グラブル(フェルラガ)
あまりにも平然と言うので、はじめは今日の夕飯について相談でもされているのかと思った。しかしジータは、淡々とした口調でラガッツォに人生の決断を促した。
「もうすぐこの騎空艇は空域を越えることになるの。これは乗船している皆に訊ねていることなんだけど、もうこの空域には、二度と戻ってこない可能性があるの」
ジータは腰に下げている剣の頭を撫でてしばらく沈黙し、唇を小さな舌で湿らせてから言葉を続けた。
「後悔のね、ない判断をしてほしいの。皆にね。全員に。この騎空艇に乗った人のすべてに、後悔のない選択をしてほしいと願っているの」
彼女は首を傾げ、ラガッツォに問いかける。向けられた瞳は澄み渡り、彼女の人格のありようを示すようにまっすぐな光が湛えられている。光源の乏しい廊下の隅でも感じるほど、彼女の芯の強さは特有の輝きを放っていた。
「あなたは、艇に残る?」
何百人と団員が在籍する騎空団をまとめ上げるリーダーという存在を改めて前にし、内心では少し怯みながら、ラガッツォは目線を彷徨わせた。
ジータは自分の掌をもう片方の手で何度か叩くと
「返事は急がないから、また答えを聞かせてね」
と告げて別の団員のもとに去った。
機械でできた爪で首筋を掻き、ラガッツォは自室のドアノブを捻った。小さな丸窓がふたつついた、こぢんまりとした個室。部屋の中心に据えられたベッドとクローゼットは乱れなく整頓されている。脇にある小さな机と椅子は、この部屋への入居が決まったときに、世話になった仲間が倉庫から運んできてくれたものだ。
椅子の背に掛けていた上着をクローゼットに戻しながら、ラガッツォはジータに告げられた言葉を反芻していた。
白い花の活けられた硝子のコップをテーブルから窓辺に置きなおし、枕元に置かれた本棚の本を意味もなく整えた。そしてすることがなくなり、ベッドに寝ころぶ。頭の下で腕を組み、じっと目を閉じた。
一度、ふわりと艇が上下した。たしか誰かが、近いうちに気流の荒い区域を通り抜けなければならなくなると話していた。あれは、今朝の食堂で聞いたのだったか。艇は順調に航行している。予定では、四日後に近隣の大きな都市へ接岸するはずだ。
きっとそこから、仲間たちがひとりふたりと減っていくのだろう。人数が多すぎるが故に、この艇で暮らしている団員すべての背景をラガッツォは熟知していないが、空域を越えるという話に同調できる人間ばかりでもあるまいという予感があった。
逆に、彼らはジータにどこまでもついていくだろうという面々の顔も浮かぶ。きっと彼らは、いつかジータが一度だけ直接話してくれた、イスタルシアという場所まで共に行くのだろう。ラガッツォにはその地についての詳しい知識がないが、ジータと彼女の仲間に対しては、一度決めた目的を完遂する人々だという信頼がある。
――俺は、どうするべきか。
彼らに流されるまま、ついていくと答えるのは簡単だ。きっと艇の皆は受け入れてくれるだろう。そう信じられるだけの年月をこの騎空団で過ごし、そう信じてもらえるだけの経験を彼らと共に積んだと胸を張って言える。
だが、とも思う。
ラガッツォが生まれ育ち、思い出を刻んできたのはいま騎空艇で巡っている島々を抱くこの空域だ。その地に二度と戻れないかもしれないという判断を、深く考えを巡らさずに決断することも、己の在り方としてしっくりこない気がした。
頭を使って、自分の気持ちを慎重に推し量る。そして、周囲の人々と擦り合わせて答えを出すというプロセスを、ラガッツォはこの騎空団で学んだ。
壁にくり抜かれた丸窓を通して、ぼんやりと外を眺める。青い空が無限に広がり、遠く雲が流れていく。
「まァ、晩飯までに答えろって話でもなかったしなァ……」
ラガッツォは寝そべったまま大きく欠伸をし、そのまま静かに眠りに落ちた。
花の香りがする、と暗闇で思った。遠く足音が響く。耳に馴染んだ、革靴が立てる音。花の香りを常にまとっている彼が帰ってきたのだ。あの足音の主はラガッツォが寝ている部屋まで様子を見にくるに違いない。
彼はラガッツォの部屋のドアを開けて、ベッドに近づき静かに毛布を捲る。そして決まって、寝ているラガッツォの髪をかき上げ、こめかみにやわく口づけをするのだ。
――フェルディナンド。
存在しない男の体温をありありと感じながら、ラガッツォは覚醒した。日の光が落ち、闇の垂れこめた室内に彼がいる気がして背筋が凍る。手探りで枕元を探り、小さなライトを震える手で灯した。
明かりが灯り、騎空艇の部屋の様子が浮かび上がる。
ふ、と小さく息を吐きだした。薄い壁越しに、隣室の人間が何かを落とす音が鈍く響いた。コツコツとヒールの立てる高い音が廊下を過ぎ去っていく。人々の喧騒が艇の奥から流れてきた。夕飯の時間に合わせて、皆が食堂に集まりだしているのだ。
きっと彼なら、今のラガッツォを目にして言うだろう。
『おや、どうしたんだい。そんなに青ざめて、ああ、汗をかいている。悪い夢でも見たのかな? ほら、抱っこしてあげるから、それから服を着替えよう。起きてごらん、パパの手を取って』
あの純白の睫毛に縁どられた緑色の瞳が、今もラガッツォを見つめている気がした。
――大丈夫だよ。パパが傍にいるからね。
ずっと傍にいると言ってくれた、その約束を破ったのが彼なのかラガッツォなのか、もうラガッツォにはわからなかった。
ラガッツォは上半身を起こして頭を振り払い、足を床に下ろして立ち上がった。
部屋を出て一番近い洗面台まで歩く。数人が、食堂へ向かって歩いて行った。彼らと狭い廊下ですれ違いながら反対方向に進み、積まれていたタオルを手に取って蛇口を捻った。
水が掌を流れていく。手に触れた物質の温度がわからないことにもすっかり慣れた。数度顔を荒々しく洗い、水の滴る己の表情を眼前の鏡を通して眺める。
血色が悪く、常に存在している隈によって目つきが悪くなった若い男が、鏡越しにこちらを睨みつけている。
目に痛いほど赤い色をした髪は、しばらく切られていないために自由に伸び、縺れ、寝癖によって毛先が四方八方に散らばっていた。
「おいおい、どうしたんだよ。さっきまで徹夜で誰かと戦ってましたって顔してるぜ」
廊下から伸びてきた拳が、ラガッツォの肩を小突いた。
「ッチ、うるせえなァ」
廊下に立つ男の、ピンク色のポニーテールが揺れた。
「フェザーは一緒じゃねェのか?」
ランドルは呆れたように肩を竦めると、食堂の方角を親指で指さした。
「『聞いたかランドル、今日の夕飯はステーキだそうだ! 早く行かないと全て食われてしまうぞ!』って叫んで一人で走って行っちまったよ」
ラガッツォはハッと声に出して笑い、「アイツらしいな」とこぼした。
「俺達も行こうぜ。しかしどうしたんだ。本気で顔色悪いぞ。悩み事か?」
ランドルらしい、こちらを気遣った、けれど深刻にならない調子の言葉に同意するようにラガッツォは頷いた。
「アンタらは団長から聞いたか? この艇が……」
「あぁ、空域を越えるって話か。別になあ、俺達はこの空域に残る理由も特にないし、ついていくかな……って、俺が答える前にあのバカが団長に即答しててよ」
