グラブル(フェルラガ)

 そこは、雑多な匂いがした。
 ジータと名乗った騎空団の主に連れられて、グランサイファーと呼ばれている艇に足を踏み入れる。踏んだ床が微かに鳴った。落ち着いた木目の床は、数多の人々の足と手によって鈍く光るほど磨きこまれていた。
「入り口からまっすぐ行って、その先が食堂、奥がキッチン。ラウンジには大体誰かがいるから――」
 傘を差したハーヴィンの女性が過ぎ去る。ピンク色の髪をしたドラフの女性が遠くで手を振って挨拶を交わしていた。
「シャワーは使う時間を予約しておいてね。誰もいなければ使っても大丈夫だけど、人の多い時間は」
混むから、と言ったジータの背後を、眼鏡を掛けて本を片手に持った黒髪の男性が通り過ぎる。
 詳しい場所はまた改めて案内するから、とりあえずラガッツォの部屋に行こう、と導かれる。
 与えられた個室は簡素だった。部屋の中心に据えられたベッドと、空の棚。そして存在感を放つ等身大の鏡。
 簡素ではあるが清潔で、きっとこれまでの住人に大切にされてきたのだろうというのが、己に与えられた部屋に対する第一印象だった。
「ラガッツォさんを団の皆さんに紹介しないとですね」
「おう、今夜は歓迎会だな」
「疲れてなければ」
 そうしたいな、とはにかむジータに頷きを返し、ラガッツォは部屋の扉を閉じた。
 ひどく穏やかな人々が集う団に拾われたもんだ、とラガッツォは内心で思った。
 手にしていた簡単な荷物を下ろし、ベッドに腰かける。そのまま身体に積もった疲れに身を委ね横になった。シーツからは洗剤の香りと、懐かしい誰かの気配がした。


 ***


「今日は寒くなるようだよ。毛布を出さないとね」
 新聞を捲って言ったフェルディナンドに、ラガッツォは呆れたようにため息をつく。朝食の卵をフォークでつつきながら、吐き捨てた。
「結局くっついて寝るんだからまだいらねえだろォ」
「そう言われるとそうかもしれないな。きみは体温が高いから」
 フェルディナンドは、ラガッツォを抱きしめて寝ることを好いていた。ラガッツォが子供の頃は、悪夢を見て魘される度、大きな手が背中を撫でる感触に心底安堵したものだ。その習慣はラガッツォが成長してからも続いた。彼は夜になると告げる。
 私のベッドにおいで、ラガッツォ。
 その甘い囁きに逆らえたことは、今まで一度もない。

「他の議長たちと会ってくるから、今夜は遅くなるよ。鍵をかけるんだよ、きちんと、全部の窓にね」
 フェルディナンドの言葉に目を細める。
「あァ」
 彼が他の議長に会うというのなら、今晩は「アレ」があるなと悟った。
「気を付けていってこいよ」
「ありがとう。ラガッツォはいい子だね」
 彼はコーヒーカップを置くと席を立ち、ラガッツォの頬にキスをしてリビングから出ていった。
 穏やかな彼にも、苛立つことというのはあるらしい。否、苛立っているというのもラガッツォの推測に過ぎない。彼は滅多に感情を表に出さない。
 けれどフェルディナンドにとって負荷のかかる出来事があった日、彼は決まって同じ振る舞いをした。
 夜におこなわれる行為を想像しラガッツォは身震いしたが、一拍後には頭を振って余計な考えを振り払った。


