺りこまれた。
***
全身から力が抜けていた。ぬるま湯に浸かっている快楽。なめらかな感触が掌からすべり落ちていく。
暗闇に抱かれていた。親しみの持てる暗闇が、ラガッツォを守っていた。やがて冷えた空気が流れ込み、そっと地面に横たえられる。
草の鋭い感触が肌を舐めた。むせ返るほどの青い匂いが周囲に充満している。
促されるまま瞼を上げると、満天の夜空が視界に飛び込んできた。見覚えのない星座。星たちは混乱し、己のいるべき場所を飛び出して自由に光っている。
ああ、アイツが見たら嘆くだろう。
アイツとは誰のことなのかわからないまま、そう思った。
重い手足を持ち上げ、生まれたばかりの動物そのままの動きで立ち上がる。ラガッツォは、草原に立っていた。
夜の闇に包まれた草原に、風が吹き渡る。草が生き物のように遠くまで波打っていく。
意識しないまま、一歩目を踏み出した。足に草が刺さる。爪の間に挟まる土塊の鮮やかな感触が脳を揺さぶった。
褪せた色の世界を進んでいく。しばらく歩いていると、どこからか影が現れだした。表面に濃淡のある人型をした影たちは、何体も現れてラガッツォと同じ方向に進んでいく。
群れになった影たちが、声もなく直進していく。
皆が行く先には何があるのだろう。足を動かしながら目を凝らすと、草原の終わりがぼんやりと見えた。背の高い建物が幾つも身を寄せ合い、重なり合ってじっと暗闇の中に佇んでいる。
建物の手前には、小さな湖があった。
ラガッツォの足が、湖畔の板を踏む。影たちは湖を回り込み、音もたてずに建物に吸い込まれていく。彼らは自分の行くべき場所を理解しているようだった。足取りは迷いなく、群れの行動に混乱はない。
けれど、俺にはいく場所がないのだ。ラガッツォは孤独に打ち震えながら湖畔に佇み、闇に沈む建物を眺める。
ふと、湖の波止場にいる人影に気づいた。彼は波止場に腰を掛け、背を丸め、足を宙に放りだしていた。
彼は寂しそうだった。広い背中が孤独を物語っていた。
彼の背後に立ち、ラガッツォは耳を澄ます。彼が何かを語っていた。
「始まりを覚えているだろうか? 否、記憶にない」
湖は深く底が見えなかった。水は透き通っているのに、光が捻じ曲げられてでもいるのか内部を見通すことができない。
「私に始まりなどなかった。最初に存在したのは拒絶だ」
遠くに建つ建物の一階に、明かりが灯る。誰かが己の部屋に着いたのだ。
「皆が私を嫌う。私を嫌悪の目で見る。私を追い出す。私という存在をなかったことにする」
明かりがひとつふたつと増えていく。それに従って湖畔の闇は深くなる。彼の表情が濃い闇に包まれる。
「私の表現する愛はそれほどいびつだろうか? 彼らの愛と私の愛のどこが違う?」
建物の光が瞬き、部屋のなかで暮らす影たちを明るく照らす。その光は決してこちら側に届かない。
「私の死体を数えるといい。すべてここに積み重なっている。私の抱いた愛と同じ数だ。なにひとつ間違いはなかった。私はすべての家族を愛そうとした」
家族が灯す明かりを前に、彼は湖を指さし、ひとり己の死を数えている。
「私は彼らを殺した。彼らは私を殺した。そこになんの違いがある?」
彼は世界でひとりぼっち。
「なのに彼らは一方的に私を拒む」
心を閉ざして、誰のことも見ようとしない。
アンタに言葉は届かない。誰の言葉も届かない。断絶された言語を使って、未知の感情をはるか彼方から送り合うような交信しかできない。
わかり合いたかった。この男とわかりあいたいと俺はかつて願っていた。善に塗りつぶされた清らかな関係じゃなくたっていい。醜くたって、泥にまみれていたって、互いに人間であるなら言葉と肉体を楔とした確固たる関係を築けるのだと信じていた。