ふん、とランドルは鼻先で笑い、一拍おいてラガッツォを見遣った。
「迷ってるのか?」
「うーん……」
ラガッツォは廊下を歩きながら、自身の足先を見つめた。履きこんだブーツはしばらく磨いていないため全体的にくすんだ色合いをしており、布地部分の端はほつれかけている。
「迷っているって言うかよォ……心残りのある場所が、あるんだよなァ」
誰にも言うつもりがなかった言葉が、ぽろりとこぼれ落ちた。
「一度ゆっくりひとりで旅して、これまでのことを考え直してェな……」
「……そうすればいいじゃねえか」
「あ?」
ランドルは真っ直ぐ前を向き、力強く言った。
「お前がそうしたいならそうすればいいじゃねえか。どうしてそうしないんだ?」
ん? と問いかけるように、こちらを向いたランドルは首を傾げた。
「拾ってくれた騎空団に恩を感じてるから残らないと、とでも思ってんのか? 恩なら恩でありがたく受けとっときゃそれで終わりだ。深く考えすぎんなよ」
それによ、とランドルは続けた。
「お前四年もこの騎空団にいるだろ。そろそろ、他の世界を知るってのもアリなんじゃねえか?」
「他の、世界……」
「そんなもんだろ。自分がいる場所っていうのは自分で選べる。変えたくなったら変えたっていいじゃねえか。文句を言うやつがいたら俺達に言えよ、そいつをぶっ飛ばしてやるから」
勢いよく空中を蹴ったランドルは、歯を見せて笑い、くるりとその場で一回転した。ピンク色の髪が光を弾き、眩しく輝いていた。
「この騎空団の皆ともまた会いたかったらきっと会えるさ。本気でそう願えばできねえことなんかねえよ」
彼の迷いのない言葉と表情に背を押されるように、ラガッツォは一歩前に踏み出した。
「……寂しくなるだろうなァ」
「大丈夫だろ。本気で寂しくなったら、俺達の艇を追っかけてこいよ」
「ひとりで空域を越えさせようとするんじゃねェ」
ふたりでひとしきり笑った後、空腹に鳴る腹を抱えて食堂へと足を踏み入れた。
***
ずっしりと肩に食い込む鞄を肩に掛け、ラガッツォは定期船のチケットを握りしめた。数時間前、仲間たちが乗った騎空艇を港から見送ったときのことを思い出す。
ジータに騎空艇を降りると伝えてからは慌ただしかった。部屋を片付けて荷物をまとめ、顔なじみの団員たちに挨拶をし、送別会だなんだとしているうちに二週間ほどの時間が経った。その間に艇を降りる団員も複数名いた。
仲間たちからは餞別の品だといって様々なものを貰った。花や本、手紙をはじめとして、ペーパーナイフや硝子でできたペン、刺繍の施されたハンカチ、筋トレ用のバンド――彼女は最初筋トレ用の鉄アレイをくれようとしていたが、それを入れると鞄が重くなってしまうとラガッツォは固辞した――、銀色に輝く異国の硬貨や手焼きのクッキー、瓶詰のカラフルなキャンディなど、高価ではないけれど思いの詰まった品々でラガッツォの鞄ははち切れそうなほどに膨らんだ。
そして彼らは艇から降りたラガッツォを置いて去った。
甲板から手を振る仲間たちの姿を見上げ、手を振り返しながら彼らを見送った。青空に溶けていくグランサイファーを眼鏡越しに追いかけながら、ラガッツォは思い出していた。徹夜明けの眠い眼を擦りながら仲間と共に見た朝焼け。団員たちの喧嘩を仲裁しようとして誤って殴られ、奥の歯が欠けたこともあった。任務に出た先に、帰りが遅かったからと迎えに来てくれた仲間たち。
彼らとはもう二度と会えないという予感があった。この地で彼らとの縁は一度確かに区切られたのだ。
共に艇を降りた団員と別れを交わし、ラガッツォは定期船のチケット売り場へ行った。行く当ては特になかった。
大きな看板に手書きされているチケットの値段と行き先の地名を眺め、心に引っかかっていた場所のうちの一か所へいく便の時間を、備え付けられている時刻表で調べた。財布を取り出して所持金の額を数える。一週間程度なら定期船に乗ったままでも過ごせそうだった。
そうして、ラガッツォはフェルディナンドと暮らしていた家のある島へ行く定期船のチケットを買った。
定期船から降りた瞬間、襲い掛かってきた強烈な日差しに目が眩んだ。夏特有の、肌を圧迫するじりじりとした空気が辺り一帯に充満している。港に集まった人々の喧騒が周囲に響き、賑やかなリズムを奏でていた。
大規模な都市を中心に抱えた島の周辺には緑が深く生い茂り、山が幾つも連なっている。都市の文明と自然が共存しているこの島は、暮らしやすいと周囲の島でも評判だった。
ラガッツォは、船を降りると舗装されていない道を踏み、港から市街地に続く道を歩いた。リゾート地に旅立つと思しきドラフの家族連れたちが、ラガッツォとすれ違い港へ向かっていく。空気でパンパンに張り詰めた新品の浮き輪が弾んでいた。
石造りの建物が徐々に増え、道を進む馬車が増えたころ、懐かしい景色が目に飛び込んだ。なんの変哲もない街灯が道端に立つ十字路と、隣接する広場。
広場の中心には古い巨木が根差している。木々が日差しを遮っているため、夏場などは涼を求めて人々が設置されたベンチで休んでいたものだ。ラガッツォも、ここへよく本を読みに来た。またあるときはフェルディナンドと買い物帰りにベンチに腰掛け、行きかう人々を眺めながらアイスを食べたりした。
広場を横目に十字路を横断し、しばらく道をまっすぐ進む。やがて懐かしい赤い屋根の家が目に入った。少しくすんだ色合いの、白い壁に赤い屋根を乗せた一軒家。かつて、フェルディナンドと住んでいた家。
引き寄せられるように近づいたラガッツォは、足に絡みつく感触に気づいて目線を下げた。
家の門には錆びた鎖が渡され、他者の侵入を拒んでいる。そして日に焼けた郵便ポストには、赤字で書かれた『売り家』の看板がぶら下がっていた。
この家にはもう誰も住んでいないのか、とラガッツォは立ち尽くした。肩から提げた鞄がぐっと重さを増す。
遠い日々を懐かしんで訪れただけだった。誰に会えると期待した訳でもない。しかし、フェルディナンドと思い出を積み重ねた家がただのモノとして売買されている現実を上手く飲み込むことがどうしてもできない。喉でなにかがつかえてしまった感じがする。
売り家の看板を掛けた一軒家は、どこかうらぶれてみえた。
重い風が足元を撫でる。ラガッツォはしばし沈黙したあと、鋭い目つきで周囲を見渡した。全身が暑さで茹だる夏の午後、閑静な住宅地を歩く住民たちの姿はなかった。
ラガッツォは敷地に張られた鎖を跨いで越え、家の横手に回り雨風に汚れた窓越しに室内を覗き込んだ。
がらんとした室内に椅子が転がっていた。剥がれかけた壁紙が浮き上がっている。数歩進んで隣の部屋を覗くと、かつてのフェルディナンドの寝室が広がっていた。
彼の寝ていたベッドと、数冊の本が残された本棚が黒い影の中に沈んでいる。
そのまま家の裏手に向かい、ラガッツォは慣れた手つきで植木鉢の下を探った。乾いた泥の付着した家の鍵を指先でつまみ上げる。
高鳴る心を抑えながら、裏口の鍵穴に鍵を差し込んだ。鈍い音を立て、閉じられた扉の鍵が開く。
一歩室内に足を踏み入れた瞬間、厚く積もった埃が舞い上がった。窓から差し込む光に反射し、室内がきらきらと煌めく。