 フェルディナンドが言ったように、日が沈むと空気が一際冷え込んだ。家を漂う冷気に肌を粟立たせながら風呂を出た。長袖の服を探し部屋をうろつく。
 クローゼットを漁っていると、玄関から鍵の開けられる音が響く。服を頭から被り、袖に腕を通しているうちに足音が徐々に近づいてきた。
 ふと、気配がしたかと思うと、ずっしりとした重みが全身を襲った。圧し掛かるようにしてラガッツォを抱きしめたフェルディナンドは、低い声で囁く。
「ただいま」
 声には深い疲れが滲んでいた。ラガッツォは己の身に回された腕を軽く叩き、彼の手に刻まれた刺青を軽く撫でた。リングの硬い感触が肌を通して伝わる。
「遅かったじゃねェか」
「話が長引いてね……意見の擦り合わせというのは、いつまでたっても大変なままだ」
 フェルディナンドはラガッツォの耳の裏に唇を這わせ、軽く音を立てて吸った。
「いい香りだ。新しい石鹸を買ってよかった」
 泡立ちもよかったぜ、と呟くラガッツォの頭を撫でると、フェルディナンドはコートを脱ぎ、タイを解いた。
「私も今日はもう休もうかな」
「夕飯は?」
「食べてきたよ。きみは? ちゃんと食べたかい」
 頷くラガッツォに笑みを返し、フェルディナンドは風呂場へ向かいかけ、ふと足を止めた。
「私のベッドで待っていなさい、ラガッツォ」
 細く開かれた瞼から覗く緑色の瞳は、奇妙な輝きを湛えていた。
「あァ、そうする」

 明かりを落とした部屋で、タオルケットにくるまり、フェルディナンドが立てるシャワーの水音へ耳を澄ましていた。石鹸の香りが家に充満する。
 かつて彼のすらりと伸びた指先が、泡を乗せて幼いラガッツォの身体をすべるように洗った。確かにフェルディナンドから与えられた、どこか腹の底がぞわぞわとするその感触を思い出すたびラガッツォの身体には理由なく熱がわだかまった。
 風呂場の扉が開く音が遠くでした。暫くすると裸足が床を踏む湿った音が静かに響く。部屋のドアが静かに開けられ、床に光の筋が差した。光は徐々に細くなり、やがて消えた。
 タオルケットが捲られ、厚みのある男の身体がラガッツォを抱き込むようにベッドに滑り込む。
 未だ湿り気の残る髪の毛が、ラガッツォの首筋を擽った。
「ん……」
 ラガッツォの腹に回された腕が、身体を引き寄せる。熱のこもった吐息が肌を撫でる。
「……フェルディナンド……」
「ん」
 彼の高い鼻筋がラガッツォの首筋に押し当てられる。愛おしいものを愛でるように。
「……寝ていたかい?」
「んん、……起きてた」
「かわいい子。きみは本当に、私の宝物だ」
 吐息の混じる声が、背中を滑り落ちる。
「ああ、かけがえのない子。私はきみをずっと……」
 その先の言葉は消え、ラガッツォは予感と共に身を丸めた。
 その瞬間、首筋に鋭い痛みが走る。
 フェルディナンドの規則正しく生えそろったエナメルの歯列が、ラガッツォの首筋に食い込んだ。
 数度噛みつくと、フェルディナンドは一度歯に強い力をこめた。肌が破れ、血が滲む気配がする。
 フェルディナンドは、まるで躾のなっていない大型犬が小型犬にじゃれつくように、その口でラガッツォの肌に噛みついた。
 ラガッツォは目を閉じ、己の首筋で繰り広げられている光景を想像する。
 彼の唇が己の血で、鮮やかに彩られている姿。
 彼は赤い舌で血を舐めとり、その舌で労わるようにラガッツォにつけられた傷跡を辿るのだ。
 その光景を想像するだけで、ラガッツォの心の深い部分が暗くひたひたと満たされる。
 ラガッツォはフェルディナンドに導かれるまま着ていた上半身の服を脱ぎ、肌を露わにする。上半身のあちらこちらへ気ままに噛みつきながら、フェルディナンドの冷たい手が、筋肉の形を確かめるように動く。やがて胸の中心部で尖っている部分に嵌められた金属を指先でなぞった。
 左の乳首に嵌められたピアスを悪戯に弄りながら、フェルディナンドは小さく笑った。
「腫れてないね……早く落ち着いてよかった。傷が膿んでしまったらどうしようと心配していたんだ……」
「そんなの、」
 丁寧に毎日洗えと言ったのも、朝晩服を脱がせて薬を塗っていたのもアンタじゃねェか、という抗いは言葉にならなかった。
 フェルディナンドはラガッツォの乳首をつまんで立たせ、ピアスの螺子を止めている金具をカリカリと爪で掻いた。
「うつくしいな。シンプルなものを選んでよかった。きみには似合うと思っていたんだ。……どうだい、今度は右にも」
 ラガッツォは足と足を擦り合わせ、甘えるようにフェルディナンドへ髪を押し付けた。
「またアンタが開けるのかァ……?」
「そうだよ。またニードルを使ってピアスを通してあげるから」
 ぼうっと宙を見上げ、とろりと溶けた口調でラガッツォは呟いた。
「いいけどよォ……結構痛いんだぜ、あれ」
「ごめんね、今度は出来るだけ痛くないようにしてあげるから」
 フェルディナンドのすらりとした手がラガッツォの髪を撫でる。彼にそうされると、小さな抗いの言葉は全て喉の奥へ流れ落ちてしまった。
「ん……」
 フェルディナンドは言葉なく、そして隙間なくラガッツォの肌を歯で噛んだ。ああ、また明日も仕事があるのに、肌のすべてに噛み痕が刻まれていく。
 彼に噛まれた後の数日間は、羽織る上着が欠かせなくなる。数日間だけ決まって服を着こむラガッツォに対し、仲間たちは何かを言ったことがない。けれど、もの言いたげな気配は常に感じる。
 そんな気配も、フェルディナンドから送られる目配せ一つで気にならなくなってしまうのだから、自分というものはなんと単純なのだろうと呆れかえってしまう。
 フェルディナンドが手首を掴み、指先に舌を這わす。彼が指先に残す赤い噛み痕は、まるで彼の刺青と揃いになったようで、ラガッツォを心底満足させる。
 一晩中といわず、いつまでも彼にこの身体を噛んでいてほしいと思う。肩口に、肩甲骨に、肋骨の下側に、彼は歯を当ててくれるが、その傷は一週間もすれば何事もなかったように消え失せてしまうのだ。
 傷跡が一生残ってほしい。そうすれば、真実この身体がフェルディナンドのものになったのだと証明できる。この身体に一生執着してほしい。そうすれば、彼は他の家族を探しに二度とこの家から出ていかなくなる。
 そんな気がした。
 彼の歯が臍の横に押し当てられる。彼の犬歯が、肌を貫く。
 そのままこの身を食べつくしてほしい、と密かに願っているのに、彼はその願いを永遠に叶えてくれない。
 手を差し出す。フェルディナンドの長い指が絡みつき、厚い掌がラガッツォをシーツに縫い付ける。
「あァ……」
 彼の熱と己の熱が渾然一体となり、どろどろと溶け落ちていく。互いの身体の輪郭が失われ、まるでひとつの身体になったような心地。
 この夜が永遠に続いてほしいと、ラガッツォは閉じた瞼の裏で願った。