幼い俺は信じていた。アンタが俺をこの世界に繋ぎとめたように、アンタを俺という世界に縛り付けられると信じていた。楔を打ち込めない人間がいるなんて俺は知らなかった。
俺が願った願いはひとつだけだ。
最早周囲に人影はなく、眼前の男は目を閉じ他者を拒絶している。ラガッツォはひとりきりだった。見知らぬ家族たちが灯す明かりに照らされながら、ただ自分は、自分だけは彼の死体を数えまいと決意する。
ラガッツォは声なく叫ぶ。
いつか強くなれば、アンタは俺だけを見てくれると思った。
俺は祈っていた。
かみさま。かみさま。
俺はこのひとと本当の家族になりたい。
――誰かが泣く声が、聞こえたような気がした。
じっとりと蒸す暑さに耐えかね、己の上にかぶさっていた布を無意識のうちに蹴り飛ばす。誰かが手を伸ばし腹の上に布団を掛け直した。寝返りを打ち、シーツに頬を擦り付ける。耳が壊れてしまいそうなほど、外で虫が盛んに鳴いている。
部屋に満ちる朝日の気配に、ラガッツォは目を閉じたまま眉を顰めた。
頭上で小さく笑う息遣いが聞こえる。寝起きに何度も聞いた、声なく笑う彼の息遣い。彼はよく目覚めの悪いラガッツォを覗き込んでは上機嫌に笑っていた。
『ラガッツォ、きみはいつだって不機嫌な顔でぐずっているのに、私が抱っこするとあっという間に機嫌を直してしまうんだ。
きみが大人になってもいつまでもきみに教えてあげたいよ、ほら見てごらん、朝がきたよとね。
そして私の手で、きみをご機嫌にするんだ』
「朝だよ。そろそろ起きなさい」
至近距離で発せられた低音に耳が震えた。目を開ける。透き通った緑の瞳がラガッツォを真正面から見つめていた。
「おはよう、かわいい子」
「ハョ」
寝起きの掠れ声でラガッツォは応えた。フェルディナンドはラガッツォを抱くようにベッドに寝そべっていた。身支度は既に終えたのか、ウエストコートまで身に着けている。
急速に薄れていく夜の気配に引きずられたまま、眼前の顔を眺める。整った顔をしている、と彼を前にしていつも思う。鼻筋が通って、睫毛は長く、肌はいつも白く輝いている。どこか上機嫌に唇は弧を描き、赤い唇の間からは慎ましく並んだエナメルの歯がのぞいていた。
これほどまでに美しいのだから、この人は世界でも特別なひとなのだと思っていた。世界に愛された特別なひとなのだと。
その証拠にフェルディナンドが指をさすと、世界は色を得て無限に広がっていった。彼はラガッツォの前で世界を作った。雲が流れ星が瞬く空を、野原に咲き誇る花を、初夏に萌える草木を、分厚い書物に書かれた戦記を、高く築かれた建築物を指さすことで世界に出現させた。
そして彼はラガッツォを指さし、きみは私にとって特別な存在なのだと言ってくれた。
ラガッツォの居場所は彼の腕の中にあり、見るべきものは彼の指先の指し示す方向にあった。力を振るうべき対象も、守るべき家族も、愛も憎しみもすべて彼が用意してくれた。
彼と共に築いた世界はラガッツォの心の中の箱に大切にしまわれている。その事実を突きつけられながら、じっとフェルディナンドを見つめた。視線があう。彼はしばらくラガッツォを無言のまま観察し、やがてゆっくりと顔をラガッツォに近づけてきた。
ふに、と柔らかな感触が唇に当たった。彼の静かな光を湛えた緑色に視界を支配されながら、二度、三度と与えられる感触に身体を硬直させる。
「……どう、いう」
唇が耳に寄せられる。フェルディナンドの吐息が耳朶を擽る。
「きみは随分と寂しそうな顔をする」
その言葉に、ラガッツォはフェルディナンドを力いっぱい突き飛ばした。彼は驚いた様子もなく、ベッドに手をついて起き上がると
「ああ、歪んでしまった」
と言いながら優雅な手つきでよれてしまったタイを直した。
息が上がる。膝立ちになり、ラガッツォは固く拳を握りしめた。