この家はこんなに狭かっただろうか、というのが第一印象だった。まるで玩具のような家だった。狭く、小さく、ミニチュアでできた、家族ごっこをするための家。
緩慢な足取りで部屋を巡る。家の時は過去で止まっていた。フェルディナンドとこの家で過ごしたときのまま、空間が真空に保存されていたようだ。ラガッツォの伸びた身長を刻み込んだ柱は、古い傷跡を残しながら家の屋根を支えている。悪戯描きをして叱られ、ふたりで貼りなおした壁紙の端はめくれ上がったままだ。
フェルディナンドが寝室にしていた部屋のドアノブへ手を掛ける。かつて何度もこの扉をくぐった。幼い頃は彼のベッドで毎夜本を読み聞かしてもらい、そのまま就寝したものだ。深い声に導かれて神話の世界を彷徨い、そして彼の体温に包まれ眠ると、まるで世界のすべてから守られている気がした。
成長してからは、個室を与えられた。けれど夜に悪夢を見ては、泣きながらフェルディナンドの部屋の扉をノックした。彼はそのたび、全身でラガッツォを包み込んでくれた。
軽い力を加えると、扉はあっけなく開いた。懐かしい景色が眼前に広がる。フェルディナンドが横になっていたベッド、彼が本を手に取っていた背の高い本棚、彼がペンを走らせていた机と椅子。
思わず胸いっぱいに空気を吸い込んだ。部屋の全体を見渡す。残されていたベッドに腰掛けた。上半身を倒し、顔を布地に埋もれさせる。かつて己を愛してくれた父親の残り香を探すように、鼻をひくつかせた。
ベッドに横たわり、頭上に渡された梁を眺める。
『また私の部屋にいたのかい、ラガッツォ。きみはそこが好きなんだね。じゃあ、なにか物語を聞かせてあげよう。どのお話がいいかな?』
彼はそう言って、本棚に手を伸ばすのだ。
隙間だらけになった本棚へ視線をやると、よくフェルディナンドに読み聞かせられた一冊が残されていることに気づいた。
ラガッツォは立ち上がり、革で装丁された分厚い本を手に取る。神話と星座について記述されたこの本は、フェルディナンドが好んで読んでいた一冊だった。表面にまとわりつく埃を吹いて払い、頁を捲る。
日に焼けた頁をパラパラと手繰った先で、本に挟まれていた一枚の紙が床に落下した。身を屈めて尖った指先で紙片をつまみ上げる。厚く四角い紙にはどこかの湖の景色が描かれていた。裏返すと、島の名前と思しき地名が走り書きされている。
――遠い記憶が蘇る。彼と夜に旅をしたこと。描かれている湖の際にふたり立ったこと。
『この湖には、会いたい人に再び出会えるという言い伝えがあるそうだよ』
彼は厚い掌をラガッツォの肩に置いていた。湖の冷えた水の香りを、ラガッツォは確かに嗅いだ。
『私を見失ったら、きみもここにくるといい』
遠い記憶。今では、誰の記憶にも残っていないはずの。
「……行く当ても、特にねェしなァ……」
ラガッツォは湖の描かれた紙を胸の内ポケットに仕舞うと、途方に暮れた子供のように呟いた。
「俺は、どうしたかったんだろうなァ」
***
狭い定期船に詰め込まれて数日、降りた港はいやに人が多かった。その疑問はすぐに氷解した。街のあらゆる場所に街を挙げて行われる夏祭りのポスターが貼られ、色とりどりの旗が翻っている。
街行く人々の中にも、ユカタヴィラを着た人がちらほらと混じっていた。港のロビーに設置された掲示板の前で足を止め、貼られたポスターをじっと観察する。中心には光華が描かれ、様々な催し物が数日にわたって行われるとスケジュールが記載されている。日付を見ると、二日後に光華大会が行われるらしい。だから定期船にも港にもあんなに人がいたのか、とラガッツォは心の中で納得した。
宿はあるだろうか、というのが次に湧き上がった疑問だった。なければ野宿でもするしかねェなァ、と考えながら掲示板の傍らにあった観光マップを手に取る。朧げな記憶に現在の地図が重なる。かつてフェルディナンドと訪れた湖は、光華大会の行われる街から少し外れた場所に位置していた。
街は浮ついていた。街を横断する大通りには出店が軒を連ね、軽食や遊戯を提供している。エルーンの少女たちがわたあめを食べながら、どっと笑った。彼女らを避けたドラフの男性が、連れていた女性に射的の店を指さしながら何事か話しかける。
そんな人々を掻き分けるようにラガッツォは道を進み、街を出ると、旧街道をひとりで歩いた。
石造りの建物は徐々に木造になり、商店も住宅も疎らになったころ、道路の脇に木製の看板がぽつりと立っていた。ペンキで矢印が描かれ、湖へ繋がる道を指し示している。
その奥には、簡素な宿があった。木で作られた、ログハウス風の二階建ての宿だ。
ここなら今晩の宿が取れるだろうか、とラガッツォは思案し、敷地に足を踏み入れた。門の奥に植えられた木々の下を通ると、花の香りが濃く立ち昇った。無数の白く小ぶりな花が頭上で咲いている。玄関の前に立ち、大きな音をさせて宿の戸を叩く。少したってから軽い足音が聞こえ、「今開けます」の声とともに扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
幼い少女がラガッツォを見上げていた。赤色の癖毛を頭の左右で結い、肩先まで垂らしている。
「ご宿泊ですか」
舌足らずな高い声がラガッツォに問いかける。赤い睫毛が数回瞬きした。彼女は手縫いの服を着て、小さな革靴を履いていた。
「あ……あァ、部屋は空いてるか」
「一室だけ。ダブルなら」
「ロベルタ、お客様なの? あらごめんなさい、」
奥から背の高い女性が姿を現した。少女と同じ赤毛を固く結い上げ、貝でできた飾りを髪に挿している。華やかな色のエプロンの裾で手を拭いながら、少女を奥に押しやった。
「ご宿泊だって」
「あら、そうなのね。今日はダブルの部屋が一室だけ空いているんですけれど」
「それを嬢ちゃんから聞いた。その部屋でいいから泊まれるか?」
「勿論ですよ。多分、この部屋を逃すと今日は宿泊先がないでしょうし……」
「お祭りの日はお客さんが多いの。街の宿ももういっぱい」
「そうなんです」
「だろうなァ」
「ではこちらにお名前をいただけますか。そのあとお部屋にご案内しますね」
ラガッツォは己の義手に向けられる幼い視線を感じながら帳簿に名前を記入し、部屋に向かう女主人の背を追った。
荷物を部屋に置き、身軽になる。そしてラガッツォは改めて宿を出た。玄関で湖の場所を尋ねると、女主人はこの宿の裏手にある整備された散歩道の存在を教えてくれた。
宿の裏手に広がる林に足を踏み入れる。植物の青い匂いがどっと迫ってきた。湖が近いことを証明するように、水気を孕んだ涼しい風が頬を撫でる。道の左右には濃い緑が広がり、木々が重なって暗い影を作っていた。虫たちの騒がしい鳴き声に重なって、遠くで鳥が羽ばたく音がする。過去が反響する。
フェルディナンドはこの道を、幼いラガッツォの手を引いて進んでいた。空気は冷たく、耳朶が引き裂かれそうだった。待って、と呼び止める隙もなくフェルディナンドは足早に進む。ラガッツォは置いていかれないよう必死に足を前進させていた。
ラガッツォは流れ落ちる一筋の汗を手で拭い、林の奥へ進んだ。
十分ほど整備された緩い坂道をのぼると、視界が一気に開けた。どこかで流れ落ちている水の音が耳のなかで木霊する。