 ***


 目を開ける。部屋の天井には、巨木で作られた梁が中心を通っていた。
 ラガッツォはグランサイファーの自室に置いてあったベッドに寝そべったまま、数度瞬きをした。そしてのっそりと起き上がり、おもむろに上半身の服を脱いだ。
 そのまま、壁に据え付けられている等身大の鏡の前に立つ。
 鏡に映る己の姿をまじまじと観察した。機械に換装された両腕、残された肉体には張りのある若い筋肉がまだ残っている。そして、これまでに負った古傷の中心で輝く、左胸の先端を貫く金属。
 ラガッツォは金属の指で、胸に埋め込まれた金属を撫でた。
「フェルディナンド……」
 ここの騎空団はひどく穏やかな人々で構成されている。まったく、変なところに拾われたものだ。
 ここには、俺を傷つける人が存在しない。
 ここには、平和というものが確かに存在している。

 知らぬ誰かは、この騎空団で過ごせる生活を幸福と呼ぶだろう。
 けれど、俺が願ったアンタの熱と、アンタと過ごした夜は二度と手に入らない。
 アンタから与えられた傷はふたつを除いてすべてきえてしまった。
 アンタのいない日々を暮らすことは、まるで半身をもぎ取られたまま生活するようだ。息だって、満足にできやしない。
 俺は知りたい。アンタが俺に残してくれた日々の意味を。

 ラガッツォは胸の中心で輝く冷えた金属を見つめ、祈り乞うように喘ぐような吐息をこぼした。
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