激しい感情に思考が塗りつぶされる。手の甲で口元を荒々しく拭い、気持ちを落ち着けるため、数度深呼吸をした。
彼はいつだってこうして無造作に距離を縮める。そのたびにラガッツォの思考は散り散りになり、腹の奥底で奇妙な熱が渦巻きはじめる。感情に任せ怒鳴り散らしたかった。怒りで誤魔化したかった。
そして自分が抱いている思いを見て見ぬふりしてしまいたかった。知っている、これは恐怖だ。
彼への押し殺した欲情をまるで見透かされたような気がしたから、俺は。
かつて抱いていた感情と情欲が現実のものとなってラガッツォに背後から襲い掛かる。過去が足首を掴み、俺を忘れることなどできないだろうとけたたましく笑い声をあげている。
父に対し欲情する息子を告発している。
フェルディナンドが手を伸ばし、ラガッツォの頭を優しく数度撫でた。穏やかに彼は言う。
「突然でびっくりしてしまったのかな」
ラガッツォは項垂れ、フェルディナンドの手をただ受け入れた。フェルディナンドが口を開き、何事か言おうとする。数回唇が開閉し、やがて彼は諦めたように呟いた。
「私は今更、きみになにを言おうというんだろう……」
ラガッツォは顔を歪めた。心が反射的に叫ぶ。
待っている。
俺は今だって、アンタの言葉を待っている。
***
前を歩くフェルディナンド越しに、空を覆う厚い雲が目に入った。鈍色の雲が一面を覆っている。昼間だというのにどこか薄暗く、湿った空気が流れていた。
サラと呼ばれていた宿の女主人に朝食の席で勧められるがまま、ふたりは街へ行くことになった。
他にすることもねェしな、とフェルディナンドの顔色を窺うと、彼は満更でもなさそうにサラに街の有名店について尋ねていた。
街は人で溢れ、店から店に移動することも一苦労するほどの密度だった。人の背中が現れては消えていく。ラガッツォは足元を見た。数多くの足が石畳を踏み、幅広の革靴が、先端のとがったヒールが、ベルトのついた幼児の靴がラガッツォを避けて流れるように進んでいく。
唐突に行く手を阻む男がいた。看板を手にした売り子たちが、人々に声を掛けている。この混雑に乗じてフェルディナンドとはぐれてしまおう、という目論見を見透かすように、するりとフェルディナンドの手がラガッツォの手を握った。
「なっ……なにしてんだよォ」
フェルディナンドは振り返って首を傾げた。
「きみが迷子になってしまってはいけないだろう?」
フェルディナンドが手を握る力は強く、ラガッツォは振りほどくことができなかった。
白い手が義手を握り、進む方向を示す。機械の手では彼の体温を昔のように感じられず、ラガッツォは目を伏せた。心の中をうすら寒い風が吹き抜けていく。
「昔に戻ったみたいだ」
前を向いたまま、フェルディナンドは言った。彼の後頭部を見上げ、ラガッツォは言葉の続きを待つ。
「きみはよく迷子になっていたね。きみは私のいうことをよく聞いたけど、獲物を前にすると頭に血が上ってしまうから……路地の奥まで追いかけては戻る道を見失っていた」
「あれは、でも、アンタがいたから」
「そう。後ろに私が絶対いるときみは信じていた」
「アンタがいないときはそんな油断しなかっただろォ」
「私はいつだって心配していたんだ。この子は私がいなかったらどこへ行ってしまうのだろうと」
「心配しすぎだったんだ。アンタは普段から」
帰るのが少し遅くなっただけで探しにきた。薄着をしていれば上着を着せた。口論をして翌朝口をきかなければ手紙を置いて仕事に行った。
彼は子供のラガッツォを大事に育てた。まるで実の親のように。否、実の親以上に。
「おや、りんご飴が売っている。食べるかい? 好きだっただろう」
「いつの話してんだよォ……」
ラガッツォはフェルディナンドに引き摺られるように出店の前に立ち、色とりどりの飴を眺めた。
「これをひとつ」