静かな水面が広がっていた。水はどこまでも澄んでいた。しかし湖は深く広く、底を見通すことはできない。古い船がもやいで繋がれ揺れている。時折湖のなかに棲む魚が飛び跳ね、湖面に円を描いていた。
ああ、ここだ、と思った。胸の内ポケットに仕舞われている絵と見比べるまでもない。かつてラガッツォはフェルディナンドとこの地を訪れ、この湖を前にしてふたり並んで立った。
静寂が重く圧し掛かる。ラガッツォは傍らの大木に手を置いて身体を支えながら、過去の声を聴いていた。
『この手を離しては駄目だよ。そうすればずっときみを守ってあげられるからね』
彼は冷え切った小さな掌を握りしめ、囁いた。
『きみはなんていい子なんだろう。私の自慢だ――』
『愛おしい子。私の宝物。ベテルギウスの子。愛しているよ』
『私はきみを愛しているよ』
『愛しているよ、ラガッツォ』
フェルディナンド、アンタは惜しみなくこの俺に愛の言葉を降り注いだ。
俺の体温を上昇させたアンタの言葉は、俺の礎まで染みこみ、思考を縛る。感情を揺さぶる。
俺の世界は彼が作り、動かしている。
これは呪いだ。
フェルディナンド、アンタは今でも俺の心の奥底を呪いで縛り付けている。
***
日差しの勢いを残したまま、太陽は傾きかけていた。ラガッツォは行く当てなく街に戻る。適当なものを出店で買って食べ、そのままぶらぶらと街を散策する。
ヒューマンの男性たちがラガッツォの鼻先を掠めていく。彼らは会話に夢中で、ラガッツォの存在など気づいていない様子だった。
幸せに満ちた彼らに追いだされるように、大通りを外れて小路に足を踏み入れる。二度三度と角を曲がると、その先には人気がなく静まり返った空間が広がっていた。
店頭の硝子のショーケースで、日に焼けたぬいぐるみと機械仕掛けの人形が力なく椅子に腰かけている。武器屋は埃で汚れたブラインドを下ろし、隣の薬局には厚い硝子瓶に詰め込まれた薬草が幾つも並べられていた。角の割れた煉瓦敷きの道を踏みしめ空を見上げる。連なった旗が風にはためき揺れた。
二階に干された洗濯物を住人が回収していく。左右に並ぶ建物の背が徐々に高くなり、日の光が遠くなり、酒場の看板が増えてきたと思った頃、遠くから人の諍いの声が漏れ伝わってきた。
「んだよ、面倒ごとかよォ……」
面倒には巻き込まれたくねェなあ、とぼやきながらラガッツォは酒場の裏手にある細い裏通りを覗き込んだ。
朽ちた酒樽や割れた酒瓶が転がるじめっとした裏通りに、目立った人影はなかった。ラガッツォはわざと足音を立てながら進む。道の脇に聳える影の濃い建物から、ぎょろりとした目でラガッツォを追う視線だけを感じた。
ふと、傍らの廃屋から人の断末魔が聞こえた。ラガッツォは躊躇いなく扉を足で蹴飛ばし、土埃の舞い散る暗い室内に踏み込む。
暗い屋内に目が馴染むまで思ったよりも時間がかかった。襲いかかられてもすぐさま反撃できるよう、構えをとりながら周囲を観察する。部屋の奥には、べったりと黒く濃い影がまとわりつく物体が二つ。辺りには、錆びた血の臭いが充満していた。
下に寝そべる影には、光るなにかが突き刺さっていた。ふと、その形に見覚えがあるような気がして、ラガッツォは息を止めて足踏みした。
『私を見失ったら、きみもここにくるといい』
「……おや」
影が立ち上がる。すらりとした腕がコートの裾を捌く。懐かしい香りが鼻を擽った。
「観客がいるのは久しぶりだ」
懐かしい花の香り。懐かしい短剣のフォルム。懐かしい声。かつて、ラガッツォに尽きることのない愛を囁いてくれた、低く甘い声。
「ようこそ、と言うべきなのかな、私は」
いま、人を殺したばかりのフェルディナンドは満面の笑みを浮かべ、両手を広げた。まるでラガッツォを抱きとめようとでもするかのように。
舌打ちが出た。腹の底が燃えるように熱い。まるで周囲が燃え盛っているかのようだ。世界はまだこの男に死を与えていないのか。怒りが炎となって心の空を覆う。ラガッツォの心に呪いを刻み、両腕を切り落とした男は、未だのうのうと息をして人を殺し続けている。
ラガッツォはこれ以上ない限界まで顔を顰め、苦々しく吐き捨てた。
「アンタ、まだ死ねてねェのかよ」
言葉の背後に、拭い切れぬ甘えが滲んでいる気がした。
***
はて、私はなにを言われたのだろう、とでもいった表情のままフェルディナンドは短剣を地面に捨てた。白い革靴で短剣を踏み、刃先に罅を入れる。
「少し使うとすぐに汚れてしまう」
フェルディナンドは軽く言うと、首を傾げた。
「おや、また誰かくるようだ」
その言葉に促されるまま耳を澄ますと、この廃屋を目指していると思しき複数の人間の声と足音が遠くから響いていた。
「アンタ、」
ラガッツォは掠れる声に苛立ち、数度咳払いした。
「アンタなんでそんなに落ち着いてんだよ」
返事を待たず、ラガッツォはフェルディナンドの手首を掴む。己の手首を握った義手を、不思議そうな表情で見下ろすフェルディナンドを引き摺るようにして奥の扉へ向かった。下げられていた鎖を片手で引きちぎり、扉を開ける。扉は外に向かって開き、別の小路に繋がっていた。
廃屋から脱出する。足音を殺しながら半ば駆けるように歩く。背後を窺っては追っ手の気配を探った。フェルディナンドはそのあいだ口をつぐみ、素直に手を引かれていた。
路地を何度も曲がり、何本もの通りを越え、人の影にふたりで紛れることができたころ、フェルディナンドは静かに口を開いた。
「私たちはどこへ向かっているんだい」
彼の緑の瞳に見下ろされるのも、随分と久しぶりのことだった。白い睫毛が音もなく上下するさまを見て、過去の自分は雪原で身を震わせる銀狐をよく想起したものだ。この男が、そんな無害な存在でないことも知らずに。
「知らねェよ、そんなこと。アンタこそ、どこへ逃げるつもりだったんだァ?」
呆れと、純粋な疑問が入り混じった声が出た。
「私? 私はね」
うーん、と彼は顎に指をあて考え込む。邪気のない表情と仕草に、コイツは本当に人を殺してきたばかりなのだろうか、と馬鹿げた考えが浮かんだ。
「行く場所は特になかったなあ。……この間まで一緒に暮らしていた家族を殺してきたばかりなんだ。帰る場所は特にないよ」
彼は残念そうに言った。だが、それは俺の勘違いかもしれないとラガッツォは思った。
彼はいつだって仮面を被るように感情を被っている。その仮面の下にある彼の真実の姿に触れたと思えたことは、一度しかない。彼の背中を突き飛ばした、あの一瞬しか。
「行く場所を探さないといけないね。きみも知るように、ナビスもなくなってしまったから」
静謐さを湛えたまなざしが、ラガッツォを貫いた。
「私はひとりさ」
こいつを放り出しておけばまた躊躇いなく人を殺し続けるだろう。そしていつか彼は誰かに再び殺され、永遠の生を繰り返していく。その輪廻を断ち切らなければ何も解決できないとラガッツォの理性は言う。彼を止め、無垢の人々を救わなければならない。
だが、彼を止めたいと願う理由は果たして本当にそれだけだろうか?
俺はそんな純粋な理由で、この男を止めようとしているのだろうか?