フェルディナンドが選んだものは、小ぶりだけれど身の張った果実に透明な飴が掛けられたものだった。艶やかな赤色がフェルディナンドの手を経由してラガッツォに渡される。
「ありがと……」
果たして俺は礼をいうべきなのか、と思いながらラガッツォはりんご飴に歯をたてた。飴の濃厚な甘さと果実の酸っぱさが同時に口の中に広がった。
「前にきたときも買ってあげたんだよ」
ラガッツォはフェルディナンドの顔を見上げた。穏やかな表情で、彼は遠くを見つめていた。
「なあ、昔、俺たちここへきたんだよなァ?」
「覚えていたのかい? 君がまだ幼かった頃に一度来たんだよ。あれは……確か、郵便屋(パツセンジヤー)が荷物を持って行方不明になったんだったかな。最後の目撃情報が、私たちがいま泊まっている宿の奥にある湖でね」
「そうだったのか……」
「彼は結局荷物を彼の泊まっていた宿に置いて、あの湖で姿を消したままだ。住民は彼が入水自殺したんじゃないかと湖を浚っていたけど、手掛かりはなにも出なかった」
ラガッツォは今になって知る事実に目を見張った。
「けれど、彼はどこにも行っていない気がするね。彼は会いたい人に会ったんだよ」
「それは、」
どういう意味だ、と問いかけようとするラガッツォの前に、にゅっと腕が伸びてきた。
「どうぞ! このあとステージで劇が始まります!」
大粒の雫と巨大な口を顔に描いたクラウンの少女がカラフルなチラシをラガッツォに押し付け去っていく。周りの人々も口々に喋りながら流れるようにステージのある方向へ歩き出す。
「ふむ。この地の英雄譚だね」
ラガッツォの手にあったチラシを取り上げて読んだフェルディナンドが言う。
「この島は歴史が長いんだ。紛争がなかった時代には芸術が花開いて、物語も多く書かれたんだよ。そしてその物語に音楽が重ねられたりね。この島は興味深くて滞在が楽しかったものだ」
「へェ」
大通りの先は行き止まりになり、クラウンの言っていたとおりに大掛かりな舞台が木材で組まれていた。
板張りのステージの上でバンドたちが音楽を奏でている。バイオリンが高音を鳴らし、ピアノの鍵盤が昼下がりにふさわしい緩やかなメロディを添わせた。ステージの前に用意されたベンチは食事をする家族連れや手をつないだ男女で埋まっていた。
空いていた後方の席にフェルディナンドと共に腰を下ろす。フェルディナンドは足を組んで肘をつき、ステージを眺めていた。
ラガッツォは上空を見上げた。朝から怪しかった天気は徐々に崩れ出している。雲は黒さを増し、周囲には雨の湿った甘い匂いが漂い出している。
演奏を終えたバンドがお辞儀をし、楽器を抱えてステージから去る。スタッフがピアノを押して舞台の脇に下げた。男性がマイクを持ち、次は劇が始まると告げる。
まばらな拍手と共に、役者たちが前に出る。王冠を被った大柄な男が、中心に据えられた王座に座った。
物語は悪政を敷く王から始まる。
「この地には悪い王がいたんだ」
フェルディナンドが囁いた。
彼はよく物語を声に出して聞かせた。ラガッツォがそう願ったからだ。寝る前には必ず本を読み聞かせた。そこでラガッツォは世界を作った神々と星たちとの間にあった悲劇を知った。彼は朝食の席で新聞に連載されている小説を音読した。ラガッツォは朝のひと時、古代の戦士と共に戦場を駆けた。休日の昼下がりには、ラガッツォはフェルディナンドの語る言葉で、驢馬と共に世界を巡る旅をした。
彼の言葉はラガッツォの胸を躍らせ、別の世界の人間となって別の世界を旅する喜びを与えた。ラガッツォは愛していた。物語そのものを、物語を読み聞かせる彼の低い声を。
彼の言葉はラガッツォに想像という名の大きな翼を与え、高く空を舞い上がらせた。
空から見下ろしたステージでは人々が嘆き苦しんでいる。
王は民を苦しめる。民は貧困にあえぎ、明日食べる小麦すら底を尽く。種籾まで食らいつくして一揆を起こすも、兵隊たちは容赦なく弾圧する。子を殺された母は泣く。そして民は頼る。願いをかなえるという星晶獣に。
「あの星晶獣を祭ったのが今回の祭りの起源なのさ」
星晶獣は願いを叶え、一人の男をこの地に呼び寄せる。
ステージに若く溌溂とした男が剣を片手に現れた。彼の頭には月桂樹で作られた冠が載っている。
男は数々の試練を越え、仲間を得る。次々に襲い来る敵を倒し、星晶獣の祝福を得て王宮へ向かう。
ひしめく軍隊を一人で蹴散らし、彼は王と問答する。
――なぜこれほど民を苦しめるのか。
だが王に話は通じない。王はただ王座で支離滅裂な言葉を繰り返す。王は人の心を失ってしまっているのだ。
「かつてこの地で使われていた薬草には精神錯乱作用があった。恐らくその副作用だろうね」
男は王の首を撥ね、新たな王となる。
民の歓声によって迎えられた新たな王は、その日の夜に王宮の裏庭で慟哭する。
己が殺した王は、己の実の父だったと教えられたのだ。
そこで劇は終わる。
「めでたし、めでたし。そのあとこの王国は栄え、三百年もの間戦争が起きなかったと伝承ではいわれている」
再びまばらな拍手が起こる。役者たちが一列に立ち、礼をした。
フェルディナンドもゆったりとした拍子で拍手を繰り返した。彼の大きな掌が規則正しく音を立てる。
「彼が最後に泣く気持ちが、私にはずっとわからなくてね。だって父親は殺すものだろう?」
ぽつり、と雨粒が頬に落ちた。
ラガッツォが天を仰ぐと同時に幾つもの雨粒が落下してくる。人々が慌てて腰を上げ屋根の下に向かって散っていく。フェルディナンドは微動だにせず、淡々と言葉を続けた。
「私には今だってわからないよ。彼は喜ぶべきだったんだ。彼は無事に己の父親を乗り越えて、そして王宮の家族が自分の家族となったのだから」
降り出した雨によってフェルディナンドが雨に濡れていく。ラガッツォは水滴が服にしみこみ、義手を伝っていく冷たさを感じていた。体温が雨風に奪われていく。人がいなくなる。声が遠ざかっていく。ふたりきりになる。
舞台を前にして、殺した者と殺されたものが対峙する。
「父親を殺したところで、手に入るもんなんかなにもない」
「そうかな」
フェルディナンドは首をひねり、薄っすらと微笑んだ。
「きみにはまだ家族がわからないのかな」
身体が芯から冷えていく。彼の言葉はラガッツォの心を吹雪く野原に置き去りにする。
「アンタは家族を欲しがるが、最後には殺されるのがオチだ」
「それもまた家族のありようだよ」
「そう言ってすぐ忘れられるような家族が家族な訳ねェだろ」
「おや、私は覚えているよ。これまで私の家族になった人々をね。皆大切な人たちだ」
有象無象と一緒くたにしないでくれ。
「皆私を愛してくれたよ」
アンタに傷跡を残した俺を見てくれ。
「意見のすれ違いがあって一緒にいられる時間が長くなかった人たちが多いけれど、そういうものさ」
「……殺されてもそう言うのか」
アンタを殺した俺を許さないでくれ。どうか殺した俺を罰してくれ。
「勿論。酷いことをしたら叱らないとといけないけどね」
アンタを愛した人間なんて存在しない。皆恐怖に顔を歪め、偽りの父親という他人に恐れおののいていた。
けれど、俺は違う。俺だけは違う。
「現実を、見ろよ」
「現実?」
アンタの言葉を信じ、アンタの愛を感じていた。
冬の日に差す木漏れ日のようなあたたかさを受け取っていた。
「この世に――この世にアンタの家族なんかひとりもいねえだろうが!」
俺がいると言ってくれ。俺だけが特別だと言ってくれ。
ラガッツォの半ば叫びと化した言葉に、フェルディナンドは微動だにしなかった。まるで誰もなにも言葉を発しなかったとでもいうかのような彼の平然とした態度に苦々しく歯を噛み締める。