「……じゃあ」
ラガッツォは声を絞り出した。己の裡に勝手に湧き上がる、意に反した欲望を必死に押し殺しながら。
「じゃあ、俺と一緒にこいよ」
目が細められる。正解を導き出せた子供を褒めるように、甘い声がまとわりつく。
「そうしようかな。きみと一緒に行こう」
彼は唇をほころばせながら、ラガッツォの手を握った。刺青の刻まれた指が、義手にそっと絡められる。
甘えた仕草をする彼に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて警告する。
「……おい。アンタ、俺と一緒にいる間は人を殺すなよォ」
その言葉を聞いたフェルディナンドは、他者に対し心の底から誠実な言葉を発そうとする調子で、聞き返した。
「どうしてきみとそんな約束をしなければいけないんだい?」
***
「もうすぐこの騎空艇は空域を越えることになるの。これは乗船している皆に訊ねていることなんだけど、もうこの空域には、二度と戻ってこない可能性があるの」
ジータは腰に下げている剣の頭を撫でてしばらく沈黙し、唇を小さな舌で湿らせてから言葉を続けた。
「後悔のね、ない判断をしてほしいの。皆にね。全員に。この騎空艇に乗った人のすべてに、後悔のない選択をしてほしいと願っているの」
彼女は首を傾げ、ラガッツォに問いかける。向けられた瞳は澄み渡り、彼女の人格のありようを示すようにまっすぐな光が湛えられている。光源の乏しい廊下の隅でも感じるほど、彼女の芯の強さは特有の輝きを放っていた。
「あなたは、艇に残る?」
何百人と団員が在籍する騎空団をまとめ上げるリーダーという存在を改めて前にし、内心では少し怯みながら、ラガッツォは目線を彷徨わせた。
ジータは自分の掌をもう片方の手で何度か叩くと
「返事は急がないから、また答えを聞かせてね」
と告げて別の団員のもとに去った。
機械でできた爪で首筋を掻き、ラガッツォは自室のドアノブを捻った。小さな丸窓がふたつついた、こぢんまりとした個室。部屋の中心に据えられたベッドとクローゼットは乱れなく整頓されている。脇にある小さな机と椅子は、この部屋への入居が決まったときに、世話になった仲間が倉庫から運んできてくれたものだ。
椅子の背に掛けていた上着をクローゼットに戻しながら、ラガッツォはジータに告げられた言葉を反芻していた。
白い花の活けられた硝子のコップをテーブルから窓辺に置きなおし、枕元に置かれた本棚の本を意味もなく整えた。そしてすることがなくなり、ベッドに寝ころぶ。頭の下で腕を組み、じっと目を閉じた。
一度、ふわりと艇が上下した。たしか誰かが、近いうちに気流の荒い区域を通り抜けなければならなくなると話していた。あれは、今朝の食堂で聞いたのだったか。艇は順調に航行している。予定では、四日後に近隣の大きな都市へ接岸するはずだ。
きっとそこから、仲間たちがひとりふたりと減っていくのだろう。人数が多すぎるが故に、この艇で暮らしている団員すべての背景をラガッツォは熟知していないが、空域を越えるという話に同調できる人間ばかりでもあるまいという予感があった。
逆に、彼らはジータにどこまでもついていくだろうという面々の顔も浮かぶ。きっと彼らは、いつかジータが一度だけ直接話してくれた、イスタルシアという場所まで共に行くのだろう。ラガッツォにはその地についての詳しい知識がないが、ジータと彼女の仲間に対しては、一度決めた目的を完遂する人々だという信頼がある。
――俺は、どうするべきか。
彼らに流されるまま、ついていくと答えるのは簡単だ。きっと艇の皆は受け入れてくれるだろう。そう信じられるだけの年月をこの騎空団で過ごし、そう信じてもらえるだけの経験を彼らと共に積んだと胸を張って言える。
だが、とも思う。
ラガッツォが生まれ育ち、思い出を刻んできたのはいま騎空艇で巡っている島々を抱くこの空域だ。その地に二度と戻れないかもしれないという判断を、深く考えを巡らさずに決断することも、己の在り方としてしっくりこない気がした。
頭を使って、自分の気持ちを慎重に推し量る。そして、周囲の人々と擦り合わせて答えを出すというプロセスを、ラガッツォはこの騎空団で学んだ。
壁にくり抜かれた丸窓を通して、ぼんやりと外を眺める。青い空が無限に広がり、遠く雲が流れていく。
「まァ、晩飯までに答えろって話でもなかったしなァ……」
ラガッツォは寝そべったまま大きく欠伸をし、そのまま静かに眠りに落ちた。
花の香りがする、と暗闇で思った。遠く足音が響く。耳に馴染んだ、革靴が立てる音。花の香りを常にまとっている彼が帰ってきたのだ。あの足音の主はラガッツォが寝ている部屋まで様子を見にくるに違いない。
彼はラガッツォの部屋のドアを開けて、ベッドに近づき静かに毛布を捲る。そして決まって、寝ているラガッツォの髪をかき上げ、こめかみにやわく口づけをするのだ。
――フェルディナンド。
存在しない男の体温をありありと感じながら、ラガッツォは覚醒した。日の光が落ち、闇の垂れこめた室内に彼がいる気がして背筋が凍る。手探りで枕元を探り、小さなライトを震える手で灯した。
明かりが灯り、騎空艇の部屋の様子が浮かび上がる。
ふ、と小さく息を吐きだした。薄い壁越しに、隣室の人間が何かを落とす音が鈍く響いた。コツコツとヒールの立てる高い音が廊下を過ぎ去っていく。人々の喧騒が艇の奥から流れてきた。夕飯の時間に合わせて、皆が食堂に集まりだしているのだ。
きっと彼なら、今のラガッツォを目にして言うだろう。
『おや、どうしたんだい。そんなに青ざめて、ああ、汗をかいている。悪い夢でも見たのかな? ほら、抱っこしてあげるから、それから服を着替えよう。起きてごらん、パパの手を取って』
あの純白の睫毛に縁どられた緑色の瞳が、今もラガッツォを見つめている気がした。
――大丈夫だよ。パパが傍にいるからね。
ずっと傍にいると言ってくれた、その約束を破ったのが彼なのかラガッツォなのか、もうラガッツォにはわからなかった。
ラガッツォは上半身を起こして頭を振り払い、足を床に下ろして立ち上がった。
部屋を出て一番近い洗面台まで歩く。数人が、食堂へ向かって歩いて行った。彼らと狭い廊下ですれ違いながら反対方向に進み、積まれていたタオルを手に取って蛇口を捻った。
水が掌を流れていく。手に触れた物質の温度がわからないことにもすっかり慣れた。数度顔を荒々しく洗い、水の滴る己の表情を眼前の鏡を通して眺める。
血色が悪く、常に存在している隈によって目つきが悪くなった若い男が、鏡越しにこちらを睨みつけている。
目に痛いほど赤い色をした髪は、しばらく切られていないために自由に伸び、縺れ、寝癖によって毛先が四方八方に散らばっていた。
「おいおい、どうしたんだよ。さっきまで徹夜で誰かと戦ってましたって顔してるぜ」
廊下から伸びてきた拳が、ラガッツォの肩を小突いた。
「ッチ、うるせえなァ」
廊下に立つ男の、ピンク色のポニーテールが揺れた。
「フェザーは一緒じゃねェのか?」
ランドルは呆れたように肩を竦めると、食堂の方角を親指で指さした。
「『聞いたかランドル、今日の夕飯はステーキだそうだ! 早く行かないと全て食われてしまうぞ!』って叫んで一人で走って行っちまったよ」
ラガッツォはハッと声に出して笑い、「アイツらしいな」とこぼした。
「俺達も行こうぜ。しかしどうしたんだ。本気で顔色悪いぞ。悩み事か?」
ランドルらしい、こちらを気遣った、けれど深刻にならない調子の言葉に同意するようにラガッツォは頷いた。
「アンタらは団長から聞いたか? この艇が……」
「あぁ、空域を越えるって話か。別になあ、俺達はこの空域に残る理由も特にないし、ついていくかな……って、俺が答える前にあのバカが団長に即答しててよ」
ふん、とランドルは鼻先で笑い、一拍おいてラガッツォを見遣った。
「迷ってるのか?」
「うーん……」
ラガッツォは廊下を歩きながら、自身の足先を見つめた。履きこんだブーツはしばらく磨いていないため全体的にくすんだ色合いをしており、布地部分の端はほつれかけている。
「迷っているって言うかよォ……心残りのある場所が、あるんだよなァ」
誰にも言うつもりがなかった言葉が、ぽろりとこぼれ落ちた。
「一度ゆっくりひとりで旅して、これまでのことを考え直してェな……」
「……そうすればいいじゃねえか」
「あ?」
ランドルは真っ直ぐ前を向き、力強く言った。
「お前がそうしたいならそうすればいいじゃねえか。どうしてそうしないんだ?」
ん? と問いかけるように、こちらを向いたランドルは首を傾げた。
「拾ってくれた騎空団に恩を感じてるから残らないと、とでも思ってんのか? 恩なら恩でありがたく受けとっときゃそれで終わりだ。深く考えすぎんなよ」
それによ、とランドルは続けた。
「お前四年もこの騎空団にいるだろ。そろそろ、他の世界を知るってのもアリなんじゃねえか?」
「他の、世界……」
「そんなもんだろ。自分がいる場所っていうのは自分で選べる。変えたくなったら変えたっていいじゃねえか。文句を言うやつがいたら俺達に言えよ、そいつをぶっ飛ばしてやるから」
勢いよく空中を蹴ったランドルは、歯を見せて笑い、くるりとその場で一回転した。ピンク色の髪が光を弾き、眩しく輝いていた。
「この騎空団の皆ともまた会いたかったらきっと会えるさ。本気でそう願えばできねえことなんかねえよ」
彼の迷いのない言葉と表情に背を押されるように、ラガッツォは一歩前に踏み出した。
「……寂しくなるだろうなァ」
「大丈夫だろ。本気で寂しくなったら、俺達の艇を追っかけてこいよ」
「ひとりで空域を越えさせようとするんじゃねェ」
ふたりでひとしきり笑った後、空腹に鳴る腹を抱えて食堂へと足を踏み入れた。
***
ずっしりと肩に食い込む鞄を肩に掛け、ラガッツォは定期船のチケットを握りしめた。数時間前、仲間たちが乗った騎空艇を港から見送ったときのことを思い出す。
ジータに騎空艇を降りると伝えてからは慌ただしかった。部屋を片付けて荷物をまとめ、顔なじみの団員たちに挨拶をし、送別会だなんだとしているうちに二週間ほどの時間が経った。その間に艇を降りる団員も複数名いた。
仲間たちからは餞別の品だといって様々なものを貰った。花や本、手紙をはじめとして、ペーパーナイフや硝子でできたペン、刺繍の施されたハンカチ、筋トレ用のバンド――彼女は最初筋トレ用の鉄アレイをくれようとしていたが、それを入れると鞄が重くなってしまうとラガッツォは固辞した――、銀色に輝く異国の硬貨や手焼きのクッキー、瓶詰のカラフルなキャンディなど、高価ではないけれど思いの詰まった品々でラガッツォの鞄ははち切れそうなほどに膨らんだ。
そして彼らは艇から降りたラガッツォを置いて去った。
甲板から手を振る仲間たちの姿を見上げ、手を振り返しながら彼らを見送った。青空に溶けていくグランサイファーを眼鏡越しに追いかけながら、ラガッツォは思い出していた。徹夜明けの眠い眼を擦りながら仲間と共に見た朝焼け。団員たちの喧嘩を仲裁しようとして誤って殴られ、奥の歯が欠けたこともあった。任務に出た先に、帰りが遅かったからと迎えに来てくれた仲間たち。
彼らとはもう二度と会えないという予感があった。この地で彼らとの縁は一度確かに区切られたのだ。
共に艇を降りた団員と別れを交わし、ラガッツォは定期船のチケット売り場へ行った。行く当ては特になかった。
大きな看板に手書きされているチケットの値段と行き先の地名を眺め、心に引っかかっていた場所のうちの一か所へいく便の時間を、備え付けられている時刻表で調べた。財布を取り出して所持金の額を数える。一週間程度なら定期船に乗ったままでも過ごせそうだった。
そうして、ラガッツォはフェルディナンドと暮らしていた家のある島へ行く定期船のチケットを買った。
定期船から降りた瞬間、襲い掛かってきた強烈な日差しに目が眩んだ。夏特有の、肌を圧迫するじりじりとした空気が辺り一帯に充満している。港に集まった人々の喧騒が周囲に響き、賑やかなリズムを奏でていた。
大規模な都市を中心に抱えた島の周辺には緑が深く生い茂り、山が幾つも連なっている。都市の文明と自然が共存しているこの島は、暮らしやすいと周囲の島でも評判だった。
ラガッツォは、船を降りると舗装されていない道を踏み、港から市街地に続く道を歩いた。リゾート地に旅立つと思しきドラフの家族連れたちが、ラガッツォとすれ違い港へ向かっていく。空気でパンパンに張り詰めた新品の浮き輪が弾んでいた。
石造りの建物が徐々に増え、道を進む馬車が増えたころ、懐かしい景色が目に飛び込んだ。なんの変哲もない街灯が道端に立つ十字路と、隣接する広場。
広場の中心には古い巨木が根差している。木々が日差しを遮っているため、夏場などは涼を求めて人々が設置されたベンチで休んでいたものだ。ラガッツォも、ここへよく本を読みに来た。またあるときはフェルディナンドと買い物帰りにベンチに腰掛け、行きかう人々を眺めながらアイスを食べたりした。
広場を横目に十字路を横断し、しばらく道をまっすぐ進む。やがて懐かしい赤い屋根の家が目に入った。少しくすんだ色合いの、白い壁に赤い屋根を乗せた一軒家。かつて、フェルディナンドと住んでいた家。
引き寄せられるように近づいたラガッツォは、足に絡みつく感触に気づいて目線を下げた。
家の門には錆びた鎖が渡され、他者の侵入を拒んでいる。そして日に焼けた郵便ポストには、赤字で書かれた『売り家』の看板がぶら下がっていた。
この家にはもう誰も住んでいないのか、とラガッツォは立ち尽くした。肩から提げた鞄がぐっと重さを増す。
遠い日々を懐かしんで訪れただけだった。誰に会えると期待した訳でもない。しかし、フェルディナンドと思い出を積み重ねた家がただのモノとして売買されている現実を上手く飲み込むことがどうしてもできない。喉でなにかがつかえてしまった感じがする。
売り家の看板を掛けた一軒家は、どこかうらぶれてみえた。
重い風が足元を撫でる。ラガッツォはしばし沈黙したあと、鋭い目つきで周囲を見渡した。全身が暑さで茹だる夏の午後、閑静な住宅地を歩く住民たちの姿はなかった。
ラガッツォは敷地に張られた鎖を跨いで越え、家の横手に回り雨風に汚れた窓越しに室内を覗き込んだ。
がらんとした室内に椅子が転がっていた。剥がれかけた壁紙が浮き上がっている。数歩進んで隣の部屋を覗くと、かつてのフェルディナンドの寝室が広がっていた。
彼の寝ていたベッドと、数冊の本が残された本棚が黒い影の中に沈んでいる。
そのまま家の裏手に向かい、ラガッツォは慣れた手つきで植木鉢の下を探った。乾いた泥の付着した家の鍵を指先でつまみ上げる。
高鳴る心を抑えながら、裏口の鍵穴に鍵を差し込んだ。鈍い音を立て、閉じられた扉の鍵が開く。
一歩室内に足を踏み入れた瞬間、厚く積もった埃が舞い上がった。窓から差し込む光に反射し、室内がきらきらと煌めく。
この家はこんなに狭かっただろうか、というのが第一印象だった。まるで玩具のような家だった。狭く、小さく、ミニチュアでできた、家族ごっこをするための家。