「俺は止めるからなァ」
フェルディナンドがラガッツォを見下ろした。
「なにをだい?」
「ひとごろしを」
じっと瞳を見つめる。父という存在を追い求めるフェルディナンドの瞳はいつだって奇妙な熱を孕んでいる。
「もうアンタを誰の『家族』にもしない」
赦さない。
アンタが俺以外の家族を求めることを、絶対に赦さない。二度と家族を求めてその手を汚させない。
アンタを愛すのは、この俺だけだ。
アンタの居場所は、俺の隣だ。
「でもね、ラガッツォ」
彼は静かな笑みを浮かべて言った。
「私は温かな家庭が欲しいんだ。
妻と子のいる家庭がね」
酷く冷静に、彼は言った。雨が降る。勢いよく雨粒は大地を叩き、人々を追いやる。下がってきた髪が鬱陶しくなり、勢いよくかき上げた。肩先が無性に寂しかった。
フェルディナンドが手を伸ばし、ラガッツォの肩に触れた。
「帰ろう。風邪をひいてしまうよ」
鼻を啜り、ラガッツォは立ち上がった。ずぶ濡れのフェルディナンドを見下ろす。何故か彼の姿がとても小さく見えた。
「ラガッツォ」
甘い声が、名を呼ぶ。湧き出た感情を断ち切るように、ラガッツォは歩き出した。
***
「まあまあまあ」
なんてことでしょう、と半ば叫びながらサラはタオルを取りに宿の奥へ走り去った。ずぶ濡れの男二人が玄関に立ち尽くす様を、ロベルタは不思議そうな顔で見つめていた。
板張りの床に水が滴り落ち、水たまりができていく。
「どうぞ、これで足りるかわからないけど。早くお風呂に入った方がいいわ」
厚手のタオルを山ほど持ってきたサラがそれらを二人に押し付けながら言う。
「ありがとう」
「すまねェ」
すると、玄関の騒ぎを聞きつけたのか奥から人影が現れた。
「どうかしたのかい」
ロベルタの父親が顔を出す。濡れ鼠になったラガッツォとフェルディナンドの姿を認め、大きく顔を顰めた。
「さっきの大雨だね」
「今日は朝から天気が悪かったから、もしかしてって思っていたのよねえ」
ラガッツォはこっそりとフェルディナンドの顔色を窺う。フェルディナンドは父親へ視線を固定させたまま、髪から落ちる水滴を拭った。
彼は「父親」を刈り取るべき瞬間を、見定めているようにラガッツォには感じられた。彼はいつだって気配なく獲物に近寄り、寸分の躊躇いなく脈打つ心臓を刺した。
「明日は晴れるといいんだがなあ」
「ほら、おふたりは早く部屋まで戻った方がいいわ」
サラに追い立てられるがまま、ラガッツォは二階に向かう。フェルディナンドが小さな声でサラと会話し、そのままラガッツォの元まで歩いてくると、背を押しながら言った。
「着替えよう。身体が冷えてしまうからね」
ラガッツォは口を曲げ、不満と同意を同時に示した。
部屋へ入ると同時に上着を脱ぎすてる。手にした服を置く場所に困り、とりあえず洗面所に放り込んだ。
ベッドに腰掛け、ぐっしょりと水を吸ったブーツを脱ぐ。フェルディナンドもコートをハンガーに掛け、シャツの手首の釦を外しながらラガッツォの横に腰を下ろした。
「先に風呂へ入るといい」
親切な口ぶりに、神経が逆立った。
「で、その間にアンタはなにをしようってんだよ」
「なにを?」
なんだろう、と無垢な表情でフェルディナンドは問いかける。
「随分あの父親にご執心じゃねェか」
フェルディナンドの瞼が薄く開いた。
「そうかな」
「今度はここの家族を乗っ取って父親面するつもりかよォ」
「なんだ、そんなことを心配していたのかい」
模様の刻まれた彼の手がラガッツォの手首を油断なく捕らえる。雨で冷えたリングがラガッツォの肌にめり込んだ。
「考えすぎだよ、ラガッツォ。……きみが考えていることは起こらないさ」
フェルディナンドの顔が近づく。キスができる距離で、彼は言葉なくラガッツォを咎める。