緩慢な足取りで部屋を巡る。家の時は過去で止まっていた。フェルディナンドとこの家で過ごしたときのまま、空間が真空に保存されていたようだ。ラガッツォの伸びた身長を刻み込んだ柱は、古い傷跡を残しながら家の屋根を支えている。悪戯描きをして叱られ、ふたりで貼りなおした壁紙の端はめくれ上がったままだ。
フェルディナンドが寝室にしていた部屋のドアノブへ手を掛ける。かつて何度もこの扉をくぐった。幼い頃は彼のベッドで毎夜本を読み聞かしてもらい、そのまま就寝したものだ。深い声に導かれて神話の世界を彷徨い、そして彼の体温に包まれ眠ると、まるで世界のすべてから守られている気がした。
成長してからは、個室を与えられた。けれど夜に悪夢を見ては、泣きながらフェルディナンドの部屋の扉をノックした。彼はそのたび、全身でラガッツォを包み込んでくれた。
軽い力を加えると、扉はあっけなく開いた。懐かしい景色が眼前に広がる。フェルディナンドが横になっていたベッド、彼が本を手に取っていた背の高い本棚、彼がペンを走らせていた机と椅子。
思わず胸いっぱいに空気を吸い込んだ。部屋の全体を見渡す。残されていたベッドに腰掛けた。上半身を倒し、顔を布地に埋もれさせる。かつて己を愛してくれた父親の残り香を探すように、鼻をひくつかせた。
ベッドに横たわり、頭上に渡された梁を眺める。
『また私の部屋にいたのかい、ラガッツォ。きみはそこが好きなんだね。じゃあ、なにか物語を聞かせてあげよう。どのお話がいいかな?』
彼はそう言って、本棚に手を伸ばすのだ。
隙間だらけになった本棚へ視線をやると、よくフェルディナンドに読み聞かせられた一冊が残されていることに気づいた。
ラガッツォは立ち上がり、革で装丁された分厚い本を手に取る。神話と星座について記述されたこの本は、フェルディナンドが好んで読んでいた一冊だった。表面にまとわりつく埃を吹いて払い、頁を捲る。
日に焼けた頁をパラパラと手繰った先で、本に挟まれていた一枚の紙が床に落下した。身を屈めて尖った指先で紙片をつまみ上げる。厚く四角い紙にはどこかの湖の景色が描かれていた。裏返すと、島の名前と思しき地名が走り書きされている。
――遠い記憶が蘇る。彼と夜に旅をしたこと。描かれている湖の際にふたり立ったこと。
『この湖には、会いたい人に再び出会えるという言い伝えがあるそうだよ』
彼は厚い掌をラガッツォの肩に置いていた。湖の冷えた水の香りを、ラガッツォは確かに嗅いだ。
『私を見失ったら、きみもここにくるといい』
遠い記憶。今では、誰の記憶にも残っていないはずの。
「……行く当ても、特にねェしなァ……」
ラガッツォは湖の描かれた紙を胸の内ポケットに仕舞うと、途方に暮れた子供のように呟いた。
「俺は、どうしたかったんだろうなァ」
***
狭い定期船に詰め込まれて数日、降りた港はいやに人が多かった。その疑問はすぐに氷解した。街のあらゆる場所に街を挙げて行われる夏祭りのポスターが貼られ、色とりどりの旗が翻っている。
街行く人々の中にも、ユカタヴィラを着た人がちらほらと混じっていた。港のロビーに設置された掲示板の前で足を止め、貼られたポスターをじっと観察する。中心には光華が描かれ、様々な催し物が数日にわたって行われるとスケジュールが記載されている。日付を見ると、二日後に光華大会が行われるらしい。だから定期船にも港にもあんなに人がいたのか、とラガッツォは心の中で納得した。
宿はあるだろうか、というのが次に湧き上がった疑問だった。なければ野宿でもするしかねェなァ、と考えながら掲示板の傍らにあった観光マップを手に取る。朧げな記憶に現在の地図が重なる。かつてフェルディナンドと訪れた湖は、光華大会の行われる街から少し外れた場所に位置していた。
街は浮ついていた。街を横断する大通りには出店が軒を連ね、軽食や遊戯を提供している。エルーンの少女たちがわたあめを食べながら、どっと笑った。彼女らを避けたドラフの男性が、連れていた女性に射的の店を指さしながら何事か話しかける。
そんな人々を掻き分けるようにラガッツォは道を進み、街を出ると、旧街道をひとりで歩いた。
石造りの建物は徐々に木造になり、商店も住宅も疎らになったころ、道路の脇に木製の看板がぽつりと立っていた。ペンキで矢印が描かれ、湖へ繋がる道を指し示している。
その奥には、簡素な宿があった。木で作られた、ログハウス風の二階建ての宿だ。
ここなら今晩の宿が取れるだろうか、とラガッツォは思案し、敷地に足を踏み入れた。門の奥に植えられた木々の下を通ると、花の香りが濃く立ち昇った。無数の白く小ぶりな花が頭上で咲いている。玄関の前に立ち、大きな音をさせて宿の戸を叩く。少したってから軽い足音が聞こえ、「今開けます」の声とともに扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
幼い少女がラガッツォを見上げていた。赤色の癖毛を頭の左右で結い、肩先まで垂らしている。
「ご宿泊ですか」
舌足らずな高い声がラガッツォに問いかける。赤い睫毛が数回瞬きした。彼女は手縫いの服を着て、小さな革靴を履いていた。
「あ……あァ、部屋は空いてるか」
「一室だけ。ダブルなら」
「ロベルタ、お客様なの? あらごめんなさい、」
奥から背の高い女性が姿を現した。少女と同じ赤毛を固く結い上げ、貝でできた飾りを髪に挿している。華やかな色のエプロンの裾で手を拭いながら、少女を奥に押しやった。
「ご宿泊だって」
「あら、そうなのね。今日はダブルの部屋が一室だけ空いているんですけれど」
「それを嬢ちゃんから聞いた。その部屋でいいから泊まれるか?」
「勿論ですよ。多分、この部屋を逃すと今日は宿泊先がないでしょうし……」
「お祭りの日はお客さんが多いの。街の宿ももういっぱい」
「そうなんです」
「だろうなァ」
「ではこちらにお名前をいただけますか。そのあとお部屋にご案内しますね」
ラガッツォは己の義手に向けられる幼い視線を感じながら帳簿に名前を記入し、部屋に向かう女主人の背を追った。
荷物を部屋に置き、身軽になる。そしてラガッツォは改めて宿を出た。玄関で湖の場所を尋ねると、女主人はこの宿の裏手にある整備された散歩道の存在を教えてくれた。
宿の裏手に広がる林に足を踏み入れる。植物の青い匂いがどっと迫ってきた。湖が近いことを証明するように、水気を孕んだ涼しい風が頬を撫でる。道の左右には濃い緑が広がり、木々が重なって暗い影を作っていた。虫たちの騒がしい鳴き声に重なって、遠くで鳥が羽ばたく音がする。過去が反響する。
フェルディナンドはこの道を、幼いラガッツォの手を引いて進んでいた。空気は冷たく、耳朶が引き裂かれそうだった。待って、と呼び止める隙もなくフェルディナンドは足早に進む。ラガッツォは置いていかれないよう必死に足を前進させていた。
ラガッツォは流れ落ちる一筋の汗を手で拭い、林の奥へ進んだ。
十分ほど整備された緩い坂道をのぼると、視界が一気に開けた。どこかで流れ落ちている水の音が耳のなかで木霊する。
静かな水面が広がっていた。水はどこまでも澄んでいた。しかし湖は深く広く、底を見通すことはできない。古い船がもやいで繋がれ揺れている。時折湖のなかに棲む魚が飛び跳ね、湖面に円を描いていた。
ああ、ここだ、と思った。胸の内ポケットに仕舞われている絵と見比べるまでもない。かつてラガッツォはフェルディナンドとこの地を訪れ、この湖を前にしてふたり並んで立った。