きみは私を疑ってはならないと。
「きみがシャワーを浴びて出てくるまで私はベッドの上で待っているよ」
赤い唇が開く。舌が奥で蠢いている。ラガッツォを誘い、誑かす言葉を発するために。
「それとも一緒に入ってほしいのかい? 子供のころのように、背を流してほしいのかな。洗ってほしい? きみの身体の隅々まで」
嘲るような揶揄いの言葉に舌打ちし、ラガッツォはフェルディナンドの胸倉を掴み上げるとベッドに両腕で押し倒した。二人分の体重を受け止めたベッドがうるさく軋む。
手加減せず太腿に体重のすべてを乗せ、彼を拘束する。だが彼にとってはラガッツォの体重など軽いものだ。彼が望めば、かつて何度もそうしたようにラガッツォの身体などあっけなくあしらわれてしまうだろう。
馬乗りになったラガッツォを乗せたフェルディナンドは、額に手を当てると心底可笑しそうに笑い声をあげた。
甲高い声が神経に障る。
「なにがおかしい、テメエ、」
「わかったよ、ラガッツォ。きみの望みが」
「んだとォ」
彼は目を細め、上機嫌に言った。
「きみはパパを独占したいんだね」
息が止まる。大きく心臓が鳴った。周囲の音が遠ざかる。
フェルディナンドはラガッツォの手を取り、愛おしそうに頬擦りした。
「もっと欲しがるといい、欲望は願いだ。願いは私たちの本能だ。私たちは欲しがり、願うことでこの世界を発展させてきた。願いなさい、ラガッツォ。きみは私になにをしてほしいんだい?」
――わからない。
わからない。このひとには俺の言葉が通じるのだろうか? このひとになにを言えば思いを交わせるんだろう。
俺はこのひとになにを言いたかったんだろう?
俺はこのひとのなにを理解できるっていうんだろう?
俺はこのひとになにを求めていたんだろう。
俺はこのひとになにを求めているんだろう。
「俺は、アンタに、」
俺は理解したいと願った。フェルディナンドの言葉が嘘偽りで構成されていたと知ったあの日、俺は理解したいと思った。
アンタの吐く言葉が全て嘘でもいい、そのうしろにあるフェルディナンドという男を理解したいと願った。
もう二度とアンタを信仰しない。
アンタの言葉を盲信したことがすべての間違いだった。俺は理解するべきだったんだ。アンタの言葉を受け取り、その裏を探り、思考を、感情を、思いを理解するべきだったんだ。
それでも俺は祈っている。アンタが囁いてくれた偽りの愛の中に、真実があったと祈っている。アンタは嘘と真実を同時に言ったのだと縋っている。
だって俺の世界はアンタの言葉によって生まれた。
彼の言葉が俺をかたち作り、彼の愛が背中を押した。そうして俺はこの世に送り出された。
誰かを愛そうとする俺の心を、あなたが生み出した。
フェルディナンドはラガッツォの両頬を抱き、誘うように囁く。
「君が望む言葉はなんでもあげるよ。だから言うことを聞いて、いとしい子」
「……いらない。なにもいらない」
ラガッツォはフェルディナンドに縋りつくように、言葉を発した。
「ただ、アンタが本当に考えていることを知りたい」
ラガッツォの言葉に、フェルディナンドは虚を突かれた表情を浮かべた。沈黙が二人を包む。
フェルディナンドは、聞き分けのない子供を諭すように囁いた。
「そして、きみはまた私の言葉を信じるのかい?」
やり場のない無力感に支配されていた。
「……重いよ、ラガッツォ」
重かった。ふたりの間に満ちる空気さえ。
「誰も……」
ラガッツォは力なく項垂れたまま、掠れた声を発した。
「誰もアンタを救えない」
フェルディナンドは笑みの名残を残したまま、ラガッツォの顔に手を伸ばし、愛おしいものを撫でる手つきで掌を肌にすべらせた。
「やっとわかったのかい、坊や」
慈愛に満ちた言葉に、涙が滲んだ。