静寂が重く圧し掛かる。ラガッツォは傍らの大木に手を置いて身体を支えながら、過去の声を聴いていた。
『この手を離しては駄目だよ。そうすればずっときみを守ってあげられるからね』
彼は冷え切った小さな掌を握りしめ、囁いた。
『きみはなんていい子なんだろう。私の自慢だ――』
『愛おしい子。私の宝物。ベテルギウスの子。愛しているよ』
『私はきみを愛しているよ』
『愛しているよ、ラガッツォ』
フェルディナンド、アンタは惜しみなくこの俺に愛の言葉を降り注いだ。
俺の体温を上昇させたアンタの言葉は、俺の礎まで染みこみ、思考を縛る。感情を揺さぶる。
俺の世界は彼が作り、動かしている。
これは呪いだ。
フェルディナンド、アンタは今でも俺の心の奥底を呪いで縛り付けている。
***
日差しの勢いを残したまま、太陽は傾きかけていた。ラガッツォは行く当てなく街に戻る。適当なものを出店で買って食べ、そのままぶらぶらと街を散策する。
ヒューマンの男性たちがラガッツォの鼻先を掠めていく。彼らは会話に夢中で、ラガッツォの存在など気づいていない様子だった。
幸せに満ちた彼らに追いだされるように、大通りを外れて小路に足を踏み入れる。二度三度と角を曲がると、その先には人気がなく静まり返った空間が広がっていた。
店頭の硝子のショーケースで、日に焼けたぬいぐるみと機械仕掛けの人形が力なく椅子に腰かけている。武器屋は埃で汚れたブラインドを下ろし、隣の薬局には厚い硝子瓶に詰め込まれた薬草が幾つも並べられていた。角の割れた煉瓦敷きの道を踏みしめ空を見上げる。連なった旗が風にはためき揺れた。
二階に干された洗濯物を住人が回収していく。左右に並ぶ建物の背が徐々に高くなり、日の光が遠くなり、酒場の看板が増えてきたと思った頃、遠くから人の諍いの声が漏れ伝わってきた。
「んだよ、面倒ごとかよォ……」
面倒には巻き込まれたくねェなあ、とぼやきながらラガッツォは酒場の裏手にある細い裏通りを覗き込んだ。
朽ちた酒樽や割れた酒瓶が転がるじめっとした裏通りに、目立った人影はなかった。ラガッツォはわざと足音を立てながら進む。道の脇に聳える影の濃い建物から、ぎょろりとした目でラガッツォを追う視線だけを感じた。
ふと、傍らの廃屋から人の断末魔が聞こえた。ラガッツォは躊躇いなく扉を足で蹴飛ばし、土埃の舞い散る暗い室内に踏み込む。
暗い屋内に目が馴染むまで思ったよりも時間がかかった。襲いかかられてもすぐさま反撃できるよう、構えをとりながら周囲を観察する。部屋の奥には、べったりと黒く濃い影がまとわりつく物体が二つ。辺りには、錆びた血の臭いが充満していた。
下に寝そべる影には、光るなにかが突き刺さっていた。ふと、その形に見覚えがあるような気がして、ラガッツォは息を止めて足踏みした。
『私を見失ったら、きみもここにくるといい』
「……おや」
影が立ち上がる。すらりとした腕がコートの裾を捌く。懐かしい香りが鼻を擽った。
「観客がいるのは久しぶりだ」
懐かしい花の香り。懐かしい短剣のフォルム。懐かしい声。かつて、ラガッツォに尽きることのない愛を囁いてくれた、低く甘い声。
「ようこそ、と言うべきなのかな、私は」
いま、人を殺したばかりのフェルディナンドは満面の笑みを浮かべ、両手を広げた。まるでラガッツォを抱きとめようとでもするかのように。
舌打ちが出た。腹の底が燃えるように熱い。まるで周囲が燃え盛っているかのようだ。世界はまだこの男に死を与えていないのか。怒りが炎となって心の空を覆う。ラガッツォの心に呪いを刻み、両腕を切り落とした男は、未だのうのうと息をして人を殺し続けている。
ラガッツォはこれ以上ない限界まで顔を顰め、苦々しく吐き捨てた。
「アンタ、まだ死ねてねェのかよ」
言葉の背後に、拭い切れぬ甘えが滲んでいる気がした。
***
はて、私はなにを言われたのだろう、とでもいった表情のままフェルディナンドは短剣を地面に捨てた。白い革靴で短剣を踏み、刃先に罅を入れる。
「少し使うとすぐに汚れてしまう」
フェルディナンドは軽く言うと、首を傾げた。
「おや、また誰かくるようだ」
その言葉に促されるまま耳を澄ますと、この廃屋を目指していると思しき複数の人間の声と足音が遠くから響いていた。
「アンタ、」
ラガッツォは掠れる声に苛立ち、数度咳払いした。
「アンタなんでそんなに落ち着いてんだよ」
返事を待たず、ラガッツォはフェルディナンドの手首を掴む。己の手首を握った義手を、不思議そうな表情で見下ろすフェルディナンドを引き摺るようにして奥の扉へ向かった。下げられていた鎖を片手で引きちぎり、扉を開ける。扉は外に向かって開き、別の小路に繋がっていた。
廃屋から脱出する。足音を殺しながら半ば駆けるように歩く。背後を窺っては追っ手の気配を探った。フェルディナンドはそのあいだ口をつぐみ、素直に手を引かれていた。
路地を何度も曲がり、何本もの通りを越え、人の影にふたりで紛れることができたころ、フェルディナンドは静かに口を開いた。
「私たちはどこへ向かっているんだい」
彼の緑の瞳に見下ろされるのも、随分と久しぶりのことだった。白い睫毛が音もなく上下するさまを見て、過去の自分は雪原で身を震わせる銀狐をよく想起したものだ。この男が、そんな無害な存在でないことも知らずに。
「知らねェよ、そんなこと。アンタこそ、どこへ逃げるつもりだったんだァ?」
呆れと、純粋な疑問が入り混じった声が出た。
「私? 私はね」
うーん、と彼は顎に指をあて考え込む。邪気のない表情と仕草に、コイツは本当に人を殺してきたばかりなのだろうか、と馬鹿げた考えが浮かんだ。
「行く場所は特になかったなあ。……この間まで一緒に暮らしていた家族を殺してきたばかりなんだ。帰る場所は特にないよ」
彼は残念そうに言った。だが、それは俺の勘違いかもしれないとラガッツォは思った。
彼はいつだって仮面を被るように感情を被っている。その仮面の下にある彼の真実の姿に触れたと思えたことは、一度しかない。彼の背中を突き飛ばした、あの一瞬しか。
「行く場所を探さないといけないね。きみも知るように、ナビスもなくなってしまったから」
静謐さを湛えたまなざしが、ラガッツォを貫いた。
「私はひとりさ」
こいつを放り出しておけばまた躊躇いなく人を殺し続けるだろう。そしていつか彼は誰かに再び殺され、永遠の生を繰り返していく。その輪廻を断ち切らなければ何も解決できないとラガッツォの理性は言う。彼を止め、無垢の人々を救わなければならない。
だが、彼を止めたいと願う理由は果たして本当にそれだけだろうか?
俺はそんな純粋な理由で、この男を止めようとしているのだろうか?
「……じゃあ」
ラガッツォは声を絞り出した。己の裡に勝手に湧き上がる、意に反した欲望を必死に押し殺しながら。
「じゃあ、俺と一緒にこいよ」
目が細められる。正解を導き出せた子供を褒めるように、甘い声がまとわりつく。
「そうしようかな。きみと一緒に行こう」
彼は唇をほころばせながら、ラガッツォの手を握った。刺青の刻まれた指が、義手にそっと絡められる。
甘えた仕草をする彼に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて警告する。
「……おい。アンタ、俺と一緒にいる間は人を殺すなよォ」
その言葉を聞いたフェルディナンドは、他者に対し心の底から誠実な言葉を発そうとする調子で、聞き返した。
「どうしてきみとそんな約束をしなければいけないんだい?」
***
